オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

伊豆の天狗--大瀬神社。

2007年11月30日 23時11分19秒 | 伊豆の歴史

11月22日に発売された『日本妖怪大百科』の第3号(特集は天狗)に、伊豆半島西端の大瀬崎にある大瀬神社の天狗についての記載がありましたので、見に行ってきました。伊豆に住んで長いですけど、この神社が天狗の神社だという事は知らんかった。(夏場に非常に混むところなので、敬遠していたんですよね)。当誌には、神社の内壁にかかっている奉納された天狗のお面と、天狗の絵馬の写真が載っておりました。※ちなみに記事中には「おおせじんじゃ」と書いてありますけど、「おせじんじゃ」が正しいですよ。伊豆通は間違わない。

大瀬崎へは私の家から30分弱です。あいにく曇天で雨がぱらつく。ちょっと寒いです。

駐車場代1時間300円。
入り口の案内板には天狗の説明はありませんが、愛らしいイラストがありました。これは、上の本に写真が載っていた絵馬の絵と同じ絵ですね。ここの天狗はカラス天狗なのでしょう。

駐車場から岬の先端までは遠いです。途中、ダイバー向けの宿泊施設が建ち並ぶ。この季節のこういう施設は寂しいもの、、、 と思いきや、浜辺には100人を越える潜り人さんたちがおられ、大盛況。この人達、こんな寒い日に何してるんじゃ。…でも羨ましい。浜辺には温かいお風呂がたくさん設置され、それに入るのは幸せそうでした。

神社へ行く途中の数百mは、ねじくれた巨大な木が立ち並ぶ。大瀬崎名物、柏槇(びゃくしん)の巨木だそうです。すごい木だなー、と眺めていましたが、葉を良く眺めてみると、これ、私の実家でも生け垣に使ってた木じゃないですか。(今はコンクリ壁にしちゃったけど)あのまま千年くらいほっとけば、私の実家もこんなバケモノのような木に取り囲まれてたのか。

入り口の鳥居をくぐると、傍らに天狗のウチワ(?)のオブジェがあります。
これは期待が高まります。

しかし、ここで神社と神池の拝観料100円を払わねばならないのですが、その料金所が無人でした。料金は箱に入れるようになってます。ここでいろんな事を聞き天狗絵馬も買ってみようと思っていたのに、アテがはずれます。悪い予感は当たります。「絵馬殿」なる不思議な建物があったのに(←なかなか大きいです)、その扉は閉まっていて、脇にある絵馬掛け場にもたった2枚の絵馬しか吊されてません。(どちらも天狗絵馬じゃなかった)。これを見に来たというのに~。絵馬殿(北条義時みたいだ)の中には何があるんでしょう?

さらに、階段を登った上に「拝殿」と「本殿」があるのですが、こ、ここも閉まってる~。多分この中に天狗の面があると思うのに。写真だと格子の隙間から中が覗けると思うかも知れませんが、これ磨りガラスでして、全然中が見えないです。この神社の主神は引手力命だそうですが、一体中には何が飾ってあるんでしょう。見るつもりのものにここまで振られると、すごく悲しくなってきてしまいます。
しかし!
上の彫刻がやたらと豪華だなー、と思い、まじまじと眺めてみると、私の失望は歓喜に変わります。天狗だっ、天狗様がおわすっ。すごい素晴らしい天狗の彫り物が、一面に彫り込まれています。神社のこの部分は、神社によってすごく多彩な題材が飾られ、それがその神社の方向性を示していると思うのですが(三島大社は源頼政の鵺退治)、ここまで天狗を彫り込んでいる神社は他にあるでしょうかっ? (※調べてみると、新潟県栃尾市の秋葉神社の彫り物も天狗だそうです。浜松市の千歳町の山車も天狗の彫刻だそうです。これ、来年見に行こう)

しかし、この神社のこれは見事だ。

これをみるとここの天狗は普通の鼻高天狗のようですが、

別の場所にもっと素晴らしい天狗がおわします。

これはすごいっ。なんだこれっ。
検索してみるとこれを「カッパ天狗」と名付けている人もありますが、太陽の光輪のように振り乱した髪と、2本の棒(なにこれ?)を振りかざし、厚い雲を踏みしめる躍動的な足の形が素晴らしい。

最初のレリーフに話を戻しまして、「これは何の場面?」と考えますと、恍惚の表情で宙を舞っている少年から想像するに、これは牛若丸とそれを指導する鞍馬天狗(もしくは鬼一法眼)、そして見守る魔王尊なのかもしれませんね。「だとすると左上にいる怪物は何?」と考えたくなりますが、これは武蔵坊弁慶の寓意やただの通りすがりのグリフォンの可能性もありますし、これが牛若丸だとしたら対するのは弁慶じゃないとおかしいのですが、もしかしたらこれは太平記に出てくる「崇徳上皇」(=金色に輝く巨大な鳶)なのかもしれませんね。前掲の私の説によると、悪の大魔王=源頼朝は崇徳の手先となるわけですから(笑) (※本気にしないでくださいね)

これらの彫り物が太古からあったものなら感激しますが、この神社は延喜式にも記された式内社ではありますが、度重ねて地震や津波に襲われて廃墟となり、現在の社殿は昭和14年に再建されたものだそうです。この彫刻もそのときものでしょう。大きな天狗のレリーフの方はこの神社に伝わる天狗伝説から想を得た全然関係ない題材のもので、その前部にあるかっぱ天狗の方が、この神社を支配する天狗を顕しているものだと思われます。
看板の由来書きや沼津市の観光案内には天狗の事についてちらりとも触れていないのですが、その気になって見ると境内には不思議なものがいろいろあります。

神社の四隅と鳥居のそばに置かれた鉄製の一本足の下駄。
ちゃんとした写真を取り損ねたのですが、社殿の右側にたくさんかかっている赤い布は、漁師たちが納めた赤フンドシだそうです。石祠もたくさん。

