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揺るがす者の寺院(続々)。

2014年05月22日 01時19分11秒 | 遠州の歴史

(新光明寺の黄金の大黒真天。昭和6年の光明山の大火災のあと、昭和12年に作り直されたもの)

5/15に行った光明山の天狗探しのつづき。
光明山に登ります(車で)。二俣川沿いに国道362号線を走っていますと、至る所に「光明山遺跡はこちら」の案内板があります。いくら走って行っても看板があるので、「光明山遺跡って何ヶ所もあるの?」と思ってしまうぐらいです。実は、光明山はとても面積の広い山で、本当だったら幾つもの名前に分けても良いぐらいの低い領域が、全部光明山の名前で呼ばれているのですね。で、上り口の案内がたくさんあるので「登山ルートがたくさんあるのか」と思ったら、山東・只来付近の案内板は皆ただ一つの登山口(麓ルート)に案内されている。



光明山の登山については、サイト「よみがえれ秋葉古道」がとても親切です。こういうの非常にありがたいですね。それによりますと光明山の登山道は「麓橋古道」「只来古道」「横川古道」「お目たで池古道」「長沢古道」「秀珍林道経由松間古道」「松間古道」「佐久古道」の8つがあるそうですが、難路が多く、一般的に昔から使われていたのは(丁石があるのは)メインが「横川古道」で従が「麓橋古道」だったそうです。でも、横川古道は車では入れず、今では車で行けるのは「麓橋古道」と「長沢古道」。昔の人の苦を思うと便利な世の中になったものです。


麓橋古道入口付近。ここからは光明山の山頂は見えません。

南北に長い光明山の尾根伝いに南から走る「麓橋古道」は非常に距離が長い。13時半に山道に入り、快調に飛ばして「光明山遺跡」に到着したのは13時50分でした。先程行った新・光明山にもお寺の前に「光明山古墳」があったのでとても紛らわしいんですけど、光明山古墳は古墳時代の遺跡、大酋長のものだったと思われるとても大きな前方後円墳。対して旧・光明山にある「光明山遺跡」とは「旧・光明寺」そのもののことです。昭和6年まで現役のお寺だったところです。



見えないと思いますけど「古井戸」「箱井戸」「五人塚」「方神塚」「奥ノ院跡」「大権現」「鏡石」などの文字がある。



この日は雨が降ったり止んだりで、山頂まで来ると深い霧が立ちこめていました。天狗が出そう。



光明山の一番の見所は、まるで巨大城砦かとみまごうばかりのこの石垣。
そもそも「光明山遺跡」というのは、お寺であり、古城でもあるんですよね。もともとお寺があったのを、今川方の朝比奈時茂がお城にしてしまったのですが、やがて徳川が取り、その後武田が獲り、天正3年6月までは武田氏の城でした。徳川家康は気田川を挟んで犬居城に対しているこの城に目を付けて、本陣としたと伝えられています。この戰さでは家康が負け戦だったことが多かったので伽藍のほとんどが焼失してしまったのですが、戦後、その城構えを元にお寺が再建されて、以前より立派なお寺へと生まれ変わった。ここに来た人は大体言います。「お城みたい」と。
が、戦国時代の遠江にこんなりっぱな石垣があったわけはないので、おそらく江戸後期~明治ぐらいの造営になると思います。
石垣構造で一番立派な部分が、正面の仁王門から本堂に上がる付近のところにある石垣ですよ。(建築物は現存せず)。なお、兵藤庄右衛門は仁王堂の絵を描いておりません。当時は無かったのか?



この石垣も長い歳月の間草に覆われ、ラピュタみたいになっています。杉に覆われたラピュタ遺跡。
これ、見た目は階段なんですけど、すり減っているのか馴れてしまったのか、ほぼ滑り台状になっており雨の日や白い霧の日は危険。





本堂付近。何も無い。





敷地の奥の方に、石垣で盛られた一段高い場所があります。
案内板には「神前」と書かれていますけど、『遠江古蹟圖繪』には「光明山大権現」と書かれてある。つまり天狗の居場所(御真殿)ですね。本尊よりも高い位置。護山というのはそういうものです。
その天狗台にも今は何もありませんけど、すぐ近くに小さな社が。



敷地内にある建造物はこれと下の望遠鏡と江戸や明治の年号を書いた折れた石灯籠だけ。何の社かどこにも書いてないんですけど、天狗様でしょうか。中を覗くとさらに小さな祠とふたつの木像(天狗ではない)があります。



ここからの景色は凄く良いんです。望遠鏡が設置してあって、100円入れる式かと思ったらよく見たら無料式だった。なんて太っ腹なんだ。でも今日の天気だと覗いても白い霧しか見えません。家康にとっても、実は見えて欲しい方角は浜松城の方ではなく、秋葉山の方角だったと思います。





不思議な形の常夜燈。



この案内板、6年前に来たときはちゃんと設置台に掛かって文字も読めた記憶があるのですけど、現在は朽ちて下に落ちてしまっています。
よく見ると、絵の部分にただごとならぬ記載があるぞ。つまり、『圖繪』が「光明山大権現」とした箇所が「本殿」とされており、本堂(三満殿)のあるべき場所が「観音堂」と書かれているのです。そういえば誰も注釈してくれてないですけど、行基菩薩がこの寺を開基したときに彫った三体の仏像のうち、十一面観音の像はどこにいってしまったんだ? 仁王門(楼門)ももう一つの案内板の絵と建っている位置が違う。



下の説明書きも、解読してみますね。
「森林のおいたち学習林
光明山は西暦717年、高僧行基が開創した明鏡山光明寺により発展し、寺院周遊には数百年を経過した見事な森林が広がっておりましたが、昭和6年に発生した火災により、寺院及び森林は灰と化してしまいました。その後寺院は山東へ移転再興致しましたが、石垣を残すのみとなった寺院跡周辺の森林は、地域の人達により分収林(一種の借地造林)が設定されることとなり、そこに杉・檜などの植栽が行われる様になりました。
当時は林道も整備されていないため、下刈り・枝打・間伐などの保育作業は大変でしたが、地域の人達は荒れた山道を徒歩で幾度となく通い、熱心に作業を行い、現在の様な立派な森林が蘇り、古えの光明山美林が再現されたのです。
その後、林道の整備が進められ、また平成三~四年度には、生活環境保全林事業が実施され、森林リクレーションを目的とした遠方からの来訪者で賑わいをみせております」

なんと! 寺院の案内板かと見せかけて、周囲の樹木の繁茂具合を観察しよう、という趣旨の案内版となっているわけですね。山火事があっても人が住まなくなってたった80年で森はこうなるよと。この木の案内板も、あと数年で字が全く読めなくなると思います。20年近く経った物だと思いますけど、残念なことだ。



ありがたい休憩舎があります。こんな天気の日でも入れるようになっており、とても助かる。藤の花が綺麗ですが蜂がたくさんいます。中に、自由に持って行ける山歩きの地図が用意してあり、これがなかったら私はとても困っていたでしょう。(持っていったタブレットは使えなかった)。簡素な小屋ですが、山の写真や山の紹介などもあり、明治41年にブラジルに渡った“移民の父”平野運平(掛川出身)の「平野植民地」(サンパウロ州)に、「平安山光明寺」の額が掛かっていたことを知りました。

さて、そこから奥の院へ行きます。
以前来たときは、奥の院に行かずに帰ってしまったのです。あの日も今日のような天気だったと思う。



休憩舎のところに貼ってあった地図の一部拡大。(この地図はいただけます)
この地図には書いてないんですけど、奥の院のすぐ近くには「鏡石」というものもあるそうです。この鏡石が、この山が「光明山」と呼ばれている名の由来(だと思われる)なのです。これが一番見てみたい。(天狗と関係ないですけど)
地図中の一番太い線が林道(車で通れる道)。これ見ると、奥の院はとても近いんですよね。歩いて行っても容易でしょうが、わざわざ車で近づいていっても良い感じの表記ですので、そうすることにしました。地図を見ながら車を運転し、それっぽい箇所を発見し、藪の中に入り込んで歩き回って探索しました。うーーん、どれだ? 建物等はそこに無いことは知っているので、奥の院っぽいところ、いわくありげな岩っぽいのを捜してみるのですけど、素人にはどうもすべての場所が全部それっぽく見えるのです。わたし眼的に一番神秘を放っていたこの岩を「鏡岩」(磨けば光りそうだよね)と認定し(付近に他に表面が平らな石は無い)、また良さそうな平地や水たまりもあるので「ここが奥の院だ」と決めつけて、帰途に着きました。



ところが車をしばらく走らせると、少し行った所に「この先奥の院」の看板が。・・・なんだ遠いやん。
しかたなく車を停めて、その坂道を登ることにしました。



延々とその坂を登っていきますと、着きました、光明山山頂に。
ってちょっと待ってっ、私は奥之院に行きたいのにどうして山頂に着いてしまっているのっ? しまったこの道はトラップだったか。ここから降りる道が下に続いてましたが、降りるって事は車に戻るには再び登らねばならぬってことなので、私はそこから一旦車に戻ることにしました。うひー。おそらく奥の院はここから凄く近いと思うんですけど。皆さん、奥之院には罠がたくさんありますからね、気をつけて!

車に戻ってもっと奥之院に近い便利な入口を見付けるために車を走らせますと、見つかったのがコチラ。



なんだよー、道じゃないじゃん。さっきからの歩きで私の靴とズボンは水でぐっしょりです。と思ったんですけど、草が繁茂しているのは入口のところだけで、あとは快適な歩道で、すぐに奥之院に到着しました。皆さん、入口のこの見た目はただのトラップですから気をつけて。





ここで撮った写真のほとんどがピントが合ってません。とても疲れてたんだと思います。
一番肝心な、「奥の院が建っていた場所の信じられないくらいの狭さ」が一目で分かるような俯瞰写真を私は一枚も撮っていませんでした。なんてこったい。
すごく大きな岩があり(これが「鏡岩」なんでしょうね。先程私が認定した「鏡のようだと言えなくもないと主張しようとした表面の岩」とは桁違いの大きさだ)、その影に隠すようにしてある小さな平地が奥の院。
ここに来る前に見てきた新・光明寺の奥の院の摩利支真天堂は、もともとここに建っていたんです。
昭和6年の大火事では伽藍は燃え尽きましたが、少し離れた位置にあった奥の院は無事でした。それをそのまま、山東の新・光明寺の上の方に持っていって移したんですって。
こんな暗くてジメジメしたところにあんな立派な建物があったなんて信じられないね。
その当時の写真が「出かけよう!北遠へ」さんにあります。すごいね。

ついでにもう一つ、旧光明寺にあった伽藍を考察するに当たって避けられない資料に、14代将軍家茂の頃に描かれた五雲亭貞秀という人の版画があるんですけど、これも「出かけよう!北遠へ」さんにとても素敵なカラーの写真があります。(奥の院ではなくてさっき行った光明寺遺跡の方の図解です)
が、これを見るとここには60年前に兵藤庄右衛門が描いた天狗台が無く、この広々とした敷地に奥の院にあるはずの「兜入摩利支天」の堂が建っていたことになるので頭を抱えてしまうのです。もちろんこんな所に建物が建っていたなら、昭和6年の大火事で焼け伸びているわけがありません。先に述べたように(←述べてないが)「家康の兜入」摩利支天は盗難に遭って70年が経過しています。本堂も少し手前にありすぎる気がします。

ここに来て分かったこと。
結局の所、「奥の院」と「家康隠れ岩と「大権現」と「鏡岩」は、ひとつのものを指していたのでした。
すごい立派な岩なのですけど、奥の院から見て、この岩は裏側なのです。
「この岩を表側から見なければいけない」と思いました。裏から見てゴツゴツな大岩は表から見たら鏡のようなのかも知れない。
裏から見ても、この岩には不思議な穴がいくつか開いています。



