オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

来た、見た、勝った。

2014年03月21日 13時45分00秒 |   ヘンデル


ヘンデルの歌劇『エジプトのジュリオ・チェザーレ』(1723~24年)。
最初の歌が宿敵グナエウス・ポンペイウスを追ってエジプトに上陸したカエサルの歌う「Presti ormai」(エジプトの大地よ、今ぞ与えよ)。
この歌は短いんですがなかなか良い曲で、
短いなりにカエサルという人の特長を示していると言って良く、
ていうかすごく短いところ(2分)が素晴らしい。
ヘンデルは本当ならばいつものように10分ぐらいかけて延々と歌いたかったはずです。

で、この曲、いろいろ聴いていますと歌手ごとにかなり違うのが面白くなってくる。
冒頭のが、ある意味理想的な“男の気持ち悪い(←いい意味で)裏声”の代表格アンドレアス・ショル。20年前(1996年)の古い映像なのでこんな感じなのですが、これが実際に扮装までも加えると、コチラ。



アンドレアス・ショル(2012年)、(「Presti ormai」は[6:00]から)
占領軍(ローマ軍)を米軍と金持ちに、被征服国(エジプト)を中近東あたりに喩えているのかしらね。悪趣味ですが歌手がひたすら豪華でおもしろい。


似たような表現なのが下記のこれらなのですが、



Presti ormaiは[1:35]から。
カエサルはジェフリー・コール(裏声)。アメリカ合衆国大統領って書いてあります。
先に出てくる青い服のおばさまが大ポンペイウスの妻のコルネリアですって。
その隣の白服の女性はポンペイウスの息子セクストゥス。(実は彼女の息子ではなくポンペイウスの3番目の妻ムキアの息子。本当はこの時はヒスパニアにいたとされる)



カエサルはリサンドロ・アバディー(バリトン)。
格好は良いがカエサルは決してこんな男では無かった気が。



カエサルはヴィヴィアン・ショットウェル(メゾソプラノ)。ロシア風?(寒いところの服装)
やっぱり高めの女声が最高ですね。(メゾですけど)。

違和感が少しあるのは、私などにはカエサルは“男の中の男”というイメージがあるので、甲高い声はそれはそれであり得るのかもしれないけど、もっと「力強くあってもいいのではないか」、とも思うからです。いや、みなさん力強く歌ってるんですけどね。「力強さ」にはそれなりにバリエーションがあることを知る。

参考画像。



安部カエサル(1989年)。



アランドロン・カエサル(2008年)。






マーロンブランド・カエサル(1953年)。

勝手な思い込みなのですが、カエサルは脂ぎっていてハゲ気味で女たらしで声は低くて力強くて頭以外は毛深くて腕力があって頭が良くて口が回って読書が好きで野練も好きで料理が巧くて夜目が利いて朝は弱くて神は信じてなくて子種が弱い。
だから、このオペラで歌われるカエサルは印象が正反対なのですけど、ヘンデルが想定したカエサルは、女に優しくて決断力があって戦争には強いけどしょっちゅう危機におちいっていて声は力強いけど優しいカストラート。声は高ければ高いほど、力強ければ力強いほど良いと思うのですけどね。

見た目において最強なのは2005年のサラ・コノリー(女性)だと思います。



Presti ormaiが見つからなかったので終幕のクレオパトラ7世(ダニエル・デ=ニース)との二重唱。
サラ・コノリーは声がかなり低めのように感じられます。
このオペラの主人公は実はカエサルでは無くてクレオパトラなので、このような二重唱がある以上、甲高すぎてもいけなかったんでしょうかね。力強いカストラートのカエサルの声を夢想してしまうのですが。

(長いのがあった)


サラ・コノリー。Presti ormaiは[4:45]から。

伝統的な扮装のカエサル。



クレメンティス・タマス(バリトン)。



フラービオ・オリバー(裏声)。…ドイツ?



