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陸奥の宮(守永親王)ゆかりの寺院。

2019年05月11日 06時40分57秒 |   南北朝


袋井市にある「福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)に行ってきました。
かつてネットで「“戦う親王”守永親王が17年住んで死んだ場所」で、われらが浜名湖の堀江村(=舘山寺町)ゆかりの「堀江時国」が建てた寺、と言うことを知ったんですけど、行ってみたら全然案内板などなかった。おそらくこれじゃ袋井の人でもほとんど守永親王の名前など知らないだろうな。

本には「袋井市の高部」と書いてあったのですけど、現在高部という地名はありません。「本が間違ったのかな」と思ったのですが、袋井市立図書館のサイトによると、明治8年に高部村と赤尾村が合併して高尾村になったのだそうです。


『遠州三十三観音霊場めぐり ~花と観音霊場~』さんから引用

慈眼寺 縁起
慈眼寺は寺伝によると、今から680有余年前南北朝時代の元弘年中(1331~33)頃に開創、当初は那智山観音堂と称し天台宗であったとある。観音堂建立に際しては『遠江風土記伝』によると後醍醐天皇の皇子守永親王が東行の途中遠州灘沖で船が難破し、福田の浜より高部にきて行宮を建て17年間住まわれ没した。この時皇子に随従していた堀江新衛門中務大輔時国公が皇子の死去に歎き、一宇の観音堂を建立して供養したのが始まりとされている。その後、江戸時代の元和年中(1615~23)には観補馨察大和尚により開山。本堂を再建し福聚山慈眼寺と改め曹洞宗に改宗した。
ご本尊聖観世音菩薩は行基作の秘仏である。古来より福寄の観音さまとして信仰を集め、ご開帳は33年目毎で平常は前仏の観音さまを拝む。


まあ残念な事ですが、戦う皇族のことを偲べるものも全くありませんでした。
境内は広いんですけど、建物は多くなく(少なくも無い)



一番目立つのは楼門。
二階部分に鐘があります。



かっこいい扁額。(…が非学な私には「影武者」か「痛医者」と読めてしまう ←なんでや)




駐車場から楼門までの間に、参道なのか駐車場なのかどなたかのお宅の庭なのかよくわからない広大に敷地があり、その隅に立っていた龍燈型のお堂。中におわすのは観音さまっぽい。




本堂。
御本尊は聖観世で、33年に一回御開帳される秘仏だそうです(次回は2046年)。庭園も見事だそうですけど見られません。



まんなかの文字が「む」に見えてしまうんですねわたしには。



楼門の脇には地蔵堂(?)らしいものがあって、お地蔵様が(そうでないのもござらっしゃるが)ずらり。なんですかね、何かあったときにお地蔵様を奉納する風習などあるのでしょうか。



左手を見ると藤棚が。
半月前ぐらいに来たらすごかったんだろうなあ。

その奥にはしっとりしたスペース。



また龍燈型のお堂があって、「助命観音」と書いてありました。
覗いてみますと、内側だけ焼け焦げた樹のウロに安置された小さな観音様が見えます。



さらのその奥には、立派なお稲荷様がありました。



お稲荷はいいとして(←「翁稲船稲荷」というらしい)、参道の両脇に赤い鉄材で囲われた、参道なのか神域なのか隔てられたスペースがあるのが印象的ですね。仕切りの赤い鉄材には一定間隔で穴がたくさん開いていて、来たるべき祭日には赤いのぼりを無数に立てるのだと思います。





検索してみますと、「福聚山慈眼寺」という、山号までも同じお寺が全国に分布していて、「チェーン店かなにかなの?」と頭蓋骨をひねってしまいます。

・福聚山慈眼寺(宮城県仙台市太白区秋保町馬場字滝原)(金峰山修験本宗)
・福聚山慈眼寺(宮城県登米市迫町)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(野崎観音)( 大阪府大東市野崎)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(新潟県十日町市)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(千葉県勝浦市植野)(日蓮宗)
・福聚山慈眼寺(愛知県知立市山町桜馬場)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(東京都八王子市長房町)(曹洞宗)
・福聚山慈眼寺(京都市上京区出水通七本松東入)(曹洞宗)
・福聚山無量壽院慈眼寺(神奈川県小田原市城山)(黄檗宗)
・福聚山慈眼寺(岐阜県飛騨市古川町袈裟丸)(曹洞宗)
・福聚山金毘羅宮慈眼寺(滋賀県彦根市野田山町)(曹洞宗)
・由城山福聚院慈眼寺(埼玉県坂戸市中小坂)(真言宗智山派)
・福聚山慈眼寺(神奈川県平塚市豊田打間木)(曹洞宗)

