オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

私の死は3年秘せよ。

2024年07月08日 21時10分49秒 |   南北朝

ことしの私の夏休みです。
4年前の大雨が降った翌日に、宗良親王巡りをしに天竜川をさかのぼる旅をしたんですね。()。でもやはりいつもの私の怠惰で、旅行記を結局完成させることができなかった。あのあと浪合村の御所桜と治部坂峠(この治部とは石田三成のことではなくて南軍ゆかりの人物だという)から、諏訪氏の拠点・高遠城まで行って、宗良親王の位牌と木像のある常福寺と北条時行の籠もった大徳王寺城、そこから分杭峠を通って大鹿村に戻り、駿木城と香坂高宗のお墓を探し回ったんですよ。残念です。まあ写真は全部残っているのでまた語ることもあるだろう。

今回は4年経って、「心残りだったもの」を確認しにいく旅です。

水窪町青崩れ峠手前の瑟平太郎の墓。4年前は豪雨で水窪川が逆巻いていて身の危険を感じたが、本日は快晴で猛暑。しっぺいちゃんは相変わらず可愛いですね。山ビルの記憶にいまだに怖気立つ大野田神社は今回素通り。遠山郷から大鹿村に通ずる蛇洞(じゃぼら)林道(地蔵峠)はまだ通行止めでした。ここ10年以上前から通れないんですけど、直す気は無いんでしょうか。(不便で仕方ないんですけど)
前回と同じく喬木村・豊丘村・小渋ダムを通って大鹿村へ。

『道の駅歌舞伎の里大鹿』にて鹿のステーキ定食、1500円。これ前回食べたとき無茶苦茶旨くて夢に出てくるほどだったんです。なんと、4年前から100円上がっただけ。

おっちゃんが薦めてくれたカツ丼も食べてみました。・・・と言おうとしたんですが、この道の駅には2つのレストランが隣り合っていて、片方には「そば屋の煮カツ丼」があってもう片方には「伊那谷名物ソースカツ丼」がある。あれ?おっちゃんが「世界が変わるぞ」と言ってくれたカツ丼はどっちだっけ?
ソースカツ丼も私は嫌いではないけど、気分で卵とじの方のカツ丼(900円)を注文してみました。とじられまくっていますね。

なるほど。肉の本体の部分が柔らかすぎる気がしないでも無いが、脂身のところが弾力があって味がにじみ出してきて、厚いから食いでがあります。うまいぞヘルシーポークみつい。ところがカツを片付けてから鹿肉の方に取りかかりますと、一口目は血が滴り堅さと弾力が素晴かったイーティング・ディアが、火が通るとレバーみたいな食感と臭いになったように感じてしまった。あれ?こんなのだっけ? まあ、こういうのが地冷えの味わいってものなのでしょう。

さて、今回大鹿村まで来たのは、前回大雨で崖崩れをしてしまっていた「御所平」が今どうなっているのかを確かめるためです。大河原の御所平は、宗良親王がその生涯で最も長い30年間を過ごした場所。聖地。あの道路は4年経って復旧されているのでしょうか。ネットで調べてもさっぱり分からないので。
ところが道の駅に道路状況の案内板があって、

御所平は通行止めって書いてありました。行く前に結果が分かっちゃったい。
というか大鹿村って山の奥の僻地にあるのに、ここに至る東西南北の4つの道(蛇洞林道・分杭峠・御所平・小渋川)のうち3つが通れなくなっているっていうのは凄いですね。※でもこれを見ますと、分杭峠は半年前に通ったとき(←甲斐と諏訪と上田にお城集めに行った)通行止めだったんですけど、もう通れるようになっているのかな。

でもせっかくなので、前回私が非常に難儀した、あの崖崩れをこの目で見に行くことにします。せっかく来たので。
4年も通れなくなっている道なので、道の草木の繁茂と枝の折れ具合が凄い。道路に木の枝が張り出していて、私の愛車の両側がこすれるこすれる。しかし! 前回バリケードがあって通れずそこから2km歩きに歩いた場所まで来ると今日はそこに閉鎖柵がありません。おお、これ先まで進めるぞ。道路は非常に危険になっていましたが(木の枝が)、行けるところまで行こうと頑張って進んだら、崖崩れのところまで車で行けちゃいました。なんと!