ローレンス・ザッゾ(裏声)。
Presti ormaiは[4:32]から。


この歌で最も重要なのは、カエサルが「来た見た勝った」と言っていることです。

 Presti ormai l'egizia terra           さあエジプトの大地よ
 le sue palme al vincitor!            その褒美を勝者に与えたまえ
 Curio, Cesare venne, e vide e vinse;     クーリオ、チェーザレは来た、見た、勝った
 già sconfitto Pompeo invan ricorre      すでに敗れたポンペーオは
 per rinforzar de' suoi guerrier lo stuolo   自軍の増強のため 虚しくも
 d'Egitto al re.                 エジプト王に助けを求めている
  (※訳はオペラ対訳プロジェクトより)

実はカエサルが「来た見た勝った」と言ったといわれているのはエジプト上陸(前47年2月)のときではなくて、小アジアでポントス国王ファルナケスに対しておこなわれたゼラの戦い(前47年8月)のときです。でもだからといってこのセリフがここで歌われるのが場違いだとかというとそうでもなくて、本物の「来た、見た、勝った」はラテン語では「Veni, vidi, vici」(ウェニ!ウェディ!ウィチ!)とたった3語ですばらしい響きになっているのに対して、ここでエジプト上陸に対して言ったとヘンデルが(台本作者はニコラ・フランチェス・ハイムだが)設定したのは「来て、見て、勝った」(venne, e vide e vinse)ちょっとすわりが悪い響き。接続詞「e」がいらないんですよね。カエサルは作文の天才であり演説の天才。ここでは練習であり、半年後にさらに洗練させたとみるべき。(とヘンデルがわざとそう描いたと見るべき)
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光月坊(細江町小野)。

2014年03月15日 16時29分16秒 | 遠州の歴史


この人は地元でも天狗扱いされてはいないのですが、わたくし的に「天狗っぽいな」と思いました。
権現社などではなく、ちゃんとした神社に祀られている人なんて(お坊さまなのに)、天狗でもなかなかいそうでいないですけど。

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猪鼻はどの角度から見ると一番猪の鼻に見えるか。

2014年03月14日 06時05分51秒 | 遠州の歴史


浜名湖の最も奥には「猪鼻湖(いのはなこ)」という小さな湖があります。(ここも汽水ですよ)。
ここは「浜名湖の中で一番景色が良い場所」として有名であります。
(浜名湖はどこも景観がすばらしいですけどね)
「猪鼻」の名の由来は「猪の鼻の形をした」という意味ですが、何が猪の鼻なのかというと、湖の形でもなく、魚でもなく、ましてやそこに住んでいる河童や人の鼻の形でもなく、「猪鼻神社にある神石の形」なんですって。
式内猪鼻湖神社は、猪鼻湖の入口にあたるところにある古社。
浜名湖にとって「猪鼻湖」はとても重要な位置づけにあります。
歴史的には中世にこの付近から「猪の早太(いのはやた)」という英傑が出て、都で鵺を退治することにあずかったのですが、彼の名前はこの猪鼻湖神社に由来していると思われる。また、“猪の”早太は本当は“井の(=井伊家の)”早太だとして彼を井伊家の係累だとする説もあり、だとすると井伊氏の名の由来も「猪鼻」と関係があったかもしれない(無かったかもしれない)ことになるじゃないですか。







旧・瀬戸橋から見た猪鼻湖神社。
黄色い矢印のところが「猪の鼻の形の石」です。



…ぜんぜん猪には見えませんね。
いったい、古代の人はどうやってこの石を見て、「あっ、いのししだ!」と思ったんでしょうね?



現在、猪鼻湖神社に近づくには一方向からしか道がありません。
瀬戸橋を渡って大崎半島の南の方から神社を目指す方法。



「新・瀬戸橋(赤い橋)」の向こう側に「旧・瀬戸橋(銀の橋)」があり、この向こうに猪鼻湖神社がある。
当然むかしは橋なんて無かったので、唯一大崎半島をはるばるとてくてく歩いてくるしかない。
ご覧の通り瀬戸海峡はそれなりの広さがあります。
また、神社のこちらがわには赤い神橋があり、それを見るに海がまだ深かった頃にはこの神社は島だったのでしょうかね。
ここも橋の所ほどではありませんが、なかなか深くて対岸へ泳ぐにはちょっと勇気が要るぐらいです。
お寺と違って神社は昔は地元民しか崇拝しないものだし、ここの人間はみんな舟を持っていたのでしょうか。



これが式内社 猪鼻湖神社!
ちっさ!
この小さな社の中に「建甕槌神(たけみかづち)」と「市桙嶋姫(いちきしまびめ)」の2巨神が並んで立っておわすのです。



と思いましたけど、この社は飾りですね。
この岩の島全体が神様で、社はあってもなくてもどうでも良いものだったのでした。
実はむかしは建甕槌神と市桙嶋女神は別々に祀られていたのだそうで、昭和50年に一緒にしたのだと案内板に書いてある。参拝方向から見て岩の表側にあったのが市桙嶋神社で、岩の反対側の奥の高いところにあったのが「猪鼻湖神社」(祭神;建甕槌大神)であったそうです。

