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宝鏡院の足利義詮の墓(その2)。

2016年09月16日 17時14分28秒 | 伊豆の歴史


9月の夏休みには三島市に行きました。
三島の図書館に、川原ヶ谷町の宝筺院殿の墓の説明の記述を読みにです。
(※前回の記事京都へ行った記事


<新しくなってた! ・・・でも宝筺印塔ではない>


『新版 伊豆の伝説』(小山枯柴/静岡県の伝説シリーズ⑤羽衣出版、2000年)
「三島町から東へ賀茂川を渡って一町ほど歩くと、右手に宝鏡院がある。寺のうしろ一町ばかりの所に、足利二代将軍義詮の墓地がある。義詮は法名を宝筺院殿道樹端山大居士といい、寺は彼の死後に建てられた。寺号も法名によったといわれる。寺の南にある畑地の墓地に立派な墓石があったというが、今はその跡さえ無い。分骨を葬ったのであろう。その場所は大字河原が谷である。(『日本伝説叢書』)
「河原ヶ谷にしょうとう塚(勝幢塚)がある。堀越公方政知の法号、勝幢院殿従三位左兵衛九山大居士によったものである。墓地は義詮の墓地に並ぶ五輪塔石だという。これも分骨であろうといわれる。(『同上』)

…宝鏡院については松尾書店の『史話と伝説 伊豆・箱根』にも『東海道名所圖繪』にも記述は無くて、私の手持ちの本では『新版 伊豆の伝説』が唯一だったのですが、記憶の中では宝鏡院にある宝筺院殿の位牌の写真とか見たことがある気がします。三島市のサイトとかだったかな。羽衣出版の『新版 伊豆の伝説』は昭和18年刊の本の現代語訳だそうで、小山枯柴氏の本は、更に先立つ時代の諸本の蒐集です。
今になって読むと、「宝鏡寺のうしろの一町先に義詮の墓地がある」という記述が気になりますね。一町というのは約109mだそうです。現在寺の裏にある義詮の墓とは別の場所にまた墓地があったことになります。山田川を渡った今はマックスバリュ三島谷田店のあるあたりの場所かな。「賀茂川」は現在は「大場川」となっているようです。
勝幢院殿の五輪石は10年前から(昭和18年から)ずっと同じままみたいです。



「一町」というのがこの本の写し間違いなのではないかと思ったのだけれど、その『日本傳説叢書<伊豆の巻> 伊豆の傳説』(藤澤衞彦、日本傳説叢書刊行會、大正7年(1918)の復刻本(昭和53年)も私は所持していました。、…この本、伊豆のどこかで買ったのだと思うのですけどいつだっけ? 確かに「寺の背後一町ばかりの處」と書いてあるので、間違いではないようだ。関係ないけどこの本は「足利義詮」に「よしのり」とルビを振っている。「道樹」「端山」はさすがに誤植だと思われます。(「道權」「瑞山」が正しい)
その『日本傳説叢書』は『増訂豆州志稿』(1892~95)の記述を引いています。
「足利義詮墓 河原谷村寳鏡院の後背一町許(ばかり)に在り。足利政知の墓と並ぶ。(寺後の畠中に在り、往年、墓前より槍を掘り出す。) 往昔(むかし)、此邊まで寺域に屬す、義詮は貞治6年12月京都に於いて薨ず。寳篋院と號す。「山城志」に、義詮の墓二を載す。(一は北嵯峨寳鏡院に在り、一は蓋山等持院上方に在り。)、「室町日記」に「貞治7年3月、寳篋院殿御骨關東に下向とあれば分骨を此に葬る也。因つて寺を建て、寳篋院と云ふ。今尚古靈牌を安ず。(高二尺幅四寸五分、誌して曰く、寳篋殿従一位左大臣道權瑞山大居士~、背面に九十九代後光厳院御宇尊氏之三男千壽丸、治世十年、従一位左大臣征夷大將軍壽命三十八歳に限り、貞治六年丁未靈月上旬七日卒矣、法名道權瑞山大居士、豆州田方郡河原谷廟院寳筺寺)」」

…さらりと書いてあるようでいて、なかなかに疑問点が多い。



現地案内板。
新しくなっていました。10年前に見た時も「不思議な文章だなあ」と思った記憶がありますけど、残念ながら10年前の写真は失ってしまいました。今読んでも「不思議な書き方だなあ」と思いますので、少しだけ異動はあるものの、古い案内板をそのまま新しくしたのだと思います。

