オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

ベートーヴェン作曲 『戦争交響曲(ウェリントンの勝利、あるいはヴィットリアの戦い)』。

2017年03月29日 23時27分42秒 |   歴史音楽の部屋


変な動画を見つけてしまったので思わず日記。
偉大なる聖ベートーヴェンが自身の渾身たる9作の交響曲のうち、最も自信ある作品として挙げていたのが珍品の『戦争交響曲』だった、というのは有名なはなしですが、その戦争交響曲を実際の軍楽隊の行進の中で演奏してしまったらどうなるかという、逆に「なんで今までなかったのか」という動画です。

私の長らくの愛聴版は1969年のカラヤン版なので、聞き比べてみてくださいね。わたくしはカラヤンは嫌いな人ではない。



戦争交響曲は明らかに愚作ですが、音楽史において、ショスタコーヴィチの3曲の「戦争交響曲」とプロコフィエフの3曲の「戦争ソナタ」に結びついたという点においては、決して無為だったというわけではないのですよね。ついでに言うと、私は愚者なので、ベートーヴェンの戦争交響曲が死にたくなるくらい大好きです。カラヤン盤で[12:41]のところから、「12分頑張ったからその分充分なパワーがもらえるよっ」と変な興奮感を覚えるのです。

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毛玉風情が。

2017年03月25日 20時02分44秒 | 今週の気になる人


(これは予告記事です)

天狗アニメの傑作に『有頂天家族』(2013年)というのがあったのですが、DVDを揃えようと思っても市場では長らく高値で売られておられてなかなか買えず、忸怩たる思いをしておりました。それが格安のブルーレイボックスが3月24日に発売されることになり、「ぜひ買おう」と思っていたところに、加入していたDアニメストア(月額400円でガンダム見放題)で2月ぐらいに配信が始まってしまい、どうしようかどうか非常に迷ってしまった。調べてみたら、4月9日から第2期アニメ『二代目の帰朝』が始まるから、そのキャンペーン上での大判振る舞いなのですね。
でも結局、天狗愛好家としてはブルーレイで持っとるべきですよな、と思い直して購入を決意しました。(さっき届いた)。定価18000円(税別)ですが、私はアマゾン価格で14457円(税込)の格安で購入しましたよ!(と有頂天になっていたら、今日のアマゾン価格はそれより800円ぐらい安い。アマゾンは発売前注文よりも発売日に注文するのが吉なのですね)

というわけで、4月の春休みには私は京都(と近江)へ天狗旅行に行きます!
「毎月伊豆に行きたい」と言っていたのはなんなんだと自分に言いたくもなりますが、別にいいじゃないか京都も広義の意味では伊豆なのですから(・・・などと意味不明の供述をいたしており)

バンダイチャンネルでは有頂天家族の第一話だけ視聴無料だそうなので、ぜひみてみてください。京都へ行きたくなりますよ。寺社と街並みの描写がキレイ!
このアニメの主人公は如意ヶ嶽薬師坊という伝説的な大天狗なのです。その堕落、失墜と高慢と好色と清覧と失意と最低と低迷と再生の琵琶湖疎水的な物語。極めて良く出来た天狗の物語です。脇役で手下として小活躍する下賀茂弥三郎坊というやつが善人な好人物すぎておっさんな私は涙が出る。如意ヶ嶽薬師坊という天狗は天狗経の大日本四十八天狗の栄光あるひとりなのですけど、伝わっているエピソードはあまりなく、名のみ高い大天狗という地位を恣にしてきました。(48天狗のほぼ半数が同様ですが) その如意ヶ嶽薬師坊を、ここまで魅力ある人物に造形したというのが、このアニメの功績です。そのアニメの如意ヶ嶽薬師坊は天狗の理想像そのままです。高慢でプライド高く、無様なのに誰よりも高く空を飛ぶ。このアニメを観て「如意ヶ嶽に行ってみねば」と思ったけど、どうせ行っても何も無いと分かっているから気が楽だ。(無名な大天狗様なのです) 余裕があれば隠居して2代目に譲った金光坊様のいる岩屋山にも行ってみたいと思っています。(こっちの方が見るべきものがあると『圖聚天狗列伝』に悪口が書いてあります)

  (※参考)
  ★日本の大天狗の地図
  ★西日本の天狗の地図
  ★東日本の天狗の地図
  ★魅惑的な遠州の天狗の地図
  未だすべての地図が未完成なのですけど、30年計画で死ぬまでに充実させるつもり。




ああ、早く記事を書かないと『有頂天家族』のアニメの第2期目の放送が始まってしまう!
このアニメは素晴らしい天狗アニメなのですが、登場人物の中で一番恐ろしい天狗は「弁天さん」という名前の女性。でも彼女はずっと自分を「人間」だと言い張っていて(空飛べるくせに)、上の画像は、のちに恐ろしい鬼女となる彼女がまだ可愛い乙女(鈴木聡美と名乗っていた)だったころの描写。
(※如意ヶ嶽と琵琶湖旅行は4月の6・7日に行きました)



彼女は琵琶湖湖畔を通学途中に歩いているところを、まだ髪が黒々としていた頃の如意ヶ嶽薬師坊に見つかって懸想されて攫われてしまうのですが、描写的にこれは昭和40年代前半頃かな。(おそらく彼女の失踪は北朝鮮による誘拐と考えられたに違いありません。年代的に)
でも、おそらく対岸は雄琴か堅田の町だと思われますが、その時代にそんな近代的なビルが林立していたでしょうか?
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鬼が哭く山に赤子の泣く犬。

2017年03月25日 00時00分00秒 | 伊豆の歴史


3月の6日・7日に行った伊豆旅行の日記の続きです。ようやく最終回。
(前回までのあらすじ
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ブリジストーン。

2017年03月24日 18時05分33秒 |   源頼朝

道了尊の足はこうやってお狐さまに固定されてるんですよ。この蛇はどこから生えてるんでしょう? 道了様の足にも青スジが立っていることを見ると、狐と狗賓の共同作業で生やしているのかもしれない。


3月の6日・7日に行った伊豆旅行の日記の続きです。(前回のあらすじ



石橋山の遠景をぜひ写真に撮りたいと昔から思っているのですけど、この辺りは運転上の難所(思わずスピードを出しすぎる)ので撮れたことがないのです。いつも帰ってきてから後悔するんですけど、また来たいなー。この付近の道路は運転していてめちゃくちゃ楽しいんですよね。