この全体巌の島、ぱっと見てぼろぼろの岩質のように見えますが、踏みしめて立ってみると非常に堅い。
神石の「猪の鼻の形の石」がどこにあるのかと言いますと、神社の裏手、三ヶ日方面の方。
神社がこの「猪石」をバックに建っていればかっこいいのですが、実際は岩を乗り越えて下の写真の黄色い矢印のところにある。



昭和50年建立の社の前に、何かコンクリートで作ろうとした跡があるのですが(拝段?)、これが「猪の宿った石」の位置とはすこしズレてる。
つまり、「猪鼻湖と猪鼻湖神社の名前の由来」となった「猪の花の形の岩」は決して神社のご神体ではなくて、あくまでひとつの「神石」という扱いなのですね。
神は、この岩山全体です。

この小さな神社の前に立つ為に岩を登っていますと、ひょいと見えるご神石のかたち。



おお、イノシシの鼻だ! 鼻というより「イノシシの顔全体」ですね。猪顔湖神社。



横から見ても良い感じなのですが、
もう少し近づいてみると、もっと良くなる。

少し斜め前から。



うしろに下がってななめ後ろから。



そばにある崖を登って「猪鼻湖神社旧址」の碑があるところから、見下ろすように。



そして、出来るだけ近づいて正面からアップに。



…あれ?
正面から見ると猪っぽく見えなくなってしまう。
(見えると思えば見えますけどね)



鼻。
猪の牙は無いんですけど、じっと見つめてたら何かあるような気がしてきました。

実はこの岩は湖に身を長く乗り出すような格好をしてまして、首は既に海の上にさしのべてますので、正面からこれを見るのはなかなか難しい。
(舟に乗って航行すれば容易ですけど)
ではこの猪の首は、何を見つめているのかといいますと、



これは真後ろから撮った写真なので何の岩なのか分かりづらくなってしまってますが、
猪の視線の先にあるのは、瀬戸の赤い橋、
そのずっと向こうには、そう! 浜名湖の入口・今切れ口!
…と言おうとしましたが、、、、 
実は方向が大分ずれてまして、この先にあるのは宇津山崎の宇津山城でした。
猪は何を凝視してるんだろ。(視線をずっと伸ばしていくと潮見坂のあたりで遠州灘に出るはず)

…橋を渡って、対岸から岩を眺めてみましょう。



わかりづらっ。



こうです。
なんということでしょう。あちら側からだとあんなにはっきり「猪の顔」だった神石が、こちら側からだと「頸の長いスマートな洋犬」(あえて言うならば)かアリクイのように見える。
はっきりしましたね。
「猪の顔」は「猪鼻湖神社の側からちょっと岩を登ってその奥を見たとき」、一番猪風の顔に見えるのです。

が、これはなかなか大変なことですよ。
むかしは当然瀬戸大橋なんてかかってませんから、ここに来るには大崎半島をのんびり歩いてこないといけなかったはず。この半島はかなり距離がある。
一方、この近くの集落といったら、(大崎集落は別として)、「三ヶ日」、「都筑」、「鵺代(ここが猪早太と源三位頼政の関係地だといわれる)」、「尾奈」、「宇津谷」は向こう側の岸なのです。(舟で来ればいいんですけどね。でもここは気賀・新居両関所のすぐ近くだ)。おそらく本当に限られた人しかこの岩のことを知らなかったと思われます。

というのは、この石を一目見れば、「猪鼻湖の“猪の鼻”とはこの岩のことだ」と瞬時に諒解すると思いますが、資料ではこれのことを「獅子岩」と書いてある物が少なからずあるのです。どこが獅子じゃい。(←シシ神という呼び名が変わったものだと思いますが)、シシと獅子は違う。
また、「式内 猪鼻湖神社」には論社(=本当はこっちなんじゃないの? と主張している神社)が意外と多い。猪鼻湖の一番目立つこところにあって、議論を待つ必要の無い形の特徴的な自然石がある神社がここにあるというのに、論社はここのサイトによりますと、「猪鼻湖神社」(三ヶ日町下尾奈)、「神明神社」(三ヶ日町下尾奈)、「大神山八幡宮」(湖西市大知波)、「諏訪上下神社」(新居町浜名)、「諏訪神社」(新居町新居)、「猿田彦神社」(新居町新居)などがあるという。
なんでこんなに、、、、
というと、実は江戸時代にはこの猪鼻巖はほとんど知る人がいなかったらしい。