私にはムリでも30代のすごく痩せていた頃の家康ならこの穴に隠れられたのかも知れませんが、表側にはもっと隠れやすそうな穴があるのかも知れない。

少しだけ危険な道を反対側まで降りてみます。





すごい。すごすぎて足場が悪すぎてこの巨大な岩の全体図を写真に撮れない。



赤豆坂合戦で「家康の隠れた岩の穴」とはコレでした。
イヤン、30代の家康様って私が想像していたより痩せていてペラペラだったのね。
私だったらこれを見て「柳生天狗の一刀両断岩」と名付けそうです。

さて、問題となるのは『遠江古蹟圖繪』の記述です。
「光明山となづくる事、この山の山頂に鏡石有りて、朝日出づる時は光明さし光輝き、南海へ光差して漁猟なし。ゆゑに漁人の難儀なりとて、この石を深く埋めて巌窟へ隠すと云ふ。今に奥の院の後の山に鏡石を埋めたる所有りて、後世に残る。また、西の方に天狗塚有り。人行くこと叶わず」
この巨石そのものは「鏡石」じゃないのか? いやいや、この岩のたたずまいから見て、この巨石こそが霊岩のはず。(ごつごつしていて全然鏡面じゃないですけど、クレンザーでごしごし磨けば光り輝くのではないか)。あまりにでかすぎたので行基は「深く埋め」ようとして挫折したんだと思う。
大事なのは、「山頂の少し下に、遠州灘から見えるほどの光り輝く岩があった」ということです。(今は高い杉が生い茂ってここから海を見ることはできませんが)。アルプス山脈の「光岳」と同じ謂われを持っているんですね。そして、「光岳」にも天狗伝承があります。文中にある「西にある天狗塚」とは明星谷の森のどこかだと思います。行基が山頂で祈ったとき7千5百人の天狗が涌いて出た場所。(記されてませんが、行基に寺の今後のことを任されながらいつのまにか逐電し、15年後に天狗となって再出現した僧最伝もその一人だったと思います)

この日はこれで満足して、家に帰ることにしました。
林道を下ると道の駅「いっぷく処横川」のすぐ近くに出ます。
一応覗いていきますと、天狗ソースと一緒に先日買えなかった「天狗煎餅」が売られていました。
やったっ。



喜び勇んで、「天狗山椒煎餅」(155円・税込)と「秋葉山名物火坊巻き」(432円・税込)、「秋葉山名物げんこつ生いもこんにゃく(遠州の小京都森のこんにゃく)」(150円・税込)と、それから「秋葉山天狗サンショウ」(210円・税込)を購入しました。



サンショウは瓶入りの物(280円)と粉のものと粒のものがあったので(山椒は粒で採れるということを知らなかった私は ←葉を粉にして食べるのだと思っていた。家の庭に生えていた木の葉の臭いが凄かったので)、面白そうだから粒の物を買おうとしたところ、念のためにお店のお姉様にこの山椒の粒の使い方を聞いたところ、料理をしない私にはとてもハードルの高い説明をされた。やべー、思わず私には途方に暮れる用途の物を買ってしまうところだったぜ。粉にしてある山椒だったらこんな私でもいろいろ使い途がありますからね。鰻にかけるとか煎餅にまぶすとか。(どなたか山椒の粉の活用方法を教えてください ←賞味期限が短い)









さっそく家に帰って食してみました。



む、醤油があまじょっぱいのに全体的には甘くない。またまた山椒の風味は強くは感じない。(私はいい加減嗅覚がおかしくなっているんじゃないか)。お酒に良く合う煎餅です。(こればっか)。おいしい。また買ってきましょう。

火坊巻は秋葉の門前でよく売ってあるやつですよね。ひっくり返してみてみたら、製造メーカーが春野の会社ではなくて、浜北に隣接する笠井町のメーカーだったので一瞬がっかりしたのですけど、念の為に買ってきました。そういえば先日寄ったいきいき天狗村にも、前に挙げた3店舗以外の「大天狗饅頭」(280円)が売られていたんですけど、これもまた笠井のこのメーカーの物だったので買うのを止めてしまったのでした。でもこれは、笠井に天狗メーカーがあるってこと? ・・・調べてみたら、違いました。まぁいいや。



火坊巻き、中に白いクリームが入っていると思うでしょう? これは硬くて白い飴なのです。天狗の鼻をイメージしているのですね。
こんにゃくはまだ食べていません。賞味期限長いし。


日を改め(5/18)、再び春野町へ向かいました。



気田川は今日も美しい。



今日は秋葉山の奥の院の竜頭山の八尺坊を見に行くつもりだったんですけど、その前に、反対方向なんですが、熊切川をさかのぼってその上流にある村々を見に行くことにしました。
北遠の天野遠景の御子孫の歴史はなかなか変で、そのうち纏めますからね。

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揺るがす者の寺院(続)。

2014年05月18日 19時16分47秒 | 遠州の歴史


“天狗の町”春野の天狗探訪のつづき。
「日本一の大天狗面」のすぐ北側には大きな流れの気田川があり、そこに架かっている橋が宮川橋。この橋は、天狗の飾りが施されているので通称「天狗橋」と呼ばれております。赤が鮮やかでなかなか愛らしいでしょ。もちろんすぐそばにある大天狗面を模してある。平成3年3月の架橋ですって。



こんな感じの橋。気田川はとても気持ちの良い川で、幅は広いけど天龍川よりは安全そうで、夏になったらとても賑わいそうな川です。河原が広い。
当然、橋の反対側にも天狗はおりますよ。



「なぁんだ、同じ天狗か」と一瞬思いましたものの、上げてる片足が違う。バックの色が違う。(間違い探しか)。何より見える景色が違うので、川の南側の天狗とは違う印象も受けました。

その少し向こうに「気田(けた)」の町があります。
恥ずかしい話ですが、春野町の歴史について書いてある本を全く持っておらずこの地方の歴史がさっぱり分からないのですけど、春野町はとても広い町で、気田川沿いに集落が点在している。歴史的に地域の中心となっていたのは鎌倉時代からこの土地を支配していた天野氏の住まう秋葉山下の「犬居(いぬい)」の町だったと思う。でも、実際に行ってみると「気田」の方が中心地っぽい雰囲気を感じますね。おそらく犬居は戦国城下町そのままで地形の高低差をそのまま活かして狭く入り組んでいる。気田は土地が広い。でも、気田の集落の歴史ってどうなっているのかしらね。いつ頃から栄えていたのかしら。
子供時代の頃、浜北の低湿地で暮らしていた私は「気田(けた)」と「気賀(けが/きが)」が頭の中でこんがらがってわけがわからなくなってしまったものですが、そんな私が好んで気賀に住むようになるなんて、何をどう想像できただろうか。なお、合併前の旧春野町時代は、春野町の役場は犬居と気田の中間にある「宮川」(大天狗面のある地域ですね)の現・春野協働センターの場所に存在していたそうです。
そしてそして、私はドライブが大好きで良く天龍川を逆昇って春野のあたりまで遊びに来ていましたが、宮川橋より北へは行ったことが無かったのでした。だって用事が無いもん。

今日は初めて、気田の町を訪れようというわけでした。



目的は「天狗饅頭」。天狗の饅頭を扱っている3店舗の内の一軒が気田にあるのです。「本多屋菓子舗」。
おお、先程の月花園以上に何とも歴史を感じさせるお店だ。しかし、店頭から店内を覗いてみると無闇に入りづらいような風情があり、目を良く凝らしても天狗的な何かがありそうな気がしなかったので、逃げ去りました。私は意気地なしだったのです。気田おわり。(え?)

春野は「天狗の町」とは言いながら、天狗成分が充満しているのは宮川橋以南です。その北にはほとんど天狗が見られない。その中でこの本多屋菓子舗だけが例外。いずれまた饅頭を見付けに来たいですね。

続きまして向かいましたのが、春野町図書館。
調べたいことがいっぱいありましたからね。



図書館と一体化している「歴史民俗資料館」にあった犬居城の模型。立派です。



犬居の支配者は鎌倉時代に源頼朝の腹心であった天野藤内遠景の子孫たちです。伊豆の遠景の晩年は不遇であったとウィキペディアに書いてありますが、遠景の息子の政景が承久の乱での功績によって全国各地に分かれた土地を貰い、それぞれに係累を住まわせました。秋葉山下の天野氏の歴史は伝説的なものが多いのですが、確実な史料の初出は後醍醐天皇の綸旨。南北朝の動乱に際して、天野氏は新田の配下として鎌倉を攻め、後醍醐の忠臣として全国を転戦し、宗良親王を厚く崇拝して井伊と共に親王を守り立て、足利尊氏の配下として井伊谷城攻めに参加したそうです。なんやねん。
秋葉山下にあって修験勢力との結びつきは強かったものと思いますが、「犬居(犬が居る)」という地名自体が山嶽信仰との関わりがある。戦国時代には「犬居」は「乾(いぬい)」とも記されますが、「乾=北西の方角」はどこから見て乾だったんでしょうね。一時期、とても深い関わりを持った今川義元から見て北西なのかも。
戦国時代初期の秋葉山がどういう状態だったのか、定かではありません。というか、確実な史料は戦国時代後期の徳川氏と天野氏の抗争のときまでありません。つまり、武蔵国出身の茂林光幡(熊谷浄全)という武家うまれの修験者がいて、彼は全国の霊山を巡り歩いたあげく、十代の徳川家康と知り合い(場所は可睡斎で、とされる)桶狭間の年にその配下となる。雄山閣の『秋葉信仰』の監修者・田村貞雄氏の記述が詳しいのですが、家康と光幡は16歳差で光幡が年長。
今川義元が死んで天野氏は今川を見限ることに決めるのですが、そこに家康の使者として茂林光幡がやってきます。話し合いの結果、天野氏は徳川家康の傘下に入ることを了承。家康遠州侵攻の翌年の永禄12年(1569年)のことでした。
この功により、茂林光幡は秋葉山別当(第二十四世)に就任。
実は修験の山としての「秋葉山」の名は、このとき家康が光幡に与えた安堵状が初出なのです。
これが「秋葉山三尺坊の正体とは戦国時代の叶坊光幡なんじゃないか?」といろんな人が考える原因です。

大事なことは、
(1).茂林光幡は秋葉寺の「第24代住持」とされているが、それ以前の秋葉の住職について分かることは名前のみだということ。(初代住職(開基)は行基大菩薩です)
(2).茂林光幡が永禄以前に「秋葉の修験者」だったという証拠も全く無いこと。
(3).茂林光幡は「叶坊(加納坊)」と名乗るようになるが、この名の由来が定かでは無いこと。一般には「浜松城のすぐ近くに秋葉を勧請し、その坊に因んで“叶坊”と呼ばれた」となるが、三組町秋葉神社の社伝によると「叶坊」の勧請は天正年間(1573年以降)。それ以前の元亀3年(1572年)に犬居城の天野景貫は寝返って武田信玄の忠実な家臣となっています。元亀元年(1570年)に家康が上杉謙信に使者として光幡を送ったとき、彼の名乗った名は「権現堂叶」。(この権現堂とは、彼が出家前に寄食していた鎌倉の「光明寺権現堂」だそうです)
(4).天野景貫がおとなしく家康に従っていたのはたった4年間です。そこから激しい「犬居戦争」が始まり、最終的に収束したのは4年後。この間、別当の茂林光幡は秋葉山へ近づくことが出来なかったと思われますが、他の「秋葉修験の勢力」はどういう動きを見せていたのでしょうか? 天野に味方する「秋葉僧兵」もいたのかな。
(5).天野氏は秋葉権現を信仰していたのかどうなのか。当然していたに決まってる。犬居落城前に穴山信君の指揮下に入った天野景直(系図に見えない名。景貫の次男の小四郎虎景/景広と同一人物?)は清水に秋葉山本坊峰本院を建てていますし、江戸時代に随筆集『塩尻』を書いた尾張藩士の天野信景は、「先祖代々の秋葉信仰」の話を度々書いています。
(6).関係無いですけど、天野遠景から数えて天野宮内右衛門尉景貫は11代目。さかのぼること400年前に天野遠景は源頼朝から「伊豆の藤内遠景は、奉公他に事なる(異なる)間、遠景10代、頼朝10代、いかなる不思議ありと言ふとも、咎に行なわるべからず。これは不憫(不便)に思しめすが故なり。文治2年7月10日」というお墨付きを貰っていたんですよ。11代目に天野家が滅ぶっていうのもなかなか感慨深い話ですね。言った当人の右大将家はとっくの昔に滅び去っていますけど。(天野氏の系図は幾種類かありますが、私は犬居城址顕彰会発行のを参照してます。神谷昌志氏も同じのを採用している)
(7).「どちへんなし」ってどういう意味? 犬居の天野家とは別系統ですが、三河の天野家である天野康景は「どちへんなし」って言われてたんですよ。「仏の高力、鬼作佐、どちへんなしの三郎兵衛」って。その「どちへん」は人によっていろいろな解釈されているのですが、「公平な」とか「偏りのない」とか「慎重な」とかいうのが一般的でしょうか。でも川實記によるとどちへんなしは漢字で書けば「何方辺無」、つまり「どこにもいない」ですよ。「仏でも無ければ鬼でも無いどこにいるか分からない人」ということはつまり天野康景は狐や河童、いえ!天狗だったのではないでしょうか!(強引なこじつけ)
(8).「茂林光幡」って何て読むの? 私は自然に「もりんこうは」って読んでましたけど、検索してみたら「幡」の字に「は」の読み方は無かった。神谷昌志氏の御本では「かのうぼうこうはん」とルビがふってあります。もしかしたら「しげばやし みつしげ」とか「もばやし てるまさ」とかいう侍名かも知れず、さらに一説として「森林光幡」とか「光播」と書いてある本もあるので、謎は深まっていくのでした。群馬県のタヌキで有名な茂林寺とは何か関係があるのかな。なお秋葉寺53世藍谷俊雄師の御本『三尺坊』には「茂林光播(永禄年間 寂)」という文字があります。