★『源平盛衰記』(巻二十<禰の巻>)より。
(八牧夜討から13日が経った)8月22日には、兵衛佐(頼朝)北条佐々木を先手として、伊豆と相模の2ヶ国で頼朝に心を寄せる300余騎を引き連れて、早川尻に陣を張った。しかし早川党(だれ?)が進み出て言った。ここはいくさ場にはよくありません。湯本の方から敵が山を越えて簡単にうしろに回れるから、包囲されてしまったら大変です。一人も逃げられないでしょう。だから頼朝は米噛・石橋という所まで引いた。そこで山の上の方の腰に垣楯をかき、下の大道を切って塞いで引籠った。
これを聞いた大場三郎景親は、武蔵と相模の勢を招集し、弟の俣野五郎景尚、長尾新五、長尾新六、八木下五郎、漢揚五郎など鎌倉党は全員が大場の側につき、海老名源八権頭季定、その息子・荻野五郎季重、荻野彦太郎、荻野小太郎、河村三郎能秀、曽我太郎祐信、佐々木五郎義清、渋谷庄司重国、山内滝口三郎経俊、滝口四郎、稲毛三郎重成、久下権頭直光、その子・次郎実光、熊谷次郎直実、岡部六弥太忠澄、浅間三郎、広瀬太郎、笠間三郎をはじめとした300余騎が家子郎等を動員して総勢3000余騎。8月23日の辰時(=午前8時頃)には大場三郎景親を大将軍として、3000で石橋の城に押し寄せ、谷を前に隔て、海を後にしたところに陣取った。
落日が西山に傾く頃(それまで何をしていたのか)、稲毛三郎重成が進み出て言った。「日は既に暮れた。夜のいくさは敵味方が見え難くなるから決戦は明日だな」。しかし大場は言った。「明日まで待てぬぞ。明日には敵は大軍となる。うしろから三浦の者たちが来るからな。前と後ろを同時に防禦するのはただでも大変なうえに、ここは道が狭く足元が悪い。小勢な今のうちに佐殿を追い落し、明日は全力で三浦と勝負すべきだ」。これを聞いた皆が「そうだそうだ」と同調し、三千余騎が声を揃え時を造った。佐殿の側も応じて鳴矢を射通し、それに山神が答えたので、敵も味方もきわめて大軍のようだった。
大場が進み出て両軍の前に弓杖を突き立て、鐙蹈張立を上げて言上を言った。「平家は桓武帝の御苗裔である。葛原親王の御後胤として代々将軍位を蒙り、古から朝家の御守であった。天下の逆乱を解決し海内の賊徒を鎮圧し、武勇の名で他に勝るものは無い。弓矢の誉が当家の伝だ。特に太政入道殿(=平清盛)は、保元平治の凶賊を鎮治してより公家の重臣として太政大臣の位にある。子も孫もみな朝家の重官におわす。その平家の治世をいったい誰が軽しめるのか。南海西海の鱗に至るまで平家の威は届いている。東国北国の誰もが平家の意を奉るのだ。ここに今、ステキでステキな平家に対して合戦をしてみようなどと企てた者は誰か、言ってみよ! おそらくは竜車に向かって蟷螂の斧を振り上げる虫の如き者だろうがな! 名を言って見よ」
すると北条四郎(=時政)が歩み出して声を張り上げた。「お前は知らんだろうがな、わが君は清和天皇第六皇子、貞純親王の御子、六孫王より七代の後胤、八幡殿の四代の御孫、前の右兵衛権佐殿なのだ! 傍若無人の景親が申すことは尾籠だな! 平家は悪行が身に余って、朝威を蔑にしている。早急にかの一門を追討して逆鱗を休ませよという院宣が太政法皇(=後白河法皇)より下されているのだ。ここの御旗の頭に挟んである錦の袋に入っているのがそれだぞよ。よく拝むがよい。されば佐殿こそニッポンの大将軍であるぞよ。平家こそ今は朝家の賊徒よ。綸言を賜ったからにはすぐさま戮誅するしかない。その家人と称する輩とその党類を追討して後、花の都に上り、われわれは逆臣を誅す。景親よ、ただちに聞け! 故・八幡殿が奥州の貞任宗任をお攻めになって以来、東国の者は代々源氏の御家人である。お前の父祖もそうだったではないか。馬に乗りながら詳しく子細を話すのもおかしなことだ。後の事もよくよく考えるが良い。佐殿の御伴には時政父子全員と佐々木太郎定綱兄弟四人、加藤太光胤兄弟と、沢六郎、近藤七、新田七郎父子、城平太、小中太、公藤介父子、土肥次郎父子、新開荒太郎、土屋三郎、岡崎四郎とその子与一、懐島豊田次郎などが付き随っている。そのほかにも院宣や御教書を受け取った者が、夜を日に継いで馳せ参っておるぞ。王事は平家に崩されるほど脆くはない。八虎の凶徒に荷担して後悔するな。急いで甲を脱ぎ手を合わせて降参せよ」
それを聞いて大場は言った。「むかし八幡殿の後三年の軍に御伴して出羽国仙北の金沢城を攻めたとき、16歳にして先陣を承り、右の目を射られながら反撃し、敵を討ち捕りて名を後代に残した鎌倉権五郎景政の末葉・大場三郎景親を大将軍として、その兄弟親類已下3000余騎がここにいるのだ。お前たちはそれ程の大事を思い立ちながら、ずいぶん数が少ないではないか。誰がついて行くかは知らんが、逃げた方がいいぞ。命ばかりは助けてあげよう」。北条はまた言った。「景親の先祖のことはよく知っている。いかに口は口、心は心というが、お前の一族が三代仕えてきた主君になぜ背くのか。忠臣は二君に仕えずというではないか。そのうえ十善帝王の院宣に向かって弓矢を放たんとは、死んだ後の冥加もおぼつかなくなってしまうよ。勅命に背くは剣の上を歩くが如しという。そんなことすべきではない。早く降参しなされ」。大場は重ねて言った。「源氏の先祖は誠に主君だった。しかし昔は昔、今は今。恩こそ主よ。源氏が朝敵と成り給うたあと、わたしは身の置き所がなかった。それ以降、景親が平家の御恩を蒙ることは海よりも深く山よりも高い。恩は木石なり。どうして世になき昔の主君を懐かしがって今の恩を忘れられるか。勇士は諂(てん)の如し。ただいまより全力でもってお前たちを追い落としてくれよう」。そう言うと三千余騎が我も我もと勇めき合った。北条はまた言った。「欲は身を失うというが、まさに大場のことだな。一旦の恩に耽れて重代の主を捨てようとするとは。弓矢を取る身は軽々しいことはせぬべきで、生きても死んでも名こそ惜しむものだ。景親よ、権五郎景政の末葉と名乗りながら先祖の首に血をあやす、欲が深すぎて武士ではなくなったな」。
大場の言うことも北条の言うことも道理にかなっていたので、一同は一斉にどっと笑った」

・・・なんか、昔の戦いって面白いなあ。
800年前のこの掛け合いが、地図で見ても容易に脳内で臨場感もって映像として再現できそうな地形なのが、これまた面白い。



この付近の山(石橋山程度の小さな山)の名前を知りたいんですけど、私は全然資料を持ってない。
石橋山古戦場にも10年前に行ったことありますけど、「どうやってあそこに行くの?」と叫んでしまいたくなるようなところにあります。



前回には見た記憶の無い立派な駐車場がありました。(「平成二十一年十二月吉日建立」と書いてあります。)



真田だけど「六文銭」ではなくて「三両引き」でした。三両引きは「三浦氏」の紋ですって。(※佐奈田与一義忠は岡崎四郎義実の長男で、岡崎四郎義実は三浦介義継の末子(4男?))