こういう神社では、脇に彫り込まれている彫り物も見ものですが、この神社ではこういうものでした。

 

海に関係の深いこの神社の特性から見て、この彫り物はヤマトタケルか新田義貞の鎌倉攻めの光景かと思ったのですが、この神社の社伝に「源為朝と源頼朝が剣や弓矢やかぶとを奉納した」とあることから、これは頼朝と為朝なのだと思われます。(津波でその宝物は失われてしまったそうですが)。為朝は髭の生えた老人姿です。だとすると、鏡を奉納したという北条政子の像もどこかにあるはず、と思ったのですが、捜しても見つかりませんでした。

この神社の一番の見所は、「伊豆七不思議」の筆頭に挙げられる不思議な神池で、当地に伝わる天狗伝説もそれにまつわるものです。上掲の本によると「池には一艘の小舟が浮かんでいて、夜中になると池で魚を捕る不届き者をこらしめるために、神社から天狗が飛んでくる」というのですが、、、 池には小舟などありませんでした。残念。

覗くと無数の鯉がいて可愛らしく寄ってきますが、コイのエサ代100円は払えないので空しく逃げ出します。案内板には数万匹の淡水魚がいて底なし沼であり、富士山の伏流水が湧いていると書いてあります。確かに、津波が来たらすぐに沈んでしまいそうな場所にあるのに、淡水の池であるというのは不思議です。「この池で魚を捕ったり潜ったりすると神罰で即死あるいは精神喪失になる」と書いてありますが、天狗が神罰扱いなんですね。(実際に地元伝承を大事にして調査していない、というのが嬉しいです。死人が出たという故事があるからかもしれませんが)。池はビャクシンの森に取り囲まれています。他の地域では天狗は杉や松の木の上にいることが多いですが、ここではビャクシンの木がそれなのです。木々の間に中世の豪族・鈴木氏の城跡があって感慨深かった。


鈴木館跡。実際に建物が建ち並んでいた中世の光景を想像すると不思議な感じになる、とても微妙な位置にあります。実際、津波に襲われて別の場所(江梨郷)に移転したそうです。ここの武士達は神池の魚を食べたんじゃないかしら?


駐車場の傍らの供養塔に、変な像がありました。

ここの神様は引手力命というのですが、ウィキペティアによると伊豆にしかいない謎の神様だそうです。684年に四国から土地を引っ張ってきて、ここに島を現出させた神様なのだとか。国産みの神という事で、三島大明神と関係があるのかも知れませんね。

伊豆での天狗伝説で次に調べようと思っているのが、「山伏峠の伝説」です。伊豆には2つの「山伏峠」があるのですが、そのどちらにも「むかしここで数百人の山伏が戦った」という言い伝えがあるのです。この山伏というのは天狗ではなかったでしょうか。少なくとも正史には現れない事件ですので。恐らく、どちらかの峠で起こった知られざる歴史的事実がもう片方の峠にも混同されたのだと思うのですが、ここで戦った「山伏」とはどんな勢力かと考えますと、、、、 伊豆に古来からいた伊豆山や箱根の山伏は仲が良く、戦うなんてことは有り得ませんから、中世になってからこの地に入り込んできた熊野系の山伏がその対抗者に当たるのだと考えられます。
静岡県は東京都に次いで「鈴木さん」が多い土地なのだそうですが、伊豆はとりわけそれが多い。伊豆の鈴木さんは系譜がかなりはっきりしておりまして、南北朝時代に熊野からこの地に移り住み、この大瀬崎に館を作った海将・鈴木繁伴がその祖なのだとか。で、鈴木さんがいるところには熊野信仰が盛んになるのだそうです。伊豆に侵攻した北条早雲は、堀越公方と結びついていた箱根勢力に対抗する為に(?)鈴木氏とその海軍を家臣として迎え入れ、熊野社を保護して、伊豆中に熊野神社が造られました。上記の「山伏の対立」はこのあたりの事情を反映した逸話なのではないでしょうか。だとすると、伊豆の熊野系天狗の根拠地は、この大瀬崎になるのですよ。一方で、北条早雲に助力した伝説の人物・風魔小太郎も天狗だと思われますが、これは足柄の出身ですからね。この探求が、次の私の課題。

話変わって、赤い鳥の宝探しのはなし。
トレキューブという企画の静岡県の項に、次のような問題文があったのです。(会員登録しないと問題文が見れませんので、ここに全文抜粋しますね)

水のクリスタル
ここにいる海の神と湖の神は、とても仲が悪かった。
もうだいぶ前の話になる。

海と湖が近いこの地では、2人の神が顔を合わせる度にケンカをしていた。
住んでいる生物はどちらの方が立派だの、水質はどちらの方が優れているだの、理由は小さなことばかり。
お互いのところに住む生物たちはもちろん、
人間もその争いに耐えかねてこの地を離れる者も出てきた。

そんな状況を見かねた大地の神が、2人の神にある提案をした。
「2人の間にある土地に、クリスタルを置こう。
これには人々や生物が集まるようなパワーがある。
ただし、2人が持つ『水』の力を合わせないとたちまち消えてしまうから、
気をつけてくれよ。」

海の神と湖の神は最初は気が進まなかったが、
つきあいが長い大地の神からの提案ということで
仕方なくクリスタルを守ることにした。
すると本当に人々が戻り、生物たちも活気づき、
みんなの顔に笑顔も増えると2人の神もうれしくなった。
こうして2人の神は仲直りをして、この地も平和になったということだ。

現代になっても2人の神が守るクリスタルはその地にあり、
仲の良さを象徴する名前が付けられた建物の中にあるといわれている。
『水』の力を必要とするので、
建物内にある『水』の近くではないか、という噂だが・・・。