「臨済宗建長寺派 宝鏡院
【史跡】
『清和源氏足利尊氏』の3男、『足利2代征夷大将軍義詮(幼名-千寿丸)』宝鏡院を建立する。
(建長元年己酉歳)『建長寺開山勅詔大覚禅師』
法の弟子『建長寺第四世勅詔普覚禅師宝鏡開祖』となる。

当時参門は、建長寺裏門を移した名工『甚五郎の作』と言い伝へらる。
『足利義詮』(貞治6年12月7日)38歳にて没す。
法名『宝鏡院殿従一位左大臣道権瑞山大居士』
『足利尊氏公』第8代『武将義政公』の弟『政知』は『田方郡北條館』にて『茶々丸』に殺さる。
(延徳3年4月3日)57歳にて没す。
法名『勝幢殿従三位左武衛九山大居士』、宝鏡院墓地に埋葬す。
『本尊薬師如来』仏工師運慶の作と言ふ。

此の地三島神霊来る。
一、鞍掛の石
東海道参道入口両側にあり、将軍が参拝の折に下馬し、鞍を置いたる石と言ふ。
一、笠置きの石三島七ツ石
『源頼朝公』参拝の折笠を置いたる石と言ふ」



『増訂豆州志稿』より。
「●地福山寳篋院(川原ヶ谷村)
【増】臨済宗建長寺派(相州鎌倉、建長寺末。本尊薬師)【増】今作寳鏡院。●此地に寳篋院足利義詮を葬る因て寺を建て寺號とす。(【増】室町日記に寳篋院殿御骨關東に下向すとあり蓋分骨を此に葬りたるならむ義詮法諡道權瑞山、寳筺院と號す。●又足利政知の墓あり。【増】北條盛衰記に曰く政知、北條の御所にて逝去す川原ヶ谷の寳篋院に葬ると政知法諡九山、勝幢院と號す) 寺記には建長寺四世普覚覺此に退隠す因て之を始祖と為すとあり (【増】伊豆名迹誌に曰く寳鏡院は三島根本の靈地なり三島明神初此處に鎮座す云々昔より此地の習ひにて重服觸穢の人始めて別火に入る時は當寺の火を請ひ受け忌中用うること謂われありと覺ゆ云々と 【増】三百四十坪民一)」

なんと! 豆州志稿に最も重要なことが書いてあった。
江戸時代の後期に書かれた『豆州志稿』(中郷村安久の秋山富南という人が韮山代官・江川太郎左衛門英毅の援助を得て書いた)という本は伊豆の地誌の最重要書なのですけど、わたくしは所持していないのです。(古書でも1万円ぐらいするから)。気賀の図書館でも読めるんですけど、そんなことせずともいろんな本に引用されているのでいまさらわざわざ読んだことがなかった。原本の『豆州志稿』は出版されず、明治20年代になって、萩原正平らによって三国志の裴松之のような註の施された『増訂豆州志稿』が出ました。
大切なことは、秋山富南の寛政時代にはこのお寺の名前は「宝篋院」だったのが、明治時代なかばにはなぜか「宝鏡院」に変わっていたってことだ。