春野の図書館で分かったこと。『広報はるの(縮刷版)』より。

・昭和61年3月、「日本一の大天狗面」設置。
・昭和61年4月20日、第一回はるの大てんぐまつり開催。
  その後、何年か大天狗まつりが大盛況の記事がありますが、現在はやっていない?
  「天狗面設置除幕式」
  「バーベキューセット無料貸し出し」(食材は自分で用意)、
  「天狗もちなげ」「天狗ステージ(カラオケ大会)」「天狗講和」
   カラオケの優勝者には「大天狗(大人)」「小天狗(子供)」の称号が。
  「小天狗コーナー(子供達に大人気のファミリーコンピュータゲーム大会)」
   などがありました。
・昭和61年4月、気田の酒井さんから「もうひとつの大天狗面」寄贈。
   縦1.2m、鼻の高さ60cm。
   ・・・これは現在文化センター内に飾ってある天狗でしょうか。又は大面横の小屋の中のかな。
・昭和61年10月、秋葉神社上宮本殿再建。
・昭和62年1月、町制30周年を記念して、「第16回駅伝大会」を「天狗の里駅伝」と改称。
  (※現在も継続。2014年が第41回。「天狗駅伝」としては第26回目)
・昭和62年4月21日国道362号線の長沢バイパス完成、昭和64年4月犬居バイパス完成予定。
   アンケートによりこの2つの区間の愛称を「秋葉天狗街道」に決定。
・平成元年5月号、「天狗街道」PRのために3枚の道路看板を設置。
・平成元年9月号、「里原天狗市の一年」記事。(※現在はどうなっているか不明)
・平成2年4月号、犬居小の6年生がプールに天狗の壁画を描く。
・平成2年5月号、「天狗のげたモニュメント」完成記事。
・平成2年10月30日、秋葉神社上社の参道・狛犬・大鳥居の完成除幕式。
  (天皇陛下即位を記念して建造。総工費2億円)

・・・ちょっと調査が不十分だったかも。(数年分読むだけで疲れた)
何がきっかけで誰が言い出していつ頃に「春野を天狗の町にしよう」と決めたのかを知りたい。
秋葉神社の再建と大天狗面設置が契機のひとつとなったのは確かなことですが、大天狗面のところにある看板を読むとそれ以前に町の天狗化の動きがあり、その流れで神戸から大面を貰ってきたそうであるので、それ以前のことも知りたい。でも疲れてしまって昭和61年以前の分は今日は読めませんでした。また読みにきます。

春野における「天狗」とは、決して秋葉山三尺坊のみを指しているものではなく、むしろ周到に宗教色は排されています。30年も前に(今から見れば不十分ながらも)テングのキャラクター化を図っていたことは注目すべきであるでしょう。しかし、どこを見ても「この町にとって天狗とは何か」「天狗の町とは何であるべきか」という事は語られていない。「春野は天狗が作った土地だ」とも「春野には天狗がまだいる」とも「春野人は天狗の子孫である」とも「天狗的生き方をすれば幸せになる」とも「春野の天狗の山はコレとコレとコレ」とも「鼻が長いと便利だ」とも「みんな天狗になるべき」とも「山と一体化しよう」とも「火事ダメゼッタイ」とも「春野は民話の里」とも「天狗的社会が未来的社会の理想型」とも「天狗は茶が好き」とも、そういうことは全く言っていない。
要は「山の幸と川の恵みに満ち溢れた里」「天狗は元気」、それが「天狗の里」なのであります。

それにしても「秋葉天狗街道」は新・光明山ふもとの「春野(国道362号)と佐久間(国道152号)への分かれ道」の入口から「日本一の大天狗面および天狗橋」までの約22kmぐらいの間を言うのかと思っていましたら、「峯小屋トンネル」から犬居城そばの「若身橋」までだったんですね。(長沢バイパスと犬居バイパス工事を記念して名付けられた愛称だから)。道理で大天狗面の付近には看板が無いと思った。この2つの道路が無い時代に春野まで遊びに来る苦労を思うと、愕然としてしまいます。ぶるぶる。昔の人は大変だ。

あと、一つ感心したこと。
さすが天狗の里春野町。
図書館に知切光歳の『圖聚天狗列伝(東日本編)』がありました。
天狗列伝の置いてある図書館、初めて見たぜ。
が、この本、古書でも高いし、かさばるのです。この図書館でも、東西セットではなくて、東日本編しか無かった。
そして、とても残念なことは(内容を読まねば分からないことなのですが)
知切光歳は、静岡の天狗は「西日本の天狗」に分類しているのでした。
だから、春野の秋葉山三尺坊は、この本には載っていない!
(新潟の秋葉山三尺坊は「東日本編」に収録されていますよ)

また、『天狗の研究』もありました。



そこから秋葉神社の下社へ。
この坂、死にそうになりながら登った記憶ばかり思い出すなあ。もちろん、今日の私は極めて健康です。
秋葉神社の下社はこじんまりとしていて、ほとんど見る場所が無いのですが、建物が新しくてピカピカしている上社に対して、こちらは古びていてぼろぼろなのが、却って良い感じのお社であります。「秋葉神社」と「秋葉寺」は現在きっちりと分離していて、神社の方は天狗色を断固として排除しているはずなんですが、よく見るとささやかに天狗を飾っていたりするのは見所です。





この拝殿って何なんでしょうね。(何も無い)
秋葉山の祭神は遙か遠い山頂におわすので、山頂の方角に向かって座って拝む為の施設なんですかね。この段を昇って戸を開けると、向こうに何があるのだろう?(祭日に来ると分かるのかも知れない)



売店にも天狗グッズが豊富なのですけど、この日はもう17時半を過ぎてまして、すでに店仕舞いされていました。



手前のこの砂場って何をする場所なんでしたっけ。火渡り?(まさかね)



それからこれ。これ何だっけ?(大きな雪かき用のスコップをひねったものみたいのが上から吊り下げられている) ・・・叩いて音を出すもの?

神社の手前から気田川原に下りてみます。



下社の前の川原はキャンプ場になっていまして(川遊びも自由に出来ますけど)まるで「海の家」ならぬ「川の家」みたいな感じです。
ここも随分気持ちの良い川原ですけど、気田川は全体的にどこも気持ち良くて、そこら中にキャンプ場がある。野宿なんていちいちお金を払う必要のないところでやれば良いじゃんと思うのですけど、お金を払ってまで泊まる施設のある場所ってのは、すば抜けて景色が良くて、お金を払うのが惜しくも無いくらいのところなんですよね。

秋葉山麓の川原は川天狗の伝説が多く、「夜になると天狗が山から降りてきて魚を捕る」伝説がいくつもあるのです。場合によっては遠州灘にまで飛んでいきます。

「駿遠州へ至りし者の語りけるは、天狗の遊びとて、遠州の山上には夜に入り候へば時々火燃えて遊行なす事あり。雨など降りける時は、川へ下りて水上へ遊行なす。これを土地の者は天狗の川狩に出たるとて、殊の外慎みて戸などをたてける事なる由。如何なる事なるや、御用にて彼地へ至りし者、その外予(=著者・南町奉行根岸鎮衛)が召仕ひし遠州の産など語りしも同じ事なり」(『耳嚢』巻之三、天明・寛政の頃)
「遠州海辺に天狗火と云ふものあり。土人これに逢ふ時は甚だ恐怖叩頭拝伏して、あへてみる事なし。遠方に現ずれども人一度呼ぶ時はたちまち眼前へ飛び来る。この火にあふもの多く病悩すと云ふ」(『譚海』巻二・巻九、天明・寛政の頃)

どちらも文中に秋葉山の文字がありませんが、両方とも秋葉の怪異について述べたものです。
「秋葉山の山頂から下りてくるとしたら、どのあたりが一番便利で一番魚が捕れやすいのかな」ということを川原で見て較べてみたいと思ったのですけど、まあ、素人にそんなこと分かるわけがありませんわね。いちいち見に行くと気田川はどこだって絶好条件なのです。地理的な近さで言ったら実は「日本一天狗面」のある付近が一番近い。川幅も広い。が、天狗だって宗教者の端くれ、信仰心に篤い人たちが千年使った秋葉寺の参道を丁寧に下って川邊に出ようとすれば、領家という集落があるんですけど、その付近の気田川は人の気配はあまり感じられず淵は深い。でも、天狗ってのは人を驚かせてなんぼなのだから、人に見えるように降りるとするとやはりこの秋葉神社下社から人口の多い犬居の里の辺りになるんじゃないか。一方で、魚がよりたくさん獲れそうなのは気田川と天龍川が合流する千草の渡河点付近、もしくは少し上流の東雲名・西雲名の付近、もしくは誰も知らないような淵に好漁場がありそうな気もしますよね。秋葉ダムに沈んだあたりとか、「鮎釣」の集落の大カーブ地点とか、明神峡とか、怪しいところが他にもいっぱいあります。
「漁をする天狗を見ると、目が潰れる」と言います。
あるいは「片目の魚を見付けたら、それは狗賓様の獲物なので決して捕ってはいけない」とも。
天狗が出るのは雨の日の晩なのですよね。実は川原のキャンプ場って凄く危ないんですよ。(台風の日に田んぼを見に行ってはいけない、と同じ意味の戒めなのだろうか)。そうかっ、雨の日にキャンプに来ればいいのか。良いですね、いつでも出動できるように七輪と木炭を準備しておきましょう。(テング火見てみたい)



下社前の川原は、眼前の光明山の山影となってすぐ日が落ちる感じです。キャンプ場は800円。

・・・もう夕方です。
今日はあと春埜山に登って、それから新光明山にも行って、という計画を立てていたのですけど、計画倒れに終わってしまいました。今日はこれでおしまい。
帰りに、西鹿島に寄りました。



天狗研究の第一人者として今をときめく早瀬狗王(秋葉山三尺坊総本部長)氏が1994年に出した画集『天狗百態』の解説に、西鹿島駅の近くに「テングー・ランド国際天狗山の神資料館」というのがあると書いてあるのですけど、それが今どうなっているのかと思って。その本には「薬局の店内にコーナーを作って約500点の民芸品(面、土鈴、絵馬、置物、掛け軸、絵他)を展示している。但し将来的にはしかるべきところに寄贈して本格的な資料館にするつもりである」と書いてあったんですけど、その薬局ってこのお店ですよね。残念ながらこの日はもう店終いされており、また店頭には資料館の説明とか案内とかそういうのは一切見受けられませんでした。残念。でも、浜松には一般人の天狗の研究者の方がいっぱいいるってことです。いつの日かそういう人達とお知り合いになれるよう、私も頑張りましょう。
以前、「笑喜家」や「精進」のあった於呂のあの場所に、新しいラーメン屋が準備中なのを見て帰りました。