…まだまだありそうですけど、どうやらグループ企業じゃないみたいですね。(この中で一番古いのは大阪の慈眼寺で天平勝宝年間(8世紀半ば)の創建。次いで岐阜の慈眼寺が白河院の頃の創建)。なんでこんなに同じ名前のお寺ばかり、、、 と思ったら、『古都奈良のやくよけ発祥の慈眼寺』さんの『副住職のブログ』によると、「慈眼寺」の「慈眼」とは「観音経」の「慈眼視衆生 福聚海無量」に由来していて、「慈眼」と「福聚」という語句はセットなのだそうです。だから観音様なのね。(「観音経」は「法華経」の一部)


さてさて、守永親王についてですね。
上述の説明文によれば、守永親王は嵐でここに漂着してから17年間ここにひっそりと隠れ住んで、そして死んだ。 …というように読めますけど、数少ないサイトを検索して読み比べますと、ここに漂着したあと、井伊谷やら奥州宇津峯やらいろいろ転戦して、そのあと正平7年にまた遠江に帰ってきて、正平10年にここで死んだ、と書いてあるところがあります。(何歳なんや)

注意するべき事ですが、上の方に挙げた文章で「観音堂建立に際しては『遠江風土記伝』によると」という記述、

正確に言うと『遠江風土記伝』(内山真龍)に書かれている文章は、
「古老曰ふ吉野朝廷二ノ皇子御舟に乗られ東行の時、天龍灘に於て難風吹き、御舟は福田港に着く。高所に行宮を建て住み給ふ。故に高部と云ふなり。其行宮跡存す。大門、御門、御陵、大塚、八坂等の名を嗅び、凡そ内裏に准じ皇居十七年、皇子滋に薨御す。御墓を造り俗に御陵と云ふ。〔年日御名伝はらず按ずるに第二皇子宗良親王なり詠歌並に事実引佐郡に註す〕」

となっていて、この皇子は守永親王じゃなくて宗良親王なんですね。
だけと世の宗良親王研究家は、「宗良親王が袋井市に長期滞在したとする史料なんてないので(あるんだが)、この記事は宗良親王と守永親王を混同したものである」としています。


また、じゃらんの観光地紹介に、袋井市に「守永親王の御陵」がある、と書いてあって(書いてないが)、びっくりぎょうてんしてしまいます。
しまった、知らなかったから行かなかった。(また行かなきゃ)

(引用)
大門大塚古墳について
大門大塚古墳は袋井市立袋井南公民館の北側、小笠山から西へ延びる太くて長い尾根の先端部に作られた段丘の上に立地しています。『遠江国風土記伝』や『遠江古跡図絵』に「高部の石棺」として記述され、後醍醐天皇の皇子の墓として古くから知られていました。二次にわたる発掘調査が行われ、古墳時代後期の円墳であることが確認されました。古墳時代の旧地表面(標高21.5メートル前後)からの墳丘の直径は約26メートルで、高さ約4メートルを測ります。古墳の周囲には幅5~6メートルで、深さ約1.5メートルの周濠がめぐり、墳丘は平坦な地面に周濠を掘削した時の土を一定の高さで外側から内側に向かって積み上げて造られているのが確認されています。 主体部は円礫を積み上げた横穴式石室で、明治の発掘の際に積み直されたようで、現在の石室は全長3.8メートル、奥壁の幅は1.6メートル、開口部の幅は1.8メートルを測り、開口部に向かって徐々に幅を増す構造となっています。奥壁、側壁ともに楕円形礫を小口積みにし、奥壁では小口積みした楕円形礫の上約1メートルの高さに大形の板状の石を二枚立て並べています。天井石と考えられる大型の板状石も残されています。石室の床面も明治の発掘の時に掘り抜かれ、開口部と奥壁では1メートル前後の高低差があり、階段状になっています。これまでの調査で発見された遺物は土師器、須恵器、馬具、武器、装身具、鏡などで、これらの出土遺物から大塚古墳の築造時期は6世紀前半を大きく遡らないと考えられ、静岡県西部の古墳時代後期を代表する古墳として、墳丘を中心に843平方メートルが平成5年に静岡県指定の史跡に指定されました。