一番の問題は「このお寺がいつ建てられたか」ってことです。
案内板には「建長元年(1249年)に建長寺開山の大覚禅師(蘭渓道隆)の弟子である普覚禅師(義翁)によって建てられた」と書いてあるんですけど、そのころ「開基者」である足利義詮はまだ生まれてないじゃないですか。「足利義詮の御骨を葬るために建てられた寺」って書いてあるのに、その義詮公がお生まれになったのは元徳2年(1330年)。足利義詮公の骨を安置したからそこに建てたお寺は、義詮公が産まれる80年も前に用意されていたことになる。「建長元年」が「大覚禅師が建長寺を建てた年」に懸かっている年号かとも思ったんですけど、建長寺が開基されたのは建長5年ですからね。その疑問を解消するのが『豆州志稿』の記述で、「寺記には建長寺四世普覚覺此に退隠す。因て之を始祖と為すとあり」。なぁんだ、普覚禅師は鎌倉生活時代の義詮公と知り合いだった可能性もあったんですね。「開山」と「開基」はほぼ同時代に対になっているはずのものですが、調べてみますと、時間的な隔たりがあるお寺の例も世間には何故か無いではありませんので、このお寺もそういうものの一つなのだと思います。
伊豆宝鏡院の開山は普覚禅師(義翁伝等)という人で、この人は建長寺第3世であった人だそうです。ググってみると義翁禅師の逝去は建武2年(1335年)。建長寺は鎌倉時代に北条時頼の帰依をうけて建てられた寺ですから南北朝時代とは時代が違う。元寇の頃に伊豆修禅寺に追放されたのちに建長寺の山主となった一山一寧が第10世ですから、まさかそれに先立つ第4世が義詮と同時代人などという可能性は思ったこともなかった。
「義翁」などと言われても「誰それ?」と思う人なのですけど、その頃の建長寺の歴代住職は、第一世「蘭渓道隆」、第二世「兀庵普寧」、第三世「大休正念」、第四世「義翁紹仁」、第五世「無学祖元」で、鎌倉仏教界のスーパースター揃いですから、自動的に義翁禅師もかなりの傑物であったのかと思う。
参考までに初期の建長寺歴代表を掲げておきます。
(1)蘭渓道隆 (2)兀庵普寧 (3)大休正念 (4)義翁紹仁 (5)無学祖元 (6)葦航道然 (7)鏡堂覚円 (8)癡鈍空性 (9)桑田道海(智覚禅師) (10)一山一寧(妙慈弘済大師) (11)子曇 (12)無隠円範 (13)南浦紹明(円通大応国師) (14)高峰顕日(仏国禅師) (15)約翁徳倹 (16)太古弘会(東里) (17)世源 (18)東明惠日 (19)霊山道隠 (20)乾峰士曇 (21)玉山徳旋 (22)清拙正澄 (23)明極楚俊
確か第38世の古先印元が個人的に足利尊氏・直義・義詮と親しい人でしたよね。(等持寺の開山。建長寺38世となったのは延文(1359)?)



義翁和尚(イメージ)。
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夜は自己嫌悪でいそがしいんだ。

2016年09月03日 19時25分00秒 | 今日の、エウクストロネラ


しまった20000文字で終わらなかった(笑)
もう少しゆたゆた続けます。ついでに読書記録も。

宝筺院では誰かに詳しいお話を聞きたかったんですけど、誰も人がいませんでした(受付の人に聞けば良かった)。前に書いたこととほぼ同一のこととなってしまいますけど(つまりこの10年間でほとんど新しく知ったことが無い)、宝筺院でもらったパンフレットの文章をコピーしておきますね。

「宝筺院」 白河天皇開創 楠木正行・足利義詮 両菩提所
《略史》
「平安時代に白河天皇(1053~1129)により建てられ、善入寺となづけられた。南北朝時代になり夢窓国師の高弟の黙庵周諭禅師が入寺し、室町幕府の二代将軍足利義詮の保護を得て伽藍が整備され、これ以後は臨済宗の寺となった。貞治6年(1367)、義詮が没する(38歳)と、善入寺はその菩提寺となり、義詮の院号に因み寺名は宝筺院と改められ、足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛であったが、応仁の乱以後は経済的に困窮し次第に衰退し、明治の初めには廃寺となったが、五十数年をへて復興された」
《小楠公首塚由来》
「正平3年・貞和4年(1348)正月、河内の国の南朝の武将楠木正行は四條畷の合戦で北朝の大軍と戦い討ち死にし(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。後にこの話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るようにと頼んだ。明治24年(1891)塚の由来を記した石碑『欽忠碑』が建てられた」
《伽藍復興》
「大正6年(1917)楠木正行の菩提を弔う寺として宝筺院が再興された。屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦をもちい小楠公ゆかりの寺であることをしめし、古仏の木造十一面千手観音菩薩立像を本尊に迎えた。現在は臨済宗の単立寺院」
《楠木正行・足利義詮墓所》
「石の柵に囲まれて二基の石柱が立つ。五輪塔は楠木正行の首塚(首だけを葬ったから)、三層石塔は足利義詮の墓とつたえる。墓前の石灯籠の書は富岡鉄斎の揮毫。「精忠」は最も優れた忠。「碎徳」は一片の徳、即ち敵将を褒めたたえその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片にすぎない、という意味で義詮の徳の大きさを褒めた言葉」
《歌碑(楠木正行辞世の歌)》
「かえらじと かねておもへば梓弓
   なき数に入る 名をぞ 止むる」
《庭園》
「書院から本堂の周辺は白砂・青苔と多くの楓や四季折々の花のある回遊式の庭園が広がり、晩秋にはみごとな紅葉を見せる」



