オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

風の穴。

2008年06月26日 00時27分31秒 | 遠州の歴史

一週間前に新人さん(美人)が来てくださいまして、話を聞いているとこの方、様々な事に果敢に挑戦する、一言で言えば“冒険家”の如きなのでございます。中でも「洞窟探検」が大好きだそうで、変わった人が大好きな私には一気にツボ。とは言っても彼女が愛しているのはとりわけ神秘的な“竜ヶ岩洞”なんだそうですが(2年間で10回は行ったという)、国土の大部分が石灰岩でできているといっていい遠江国の北部は、そんなに有名でもないけど鍾乳洞だらけなのでございます。俄然興味が湧いてきたので、わたしも洞窟巡りを趣味にしようと思い立ちました。子供の頃はそういうの大好きでしたよ!
ネットで見ると洞窟愛好家のサイトは数が充実しているので、新参の私が何か新しい面白いことを発見できるとも思えないんですけどね。まあいいです。

  (※参考;北遠東参州の洞窟のリスト

では手近で有名所から。
その1。
◎岩水寺の鍾乳洞

旧浜北市で一番有名なお寺である岩水寺は、境内も広いのですが、名前からも分かるとおりゴツゴツした岩だらけの中にある景観です。引佐町にある奥山方広寺ととても良く似ているんですよね。とくに岩水寺の場合、境内に無数にある洞窟の中から浜北人の骨が発見されたことでも有名です。(根堅遺跡)。やっぱり洞窟と言えば古代人。でも三ヶ日人や牛川人、明石原人などは否定的な意見が主流なのですが、浜北人と湊川人だけはガチですってよ。ただ「浜北人」と呼ばれることが多いですけど、ウィキによれば本当は「新人さん」なのだそうです。

で、有名な岩水寺の鍾乳洞。
本堂の裏にある「赤池」の前に、上のような看板があります。
ここにある田村俊光というのは、平安時代初期の半伝説的な英雄・坂上田村麻呂の息子でして、その母は岩田の海(遠州灘のことです)の大蛇だったといわれています。(ここでは御比丘尼さま=玉袖と記されている人のことです)。「天龍川」という名前のも彼女のことですし、この近辺の龍神伝説のいくつかの(例えば奥山方向寺や竜ヶ岩山の)竜と同一人物ですし、この一帯の古名「麁玉」とは、彼女が坂上田村麻呂に与えた玉(麻呂はそれを使って浜北~中田島までの海を平地化した)のことです。その龍神が、夜な夜な諏訪湖に通うために利用していたとされる洞窟。

赤池の付近を丹念に眺めてみますと、あります! 奥の観音様の影にぽっかりと口を開けている小さな穴が。

しかし穴が小さすぎる。比較の為にタバコかなんか並べておけばよかったですね。小さいです。小柄な私ですら首以外は入りそうにありません。これはよっぽど細くて長くて身体の柔らかいにゅるにゅるした女性ぐらいにしか、、、、 ハッ。

かろうじて首を突っ込んで、内部を撮影してみました。

おお、確かに内部のひだひだは鍾乳窟らしい名残を示している。
しかし内部には土砂が流れ込んでおり、水も溜まっていて、果たして本当に諏訪湖にまで続いているのか(笑)、確かめる方法は無いのでした。

この日はここで諦めましたが、家に帰って詳しく調べてみると、岩水寺の鍾乳洞というのは実際はここでは無かったようです(爆)。なあんだ。確かに、こんな穴じゃ探検できないもん~。また行きましょう。

http://www.sukima.com/02_nittaiji99/04okunoin.htm

http://blog.livedoor.jp/submachine/archives/50043969.html

実際の洞窟は「奥の院」と呼ばれるところにあるとのこと。実はそんなこともあろうかと私は付近を歩き回っていたんですけどね。ちっとも気付きませんでした。

この付近にいかにも廃ホテル然とした建築物があり、とても目を引かれるのですが、実際は人がきちんと暮らしている気配があり、慌てて目をそらしてしまいました。(尺八教室という看板もあるし)。こういう建物に暮らせるのも、一種の理想なのかもしれませんね。この付近にはもう一件の理想的な(どんなだ)廃旅館があります。

ともあれ田村麻呂の息子とされる“第二代将軍”田村俊光。実はこの人物は遠州の伝説にしか登場しない人物で、彼の正体が何だったのかもきっちり調べてみたいです。
また来るぞー。

その2。
◎鷲沢風穴

竜ヶ岩洞に次ぐ知名度を誇るのが、都田町にある鷲沢風穴です。入場400円。
とにかくすごいらしい。…が、行ったら「定休日」でした。
なんで洞窟に定休日があるねん(※水曜日と金曜日が定休日です。注意)
ま、、、、 また来るぞー

その3。
◎滝沢鍾乳洞

滝沢の山の風景。実はここはミカン畑なのですが、石灰石がぎっしり。

細江町から北へ向かうと鷲沢町で、そこからさらに北が滝沢町です。完全に山の中の斜面にへばりついた小村。ここにある小学校の裏に、また素晴らしい鍾乳洞があるといいます。

小学校は幼稚園が併設されていますがこじんまり。ただ、さすがに平日の午前中、道すがら「不審者注意!」という看板がやたらと立っていたのを見て、私はびびっていました。不穏な昨今、あからさまに怪しい風体のこのおっさんが無断で小学校に立ち入ってもいいものか。が、幸い、生徒の姿は校庭には見られず、思いの外静かだったので、「ここは思い切って行くしか無い」と思って、胸を張って校庭への侵入を敢行しました。洞窟の入り口は校庭の奥にあります。

洞口は意外に狭く、急勾配です。石を組んで階段状になっていますがそれがあまりにも無造作かつ堅牢で、看板の「明治から大正にかけて地元の人に利用されていた」というのも納得できる次第です。頑丈な手すりはありますが、しかしなかなか難儀な入り口。このご時世は普通の学校なら、こんなアドベンチャラチックな洞窟は「危険!」とみなされて立ち入り禁止・閉鎖にされてしまうでしょうな。この学校の生徒たちはこんな立派な遊び場を持っていて、羨ましいものです。

このような感じで、いきなり10mぐらい下がります。この洞口部分が一番大変なところでしたね。ここに暮らしていたという古代人もよっぽど凄いものです。
が、その階段を下りきると、内部は意外に広い大広間になっています。
が、くら~~い! たった10m下がっただけなのに、真の暗闇。
実はここに来る前に、ホームセンターで懐中電灯を買ってきていたのですが、懐中電灯ってあれですね、普通サイズじゃ全然ダメですね。照らすところしか見えない。よっぽど大きいのを買ってこないと暗闇の中じゃ辺りを照らし出さないんだと、勉強になりました。やっぱりT&T風に松明かランタンを買ってくるんでした。