享和3年(1803年)に掛川の人・再彰館長庚(兵藤庄右衛門)という人によって書かれた大著『遠江古蹟圖繪』という本には、この猪鼻巖のことが出てきません。掛川から奥浜名湖は遠すぎるので庄右衛門は三ヶ日が苦手だったようなのですが、庄右衛門は非常な石好きで、各地の変わったいわれの石について熱心に書き記していますので、この巖のことを知らなかったら書かなかったはずは無いと思う。
また、それに先立つ寛政9年(1797年)、京都の人・秋里籬島によって出版されたベストセラー『東海道名所図会』には、「猪鼻湖神社」は出てくるのですが、「新居」の名所として紹介されていて、「猪鼻湖神社 延喜式内。鎮座今さだかならず。振裾記に云わく、浜名郡に猪鼻湖社あり。社號考ふるに、此は水うみの岸の上に鎮座と見えたり。今きくに、八王子社もと濱邊の岡の上に有りしを、寶永4年所うつりの時、諏訪の社中今の所に移すといへり。然れば、八王子もし猪鼻湖のにあらずや。但し又諏訪の事にてもあらずや。世の中うつりかはれば、古き名をうしなひ、あたらしき名を呼ぶ事まゝ多し云々」
要は、「よくわかんないけど名前が変わっちゃったんじゃない?」と言ってるんですが、その新居の八王子とは、現在「八所神社」として諏訪神社の境内にあるらしい。
ここに引かれた『振裾考記』という本は“遠江国学の祖”杉浦国頭の著作で、この人は浜松諏訪神社の大祝で賀茂真淵の師。
でも真淵の弟子の碩学(天竜の人で『遠江風土記傳』(寛政元年、1789)を書いた)内山真龍はさすがに凄い人なので猪鼻について詳しく書いておりまして、「猪鼻驛は荒井驛と同じではない」と書いている一方で、「猪鼻驛が水没してしまったので三ヶ日宿が置かれた」などと不思議なことも書いてある。「猪鼻岩、形似猪鼻、悪岸臨湖」。
真龍はとても綿密に調査をする人ですが、交流もとても広かった人なはず。同時代に真龍しか知らないなんてことはありえるでしょうか。
なお、「猪早太と猪鼻湖の伝説」については『遠江國風土記傳』にとても興味深いことが書いてあります。この本は近代デジタルライブラリで簡単に読めますので、興味があったら読んでみてくださいね。(そのうち紹介します)




そんなことより戦車です。
この猪鼻湖近くの湖底には、第二次大戦時の日本軍の画期的な中戦車・四式(チト)が沈んでいるというのです。
(ごめんなさい、上のゲーム画像は九七式中戦車(チハ)です。
私はこの手のゲームがすこぶる苦手で、チト開発まではとても長い道のりだ)

とにかく、昔から猪鼻湖には幻の戦車が沈んでいると言われていて、去年辺りにその探索がひどく盛り上がったそうなのですが、結局見つからなかったそうなのですよね。
この戦車が沈んでいると言われている場所にはいろいろな説があるのですが、一番有力視されている場所がここだったそうです。



でも、これにも、猪鼻湖神社と同じ問題が絡んでいると思う。
だって戦車をわざわざここに沈めるには、瀬戸橋を渡るわけにはいかないんですから、浜名湖をぐるっと回り、気賀か三ヶ日のどちらかの町を通って大崎半島に至ったのち、南下してここまでたどり着かないといけないわけですよ。そもそもこの秘密兵器がどこからどういう経緯でここにやってきたのかという話にもなりますが、そもそもここに沈んでいるという話自体がガセだという可能性もある。(だって人知れず隠してしまいたかったわけですから、見当違いの所に噂だけ流しておけば良い)。でも目撃者もいる。
昨年あんなに探したんですから、チトはこの場所にはいないのでしょう。
でも、チトと一緒に沈められたという他の二台(チハとウィンザー・キャリア)は、いるかもね。
こんなに狭い湖域なのに、そんなでかい物が探しても見つからないというのも凄いことです。
(※ウィンザー・キャリアだけは既に引き揚げられているとのことでした。いつ、どこに?)