この文章を読んで、「海と湖が近い土地」というのは大瀬の神池か浜名湖のどちらかに違いない!と思って、一生懸命捜しました。うーーーん。「仲の良さを象徴する名前が付けられた建物」というのがポイントなんですよね。なんだろう? 浜名湖だと、捜す範囲が広すぎると思うんですよね。私は勘のかなり悪い人間ですから、探し方が悪いのかもしれない。静岡県で他に該当する場所はありますか? 佐鳴湖か一碧湖かもしれないとも考えましたが、うーーーん。うーーーん。

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秋葉山三尺坊。

2007年11月29日 23時13分25秒 | 遠州の歴史

今一番力を入れているのは、前にも言った「天狗の地図」です。
これは、予想しない楽しさがありました。ただのお化け探しぐらいのノリで始めたのに、なかなか面白い歴史探究になってきています。ひとつのことを調べようとすると、みっつぐらい追加したい項目がでてくるんですよねー。
…と書こうとしていたのですが、調子に乗って項目を増やしまくっていたら、201項目めで「200までです、あきらめて」というメッセージが出てきてしまいました。ノーっ!! そういう大事な事は先に言ってよ。「少なくても300はいけるな」と思ってたんですよ。
まだ大事な項目がいくつも抜けているので、分割をしないといけないのですが、これを分割する事に何か意味があるんだろうか?と考えたら、気持ちが萎んできてしまいました。しくしく。とりあえず天狗の地名を削除して、別の地図にするかな。実際に天狗のいる山と、天狗の名が冠せられた山の分布には微妙な食い違いがあって、その対比がおもしろいと思っていたのに、それを分割しちゃったら何が面白いのかわからない。でも頑張ります。頑張るって言っても地名に関してはすでに素晴らしい先達がいて、わたしはその調査結果をただ地図に落としているだけなんですけどね。・・・あとは、近代以降の天狗の逸話と、現代の天狗企業の分布を別稿の地図に移そうと思います。京都と沼津にある2つの「天狗製菓」とか(違うお菓子を作っている)、函館の天狗タカラブネとか、石川県の銘酒天狗舞とか、水戸の天狗納豆(元祖と本家がある)とか、天狗枝豆とか、調べるとなかなかおもしろいんですよ。天狗マッチという一世を風靡した大企業もありましたね。また、ラーメン店や居酒屋にも天狗はたくさんいます。
調べた事についてはまだほとんどが私の頭の中にありまして、これから凄く充実していく予定なので、完成図を夢想して、誰か褒めてクダサイ♪(コラ) 私は作業を途中で投げ出すクセがあるんですよね。
今一番気になっているのは、「伊予に流された崇徳上皇は天狗か? 悪霊か?」ということ。天狗と悪霊は全然別個の存在だと思いますが、源平盛衰記を読むと、崇徳上皇は生きている間にその姿が天狗(のよう)になり、そのまま怨みを叫んで死んで、それから京の町に祟りを為した事になってる。これは「天狗」を経由して「悪霊」になった、ということでしょうか。それとも「天狗であり、悪霊でもある」ということかな。後白河法皇は四国に葬られた崇徳の霊を京都の河原に移し、孝明天皇と明治天皇は明治維新に当たって大々的に崇徳の霊を白峯神社に祀ったのですが、これは天狗として祀ったのかな、やっぱり悪霊かな。少なくとも、四国の白峰相模坊を使役している崇徳院は天狗の眷属ですし、1177年と1178年に京都の町の大部分を焼いた大火事は天狗の名を取って「太郎焼亡」、「次郎焼亡」と呼ばれましたが、ふたつとも崇徳上皇の怨念のしわざにされました。この火事で御所の大極殿が焼け、再建される事がなかったのですが、一番恐ろしいのは、「崇徳院の祟りで一番すごいのは、京の繁栄を終わらせ、武家の世を招来したことにある」と言われていることです。京都の怨霊信仰によると、われらが源頼朝の活躍も天狗(悪霊)の差し金、ということになる(笑)

さて、静岡県にはどうしたわけだか天狗がたくさんいるようです。
とりわけ遠州は多く、中でも春野町の秋葉山にいる(いた)秋葉山三尺坊大権現が一番有名な大天狗です。浜松から秋葉山に行く道路は「秋葉街道」と呼ばれ、街道沿いに常夜燈がたくさん建っていて、現在でも火伏せの神として多くの信仰を集めています。ただ、「秋葉山といえば天狗」とは私たちは漠然と思っていることですが、実は秋葉山の御神体は火之迦具土大神(=イザナミを火傷させて死なせた神ですね)で、この神自体が火のパワーと火伏せの力を持っていて、この神と三尺坊が同一の存在なのかというと、そうじゃないらしいのです。で、もっとよく調べてみると、秋葉山三尺坊は現在は秋葉山にはおらず、袋井市にある可睡斎におはすというのです。実際、春野町の秋葉山の公式サイトを見てみると、天狗の事には一言も触れていません。今でも同じ山の少し離れた場所に移った秋葉寺には三尺坊があるのですが、それも無視されている。秋葉山三尺坊なのに秋葉山にいないなんて、だまされた気分です。