京都の寳篋院においては宝筺院殿(義詮公)よりも小楠公正行(しょうなんこうまさつら)の方を高位に置いているのがよくわかると思います。宝筺院という寺名なのに宝筺院殿の御墓は宝篋印塔ですらないし。
わたしが何を問題としているのかというと、「足利幕府第二代将軍である義詮公は「宝筺院殿」という号を死後に贈られたが、その“宝筺院”の由来がはっきりしていない」ということです。もちろんこの「はっきりしていない」というのは、史料が全く無いということではなくて、田舎者のただのおっさんが手に入れられる本にはその理由が書いてない、というだけの話なんですけど。専門家の人による立派な専門書にはどこかに「宝筺院殿の建てた宝筺院というのがどこなのか」ということがバッチリ書いてあるに違いない。私はそれを探さないとならないのです。もしかしたらそれは宝筺院殿が少年の頃に活躍していた関東地方の入り口にある伊豆三島の「宝鏡院」なのかもしれない。
室町・江戸の将軍達の「院殿号」というのは、その人が生前にゆかりのあった“菩提寺”に由来していると思うのですけど、義詮の場合はその墓所のある当・宝筺院が「後世になって義詮の院殿号にちなんで寺名が改称された」となっているのがわたくし的に問題なんですね。じゃあ、もともとの宝筺院はどこにあるんだと。
太平記の義詮の葬儀の記述を見ますと、「天下は久しくこの将軍のたなごころにあって、この方の恩を戴き徳を慕う者は幾千万もいた。歎き悲しむ者は多かったがもうそれはどうしようもなかった。泣く泣く薨礼の儀式をいとなむため、義詮公の遺体を衣笠山の麓の等持院に奉遷。5日後の12月12日の午刻に、荼毘の規則を調えて、仏事の次第を厳粛におこなった。鎖龕(さがん)は東福寺の長老・信義堂、起龕(きがん)は建仁寺の沢竜湫、奠湯(てんとう)は万寿寺の桂岩、奠茶(てんちゃ)は真如寺の清ギン西堂、念誦は天竜寺の春屋妙葩、下火(あこ)は南禅寺の定山和尚がおこなった」とあって、ここには「宝筺寺」の人が出てこないので、「そもそもの宝筺院など無かったのだ」という考え方もできる。どうなんでしょうね。関係無いかも知れないけど人形寺として有名な上京区の宝鏡寺はここに出てくる真如寺と関わりが深く、義詮の死後1、2年後くらいに建福寺という名を「宝鏡寺」という名に改めたとされています。



宝筺院には寺宝として楠木正行の木像と非公開の足利義詮の肖像画があるのですけど、Wikipediaによると、この義詮像は将軍の肖像画としてとても貴重な物なのだけど、最近の説では実はこの肖像画は義詮ではなくて尊氏であり、神護寺にある「伝・藤原光能」の像が義詮のものであるという人がいるんですって。おもしろいね。ご存じのように有名な「足利尊氏騎馬像」が本当は高師直で、神護寺の伝・源頼朝像が実は足利直義で、平重盛が足利尊氏だとされているそうですからね。もう誰が誰で、何が何なのだか。藤原光能というのは誰だったのだろう?
実は宝永2年(1705年)刊の『山城名勝志』には宝筺院について不思議なことが書いてある。
「善入寺 大指図 清涼寺西南の勝蔓院の東にあり、開基は黙庵和尚
義堂和尚語録によると、黙庵和尚の十三回忌は善入寺で行われ、埀語があった。永享日録によると永享7年11月9日に嵯峨の善入寺が郁子(=むべ、アケビ)を献じた」
「寶篋院 天龍寺の東南にあり黙庵が諭す場所だった。宝筺院義詮公が○○する為に開創する所なり
補菴京華後集(文明9年丁酉に宝筺院で拈香仏)によると、謹みて按ずるに延文戊戌の年、大居士は初め鈞軸に乗ったとき(※秉鈞軸=権力を握るの意? 延文3年は足利義詮が征夷大将軍に就任した年)たまたま善入の黙菴が本寺にいたので、政務の暇を見て台駕を入れて、山チ訽ス法要チ咨ス。(=恥ずかしがらずに何でも相談した、の意?)

