オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

死を売る男。

2013年08月31日 03時26分40秒 | 伊豆の歴史


7月4日に行った鎌倉旅行記の続き。
そのまま宿に戻ったところが夜11時頃。まだ頭が冴えてましたから、「もう少し経ったら(=丑三つ時になったら)また自転車で鎌倉殿と大塔の宮のお墓に行って“何か私に言いたい事は無いか”と聞いて見ようかなあ~」と酩酊した頭で思ったのでしたが、次の瞬間気付いたら朝でした。おいっ、なんだこの無情な展開。

ま、いいです。真夜中の鎌倉にはまた来よう。
朝10時過ぎ、まず向かったのは建長寺です。



建長寺はわれらが蘭渓道隆師が建てた寺。第一世の蘭渓道隆と第二世の兀庵普寧(ごったんふねい)は“わたくしの心の師”聖一国師・圓爾弁圓の心の友だったんですよね。(←まわりくどい)
われらが修禅寺にゆかりが深い一山一寧も、建長寺の第十世なんですよ。
わたくしも鎌倉には何度も来ていて、建長寺はとても有名なお寺なんですが、思い返してみるとこのお寺には訪れた事が無いです。鶴岡八幡宮に余りにも近すぎる事がいけなかったのかもしれない。そのお隣さんの円覚寺には行った事があります。それがなんでそんな来た事もないお寺に今回来てみたのかといいますと。



建長寺の鎌倉半僧坊大権現に会いに、でございます。
前回、伊豆長岡の長温寺を訪れたとき、(日記には書けなかったけれど)「伊豆の半僧坊」というのに出会ったんですよね。半僧坊というのは遠江国奥浜名湖のあたりにいることになっている天狗様ですが、そのお寺に掲げられている解説板によりますと、昭和の頃に伊豆のお坊様の夢に半僧坊大権現が現れて、それでここにその天狗を祀る事になったという。そういえば鎌倉にも同じような事あったじゃん、と思い出しまして。

建長寺、来て見たんだけど駐車場がよくわからず適当なコインパーキングに停めて(関係ない話ですが後でこの料金機に意味の分からない料金請求をされ(おそらく4時間分ぐらいの)、つい払ってしまうと言う腹立たしい経験をした←そんな時間このお寺にいた覚えは無いがおそらく天狗様の仕業だ)、歩いて行くとやけにたくさんの子供達が歩いている。今って修学旅行の時期だっけ? 車を降りるなり子供に「建長寺ってどっちですか?」と質問され(浜松ナンバーが見えんのか?)「あっちだよ」と答えたが、なんだこの大量の子供たち。延々建長寺に至るまで(建長寺の境内も)子供だらけでした。すごいな、さすが天狗さまの寺。



広大な建長寺の敷地の、歩いて歩いて奥の奥に、建長寺の奥の院・半僧坊大権現はあります。
建長寺はとにかく「すべての建物がデカい寺」です。修学旅行(遠足?)に来た大量の子供たちは、来た甲斐を大きく強く感じたに違いない。でも、その奥の奥にあるという半僧坊には行かないでしょうね普通の修学旅行(遠足?)の子供は、、、、、 と思って歩いてみたら、率として1/10くらいの子供達が半僧坊を目指してた。一体なんなんだこやつらは。(1/10とは言ってももともと境内から溢れ落ちるぐらいの子供がいたので結構な数です)。「奥があったら行けるところまで行ってみたい」というわたくしみたいな子供は、このように世界に星の数ほどいるのね。日本もまだ捨てた物ではない。ホロリ。





かなり歩いた先に、天狗の庭があります。
私と一緒に歩いてきた小学生たちはこれを見て一様に「なんだこれ」みたいな感じでしたが、同じようにたくさんいた外国人たちが一斉に「OH! Tengu!」と反応したのが笑えた。









こういう像って素材はなんなんでしょうかね。可睡斎の三尺坊御真殿にある像と同じに見えます。「もともとは鉄像だったが大戦に供出され、戦後ブロンズで作り直された」という情報もありますが、なんか勝手な印象ですが造りが軽いように見え、わたくしには青銅には見えません。そもそも青銅像のなんたるやも知らないのですが、触ってみてみればよかった。