さずがにこの先は進めないのだろう、と思ったら、放置されているように見えながらこの崩壊箇所の下の護岸はちゃんとされてあるし、地面に見える場所はモルタルが吹き付けてってもう崩れないようにしてあるし、歩きやすいように道と階段が作ってあります。

ここから御所平までは200mです。
つまり、「宗良親王の聖地」御所平は通行止めだけれど、そのすぐ手前まで車で行けて、御所平には歩いて行ける状態になっているということです。(だれも来ないのでしょうけど)

大河原御所を復元した御所造りの木造建築も、4年経った今も健在でホッとしました。でも屋根に木が生え始めていて、(もともとでしたっけ?)、これが朽ち果てて倒壊するのもそれほど遠くない気がします。ここに来る途中にあった(字が読めなかった)宗良親王の宝筺印塔は、うっかり寄るのを忘れてしまいました。(・・・また来よう!)

 

続いて行きましたのは、松川町中川村の中川文化センター。
ここには北条時行が信濃の国で長い潜伏期間を過ごした「四徳の里」の在りし日の復元模型があるというのです。
四徳は山奥の奥の奥にある隠れ里で、林業を中心になかなかの規模の村だったのですが、昭和36年(1961年)の「三六災害」で甚大な被害を受け、住民は「全員離村」という道を選んだのでした。

ところが、googleには「年中無休」と書いてあったのに、行ってみたら「本日休館」の文字が。今日は日曜日なのに。日曜で休みなのだとしたら、月曜日なんてもっと休みなんじゃないか。でも、入口の左側に案内の窓口があって、念のためそこにいたおっちゃんに訊いてみたら、「明日は開いてるよ」と言われました。文化センターなんで日曜日でもイベント等がなければ閉まってるのかな。知らんけど。
でも明日また来るとして、この文化センターは図書館と一体化していて、図書館は月曜休みでしょうから、念のため今日入っておもしろそうな本が無いか見てみます。なんと、かつて四徳村に住まわれた方の思い出の記録や四徳の伝承をまとめた立派な本が3冊もあって、知りたかったことの半分ぐらいをよく知ることができました。

改めまして翌日です。
私がこの四徳村模型のことを知ったのは4年前なので、「今もあるかな」「非町民が入っていける場所にあるかな」と心配しながら入ったのです。しかしロビーのなかなか良い位置に、ででーんと置いてありました。これは見事だ!

歓びにむせびながら写真を撮ろうとしたのですけど、なぜかどの角度から撮ろうとしても、上に飾られている絵が反射して映り込んでしまって、全然写真が撮られない。見ると「ここまで見事に!」と唸りたくなるほどの精巧なジオラマなのですけど、どうやっても写真が撮れない(笑)
でもほんと見事です。4年前に行ったときそこには「四徳神社」しかなく、広大な開けた村の光景など全く想像することもできない有様で、「北条時行の隠れ住居跡なんてどうやって探すんだろう」と途方に暮れたのですけど、この村展開図ではピンポイントに「殿の小屋」の位置が分かります。

四徳神社のところから歩いて行けそうなんですね。(多分山ビルが大量にいるだろうからムリ)

でも今になって思うと、せっかくわざわざ行ったんだから、もっと上手く写真を撮る術があったんじゃないですかねえ。私のカメラのせいではなく、なぜもっと工夫をして接写しなかったのか悔やまれてならないです。ほんとに細部まで丁寧で精巧なものだったのに。また10年後ぐらいに撮りに行きます。それまでありますように。

ジオラマの下には豊富な解説パネルがあります。とても見所豊富な村だったんですね。20分で私は今は亡き四徳村のことに詳しくなりました。

「北条時行が15年間四徳の里に潜んでいた説」ってなにが出典でしたっけ。
4年前の大河原行きでも、松尾四郎・著 『宗良親王信州大河原の三十年 東海信越南北朝編年史』(1981年、松尾書店)を持っていきましたので、きっとこの本に何か書いてあるのだろうと思って読み返してみましたのですけど、どこにもそれがありません。4年前に大鹿村の道の駅で買った2冊の本にも書いてありませぬ。