…でもしかし、書いてあるように発掘調査の結果、古墳時代(5世紀後半)の遺物がたくさん発見されているので、南北朝時代の親王のために造営されたものではありえないのですけどね。
でも、江戸時代から「石室が露出している」ことで有名だったのに、明治の民間の有志の発掘で出土品が大量に出たというのは凄いことだ。


『遠江古蹟圖繪』(再彰館長庚、江戸時代後期)より。

「高部の石棺」
「袋井宿の南に山名郡高部村有り。石棺、山の中段に有り、民俗言に曰く、この石棺の蓋を執ると火の雨降る由を云ひ伝へ、人皆怖る。あるいはこの上へ人登れば忽ち煩ひ出すとなり。去る戌八月この所へ行き見るに、ただ平たき石ばかり有りて棺は見えず。その近所に耕作して居る老人有り。この人に石棺の事を問ふに、名高き石棺はこの事なりと云ふ。この事を詳かに教へたまへといへば、老父曰く、この近所に妙法院の宮と云ふ貴き人流れさせたまひ暫く滞留有り。高き所に御所を構えて御座しける。その跡を高御所村となづく。彼の妙法院宮崩御有りて、石棺に納葬りし所と云ひ伝へる旨を申す。宝暦年中までは、その棺土中より半ば出づる。近来埋も蓋ばかり出づる由。その脇に四角なる切石に、丸き石を置きて五輪の形とす。これ石碑の印とす。ゆゑに貴人の石棺なれば、上に登る人あれば罰を蒙る事なり。それゆゑにかくのごとき石塔の形をなすなりと物語りける。この所の者の云ひ伝へなり。その近辺に堅石一つ有り。鏡石と云ひ、ゆゑを知らず、この宮は後醍醐天皇の御子なり。世に二品尊澄法親王と申したるは、この宮の御事なり。昔の事なれば審かに分からず。高部村に日吉権現といえる社あり。社の脇に日吉松の朽木の株あり、昔は大木にして名木なりしと云ふ。この社は昔白河院高部村に寓居ましましける時に鎮守の宮なりと云ふ」


…そりゃ、普通の農夫が守永親王の名とか古墳時代の定義とかなんて知るはずがありませんからね。
全部宗良親王のことにしてしまうのは仕方のないところ。「二ノ宮」「妙法院宮」「尊澄法親王」「征夷大将軍宮」「遠江宮」「信濃宮」「越中宮」「大草宮」「宗良親王」は同一人物です。
で、ここには白河教皇が住んでいたこともあったのか。


で、現代の私たちでさえ、「親王が葬られたと伝わる場所」が、「この付近で最も大きい、大門大塚古墳」だと思ってしまうのですが、実は近くに「御所森古墳」という小さな古墳があって、名前からも立地からも、そっちのほうが本物の「皇子の墓」だと思うのです。


<袋井駅周辺の古墳の地図>
…袋井も磐田も町の中心部に古墳が密集していて羨ましいですね。浜松にも分けてほしい。


この地図で見ると「大門」からも「慈眼寺」からも少し離れているように見えるのですが、ここは近くに「高部不動産」という会社もあり、本来の高部っぽい。「行宮跡」はこの付近にあったのでしょうか。ただ、本には「御所森は三方が民家に囲まれ現在は茶畑になっている」「由緒の大要が書かれた看板がある」と書かれているのですが、ストリートビューでぐりぐり探してみても、もうそれっぽい場所がみつかりません。(また行って歩き回ってみなければ)