結局、あたりを見渡す為に一番役に立ったのはカメラのフラッシュ。一瞬だけですけどね。懐中電灯で前方の障害物に当たりをつけ、カメラのフラッシュを焚く。その度に周囲に浮かび出る光景の驚異に、神秘なものを感じ
ました。洞窟っていいわ~。

この洞窟の一番の特長は、巨大な柱が何本も天井からぶら下がっていて、その形が極めて奇怪かつ頑丈だということです。これは探検していて楽しいですわ。しかし、内部は随所から水がしたたり落ちていて(鍾乳洞ですから当たり前ですけど)、この中で住むのは不可能なんじゃないかと思いました。真っ暗闇ですが、自分の周囲に冷たい霧が渦巻いているのが分かります。
コウモリだけが何羽もぶんぶん飛び回っていて、雰囲気満点。


キクガシラコウモリさん。

事前にしていた予測より遥かに大きな洞窟でしたが、内部は入り組んでいるわけでなく、でも奇観には富んでいて、とても初心者向けの良い洞窟だと感じました。壁には子供達の落書きがたくさん。子供には楽しいだろうなあ。ここには幽霊話は伝わってないようですし。

一箇所、さらに下の階層へ通じているんじゃないかと思う小さな入り口がありました。写真だと分からないと思いますけど、どこまでも通じていそうな奥深さが感じたんですよ。看板にある「犬を入れた入り口」というのはここなのでしょう。土嚢で囲まれていますが、子供がこの付近で遊んじゃ危険じゃないですか?

が、私の身体ではここに潜り込むのは大変そうだったので、今日は諦めました。
ひととおり観光を終えて外に出ると、むわっとした空気が身体を包みます。いかに洞窟の中が涼しかったのかを実感する瞬間です。
改めて学校の方も観察してみますと、昇降口の前に「滝沢鍾乳洞遺跡展 ~職員室に声を掛けてください~」と書いてあります。こりゃ見なくちゃならんだろう、と思って学校の中に入ってみます。するとそこには「この学校はしばらく休校しています」との案内文が。ありゃ、そうなのか。だからこんな静かだったのか~。こんなにビクビクする必要はなかった。
職員室は管理人室になっていて、そこに声をかけて校内をいろいろ見せてもらいます。洞窟展の他に「ダルマ展」、「民俗史料展」もやっていました。が、この管理人のおっちゃんの仕事もヒマなんだろうなあ~(暇潰しが得意な私だったらこんな仕事が天職なんだけど)。時折私の所に様子を見にやってきて、さまざまな解説をしてくださって、とても有り難かったです。

まず、こんな所にほんとに人が住めるのかということ。上のモデルにあるように、洞口付近でほとんどの生活活動を行い、洞窟の内部は避難場所のような感じだったのでしょうね。しかし洞窟の内部からは多数の土器や石器が発掘されているようで、それも展示されていました。
私が一番目が釘付けになったのは洞窟内部の見取り図で、明らかに私が歩き回った範囲よりも広く長い。おっちゃんに、「この奥へ通じる通路はどこにあるんですか?」と聞いたら、おっちゃんが示してくれたのが、地図上の「2」の地点。ここって私が諦めたあの小さな土嚢の入り口ですよ。しまった、あそこはやっぱり先に進めたのか。私が歩き回ったのは「1」の部分だけだったんですね。「今すぐ行って挑戦してきます」と言うと、おっちゃんに笑って「あそこはちゃんとした装備が無いと絶対に無理だよ。帰ってこられないよ」と言われました。やっぱりそうか。
しかし、展示してある土器や石器が発見されたのは実はその「2」の部分だそうです。展示室にはその時の調査の写真が展示されていたのですが、この学校の小学生たちもそれにたくさん参加していたのだそうです。あんな狭く暗い入り口を通って探検だなんて、頭が下がります。しかも縦断面図を見ると、さらに激しい勾配みたいですよ。その奥部は誰がどうやって調べたんでしょう? 私では絶対入り込めないような感じだったので、そこで出た土器や石器は雨に流されて入り込んだだけとも思えますね。うーーん。それとも縄文人達の洞窟適合能力は想像を超える程凄かったのか。
オオカミも、古代人に食べられちゃったのでしょうか。普通にペットかも。

おっちゃんとの話で一番印象深かったのは、ちかぢか滝沢山の山頂に10機程の風力発電システムが設置されることになっていて、「ここもその資料館になる予定ですよ」と嬉しそうに言っておられたことでした。伊豆なんかでは風力発電は景観問題として反対運動まで起きているほどなのに、ここではそれは歓迎されているのか。「風力発電ができたらまた来ますね」とおっちゃんに言って、今日見た素晴らしい洞窟に感慨を廻らしながら私は小学校を辞しました。

その4。
◎嵩山(すせ)の蛇穴

次に向かいましたのが、遠参国境にある本坂峠の嵩山の蛇穴。本坂トンネルはこの地方随一の心霊スポットですし、この洞窟には落ち武者・埋蔵金伝説もあるし、家康の遠江侵入の時にも重要な役割を果たした地点なので、詳しく探索したい所ですが、今日はもう字数がギリギリなので簡潔に紹介。

滝沢鍾乳洞が「初心者に最適」だとしたら、こっちの方は「上級者でも満足」といったところでしょう。とても広く、入り組んでいて、驚異に満ちているのです。幽霊も出るそうですし。まず、入り口の景観からして最高!

私が先へ進むのを断念したのは、多分見取り図上の「?」のところだと思うのですが、4mぐらい上方の穴からロープがたれていました。ってことは穴はこの先も続いているってことでしょうが、とにかく足場がツルツルで服は霧でじっとり、泥でぐじゃぐじゃになってしまっていて。

実はここから入り口まで引き返すのが大変でした。辺りは真っ暗闇で分岐がいくつもあるので、私は途中で方角を見失ってしまい、彷徨うこと彷徨うこと。「やべえ、出られねー」と本気で冷や汗をかきましたよ。足下は滑るし、落とし穴みたいなところはあるし、何にも見えないし、コウモリさんがキイキイ言いながら何羽もバサバサ飛んでるし、暗闇なのに自分の回りに濃くてひんやりとした霧がたちこめているのが分かるし、なんか犬みたいな動物が奥の方にいる気配が感じられるし。(気のせい)。ようやく「プール」の場所にたどり着いたとき、心底ほっとしたのでした。