この経緯を簡単にまとめてみますと。修験道の本場だった秋葉山は、もともと最初から普通に神仏習合で成り立っていました。もともとの本尊が三尺坊大権現だったらしいですが、付け加えるような形で火之迦具土の神も祀られていました。維新が起こって新政府が誕生すると、困った事を言ってきました。「神と仏を同時に祀るのはけしからんから、分けるように」。この神仏分離令の通達により、秋葉山は揉めに揉めました。江戸末には秋葉山には18の坊が存在し、いくつかの派閥に別れて激しく覇権争いをしていたからです。揉めまくった結果、「秋葉山は神の山であることにしよう」とする神社派を追い出して「この山は寺である」ということにしたのですが(明治2年)、政府が先手を打ち「神社でないと認めない」と言ったものだからさらに揉め、明治5年に住職が死去したことを口実に、「住職のいない寺は廃寺である」という政府の方針に基づいて素早く秋葉寺は廃寺とされ、ご本尊とさまざまな記録は袋井市にある秋葉山の末寺の「可睡斎」に引き取られてしまいました。だからこの時以来秋葉山の総本山は可睡斎なのです。可睡斎の公式サイトウィキペディアにはこの移譲が穏当になされたかのように書いてありますが、学研の『修験道の本』には「抗争が深刻化して多くの関連施設や仏像・宝物・書類などが失われた」とあります。この時の混乱について興味深い文章を載せているサイトさんに、コチラがあります。「おとなしく火之迦具土を祀ればいいのに、なぜか三尺坊権現を神であると主張して(権現ですから神なんですけどね)その神官になろうとし、反対されたので脱走してしまった」とか、「脱走した僧たちが浜松県庁に働きかけて主派に無理難題をつきつけた」とか、「住職は毒殺されたという噂が立てられた」とか、「可睡斎が秋葉山の三尺坊を自分たちのものとしようと狙っていたのは3代将軍家光の時代から」とか、面白い事がたくさん書いてあります。可睡斎が秋葉山の支配権を主張したのは、徳川家康がそういう朱印状を与えたからだそうです(読んでも眉唾。しかし家光の時代に本寺は可睡斎という裁決はなされていたのです。人々は山の方に参拝に行ったけど)。可睡斎がここまで三尺坊を欲しがったのは、この天狗こそが全国800社ある秋葉社の統帥であると認めていたからで、秋葉参りと称してたくさんの参拝者が集まると考えたからでした。(江戸時代に整備された「秋葉路」はすべて秋葉山に向かっているんですけどね)。ということで、「秋葉山本宮」を名乗る秋葉神社の方は山全体が迦具土の神体で火防の霊験があると主張し、「秋葉総本殿」を名乗る可睡斎の方は大天狗が防火の神通を持っていてそれは当寺に移った、と言い張っているのです。秋葉の僧のうち2/3が可睡斎に移籍し、1/3が秋葉山に留まりました。おかげで可睡斎は隆盛し、近くの油山寺も栄えましたが、山は衰え、近くの鳳来寺も没落しました。この両者が仲良くする事は決してありません。

というわけで、秋葉山の創建と三尺坊にまつわる重要な記録は、現在はその多くが失われてしまっています。三尺坊天狗については断片的な伝説がたくさん伝わっているのですが、記録が失われている為に真偽がほとんど分からないのだそうです。ちょっとまとめてみますね。

秋葉山三尺坊の伝説(その1)
通説では、信州の戸隠の里(木島平村、飯田市千代、穂高村という説もある)の生まれ。一説に宝亀9年(779年)生で、本名は周国(かねくに)。鎌倉時代の人、もしくは戦国時代後期の人という説もあります。母が観音菩薩に強く願い、夢の中に迦楼羅身で現れた観音の夢告によって生誕したといいます。7歳で出家し、最初は戸隠山で修行をしましたが、やがて越後国栃尾の蔵王権現に入り、十二坊中第一の三尺坊で阿闍梨の位を得たことから、“三尺坊”と呼ばれるようになりました。(本当に身長が三尺(=90cm)ほどだったとする伝説もあります)。13ヶ条の誓願を立て1日に千座の護摩を焚き37日間それを続ける不動三昧の修行に入ってその満願の日、火焔の中で鳥のような翼を生やして、左右の手に剣と索を持つ姿となったのが延暦2年(783)10月24日。(←4歳じゃないか。ま、日付にも諸説あるということにしといてください)。飛行自在となり白狐にまたがって飛ぶ秘術を得たといいます。そのまま彼は自分が降り立つ場所を求めて全国を飛び回ったのですが、とうとう遠江の秋葉山を見付けてそこに降り立ちました。寺伝によるとそれは大同4年(809年)です。この山での行法会得の行の最中、「我が名を呼ぶものあれば、願いを入れて火災盗難を防止する」と叫んだことから、周りの者どもは驚き恐れ、彼を「威徳大権現」と崇め奉り、迦楼羅天の威勢を感じたのだそうです。秋葉山に一祠を建てて祀り、般若院叶坊(かのうぼう)を別当としました。三尺坊が飛んできたとき、カエルの背に「秋葉」という文字が浮かんでいるのを見たので「秋葉山」という山名を付けました。(異説あり)
同じ大同4年、京都で大火事が起こったとき、三尺坊が飛んできて火を消し、都を救ったという伝説があります。「御所の上に天狗が現れ、大きな葉団扇をふるって火を消し、人々が名を聞くと「われは秋葉の三尺坊である!」と答えて姿を消した」とか「火事で大わらわになっている時に御所の前に白馬に乗った不思議な老人が現れ、火事の最中だけど人々が不思議に思って尋ねると、「我は秋葉の神で火を消しに来たが、位がないので中に入れない」と言うので、ちょうど居合わせた高貴な人が帝にかけあって位を与えることにすると、老人は燃え盛る火の中に白馬とともに駆け込んで、またたくまに火を消してしまった」とか、そういう逸話があります。(←これに関しては桃園帝の頃(江戸時代)の逸話ともされます)。この途中に名古屋に寄り、筆で「鎮防火燭」と書いた真筆を寺宝として建てられたのが秋葉山慈眼寺ですが、同じ名古屋の別の場所には「日本最古の秋葉権現出現の霊地」を謳う秋葉山円通寺があります。(詳細不明)
★やばっ。秋葉山三尺坊についての変な伝説はまだまだたくさんあるのですが、多分文字数がオーバーすると思うので、稿を改めてまたつらつら羅列したいと思います。おもしろいですよ秋葉山三尺坊。でも今日書きたい事は可睡斎の天狗についてなんです。