駐車場のすぐ下に「古戦場」の碑があるのですが、そのすぐそばに「石橋山古戦場 200m」の看板があります。ここじゃないのかい。





付近は急斜面にたくさんの果樹園と数軒の民家が建っているような、道ばかりがぐねぐねしている集落で、曇天でなければおそらく相模湾の景色が抜群に良いだろう。急斜面にはいろいろな種類の果物と、意外にたくさんの花が咲いています。200m歩くと真田が死んだ「ねじり畑」があり、そこから「佐奈田霊社」の方にのぼっていく石段があるのですが、地図によるとこの石段のことを古戦場という(らしい)。



佐奈田霊社への石段。急な傾斜に石碑と石仏が豊富です。



ねじり畑。ねじれているかどうかは実は良くわかんない。



すぐそばに「文三堂」。ねじり畑を見下ろす小高い丘の上にあります。
真田与一義忠の忠臣、豊三家康はこんな近くにありながら、与一の窮地に駆けつけることができなかったんですよね。「豊三」は「ぶんざ」とよむのだそうです。(どういう意味だろう) 豊三は「文三」ともいうのですが、彼の名字は伝わっておらず、おそらく岡崎家ゆかりの家康なのでしょうが、戦いの最中にも敵の稲毛三郎重成から温かい言葉をかけられていることからも分かるように(しかし彼はそれを断り8人を道連れにして死ぬのですが)、土肥次郎をはじめとする中村党はともかく、三浦党と鎌倉党はこの戦いが始まるまでは、とても仲の良い同士で親しい顔見知りだったんだろうな、と思います。25歳の真田の家来が58歳の家康で、真田と家康は固い絆で結ばれていて一緒に死んだ、というのが泣けますね。(※『源平盛衰記』では真田与一義忠は「佐奈田與一義貞」、豊三家康は「文三家安」、岡崎四郎義実は「岡崎悪四郎義真」ですけど)。なお、相模の真田家は信州の真田家とは全く縁もゆかりもないそうです。与一には2人の子供がいたと書かれているのですが、子供たちが真田を名乗ったかどうかは不明です。





文三堂のまわりにも独特な顔立ちをした石仏がいっぱいあって、元治とか文久とかの年号が彫り込まれています。



うすぐらくてよく見えませんが、家康の墓石を覆う鞘堂のような感じで、家康公の肖像画が幾点か飾られている。そして墓石の前には不自然に広いスペースがあって、何かの決起集会でも開けそうな感じですね。

ねじり畑から階段を上って「佐奈田霊社」へ。





「与一塚」。
この下に佐奈田神の御遺体が埋められています。



こんな変な場所に祀られている小神社なのに、随所がやたら豪華です。ただの地神ではない感じ。ここも六文銭ではない(しつこい)。どんな人に崇拝されているんでしょうね。一般に佐奈田霊社は「せき・たん・ぜんそくの神様」と言われていて、私は酷い喘息持ちなので、だから今回も訪れたのですけど、(前回来たとき売り場?にいたおばちゃんがせきによく効くという「真田飴」をタダでくれたんですが、「真田紐」は売ってませんでした(しつこい)。今回は大雨だったので、おばちゃんもおらず、真田飴も買えませんでした)、見回すと、せきとかぜんそくより、「消防」とか「警察」とか「左官」とか、そういう関係の碑が多いような。(いろんな碑がやたら多いです)。「小田原一聲會」というのは小田原の鳶職人たちの木遣歌の保存会?だそうです。





中には「そろばんの碑」も。なんで?



独特な顔立ちの、“豚鼻の”狛犬。





別角度から。



世にも珍しい。子供が背中にいる、背負い狛犬なのです。



あいにくの雨天で。目の前に海があるのに、写真では真っしろです。


そこから、湯河原五所神社を経て湯河原温泉郷へ。




本日の宿は「旅館 魚判」さんです。



干物屋さんに併設された旅館です。
お魚がとてもおいしそうで、だから決めたのです。

前々日にじゃらんで予約したのですけど、なぜか私が予約したのは、「朝はゆっくり眠れる夕食のみの朝食無しプラン」(15150円)でした。でも、よりによって干物の宿でアジの開きの朝食無しなんてありえないでしょうが。(普段の私は朝食なんて食べませんが)。チェックインの時、朝食の追加をお願いしました。(+2000円ぐらいだそうです)。だったらなんで朝食無しのプランで予約したんだって話ですけどね。(たぶん2日前の予約だったから、そのプラン以外の選択肢が無かったんだと思う。たぶん)

最近の私は、旅行に行ったときの食事の後の居酒屋巡りも趣味にしておりますので、チェックインをしてから(16時半ぐらい)付近をぶらりとしてみました。ところがなんと! 付近には一軒も居酒屋が無いじゃありませんか!
湯河原って町は極めて変な地形の町でして、海岸付近は施設が密集していて、少し内地に入った湯河原駅付近もとても繁華していてわが旧浜北市(じんこう8まんにん)よりも囂しく、「なんでこの町は市じゃなくてただの下足柄郡湯河原町なんだろう?」と思うほどで、駅の周辺には飲み屋もおびただしかったのですけど、実は湯河原町は東西に長くて温泉街は奥の奥の方にあり、私の宿から湯河原駅は歩いて行ける距離には無かったのでした。なんで!?
湯河原では高い宿ほど奥の方にあるという傾向にあります。隠れ宿ほど高級なのだなあ。私の宿は決して高い方では無かったのでしたが、それでも繁華街には歩いて行けない。

ひとっぷろあびてお待ちかねのお食事です。



おお、いきなりお刺身が美味しい。さすが湯河原です。



縞鰺、真鯛、間八、伊佐木だそうです。
私は縞鰺が世界一好き。真鯛も世界一好き。ただ、量は少ない。(ふつうだが)
どうせこのあと一人二次会へは行けないことはわかっているので、この時点で追加料理「サザエの壺焼き」(100g648円)と「カワハギの刺身」(100gあたり1080円、1匹は大体200g)を注文しました。





先付は玉子焼きとタケノコのゼリー寄せですって。



ひきあげゆば。



里芋の天ぷらのあんかけ。



ぶりの照り焼きとキンカン。



お椀。


ブイヤベース。写真じゃ見えないけど、下にハマグリが入っています。



酢の物(タケノコとキクラゲ)。



締めのご飯。

総じて、野卑なわたくしなどにはとうてい似合わない、とても手の込められた、とても美味しいお料理の数々でした。やっぱり湯河原はお魚がおいしいから一緒に食べるなにものかもがおいしくなるな。

以下は追加のお料理。(結構序盤に出ました)



ああうまい。どうして私は1つしか頼まなかったのか!



カワハギ。



透き通ってる!





これがなかなか醤油に溶けなくて。(溶かすもんじゃないのか)

皮剝って本当においしい。あとで領収書の明細を見たら、1200円でした。標準サイズは200gだそうなので、これは標準サイズより小さかったのですね。浜名湖にもカワハギはたくさんいるはずなのに、どうして気賀でカワハギの刺身を食べられるお店は無いのでしょうか。(舞阪にはありそうですが)





日本酒も2合ぐらい飲んだ(「丹沢山」(神奈川)と「地上の星」(新潟))。

担当してくださったお姉様がそれはそれは愉快な方で、とても心地良かった。(息子さんが私と同じくらいですって)。このあと飲みに行ける所は無いか尋ねたところ、やっぱり宿の目の前のラーメン屋ぐらいしかないとのこと。うーーむラーメンかー。私も決してラーメンは嫌いな方じゃないんですけど、酔っ払ってるときに食べたくは無いなぁ~。うーん、でももうちょっと飲みたいなぁ~、どうしよっかなあ~、行こっかな~、行きたいなぁ~、ぎょーざでも食べちゃおっかなあ~~、などとウジウジしているうちに寝てしまい(結局行かなかった)、何度か起きて温泉に3回ぐらい入り、ダラダラしているうちに朝になっていました。温泉宿って最高!