素晴らしい洞窟です。天井が白い岩で覆われている部分が一番神秘的でステキでした。70mってとても長いと知った。

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プブリウス・ヘルヴィウス・ペルティナクス。

2008年06月25日 01時27分15秒 | ラーメン

しばらく記事を書かなかったらラーメン画像が溜まっていますので、固めて記録。

5月20日 山岡家(有玉店)

どんな感想だったかさっぱり覚えてないです。もちろんウマかったと思う。
塩ラーメンと間違えられることもなかったですよ。
店置きの『ラーメン発見伝』という変なマンガを読みながら、黙々と食べました。

5月19日 ジパング(笠井)のランチセット

前に気になった“なんと刺身が付いている”ジパングのランチセットを味わいに行こうとしたら、なぜか母上が興味を示し、一緒に来る、、、 というか奢って貰えることになった。わーーい。ランチなのに1000円ぐらいするんですよ。
我が母は「身体に悪いからラーメンなんか食うな」と私に対しても平気で言ってしまう残念な身内なのですが(※わたくしがそんな言葉に耳を傾けないのは言うまでもありません)、母上好みのラーメンだったらいいなとちょっと期待しながら行った。

「変なラーメンだから覚悟していてね」、とさんざん脅かしておいたんだけど、いざ出てきてみると、セットのラーメンは前のとは違い、普通のあっさり正油ラーメンでした。ちょっと肩透かし。

ま、今日のメインはサシミだからして、刺身にはあのコッテリやや酸っぱいラーメンは合わんでしょう。あっさりラーメンでも合うとは思わんけど。

変な所に携帯カメラの焦点が合ってしまった。
案の定、不思議な味わいでした、刺身とラーメン。刺身本体はさておいて、問題はワサビなんですね。そういえばラーメンとワサビの食い合わせはこれまで食べたことがない。マグロとサーモンとイカと、海藻系のポリポリしたマロニーみたいなものでしたね。

あまりにも普通のラーメンなので、普段は滅多に入れない調味料系もたっぷり入れてみました。これは、豆板醤でしたっけ。

で、うちの母の困った所は、見知らぬ人に必ず話しかけぬとすまぬところ。店員のおばちゃんと兄さんに、「息子から変わったラーメンと言われて来たんだけど、それほどでもなかったです」とか言っちゃってる。「変なラーメン」と言われて喜ぶ店主はいないでしょう! 「それほどでもない」は禁句でしょう! 一瞬冷や汗をかきましたが、母は話を伊豆でのダイビングにずらし(店主が好きなんですって)、事なきをえました。なんだこの母親。

結局、ラーメン総体についての母の感想は変えることはできなかったですけど(「もういい」ですって)、ラーメンに対する私の愛は懇々と語ったし、それが最近の最大の一番の唯一の楽しみであるからケチつけられても困るとは分かって貰えたし、そういえば、以後貧乏な息子の夜食の為にカップ麺を買い込んでくれていることが多くなった気もします。めでたしめでたし。

5月18日 麺屋いろは(初生店)

富山ブラック!
改めて食べると魚醤の香りが強く鼻に付き、若干辟易しながら食べることになりましたが、それを含めて面白い味ですなあ。大好き。見た目の如くにすごくクドイので、覚悟して行くべし。 

5月16日 リンガーハット(サンストリート浜北店)

コーンバターとんこつみそちゃんぽん(500円)。
リンガーハットって安くてボリュームがあって具が多くて美味しいですよね。無性に食べたくなることがあります。ただ、現在最寄りがこの巨大施設サンストリートのフードコート内にある店舗なのですが、ここは苦手。あまりにも施設が広すぎて駐車場から歩いてくるだけで疲れてしまうのです。

関係ないですが、以下は長崎チャンポンについての思い出話。
私は学生時代を長崎で過ごしたのですが、貧乏だったので本場のチャンポンを食べに行くようなことは無く、学校のそばのリンガーハットで友人がバイトをしていたので、そこでばかり食べていました。その頃も当然美味しかったと思うのですが、特にちゃんぽんの味については芳しい思い出は無く、まあこんなものだと思い込んでいた。学生時代って夜にしか行動しなかったので私の長崎の記憶の風景はなんだか常に夜。また学生って「誰かが誰かとくっついて、また離れた」とかそんな話の記憶しか無いですね。リンガーハットはそういう雑談をする場のひとつだった。
年が経って下田に住んだ頃、無洗米氏プロデュースで職場旅行として雲仙へ行きました。無洗米氏という人は企画の達人で、変な場所に格安で連れて行ってくれることと、美味しい酒・美味しい料理を食べさせてくれることについては天才的だった。この旅行で氏は車を3台用意してくれたのですが(1台はレンタカー、1台は無洗米氏の現地の知人から借りていた。猛者だ。もう1台は …そういえば私が一人で静岡から大分経由で山口まで運転してった記憶があるぞ。一切高速は使わず。私も凄いでしょ?)、みんなが「ハウステンボスへ行く」と言っているのに私だけが「別行動をする」と言い張って(だってわし、ハウステンボスでバイトしてたモン)、たった一人で車を一台専有して隊を離脱するという迷惑な行動を取ったりしていました。一人でどこに行ったかと言えば、島原半島の古戦場・沖田畷! そう、私の偏愛する戦国武将・龍造寺隆信が戦死した場所ですね。(このブログのIDだって龍造寺から名前をいただいてるんですよ)。あくまでも島原の乱の原城とか島原城には行かないのが私らしい。私はかの地で滂沱の涙を流し、そのときの写真も部屋のどこかに大量に眠っているはずですが。その夜は雲仙温泉での宿だったのですが、無洗米氏が路地の裏のとてもちいさなちゃんぽん屋に案内してくれて(それが、氏の事前調査による案内だったか適当に歩いて行き会った店だったかは忘れた)、そのお店が店の外観からは想像もつかないほど美味しくてビックリしたのでした。「路地裏の美味しい店」なんて伝説だと思っていたぜ。そもそも長崎県域以外では「ちゃんぽん屋」などという形態はリンガーハット以外は成り立たないのですから、それは興味深い。
以後、長崎チャンポンは大好きなアイテムとなり、リンガーハットにも再びたびたび通うことになるのですが、美味しいリンガーハットを食べながら、無意識にあの雲仙での小さなお店での夜を思い起こしてしまうのです。長崎チャンポン大好き。「ちゃんぽん食べるためだけに日帰りで長崎に行こう」と誘われたら、今でも万難を排してホイホイ付いて行ってしまうよ。今の私はかつての幸せな私ではありませんが、第二の無洗米氏が現れないかしら。