というような事情で、現在は秋葉山三尺坊は可睡斎にいることになっているのですが、そんなことは人間の都合で勝手に決められたゴタゴタで、当の三尺坊天狗が素直に昔から住んでいる秋葉の深山から袋井の町中に引っ越しているとは考えられません。神仏分離の前年(慶応4年)実際に三尺坊天狗に会ったとされている名古屋の人・沢井才一郎は、秋葉山の山中での天狗たちの生活を詳細に述べています。それによると山中に天狗たちが住む広大な屋敷がありますが、さらに秋葉山の上空には、もっと豪華な三尺坊天狗の宮殿があるのだそうです。(※沢井才一郎については『心霊図書館』というサイトさんが詳しく貴重です。仙堂寅吉と合わせ、とてもおもしろい人だ) 本当は三尺坊は多分今でも秋葉山にいるのです。
ただし天狗マニアとして訪れてみると、秋葉山はとてもつまらない山です。火防の神のくせに秋葉山は何度も大火事を出し、「秋葉の山から火事」ということわざまでできてしまったほどです。(これを当人たちは「火の神の力はこんなにすごいのだ」と自慢しているようですが)。とりわけ昭和18年の火事はすさまじく、焼けた社殿が再建されたのは1990年でした。新社殿はコンクリ製で白っぽく、とても寒々しい。(広い山内には興味深い建物も多々あるそうですが)。一方さすがは徳川家康と深いゆかりのある可睡斎。こちらは風格ある姿で見応えがあって、訪れるのは楽しいです。


可睡斎本殿


可睡斎の秋葉山三尺坊大権現社

 

秋葉山三尺坊大権現の御真殿前の階段の所に、鼻高姿の天狗(建物に向かって右)とカラス姿の天狗(左)の立派な像が建っています。これだけで嬉しくなってしまうのですが、建物の中に入ると、さらにたくさんのさまざまな姿の天狗のお面や画像が飾られています。
でも、良く見ると秋葉山三尺坊と題された像のほとんどが、カラス姿の物だったので不思議に思いました。なので、天狗のお札(300円)を買うついでに、売り子のおばさまに聞いてみました。「秋葉山三尺坊って鳥の姿なんですか?」
お答え。「三尺坊が秋葉山に来たときに、迦楼羅神の力を得て不思議を為したので、三尺坊はカラス天狗ということになっている。迦楼羅はガルーダで、鳥なんですよ」とのこと。へぇぇ~~。四国の白峰相模坊が鳶だというのは有名ですけどね。
画像検索してみたところ、秋葉山三尺坊が鼻高天狗かカラス天狗かは半々なようですが、(むしろ憤怒の不動明王のような姿に見えるのも多い。どれも白狐に乗っていることだけが共通しています)、少なくとも総本殿の可睡斎では、鳥姿のが御真像とされておるのです。でも羽が生えているのに狐に乗って飛ぶ三尺坊。

したがって、冒頭に掲げた写真はマチガイで、三尺坊天狗様はこれです。


おばさまが、三尺坊の姿を説明するときに指し示したのが、この像でした。愛らしい。

御真殿の横から、奥の院に通じる通路がありました。そこには徳川家康が隠れたという「六の字穴」があるというので見たかったのですが、なんか今いろんな箇所で工事をやってまして、この日はここも通行禁止になっていました。ぬおー、また来よう。このお寺では、武田信玄に追われた家康がこの穴に逃れて命拾いした、と言っていて、私はそれが三方原戦前後のことだと思っていたんですけど、ウィキペティアには「徳川家康が、幼い頃武田信玄の軍から逃れ父と共に匿われた」なんて変なことが書いてある。そんな前に武田と戦ってるわけないじゃん。(いや、今川氏との抗争ではあり得るのか?) 気になります。さらに、「松平広忠が秋葉権現に祈って得られた子が家康」という伝説もあります。家康と可睡斎の関係は深いんですよね。でも前述の沢井才一郎の物語では、戊辰戦争のとき「秋葉権現の眷属はみな新政府側に立って徳川と戦っている」と言ってたりして、面白いんですけどね。


でかい。

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3つの玉。

2007年11月28日 22時44分33秒 | 今週の気になる人

『赤い鳥』という宝探しサイトがあります。「宝探し」と聞くだけで無条件に胸を高められる少年のようなかわいらしい私なので、大好きなのです。参加費は無料で、盛んに全国各地で様々な宝探しが次々と登場するのがいいですね。愛好家はたくさんいるようです。
数年前には伊豆でも何回か開催されて、とても楽しみました。ただ、ファミリー向けのものもあれば、難易度がやたら高いものもあって、私のクリア率は4回中1回。(私は勘があまり良くない人間なのです)
その難しかったというのが、北条早雲の伊豆侵攻をテーマにした(?)『梟の棲家(海)『山の棲家』『空の棲家』の三部作で、まったく手が出ないというのが正直なところでした。ヒントを見て、「たぶんここだ!」と見当を付けていったら何も無い、ということが多かったです。最後の「空の棲家」はあとひとつだけが見つからなくて断念し、とても悔しい思いをしたんですっけ。逆に簡単だったのは下田市開催の『キャプテンペリーの宝物』。町を散策すればふつーに解けるような内容でした。・・・・ハッ! そういえば思い出した。一問だけ微妙な問題があったんですけど、ネットで情報収集していたら、そのものずばり答えを記載しているブログがあって、「このやろーッ」と思ったんでした。(私も気を付けないと)

今回の宝探しは中遠地区の市町村がおこなっているもので、伊豆じゃないんですけど、懐かしくなってきたので挑戦※地名は極力伏せますが、絶対写真で分かりますので、これからやる予定の人は閲覧注意!(おいおい)