朝ご飯です。



なんと、これ以上無いくらいに正統派。



熱望していたアジの開きも、滅茶苦茶理想的。やっぱり港町で食べるアジが世界一うまいんですね。



小田原と言ったら蒲鉾。伊豆と言ったら山葵漬け。不自然に皿にスペースが開いていたので「まだなにか乗るのか?」と思ったらこのままでした。配置的に山葵漬けが主役で蒲鉾は従者なのだろうな。でも一人暮らししていると蒲鉾って意外と食べなくなるもので、うまいカマボコなんて久しぶりに食ったのでとても新鮮でした。ボコ、うまいなあ。



ゴールデンオレンジ(黄金柑)。
柑橘王国伊豆の中でも、ゴールデンオレンジって小田原・湯河原・沼津あたりの名物なんですって。私は果物ってあんまり食べないので、そんな名前のものがあることも知りませんでしたよ。「ミカンって全部ゴールデンじゃん」って。

このお宿はもっともっと魚をメインにした宿泊プランが他にあるそうなので、また来たいです。
さて、今日の予定はせっかく湯河原に来たし、真鶴か岩の方で時間を潰そうと考えていたのですが、お姉様がやけに「湯河原梅園」をオススメしていたので気が変わって、そっちの方へ行くことにしました。



「幕山」の「梅園」。今年は全体的に花の盛りが遅くて、ちょうど見頃が過ぎ去った頃だったそうです。
昨日の大雨がウソかのような晴天。
・・・うーーむ、私、この山のこの梅園、何年も前に見に来たことがありますな(忘れていた)。

「幕山」という山の名の由来は、源頼朝がここで幕府を開くことを決意したから、、、 ではなくて、切り立った岩肌が何ヶ所かにあって、それを遠目に見ると岩肌の切り立ち具合がちょうど「幕を張ったように見える」から、だそうです。「ばくざん」ではなくて「まくざん」。「土肥の城山」とも混同しやすいので注意が必要なのですが(別の山)、決してこの幕山と幕府は関係ないと思うんですけど、湯河原では「幕岩は伊豆半島一の開幕パワースポット」とされている。



これ、五所神社にもありましたけど、「幕岩と一緒に写真を撮る」と頼朝(もしくは政子妃の)幕府パワーを頭から浴びられるのだそうです。
「頼朝主従に次々と危機が襲ってきた山中では、土肥の大杉、小道地蔵(頼朝寺)、しとどの窟、自鑑水、立石、兜石、、、 などで危機を乗り切り、「頼朝開運街道」と呼ばれています。その奇跡を起こしたのは、街道を支える幕山の岸壁「幕岩」です。柱状節理で大地のエネルギーを直接受けられるスピリチュアルスポット。力強い愛情パワーを深呼吸して取り入れましょう!」
ありがたやありがたや。

梅の見頃は最終盤だとはいえ人が一杯で、でもその人々は大きく分けて「梅を見に来た人」「岸壁でロッククライミングをする人」「山頂を目指す山登り・ハイカーの人」の三種類に分かれていたのが面白かった。私はきのうは見えなかった青い青い相模湾を綺麗な所から眺めたく思い、けっこう上の方まで登ったのですけど結局見られず、汗だくになって引き返してきました。

「小道地蔵(頼朝寺)」って行ったことないですね。どこにあるんですかね。(宿に置いてあった観光ガイドには書いてあった気もする)。伊豆で頼朝探しをするときには抜群の効力を発する静岡県田方地区文化財保護審議委員等連絡協議会編の『伊豆の頼朝~史蹟と伝説~』(昭和54年)ですけど、湯河原と真鶴と石橋山の史蹟についてはまったく何も載っていないのです。なぜならそこは静岡県ではないからです。どこかで適当な本は売ってないでしょうか。

さて、そこから相模湾を眺める絶好スポットを捜すために、南下して伊豆山を目指します。
伊豆山神社と走り湯に寄ろうと思ってたんですけどうっかり通り過ぎてしまい、伊豆山の細い道路では容易に引き返すことが出来なかったので、しかたなくMOA美術館を目指すことにしました。あそこなせ景色が良いに違いない。

若い頃の私がどのくらい美術が好きだったのか分かんないんですけど、(高校と大学生だった時分はずっと美術部でしたヨ)、MOA美術館はまだ行ったことがありませんでした。なんだよMOAって。(Museum of Artの略だそうです。つまり美術の博物館の美術館かい。ああくどい)。それが最近10年くらい「行かねば」と思っていたのは、有名な源頼政の肖像画がMOA美術館蔵だと知ったから。


<MOA美術館蔵 源頼政像>(ウィキペディアより拝借)

ドキドキしながら館内を巡ったのですけど、結論を言うと源頼政の絵は飾られていませんでした。ええいっ、1600円返せぃっ。
でも有名な西行法師の絵はあったので、良しとしましょう。よかったよかった。



MOA美術館は何が凄いのかといったら、全部写真撮影自由なところです。(珍しいと思う)
そして館内は異様なほど広く、そして展示方法がとてつもなく贅沢なところです。
なんでこんなスペースにこんな余裕を使っているのだ。もっときっちきっちに詰めれば、この10倍の物を飾れるだろうに。いや、もっと普通に詰めて飾れば、この10分の一のスペースで済んで歩くのに疲れずに済むのに。(と貧乏性の私は思うのでした)

貴重な物ばかりがずらりと並んでいるのですけど、無粋な私は心が疲れてしまって、「あれ? そもそも私ってアートって好きなんだっけ?」になどと自分の存在にも疑念を考えたりもしてしまったりするのでした。

とはいえ、興味深い物もたくさんあって、
一番感慨深かったのは無準師範の書!



無準師範(ぶじゅんしはん)は静岡の大聖者である聖一国師(しょういちこくし=40年前の静岡県人は小学生のときに必ずこの人の伝記を習ったものだ。現在はどうなんでしょう?茶と麺類の神さま)の中国の先生で、日本には来たことがなかったはずですが、日本には多大な影響を及ぼした人です。



ほら、やっぱりMOA美術館から見下ろす相模湾が最高だった!!




(・・・もう少しだけ続くのじゃよ)
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そして太郎がそこにいる。

2017年03月07日 23時35分18秒 | 伊豆の歴史


3ヵ月半ぶりに連休をもらったので、久しぶりに伊豆に帰ってきました。
やれやれだぜ。もっと頻繁に伊豆に行きたいのにな。

前回(11/16~17)の行き先は西伊豆・松崎だったので(※この日記には記事を書いてない)、今回は東の方です。朝7時に家を出て、新東名を使って三島・長泉で降り、まず最初に向かったのは箱根と小田原です。(わたくしの勝手な定義では箱根は伊豆の一部です)

まず向かったのは、箱根と小田原の境目辺りにある「秋葉山量覚院」。



ほら、あんなところに立派な天狗様が!



このお寺に行きたいと思ったのは、2014年に田村貞雄氏の『秋葉信仰の新研究』(岩田書院)という素晴らしい御本を買ったから。「小田原の量覚院には秋葉の火祭りの最も古い形が保存されている」と書かれている。

秋葉山三尺坊を調べるのに欠かせない本に、雄山閣出版の民衆宗教叢書31巻『秋葉信仰』(1998)がありましてこれはいろんな人が秋葉を語った論文をまとめてあって図書館で読むととても便利な広範な本なのですが、現在は絶版で古本価格は非常に高価でとても私には買えない。
その監修者である田村氏が15年を経て新たな研究成果を示してくださったのが本書。田村氏は昭和12年生まれ(80歳)だそうで、ネット上で読める文章を見るととても偏屈な方のような印象を受けるのですが、一方でとても公平な方で、氏の論文のほとんどはネット上で公開されている。『秋葉信仰の新研究』の文章のほとんどもネット上で読める。(と思ったら小田原の量覚院の火祭りに関する当該の記述を簡単に見つけることができなくなっていますが)、でもこの本は秋葉山天狗の愛好家は是非とも買っておく本だと思います。
とりわけ私は、江戸時代後期の秋里籬嶌による人気図書『東海道名所図絵』(寛政9年)とそれに次ぐ藤長庚の『遠江古蹟圖繪』(享和3年)に「秋葉権現は小国神社の祭神と同じ(=オオナムチ=大國主命)」と書いてあって単純に「へぇ~そうなんだぁ~」と思っていたのが、田村氏が明快に「そんなわけあるか、秋葉山大権現は秋葉山大権現だ」と論証していたのにとても衝撃を受けた。内山真龍の『遠江風土記伝』(寛政元年)の意味の分からない「秋葉権現=岐気保神」説にも明快な解答をくださってる。