長崎ちゃんぽんに関しては、いわゆるチャーシューメンが無いのが残念に思う。麺がとても太く味が濃いのが最大の好み。

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アキロニアはコナジョハラを失ったのだ。

2008年06月11日 04時09分20秒 | 伊豆の歴史

6月4日~5日に行ったドライブの記録の続き。

小休止して、韮山図書館へ向かいました。韮山の図書館は、「韮山時代劇場」という一風変わった見た目の建物の一角にあるのですが、写真撮るの忘れました。また、この時代劇場の前には、源頼朝・北条政子・北条早雲・江川太郎左衛門のステキで巨大なステンドグラスがあるのですが、こちらも写真撮るの忘れて来ちゃいました。一度ここでも写真を載せたことがありますね。この前を通るたびに、「韮山はなんと偉人の町なんだろう」、と感嘆してしまいます。
さすがにここには頼朝本が充実しています。一般書ばかりで専門書はなくて10冊程度なので「頼朝コーナー」とまでは呼べないものの、ぜひとも欲しい素敵な本ばかり。ちょっとの休憩の予定だったのに、加藤景廉本を読みふけってしまいました。今一番気になっているのは、「加藤父子の宿敵である“伊藤某”(←源平盛衰記による)とは本当に上総介忠清なのか?」ということです。「おもしろいな」とは思っているのですが、それをそうと断言しているのは手持ちの本では上松和彦著『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)だけなのです。何かの史料があるのでしょうか。上総介忠清はその能力の評価に毀誉褒貶はありますが、実質的に「平家軍の参謀」及び「力のある遊軍」の立場にあった人です。彼の本国である伊勢の国でその“伊藤五”(=忠清)と“加藤五”(=光員=加藤次景廉の父)に何らかの対立があったと考えるのはとてもドラマティックで楽しい。最終的に文治元年に忠清を捕縛し首を刎ねたのは加藤五光員。…さらにまた、同じ“上総介”を名乗る平広常とはどんな確執があったのかを考えるのも楽しい。

時計を見ると12時半だったので、あわてて一匹の鯨に向かいます。

時代劇場は蛭ヶ小島の近くにあります。
蛭ヶ小島の遠景。水浸しになっているように見えますね。やっぱり蛭ヶ小島の光景を楽しむなら、この時期(田に水が入る時期)が一番でしょう。残念ながら今日も蛭は見ず。
どこが蛭ヶ小島か分かります?

さてさて、本日のメインイベント、一匹の鯨!

平日ですが、さすがにお店は満員になっていました。
お店に入って、R30ラーメン(700円)にチャーシューを2枚(130円×2)付けて注文。
うんまいいいいィィィィィ~~!
風味が凄く豊かなのです。基本の鶏汁の淡くて暴れん坊将軍のようなのと共に、生姜の香りがプンプンと力強く攻め込んでくる。なんと美味しいラーメンなのでしょう。もう、私はこの一杯を食べに伊豆まで来たようなもんだ。大好きなチャーシューもいつにも増して絶妙。
今日はいつものおねーさんはおらず、店長さん直々に接客していました。顔を覚えていてもらえた!(^^) のみならず「引っ越ししたんですってね。心配していました」と言って貰えました。こっちの方こそ(ブログの更新が無いから)心配していますのに。とても忙しそうです。
店長さん店長さんって常々言っていますが、本当はこのお店の店長はいつもラーメンを作っているお兄さんで、店長さんは本当はその上の経営者らしい。まあいいや。この方は、ラーメン食べ歩きを熱心にして進化を追い求めているのです。逆に「浜松って美味しいラーメンはありますか?」と聞かれました。さすがに「たくさんありますよ」と答えるわけにもいかず、ウーーンと唸っていると、店長さんも苦笑いをしていました。どうやら浜松という土地に(ラーメンに関しては)あんまり芳しい印象を抱いていないようです。
「5匹目の鰻あたりを浜松に是非に作って下さい」と願うと、「行くんなら東の方に行きたいんです」と言っておられました。あははははは。

お店を出て向かったのは、韮山城。
そろそろ住んでいた頃に行ったことの無い場所にも向かってみないとわざわざ伊豆まで来た甲斐が無い。


韮山城内部の城池から望む韮山城本城。

そおです!!
わたくしは「お城好き」を名乗っていながら、伊豆を代表する素晴らしいお城である韮山城に、まだ一度も行ったことがなかったのです(爆)。こんな記事も書いたことがあるのにね。改めて見ると、韮山本城はとてつもなく小さいのですが、それを取り囲む支城を絡めて見れば、とてつもなく巨大で堅牢となる。

私は以前の記事で、「“豊臣勢5万を3ヶ月に渡って食い止めた堅城中の堅城”という評価と、“構造がとても単純な平山城で、どうしてこれであんな見事な戦いを繰り広げる事が出来たか不思議”という評価が並立している」と書きました。やっぱり地図上で見る韮山城本城の領域はそんなに大きくないし、韮山城を下から見上げた時の圧迫感もそれほどではないのです。ただ、「位置的な存在感はなかなかのものだな」と思うだけであって。
そういったもろもろの疑問点を抱きながら山の中を歩き回ったので、すごく楽しい散策となりました。
一番のポイントは、「この城で北条氏規は5万の大軍を2500の手勢で食い止めた」ということですが、5万というとんでもない数字はさておくとしても、北条側も本当に2000人も詰められる程の包容力があったのかということです。それほど大きくなく見える。…でも実際のところ、小山の部分だけでなく現在の韮山高校のある部分が“御座敷”として出丸的な役割を担っているので、そこに兵の大部分は詰めていたんでしょうね。あとは熊野神社のある部分と、城の反対側、城池の側にあるポケット的なスペースと。
また、登ってみてビックリしたんですが、下から見るより崖は切り立っていて鋭い。こりゃ、下から攻めるのは容易ではないなと納得した次第です。たくさんのものが綺麗に残っていて、大満足なお城でした。
このお城についてはコチラのサイトさんが一番分かりやすいので、参照なさってください。


北条早雲が伊豆経営の為に戦略的に使おうとした熊野神社。城内ではこの付近が一番広く、篭城時にはここに兵がひしめいていたんでしょうね。


土の遺構が巨大でとても見事。在りし日の姿を想像すると、ワクワクしてきてしまう。
もちろん、お城だった頃には木なんて一本も生えてませんよ。


特に驚嘆したのは、権現曲輪から主郭?に登るための巨大な土壁でした。あまりの神々しさに見惚れた。……が、デジカメの写真だとあの堅固さが全然撮れてない。


曲輪と曲輪を仕切るための堀。素晴らしい。お城の中で一番重要な部分なんですよ。


天守曲輪?付近から見た北条の守山。その手前に蛭ヶ小島もあるんですけど、分かります?