現在の宝筺院は天龍寺の東北・清涼寺の西南にあるのですから、今は「宝筺院=善入寺」なのですけど、宝永2年の時点では「善入寺」と「宝筺院」は別々の寺だった?「天龍寺の東南」とは、現在の京福電気鉄道嵐山本線嵐山駅付近の外国人がごったがえす小洒落た土産物外のあたりだったのでしょうか。



化野念仏寺のすぐちかくにある後亀山天皇の御廟。
後亀山天皇は長慶天皇の弟で名前は熙成(ひろなり)。勝手ながら兄の長慶天皇とはなんだか仲が悪かったような印象を持っている。「熙成」って名前は「ほそかわごき」っぽいのですよね。この帝も生まれながらにかなり不遇で、最期付近の境涯がまたよく分かっていないのですけど、陵墓は長慶天皇のよりもさらに立派で、とても安心した。うしろの木立がとても圧倒的で、かなり観察した思い出がありますけど、写真にはほとんどその威容が撮れてはいませんでした(笑)。後亀山天皇は愛宕山の麓に隠棲したという伝えがあるのですよね。




●2015/12/15 18:12
「法は私を廃するためにあります。令が良く広まれば自分勝手な人はいなくなります。個を顧みることは世が乱れる元になります。岩窟に棲んで学問をするようになると、人を説得するためか法と行政の悪口を言い、世の常識とは逆らう事を言うようになります。法は世を治めるためにあり、私はそれを乱すためにあると言っても過言ではありません。ところが現代では、聖人とか知者とか言われる人たちが集まって勝手な言葉を並べ立て、上に対して不遜な態度を取るのに上の人たちはそれを禁止せず、却ってそういう言論を追いかけて賞を与えたりして喜んでいる。これでは自分で自分に従わず法も守るなと言っているようなものだ。そして賢い人が在野にいることを喜ぶようになり、姦人は賞金によって富むのです」(『韓非子』)

●2015/10/22 15:58
「景虎公は晴信の戦術を批判した。武田晴信の弓矢最後に勝つことを重視したもので、確かにそれは国を侵して獲る秘術かもしれぬ。しかし我らは国を取ることは構わない。何度も繰り返し戦うこともしない。攻めたら一気に勝負をかけて一戦を決めるのだ。源義経が弓矢の名手だったことは有名だが彼の知行は伊豫國ただ一国、しかし弓矢の名はまさに日本を統治した相模入道(北条高時、もしくは北条義時、あるいは源頼朝?)を遙かに上回っていた。それは、せずにすまされぬ戦さを、決して退かず間隔を置かずしておこなったことにあるのだ。そう言って即座に武田晴信と戦う準備を始めた」(『甲陽軍鑑』)

●2015/10/22 14:21
「偉大な人物とは、自分の偉大を自覚しそれを信頼する課程で、奴隷根性を持つ人のみを支配すること、コロポックルの群れの中で自分だけが巨人であろうとすることを良しとはしません。彼は自分が支配しようとする相手を価値のないものと考えることはしないのです。そのような人間は、自分の周りの堕落を目撃して一種の圧迫を観じ、人を尊敬できないことに一種の悲哀を感じるのです。同胞たる人類を向上せしめ、高尚ならしめ、一層立派な光に照らして見得るようにすることが、彼自身の高邁なる精神に快感を与え、彼の最大の享楽となるのです」(フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』)

●2015/10/21 21:24
「大王が病兵・老兵を国に返すと発表したとき、アイガイのエウリュロコスが自分は病気だから還してくれと願い出た。のちにそれがウソだと分かり審問にかけられ、実は彼はテレシッパという女性に恋しその人が海の方へ去るので、その女についていくためにそう懇請したと告白した。次第を聞いて大王はそれはどういう女なのかと尋ねた。すると、職は下賤な水女ではあるが身分は自由人であるという。アレクサンドロスは言った。「お前の恋は俺が取り持ってやる。相手が自由人だと分かった以上、言葉で口説くか物で口説くか、どっちが良いかお前はわかるよな」。・・・大王がこんな手紙を友人たちに書く暇が良くあったものだと驚くほかはない」(プルタルコス)