2日後(5/15)、再び天龍川へ向かいます。
今日は、光明山笠峰坊/利鋒坊のおわす旧天竜市の光明山へ。



大天狗・光明山笠鋒坊(こうみょうさん りゅうほうぼう)はおそらく、大総帥・秋葉山三尺坊が誇る「74人の眷族」のうちの筆頭なのです。
光明山(539.7m)は秋葉山(885m)のすぐ南にそびえ、江戸後期に大流行した「秋葉詣で」には光明山にのぼり光明山の摩利支天に参拝してから秋葉山にむかうのが一般的でした。
開基は秋葉山と同じ行基菩薩。伝説では摩利支天の神託を受けた行基が光り輝く山に入って摩利支天と虚空蔵尊の石像を彫って寺を建てた後、1年後にさらに北へ歩いて秋葉山を発見したと伝わっています。
元亀3年の犬居城合戦では秋葉山に武田信玄が、光明山に徳川家康が陣し、山頂から盛んに矢を打ち合ったと伝わりますが、伝説上のその陣はおよそ6km離れているので「東海一の弓取り」と呼ばれたさすがの家康でも実際は届くか届かないかのところだったと思います。ただ、徳川家がこの山を大事にしたのは確かなようで、秀忠と家光が寄進して建てられた大伽藍は諸国に有名だったと言います。が、明治9年と昭和6年に二度にわたって大火災が起き、すべて焼失したので昭和14年に山東地区の現在の位置へ移転再建しました。火坊天狗の山が何度も大火事に遭うのは遠州地方の伝統的な風習です。

自分の中でひとつ解せなくなっていることがありまして、光明山の天狗の名前は「利鋒坊(りほうぼう)」とも「笠鋒坊(りゅうほうぼう)」ともいうんですが、前に「魅惑的な遠州地方の天狗」 の地図を作っていたとき、5年ぐらい前の私はこの二人をハッキリと「別人だ」と断言したんですよね。それにはそう結論づけるに足る何か明晰な理由があったはずなのですが、今の私にはそれが何だったのかいまいち思い出せない。
「利鋒坊」の説明があるのは知切光歳の『圖聚天狗列伝』。彼はこの名を宝暦の頃の書『天狗名義考』(名古屋の人・諦忍が書いた)から引用しました。
ところが本に「利鋒坊」という名前を書くのは知切師のみで、浜松在住の人は大概この天狗のことを「笠峰坊」と書いている。おそらくこれは、現地在住の知識人・兵藤庄右衛門の書いた『遠江古蹟圖繪』を資料にしているからじゃないかと思うんです。
知切師は『天狗名義考』の利鋒坊について、「名前以外には何も記していない」と書いてあるのに対して、僅か50年後の『圖繪』には庄右衛門による詳細な笠峰坊の解説があるのですから、これを対比して「利鋒坊と笠峰坊は別人だ」と私は思ったのかな。「利鋒」は「鋭く尖った槍のようなもの」という名前なのに対して、「笠峰」は「笠のような山の頂上付近の形」という意ですしね。(光明山の標高は低く、笠のような見た目です)
現在でも、利鋒坊と笠峰坊の違い(あるいは同定)について書いてある本はありません。

でも、改めて『遠江古蹟圖繪』を丁寧に読んでみますと、兵藤庄右衛門のお寺の記述は詳細なものの、その守護神である天狗については「権現祭は9月28日、湯立、ならびに神楽有り。27日夜七十五膳あり。秋葉同様なり」とあるのみで、全然記述は詳しく無かったのでした。私は、「知切師は遠江古蹟圖繪を読んだことが無い」と思っていましたけど、実は読んだ上で「名前以外には分かることが無い」と断言していたのかも知れない。
私の誤解の原因は、現在光明寺が説明している笠鋒坊の説明がとても詳細だったからだと思います。昭和15年に光明山31世甘蔗明道師が記した『光明寺年表』というのがあるのですが(お寺の受付で買える。500円ぐらいだっけ。でもここは平日は人がいないので気をつけて)、その冒頭に「養老元年、僧行基勅詔を蒙りて当山を開創し、自ら本尊三満虚空蔵大菩薩ならびに摩利支真天および十一面観世音菩薩の尊像を刻作す。僧最傳なる者来たり随喜す。寺伝に云わく、光明山は天地開闢の始めより神明仏陀の守護し玉う霊場にして、昼は樹上に瑞気あり、夜は巖中より光明を現す。行基菩薩この奇瑞を見て歓喜に堪えず、壇塲に結界して虚空蔵菩薩の求聞持法を修しければ宝剣飛来して瑞応を空中に現す。また定中に観念を凝し、笠鋒坊権現の7千5百の眷属と俱に明星谷の森林に遊現し玉うて拝し、更に鏡山の巖下に坐して摩利支天の応現に接し神託を蒙る等の霊験多し」、さらに「天平5年、最傳数多の眷属を卒し来り住僧霊澄に告げて曰く、我常にこの山に住し長く群生を利済せん、と言い了って白雲に隠る。後に崇敬して、光明笠鋒坊と称し、世に大天狗と呼ぶ。これを以て皇国天狗の本地と云い伝う」、「大同元年、秋葉山の請いに応じ、当山より大権現の眷属75人を派遣し、約するに、月見の宴をなして帰らしむ云々と。而るに爾来秋葉にては月見をなさず、献詠者あるも月見の文字を憚ると」、「嘉永5年、山門の童沙弥、絶倒してすぐに起き、住持碓山に告げて曰く、われは是れ山護笠鋒坊大権現なり。更に摩迦羅神王(大国天)の像を造り国民の福祉鎮安を祈請せよと。これを幕府に告げて京師の彫刻師丹羽七郎右衛門に嘱して大国天を謹刻せしむ」などと書いてあるのを読んでいたから、勘違いしちゃったんですかね。知切師はさすがにこの『年表』は入手してなかったと思います。(おそらく知切師も平日訪れたんじゃないでしょうか。お札売り場に人が居なくても大丈夫、気を長くブザーを押し続ければ、人が出てきてくださいますよ)

注意するべきは、寺の正式な縁起では「笠坊」ではなく「笠坊」となっていることです。やはり尖った宝剣が名の由来なんですね。「笠」の字はどこから来たんでしょうね。

光明護国禅寺は、二俣の市街地の北のはずれにあります。
二俣という地名は、天龍川と二俣川が合流する地点の絶壁にお城(二俣城)があったから「川がふたつに分かれるところ」という意味で二俣と呼ばれるのですが、今では地形が変わり、川は全く二俣じゃなくなっているので、私的にはこの光明寺のある地点が秋葉山へ行くに当たって「佐久間側へ行くか(国道152号線)」「春野側へ行くか(国道362号線)」の分岐点となっているので「だから二俣なんだ」と思うことにしています。

「光明寺を名乗るからには新しいお寺も光明山のどこかに作るべきだったのに」と浅く思いますけど、改めて地形図を眺めますと、新しい光明寺の建てられた名も無いこの山も、実は光明山の一部だったりしたのでしょうかね。(大谷から船明にかけて掘削された?)



新光明寺入り口。新しいお寺なのに、すでに良い感じに苔むしています。
石段の上り口は「女厄除け坂」という名前が付いていますが、30段ほど登ると「男厄除け坂」と名前が変わる。
また朽ち果てた石仏もいっぱいある石仏寺でもあります。
この場所については寺伝(光明寺年表)にこうあります。「当山有縁の勝地・元光明。元光明は行基菩薩光明山開創以前に当所に草庵を結び、光明山と称し居ること暫くす。天正11年、二俣城主大久保七郎右衛門厚く帰依し、山林田地を喜捨し、行基初休の地に離刹を創立し、元光明山と称す。降って寛文10年宝林寺と改称し当山の門葉となし明治6年廃寺となる。故に(昭和14年の再建は)移転というよりは寧ろ帰元というべきなり」



正面にあるこの綺麗な建物が本殿だと思うでしょう?
でもこれは実は「大国殿」。金ピカの巨大大黒が中にいます。(平日は鍵か掛かっていて入れません)
本殿はどれかというと、背後の坂の上にある少し小さめの建物。



「三満殿」といって中に三満虚空蔵菩薩がおわします。(見れない)。
「三満」とは「智」「福」「威信」を満たすという意味ですって。


下の広場に戻って大黒殿の左後ろの味のある黒い建物。これが天狗の御真殿で、「光明殿」という額がかかっています。ただ覗いても「摩利支真天」という大提灯がぶらさがっているのみで、どこが天狗なのかさっぱり分かんない。唯一、紋が天狗のうちわでした。(モミジではない)





そして、絶対に行かねばならないのが背後の山の上の方にある「奥ノ院」。
これが、大したことない高さに見えるのに、登ってみたらめちゃくちゃしんどい。健康バリバリの今の私ですらしんどい。



なんだろう、とても低い山なんですよ。山頂でもないのに。
どうしてこんなに疲れるんだろう。こんなところにこんな建物を作っちゃうんだから、本当に信仰心ってすごいです。この建物には2階部分があるんですかね。(中から見上げると無いように見える)



「ここにこそ天狗を祀ればいいのに」と思うんですが、この奥之院の守護神は「三宝摩利支眞天」です。「摩利支天」ではなくて「摩利支眞天」。合戦の守護神。犬居城攻防戦の勝利を記念して家康から与えられた「家康の兜の中の御持仏」(どの兜だろう)の摩利支天の小像を安置していたのだそうです。(ただしその像は「以前盗賊が入って盗まれてしまったと住職が語った」と、遠江古蹟圖繪に書かれています。『光明山年表』にはその盗難事件についての記述がないのですが、天保14年に「3月5日、将軍家慶公日光御参拝の時、当山奥ノ院に奉祀せる兜入摩利支天を御本丸に迎え、御留守中住持良運に嘱し、武運長久の祈願を修せしめ玉う。5月、住持良運、大島へ流罪せらる。此のため一山の衰頽し塔頭寺院皆廃す」という変な記述があります。天保14年というのは兵藤庄右衛門が『圖繪』を書いたよりも40年近くも後のことです。あるいは、この時「兜入摩利支天」が紛失&偽物であることが発覚して、住職が伊豆大島へ流されたのでしょうか?)

堂の前には「イノシシ狛犬」が2つ並んでます。



眼下に見下ろす二俣の町。



ぶひぶひ。

で、前回来たとき、ここで私は満足して帰っちゃったんです。
でも、帰ってはいけなかったのでした。ここからあと少しだけさらに登ったところに、笠鋒坊様の石像がおわすというのです。5年前の私は知らなかったぜ。



いた! 天狗だ!



ちゃんと鼻を強調してつくられているのが分かります。
私には見付けられなかったのですが、神谷昌志氏の御本によりますと、側面に「二十世碓山代」と彫られているとのこと。嘉永5年に小僧が化けた天狗に出合って巨大大黒を作り上げた御住職ですね。その頃はまだお寺は光明山の山中にあったはず。碓山和尚はこの石像を一体どこに立てたのでしょう。旧・奥の院?