あれ?
でも4年前の私はどれかの本を読んで大河原から四徳の里を目指した訳でしたから、私の手持ちの本のどれかにそれが書いてあるはずなのです。

現時点の情報をまとめましょう。
中川村の図書館にあった四徳の村の伝承を集めた3冊の本には、決して「北条時行が15年間ここに住んでいた」という記述は無いのです。四徳村にはそういう伝説はなかったと思われる。そもそも四徳の里の創生伝説は、「1160年頃に平家の落人がやってきた」です。1160年って、平家の全盛時代ですよ。そんな時期になぜ落人が。1160年は平治の乱が起こって知多で源義朝が長田庄司忠致に殺害され、源頼朝が伊豆に流された年。
ちょっと遠い駒ヶ根市で「大田切城の血戦」というのが治承4年(1180年)にあったのだそうですけど、1160年と1180年が混同されているのでしょうか。
北条時行だって広義には平家の残党なのですけど、2年前まではごく当たり前に言って、「鎌倉幕府の御曹司である北条時行」よりも、どこのだれともわからぬ「平家の落人の里」の方が観光的には100万倍もの価値があったのですよ。ほろり。「南北朝期にも落人がこの里をさかんに利用した」とは書かれてあって、それが北条時行一党のことなんですけどね。
しかし、この3冊の本には、「最近わかったことだが、太平記に記されている「大徳王寺城」が四徳の殿小屋のことではないかということで、とても注目されている」と書かれているのです。現在では大徳王寺城は、伊那市の高遠城の近くにあるというのが定説化されているんですよね。私も4年前に大徳王寺城行きました。傍らに宗良親王の墓所であるとされる太平山常福寺(曹洞宗)があるんです。
高遠城の近くのあの場所が大徳王寺城の場所だと決定されたのは、おそらく市村咸人氏の『宗良親王-御遺蹟の研究-』(1943年)です。「溝口御遺蹟について」とわざわざ章を立てて、常福寺の屋根裏から落ちてきた木像の背部に、「尹良親王が元中8年(1392年)に尊澄法親王の像を作り、大徳王寺に納めた」と書いた文書が塗り込められていたと書いてあります。ここが大徳王寺ですよね。尹良親王は架空の人物なんですけどね。しかしながら、大徳王寺城で北条時行が決起したのはそれに先立つ50年も前の興国元年(1340年)なので、本当に高貴の人である宗良親王がこんな場所へ来たことがあるのかどうかは私にも疑義がある。
興国元年の大徳王寺城と元中8年の大徳王寺が同一人物なのかは、私は良く分かりませぬ。
四徳村全村移住後の四徳の人たちが、「太平記に書いてある大徳王寺の合戦があった場所は、実は四徳村だったのかも」という機運が、1961年頃にあったきっかけは何だったのでしょうか。

4年前には無かったのですけど、Google地図上の桶谷地区に「北条時行の墓」のピンが出現していました。7月に大鹿村に行ったとき、これに気づいていなかったので素通りしていました。くそう。4年前も大鹿村と四徳村に北条時行捜しに行ったあと、直後に鈴木由美氏の『中先代の乱』(中公新書)が出版され、それに桶谷の北条時行の墓の白黒写真が載っていて、「くそう」と思ったのです。北条時行の時代が来ている。でも、北条時行の上位互換は宗良親王なんですよ。

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我が上に 月日はてらせ 神路山 あふぐ心に わたくしはなし。

2022年08月18日 01時39分33秒 |   南北朝

火の玉の話、あと倍ぐらい書くつもりだったのに停滞してしまいました。今だってやる気満々なのにどうしてなんでしょうね。といっても、あと水木しげるの話と浜松のお松さんの話をして、最後にうしろの百太郎で締めるだけなんだ。(がんばるぞ)

と、いいながら申し訳ないのですが、旅行に行ってきたのでその話を先にします。
一ヶ月ぐらい前、何も考えずにとことん遠くに行きたくなって、東を目指したのですけど、東京の檜原村まで行った所で気が変わって帰ってきてしまいました。一泊二日車泊でした。できたら岩手県ぐらいまで行こうと思っていたんですけどね。意気地なしなんだから私。でも、2日間で箱根峠で3時間だけ仮眠したほかはずっと運転し続け、神奈川県を2周ぐらいして江戸城のまわりも一周半したのでした。写真は一枚しか撮らなかった。(「写真は一枚だけ許可する」で有名なお店)

リベンジで、今回は西方です。行く前は、できたら広島県ぐらいまでは行きたいと思っていました。けど、結果として5日かけて行けたのは神戸まででした。じゅん兵さんの意気地なし。

まず最初はコレです。近江ちゃんぽん。
10年ぐらい前からとても気になっていたのですよね。琵琶湖に行くたびに滋賀県にだけ大量にある近江ちゃんぽんのお店。近江ちゃんぽんとは何ぞや。しかし私は滋賀県ではほぼ天下一品か鮒寿司しか食べませんので、疑問は疑問のままでした。今回は心をチャンポンにして毅然として行きます。
彦根にあるお店が本店だそうなので、そこを目指しました。