鼻高大天狗の人もいましたが、この大天狗は半僧坊ではないはずです。だって遠州由来の半僧坊は「人間にしか見えないちょっと鼻が大きいだけの人物」という設定ですもの。



こういうのが半僧坊天狗のお姿です。





建長寺といったら怪異譚好きには見逃せないのが「狸の和尚様の建てた三門」でしたね。
とりわけ伊豆にはその伝説が多いのですが、「建長寺の山門が崩れそうになったので建長寺に住んでいた古狸が僧の姿に化け、関東各地を勧進して廻った。たくさんの寄付金を集めたが、ひょんなことから猛犬に食い殺されて正体が顕れた」というもの。伊豆には各所に細部が少しずつ違った物語が語られているのです。いつかどなたさまに「伊豆の狸の伝説一覧表を調べて作る」とお約束したのですが、いまだ果たせないままでいます。調べるったって、『静岡県史資料編第23巻』の項がとても詳しいので、それを写すだけですけども。そのうちやります!


(なぜか写真が旨く取れなかった)
この山門が再建されたのは安永4年(1775)、再建者は第201世・万拙碩誼です。
万拙師が狸だったのではなく、この高僧に個人的に恩を受けていた一匹の狸が、ボランティア的な志を持ち上げて全国を旅するようになった、というのがこの説話のミソです。



半僧坊の狛犬。
鎌倉の狛犬様は何と言いますか川猿さんみたいなイエズス会士が多い気がしますな。





11時15分頃建長寺を辞し、続いて向かうは鎌倉宮(かまくらぐう)。
これは鎌倉時代ではなくて、南北朝時代の事跡をまつった場所であります。わざわざ鎌倉に来て、鎌倉時代以外の場所に行くのが感慨深いんですよね。「長崎に行ってトルコライスを食べる」ぐらいの違和感がある。長崎はトルコライスの本場なんですが、なんでここでわざわざっていう。
簡単に説明を申し上げましょう。南北朝時代に後醍醐天皇という果てしなく迷惑極まりない天皇がいて、全国各地でその郎党が悪さをしまくった。後の時代になり、悲運に死んだ彼らをすべて「祟り神」として祀るようになり、全国に散らばったその遺跡を総称して「建武中興十五社」と呼ぶようになったそうです。15ヶ所あるんです。うち、この鎌倉宮は奈良にある「吉野神宮」に次いで第2位に君臨しているのです。1年前にわたくしは吉野神宮(=惡の総本山・後醍醐天皇を祀る)を訪れておりまして、また第3位は“歌ばかり好き”な宗良親王の井伊谷宮(いいのやぐう)でわたくしはこの付近に引っ越してきたばかりですから、15座のうち3つを制したことになる。以後征破できるようがんばりましょう。
1.吉野神宮(後醍醐天皇=奈良県<済>) 2.鎌倉宮(護良親王=神奈川県<済>) 3.井伊谷宮(宗良親王=静岡県<済> 4.八代宮(懐良親王=熊本県) 5.金崎宮(尊良親王・恒良親王=福井県) 6.小御門神社(藤原師賢=千葉県) 7.菊池神社(菊池武時・武重・武光=熊本県) 8.湊川神社(楠木正成=兵庫県) 9.名和神社(名和長年=鳥取県) 10.阿倍野神社(北畠親房・顕家=大阪府) 11.藤島神社(新田義貞=福井県) 12.結城神社(結城宗広=三重県) 13.霊山神社(北畠親房・顕家・顕信・守親=福島県) 14.四条畷神社(楠木正行=大阪府) 15.北畠神社(北畠顕能=三重県)







昨日はここまで見て、拝観時間が過ぎていた為に引き返しました。
さすがに拝殿の見た目が井伊谷宮に似てますね。(鎌倉宮は明治2年、井伊谷宮は明治3年の造営)
この座ってるおっちゃんは誰なんか、と思ったら村上義光ですって。村上義光はまだみんなが鎌倉幕府と戦っていた頃に、吉野で護良親王の身代わりとなって死んだ人物。蔵王権現に行ったとき広大な蔵王堂の前の広場に、村上義光にまつわる何かを見た思い出があります。(護良親王と村上たちの死出の宴会場の跡だっけ)。墓もすぐ近くにありましたよね。とにかく忠臣義光は吉野で死んだんです。鎌倉のこんなところに像があったら「鎌倉で村上義光は親王の身代わりになったのか」と勘違いしてしまいますやん。(鎌倉ではもう誰も親王の身代わりになる人はいなかった… ←親王“実は生きていた”伝説もあるが)
村上氏って信濃の豪族だそうです。瀬戸内の村上水軍も同族だそうです。なんでその一族の彼が、何のゆかりも無い大塔宮の忠臣となったのか、何かドラマがありそう。後村上天皇とはなんの縁もないのかな。
そういえば我らが浜松で、徳川家康の身代わりとなって死んだ夏目吉信も村上氏の傍流だとか。身代わりが好きな一族なのかも。