浜名湖近辺で戦車部隊がいたというのは、浜名湖北岸に布陣された戦車第23連隊(豊橋にいた戦車第24連隊と合わせて独立戦車第八旅団とされた)で、これは本土決戦の最終作戦のためのものですよね。150輌の戦車があったそうなのですが、チトは渥美半島(伊良湖射撃場)にいたという話があります。浜松は執拗に空襲に襲われていたので、広く防衛戦車を展開していたのでしょうかね。対戦車戦のために開発された四式中戦車が、悲しすぎますね。

関係無いことなんですけど、戦争のための兵器に愛着を感じてしまうなどいけないことですね。(戦車は高いし)
でも私は戦車が大好きでして(飛行機や戦艦には興味ない)、デアゴスティーニの「コンバット・タンク・コレクション」をずっと買い続けておりまして(現在第47号)、目的は愛する英国戦車の蒐集のためだったのですが、英国戦車は人気無いみたいで(?)、このシリーズでも冷遇され続けてたんです。40号近くまで欲しい戦車が全く来なくてそろそろ買い続けることに疑問を感じてたんですけど、ここに至って、39号・クロムウェル、43号・クルセイダーⅡ、そして来たる49号(4月1日発売)でチャーチルですって!! いやぁ、チャーチルが出たら買うの止めようかなとも思ってましたが、この勢いならマチルダさんやトータスも来ますよね! 一番欲しいのはスーパーチャーチル(エドワード黒太子)なんですけど、これは無理かな。
対して、日本の大戦中の戦車は未だ音沙汰が無い(笑)
チハはまだしも、チトは無理かネ。

戦車ゲームの方でもメインは英国戦車で、足のクソのろいマチルダでひたすら頑張りながら、たまにチハでウサを晴らしています。スーパーチャーチルまでは先が果てしなく長い。
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式内 蜂前神社(細江町中川)。

2014年03月05日 20時04分27秒 | 遠州の歴史


大昔から浜松の人間は神話や伝説にはあまり興味を抱かなかったらしくて、変わった神様を祭っている神社というのも、少ししかありません。
三方ヶ原から祝田(ほうだ)の坂を下ったところ(つまり家康伝説で、三方ヶ原合戦のとき家康が武田信玄軍に待ち伏せされたまさにその場所)にある「蜂前(はちさき)神社」は、名前も凝っていますし、祭神が「熯速日命(ひのはやひのみこと)」「甕速日命(みかはやひのみこと)」「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」といいまして(武甕槌はともかく)「聞いたことが無い神かも?」と思って一瞬わくわくしたのですが、検索したら3人とも「日本書紀で伊弉諾が火神軻遇突智を斬ったときに滴った血から生まれた神」で、つまり神話の中ではそれなりにメジャーな神様であったのでした。

ただ考えるに、どうして浜松でこれらの神様なのでしょう?
それから、『日本書紀』を読む限り、この3人の中で一番上位に立つべきなのは甕速日であるように読み取れるのに、浜松のこの神社の場合は、中心に置かれているのが熯速日で、甕速日と武甕槌は脇神なのです。(この3神は天岩窟の中に住む神で(もしくはこの3神の祖である稜威雄走神(←カグツチ神のことか?)が天岩窟の中にいた人で)稜威雄走神の子が甕速日命、甕速日命の子が熯速日命、熯速日命の子が武甕槌命、という記述もある。武甕槌命は中臣氏(藤原氏)の祖です)。熯速日命は浜松の神話の中で何かしたのでしょうか? 熯速日命を祀っている神社は全国的にはそれほど多くない気がします。それから、浜松には異様に(?)武甕槌を祀っている神社が多いような気がします。これも、何かあったからでしょうか?
(※呉松町の根本山には「神護景雲元年に武甕槌が降臨した」という神話がある)





『引佐郡神社誌』(静岡県神社庁引佐支部・編)より。

「社伝によれば本社の勧請は應天皇11年庚子3月8日(西暦270年)、脇宮の勧請は允恭天皇御宇なりと言ひ、社号は勧請の当初に於ては八ヶ前の地名に因って蜂ヶ前と称し、允恭天皇以降は鳥飼神社又は羽鳥大明神と称へ、延長5年更に蜂前神社と改め古名に復したと言ふ。三代実録貞観8年12月26日の条に「遠江國鳥飼神に従五位を授く」とある、則ち是なりと定む。舊記によれば、應天皇11年庚子3月8日八田毛止恵なる者勅を奉じ、遠江國へ下向し、八田45町(祝田の古名)廣田70町(刑部の古名)岩瀬8町3反(瀬戸の古名)合せて123町歩餘りを開墾し、本社を八ヶ前に勧請し蜂前神社と斎き奉り、子孫代々祝部として奉仕した。依って八田、上刑部、下刑部、岩瀬、石岡、五日市場、廣岡七ヶ村はこの神社を大氏神と崇め奉ると言ふ。今川家・井伊家の崇敬あり社領を寄せられ、徳川家康亦伊奈忠次をして社領5石を寄進す。次いでこれを朱印に改め以って明治に至る。明治41年1月12日神饌弊帛料供進社に指定せられ、大正12年2月12日郷社に昇格、大正12年2月22日郷社としての供進指定社と定めらる」