「秋葉山三尺坊というぐらいだから秋葉山にいるんだろう」と安易に思うことが出来ないのがこの問題の大変な所でございまして、端的に言えば遠州秋葉山山頂の秋葉神社には現在は秋葉山三尺坊はいない。公式には明治に袋井市の可睡斎に三尺坊が移ったことになっているが、古くは寛保3年(1743年)に越後の楡原蔵王堂との間に「秋葉山三尺坊は越後の天狗か? 遠江の天狗か?」を裁判で争った「天狗問答」があり、(この時は寺社奉行・山名因幡守豊郷により「遠州は三尺坊の根元越後は三尺坊の根本、そして江戸は三尺の太さの大根足」という「三尺一方損」の判決が下されました。これはこのころ大岡越前も寺社奉行のひとりだったので、彼の入れ知恵があったと思われます)、逆にそれに先立つ元文5年(1740年)にも越後系の系譜を引く江戸の瑞雲寺が勝手に秋葉山三尺坊を売り出したことに、遠江側が訴えを出したことが大岡越前の日記に書かれているそうです。
「三尺坊の出生地」も3説があるそうです。(北信濃の木島平/戸隠山の宿坊岸本/伊那郡箕輪町松島)
徳川家康がやってくる以前は天野氏が秋葉山の神事をつかさどっていたものだと思われ、その「原・秋葉信仰」がどういうものだったかはよく分かっていないのですが、天野氏を家康の元に帰参させることに功のあった武蔵国出身の修験者・茂林光播(叶坊)が永禄12年(1569年)に家康によって秋葉山の別当に任じられ、翌年(元亀元年)に家康の使者として赴いた越後国から飯綱信仰を持ち帰ってきて、秋葉山の三尺坊と組み合わせます。家康は叶坊に「秋葉山のことは天野宮内右衛門尉(景貫)とよく相談してうまく運営するように」という命令をするのですけど、元亀3年には早くも天野景貫(藤秀)は家康に対して反逆の動きを見せ始め、叶坊光播も天正7年に亡くなってしまったので、秋葉山の運営は袋井可睡斎の影響の下におこなられることになります。(これが明治になって三尺坊が可睡斎の物になってしまった根拠)。
天正7年(1579年)に徳川による最後の犬居攻略戦が行われ、天野景貫は武田領に退去します。攻防の年間にずっと徳川方の司令官であった大久保忠世が二俣城の城主となり、犬居領もその支配下に組み込まれます。天野景貫(藤秀)は逃げる時に秋葉信仰の大事な何かを一緒に持ち去っていたようで、長い間武田の人質として甲斐にいた景貫の次男・天野小四郎(天野小四郎は天野景貫本人だという説もある)、穴山梅雪支配下の駿河国清水湊に新しい秋葉権現社(峰本院)を作ります。ここには遠州秋葉山では失われてしまった何かが今でも受け継がれているようだ。
一方で、秋葉山を支配するようになった大久保忠世も秋葉山にまだ残っていた何かを接収したようで、天正18年(1590年)に豊臣秀吉によって関東国替えがあったとき、小田原城主に任じられた忠世は三尺坊を小田原に持っていくことに決め、配下の一月坊という人物を使って箱根と小田原の境目に秋葉山量覚院を作る。この量覚院に、天正の頃の最も古い秋葉の火祭りの形が残ってるんだと。(小田原の秋葉山は遠州の秋葉山には無い「白山の泰澄伝説」を伝えている)
要は、現在は遠州の秋葉山は秋葉神社と秋葉寺に分かれてしまっているから、12月の15日と16日におこなわれる《火祭り》では両者全然違う火祭り(秋葉神社では《剣舞》、秋葉寺では《火渡り》)をおこなってるんですけど、小田原の量覚院では両者を組み合わせた独特な儀式をおこなってるんですって。

ユウチューブより動画。


ただ、小田原の火祭りは12月15日ではなくて、12月6日におこなわれるという。
どちらにせよ今は3月なので今来たって何も見るものは無いのでいけど、いいもん。



小田原のこのあたりの1号線以外の道路を走るのは初めてなのですけど、凄いな。道路が狭い! 車2台がすれ違うのも難しい道路に、みなさんどんどん突っ込んでくる。地図を見ながらだとすぐそこにあるのに、入り組んだ住宅地のせいでどうやって行くのかわかんない。とても苦労して、お寺の前まで来ました。
最初社務所かと思った小さな建物が、量覚院の本体なんですって。同じ敷地の高い所には秋葉山神社があり、また隣接して「クレヨンの森保育園」がある。同じ敷地なので「量覚院が経営している保育園?」と思ったのですけど、保育園には宗教的なにおいはほとんどない。(しかし量覚院の目の前まで子供たちの遊ぶ領域が広がっています) 小さい頃からあんな立派な天狗面を目にして育ったら、天狗教育的には素晴らしいだろうな。



秋葉山神社と並んで「聖天尊堂」もあります。左側の白い建物が秋葉山神社なのですが、「大徳山」と書いてある。
住宅街の中にあるのに静寂ですね。
火祭りは保育園前の広場でおこなうのかしらね。
すぐ近くに「大久保一族墓地」というのと「大久保神社」っていうのがあるんですけど、大久保氏を祀っているんですかね。すごく好きな小説に宮本昌孝の『家康、死す』というのがあって、その小説では大久保一族が影の黒幕として書かれてあってとても怖いのですけど、宮城谷昌光の『新三河物語』では大久保一族(の大久保彦左衛門)が主役なんですよね。そういえばわたくし、『新三河物語』、最後まで読んでないや。(中巻がどこかへいってしまったから)




続いて向かいましたのは大雄山です。



足柄の道了尊には10年前に一度行ったことがありますね。

10年前の私がどうして小田原の北の方に行ったのか、そのきっかけをまったく覚えてないのですけど、その頃の私はまだ伊豆に住んでいました。伊豆の各地の伝説に多大な興味を示してはいましたが、決して天狗は私にとって特別な存在ではありませんでしたよね。そもそも伊豆には天狗は比較的少ないのです。この少し前に三井寺に行って天狗杉を見たのですけど、2007年12月に最乗寺に行ってそこで道了尊の伝説を学んだとき、あの杉こそが道了尊が飛び立ったという伝説の記念の松だったということを聞いて、「そうだったか、そういえばその杉見たぞ、写真に撮っておけば良かった」と思った記憶がある。そもそもその直前に三井寺に行ったのは、源頼政と円珍を見に行きたかったからで、三井寺にしんしんと雪が降っていたのは記憶にあるけど、オカルト的なことは賴豪・鉄鼠の伝説に涙を流した記憶しか無いんですよね。でもしかし、最乗寺の御真殿の中にあった2体の巨大天狗像(@禁写真撮影)のことはとても印象に残ってますので、もしかしたら10年前のこの最乗寺行が現在の私の天狗狂の契機なのかもしれませんね。(全然よく覚えてないが)



結界門。結界されている。
この日は小雨が降って霧が立ちこめており、とても夢幻な雰囲気でした。
(でも参拝者はなかなかいた)