きのうは閉ざされていた道。本殿の左隣を通っていく小径の先に、「護良親王が幽閉された土牢」があります。





ちょうど神社の方が、石牢の前で詳しい解説をしてくれてました。
位置で言うと、ちょうど鎌倉宮の本殿の真後ろにこの石牢があるんですよね。浜松にある井伊谷宮も、宗良親王(=冷湛寺殿)の墓の目の前に遮るようにして井伊谷宮の本殿があるのです。同じ作り。ただここで問題となるのは、「だとするとこの神社の一番のパワーの源はこの穴なのか?」ということで、確かに護良親王が殺害された場所であるこの穴は、鎌倉にある太平記遺跡としては随一の有名な場所ですが、でもよく考えてみると、このすぐ近くにはもっと「遙拝の場所」としてふさわしい宮内庁認定の「護良親王墓所」が別にあるんだぜ。どうしてそっちの場所を神社としなかったんでしょう。

それとはなしに聞いていますと、神社の人の説明はユーモアたっぷりでとても分かり易い。でも一般向けですから私の知っていることばかり。
そして、石牢の前に立って延々と話しているので、わたくし中をのぞき込めない~。しかたがないので場を離れて他の場所を眺めてこようとしますと、さっきからパラパラ降っていた雨が、激しさを増してきました。涙だっ、これは護良親王が無念のうちに流した涙が槍となって私に降り注いでいるっ



ようやくおっちゃんの話が終わりみんなぞろぞろ歩いて行ってしまったので、中を詳しく覗き込みに行きました。
おおっ。勝手なイメージで、この穴牢はとても狭いと思い込んでおりました。立つのもままならぬぐらいの。よく見る月岡芳年の絵では、南の方も穴の中で一緒にいたことになってるんですけど、まさかね、それは無いでしょう。
ところが、実際に見てみますと、(私の写真じゃ良く分からないでしょうけど)洞窟は2階層になってる。滝沢の鍾乳洞みたいに、入口から下の穴に降りるようになっていて、そこに広い空間が広がっている。残念ながら入口には格子があるので見られる範囲が限定されていて、下の空間がどうなっているのかほとんど分からないのですが、橙色の灯りでライトアップされています。





見に来なきゃわからないものですねコリャ。
ただ、雨が降っているからか、とてもジメジメしているように見えます。そもそも私には鎌倉の町はアジサイのイメージがあって、全体的にしっとりとした印象をもっている。護良親王は(旧暦ですが)11月から7月までのあいだここに幽閉されたんですよね。ううう、一年中エアコン無しには生活できない私から見たら、とてつもない拷問だ。ただ、一説には「この土窟はのちの時代になって造られたもの」で、「本当は護良親王が閉じ込められたのは、この当時ここにあった東光寺というお寺の中の、土に塗り込められた(密閉された)部屋」だという説明もよく見ます。でもこれまたよく考えてみたら、ただのお寺にそんな部屋があるとする方がおかしいじゃんね。