南の曲輪に通じる通路。
南の曲輪は微妙な地形ですが、地図を見る限り大軍で攻めるにはこちら方面から攻めてみようと思うに間違いなく、その分こぢんまりとしながらなかなか複雑な造りを見せています。ここから土手和田砦、もしくは天ヶ嶽砦へ行く通路は無いかと一生懸命に捜したんですが、結局諦めました。行けないはずはないんですけれども。

さてさて、お城を辞して、ちょっと疲れてしまったので休憩の為に御用達にしていた本屋さんへ。そこで海音寺潮五郎の『武将列伝』と島本和彦の『吼えろペン』を買い込んで、車中で数時間読みふける。…せっかく遠くまで来たのに何でそんなことしてるんだ、と思わないでもないですが、いいんです。この好きな土地でただ漫然とまったりとだけする、てのだって今の私にはかけがえのない心の洗濯なんですよ。
午後5時頃、おねえさまから「やっぱり今日も無理っぽい。またの機会に」というメールが入り、ちょっと悲しく思いながら伊豆を離れることとしました。「夕食は長泉町のじぇんとる麺にしようかな」と思って車を発進させたのですが、どうしてもさきほどの美味しい鯨が舌に甦ってきてしまい、ついふらふらと再び一匹の鯨に車を停めてしまいました。今度は塩トンコツにしてみようかと。店長さんもまた入ってきた私を見て苦笑い(したように見えた)。
すかさず塩トンコツを注文すると、 「実は新作でR45ラーメンがあるんですよ」と。なぬッッッ!!??
このお店ではR40が辛いラーメンで、R50が酸っぱいラーメンなのですが、R45は「ちょっと辛い塩トンコツ」だとのこと。もちろんそれを注文です。

ほんのり赤い。
僭越にも感想を述べさせていただければ、本当に、もっともっとと啜り続けたくなる絶妙な辛さでした。辛さはメインではなく、添え物になっているのがいいんですね。R40ラーメンのときも辛過ぎなくR30ラーメンの様々な味が、辛さの中で上手く溶け合っていることに感動したものですが、こちらの方はさらにクリーミーな豚骨のおかげで、マイルドで辛さと楽しさに満ち溢れた一杯になっていました。この味わいは、女性に大人気になるんじゃないでしょうか。春菊も茗荷も入っているし。今メニューの中に無いのが不思議になるくらいの完成度です。すばらしい物を味わわせて貰った。
…と胸がいっぱいになりながら食べ終わったのですが、いざ店長さんとお話をしようと思うと、私の口から出た言葉は「おいしかったです」と、ただ一言だけ。おいおいおいおいっ、それじゃ店長さんの何の参考にもならないじゃんかよ。口ベタでごめんなさい。

それで大満足してしまって、じゃんとる麺に行こうという気持ちは無くなってしまい、一路家を目指しました。藤枝バイパスで、いつも前を通っては気になっているラーメンショップがあって、でもいつも閉まっているんですが(だってここはいつも深夜に通過しているから)、今日はそれが開いていたので、そこに入って夜のおやつにしてみました。ここ、「梅の家」と言う名前の店ですって。チェーン店だろうか。

うん、まあ、こんなものだろう。
奇しくもここは前日訪れた諏訪原城のすぐ近くだったのでした。
…というわけで、今回のドライブ行はおしまい。
とっぺんぱらりのぷう。

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感傷。

2008年06月06日 02時44分18秒 | 伊豆の歴史

伊豆へ行って、無事帰って来れました。
ラーメンを食べまくって来ました。
伊豆って良いなあ。どうしてこんな桃源郷から引っ越してしまったんだろうワシ。しくしく。

今回伊豆へ行くと決めたのは、水曜日の午後が半日休みになったからです、ピュッて行ってピュッて帰ってこようって。今日のそれが成功したら、これからは半日あったら伊豆に行ってみようと思う気になるかも。ところが、「午後から休みだー」とウキウキしている私の顔を見て、私の優しい部長が「だったらその翌日も休みにしてあげるよ」と時間を水増ししてくださった。やったー。(※これがとても良かったのです。だって良く考えたら一匹の鯨は水曜日が定休日でしたから)

ここまではよかったのだ。
実は私の会社には「宿直」という中世的な制度がありまして、10日に一度めぐってくる。当日の私はその任に当たっていました。夜12時ぐらいまで事務所にいて、上の階でちょっと寝てまた翌6時半ぐらいに事務所に来るというもの。プレッシャーが大きすぎて寝られんわっ(私は朝に弱い)。本来ならばそれからちょっと仕事をして11時ぐらいに上がれるはずだったのですが、こういう日に限って昼から巨大な団体さんがやってきて、帰れない。奇しくもこの日来た団体さんは伊豆からの人たち。その人たち相手に私は大声上げてうなぎパイを売りまくっていたのです。しかもしかもっ、ウチの店ではこのうなぎパイが一番の売れ筋なのに、この日に限って来るお客さん来るお客さんが「うなぎパイってどこでも売ってるからね~」とか言って買ってってくれない。そりゃそうだがよッ。そんなこといいながら他の人たちはみんな結局買っていくんだぞ。結局、過去最低の売り上げを誇り、私が職場を辞したのは午後3時でした。疲労困憊。
半日休みって言いながら食事抜きで8時間働いてるじゃんオレ。イヤな毎日です。

それから国道一号線を疾駆して東を目指します。
が、早くも袋井バイパスの付近で大渋滞。そりゃ5時前後だもんね。イライライライラ。
ノロノロとした渋滞は掛川バイパス、藤枝バイパスに入っても延々と続き、この分では静岡市街まで続いているかと思われた。ところがここでメール受信。実は伊豆で8時に前にお世話になった方とお会いする約束をしていまして、だからこんなに焦っていたのですが、その方が急用が出来たとのこと。なぁんだ、だったらこんな渋滞の中に身を置いておく必要は無いや。「明日一日伊豆にいます」と返信して、一路戦線離脱。この付近で「時間をつぶせる所は無いか」と考えて、まだ行ったことのない諏訪原城を訪れてみることにしました。駿遠国境の城。

そおです。わたくしは「お城好き」と名乗っているクセして、いつも通っているこの道路の傍らにあるこの天下の名城を、まだ目にしたことがなかったのです。
だって、このお城は国道一号線・藤枝バイパスのトンネルの真上にあるのですが、この地点が一番のスピードポイントで、寄り道をする余裕なんかは(いつもは)無いのです。

だから、今日こそじっくり見てみようと。行ってみて愕然。
なんとすごいお城でしょう。これって! これって! すっごいお宝ものじゃありませんか!? 薄闇迫るお城の跡を歩き回りながら、あまりの素晴らしさに私は泣き出しそうになっていました。この城の一番の特長である2つの巨大丸馬出しの部分の堀の深いこと!!