それから、「堀江時国」のこと。
これはもう完全に無名人物で、ネットで検索しても全然情報の得られない人ですけど、さすがに浜松では有数の観光地である「舘山寺温泉」の古名「堀江村」の由来となった人(実際に地名の由来になったのは、彼の戦国時代の子孫なのですが)、現地で書かれた地誌には何度か名前が出てきます。
(しかし本によって書いてある事が違う)

庄内郷土史研究会が編纂した『庄内の歴史(一)』(昭和47年)では、堀江時国を「藤原利仁流(斎藤氏)の裔で、越前国坂井郡堀江郷に70ヵ村を所有していた」としていて(藤原氏)、舘山寺観光協会が編纂した『古今往来 ~浜名湖かんざんじ温泉紀行~』(平成11年)では、「星合(新田)義顕の嫡男である時国が坂井郡堀江郷に住んで堀江氏を名乗った」とあります。
世に「堀江氏の由来」が二系統あるから意見が分かれているですが、新田義顕の長男(という説もある)だったのかい。

「源氏の嫡流・新田氏の知られざる嫡男」がここで人知れず戦っていた、としたらドラマチックだとは思いますが、現在知られている「新田流堀江氏」は新田義顕の弟の義宗の子孫で、しかも彼らは堀江庄には住めずにいた(越前は超激戦区だったから、上野・武蔵国で勢力を扶植した)のですが。公式には新田義顕は金ヶ崎で18歳で戦死したから子供は無いことになっていて、でもかの軽佻浮薄な新田一族が18歳にもなって全く子供を為していないはずがないから、Wikipediaには(伝)義顕の子として、「新田義和」と「天野顕政」の二人の名を挙げています。新田義貞が大いに将来を嘱望した義顕に、越前の国で最も広い坂井平野を任せた事は十分ありえることで、義顕が死んだので義宗にそれを継がせたがすでに越前では北朝の勢力(利仁流堀江氏)が強くなって、新田堀江氏は関東へ逃げていったのかも知れません。『星合系図』には「堀江左衛門大夫義藤は、新田義顕六世の孫也。義顕に二子あり、嫡子は越前堀江に居り、二男は同国本庄に居る。故に嫡子は堀江と号す」とあり、中興系図に「堀江・清和源氏、新田越後守義顕の末葉」と書いてあるのだそうです。ただ、時国が義顕の息子だったとしても、「時国」って名前は新田氏の係累っぽくないな。「新衛門中務大輔」って官名は新田氏っぽいですが。
ともかく、新田義貞は後醍醐天皇のために死に、義顕は尊良親王と共に死に、その息子は尊良親王の息子(守永親王)にいつまでも随従した、という泣けるお話は十分ありえそう。



『庄内の歴史(一)』(昭和47年)より。
「時国は、越前国でたびたび戦功をたて、また東国を鎮めようとして、延元3年(1338)尊良親王の皇子守永王に従って、宗良親王らと伊勢湾より船に乗り、遠州灘にさしかかったとき、たまたま暴風にあって難破し、将兵は各地に四散したが、時国は守永王と共に白羽湊(掛塚湊)に流れ着いた。時国や守永王は宗良親王と別れて、山名郡高部(袋井市高尾)に二年ほど滞在し、さらに白河城・小田原・関城を経て、ふたたび高部に帰り、行宮を建てて住まわれたが、守永王は14年ここにおられて死去された。時に24才の若さであった。時国はこれを嘆いて、王のために慈眼寺を建てて、ねんごろに供養した。時国は越前国坂井郡に帰り、元中3年(1386)70才で一生を終った」

…後醍醐のアホ野郎が孫(もりなが)に「おまえ東国に行って戦ってこい」と言ったのは、孫が最大限見積もって7歳未満だったときってことじゃん。懐良親王の時よりひどすぎる。でもこれによると堀江時国は延元3年には22歳で、その父の新田義顕が19歳で死んだのは延元2年(1337年)なので、堀江時国は自分の父(義顕)が生まれる2年前に生誕していることになる。(※『庄内の歴史』は「堀江時国は藤原氏」説を採用している本なのでこういうこともありえます。何かの史料を参照してるんでしょうけど)