さて、この神社の敷地内には他にも「御構廟(=親王の首塚)」、「宇津峯神社(福島県)から奉納された三つの神石(守永親王・後村上天皇・後亀山天皇)」、「多宝塔(=親王の遺児・日叡上人を祀る)」、「献茶碑(=何に献茶するんだ)」、「宝物殿」とかあって、見応えがたくさんでした。なんにも見るところの無い井伊谷宮に少し分けてあげて欲しい。
日叡上人は当然日蓮宗の人ですよね。で、この鎌倉宮はもともと「東光寺」っていうお寺のあった場所に建てられたんですよね。今は無い東光寺の詳細は不明ですが「関東十刹のひとつ」だという情報もありますから(十刹は別の十つだという数え方も主流なようですが)、だとするとこの寺は臨済宗のお寺であったでしょう。でもしかし、そもそも護良親王個人は比叡山の天台座主であった人なんです。天台宗こそ日本仏教界の頂点。なんでそれより遙かに劣る臨済宗や日蓮宗のものが親王ゆかりの敷地内にワラワラと集ってるんだっ。しかしその本人は「神社のヌシ」として(つまり神道の当事者として)新造の社に祀られちゃってるという。“天台座主”の座の方が誇り高いでしょうに親王にとっては。石牢の底で気の短い護良親王がワナワナと怒り狂ってそうなカオスな状態は、まぁ井伊谷宮と共通していてとても微笑ましいと思います。
で、宝物殿にはとてもかっちょいい護良親王の木造の騎馬像があったりしてずっと眺めていたかったのですが、禁写真撮影であり、また雨もザァザァ激しさを増してきてしまったので、早々に切り上げました。うん、また来ましょう。


さて、ここまで来たのだから、“護良親王の墓所”も見に行かなくてはならない。
謎に満ちた後醍醐天皇の18人(?)の皇子たちの中でも、第3(?)皇子である護良は圧倒的に生涯についての逸話が多く、太平記の記述も(死に至る経過の描写も)完成されたものであるのですが、こんなに恵まれた彼ですら、なぜか墓所が全国各地にいっぱいあります。“首塚”ですら、“わたくし調べ”で8つはある。(もっとあるかも)。(※さらに「実は生きていた」伝説も石巻市にある。) 鎌倉にはそのうち2つ(鎌倉宮と旧・理智光寺)があり、さらに首塚では無いけど鎌倉市大町にある妙法寺にも、親王の息子である楞厳法親王(=日叡上人…なんとこの人法親王に認定されていたのか)が建てた五輪塔があるそうな。きっとこの人は、首がいくつも生えていた人に違いあるまいね。ただし、鎌倉にある2つの首塚は同一の首について語っているもので、栃木県佐野市にある2つもまた別の同一の首、さらに横浜市の戸塚に伝わっている首と山梨県の都留にある首はまた別の同一の首だそうなので、親王は「5つ頭の人だった」と想像すれば良いと思います(今のところ)。



太平記の記述によれば、石牢の前で護良親王を殺害した淵辺伊賀守義博は、しかし首を斬られてもなおヌタヌタ動く親王の怨念を見て怖くなって(太平記の記述では「こんな物騒な物を直義様に近づけてはならん」と思って)すぐ近くの藪の中にその首を捨てた。(※その場所が現鎌倉宮境内にある「御構廟」)。すぐ近くでそれを見ていた南の方は、親王が殺害される瞬間は腰が抜けて声を放つ事もできなかったが、ようよう捨てられた首のところまで這って見に行くと、親王の首はまだ生きているかのよう。「ああ、これが夢ならいいのに」と嘆いていると、遠くで見ていた理致光院の長老が寄ってきて、「どれ拙僧が弔ってあげよう」と言って首を取り上げて持って行ってしまった。
…つまり、これ以上明確な首の葬り場所は無いはずなんですが。
『太平記』を信じない人も多いですからね。ここから伝説が枝分かれして親王の首が幾つもあることになってしまってるのが面白いですね。
なお、われらが伊豆にある首塚も、「南の局が見ず知らずの坊さんなんかに愛しい人の首を与えるなんて事をせず、自分で都まで運ぼうとした」ということになってるんですよ。
さらに、山梨県には「護良親王の首のミイラ」が実在するんですが、これに纏わる伝説に出てくる「雛鶴姫」というのが「南の方」と同一人物だという。
でも、『太平記』では、巻14で南の方は京に帰って親王の死の真相を詳しく説明し、それによって京にも味方の多かった尊氏が改めて謀反人と見なされ、弟を激しく愛していた尊良親王を戴く討伐軍が編成された、という場面でとても重要な役割を担ってますので(でも伝説は『太平記』を信じない)