この場所には笠鋒坊以外に、お不動様となんやら分からぬ石祠もあって、3つがむかいあって立てられています。このお不動様も良い造りですね。・・・ていうか摩利支天?(猪がいないと分からないです)。さらに上まで登って行けば、山頂に展望台があるとのことですが、、、、 今日の私はもう疲れ果てました。

(・・・つづく)





境内の中心に最近作られたらしい輪蔵的なマニ車的な石柱があり、ちゃんと「正一位光明笠鋒坊大権現」の名前が刻まれておりました。ありがたやありがたや。
「正一位」の神階をくださったのは桜町天皇(元文3年、1738年)だそうです。(『光明山年表』)

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揺るがす者の寺院。

2014年05月13日 19時54分25秒 | 遠州の歴史


相も変わらず天狗様に夢中です。
以前「魅惑的な遠州の天狗の地図」というのをgoogleで書いていたのですが、少し前に「新しいGoogleMap」というのが登場しそれに移行した途端、非常に編集しづらい事態になってしまったんです。新しいバージョンは文章書きに必要な機能がほとんど削除されていて、全く私の使用の目的にはそぐわないしろものだったのです。「しばらく待っていたら便利な機能とか次々と備わっていくのかもしれない」と思って待っていたんですけど、半年経ってもその気配が無い。やがて、プンプンしながら古いバージョンのgoogle地図で同じのをもう一度作り直すハメとなりました。この野郎っ、一体何度目の作業だと思ってんだ。でも考えてみればgoogleの人は新しいのを作ったのに「古いバージョン」を未だ残して今でも万全の機能で使えるようにしてあるんですよね。そこにgoogleの良心(そんなのあるのか?)を窺い知ることができます。けど、私の使い方はgoogleが推奨しない使い方だってことですよね。(ごめんなさい)。この分だと古いバージョンもいつ使えなくなるか分かったものではありません。私は地図とブログを組み合わせた素晴らしい便利サイト(自分にとって)を作りたいだけなのに。

で、新しく作り直すに当たって写真がいろいろと必要になったので、また必要に応じて写真の再入手を頑張ることにしました。
実は、悲しい事情で昔撮った写真の大部分を私は失ってしまっているのです。

まずは秋葉山へ。



春に行くから春野町。春野の春の山の緑はとてつもなく美しい。
・・・じゃなくて、ここはまだ旧天竜市。
まず清流で有名な阿多古川をのぼって「石神の里」を目指すことにしました。
浜北人にとってはすぐ近くを轟々と流れる天龍川は確かに素晴らしい恵みの川なのですが、あまりにも流れが怖すぎて(一夏に死人が何人も出るから)、夏にいつも遊びに行くといったら普通は女性的な風情の阿多古川だったんですよね。子供の頃は「阿多古」の名の由来なんて考えたこと無かったのですけど、やっぱり秋葉天狗繋がりの名前だったのかしらん。

で、旧天竜市という町は意外なほど(←私にとってはね)天狗伝説の少ない土地なのです。
子供じゃなくなってからは阿多古川に足を運ぶ機会はなくなってしまい、でも子供時代のキラキラしい想い出は頭の奥底に宝物になっているものです。7年前、改めて北遠の天狗伝説を調べたとき、石神の里が「天狗の昔話」を誇っていることを嬉しく思いました。
7年前の私は書いています。
「天龍川の支流・阿多古(あたご)川流域にあるキャンプ場。小さい頃行きました。「あたご」といい「石神」といい、立派な天狗地名かと。私の小さい頃の集団キャンプでは廃校に泊まった記憶があります。 ここの公式サイトのマスコットキャラクターが天狗なのです。メニューにはお座敷「天狗亭」とか「天狗バーベキュー」の名も。 いわく、「石神の里の天狗バーベキューは、伝説の秋葉山のカラス天狗の大好物をしのびながら、更においしさとボリュームとスタミナを加えて、名物として開発されたものです」 コースとして「お得なグループセット(25名様以上)」は、◎天狗コース(2100~4200円) ◎しいたけコース(2100~3150円) ◎山芋コース(2100~4,200円) ・・・魅惑的ですが、なんでしょね、この値段の差。 公式サイトにある「阿多古の昔話」より。 「昔、観音山にコタローという名の小天狗が住んでいた。ふもとの石神の里におりてきては悪さをし、村人たちが困るのを見て喜んでいた。 冬の寒い日、腹をすかせたコタローは食物を恵んでもらおうと村人の家の戸をたたいたが、誰も開けてくれなかった。寒さとひもじさで震えているコタローを哀れに思ってひとりの爺さんが、婆さんのこしらえた麦飯とろろをふるまってくれた。コタローはお礼にうちわを置いていった。このうちわで畑をあおぐと山の芋がたくさん取れた。それ以来、石神の里では日本一味の良い山の芋が取れるようになり、麦飯とろろが名物になった」。コタロー。 結局のところ、この天狗が「秋葉の天狗」なのか「観音山執金坊」その人なのか、知りたい」

でもだがしかし、先日調べたら「石神の里」は今現在天狗由来を捨て去っているようなのです。なんてこったい。
7年前のわたくしの心を掴んだのは「天狗バーベキュー」の説明。
「石神の里の天狗バーベキューは、伝説の秋葉山のカラス天狗の大好物をしのびながら、更においしさとボリュームとスタミナを加えて、名物として開発されたものです」。
でも、2年前のあの恐ろしかった巨大台風の時、石神の里の名物だった「鮎のつかみどりの池」が再起不能の被害を受けてしまったそうで、それに伴って業務縮小がおこなわれ、「天狗バーベキューの食材の提供」もやめられてしまったそうなのです。天狗も鮎も無い石神の里、いったい何がどうなってしまったんだ?
これは、ぜひとも見に行ってみなければと思っておりました。

鹿島の椎ヶ脇神社のところから主要道を離れてひたすら北上します。阿多古川は本当にキレイな川ですね。でも、私が小学生だった50年前に父に頻繁に連れてきてもらっていた淵は、もうどこなのか思い出すことができませんでした。悲しい過去の想い出。(おそらく下阿多古小学校の付近だったと思います)。
それにしても阿多古川沿いの町ってとてもたたずまいが綺麗ですよね。そして変な神社もたくさんある。


阿多古大ナマズ神社。(本当にそういう名前なんですったら)

川をどんどんさかのぼって、「あれ、こんなに上流だっけ?」と思ったあたりに「石神の里」はありました。





あれ? 「鮎つかみどり」「天狗ハベキュー」と書いてある。
でもサイト(ブログ)を見る限りは、実質場所貸出し専用の施設となっているみたいです。
天狗伝説を捨て去ってしまった今、「天狗ハベキュー」の文字が悲しい。
もっと愕然としたことは、「ここは私の記憶の中にある石神の里と違う」と気付いてしまったことです。「石神」というのはこの里の字のことでして、つまり50年前の私はこの付近の別の廃校に泊まったんですね。8歳の私が(カブスカウトだったんですよ、デンデンデン)初めてインスタントラーメンを食べたという忘れがたい記憶が、石神の里のどこかの(今はあるかどうかもわからぬ)その廃校にあるのでした。
でも、ここはそれなりに雰囲気は良いぞ。「公式案内」によりますと、バーベキューの食材は自分で用意しないとならないそうですが、席代は500円でガス台が2000円だとか。いえ七輪を持って野宿すれば日本全国の川どこでもタダで行けるのですけど、ここの宿泊の場合、バンガローが1人2000円なんですって。(駐車場が1400円)。いいかもしれない。屋根のある2000円はいい。1人でも申し込めるだろうか。(1人じゃムリだよね)
7年前の私と今の私が違うところは、本をよりたくさん読んでいるところです。「石神の里の名の由来」は天狗とは全く関係が無い。

「出かけよう!北遠へ」

ただ、この里と阿多古川を挟んでそびえている山が観音山であります。(この山もまた浜北の小学生が林間学校に毎年訪れる山だった)。観音山は天狗の山。そこの執金坊が石神の里に下りてきて、石神でなにかやらかした(知られていない)逸話があるのかもしれない。観音山についてのレポートも近いうちに書きますからね。




(石神の里付近の阿多古川)

そこから県道296号線を北上して熊へ。
旧天竜市熊は、道路標識等には「Kuma(くま)」とルビが振ってあるのですが、住んでいる人はみんな「くんま」と発音するのだそうです。
本当に、山の奥の奥の奥の村で、天狗伝説がひとつはありそうな感じなんですけど、本を読んでも全く見つからない。
「モトクロスパークくんま」のある場所の地名が「天狗塚」というそうなので、天狗がひとりもいなかった訳がないのですけどね、調べても分からなかったです。ここでは天狗よりも熊の方が強かったってことですね。


(道の駅「くんま水車の里」のあたりの阿多古川。水の透明度が死ぬほどキレイ)

そこから県道295号線を東へ走って秋葉山へ。
天龍川の秋葉山上社への参道の橋(東雲名)を渡り、秋葉山の南の道を通って春野町へ。
その途中で、「千草」の集落のあたりで足を止める。
千草で調べたかったことは2つ。
(1).少し前、「春野天狗街道」について調べていたとき、全然見当違いのところで似たような看板を見たことがあるのを思い出したのです。


グーグル・ストリートビューの写真。

うむ、似てるが別の看板だ。(天狗の里はるの ○km先と書いてあります)
この看板の記憶のせいで、「春野天狗街道はどこからどこまでだ?」とずっと悩んでいたんですよ。(ストリートビューで見れば一発でしたが)
解せないのは、この「千草」の小村のある地区は、2005年の合併以前は旧春野町ではなく旧天竜市に属していたことです。天竜市域内の場所に、春野町が看板を立てますか? でもそもそも春野町と天竜市が気多川を市境に設定していなかったことに地図上の違和感を感じます。(「雲名」も天竜市だったですよね)。汚れ具合を見ればかなり古いのですけど、昭和61(1986)年に設置された「日本一の大天狗面」を図案にしていることはわかります。

(2).「てんご塚」の昔話について。
御手洗清氏の『続・遠州伝説集』(1974)に書いてあるんですけど、それを要約した私の文書がこちら。
「千草の集落から天龍川を挟んで対岸にある形の良い山に、夜になると頻繁にまるで山火事が広がるようにパチパチと音を立てながら火が燃え広がるのが見えるので「天狗様がいる!」と「天狗塚」と呼ぶようになりました。
ある日、いつものように夜光る山を見て「天狗様がまたやってるよ」と言い合っていると、見知らぬ老人が「いや、今日はこっちに飛んでくるぞ!」と言います。その言葉に応じて天狗の火が本当に村の近くまで迫ってきたので、村の人はびっくり仰天。大騒ぎしているうちに天狗の火はいつの間にか消えてしまい、見知らぬ老人もいなくなっていたということです。天狗様もせっかくやっているのだから村人たちに常に驚き怖がってもらわないと困る、とそういうお話し。
「天狗」がやがて訛って「てんご」となったそうです」

千草の里から見る「形の良い」てんご塚の写真を撮りたかったのです。
車を停めて周囲を見回し、一番よく見える山を見定めて撮った写真がこれ。



でも残念、この山は文中にある天龍川では無くて気多川を挟んだ上島の集落の方向です。
西に目を向けて天龍川の向こう側に目をやりますと、、、 思ったより遠いぞ。



凄く参考にしている「出かけよう! 北遠」さんが似たようなことを書いてました。うむ、よく分からない。『ふるさとものがたり天竜』という本を私はまだ手に入れていない。



秋葉神社の前を通り過ぎて国道362号線へ。この道路が「秋葉天狗街道」です。
国道362号から秋葉下社および秋葉寺への参道への道(今通ってきた道)への入口に、天狗のモニュメントがあります。
(もうひとつ、秋葉寺の参道への無料駐車場にも像があります)
こういうのって、費用にいくらぐらいかかるんでしょうね。



左から。



右から。



正面から。(ぼけちゃった)



足元にある「秋葉大天狗の高下駄」の説明版。
なんと、これによると気多川の河原のどこかに「秋葉大天狗の足跡」の遺跡があるってことじゃないですか。(そんな民話はきいたことなかった)



このモニュメントの背後にあるなにかいわくありげな赤石のふたつ石。(実は何も意味が無いみたいです)
後ろに片顔を覗かせているのが、わたくしの愛車“シャア専用ではない”アウリス号。