簡単にまとめます。
このお寺の開創は室町時代の応永元年(1394年)。
開山は了庵慧明といって、相模国の古豪・糟谷氏の出身で建長寺(鎌倉)→総持寺(能登)→永沢寺(丹後)→総寧寺(近江)→龍泉寺(越前)→総持寺(能登)と修行を重ねましたが、58歳の時(応永元年)に故郷に帰ってきて、上曽我の竺土寺に住み始めます。ある日、袈裟を洗濯して外に干しておいたところ、大鷲が舞い降りて袈裟を攫い飛んで行ってしまいます。「このやろう」と和尚がかんかんになって鷲を追いかけていくと、鷲はある老松の梢にその袈裟を掛けて、どこかに飛んで行ってしまった。禅師がほっとしてあたりを見回すと、その山(明神ヶ岳)は岩々が峨々として景色が非常に素晴らしく、まるでもろこしの大雄山に似ているようだと老師は思ったので、ここに新しい自分のお寺を建てることに決めたのでした。すると、大山明神と飯沢明神(南足柄神社)、矢倉明神(足柄神社)が眼の前に現れて造営を手伝いはじめ、さらに遠く近江の国の三井寺でそれなりの地位にあった妙覚道了という人が実は若いころ慧明禅師にかなりの恩を受けていたそうで、大雄山の開山を聞いてぜひ役に立ちたいと思い、「とうっ」と言って突如天狗の姿となり、三井寺から飛び立って東の方へ行ってしまったという。相模の人たちはどこかからやってきた妙覚道了が三井寺の偉い坊様だなんて知らなかったから、「やけに力持ちの坊さんが来たな」ぐらいにしか思っていなかったし実際に小坊主の如く慧明禅師の脇に付き従っていたが、見事お寺が建って17年後に慧明禅師が示寂すると、道了尊者は「これにて我と師の縁は果てた。以後は我は明神ヶ岳の頂から護山として寺を守護しよう」と叫んで、天狗の姿になって飛んでいってしまう。
(このとき道了は翼を生やしてばっさばっさと飛んでいったのだが、260年後に道了尊は見事羽を落として羽無しで飛べるようになったという伝説があるのだ、と、全国の山とまつわる各種伝説の生き字引であるとよだ時さんに教えていただいたのですよね)

現在はこのお寺は山名よりも天狗の名前を愛称として呼ばれることが多いのですけど、実はお寺の中で一番のパワースポットは、天狗のおわす奥の神域じゃなくて、突然現れたイタズラ好きの大鷲が坊主の袈裟をひっつかんで吊したという“袈裟懸けの松”なのです。この鷲は特に天狗だとは語られてはいない。(松は寺の入り口にあたる仁王門と山門の間にある。)
が、よくよく本を読んでみますと、「恩ある師がお寺を建てていると聞いて「自分も手伝おう」と思って天狗に化って飛び立った」道了が三井寺からいなくなったのは、三井寺にある記録によると(あるんですね記録が)、明徳4年(1393年)の9月17日なのです。まだこの時は和尚の麗しい袈裟は鷲にさらわれてはいず、それがおこるのは半年後です。つまり、和尚の大事な袈裟を盗もうとしたバチあたりな屎鳶が、道了尊その人だったという可能性が無い訳がないわけでもなくはない。















とにかく大雄山は全体に天狗気配が充満に溢れていて、羨ましくなるほど。
われらが浜松市だって天狗都市なのですけど、春野町ですらとてもとてもこのレベルには無い。
鞍馬山だってここほどではないです。
大雄山駅前はそれほど天狗的未来都市風ではなかったですから、このお寺一つで全ての雰囲気を決定しているんでしょうね。凄いです足柄町。
まだ行ったことが無い東京の高尾山はこれ以上だと聞きます。早く行ってみねばな。

さて、今回どうして10年ぶりに大雄山を訪れてみたのか。
それは、10年前に来たとき、門前に「大雄山名物 天狗そば」って書いてある土産物やさんがあって、でもスルーして帰ってきてしまったから。天狗そば。未来に生きようとする天狗人としては、ぜひとも食べとかねばならないものでした。



大雄山最乗寺の門前には3軒の土産物屋があってそこそこの存在感を放っているのですけど、実は最乗寺の駐車場はここを過ぎて遥か上の方に広いのがあるので、参拝客でも土産物屋の前を歩いて通っていく人は少ないんじゃないでしょうか。実際に人通りは少ないし(平日だから)、3軒もあって大丈夫かと、余計なお世話ながら心配になってしまいました。



で、目当ての「天狗そば」のお店に向かおうとしたのだけれど、そうじゃない2軒のお店のおばちゃんの客引きがすごい。(天狗そばの人は全くよびこみをせず、私が近づいて行っても全く無反応だった)。人の良い私は向こう側の2軒の方を素通りすることがついついできず、看板に「天狗せんべい」と書いてあるのを見て、「この3軒の天狗煎餅ってそれぞれ違うんですか?」と聞いたら、「もちろんぜんぶ違う」「作っているお店が違う」とのこと。南足柄市にはいくつかの天狗煎餅メーカーがあるそうです。

  ★「山城屋」・・・南足柄市狩野99
  ★「村上商店」・・・南足柄市大雄町1089
  ★「松尾屋菓子舗」・・・南足柄市飯沢5

村上商店というのが、ここに来るとき山道に入る手前にあったお店ですね。(数年前に火事になったという。天狗を強く信仰すると火事の試練を受けるのは、天狗信仰の宿命)
話を聞いていたら、それぞれのお店でこれでもか!というくらい煎餅(とお茶と漬け物)を試食させてくれるので、おもしろく思って、全種類買って帰ることにしました。
・・・と思ったけど、それぞれのメーカーごとに味の種類が多くて、(けっこうたくさん買ったんだけど)全種類制覇して買って帰ることはムリでした(笑)
あれから2週間、家で毎日ポリポリせんべいかじっているけど、まだなくならない(笑)


これは「山城屋」さん。たしか「ピーナッツ」と「みそ」50枚詰め合わせ、1100円ぐらいだったと思う(もう覚えてない)。
どの味も美味しいのです。



それに入ってなかった山城屋さんの「ごま味」(試食でめちゃくちゃ美味しかったのです)、松尾屋総本店さんのものから5種類ぐらいあったもののうち、山城屋さんのものとはかぶらない「バター味」と「しょうが味」を。一袋350円ぐらいだったかな。しょうが味はとりわけ酒のつまみに良い。
村上商店さんのものは味が「ノーマル」一種類しかなかった気がしますな。(自信は無い)



村上商店さんの箱には、「本品は道了尊のお告げより當山の金剛水を用い、本舗独特の方法を以て精製せしむものなれば、香気風味共に良ろしく、衛生的の銘菓に付多少に不拘御用命被成下度奉願候」という説明文が、「大雄山御用達」の文字と共に書かれています。
一方で、山城屋さんの方は「関東の名刹、曹洞宗大雄山最乗寺の守護の神である天狗様は、八ッ手の葉うちわを持って人の七難八厄を除き幸福を授けられたと言い伝えられております。此のせんべいはその縁起ものの「天狗の葉うちわ」にちなんで弊店独特の原料と製法に依って風味豊かに焼き上げました。御参拝の御土産に御贈答に一層お引立の程お願い申し上げます」と、ひかえめ。