●2015/10/15 20:31
「シュポーアもまがりなりにもオペラ化したが、それはゲーテの『ファウスト』、クライストの『ハイルブロンのケートヒェン』、クリンガーの『ファウストの生涯、行為、地獄落ち』などの戯曲のアマルガム的な台本にもとづいており、純粋にゲーテにのっとっているとは言いがたい。ワーグナーもオペラ化しようとして果たせず、リストも《ファウスト交響曲》として管弦楽化するのがやっとだった。一方フランスやイタリアなど、ラテン系の国々ではベルリオーズをはじめ、グノー、ボーイトなどが相次いでこれをオペラやカンタータにしている。それらは今でも一般に知られ、またよく上演され、ドイツに大きく水をあけている。ラテン系の作曲者たちは物語的な面白さでこの素材に接し、気軽にそれをエンタテインメントに仕立て上げている」(喜多尾道冬「シューマンの“ファウストからの情景”の成立」)

●2015/10/07 23:10
「クチャ(狩り小屋)でも仮小屋でも、昔の人は裸になって背中あぶりをしたんですよ。背中をあぶるっていうのは身体が一番温まるんです。寝る時は厚着はできるだけしないんですよ。たくさん着たら駄目です。いったん着るものを上から温めると、着てるものが温まるだけなんです。そしたらふーと楽な気持ちになって寝込んでしまうんです。そうすると寒くなって目が覚める時には着てるものが全部冷え込んでしまっていて、寒さを感じ取ったときにはもう火が消えています。これでは風邪を引きます」(姉崎等・片山龍峯『クマにあったらどうするか』)

●2015/10/07 22:54
「韓国人をアイルランド人ーーさらに広く、イギリス諸島に住んでいるケルト族と比較してみた。ケルト族はイギリス人とくらべて一面情緒的で気持ちがあたたかいと普通思われているが、反面また情熱的でけんかっぱやいところもある。早い話が、ちょっと一杯ひっかけただけでもたちまちメートルが上がるといったふうで、言葉をかえれば個人主義者。国のことよりも、自分や家族、あるいは部族の方を大事にする。イギリスのように力を合わせて外敵を追い払うことができない。内輪の争いに気が行きすぎている」(ピーター・ミルワード『イギリス人と日本人』、昭和53年)

●2015/10/05 18:33
「ボノボがチンパンジーの亜種でなく独立種と認められるようになったのは、皮肉にも第二次大戦の結果であった。1944年ミュンヘンに近いヘラブルンネルが連合軍の空爆を受けた。町の動物園は幸いなことに直撃弾は受けなかったが死者は出た。動物たちの何匹かが近くで降り注いで炸裂する大型爆弾や間断なく発射される高射砲の轟音で、極度の恐慌に陥り死んだのだ。翌朝、飼育係達たちは死んだ動物たちを収容しながらあることに気づいた。チンパンジーで死んでいたのは小さな亜種とされたチンパンジー(実はボノボ)ばかりだったのだ。そういえば小さなチンパンジーは常に臆病で、大きな兄弟を常に避けており、両種は決して交わることが無かった。この報告を受けてボノボの心理学的・行動学的研究がなされることになった」(今泉忠明『進化を忘れた動物たち』)

●2015/10/05 17:58
「ロマン派時代のオペラは結末は大抵悲劇で、男女ともに没落する。ヘンデルの時代ではそうはしないが、ヘンデルの場合最高潮の場面でもっと微妙に悲劇的なことが起こる。犠牲となるはずだった男性は危うく難を逃れ、予定通りにハッピーエンドで幸せなカップルが誕生するのだが、しかしヘンデルを動かしているのは魔女(蠅ではなくて蜘蛛)なのである。ヘンデルは自分のオペラにおいて常に魔女(超自然の技を使うにかかわらず彼女が望む愛を常に得られない存在)に最上の音楽を与えるのである。台本作者にとっても聴衆にとっても魔法オペラは見て楽しいおとぎ話であるが、ヘンデルはそれを悲しい愛の物語に変える」(ウィントン・ディーン『ヘンデル オペラ・セリアの世界』)