…が、写真だとその堀のスゴサは全然表現できないのでした。
このお城はとても有名なので、いろんな本に図解されていますし、私はそれを読み込んでこの城のことは知り尽くしたつもりでおりました。でも全然私の頭の中にあるイメージとは違いますね。結局の所、この城の立地的な要因について、いろいろと調べ直したい点がたくさん生じてきてしまいました。(だって、この城の大手は南面にあるのに、城の背後(北面)を旧東海道が通っているんですよ)。さらに、大手門および丸馬出しのある位置よりも本丸の方が低い場所にあるように感じたのです。また明るい時に写真を撮りにいきま~す。その時に詳しく語りま~す。

本丸から見る島田。写真だとこんなだけど、キラキラしていて綺麗だったんですよう。

小腹が空くどころじゃなかったので、そこから藤枝市の「伊駄天」に向かいました。
一度行って、打ちのめされた店ですね。店に入るまではいろいろとメニューを吟味する気マンマンだったのに、いざとなったら前回と同じメニューを頼んでしまいました。マル特本節肉そば、950円(値上がりしている)。

2度目なせいか、前回ほど「やられた」という悔しさはなく、むしろ「こんなのだっけ?」という気持ちが強かったけど、でも凄いラーメンだなあ。私の苦手な鰹節のラーメンというジャンルに対し、もうこれからずっとこの味がすべての理想となりそうです。…つ、次こそは別のメニューを食べてみるぞっ。
前回来たときは30分ぐらい並んだですが(店が狭いから)、今日(8時頃)は運良く並ばずにすんだ。

そこからまた車を東に向けると、今度は道路は快適、スイスイ。静清バイパスでいつも車が詰まるポイントは、ようやく工事が終わって2車線化していたんですね。あまりの滑るような感覚に大感激。9時半頃、沼津へ着きました。

沼津と言ったら沼津港にある「松福」。
沼津港という場所は観光地化されていまして、魚が美味しいお店がひしめいているのですが、私はここでラーメンしか食べたことがないのが可笑しい。

松福といったら生キャベツ! この時はいつものチャーシューメンな気分ではなかったので、うまいらーめん(700円、値上がりしているなあ)にキャベツをトッピング(100円)してみました。注文するとき、「キャベツは生ですか? 茹でますか?」と聞かれました。おおお、茹でキャベツもあるのか。でももちろんキャベツは生の方が美味しいに決まっています。

今日のうまいラーメンは格別にクリーミーでしたが、やや甘すぎるようにも感じました。でもうまい! 面白かったのは、(前々から気になっていたことですが)、このお店で「うまいラーメン」を注文するとき、「うまい」の部分を私は「うい」と真ん中に強点を付けて言います(普通そうですよね)。でも何故か他のお客さんと店員さんたちは「今井」と同じ発音で言うのです。さすがに自分たちでも「美味いラーメン」だなんて自分たちで言うのは恥ずかしいのかな(美味いか美味くないかを決めるのは私たちだから)、だからイントネーションを変化させているのかな、と面白く思っていたのですが、一度だけ店員さんが口を滑らせたのか、「まい」と最初に強点を置いて言った。これがおかしくておかしくて。実はこれは遠州弁のイントネーションなのです。遠州方言では「ちご」、「どん」、「つ」などのように最初に強点を置くことが普通で、これが他の地域の人から見るとおかしいと言われることが良くある。

そこから道の駅「伊豆のへそ」へ向かい、車中泊。実はこの道の駅、私が伊豆に住んでいた頃から頻繁に寝るスポットにしていたのですが(部屋にいたくないことが多々あって)、夜中に警官に起こされることが多かった。でも今日はそんなこともなく、そぼ降る霧雨の中で朝まで安眠。(だって前夜はあまり寝られなかったですからね)。自分の部屋より車の中の方がよく眠れる自分というのも変なヤツです。

朝7時頃起床。
「住んでいる時に行かなかった所に行こう」と決めていましたが、その前に私が以前に錯乱して捨ててしまった写真を補完する為に、「天野遠景の墓」、「東昌寺」、「北條寺」、「成願寺」、「荒木神社」に向かいます。

天野の里の外れにある天野遠景の墓。
あんなに大活躍した人なのにちっさーーい、というのが率直な感想です。写真じゃ分かりづらいですが、岩の窪み(おそらく人工的に削られた)の中にあります。この地盤じゃ遺体を埋めるのは難しいでしょう。
両隣にあるのは、兄弟の平内光家と、息子の政景です。どちらが平内かは忘れた。鎌倉、南北朝、戦国時代と、天野さんは各地へ広がり、大きな勢力を持っていくのに、その祖先である遠景の墓がこんなに小さなことに、我々は大きな感慨を持って佇むべきです。

遠景公の位牌があるという天明山東昌寺。
豪壮なワリにエピソードが極端に少ない遠景公ですが、ここには「九州の地の果てで比類無き大将軍・遠景公が転戦をしていたとき、敵の矢を受けた公は傷が悪化して生死の境を彷徨った。すると遠景公の夢の中に異僧が現れ、聖徳太子御製だという薬師仏を置いて消えた。目覚めると仏像が目の前にあり、それに祈れば傷はほどなく癒え、前にも増して遠景公は九州の地で暴れ回った。のちに遠景公の娘・荻野氏が遠景公の屋敷のあった場所に寺を建立し、この仏を祀った」という由来があるのだそうです。…遠景に娘なんていたのか。でも良く考えたら、天野遠景は田代信綱の母を後妻に迎えたという逸話もあり、この荻野氏って田代冠者の妹かもね。違うかもね。
またこの寺には行基作の阿弥陀仏(本尊)、天野遠景が彫ったという毘沙門天や馬の木彫りがあるそうです。(でも見学はどうやってするんだろ)。公は彫刻が趣味だったのでしょうか。

これがその本尊の薬師仏かしら(よくわからん)。
入り口のガラス越しに撮ったものです。なんだか説明文らしきものが書かれている気もするんですけど、ここからじゃさっぱりわからんです。そして、位牌はどこーー???(※「位牌」というのも鎌倉時代頃に中国から輸入されて広まった風習です)