第一問;天明玉
これが一番簡単そうに見えました。「古来から人々の信仰を集めた~」との文言から、お寺か神社系の場所である事が推測でき、ロードマップを眺めてみると、そのものずばりな地名の場所に、川を背にした神社があるのを見付けました。「ふんふんふ~ん、1問目はちょろいね~」などと思い立って浜松の実家を旅立ったのが正午。遠州石松町はほとんど来た事が無いのですが、とてもドライブしがいがある町ですね。ろくに地図を見ずに走るものだから迷子しまくりですが、着いてみてびっくり。

さ、、、坂道ィ。山の、上。…川のほとりにあるんじゃなかったんですか。
いつも通りこの日もゼンソクになってまして、坂を登るのが一番しんどい。5歩登って10分休憩する感じです。すごい石段でした。この写真の鳥居の傍らに変な形の岩がありまして(縮小したから見えませんね)、それが文中の「問詰磐(岩)」かなと思ったんですが(後で思うにこれはただの手洗いの水溜めでした)、ようやくぜいぜい言いながら登り終わり、そこにあった3つの建物をくまなく探し回ったんですけど、どうにも宝物ボックスが発見できない。文中の「背に負う黄金の玉」とは裏を流れる川の事だと思ったんですけどなー。
「そういえば来る途中にゲートボール場を見たな」と思いだし、「文中の陶芸の釜」とは「トーゲー→ゲートのことか!」と思いつき、3本の門の付近を中心に付近を歩き回ったのですが、お手上げ。「別の場所に違いない」と思うしかなくなりました。

で、車に乗って5分ほど戻ると、変なパークが。体験型観光施設のようです。
そこに変なオブジェがありました。

こっ、これはっ。あのイラストのままだっ。
そうですよね、別に主催者の市町村がボランティアで宝探しをやってるわけじゃないんですから、あんな山奥の小さな神社(何の神様の神社だったんだろう? 神明社と書いてありましたが)じゃなくて、もっと人が集まって金を落としてくれそうな場所に宝箱を設置するに決まってます。(伊豆のはそうじゃありませんでしたが)
残念ながら水曜日は休館日らしくて、どの建物も開いてないし、人っ子ひとりいません。しかし広いっ。このどこに目的の宝箱があるのだろうと絶望しながら(入り口の説明板も見ず)歩き回りました。しかしココ、いろいろあって楽しそうな所ですね。

「三本の柱」とあるから最初に目を付けた場所がここ。これでパターゴルフ場兼ハーブ園であるみたいです。パターゴルフ場は他の場所にもあった。おもしろそうだった。

要は「陶芸の釜舞台」という場所が目的の場所なのですが、それらしい地点が何ヶ所もあって悩みます。正解はここでした。

この時点ですでに2時間経過。ゆっくり廻りすぎです。
今日中に3箇所巡れませんぞ。


2問目;蒼明玉

これは簡単です。この場所しかありえませんから。
しかし、私の気が重かったのは、地図では長い階段を上った所にその場所が示されていたからです。あたち、喘息なの。この城、駐車場がえらく離れた場所にあるし、やたら高い場所にあるし、ほんっとにもうっ、千代のバカバカバカ。・・・ハッ、私、喘息なのをいいことに最近愚痴ばっかり言いまくってるな。喘息なんて習慣病(と体質)でもあるんだから、全部自分のせいなんだよ。ごめんなさい反省します。
この町の街並みは努力していて目を見張るし、入り口のおねえさま方はにこやかだったし、階段の途中ですれ違った係員らしき人は丁寧に声をかけてくださるし、いい感じのところですね。
前に来たときは無かったこんな施設がありました。「戦国の館」。

この城の城主だった山内一豊の大河ドラマが終わったのは数年前ですから、その時期が去ったこういう施設というのは淋しさが漂うものですが(人の気配がない)、考えてみればこの城は近くの高天神城と並んで今年の大河ドラマの主人公たちとも深い関わりがあったのですよね。入り口に、白い石膏像のような武者像が見えます。(そういうの大好き)。うをーーー、でも今日は時間がないので見送ります。また来るぞっ。

そうそう、ヒントの文中にあった「穴から霧が吹き出し、敵の攻撃を寄せ付けなかった」というのは、山内一豊とも武田軍とも関係が無くて、徳川家康がこの城に篭もった今川氏真を攻めたときの逸話だそうですね。(案内板にそう書いてあった)。氏真はその後、家康に見逃されて北条領に亡命しますが、どうもあんまり縁起の良くない逸話だとも思います。


第3問;緑栄玉
ラスト。前の伊豆の宝探しでは、ヒントにある3ヵ所を巡った上で、そのそれぞれにあるキーワードを組み合わせて「神の宝の場所」を推測してそこに向かう(つまり計4ヵ所回らなければならない)というもので、すごく大変だったのですが、今回のこれは3ヵ所に行くだけでいいというので、すごくラクです。
問題文中にある「玉花ブライ地場」というのが何のことか分からなかったのですが、ロードマップを見たら一発で分かりました。ただし、ほとんど行った事の無い町なので、道がさっぱりワカラナイ。付近のかなり多くの町が最近合併しちゃって、地名と道路の案内板を見てもどこをどう通ったら目的地に行けるのか、、、、(汗)。一応ロードマップを頭にたたき込んでからアクセルを踏み込むのですが、すぐに迷子状態。でもそういう状態が、一番ドライブを楽しめているような気がします。まあ、方角さえわかればへっちゃら。
取りあえず千代市から海岸沿いの150号線に出たいんだけど、それは地図上ではとても簡単に見えるような経路なんだけど、なかなかスリリングな行程でした。とりあえず宝をすべて見付けたら報告所へ行かなくてはならないのですが、最寄りの報告所の開館時間は17時まで。すでに4時を回っていまして、あと1時間弱です。この日は朝ご飯も昼ご飯も食べていないので、どこかでラーメンでも食べたかったのですが、、、(食べられませんでした)。喘息病のいいところはお腹が空かなくなることだ。