…すみません、説明がわかりづらくて。
要は、鎌倉宮に対し、旧理智光寺に造られたという“公的な”護良親王の墓所は、実はマイナーなスポットなのです。鎌倉宮に対し、説明版が全くありません。まったく事前調査をしていかなかったわたくしは(いつものクセでして)、どのあたりにそれがあるのか見当が付かず、まぁ手にはギャラクシーのSC-01Eがあるんですがこんなに激しく降る雨の中では引っ張り出す気もせず、「すぐ近くにある」という情報だけを信じて自転車を漕ぐ。うっかり瑞泉寺まで行ってしまいましたが、この辺りの地名はわれらが伊豆の民にもゆかりのある「二階堂」、(※伊豆の工藤氏は鎌倉に引っ越すと源頼朝の建てた永福寺にあった二階建てのお堂にちなんで「二階堂」と名乗ることにした)、ただぶらぶらしているだけで非常に楽しい。15分ぐらい彷徨ったすえ、とうとう目的の場所を発見しました! 本当に住宅街の中だなぁ!



感無量。見つけたときに、ちょうど雨が上がりました。
階段を上っていくと、お墓があります。
やっぱりね、このお方は山の上が似合いますね。



ただ残念なことに、少し手前に柵が作ってあり、御墓そのものは直接には見えないようになっていました。



井伊谷の宗良親王墓もそんな感じになっています。ただし宗良親王の場合は元旦だけ墓前が解放され、おん前にまかり出でることができるようになってますので、ここもそうだったりするのでしょうか。いいです、私はここまで来られただけで満足です。
でも、ここにあったという理智光寺ってのも真言宗のお寺だったみたいですね。ふふふ、親王も少し悔しいだろう。

(…つづく)
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ブラームス 交響曲第3番。

2013年08月18日 10時52分09秒 | Pygoscelis adeliae


実家から辺地に引っ越しして早半年ですが、3000枚に及ぶ私のCDコレクションは由あって(めんどくさいから)旧居に残したままなんです。
でも私は若い頃熱烈なクラキチでしたので、そろそろクラシック音楽も懐かしくなってきています。パガニーニとかたくさんCDを買ったばかりでしたから(だけど実家に全部置いてきてしまってる)たくさん聴きたい気持ちでいっぱい。
でも現在はCDなんて無くともいくらでもパソコンで音楽なんて聴ける時代なんですよね。これ「コレクションしてる」という事に意味があるんですかね。

今猛烈にリピートしているのは、ブラームスの音楽集。
一人暮らしの男がブラームスに傾倒してるというのは(宇野功芳的に言うと)かなり危険です。かなり何かに切迫されています。なんらかの愛に飢えていてかなりアレな妄想をする危険性がある。
でも、私は学生時代からブラームスが好きでした。私の中の序列ではブラームスの交響曲は、第4番>第1番>第3番>第2番でした。第4番の哀切さは他の何にも耐えがたいですね。それに比べると第3番の哀切は少し異風なのですが、私も宇野功芳に瞞されていて第3番もクナッパーツブッシュ盤と大好きな英国のバルビローリ盤と、それからカラヤン盤を愛聴してました。
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ラーメン・タフガイ。

2013年08月07日 21時36分36秒 | ラーメン


昨日のお話です。
最近めっきりラーメンを食べなくなってしまったわたくしですが、わたくしの最愛のお店・蔵前家が限定麺をやるというので行ってみました、ヒマだからな!(ウソです全然暇じゃありません)
気賀に引っ越してきて、中川にある蔵前家は距離としたら格段に近くなったのです。でも行く機会は思いっきり減りました。なぜなら通勤途中じゃなくなってしまったからです。引っ越し後(4月以来)蔵前家に行ったのはわずか3回。今日は飛ばしに飛ばして行ってみたら、なんと片道6分で着けた。近いなぁ。

ネット配信(というかニコニコ生放送か)の『郷家ちゃんねる』というのがあって、7/30に放送された回が蔵前家がゲストだというのでたまたま観たんです(しずめん!で録画を)。そしたら一週間後に挑戦的な限定麺やるよって。そしたらたまたま私休みの日だったんです。
番組を観てても司会をしている郷家さんって人が何者か分からず、このひと何者ですか? って思ったんですけど、なんか見たことあることを思い出しました。沼津の片浜にある「麺屋ひこ星」の店主さん(?)ですね。いえ、このお店には行った事無いので自信がありません。ネット検索をしてみてもプロフィールがぼかされている。ていうか、「さすらいのラーメン職人」ということは、現在はそのお店にはいないのか? たまたまあのとき麺屋ひこ星にいただけなのか? さっぱりわかりません。きっと鯨さんみたいな位置づけの人なのですね。このページを見ると、その鯨さんも郷家ちゃんねるの誕生に関わっているようですが、今はどうなっているのかも不明で、こういう果てしなくゆる~~い感じが言ってみれば静岡県の特徴なのかなとも。