お店は写真で見るより巨大でインパクトがあります。
開店直後から家族連れが大量に訪れて(お盆連休中だから)大混雑でしたが、こんな巨大な見た目だから二階席があるのかと思ったら、なかった。

わたくしたちは肥前の民なのですから九州原理主義者であり、ちゃんぽん的なものには一家言あるはず。でも九州ちゃんぽんの定義とか、近江ちゃんぽんの歴史(発祥の場所とか原点の店をかべが何かとか)とか近江の独自性は、ネットで調べた方が早いし少しややこしいので全部省き、一度食べたら全部疑点は氷解したので大満足でした。これは身体にいい食べ物です。日常的に食べたくなるのは良く分かる。飯田に行ったとき、「皿うどん」にも長崎血うどんとそうでない血うどんがあったのも、これと関係があったのでしょうか?

黄金スープ。なぜかタマゴ入りのを頼んでしまって(多分メニューの中央にあった)、900円ぐらいだったかしら。
見えませんけどキクラゲもちゃんとありましたよ。もう、肉なんか入れなくてもいいくらい、朝食べたい滋味深いちゃんぽん。
滋賀県にしかないと思っていましたら、われらがららぽーと磐田にもあるそうですよ。そのうち行ってみよう。でも、この野菜的な感じって、私の中の概念ではタンメンなんですよね。日頃タンメンなんて食べないのでタンメンの定義もよく知らないんですけど、だとすると今度は、来るときによく見て「大増殖してるな」と感じた、「岐阜といったら岐阜タンメン」が気になるところ。

 

私が奈良・京都を巡るといいましたら。それは天下一品を食べに行くということなんです。でも今回は、5日間で2店しか寄りませんでした。

彦根東店。

奈良庵治(おうじ)店。
天下一品ってすごいよね。店ごとに味わいが全然違う意味が分かんない。帰ってきてから思いますけど、なんであと10店舗ぐらい食べてこなかったんだろう。
私が初めて天下一品を食べたのは20年ぐらい前に神戸ででしたが、あのお店は今回見つけられませんでした。

彩華ラーメンにも一店舗だけ行きました。

田原本(たわらもと)店。
わたし、8年ぐらい前に彩華ラーメンで一度戦いに負けて浜松に逃げ帰ったことがあったんです。その復讐戦です。む、イメージと違う。にんにくの臭いはするがそれよりもラー油の方がはるかに強い。とてもおいしゅうございます。私が酷敗した天理市の石上神宮前のお店、行ったら見当たらなかったんですけど、なくなってます? その数年前に奈良の南の方の山の中で彩華ラーメンを食べた記憶が、私の初めての彩華の記憶なんですよね。宇陀のあたりだったかしら。そろそろ「天理スタミナラーメン」にも挑んでみなければ。

この年になってしまうと、ラーメンとかって基本的に昔食べたことのある思い出のものしか食べたくなくなってしまうんですね。それはそれで楽しいことなんですけど、自分の全盛期は15年前なんです。もう世の中は動かなくていい。

 

さて、今回の旅行の名目上のテーマはコレです。

ご朱印集め。
左が天狗関連神社用の御朱印帳で、右が「建武中興十五社」用の御朱印帳。思い立って買ったのは5年ぐらい前なんですけど、それから急に私は旅行に行かなくなってしまい、それで少し前に鎌倉を通過したとき、「しまった、車に御朱印帳を積んでない」と後悔したんですよね。それで思い出して、改めて「建武中興十五社巡りをしよう」と思ったのでした。

関西には、大阪に2ヶ所、兵庫に1ヶ所、奈良に1ヶ所の「中興神社」があります。
(大阪と京都の天狗神社も巡る気満々だったのですけど、時間的な問題で左側の御朱印帳の出番はありませんでした。)

なんせ私は、ご朱印集めなんてこれまで親しんでなかったですから、ご朱印をいただくときの作法とか全然知らないのでした。

最初に押した井伊谷宮は平成30年(笑)。

つくづく、この十五社というのは浜松に住んでいる私にとっては、(熊本以外は)都合の良い配置になっていると思います。九州に何とかして行く計画を立てねばな。鳥取はまあなんとかなるだろう。これが隠岐の島(後醍醐天皇)とか笠置山(後醍醐天皇)とか佐渡ヶ島(日野某)とか土佐国(満良親王)とか讃岐国(宗良親王)とか忽那島(懐良親王)とか篠島(義良親王)とか青森(長慶天皇)とか越中越後(宗良親王)とか奥州(北畠顕家・顕信)とか奥州(守永親王)とか無数にあったら、とても困ってしまいます。「ひとりにつきひとつ」なのがありがたい。数に制限がないのなら、宗良親王だったら10ヶ所はできてしまいます。