灯台、ピカピカ光っていましたが、写真を撮るタイミングが悪かった。

すごく簡単そうな町なのに迷いまくり、一番危なかったのは灯台マグロ原子力クエ町の市街ではなくて灯台に向かってしまった事でした。不思議な景色で、曇天で波も荒いのに、泳いでいる人がいてびっくりしたことが印象的でしたが、、、 これで10分ロスしたな。

ようやく到着。建物の外観はうまく写真が撮れなかったのですが、大きなマグロの像があります。ラブリー。そういえば、ニュースで御○崎クエ入荷中!なんて言ってましたっけ。クエだなんて言うからゲームの話かと思ったら、水族館ではバケモノ扱いのあの巨大な魚のことですってよ。どんな味がするんでしょう?
肝心の宝物ですが、問題文に場所がハッキリ明記されていたのですが、そのものを売るお店が2軒ありまして、私は問題文も良く読まず、反対側のお店の方をしばらく捜してしまいました。おバカさん♪

ともあれ、それを見つけ出したのが16:45。
あと15分だよ? どうする?

報告所までは大体5kmぐらいの距離があります。これまで迷いまくった経過を考え、また報告所となっているのが○○原発なのですが、私は原発反対主義者なので(嫌いなんです、放射能っていう目に見えないやつの存在が無意識にコワくて)、行くのやめちまおうかな~、また浜松に行ったときに磐田あたりで投函しようかな~~、などとも思ったのですが、折角なので行ってみる事にしました。
着いたのが5時2分前。
原子力館というところの駐車場に車を停めたのですが、なんと、新しい施設ができてやがる。つまり建物が2つあって、目的地は遠い方だったのです。と、遠すぎる。もう私は死にそうです。おのれ原子力め、無駄に広大な建物を建ておって。
で、5時はもう回っていたと思うのですが、綺麗なおねえさんが待っていてくれてまして、親切に私の報告所を受け取ってくれました。私、3週間ぐらいヒゲ伸ばしてまして、服は雨でヨレヨレ、喘息でゼイゼイと死にそうな姿でしたのに、天使のような親切な人でしたのよ。おのれ原子力め、無駄な人件費でこんな美人を囲いおって、と普段だったら怒るところですが、この日は勘弁しました。

で、おねえさんに記念品の3つの玉を貰って、帰途につきましたとさ。ただのビー玉ですが、苦労したのでこれが嬉しい。金魚の水槽に入れてやろう。

 

同様なイベントで、(赤い鳥は絡んでないのですが)、熱海市の『アタミステリー紀行2007』というのがあります。次、これやろうかな。タダで賞品が豪華ですし。締め切りは12/20で、わたしまだ問題文を読み終えてないんですけど。(なんと問題文が森村誠一の小説になってまして、全13ページなのです)。確か去年も挑戦しようとした気がしますが、挫折してしまったのでした。

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テケリリ(BlogPet)

2007年11月25日 08時58分31秒 | 自分について言う


きょう歌声喫茶テケリリは、喘息状態に意見したかったの♪ でも、きょう歌声喫茶テケリリがちまぼこは記録しなかったよ。
*このエントリは、ブログペットの「歌声喫茶テケリリ」が書きました。

…ぜひ意見してやってくだされ。(今日もちょっとヤバイかも)

11月26日 歌声喫茶テケリリ占い:分裂運わるそう
ラーメンに限っては他の人が食べた分裂を読むのが楽しいでしょう。

★11月28日 歌声喫茶テケリリ占い:ラーメン運停滞中
きょう歌声喫茶テケリリがちまぼこはラーメンしないでしょう。
  …停滞中ですかっ。やべー。

11月29日 歌声喫茶テケリリ占い:喘息状態運まずまず
きょうのあなたは喘息状態が忘れられません。
  …いやん。

11月30日 歌声喫茶テケリリ占い:宝探し運上昇中
という宝探し宝探しがあるでしょう。
  …ぬか喜びしたけど、「当たり屋というお店で宝くじを買った」と同じ事ですね。
    そういえば、私が運転免許を取ったのは「合格屋」という教習所ですよ。
    いえ、ちゃんと1ヶ月で免許取得できましたけどね。
    それでも仮免2回、本免3回落ちたから、「名前嘘やん」と思っていました。

12月1日 歌声喫茶テケリリ占い:伊豆運下降のきざし
きょうの運勢は、伊豆級。
  …伊豆級かあっ。それって良いのか悪いのか。あまり良くはないのですね?

12月2日 歌声喫茶テケリリ占い:月運よさそう
この月が天狗の月だという事は知らんかるでしょう。
  …知らんかる。今日の月は天狗の月なんですね?
    いま外を見ても月が見えないので、月探査情報ステーションの今日の月の画像を
    コピペして張っておきますね。
   

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比企尼の墓。

2007年11月22日 20時17分22秒 |   源頼朝

伊豆半島南部でかなり前から揉めている合併問題で、西伊豆町と東伊豆町が再び「イヤだ!」と離脱してしまったそうですね。元・下田市民としてはこの問題はとて~も気になるんですけど、、、 住んでいたときは「安易に合併して欲しくないね」と思っていましたが、合併して上手くいっている(ように見える)伊豆の国市に住むようになってみると、分裂状態のままでいる伊豆南部の事が、心配で心配で。(余計なお世話ですね)
東伊豆町は昔から伊東市とくっつきたがっていたので、「いやがるのを無理して下田に嫁がせることもない」と思っていましたが、下田と松崎町がとても地理的結びつきが強く、その絡みで隣接する西伊豆町も一緒になった方がいい、、 と愚考するのです。南伊豆と西伊豆がタッグを組んだら、(観光的に)どんな素敵が訪れるでしょう! そんなこと言うと東伊豆町と河津町も風土的共通性を強く持っており(同時に河津町は下田市とも共通する雰囲気を持っている)、東伊豆と河津も一緒にした方がいいと思うんですけどねぇ。まぁ、本人たちがイヤと言ってるんですからほんと余計なお世話です。結局、あのひとたちはバラバラなのが幸せな姿なんでしょう。…一方で、東伊豆町って(伊東市からもイヤと言われてるんですから)これから先本当に一人でやっていけてるのかしらと心配です。(余計なお世話だ)