ということで話をもどしますが、古い本では「袋井にいた南朝の皇子」はみな宗良親王だとしているのですが、現在ではそれは守永親王の事だとなってしまっているのです。その明晰な根拠を書いている本は私はまだ目にしていないですが、おそらくそれは『慈眼寺の由緒』に由来しているのだと思います。今回お寺に行って、それもまた見る事ができませんでしたけど、袋井市図書館に行ったらあるのかなあ。

(ネットで見つけた文章)
・第七番 福聚山 慈眼寺(袋井市高尾1169⁻1) ふくじゅざんじげんじ  
 創建:元弘年間1333~33、開基:慈眼寺殿精忠時国大居士(俗名:堀江新右衛門中務大輔時国)、本尊:聖観世音菩薩:木造立像75㎝伝行基作、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣次回2013年・正月18日初観音・大般若大祈祷会を厳修、
縁起:
創建時は袋井駅付近にあり、天台宗那智山観音堂だった。当地に後醍醐天皇の皇子が行堂を建て住まわれた。皇子は正平七年(1352)病を得て十年に没した。従者堀江新右衛門時国が嘆いて観音堂を建てた。その後時国子孫政久が元和年間(1615~23)再建し、禅僧観補麼察和尚開山。延宝三年(1675)焼失、再建、安政大地震(1854)大破、大修理、明治34年(1901)現在地移転。昭和19年(1944)大地震後修理、昭和55年(1980)本堂新築、
高尾周辺:大門、三門、大塚、八坂、御所の森等の地名が残る。
・翁稲船稲荷
・喜多向延命地蔵堂
・助命観音、・新;観音、・正門:石像「慈眼寺」、・鐘楼門、石仏8(立地蔵3、座地蔵1、観音1、如来3)、堂(多地蔵、如来1)、
~周辺地のもの~
・新町喜多向地蔵:北向きに安置された本像1体、馬頭観音3体、8月24日地域の方々により地蔵盆が行われる。


場所ももともとは現在地じゃなかったんですね。
Wikipediaにも、「尊良親王の2人いた息子のひとり」と、「新葉和歌集に出てくる上野太守守永親王」と、「奥州で北畠顕信とともに戦った宇津峯宮」(と、「興国天皇」)が同一人物かどうかは史料がないけど慣例的にそうだとされている、となっているのですが遠州において「親王が袋井に流れ着いたのが延元2年なのか延元3年なのか」も意外に大切な事だと思います。(宗良親王も延元2年と延元3年に二度、船で伊勢湊から遠州のどこかに上陸した事になっている。)
延元3年の船旅では、宗良親王・義良親王(=1年後に後村上天皇となる7歳)・満良親王・北畠親房・中御門中納言某(経高?)・結城宗広・宇都宮氏綱・北条時行・新田義興・中村経長・伊達行朝らが、北畠顕信の用意した52隻の船に分乗して東国を目指した(※満良親王のみ西国)のですが、宗良親王と守永親王は一緒の船に乗っていなかったようです。遠州白羽の伝説では、嵐で散り散りになった船団のうち宗良親王と一緒に白羽に上陸できたのは17隻で、この中には北条時行もいたそうですが守永親王はいなかったらしい。「危機管理の原則」とかあって皇族はひとりひとり別々の船に載せられることになってたのかな。陸奥を目指した義良親王は北畠顕信と同乗だったらしいです。宗良親王は最初から井伊谷を目指していたらしいのですが、守永親王の目的設定地はどこだったのかな。なんといっても尊良親王と宗良親王は同母兄弟で、兄は弟をそれはそれは愛していましたから、弟も前年に死んだばかりの兄の遺児を井伊谷に引き取る気はマンマンだっただろうと思いますが、一方で随行に北関東勢が多い事から見て、“上野太守”守永親王は北関東に行く予定だったのかもしれない。(『太平記』では“上野入道(=上野介)”の結城宗広(道忠)はまた別の船に乗った事になっていますが)。この頃の北朝側の上野介は高師秋。北朝方の上野太守はいなかったと思います。(上野国は親王立国)
でもこれは親王の難破が延元3年説を採ったときの話で、これが延元2年の事だったら全然別の物語になります。
「三浦天皇の伝説」によると、後醍醐天皇の一ノ宮の尊良親王はすでに後醍醐から譲位されていて、延元2年に金ヶ崎で尊良親王が自害したときに守永親王はそばにいて、死ぬ父から天皇位を譲られた事になっています。大変なこっちゃ。
先日市田さんに教えていただいた「出羽国酒田の伝説」のこともありますし、守永親王は3人ぐらいいたのかもしれませんね。