小腹が空いているので、昼飯を摂ることに。家を11時前に出発したのにもう13時半。なんて時間の経つのが早いんでしょう。
脇道へ入って不動川を遡り、熊切製茶の運営する「春野いきいき天狗村」へ行くことにしました。
平成4年開業です。「塩の道の駅」を名乗ってます。大天狗面の設置が昭和60年ですから、一番春野町の天狗ブームが盛り上がっていた頃でしょうかね。ここで以前食べた「天狗定食(竹)」1500円がとても美味しかった記憶があるのです。(その定食での天狗要素とは「山野菜の天麩羅」でした)。でも、天狗定食は以前食べたので、今日は「いのしし丼」(1000円税込み)か「鹿の焼き肉丼」(1000円税込み)が迷った末、「鹿焼肉」を食べてみることにしました。「なんか天狗ぽいよね」と思って。天狗も宗教者の端くれとはいえ、れっきとした破戒者ですから、生臭とか当たり前に食べますよね。食べるとしたら熊か鹿か猪か山女魚ですよね。前に来た7年前と値段が変わっていないのが嬉しいところ。



「玉ネギと人参の多い焼き肉だな」と一瞬見た目的に思ったのですけど、大丈夫、肉も存分に入っています。鹿の肉というのは非常に存在感のある食材ですよね。噛み手があって、食べ応えが好き。固さも好印象。「豚や牛とはまた別の分野の肉」という感触が味わえるのには大満足でした。固い。ごりごり。



この写真を見て多分浅子さんは「色悪い」「写真ヘタ」「もっと美味そうに撮れ」と思うと思うのですけど、鹿は実際こんな色でしたよ。でも食べたらうまかった。
天狗村には天狗グッズもそこそこ置いてあるのですが、今回買いたかったのが「コチラ」でした。


トリイソース、2011年2月のブログより)

安芸の国の天狗を調べていたとき、お好み焼きに宇宙の真理を希求する安芸の人々はソースというものに一際こだわりを持ち、「地ソース」というのがいくつも存在して、そのうちの通向けする一つとして有名なのが三原市の「天狗ソース」だと知って、「地ソースなんてあるんだ」と面白く思っていたのですが、我が浜松にもあるじゃないですか地ソース。浜松ではトリイソースはとても有名なメーカーだったのでした。そのトリイソースも出しているのですよ、「天狗ソース」を(春野から委嘱されて作っている商品)

私は醤油は大好きですが、ソースは滅多に使わないんです。ですから違いなんてほとんど分かんないと思うんですけど、トリイの天狗ソースは春野の山椒を使ってるんですって。ピリリと山椒の効いた美味しいソース。へえ。
更に、同じく春野の山椒を使った商品に、「天狗煎餅」という新商品もできた(2013年)というのです。
春野の山奥では、天狗要素が「山椒」なんですね。これは面白そうだと思いました。
でも春野のいきいき天狗村では残念ながら天狗煎餅は売られておらず、天狗ソース(420円税込み)と新茶の熊切の春野茶を購入しました。









天狗村のうしろの不動川の河原には、川遊びできる場がありました。
そこに立っていたのが「天狗村の一本杉」。
決して「天狗杉」とは名乗ってないのですが「この木に抱きつくとストレスが解消されます。木の生命力が貴方を元気にします。本当だと思う方のみやってください」という説明がありました。

家に帰ってから天狗ソースを味わってみました。
説明には、「とんかつ・カキフライの他、海鮮フライ又、お好み焼き・野菜炒め等にピッタリ!」と書かれてあるのですのが、面倒くさいので酒飲みの簡単つまみの定番である「生キャベツの男切り」で天狗ソースを食べて見ます。



おお、思ったより濃さの無い色。うまそう。



確かに香りに甘さを感じるのに実際にはほとんど甘くなく、でも山椒の風味は意外なほど感じない。「辛いか」と言われれば「そんな気もする」という程度。少しだけ舌がピリリとする。生のキャベツには抜群に合うぞ。これは良い。実のところを言いますと、私は子供の頃山椒って大っ嫌いだったんです。家の庭の玄関付近に山椒が一本だけ生えてたんですが、その近くを通るのもイヤだったぐらい。大人になったら味覚が変わり、大体大丈夫になりましたけど、今でも鰻に山椒なんかかけない。
キャベツの表面に浮かぶこの黒いつぶつぶが山椒なんですかね。このソースにおいてそこまで存在感の主張を控えめにしていてくれるのなら、愛おしさを感じる。瓶を見ますとこびりついているいろんなものが見えまして、「もしかして一食目の今において山椒はその鋭い剣技をまだ見せていない?」とも思いましたけど、これって山椒じゃないですよね。ソースの作り方すら知らぬわたくしはいろいろと口をもごもごするしかなかったのでした。ともかく「山椒をふんだんに使った天狗ソース」は私の口の好みに良い。ラベルの原材料を見ると、山椒は香辛料のひとつ扱いなのか。賞味期限は(未開封で)1年間。これから別の色々な料理に使ってみようと思います。



天狗村からふたたび川を下って「若身橋」の付近へ。
春野には「天狗まんじゅう」を作っている和菓子店が3店舗あり、そのひとつが「若身橋」の「月花園」だというのです。
若身橋付近は不思議な雰囲気の古い町並みですが、ちゅ、駐車場が無いぃ~

付近にはこんなのぼりも。天狗が健全に見守る町、春野。




本当に小さなお店です。
「秋葉山名物天狗まんじゅう」(90円税込み)と「秋葉山もなか」(100円税込み)と「青ねり」(90円税込み)と「塩青ねり」(90円税込み)と「抹茶青ねり」(90円税込み)と「キウイ青ねり」(100円税込み)を1つずつ購入。
また、家に帰ってから食べて見ました。



手前と奥にいるタコとイノシシは、くんま水車の里で買ったガラス細工(各500円)。家のメダカ水槽に入れてやろうと思いまして。



まずはあんぱんまんのようなおまんじゅうから。



半分に切ってみますと、なんと、予想外の見たことの無いアンコ。つぶがとてもはっきりした粒あんです。粘度も独特で、甘さひかえめ。これがむかし風なのかしらね。

つづきまして、秋葉さん最中。



包装に「遠州秋葉さん」と書いてありますけど、店頭での表示は「秋葉山もなか」。この最中における「さん」は敬称なのか特定地名なのか、あれこれ憶測を巡らせるのが楽しい(のだと思う)。ひっくり返すと店名と「犬居」という字名も丁寧に刻印されています。





半分に割ると、さっきとは全然違う餡。
一見「羊羹か?」とも思ってしまったのですが、食べて見るとしっかりとした甘い餡。しかもこしあんとみせかけてつぶあん。
わたくしの歯は、この2種類の餡を食べ分けて、凄く痛くなってしまいました。私だってまだ若いので歯はそれほど弱くなってないはずなんですけど、この手の餡には弱いんだなあと思い知りました。甘い物苦手だ。

続いて食べた各種の「青ねり」なんですが、



これが非常に食べやすい。歯に優しい。うまい! 大好き!と宣言したくなるくらい非常にもちもち。
なんで「テング食」を求めに旅に出て、名に天狗を冠してない非テング食が一番性に合うねん。
こういう体験が天狗が天狗たるゆえんなのかなぁと思いました。
黄色い「キウイ青ねり」が一番酒に合う感じでしたですよ。



そこから5km北へ走って「日本一大きな大天狗面」へ。
いろんな角度から写真を撮ります。









何度も見ている天狗の顔ですが、見ているうちに次第に見慣れてハンサムにも見えてくるから不思議だと思いました。
考えてみたら、これってここにもう29年も変わらず立ってるんですもんね。
ピカピカに維持し続けている春野の人たちもスゴイ。
あの目玉の中には光る装置も取り付けてあるんですってよ。
夜中にこの広い公園(駐車場)で天狗の大きな目だけがピカピカ光っていたら、○根大天狗神社もビックリですね。



で、これまたよく目にする案内板ですが、よく見たら隠すようにしてもう一枚案内板があることに気付きました。知らなかった。



多分写真ではとても見づらいと思いますけど、その場で目で読んでもとても読みづらい。
一応、解読してみますね。知ってることしか書いてありませんけどね。
「秋葉天狗
ここに設置されている天狗の大面は顔面高8メートル、同幅6メートル、鼻の高さ4メートルで、身長を確定すると50メートルの大天狗である。
昭和60年7月21日から同11月4日まで神戸総合運動公園で開催された第3回全国都市緑化フェア・コウベグリーンエキスポ85に日本の伝統工芸品と匠の技を紹介するパビリオン“そごう匠の村”を出展した株式会社そごう神戸店が、匠たちに優れた技を授けたと言われる天狗を匠の村のキャラクターとし、この大面をパビリオンの中庭に設置した。緑につつまれた会場で、紺碧の大空にそびえ立つ赤い大面は匠の村だけでなくグリーンエキスポ全体のシンボルとして多くの入場者に親しまれた。
会期終了にあたり各地に希望者があったが、古来天狗とのかかわりの深いわが町がゆずりうけここに設置したものである。
昭和61年○月○日」(←写真が不鮮明で読めなかった)

また、隣りにある小屋の中にも覗いてみますと天狗グッズが。



この巨大下駄はいつ使われるんだろう。



またこれ以外にも隣接する春野文化センター内にも少しだけ天狗コーナーがありました。
同じく、文化センター入口にある「天狗の鼻掛けもみじ」。





紅葉の時期じゃないとよく分からないかもしれませんが、ちゃんと天狗の顔に見えるように枝を伸ばされたもみじの木。



(つづく・・・)
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浜松まつり。

2014年05月03日 22時54分01秒 | 遠州の歴史


浜松まつりを見に行ってきました。

浜松では最も大きいお祭り。毎年5月3日~5日の3日間にかけておこなわれます。(昔は5日間だったと言われています)、「浜松の人のお祭り好きは大層なもので、真の浜松人は浜松まつりの3日間のためだけに1年間を生きる」と、どこかで聞いたことあるような褒め言葉もよく言われます。
このお祭りは、昼間遠州灘の海岸でみんなで仲良く凧を揚げ、夜になると市街地で屋台をひっぱって大声を上げてひたすら練り歩く、それを3日間くりかえす、そういうお祭り。
わたくしは浜北生まれの旧石器時代人ですので、浜松まつりには全く思い入れがありません。学生の頃に2度ほど見に行ったことがありますけど、凧揚げと練り歩きは部外者は参加できませんので、「参加する人はひたすら楽しいだろうが、見る人にはつまらない」という印象を持っていました。祭り期間の交通規制が酷いんですよね。最近は地域間の繋がりが弱くなり、祭りを通じた結束力も変容してきて、トラブルや要不要論も大きくなってきていると聞いたことがあります。

今年はひたすらヒマですから、30年振りぐらいに観に来てみました。
数年前から「また見に行かなければ」と思っていたのですけどその理由は2つ。
(1).何かの記述でどこかの屋台の彫り物が「源頼政の鵺退治」だというのを見た。
  (※どこでその記述を見たのか覚えてません。もしかしたら磐田あたりの別の祭りだったかもしれない)
(2).天狗模様の大凧を上げる町がある。



「昼間はタコ、夜は屋台」、ときわめて単純な祭り。
起源は伝説では450年前にまで遡るそうですが、今ではその説は「偽説」として退けられておりまして(ここのサイトさんが詳しい)、今、知られている限り「この時期に大凧をあげる風習があったらしい」とする最古の記録は寛政元年(1789年)に高林方朗が(高林家の長年に渡る記録は浜松では大変尊ばれています)日記に記した「四尺四方の凧に四百七拾弐文支払った」という記述。4尺(約1.2m)四方ってそんなに大きくないですけど。でも明治頃になるとかなり大きな祭りに育っていたそうです。ただの凧揚げ祭りで、神社的な由緒とかは全く無いそうですのに、歴史だけはそれなりに誇れるものであります。
昼間の凧揚げと、夜の豪華な市中引き回しのどちらの方が祭りの本体なのかといいますと、凧の方なんですって。
もともとは凧は各地域でそれぞれ揚げるものだったそうです。近くの地区で凧をあげていればわざわざそこまで行って凧をぶつけ合うこともなされたとか。(糸切り合戦の歴史)。それが明治42年に一つの場所に集められるようにされました。鉄道院の浜松工場建設予定地が広かったので、そこが会場に。ところが3年後に浜松工場が完成してしまったので、大正8年(一説に大正7年)に歩兵第67連隊練兵所(現・和地山公園)に移転。その間の8年間、どうしていたのかは不明です(ウィキペディアによると複数会場があったらしい)。昭和42年まで三方ヶ原の和地山でやってたのですが(昭和12~21年は休止)、あまりにも参加町が増えすぎて狭くなってしまったので、現在の中田島砂丘へ移ったのだそうです。(公式サイトでは昭和23年から中田島砂丘が会場となった風に書かれていますが)。「浜松まつり」という名前がつけられたのは昭和25年から。(その頃の浜松市の市域は現在の1/50ぐらいしかありませんでした)