ぜんぶ同じ形なんですけど、やはり味と歯触りはそれぞれ違って、どれも美味しい。
天狗みやげに天狗せんべいって、なかなかいいな。
あまり堅くしてない、お酒に良く合う(こればっかだな)。
静岡は「天狗まんじゅう」だらけですけど、マネすべきですよな、と思いました。
わたくし気の弱いおっさんなもので客引きのつよい土産物屋さんって苦手なんですけど(得意な人がいようはずもない)、それぞれのお店のおばちゃんたちと会話するのはとても面白かった。「浜松も天狗の町だから天狗見物に来た」と言ったら「天狗の町なんてあるの?」と聞かれ、「秋葉山っていうのがあるんですよ」と言ったら、知らないって言われた。お話に出てきたのは高尾山と永平寺と総持寺でした。でも何かで秋葉山を検索してくれて「この(春野の)天狗の巨大面は何かで見たことある」ですって。結局一番やかましく声を掛けてくれたおばちゃんの店が一番楽しく、「おでん食べていきなよ」と言われて、「次に天狗そばを食べる計画じゃなかったらこのおばちゃんの店で食べるのになあ」と残念に思いました。

で、向かいの店に移って「天狗そば」です。
こっちは向かいの2軒とくらべて全然客引きしてこない(笑)
(調べてみたら「伊豆箱根鉄道」が経営するお店みたいですね。なるほど)







天狗そば、740円。
ここの天狗そばはキノコがたっぷり入れられたそばです。
おもてに「天狗ジェラート」の看板もあったんですけど、写真に撮ってくるの忘れました。おそらく天狗せんべいが1枚乗せられたアイス。

おそばは濃くて甘めのおつゆでとてもおいしいです。きのこはうまいな。
また、ここでもサービスで試食の漬け物が6種類ぐらい出されたので笑いました。ここはどこもかしこもサービスが凄い。もちろん全部ぺろりと食べました。中に「天狗ひょうたん」というのがあったので、折角なので購入。



いくらだったか失念。
買おうとしたら説明されたのが、実は赤いのと白いのがあって、紅白でめでたいので正月なんぞには両方買っていくのが地元の習いなんだとか。とは言われても、わたし個人には愛でたいことなど最近ちっともないので、(試食で食べた)赤いのだけを買って帰りました。
パッケージの天狗様がめちゃ凜々しいですね。



天狗のひょうたん。
なんで天狗で瓢箪なのかというと、天狗と言えば瓢箪だから瓢箪なのです。「天狗の葉団扇」「天狗の隠れ蓑」「天狗の遠眼鏡」「天狗の高下駄」「天狗の幸運の財布」「天狗の瓢箪」「天狗の黄金の箸とランチョンマット」「天狗のどこでもドア」「天狗の洒落鬘」「天狗の鷹(実は鮫)の爪」のことを一般に“天狗の七つ道具”と呼びます。全国で「天狗のひょうたん」の昔話はいろいろなバリエーションがありますが、大体はお酒に絡んだ童話です。天狗はタバコは絶対にやらないが、お酒は大好き。女と賭け事も絶対断忌ですよ。煙草は不浄で、火の禁忌に触れるぞよ。酒はいわゆる般若湯なので、むしろ推奨されます。



「しいの食品」(小田原市成田939)さん。(エヴァンゲリオン商品をたくさん出している真面目なステキ企業)
ひょうたんは食用のベトナム産ひょうたんだそうで、なんでこれがひょうたんなのかっていうくらい美味しい。この見た目で柴漬けで、完全に柴漬けの味なんですよね。白ひょうたんは何味だったんだろうか。結局、3店舗で、せんべい以外に結構な量の漬け物類も買っちゃいました。わたくしはいいお客さんなのですよ。




ついでに、「山道を来る途中にも天狗のお土産やさんがあったなあ」と思いだし、車で仁王門まで下だる。
「大雄山 茶屋 天んぐ」さん。

てっきりお土産物やさんだと思って入ったのですけど、「お召し上がりですか?」と聞かれ、「いえ、おみやげを見せてください」と言ったら、「では試食品を用意しますので、ちょっとまっててくださいね」と言われる。店内はかなりオシャレ空間で、外からは分からなかったがお客さんもけっこういる。なんと、喫茶店の方がメインのお店でしたか。ていうか、メニューは御膳物があったりして、お食事処でしたか。(でも、お菓子類も結構ある)

で、「試食」と言って出されたのがこんなの。



(この写真はディスプレイ用のサンプルですけどね)
なんで試食がこんなに豪華なのだ。どこでもここでも試食を豪勢に出しおって。少しでも食べたら買わなくちゃ申し訳ないと思う私みたいな気の弱い人間を狙い撃ちする作戦なんでしょうなぁ。でもしかし、ここの餅はめちゃくちゃ美味い。とりわけ(天狗の名の付いていない)「御焼」が気に入ってしまったので、ここでも全部買うことに決めました(笑)。
いろいろ自由に組み合わせて買えるのだそうですけど、「下駄まんじゅう」(6個)、「道了餅」(2個)、「御焼」(3個)、「天狗伝」(4個)入りのが「彩りセット」といって1430円だそうなので、「これください」と言ったら、「おつかいものですか?」と問われ、「いえ全部自分で食べるんです」と言ったら「この1430円には箱代が含まれるので、個包みにして箱代は引いときますね」と言われた。そうでしたかここはお使い物のお店でしたか。で、ついでに「どうして“下駄まんじゅう”っていう名前なんですか?(下駄にまつわるエピソードが何かあるんですか?)」と訊いたら、「天狗といえば下駄だからですよ」という主旨のお言葉をいただきました。素敵!



これ、どれもウマイ!
ただ、御焼の賞味期限は翌日で、道了餅は翌々日です。(実はこの日記を書いているのは2週間後で、食べずに放っておいた道了餅の袋がガスでパンパンになってしまってて(←写真のは爪楊枝で袋の後ろに孔を開けてガスを抜いたところ)、食べようかどうしようか迷ってる(笑)。まあ、賞味期限なんて飾りだから食べるけどね)。写真を早く撮ってさっさと食べておけばよかった。
メニューには「天んぐ御膳」(1500円)と「天んぐ御膳コース」(2000円)というのがあって、天んぐ御膳は「栗おこわ、茶碗蒸し、野菜ともち豚のしゃぶしゃぶ、俵形のお赤飯、凝ったお汁物」などのセットで、とても美味しそうだったんですけど、この時間に豚のしゃぶしゃぶなんて食えそうになかったので(さっきそばを食べたばかりだから)泣く泣く諦めました。この御膳の中の天狗成分は「栗おこわ」なのかな。天狗は豚のじゃぶしゃぶなんて食べるのかな。イラストには「さしみゆば」の絵も添えてあったのですけど、これは別注文メニュなのでしょうかな(じゅるりん)。
店内には民芸調の雑貨が空間を贅沢に使って飾り付けられてあって、天狗マニアをとことん満足させることにこだわりを持った素敵カフェだと思いました。
足柄道了尊、バンザイ!