『細江町史(資料編三)』より。

「本社の勧請は、応神天皇11年庚子3月8日(西暦270年)、脇宮の勧請は允恭天皇御代。
社号は当初八ヶ前(ハチガサキ)の地名によって蜂ヶ前(ハチガサキ)と称したが、允恭天皇以降は鳥飼(トリカイ)神社または羽鳥大明神(ハトリダイミョウジン)と称え、延長5年更に蜂前神社と改め古名に復した。
応神天皇11年八田毛止恵(ハッタモトエ)なる者勅を奉じ遠江国へ下向し、八田45町(祝田の古名)、広田70町(刑部)、岩瀬8町3反(瀬戸)合わせて123町余りを開墾し、本社を八ヶ前に勧請し、蜂前神社と斎き祀り、子孫代々祝部として奉仕した。
よって八田、上刑部、下刑部、岩瀬、石岡、五日市場、広岡の七ヶ村はこの神社を大氏神と崇め奉ったという。今川家・井伊家から社領を寄せられ、徳川家康も伊奈忠次をして社領5石を寄進した。次いでこれを朱印に改めて明治に至った。 
祭日
榊葉の白弊を奉幣し御飯75膳即ち早苗田の新米3升3合をあてる。
御神酒、新醸の清酒を壺に入れて献ず、お肴、御料理、生姜十片、柿十顆、栗十顆、松魚節5本、鮮魚10尾を献供する。
外に牛の舌と名付け円長形の餅を作り、氏子一族へ配布する。また小円形の餅を製して投げ餅にする。
右献供取扱者何れも浄身して覆面を掛け謹んで献供する。(牛の舌は現在も続けられている)」




うーーん、わけわからん。
これを読むと、この神社では熯速日命と甕速日命はそれぞれ別の機会にここに連れてこられたことになっています。
應天皇11年と、允恭天皇の?年と。(允恭天皇は応神天皇の孫)。ちなみに言いますと、蜂前神社の建っている三方原台地のこの崖のことを、「八幡山」といいます。

まず、神がここに来た前後に「八ヶ前」という地名があったってことです。
何が八?
「前」っていうのは「崎」と同じでしょうか?
そしてなんで「八」が「蜂」に変わるんだ。
「3月8日」と日付が限定されていることが気を引く。
それが「甕速日神と武甕槌神がここに来たとき」(=允恭天皇時代)に「鳥飼」または「羽鳥」と変わった。
それを延長5年(←延喜式の完成した年:平安時代中期)に、また「蜂」に戻した。
あえてここにそう書いてあるって事は、何らかの出来事があったってことですよね。
(神社名が変わることは良くあることですが、ちゃんと意味の分かる理由なはず)

まず、「日本三代実録(貞観8年12月)に出てくる“鳥飼神社”」というのが本当にこの神社なのかってことです。
また、「羽鳥」と「鳥飼」は良く似た印象ですが、「ハトリ」は「ハットリ」さんかなと。
「羽鳥」という地名は多いですけど、浜松には豊町羽鳥というところに式内社である「服織神社」がありますし、近くには「羽鳥八幡」という古社(創建年不詳)もある。「服部さん」も意外と多いです。

『細江町史』には「八田毛止恵」に「はったもとえ」とルビが振ってあるんですけどこれは何者か。念のため似た名前が無いかと『日本書紀』を読んでみると(案内板には「勅を奉じて」と書いてありますから、朝廷の付近の人のはず)、「応神天皇の3年」に「羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)」がいる。似てない名前と思うかも知れませんが、「羽田矢代」は武内宿禰の長子で「波多氏」の祖です。羽田矢代宿禰そのものが東国へ来ることは無いでしょうが、応神天皇3年の前後に武内宿禰は息子達と共に盛んに朝鮮に侵攻しまくってますので、その8年後(朝鮮の動乱が落ち着いた頃)にその親族のひとりが東国へ何かの命で来ていてもいいかもしれない。でも、日本古代史の世界では「波多氏」というとややこしいことを言う方が大勢いますので、もっと本を読んだらもっと詳しいことを書いている方がいるかもしれません。
あるいは応神天皇の娘「矢田皇女」。この人は仁徳天皇の后となった「八田皇女」と同一人物だろうとされているのですが(葛城の磐之媛に15年に渡って激烈な嫉妬を受けた女性)、この人の関係者が辺境へ任を受けるなんてあり得ないことですけども、応神天皇の子女達ってなぜか不自然に鳥にちなんだ名前が多いので、気になる。(兎=菟も鳥に含めて良いのならば;「菟道稚郎子皇子」「大鷦鷯皇子(後の仁徳天皇ですが、彼が誕生したとき産所に木菟が飛び込んできたという伝承がある)」「根鳥皇子」「雌鳥皇女」「隼総別皇子」などがいる)。姫のお名前が「モトエさん」だったという可能性が無いとは言えないこともないかもしれなくもなくない。
応神天皇の皇子「稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)」。この時代名前に「毛」の入っている人がたまにいますが、主に「東蝦夷」を連想するようです。(「上毛野君」とか)。そして稚野毛二派皇子の息子には「八田真人」がいます。ゆえあって稚野毛二派皇子の子女が全国に散らばっていても、全然おかしいことではありません。(その子孫のひとりがのちに継体天皇となる)