お店についてみるとかなり高橋さんと川口さんの背中が見え、キャブさんが厨房に立っているのがわかった。会ったこともない人たちなのに(笑)一目で分かるというのもすごい時代だな。私の両隣に座っている人も、きっと名の知れたブロガー様なのだろう。(※ブロガーとは縁のなさそうな見た目の人たちもたくさんいました。なんせ蔵前家は愛されているから。私も見た目では人の事は言えないが)
いそいそと席に座って、ラーメン。



器が黒い!
わざわざこの器を70個も運んできたんでしょうかね。大変な事です。
一見して気になるのは、レンコンと麩。一体何ラーメンなんだ。
私が聞いていたのは「あまたの海の恵みスープ」と「浜松ホワイト=海産物スープと蔵前家スープの融合」ということでしたが、それにレンコンがどう関わってくるんだ。



うーーむ、表面が軽い物では無い油で覆われていて、もうすでに蔵前家の物とは違う。匂いを嗅いでみると酸い匂いがする。一口含んでみますとヌルい! そしてやっぱり酸い。私は煮干しラーメンが苦手だった事を思い出しました。でも煮干しと思しき単線の風味は短期的なもので、あとはぬとぬととしたいろんな味がする。「我らが蔵前家のスープに何てことする!」と一瞬だけ思いました。



でも言うまでもなくそんなこと分かって私も来てるわけで、作っている人も「変な事してやろう」と思ってこんなことしてるわけでして、実際は面白い味わいでした。
まずかなり氏の事前情報で、「ホタテ、エビ、煮干し、鶏節、ピンクソルト、白醤油」と書かれていました。一番強く感じるのはお魚で「エビの匂いはあんまりしないなー」と思ったのですが、一番興味深いのは舌にまとわりつくヌラヌラでした。これがホタテなのかな。でもなんかもっと違う貝の味もする。と思ってても料理の素養の無いわたくしには詮索しても無益なことで、もっといろいろぶっ込んでるんでしょうな。わざわざ「あまたの海」って書いてるんですから、ナマコとか深海サメとかエイとかゴンズイとかウニとかビクニンとかハオリムシとかカメノテとかカイアシとかタコブネとかイカとかトコブシとかエボシサマとかイソオンナとかカイナンホウシとか。



麺はいつもの蔵前家の麺のように見えましたが、口に含んでみると違う。加水が高いっていうか、よく見たら「祝!!世界文化遺産 霊峰富士伏流水使用麺」って書いてありました。あとで聞いたところによると、三島市の大勝軒みしまさんが作った麺だそうです。へぇ。つるつる。

といったぐあいで、「やっぱりいつもの蔵前家が一番ウマイな!!」と確認することになった結果でしたが、なかなかどうしてこっちは最後までいろんな味がしていましたし、蔵前家のスープがよく分からなかったし(笑)、おもしろい。またたまにやって欲しいです。いつも同じの食べてても仕方が無いですからね。でも、一方でできたらいつもの「濃い目」を指定できるようにもして欲しい。
コメント (2)
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韃靼人の踊りと合唱。

2013年08月05日 14時37分18秒 |   歴史音楽の部屋


色っぽい。
モンゴル軍がすべからくこんな感じでしたら、歴史はさぞ面白くなっただろうと思います。
(女性がこんな格好でいたら必ず凍死する。男はいいんだよ男はハダカでも、大きい確率で死なない生き物です)




これと雰囲気が似てるように思いましたが、
こいつらって、本当のモンゴル人は右端の一人だけだろう。
えせ韃靼人め。
草原の民が飲むのはウォッカでは無くて馬乳酒だ。
(いやわたくしだって馬乳酒なんて飲んだこと無いけども、馬乳酒ってどんな味だろう)




こっちもかわいい。
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