宗良親王が編纂した『新葉和歌集』には、「上野太守守永親王」の歌が8首収録されているそうです。
せっかくなので全部抜き出してみますと、

春哥上(74)
咲きそむる 花やまがふと 白雲に 心をかけぬ 山のはもなし

夏哥(189)
ほのかなる 一こゑなれど 時鳥 又聞く人の あらばたのまむ

夏哥(209) 題しらず
うづもれし 苔の下水 音たてて 岩根をこゆる 五月雨の比

釋教哥(622)
色にそむ 心の花の 散りてこそ もとのさとりの ねに歸りぬれ

戀哥一(653)
すく藻たく なにはのこやの 夕煙 たつ名もしらず 身をこがす哉

戀哥二(739)
うつつには 逢ふ夜もしらず 思ひねの 夢こそ人の 契りなりけれ

戀哥三(805) 戀の哥の中に
いかさまに 結びおきてか 岩代の 松とばかりの 契りなるらむ

雜下哥(1292) 懐舊の哥の中に
かくばかり うきにたへても 有るものを いかで昔を 恨みきつらむ


・・・うーーむ、あんまり面白くないなあ。宗良親王と尊良親王の母は、朝廷歌壇の大御所・二条為世の娘=二条為子で、二条派の歌は「形式をよく守り、感情が平板」なことが特徴なので守永親王の歌はこれでよいのかもしれませんが、尊良親王の歌の方がこれの100倍はおもしろい。(いろいろ裏読みできる歌ばっかり作っている)。わたくしには歌の教養なんてまったくありませんが、それでも「上野太守守永親王」は歌作りなどほとんど興味などなかった人だろうということがわかる。本当に「日本の詩的魔人」と呼ばれた宗良親王を叔父に持つ人なのだろうか。また、『新葉和歌集』において宗良親王が守永親王に対して何かの親近感を示している箇所もありません。(ただし一ヶ所、尊良親王の歌のあと守永親王の歌が置かれてる場所がある)。…あんまり面白くないのに8首も採用したのが最大の好意なのかもしれませんが。
強いて言うならば、最後の歌。「みんな大変なのを乗り切った末に現在がある。昔のことを悔しがってもしょうがないじゃないか。なるようになったから今があるんだよ!」って、守永親王の性格が垣間見える気がしますね。(歌詠みには向かない竹を割ったような性格)

下から2つめの歌は「適当にいいよと返事してしまったけど、それがとてつもなく長い縁となってしまった(なんで俺はいまこんなところにいるんだろう)」って意味ですよね。あ、恋の歌か。

『新葉和歌集』にはもうひとり「上野太守」って人がいて、その懐邦親王は後村上天皇の皇子で、長慶天皇・後亀山天皇の弟だそうですが、守永親王が死んだ後に上野太守に任じられた人なんでしょうね。(だからおそらく守永親王は宗良親王より前に死んでいる)。ついでなので懐邦親王の歌も挙げておきます。懐邦親王の歌は4首あります。

夏哥(174)
一聲(ひとこゑ)も 小盬(をしほ)の山の ほととぎす 神代もかくや つれなかりけむ

秋哥上(292)
なにとたゞ こふれれどしるしなき 妻をうらみて 秋は鹿のなくらむ

冬哥(457)
こやの池の 玉藻の床や 氷るらむ うきねの鴨の 聲さわぐなり

戀哥四(888)
いとはるる 身はくり返し なげかれて たえぬ思ひの 賤のをだまき

…うーーむうむうむ。この人はなんとなく、遠くに行った事がない人のように感じます。
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今年の浜松祭りの天狗さま。