●2015/10/03 16:28
「この裁判記録で興味深いのは、グーテンベルクが鏡職人とされていることである。このころ聖地アーヘンでは7年おきに聖遺物の御開帳がおこなわれていた。十字架にかけられたキリストの腰布や洗礼者ヨハネの首を包んだ布と称するありがたい聖遺物を、巡礼者が凸面の手鏡に映して故郷に戻れば、その功徳によって愛する者の病が全快すると信じられていた。たまたま次のアーヘンの御開帳が1439年だと計算したグーテンベルクは、手鏡製造事業の共同出資者を大々的に募ったらしい。ところが彼は計算が苦手で、実は御開帳はこの翌年であったので、出資者たちは激怒してグーテンベルクに激しく迫った。裁判を起こした原告たちをなだめるためにグーテンベルクが内々に披露したのが活版印刷の秘密の技術だったという」(髙宮利行『グーテンベルクの謎~活字メディアの誕生とその後~』)

●2015/10/03 00:59
「宍道湖に佐陀江という場所があり、ここは鮒や鯰がたくさんいる地点で良い場所でしたから、ある人が銀子20枚の運上金で買い受けたいと申し出ました。奉行はここは交通の要衝だから開ければ藩に良いことだと思い報告したのですけど、堀尾吉晴は許可を与えませんでした。のちに家臣の小瀬甫庵がどうしてかと藩主に尋ねました。吉晴は答えました。「土地が栄えるのはいいと思うし望む人がいるのならば応えた方がいいに決まってるんだがね、ただ佐陀江は私の愛しい家来たちの憩いの場所なのだ。鮒と鯰がたくさんいるんだよ。私がもしなにかあった時に真っ先に「死んでくれ」と言わねばならない者たちの、平時に心の癒しとしている場所を簡単に銀子に変えるわけにはいかんのだよ」、と。」(『名将言行録』) ・・・堀尾吉晴には茶の湯などよりも釣りの方を趣味の上位に置いていたふしがある。

●2015/10/03 00:33
「王の前に連れていかれたテミストクレスは平伏したあと黙っていました。王は通訳を通して名を名乗れと言えといいました。彼は答えました。「王よ、ここに来ているのはアテナイのテミストクレス、祖国に追われた亡命者です。私はかつてペルシャの人々に多くの害を与えたゆえ怨まれておりますが、ギリシャを安全にしたのちはこちらが必要以上にペルシャに報復することを止めましたから、貴国にとっても害以上の益を与えた男でもあります。王よ、私がペルシャの人に施した恩恵の証人として私の政敵を引き合いに出して今の私の不運を使って恨みを晴らすよりも、あなたの徳を示すようにしてください。あなたが私を助ければ命乞いをした者を助けることになり、私を殺せばギリシャの敵となった者を殺すことになるのです」」(プルターク『テミストクレス伝』)・・・テミストクレス伝おもしろすぎ

●2015/10/01 10:02
「大阪府立大学の篠田統教授によると、「昔から太平の世には辛口、乱世には甘口の酒がはやる」という。筆者にはまだそれほどの確信はもてないが、あるいは乱世には酒不足のため少量で満足のいく甘口、酒のふんだんにある太平の世にはいくらでも飲めて飲み飽きのしない辛口が要求されるという解釈もなりたつのかもしれない」(坂口謹一郞『日本の酒』)

●2015/10/01 09:15
「マタイ書では「彼は多くの仕事を行わなかった」と書かれた部分がマルコ書では「彼は何も奇蹟をすることができなかった」となっている。それは決してモーシェが力を欠いていたということではない。そう思うことは神への冒涜である。奇蹟の目的とは教会に人びとをつけくわえることで、つけくわえられるべき人びととは、神があらかじめ選んでおいた人びとなのである。従ってモーシェは自分の力を、かれの父が拒否しておいた人びとの改宗には使う事ができなかった」(ホッブス『リヴァイアサン』)