応神天皇37年、天皇は使いを呉国へ送り、工女兄媛・弟媛・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の4人を得ました。
22年にも天皇は備中の葉田の宮に移って、兄媛に吉備の国の織部(はとりべ)を与えてるんですよね。このふたりの兄媛は関係あるかどうか。

それから、「八田(はった)」が「祝田(ほうだ)」に変わったという伝承。
どこがどうなったらそうなるんだ。
(これには、この近くに「蜂前神社の祝部(ほうりべ)」が住む家があった、という伝もあるのですけど)
「八田」と「祝田」の間にはもちろん「蜂田」があったはず。いったいこの地で「蜂」の字はどこから来た?
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都田のとうふ。

2014年03月04日 16時11分55秒 |   浜松グルメ


近所の豆腐屋さんを撮ったら、UFOが写っていました。
鳥に見えますが羽がない。
ヘリに見えますがプロペラが無い。

(拡大図)


さて、今のわたくしはすこぶるつきの豆腐好きなのですが、そのきっかけとなったのがこのお店だったのです。
都田にある豆腐屋さんで、「須部商店(勘四郎)」といいます。
(「須部」は都田ではとても由緒ある姓)
山の中にあるわけじゃないんですけど、「山奥のとうふ」を名乗っていました。
今はなぜだか「川辺の食卓」と名乗りが変わっている(わけでもないでしょうけども)。

4年ぐらい前に仕事でこのお店を訪れる機会がありまして、(社会見学みたいなイベントの付き添いだったのですが)、ここで出来たてのザル豆腐を食べさせてもらった。これが美味しくて美味しくて、財布を持ってこなかったことを後悔したのですが、お店の人はなんとただの付き添いであるわたしにお土産の豆腐をたっぷり(2セット)持たせてくださった。(タダ)。それを数日家の冷蔵庫で冷やしてから食べたら、これまた美味しかった。



都田といったら私の住んでいた浜北の隣町なので、それから幾度かそこへ足を運んだんです。あの出来たての豆腐、もしくは歯応えのあるあのざる豆腐を食べたいと。ところが基本的にここは工場なのでお店はいつも開いているものでも無いらしく(タイミングが悪かっただけかもしれませんが)、なかなか再購入する機会が無かった。で、サイトを見たら、月に1回「できたてとうふまつり」というのが開かれていると知った。過去2回それに行ったんですけど、初回は2011年2月11日。2回目はいつ行ったか(探してみたけど写真が見当たらない)
驚きました。「田舎の豆腐屋のイベント」と侮って行ったら、「これは何の豊漁祭だ」と言いたくなるほどの膨大な人。
豆腐好きって浜松にこんなにいるんだと、感嘆しました。

でも、ここでも「ざる豆腐」はいつも入手できるわけではない。初回はたくさん売ってたので3つぐらい買ったんですが、2回目に行ったときは売り切れてたのか入手できず。でもこのお店はお豆腐のバリエーションがとても豊富なんですよね。お目当ての「ざる豆腐」は450円もして、その頃の私は熱心にラーメンを食べ歩いていた頃でしたから、豆腐ごときに一丁450円も払う自分をおかしく思っていたのですが、家で食べたら満足感は十分ある。イベント限定の豆腐を食べたらそれもまた美味しい。「豆腐丼」とか「豆腐たこ焼き」とか食べた。できたてならでことの感動。
でも、須部商店の「都田のとうふ」は浜松市内のスーパーならたいていどこでも売ってるんです。それもよく買って食べるんですけど、家で食べると全然特長の無いなんのこともない豆腐に感じる。(ふつうの豆腐ですからね)。スーパーで常に感動的なあのザル豆腐を売ってくださらぬものか、と切望してました。都田のお店が毎日開いてれば良いんですけどねー。
とうふ祭りも月に一回ですし、日曜日だけだし。