ただ、別の本を読むところによれば、天野の里では遠景公のことなんかさっぱり忘れ去られていたが、近い昔に遠い場所から来た天野家の子孫を名乗る人たちが遠景公の遺蹟を探し回って、資料を漁りまくったのち、遠景の墓と位牌を「認定」してまた去っていった、という記述もあります。当地の人たちはただ感心しながら見ていただけだったらしい。伊豆の人たちの歴史認識なんてそんなもんだ。

墓のある付近の遠景。ここより南方の伊豆長岡の中央にある丘は「源氏山」(古くは弥勒山)というのですが、なぜかこちらの方にはどの本を見ても名前がありません。この山と源氏山を合わせて「長岡」と言うと思うんですけどね。(※伊豆長岡の名の由来には「長岡京説」もアリ)。そもそも伊豆長岡も古奈もそれから三津までもが平安時代は「天野郷」と呼ばれていたわけで、世が世ならばこの地点が地域の中心地だったはずなのです。なのに、そこの山の名前すらわからないなんて。(普通に「天野山」でいいと思いますが)

江間にあります巨徳山北條寺。
ここもよく見たら変な見た目のお寺ですねえ。やや南国チック。

ここでの目的は、以前に記事でも書いた墓石に刻まれた「江間小次郎平義時」の文字。世間で何て言われようが、江間の人たちにとって江間家の当主の呼び名は小四郎ではなくて小次郎でなくてはならなかったんですよ。(←曾我物語を元にするわたくしの思い込み) …しかし、改めて見るとこの墓石は鎌倉時代っぽくないですね。

少し引いて見ると分かります。墓上部の球体と屋根(?)が本来の(五輪塔の)部分で、この下の堅牢な石組み(「小次郎」と刻まれている部分)は後世の増築ですね。もしこの下に義時殿が眠っているとしたら、改築時に義時公の遺骨が確認されたりしたんでしょうか?(以前にも書きましたが、鎌倉にも「北条義時の墓」があります。でもウィキペディアでは「墓所は伊豆」としているんですよね。死亡の経緯から見るとどっちに葬られているか何とも言えないので悩む) ともかくも、鎌倉時代の埋葬方法は現在とはかなり違うそうです。
ここにも寺宝として、運慶作といわれている(が、願成就院とは違って正式認定されていない)阿弥陀仏、北条政子作の派手なタペストリー等があるというのですが、、、 頼めば見せてくれるのかしら。

狩野川を渡って韮山の側へ。
原木にある「成願寺」です。
ここは「餅売り婆さんの寺」として有名な寺。簡単に説明すると、「流人時代の源頼朝は毎晩熱心に三嶋大社に参詣していたが、道端で餅を売っていた婆さんはそんな彼を感心に思って、毎晩タダで売り物の餅をごちそうしてやっていた。頼朝はその恩を忘れず、日本の大帝王となってのち、婆さんを鎌倉に呼び寄せて「何か望みは無いですか?」と尋ねた。婆さんは「私はまもなく寿命なので小さな寺を建てて欲しい」と願った。頼朝が婆さまのために建ててやったのがこの寺である」。
浜松の家康にも似たような話がありますが、家康の場合は金を払わずに逃げ出したら婆さんが凄い形相で何kmも追いかけてきてのちに家康が「婆さまは信玄よりも恐かった」といったという話ですからね。格の違いが窺われます。また逆に浜松だったら「遁げろ家康饅頭」とか言って名物として売り出すところですが、伊豆ではそんなことしない。
願成就院にしろ北條寺にしろ、歴史的ないわれのあるお寺では説明板で仰々しく由来・その逸話を紹介しているものですが、このお寺では一切それが見あたらなかったのが目新しく思いました。あくまでも「檀家さんだけの寺」然としていて。
私はお寺巡りが大好きなのですが、当然の事ながら私が目指すのは「歴史的な逸話のあるお寺」だけです。でも、実はお寺ってそんなものじゃないのですよね。伊豆の国市に仮に100の寺があったとして、私が「行こう」と思う、つまり歴史的ないわれのあるお寺は15ぐらいだと思います。私にとってはその他のお寺は「存在価値がわからん」と思ってしまうのですが、失礼きわまりない話で。観光化されているお寺にしても、仮に私が敬虔な気持ちで訪問しているとしても、お寺本来の存在理由とは別の物を求めて行ってしまっているのだから、迷惑以外の何物でも無いのだと、そう思うこともあります。
いかん、話がわけわからんくなりました。本当に普通のお寺然としているのですが、唯一

笹竜胆の御紋(源氏の紋所だとされている)が嬉しくなりました。このお寺の本尊は「婆さまが何十年も拝んでいた小さな護持仏」だと聞いたことがあるような無いような気がしましたが、、、 それがまさかあんな金ピカなわけがないでしょうな。
このお寺の境内のどこかに「婆さまの墓」があるそうですが、捜すの忘れました。また「婆さまの邸宅跡」(=つまり餅を売ってた場所?)は「養寺」という別のお寺の付近にあると本には書いてあります。(が、地図を見てもそんな名前のお寺見つかりません)

さてさてさて、このお寺の思い出と言ったら詩緒蘭さん。
私が一番可笑しかった時期に現れて、いろいろ楽しいお話をしてくださったので、私の気はすごく紛れたのでした。ちょうど去年の今頃でしたよね。志木沢様とj.kさんと並び、私の命の恩人であります。出現時期が前後していたことを勘繰って「志木沢様と同一人物ではないか?」と疑ったこともありましたが、すぐにそうではないことが判明しました。物知りな方で楽しかったなあ。・・・お元気なのかなあ?

続きまして荒木神社。原木(ばらき)にあります。
荒木と書いて「ばらき」と読むんですよ。
確かなんかの本で、この「ばらき」の語源は「荊木」で、「茨木」や「茨城」と一緒、東国の茨木伝説と何か関係がある、、 と読んだことがある気がするのですが、、、 なんでしたっけそれ?
ともかくりっぱな神社で、無名な神社ながら里の人に大事にされている様子がうかがわれます。平安時代には北条郷・中条郷・南条郷あたりまでが「原木郷」に包括されていたんですよ。