今年は147もの町が凧をあげたそうです。5年ぐらい前までは参加町は増える一方だったのですが、ここ数年は落ち着いているそうです。



本日は絶好の凧揚げ日和です。
このお祭りに車で来るのは命知らずでありまして、車大好きなわたくしも今日ばかりは電車です。私は運良く遠鉄沿線に住んでるからいいとして、他の町の方々はどうしてるんでしょうね。と思ったら、天竜川沿い飯田公園に臨時駐車場が設置されるんですって。うひー大変だ。浜松駅からアクト塔まで行ってとこから中田島の凧揚げ広場までシャトルバスです。すごい人がバス待ち行列してるんですけど、臨時バスも絶え間なくやってくるのでそれほど待ちません。で、中田島の凧揚げ公園に至りますとそこから会場まで歩くんですが、その距離約15分。遠い。お祭りの出店がいっぱい出てまして、こりゃ子供を疲れさせて綿菓子やお面をいくつも買わせる作戦だな、と思いました。大変です。



まあ! 凄い人の数です。
この混沌具合を写真で表現するのは無理なのですけど、浜松は寂れた町だと思っていたけど失礼な話だったな、まだまだこんなに人がいるんだなと、感心することしきりです。主役は凧をあげる人たちですから、ただの見学者であるわたくしたちは極力邪魔をしないように注意しながらウロウロしないといけません。凧の人たちは凧の動きに合わせて移動しているので、うっかりしていると本当に容易に邪魔をしてしまいます。見学者はジャマ者。ごめんなさいごめんなさい。常に上に注意しながら歩かないと危険です。



このお祭りは「初子の誕生を全体で祝うための凧揚げ」を源としてまして、その風習は現在でも色濃く受け継がれています。そこかしこで凧の前で子供を高く掲げて皆で喇叭で囃し立てる儀式をしてました。子供は社会の財産だからこういう祝いは絶えさせてはいけない、というのが賛同側の意見。今でも初子しか祝わないんでしょうかね。(女の子の名前もいっぱいありました。1つの凧に2人ぐらいの子供の名前を書くことも普通なようです)。子供の名前の書いてない凧は、、 ま、そういうことだ。

凧は凧ですから一度あげてしまえばずっと空にいるはずです。それにしても凧をあげるって大変。今日は青空なのに風は微風で、ここでこんな大勢の人の中で大勢で大きなものをあげるには技術が要ります。なんせ会場には174の町の人と凧と、それ以上の見物客で溢れかえっているのですから。会場が狭すぎます。(最初にバスを降りた辺りや、海岸で凧を揚げている組もありました)。おまけに「凧を競わせる」というのもしなければならない。なかなか飛ばない凧や、荒ぶる凧や、ひとりだけ無尽に空を左右する凧や、墜落する凧も多々出ます。「こりゃ喧嘩になってあたりまえだよな、だって狭いんだもの」と思いました。でも昨年凧の喧嘩沙汰がニュースになったせいか、会場の均衡と穏やかさは一際留意されていると感じました。(でもそれは1日目だけかもしれませんね。この方々は3日間ひたすら5時間ずつ凧をあげつづけるのですから、かなり疲れる一方で2日目3日目ほど精神は高揚していくはず)



会場がひときわ盛り上がった場面が「凧が絡まっている場面」なのは見ていて面白いことでした。狭いので、もう、当たり前のように凧が絡みます。するとみんな集まってきて、やいしょやいしょとかけ声を揚げながら力強く糸を引く。写真にうまく撮れないのが悔しいところですが、こんなのどうやって凧を飛ばしながら糸をほどくというのでしょうね。見えないですが、糸の数だけの凧が絡まっているってことですよね。でもみんな「絡みをほどき慣れている」「こんなの日常茶飯事だ」というのが見て取れますし、傍目には喧嘩しているように見えますけど、一帯感は他のどこよりも大きくなっています。もちろん、途中で大破してしまった凧も各所で見られますが、それはそれで誇らしいものなのでしょう。



それぞれの町ごとに、予備の凧がたくさん用意されています。予備っていうか子供の数(×?個ずつ?)だけあるんでしょうね。おそらくここの見える以上の用意があると思われます。3日間揚げ続けなければならないのですから、。また、凧の用意が幾つあったとしても、各町で揚げる凧の数は、基本的に一度にひとつずつのようです。(全員で力を合わせて一つの凧を上げるため)


さて、天狗様の凧を捜しましょう。
会場でもらえるパンフレットに、各町の凧の模様とその由来が書いてありまして、バッチリと知りたいことがわかります。
天狗由来の凧をあげているのが3つの町。さすが浜松は「天狗の町」でありますからね。



そのものズバリ、「天狗様のタコ」なのは千歳町。
千歳町とは鍛治町や田町を除けば「浜松一の繁華街(歓楽街)」でありまして、ザザの裏手に当たります。モール街や三太や鰻のあつみのあることでおなじみですね。移転しちゃったけど餃子のむつぎくもありましたっけ。でも、この町の本当の顔は「夜の町」だそうですよ。どうしてその町が天狗の意匠を掲げているのかと言いますと、パンフによれば「この地方きっての古社松尾(まつのお)神社が氏神。御身体を守護する猿田彦命(天狗様)をもって他町の凧を威圧せんと若衆の意気衝天の心をよく表わしている」ですって。サルタヒコの神でしたか。



「松尾神社って天狗の神社だっけ?」と思ってあとで行ってみました。
うーーん、まったく気配すら無い。そもそもこの神社、千歳町ではなくて元魚町にあります。でもこの神社、こんな見た目ながら歴史が古く「浜松の守護神」とみなされていて、千歳町だけでなく肴町・伝馬町・平田町・旅籠町・塩町・成子町・東西菅原町・元魚町と合同で厚く尊崇しているとのことでした。(社殿が貧相なのは浜松全体が執拗な空襲で念入りに徹底的に焼かれたためです)。文中「御身体を守護する猿田彦命」とある「御身体」とは、京都の「松尾大社」と共通する主神・大山咋神のことなのでしょうね。「松尾神」と併祠される猿田彦である「白鬚神(=天狗様)」こそが浜松の産土なんですって。さらに、案内板にはこの神社を創建したのが「明徳2年に曳馬城の城主となった松尾信濃守という人」だと変なことが書いてあります。何者だ松尾信濃守?(信濃国主小笠原長忠の配下の名前に同名の人がありますけど、おそらく別人でしょう)。一般には曳馬城を築城したのは(諸説ありますが)今川貞相で、その年代は永正年間とされています。明徳と永正は近い年代ですが、静岡県神社庁編纂の『浜松市神社名鑑』(昭和57年)にも「松尾神社の宮司は浜松城に常勤し、城内にも松尾神を祀って城の鎮守としたため、浜松城は別名松尾城とも呼ばれた」と書いてあるため、何か知られない由緒を持っている神社ではあると思います。白鬚神がどうした理由で浜松まで来たのか知りたいですな。ハッ、近江--遠江繋がりでしょうかッ
ともあれ千歳町の凧の由来は天狗の元祖サルタヒコ神。これにちなんで千歳の衆は「天狗連」と名乗っており、なんかかっこいいな。





われらが三尺坊大権現の「天狗のうちわ」を凧の模様としていますのが三組町。
三組町には北遠の秋葉山の別当でありながら徳川家康の隠密となった叶坊光幡が、浜松城で近侍していた時に建てた秋葉神社(叶(かのう)坊)があるのです。明治19年に秋葉町・半頭町・清水谷町の3つが合併したので「三組町」という名前になったんですよ。
「三組町の中心にある秋葉神社が凧印の元である。秋葉神社は天狗の山として有名であり、その天狗の団扇もみじの葉が、神社旗の印になっており、神社のお許しをいただき、もみじを凧印とした」
そうそう、秋葉天狗のウチワは八つ手ではなくてモミジなんですよ。秋の葉といえばモミジで、秋葉山にいた蛙の背中にモミジ模様が浮かんでいるのを見付けた行基菩薩が「秋葉山」と名付けた、という伝説がありますから。(八つ手は常緑樹)



もうひとつ「天狗のウチワの凧」(こちらは棕櫚の葉)を揚げている町がありまして、それは上西町。
蒲の冠者の勢力圏の町であります。
「上西町の氏神である冨士神社の御神紋を示し、天狗の追い風に乗り、青空へ舞い揚がるようにとの願いが込められている」
富士宮浅間神社の大宮司・富士氏の家紋の棕櫚団扇は一般には天狗の団扇とは区別されているはずなんですね。でも、富士氏は天狗も信仰してたからこの家紋にしたという邪説もある(知切光歳はほのめかしているのみですが)。


ついでなので、徳川家康由来の凧もいくつか。
家康はドケチで有名で「役に立たぬ華美なもの」が大嫌いだったので浜松城下での凧揚げは禁止したという伝説があります。(次に浜松城主となった堀尾吉晴が凧揚げを奨励した)。意外と、同じようにケチで悪名を馳せた“倹約の権化”水野忠邦は浜松では凧揚げ自体は禁止せずに「凧は大きくしないこと」「色は黒一色にすること」と規定したのみだったといいますので(それでもかなりケチっぽい凧になってしまいますが)、浜松の凧に限定して言うのならば「水野忠邦よりも徳川家康の方がよりどケチ人間だった」と言えそうです。(ただし二男秀康が生まれた年に家臣が凧を揚げたという記述も偽書『浜松城記』にある)



佐鳴台の凧。
なんと、徳川家康の奥さんの築山御前をモチーフにしているのです。
佐鳴台には築山御前が殺害された御前谷があるからでありますが、「無念に死んだ築山殿の怒りを怖い顔で表現したのか!」と思ったらそうではなくて、「佐鳴台地区には、浜松城主徳川家康の正室、築山御前にまつわる大刀洗の池および赤宮神が存在していたなど、双方女性にまつわる史跡から、女性の喜怒哀楽を表現するという般若の面を使用している」と書いてあります。つまり心優しい女性から溢れ出るたおやかな感情の発露の束が、般若然の顔となるのですね。「般若」とはそもそも「智慧」のことであります。築山御前は聡明な(?)方でございました。私は般若湯が大好きです。
別バージョンもありました。さかさまでごめんなさい。大凧はバランスを取る為の棒が下に生えてますので、置くときはさかさまにするんですよ。



なお、佐鳴台はとても広い町で(1~5丁目まである)、佐鳴台1丁目だけは別の凧をあげるそうです。



「佐鳴台一丁目」なのに遠目では「佐二」と書いてあるように見えますが、これは「佐乃一」と書いてあるんですって。
「この地域が古戦場であったことから、佐乃一組が凧揚げ会場に挑む心境を、矢立の中にある一本の矢羽根として町のシンボルにみたて、これを凧印とした」
えっっ、佐鳴台が古戦場!? いつの時代のことだろう



小豆餅。
家康伝説では必ず紹介される「小豆餅婆さまと銭取伝説」の図案です。
「三方原合戦の地に今も残る小豆餅、銭取りの地名から、餅つきの杵を中心にして左右へ一文銭を配し、小豆餅の「小」の字をデザインした」
文字をデザインしながら伝説をもれなく包括するというとてもすばらしいデザイン。浜松には「小」の字の付く町は他にもあるので、これだったら「私の町だ」と一目で分かります。シンプルで居ながらかなり目立つ。小豆のお餅そのものではなく銭を図案にしたというのも秀逸。家康が払ったのは1文ではなくて2文だったんですね。ぷぷぷ。