●2015/09/23 21:25
「阿波の太守・蜂須賀家政はときどき家来を呼んで言いました。最近寒いな。足が寒いだろう。だからお前に私の古い靴下をやろうと思ったんだけど、でも靴下っていつも片方だけ無くなってしまうんだよな。今も探したんだけどやっぱり半分しか無い。とりあえずこの片方だけ気持ちだと思って取っといて、と。後日ふたたびその者を呼び出し、「靴下の残りを与えよう」という。このとき、律儀に前の靴下を取ってあった者には、公は賞賛して昇進させるかまたは昇給させたといいます。ただし稀に、前に与えた古い靴下を無くしてしまったりしていた場合には、蜂須賀公は以後その者にそれはそれは冷たく当たったと言います。これは公が家臣を試すためにやっていたことでした」(『名将言行録』)

●2015/09/22 23:14
「口に妙法をよび奉れば、わが身の仏性もよばれて必ず顕はれ給う。梵天・帝釈の仏性はよばれてわれらを守り給う。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給う。されば「もししばらくも持つ者は、われすなはち歓喜す。諸仏もまたしかなり」と説き給ふはこの心なり。されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもつて仏に成り給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法といふはこれなり」(日蓮『法華初心成仏鈔』)」

●2015/08/23 20:37
「「即身成仏」ということも、正法というものを明らかにしていく人間が「即身成仏」した人間というような考え方になっていくんじゃないですか。だから27年間の説法が全部「即身成仏」という形になって出て行く。だから芸術的なものはそこから出てこないですよ」「例のヒゲ曼荼羅というのはやはり空海に対抗しようとしたものでしょうね」「しかし、日蓮宗の寺の庭を見ても、建築を見ても、彫刻や絵画を見ても、それは真言や禅系統の寺に較べれば、芸術性というのはいちばん希薄なのではないですか」「それだけ正法に対する情熱というものはきびしいわけです」」(紀野一義・梅原猛『永遠のいのち〈日蓮 〉』)」

●2015/08/23 20:08
「メガマウスザメは鰓孔(えらあな)がとても小さい。同じプランクトンを主食にしているジンベエザメとウバザメは鰓孔はとても大きく、特にウバザメの鰓の穴は喉から背中まで大きく開いている。ウバザメの食事法は単純で、大口を開けたままプランクトンの中を泳ぐだけ。泳ぐと自動的にプランクトンが口の中に流れ込み、水だけが大きな鰓孔から流れ出していく。プランクトンは口の中にある鰓耙という装置で漉し取られるので、あとはまとめて飲み込めばいい。一方ジンベエは、巨大な口と鰓を使ってプランクトンを大量に口の中に吸い込む。では、大きな口を持ち小さな鰓しか持たないメガマウスザメはどうなのだろうか」(仲谷一宏『サメ ~海の王者たち~』)

●2015/08/19 00:49
「堀尾吉晴が言いました。中村一氏が駿河国を賜ったのは小田原攻めで山中城を落とした功によるもので、それができたのは渡邊勘兵衛了が配下にいたからだ。ところが一氏は個人的な事情で了を解雇してしまった。私も今は出雲と隠岐の二国を預けられている。その恩を返すには、了のような名士がぜひとも必要だ。出雲の国土の中で島根郡が一番良い地である。風光明媚の宍道湖を南に、蒼海を北にしていて、娯楽が非常に多い土地なのだ。この地(2万石相当?)を与えると言えば、彼も喜ぶに違いない。と言って使者を使わしたのですが、伊予の国の藤堂高虎と(2万石の)先約があると言って、渡邊勘兵衛了には断られてしまいました」(『名将言行録』)

●2015/08/18 22:14
「この計画の持つ巧妙な間接性は地理上の迂回にあるのではなく、その兵力配分と作戦指導の構想にあった。ドイツ軍は予備部隊と実働部隊を混用することによって初戦の奇襲をおこなう。使用可能な72個の師団のうち53は旋回する集団にあて、ヴェルダン要塞に面する旋回軸を構成するのに十個師団を充当し、フランス国境に沿った左翼にはわずか9個師団しか割り当てなかった。左翼の兵力を最小限にしたのは、まさにその左翼の弱さによって集団の旋回能力を大きくすることを抜け目なく計算したものでもあった。もしもフランス軍が戦力の一番薄い地点のロレーヌでドイツ軍を攻撃した場合、そこでのフランス軍の勢いが深ければ深いほど、ベルギーを通過して行われているドイツ軍の主力の進軍を押しとどめることは困難になるのである」(リデルハート『戦略論 ~間接的アプローチ~』)
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