私は狛犬が好き。

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『豊臣秀長』。

2008年06月01日 03時53分05秒 | 小説・漫画

なんで誰も暴動を起こそうとしないのでしょうか。
「今日はガソリンを満タンにして帰ろう」と思って、帰宅途中にスタンドに寄ろうとしたら、道路まで車が溢れかえっている。田舎の道で夜の10時半ですよ。泣く泣く諦めて素通りしてきてしまいました。借金を返済しつつの私の生活費は月4万円ですが、そのうちの半分はガソリン代に消えるのです。うをおーーーーっ、明日からさらに厳しくなるっ。(遠い職場を選んでしまった自分が悪い。会社の規定で交通費の支給は片道分です)。誰かが暴動を起こしてくれたらボクも喜んで参加するよッ。
しかし、「だったらお前が最初に口火を切れよ」と言われたら口をつぐんでしまうところが、私の弱さなのでした。いやんなっちゃう。フランスやロスやブエノスアイレスで暴動が起こるとき、一体何がどんな契機でそんなことになってしまうのでしょうか。そのプロセスを詳しく知りたいです。ともかく、今の日本は凄くおかしいですよね。日本の現状を直視せずに韓国や中国の悪口ばかりをいう人間を私は一番軽蔑します。日本は北朝鮮に劣らずバカだ。そうそう、明日から「うなぎパイ」も値上げするそうです。浜松の誇る貴重な文化遺産なのに…。うちのお店の一番の売れ筋なのに。…もうやめてくだちい。

------飢え死により、討ち死にがなんぼかマシだが。

志木沢氏の新刊『豊臣秀長』、読みました。
面白かったー。…が、この方の作品は二度三度読んだ時が一番面白いのです。文体が凝縮されまくっているから。今回の新刊は意外に薄い分、再読が今から楽しみです。
事前にしていた予測は、すべて覆されました。数年前の大河ドラマ『秀吉』で高嶋政伸が演じていた秀長の、温和で地味な縁の下の力持ち的な印象が強いのですが、この小説では著者が言うに、秀長は「結構な武闘派だったらしい」。冒頭から中半までは、がむしゃらに戦っている姿ばかりが描かれます。ええね。私が前日に例に挙げた阿野全成や足利直義、はたまた北条義時やましてや保科正之などという、いわゆるほかの“ナンバー2”などとは全然違います。
石田三成もやはり、私たちの思っていたのとは正反対の姿で描かれました。私は志木沢氏の描く爽やかで乾いた石田三成が大好きなのですが、豊臣秀長の視点から見たらどの様な登場の仕方の三成であっても大嫌いだったはずなのです。ここの三成は最高にイヤなやつ。でも作中ではすべての人に嫌われまくりですが、読む私にはどうしても嫌いにはなれない描かれ方をしている。…いろんな視点から見ると、石田三成って変な存在ですよね。志木沢作品で言えば、豊臣家臣団を内部から描いた『豊臣秀長』に出てくる三成が最悪で、家康家臣団の視点から描いた『結城秀康』に出てくる三成が好人物なのに笑った。こんな変な人間は日本史上類例が無いのではないか。(いやいや、梶原景時、大江広元とか南光坊天海とか大久保利通とかがいたかな。土方歳三も類例かも)。残念ながら大谷刑部と細川幽斎の登場は一瞬だけでした。

これまでの志木沢作品では、主人公は当初に巨大な何かにコンプレックスを抱き、それを元にあがいて生涯をかけて独自の解決路を見出していくのが常でした。『結城秀康』では自分を決して認めぬ父・徳川家康、『上杉謙信』では理解しがたい戦略で自分を愚弄する武田信玄、『可児才蔵』ではそれは「理想の君主に士官できぬ悩み」でした。ところが今巻ではそれはありません。物語の4/5の時点で兄である秀吉との対立が浮き彫りにされますが、聡い秀長はその要因を全て理解しきっており、これはコンプレックスとは違うのかな。
しいて言うと、秀長の生涯は登場したときから兄である秀吉の意向に完全に依存してしまっており、「このブラコンめっ」と言いたくなるくらい兄には絶対なのですが、やはり相手があの秀吉ですから、兄弟間の距離感に悩む場面が何回か出てくる。それがコンプレックスと言えなくもないのでしょう。ただし、「兄と弟」、それがこの物語のテーマなのかと思いきや、それもちょっと違うような気もします。豊臣秀吉という人物は、歴史の中においてあまりにも奇妙な人間なのですよね。段々秀吉も気になる人物になり始めてしました。志木沢様の描く秀吉像の特長につきましては、後述します。
ともかく、この物語に関しては秀吉と秀長の仲は主に理想的に廻っているので(…と思う?)、さらに別にコンプレックスとなりそうなものを捜してみると、“天才的な”竹中半兵衛重治の描かれ方だと思います。数多くの登場人物の中で、最初の方に死んでしまう半兵衛の描かれ方だけ浮き出て見えます。が、嫌味なほどかっこよくて頭の回る竹中半兵衛の描写にも、巧みな作者様の腕が光っていて、物語のあとあとになって「そういえば半兵衛がそんな事言ってたっけ」と不意打ちされるのです。あああああ、私にもひとり、半兵衛様が欲しいです~。と思いつつも「良く考えたら私の周囲にもこんな人いるね。ありがたやありがたや」と思わされる描き方。この描き方は「コンプレックス」とは違いますが、これまでの手法の裏返しですよね。これが嬉しい。

------自分は遠眼鏡。それは小物の特権でござるよ。

また、志木沢氏の登場人物といったら名古屋弁。
別に、いろんな登場人物が出てくるのでそのそれぞれが独自のご当地言葉を喋っているのですが、必然的に愛知出身者の比重が高いので、やたらと名古屋弁ばかりが印象に付くことになります。名古屋弁って、いい語感の言葉だなあ。(と当日名古屋に行っていたばかりの私は思った)。浜松出身の『結城秀康』ではそれほど遠州弁は印象に残らなかったのですが、『豊臣秀長』での名古屋弁率は小気味良いくらいです。でも、秀吉って大阪に行ってもずっと名古屋弁を話し続けていたんですね。「そりゃそうだ」と(『立花宗茂』を読んだ時に)目からウロコ。なんとなく大阪弁でしゃべってそうな気でいました。
ところで、遠州弁と三河弁は良く似ており、その原因は「徳川家康が遠江を制圧した時にたくさんの家臣を三河から連れてきたから、その時を境に言葉が三河化した」とよく言われます。…秀吉の大坂居城化のときはそんなことはなかったのでしょうか。秀吉ほどの強烈な個性なら、周辺の人間みなに多大なインパクトを与えたはずなのに。大阪弁に名古屋弁の名残は無いものであろうか。はたまた今の大阪の人にとって名古屋弁というのはどう位置づけなのか。お詳しいj.kさんにお話を伺ってみたいです。……うーーーん、身の回りをすべて律儀な三河者で固めた浜松時代の徳川家康と、天下人となって全国からさまざまな頑固者たちが周囲に集ってきた秀吉とは、事情が違うかな。

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