2019年05月04日 08時11分40秒 | 遠州の歴史


今年も天狗様の屋台を見に行ってきました。「今年も」と言いながら、(去年は見に行かなかったので)2年ぶりです。2年前も記事にはしなかったですね。
(3年前の天狗さまはこちら。)



3年経っても天狗様のお鼻のりりしさは変わっていませんね。(当たり前だが)
毎回来て思うのですけど、天狗連の屋台の造形の素晴らしさは他と隔絶しておられるのですね。これを見るために毎回来ていると言っても過言では無いほどです。
この天狗様の目は一定間隔でピカピカ光るのですが、ずっと待ち構えていたのですがその決定的瞬間を写真に収めることはできませんでした。(3年前も同じ事を言っていた気が)。春野町にある巨大天狗面も夜には目が光りますので、浜松の天狗は目が光るのです。般若連の築山御前も目が光ります。




ただ、とは言っても、他の町の屋台の素晴らしさも少しずつ私はわかるようになってはきています。
天狗連と並ぶ見た目の華麗さは般若連(佐鳴台)。
…ただ今年は般若の御前さまは私は見つけることができませんでした。

長らく私が働いていたのは海老塚町で、この町の屋台も私は好きだったのですけど、今年は海老屋台(=海老や鯛)も見つけることが出来ませんでした。
いま私が働いている喫茶店は砂山町にあるのですけど、歩き回って探したのですけど砂山町の屋台も発見できず。(砂山町ってどんなのだっけ)
夏には私は旭町のお店に移ることになっているのですが、旭町って屋台も凧も無いらしいですね。(…住民がいなさそうな過疎の町だからしかたがないか)
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メンデルスゾーンのイ短調のピアノ協奏曲。

2019年01月25日 22時29分20秒 | わたしの好きな曲


最近、車で聴く用の音楽を再編集しておりまして、その過程でヘビーローテーションで聴く事となったのがこの曲です。
オランダのブリリアント社の40枚組の選集で、ホ短調のヴァイオリン協奏曲と組み合わされてた。
この曲、突き詰めるまでに個性というものが抑制され、なのに極めて華麗で美麗である。なのに、華麗さで言ったらベートーベンの皇帝をも並べるくらいであるくらいこの曲はすばらしいのに、全体的な印象をいったらはなはだ地味である。(13歳の時の作であるので、効果の具合は勘弁してつかぁさい)。そもそもメンデルスゾーンって豪華絢爛を極めるべき協奏曲作品は、何曲も何曲も作曲しているのに、ホ短調の協奏曲以外には、目立つ曲が無い。どうしてなのかなあ。
メンデルスゾーンが、「これからは多作量産はやめて練りに練った作品だけを作る」と宣言したのは23歳でイタリア交響曲の時です。でもそれ以前の量産時期にも、ぴかっと光る傑作的作品だらけです。

動く動画もありました。

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骸骨の顔。

2018年09月23日 14時04分13秒 | 小説・漫画


これから読みます!



山童さん、
折を見てこちらをご利用ください。
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総括関ヶ原。

2018年08月08日 07時10分55秒 |   神君家康


津川雅彦氏が亡くなったんですって。
私にとって一番楽しかったNHKの大河ドラマは2000年の『葵 徳川三代』で、
津川氏演ずる徳川家康は、
私の中の徳川家康の理想像だったので、
とても悲しい。とてつもなく悲しい。
・・・悲しい。



石田三成の江守徹氏はまだご健在ですね。




「しめたッ!」
石田三成が要害の大垣城を捨てて関ヶ原に移ったということを聞いた津川雅彦氏と本多忠勝。



石田三成の使者 「ご助勢お願いいたす」
島津豊久 「なんじゃとこの野郎、ぶち殺すっぞ!!」



安国寺恵瓊の使者 「戦さは今たけなわでござる! 直ちに兵を進めよとの毛利秀元公のお下知にござる!」
関ヶ原には昼食を食べるだけに来た吉川広家 「オレは今から弁当を食う!」

・・・おもしろいなあ!

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