それに対する「銭取」。(※写真を撮り忘れてしまったので公式サイトから絵を借りました)」。
(「銭取」という地名は泉町にあります)
「泉の周辺が銭取であったことから、昔の銭形である一文銭を凧印にし、町名の「泉」の文字を配した図柄としている」
ね、当の銭取りを擁する泉町が一文だといってるんですから、やっぱり小豆餅の値段は1つ一文で、家康は餅を2個買って食べたのだということがわかりますね。(波模様があるということは家康はもしかして寛永通寶(もしくは文久永寶)の4文銭で支払った? いえいえ、一文銭って書いてあるし、神君時代の浜松では独自の波模様のある一文銭が流通していたに違いありません)



富塚町北。
「武田勢が攻めてきた折、家康は驚き慌てて鯉の片方を食べ、片方の身はそばの池の中に捨てた。片身の鯉は出世して、佐鳴湖の主になったという云われを図案化した」
なんと、浜松の「片身の魚」伝説は秀吉だけじゃなかったのか。
家康凧はこれだけ。

秀吉由来の凧もひとつありました。



頭陀寺(ずだじ)町。
「頭陀寺城の松下加兵衛之綱に仕え、のちの太閤秀吉となる出世話にあやかって、ひょうたん印で初子の将来の幸運と出世を祈り、町民同士の語らいの和の意を込めている」

今川氏真由来の凧もひとつだけあったんですけど、写真が撮れませんでした。
恩地町の凧で「恩」って一文字書いてあるだけなんですけどね、この町の「恩」の相手は今川氏真なんです。

注目すべきなのが、この町の凧。



入野の凧。
書いてある「義廣」ってどちらのお子さんかといいますと引間城主だった飯尾豊前守の初子なんですね。浜松まつり由来の故事を凧由来にしてるんです。『浜松城記』によると飯尾豊前守に「義廣」という名の子供が生まれたのでそれを祝って入野出身の佐橋甚五郎という人が大きな凧を揚げた、というのが伝説上の浜松まつりの由来。でも、飯尾豊前守はふたり(飯尾豊前守乗連と飯尾豊前守連竜)いたんですけどそのどちらにも「義廣」なんて名の子供はいないし、そもそもこの時代に生まれたばかりの子に義廣なんて名を付けるか! ていうのが『浜松城記』がデタラメだと断定された大きな理由なのです。それを分かった上での入野町のこの図案。だって入野在住の佐橋某(この人は実在した)が凧を作ったとしても、凧に「義廣」と書く権利を持ってるのは元目町か元城町じゃないですか。
でも、飯尾豊前守連竜の子、飯尾義廣が「ほんとうにいなかったのか」を証明できないのも歴史の妙なのです。もともと斯波氏の被官だった飯尾氏は斯波氏衰亡後、今川氏にすりよったり謀反の動きを見せたりいろいろしましたので、永禄以前に、ごますりの為に子供の誕生にかこつけて「義」の字をもらう約束を早々にとりつけて(今川は「義」の字は容易に与えないはずなんですけど、飯尾氏は極めて稀な立場にあった)、でもやっぱりその約束を破り捨てた可能性が、そして引間落城後、飯尾の子供の存在が闇へと隠された可能性も(小説の世界では)無いでもないのです。浜松の椿姫は夫が惨死を遂げたのに何のためにあんなに必死に戦って散ったのか。それは幼い息子のため! 連竜自身が幼名義廣だったのかもしれない。そんなこんなを分かった上での入野町のこの図案。(大事なことなので二度言います。入野町は当初、反徳川側でしたからね)
入野町は凧揚げ参加町としては新参の町(昭和51年)で米田一夫氏や神谷昌志氏が著書の中で『浜松城記』を否定したのが昭和62年前後。



浜松生まれのヒーローといったら“蒲(かば)の冠者”源範頼。
井伊直政は引佐生まれ、徳川家康は三河生まれ、結城秀康は雄踏生まれ、豊田佐吉は湖西生まれ、本田宗一郎は天竜生まれ、山葉寅楠は紀州生まれですからね。
真の浜松生まれの英傑は源範頼、徳川秀忠の二人しかいません。
が、範頼関係の凧はひとつもありませんでした。残念・・・
平安後期には「蒲二十四郷」といってとてつもなく広い領域を持った蒲の御厨ですが、その後いろいろあって現在では10ヶ町(神立町・大蒲町・将監町・植松町・宮竹町・西塚町・上西町・丸塚町・上新屋町・子安町)のみを「蒲地区」と称します。その「蒲(かば)」は浜松駅から近いのに独自の気風を保ち、平成になるまで「蒲の神明宮の祭り(10月)の方が大事」として浜松まつりには参加していませんでした。大蒲町の参加は平成7年、神立町の参加は平成19年。だからその凧模様も新しく選びぬかれた最新のデザイン理論でやられているはずなのですけど、そこに蒲公の入り込む余地は全く無かったって事ですね。つくづくも残念。やはり一番優れているデザインとは「蒲」(大蒲町)とか「子」(子安町)とか「丸」(丸塚町)とか、一目でパッと分かるシンプルな一文字デザインなんです。でも上西町(平成4年参加)とか冨士天狗の団扇ですし、植松町(平成2年参加)は将軍義教公が褒めたという松の植木、宮竹町(平成21年参加)は「神なる竹」を模様にしてあしらっています。そして、蒲の大神のおわす町・神立(こうだち)町の模様がこちら。



立ってる! 右三つ巴の紋が蒲の大神の神紋だそうです。

とまあ、凧の模様を眺めているだけで楽しいお祭りでした。
近くに「浜松まつり会館」というのがあって、そこに過去の各町の凧模様の変遷などが展示してあり、見ると意外と試行錯誤が繰り返されてきていることが分かります。



下池川町なんて「イ」と「k」と「川」の字をうまく組み合わせて独自感を醸すためのいろいろの工夫の末に現在は「イ」の一文字となっている。やはり一文字凧が一番優れているのでしょうか。



三組町も最初からもみじのウチワじゃなかったんですよ。
会館にはたくさんの年輩の方々がいて、熱心に説明してくださっていました。この時期だけのボランティアかな。いくつか質問をしますととても楽しそうにお話ししてくださいます。この方々ってきっと若い頃は熱烈な凧戦士だったんでしょうねえ。「凧はどういうきっかけでデザインを変えるのか(頻繁に変えるそうです)」とか「凧の絵の金型は意外と高い」とか「絵の描き方」とか、いろいろ教えていただきました。数年後にまた来たら、多数の町の凧の模様が変わっているのかもしれません。私は初心者ですので今日の風具合は「大凧揚げには足りない頼りない弱風」だと思っていましたが、会館の大先輩のお話だと、「今日はとてもよい風」だとのことでした。上の方にとても良い風が吹いているという。強すぎる風も困りますものね。



風の具合で凧はいろんなところへ飛んでいくものでして、
狭い会場から飛び出して住宅地の方でも凧を揚げている組があります。これは決して好きでそんなところでやっているわけではなく、凧と風の都合に合わせた結果なんですよね。で、住宅地に墜落した凧も。そこに登場するのははしご車。これは電気工事をやってる場面じゃなくて、電線に絡まった糸と凧をほどいてるんですよ。うひー怖い。近辺は停電状態にしてあるんですかね。はしご車は2台出動し、電信柱で大活躍しておりました。


15時頃にシャトルバスに乗ってアクト塔へ。
御殿屋台の行列が始まるのは18時からなので、それまでヒマです。
行列に備えて町の各所で屋台の準備をしてましたので、それを歩いて巡りました。すでにして歩きすぎて脚が痛い。
公式パンフには各町の御殿屋台の説明がちょろっと書いてあるのですが、凧とは違って説明がとても簡素でほとんど詳細が分からないのです。写真も小さすぎて、少なくともこれを見る限り頼政公の鵺退治や天狗様の屋台があるのかないのか全然不明なのです。全部見て回る必要があります。凧と違って屋台の市中練り回しはオマケですから全部の町が参加する必要が無く、屋台の数は89だそうです。



一番個性的なのは元城町の御殿でしたね。ただのお城の模型かと思いきや、随所の意匠も細かくされている。





泉町。弁慶と牛若。上に鞍馬天狗が。



高丘町。恵比須神。



東田町。櫛名田姫と素戔男



和合町。桃太郎の鬼退治。狐っぽい犬。



旅籠町。清正公の虎退治。



佐藤中町。天の岩戸。



亀山町。公式パンフには「乙姫と浦島太郎と亀」と書いてあるんですけど違うと思う。



完全に寛永四文線(十一波銭は1769年以降ですが凧の模様は十一波じゃないですよ)の泉町。源義経公の武勲。



砂山町。蝦蟇仙人と鉄拐仙人。



海老塚町。伊勢海老の町の名の由来は定かではないそうです。(浜松駅の西側、海の無い町)



浅田町。源三位頼政の鵺退治、、、、 じゃないですよね。源頼光と酒呑童子かな。

どれも凄いんですけど、四方に立派すぎる彫り物が縦横無尽に踊っているものですから、説明が無いと(ほとんど無い)なにがなんやらわからなくなってきてしまいました。
結局頼政や五位鵺はいたのかいなかっのたか、わかりませんでしたとさ。

そして、薄暗くなってきますと行列開始。見事でしたけど、私のカメラではもう何も出来ることがございませぬ。

わたくしの最も観たかったのは“天狗連”千歳町の御殿屋台。おお!!





うひょー、凄い! かっこいい!





もう暗くて全然明晰に撮れませんけど、鞍馬天狗と烏天狗たちですってよ。
公式の詳しい説明のあるサイトさんがコチラ



べんがら横丁と般若連。
今日ぐらいは横町も繁盛していて欲しいですね。見に行けなかったですけど。



あんなところに瀬名姫のお顔が。

小腹が空いたんですけど、見回しても遠州焼きとかチュロスとかフランクとか棒パスタとかそんなのばかりで「浜松グルメは先週存分に体験したからな」と思っていましたら、アクト塔の地下広場にこんなコーナーが!!



題して「世界の屋台!!」
そうですよね、鰻とか河豚とか海老とか烏賊とか餃子とかいくら浜松の名物とかほざいていても、「日本の中の真のブラジル」と称えられる浜松市の一面を逃してはいけません。私が高校時代にバイトした浜北のバイク工場で、ペルーやブラジルの方々がぎょうさんいたあの体験を懐かしく思い出します。浜北では美味しい印度カレー店が次々に失われていってる最中ですけど、わたしたちは浜松が誇るエスニック食文化を忘れてはいけない。

なので、広義のブラジル料理をたくさん食してみたいと思いました。今日は電車で来てるしな。



浜松名物シュラスコ、600円。スーパードライと一緒に。
うをーーなんて旨いんだシュラスコ! と思ったのは一瞬だけで、熱々のシュラスコは柔らかく味付けは濃厚で(主に岩塩の味)、それはそれは美味しいんですけど、熱を失うと同時に硬くなり旨さが瞬時に吹き飛んでいきます。でもシュラスコって初めて食べましたけど、浜松にはブラジル料理店がいくつもある。絶対近いうちに再挑戦しますよ、熱々のシュラスコの食べ放題に!



インカ料理店にて、「エンパナダ・デ・ポジョ(インカ肉餃子)」300円、とコロナビール。いろいろ注文しインカビール(?)も注文したけどいろいろあってこの品だけになっちゃった。まあいいか、さっきのシュラスコで満腹だし。インカ餃子、インカ帝国人ってこんな旨いもの食べてたのか!! 皮がサクサクのパイ。他のメニューもいろいろ食べたいと思ったけど、今日の私のお腹にはその余地なし。朝の食事(キムチ鍋)を食い過ぎたか。

となりにエジプト料理店があって、そちらにもとても気を惹かれたんですけど、ずっと行列で、私が入る余地はありませんでした。エジプト焼き鳥、エジプトカレー、食べたかった。



そしてアクト地下の舞台ではスペインのダンスを延々とやってましたとさ。陽気なお祭り。
練りは22時過ぎまでやっているそうですが、かなり疲れが溜まってきたのでわたくしは21時頃に帰りました。楽しかった。
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