さて、御真殿の横のお札売り場で購入した『大雄山誌論考』(2010年、2000円)に、知切光歳師の『圖聚天狗列伝』(1977年)にも書かれていなかったさまざまな道了尊についてのエピソードが豊富だったので、わたくしの交々の疑問と共に列挙していきますね。

知切師は「道了尊はけっして新参の天狗ではなく(黒眷属金比羅坊や象頭山金剛坊などよりも古い)、知名度も戦国時代には関東一円に鳴り響いていたはずなのに、天狗経の四十八狗の中に名が無いのはおかしい」と憤慨しておられるのですが、一般に著名な天狗が“大天狗”として“列聖”されるのは、(例外もありますが)知名に加えて「その人の取り次ぎによって引き起こされた2つ以上の“奇跡”がある」と教皇廰の中にある列聖敞で認定されることが必要になります。道了尊の場合、『圖聚天狗列伝』の中で知切師が記しているのは、(1)三井寺に相模坊道了が天狗になったということを記した確実な記録がある(『園城寺学頭代北林院日記』) (2)境内にある金剛水の泉は、道了薩埵が2人の木樵(実は矢倉沢神と飯沢神)の助力を得て掘ったもの。そのとき出土した金印が寺宝となっている (3)応永18年に明神ヶ岳に去るとき5つの誓願をした (4)北条氏康が道了尊の噂を聞いて最乗寺に赴いたとき、大風を吹かせて寺の屋根を飛ばした (5)延宝4年に羽を落とした (6)国安普明が道了尊を使役したといっていた などなどを紹介してるんですが、これくらいではまだまだ弱い(のか)。しかし、寺側にはもっとたくさんの道了尊の“奇蹟”が実はあったと言っているそうです。

・道了の食事はいつも質素なので弟子達が「少しでも食べないと死んでしまいます」と懇願するほどだったが、弟子の中には「師は隠れて美味しいものをたくさん食べているから弟子の前では何も食べなくても平気なのだ」と悪口を言う者もあった。実は道了は弟子達の食事の時間になると、毎日うすぎたない袋をひとつぶらさげて出かけていく。そして弟子達の食事の時間からだいぶ経つと、師の部屋からめちゃくちゃ美味しそうな匂いがしてくる、ということが幾度かあった。この謎を解こうとした弟子達が数日探偵活動をして分かったこと。実は師は台所の流しの下に袋をぶら下げておいて、食事を終えた弟子達が食器を洗うとき捨てた残飯がそれに入るようにしていた。その残飯を集めて師は自分の部屋で美味しい雑炊を作り、それを食べていたということ。これを知った弟子たちは、以後とても真面目になったといいます。(天狗かんけいない)

・あるとき道了が托鉢のために遠州城東郡平尾村を巡っていたときのこと。平尾の八幡宮の宮司がこのこぎたない坊主を侮って、「お前にあげるものなど何も無いが、梵鐘は壱千貫はあって価値のあるものだから、(持ってけるものならば)持ってってもいいよ」と言ったところ、道了は「ありがとう」と言って呪文を唱え、杖の先に鐘をひっかけ、相模の国まで持ち帰ってしまった。その鐘は天明4年の大火で溶けてしまったというが、その後の2代目、3代目の鐘はそれぞれ「錫杖(拄杖)鐘」と呼ばれている。・・・なんで道了が遠江国まで托鉢に行ったのかわかんないんですけど、最乗寺側にはこの時の八幡宮宮司の名前(栗田吉住)が誇らしげに記録されていて、でも平尾村(菊川市)の八幡宮にはこの時の記録は全く残ってないそうです。この栗田吉住は遠州の偉人・栗田土満のご先祖ですって。

・寺院建築中、道了が大石を運んでいるときに了庵禅師に呼ばれた声がしたので、道了薩埵は持っていた大石を放り投げて禅師の元へ走って行った。この石はもう二度と動かすことができなかったので「一擲石」と名付けて今の位置にあるという。

・江戸時代中期の有名人・国定忠治の関係者に“天狗霧太郎”という名の人物がいた。彼は相州小田原の出身で、若い頃は大盗賊だったが年を経てから道了尊の裏山で修行して、忍術を身につけ、それは道了山の天狗のおかげだと人々は考えたのだそうです。彼が言うには、道了尊の参道を往復する二人の男女を見ていたら、どうにもこの二人が神々しい仏さまにしか見えなくなった。(話を聞いたらこのふたりは富士山浅間神社に参ったあと伊勢原大山に登り、そのあと足柄道了尊に来たそうです)。霧太郎はこのふたりの背後に煌煌と差す後光を見て阿弥陀の威徳を感じ、盗賊をやめて道了の寺男となったそうです。(なんだそりゃ)

・・・(ありゃ、これしかなかった)

つづきまして、私のいくつかの疑問点を。
(1).「道了薩埵」はどこの出身の人物なのか?
知切師は、三井寺の記録の中に「相模坊道了」と書いてあるから相模国の出身に違いない、と書いているのですけど、別に坊名が出身地を表すとは限りませんよね。武蔵坊弁慶や常陸坊海尊の例もあるし、三尺坊や叶坊光播も越後に(ゆかりは大きくあるけど)出身だってわけじゃない。三井寺の記録に「相模坊」と書かれているからと言って、その記録が南北朝の同時代に書かれたという証拠も(おそらく)無いわけで、「いつのまにか行方不明となった道了という人が相模にいたという噂を聞いたので相模坊と書いた」という可能性も無いわけじゃない。何を問題としたいのかというと、一般に天狗の中で“格が高い”とされているのが鼻高天狗で、カラス天狗は“小天狗”というイメージがある中で、明らかに例外的な鳥顔の大天狗が3人いるわけです。「飯綱三郎」と「秋葉山三尺坊」と「道了薩埵」なんですね。(高尾山の天狗は“飯綱三郎”ですよ)。この三者には「白い狐に乗っている」という共通点があるのです。三郎坊と三尺坊が信濃国の出身だということは明らかであり、じゃあ道了薩埵の出身地が信濃だという可能性はないのか?、ということ。
一応、『大雄山誌論考』には「道了は能登国總持寺で了庵慧明と出会い、以後彼が移動する度にそれについていったが、最後に理由は不明だが了庵と分かれて三井寺に向かって、そこで高名な修法僧となった」と書いてあります。でも總持寺は曹洞宗、三井寺は天台宗じゃないですかね。そんなことあるんでしょうか。

(2).「御真殿」について。
最乗寺の御真殿は安政頃まで現在地とは違う、もっと高い山の頂上付近にあったそうです。現在の御真殿はとても立派で、御真殿・本殿共に昭和初期の著名な妖怪建築家である伊藤忠太氏の設計になるものなのですが、そもそも御真殿ってなに?
一般に天狗世界で、巨大なお寺で本殿の他に天狗が祀られている立派な建物のことを「御真殿」というのですけど、実を言うと私もまだ見聞が浅いので、真の意味の「御真殿」って、「可睡斎」と「奥山半僧坊」と「大雄山最乗寺」しか見たことが無い。(金光明山(新)光明寺にもあったっけ) そして『大雄山誌論考』にはしばしばこの御真殿のことを「宮殿」と書いています。本当にこの建物の呼び名は昔から「御真殿」だったのでしょうか。(山の上の不便に場所に「御真殿」があって嘉永の地震で倒壊する前も、その建物は極めて華麗だったそうです)
一方で、曹洞宗総本山の「總持寺」(能登国輪島)にも「御真殿」という名の建物があるのですが、中に祭られているのは高祖・道元禅師、開祖・螢山禅師、二世・峨山禅師の像と歴代住職の位牌なのだそうです。

(3).西相模に住む人々は、道了天狗のことを鼻高大天狗だと認識しているか? それとも鴉天狗だと認識しているか?


・・・わたくしの探求はまだまだ続きそうです。

さて、大雄山を辞してようやく南下を始めます。
あれですねー、静岡県と神奈川県って隣り合った県なのに、全然空気が違う。小田原の町って感心してしまうくらいあらゆるものがビッシリとしています。道が狭い。神奈川は好きだけど苦手。私は絶対にここには住めない。静岡県ってスカスカな空間をとても贅沢に使っていますよね。
湯河原に入って、ようやく(ホッ)とすることができました。

(・・・つづきます
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