で、伊豆の国市に越してからというもの、私はすっかり帝国主義者になってしまっているのです。領土は広ければ広い程良い。さすがに浜松市ほどの節操の無いやり方はアレですけどね。広域性と多様性を持つ事で、地域の文化性は格段に増すと思う。取りあえず、伊豆の国市に足りない物は海なのです。凍らない海が欲しい(←違う)。地縁的に三津浜・長浜は伊豆の国に近いんだから、沼津市に頼んで分けてもらうべきだ。沼津人は「沼津は伊豆じゃありません」なんて見栄を言ってるんだから、気持ち良く伊豆部分は伊豆の国に譲るべきだ。断るんだったら戦争だ! それとは別に、函南町も(頼朝伝説が数多いので)、当然伊豆の国市の仲間に加わるべき!と思ってました。…しかし、以前に宗時と狩野茂光の墓に詣でるためにドライブしたとき、まじまじと函南の街並みを眺めてみまして、「これは伊豆の国の街並みとは異質だな」と思いました。なんというか、町が山と溶け込み、独自の雰囲気を作っている。函南駅のあたりの風景に私はみとれました。ごめんなさい勝手な事を考えて。函南町もきっと自分たちだけで立つだけで幸せなんだよね。(※実際、函南町は金持ち町なので、どこの町とも合わさることを望んでいないそうです。前にこの町に住む知人に、「何か市民に無断でとんでもない投資をやって、本来なら問題になったはずだけど、その事業が上手くいって素晴らしい結果になったから、みんな幸せになった」と聞いた事があります)。清水町みたいな問題も聞かないですし。
…でも、函南町には頼朝伝説が多いんですよな~。それが惜しいんだよなー。

さて、その函南町で、頼朝様崇拝者にとって一番注目すべきスポットが、函南駅からしばらく山方面にぐねぐね入ったところにある「舟山高源寺」です。ここは、流浪時代の頼朝関係の逸話がごろごろしている聖地みたいなところです。列挙すると、「旗挙げの為に文覚上人と比企尼と頼朝がここで謀議をした」、「頼朝が酔っ払ってヒノキの木にツバキの枝を挿し、挙兵が上手く行くなら花が咲け!と言ったら見事うまくくっついたヒノキツバキの木がある」、「愛妾の丹後局が子を産むときに頼朝が奉納した子育て地蔵」、「追っ手に見つかったとき逃げる用に比企尼が作ったカラクリ機構(※現存せず)」、「椎の木の下で頼朝が眠り惚けていると、実が落ちてきて頼朝を起こしてしまったので、もう二度となるな!と怒鳴ったらほんとに実が成らなくなり、それが平家滅亡の象徴と考えられるようになった実無しの椎」、「石橋山出陣直前に頼朝軍が勢揃いした、頼朝旗挙げ祈願の松(※現存せず)」、「丹後の局が政子の勘気で西国へ逃げる途中、ここで数ヶ月逗留した」等々、これでもか!というくらいの様々なものがあるのです。あまりのいかにもっぷりに、史実としての怪しさがふんぷんとしますが、そもそも伊豆の頼朝関係の伝説はそんなのばかりですし、ひいては(世の通説に反して)頼朝様の実際はそんな感じの人間なんじゃないかな~と私は思いますので、伊豆在住の私としてはこの場所は、愛好家におすすめしたいスポットなのでございます。
このお寺に伝わっている伝説は、伊豆全体の頼朝伝説の中で特異な位置を占める「函南伝説」とも言える特別な体系を形作っているように思います。おいおいこのブログで語ろうと思っているのですが、「函南の田代信綱伝説」、「名馬生喰伝説」、「比企尼伝説」、「唯一敵対した紀六伝説」、「丹後局伝説」、「仁田忠常伝説」のすべてを統括した「函南伝説」です。これらは全てこの船山高源寺を中心に展開します。中でも比企尼と宗時の墓についての逸話は正統的頼朝解釈にも食い込んでいるから、始末におえない。

そんな怪しげな部分はさておいて、このお寺はいい感じに山の中に入り込んだ所にある、えっまだ人住んでるの?て言いたくなるくらいに人里と畑が続いていて、清流の畔にある苔むした感じの、でも空気の凛と澄んだ気持ちの良い場所なんですよね。
そして、今回の一番の注目ポイント、比企尼の墓もここにあるのです。

さすがに、頼朝の大恩人の比企尼のホントの埋葬場所がこんなところにあるわけが無い、とは思うのですが、では比企尼の墓ってどこにあるんだろう?と思って検索してみると、それが見つからないのです。鎌倉の比企氏屋敷のあった比企谷に「妙本寺」というお寺があって、そこに「比企一族の墓」があるというので、そこかなとも思うのですが、どのサイトを見ても「比企尼」の名前が出てこないんですよね。彼女ほどの人だったら大々的にアピールされているはずです。(※私はそこに行った事がありませんので、私が無知なだけだったらゴメンナサイ)。

かといって、伊豆の函南の方が本物だと断言できるかというと、、、 この写真を見ると絶句してしまう。大きな岩の上に五輪塔が建てられている。この下に遺骸があるわけがありません。大きな岩で尼の怨念を封じ込めようとしたんならともかく。これは確実に「記念碑」です。分骨の可能性すら無いんじゃないかと思う(この地点に限っては)。
でも、妄想好きの私は、この比企尼の墓の現状に、いろいろと夢想をふくらます余地があるんじゃないかと思うわけです。

頼朝様にとって、比企尼ってどういう存在だったんでしょうか?

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