と、
2日前にたまたま、「次のとうふ祭りはいつかなー」と思って須部商店のサイトを開いたら、びっくりしました。当のとうふまつりは一週間前で残念だったものの、2013年10月2日に「食事&デザート処「川辺の食卓 都田のとうふ 勘四郎」がオープンしていたというのです。定休日(木曜日)以外の日は毎日開いているというのです。おお!
「土・日はかなり混む。予約推奨」と書いてあって、「まさかこんな僻地の豆腐屋が常に満席なんてことは無いだろー」と思いましたが、「豆腐祭り」での混雑ぶりは見ているため、念のために月曜日まで待って訪店。



13時ぐらいに行ったら先客は2組でした。
このくらいならいいね。
なおこのお店はランチ営業のみです。
(11時半~14時まで。豆腐販売は17時までしてるそうです)
黄色いハンカチが目印ですって。


メニューは、
  ●(季節限定)まるごと豆乳鍋御膳(1日5食限定)¥1500
  ●(季節限定)湯豆腐御膳(1日5食限定)¥1380
  ●(季節限定)ゆば丼御膳(1日5食限定)¥1500
  ●できたて寄せ豆腐御膳 ¥1200
  ●焼きたて油揚げ御膳 ¥1200
  ●できたて豆腐丼セット ¥780
  ●焼きたて油揚げセット ¥780
  ●できたて寄せ豆腐(単品) ¥500
  ●焼きたて油揚げ(単品) ¥500
  ●たこ焼き風揚げ豆腐 ¥300

…散々悩んだ末、「できたて」という言葉に惹かれて「できたて寄せ豆腐御膳」1200円を注文。それから「焼きたて油揚げ」にも引きつけられる物があったため、それも単品で注文してみました。(500円)。まったく、豆腐なぞに1200円も払うなんて気が知れませんが、なんせこの間わたしは貴船で湯豆腐¥3500を食べたばかりだったのです。





おお、これは食欲をそそる。



温かくて柔らかい。
考えてみたら家だと冷や奴で満足してしまって、わざわざ豆腐を温めることが無いんですよね。味はまあ普通の豆腐なんですけど(私には豆腐を食べ分ける舌など持っていないから)、やっぱりうまい。
少しずつ掬って食べるから、この量でも満腹に感じて、柔らかいのに口応えがあるように思いました。
やっぱ豆腐って最高だな!



続いて追加注文の「やきたて油揚げ」。



なんて魅力的な見た目でしょう。厚い。
普通にイメージする油揚げとはちょっと違い、厚さがあるので「外はカリッとした油揚げ、中は歯応えのある厚揚げ」って感じ。これは素晴らしい。
そのままだとほとんど味が無いんですけど(本当はそれがいいんですが)、薬味で色々と楽しむ物です。特製タレ(加藤醤油の『心』醤油とかつおと昆布だしだそうです)とやや青い大根おろして生姜と醤油麹が付いておりました。



うーむむ、これを家でお酒のお供にいろんなものを付けて熱々にして食べて見たい。
これらを食べ尽くしたら、もう満腹でした。



デザート。
「緑茶豆腐白玉」ですって。とってもぺたぺたしてました。あんこが(甘くなくて)好ましかった。
ごちそうさまでした。
これは、ぜひまた来ましょう。

この熱々の豆腐はごはんにそのまま載せて、タレをたっぷりかけて食べたら本当に美味しいと思います。それが「豆腐丼」で(以前にとうふまつりで食べたことがある)、今日食べた「御膳」を「五穀米」じゃなくしてデザートを省いたら、400円安い780円になりますから、これはリーズナブルで何度も食べに来たくなると思います。

帰りに売店で、「ざる豆腐」(¥525…1個だけ残ってた)、「よせ豆腐」(¥315)、ゆば豆腐(¥525)、「絹生揚げ」(¥315)玄米入り豆乳(¥315)を買って帰りました。
よっし、また家で豆腐三昧だ。

…思えば、私が伊豆に住んでいた頃、家のすぐ近くに豆腐料理屋さんがあったんですよねえ。一度も行こうと思わなかったし、行く機会も無いだろうと思ってたんですが、今は無性にあのお店に行きたくてたまらない。
コメント
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