 

★四條畷(しじょうなわて)神社 (大阪府四條畷市)

“小楠公(しょうなんこう)”楠木正行(くすのきまさつら)を祭る。
わたし、楠木正成はそれほどでないんですけども、楠木正行と楠木正儀は大好きなんだ。
御朱印は300円でした。

「有孚顒若」、かっこいいですね。どういう意味でしょう。
(※「真であれば、厳かとなる」だそうです)

「御妣(みおや)神社」も素敵な文字。

「楠公」は「なんこう」と読みますからね。この五輪(?)様が慰霊しているのは正成公の方です。
元中3年(1386年)が本当のことだとして、終始一貫して北朝側の武将だった(が、のちに乱を起こした)大内義弘が、本当にこれを立てたとしたらスゴイ。

お母さまの名前は久子さん。1991年の大河ドラマでも、この名前でしたね。

ちょっと読めないと思うので拡大。

「参道を下って1km先に墓所がある」と書いてあるんです。
でもわたくし、この看板ざざっと斜め見しただけで、ちゃんと読まなかったので、なぜか1km先にあるのは「四條畷合戦にまつわる何か」だと勘違いし、「きっと「古戦場の碑とかあるのだろう」「それをみに行こう」と思ってしまったのです。だって「楠木正行の首塚」は京都の寳筺院にあることを知ってましたから、墓がこんなところにもあると思わなかった。その役目としてこの神社があるのだと思った。結果として、そんなむやむやした状態で漠然と探しただけなので、何も見つけることはできませんでした。
この「四條畷」、すごい土地です。今日は東大阪市八尾の方からずっと北上してきたのですが、なんか大阪でも独特の不思議な文化の感じられる地帯なんですよね。この山麓には西側に巨大な沼(深野池)があり、山と沼に挟まれた細い道路(畷道)が南北に走っていた。こんな変なところででどうして戦ったのかというのがこの戦さのキモで、「高師直が凄かった」と言うしかないのですが、Wikipediaによるとはるかに広い範囲で戦ったそうで、これはなかなか楽しい戦いでしたね。(私は高師直・師泰も好き)。小楠公が戦死した場所もなかなか遠かった。
とにかく、参道からしばらく歩いても何も見つからず(とても変な巨大邸宅が途中にありましたよ)、20号線の門があるところで足が痛すぎると思って諦めて帰ってきてしまいました。1㎞は歩いたと思ったのですけど実は600mで、本当に400m先に楠木正行の墓があった。
「四條畷合戦古戦場の碑」はどこにもないそうです。
「四條畷の合戦」「沖田畷の合戦」「山木判官攻め・韮山城攻防戦」「藤波畷の戦い」「木原畷の戦い」「獄門畷の戦い」「松本市の縄手通りの宇宙堂」「八丁畷治安悪い」は、日本史の「五大不思議畷」として有名です。
そもそも四條畷神社の創建って明治23年なんですね。井伊谷宮(明治5年)よりはるかあとや。
あとで、「四條畷神社の宮司さんはとてもすごい人」と、歴史に詳しい人に聞きました。

 

★阿部野神社 (大阪市阿倍野区)

野区にあるのに阿野神社。北畠親房と北畠顕家の親子を祭る。
ここ、極めて細狭な住宅街のただ中にあって、Googleマップを見ながら「裏側から攻めて、ここをこう行ってここからこう行けば行けるだろう」と思った道からは行けませんでした。どう行ったら正解の道なのか、今もさっぱり分かりません。30分は行ったり来たりしましたぞ。

北畠顕家像。ゴクミ。私はゴクミと同い年なんですよ。この神社、御祭神が北畠親房・顕家両卿なんですが、やや2:8ぐらいの比率で親房卿(公?)よりも息子の方が顕彰されている。
なぜかといったら近くに顕家卿のお墓があるからで、、、 知らなかったから行かなかったぜ。しまった、前を通ったのに。(こんなのばっかり)。
(戦死地は別の場所(堺市)です。どうしてこんなところに墓があるのだろう。)
北畠顕家はなんとなく“軍神”上杉謙信に通ずる、軍行して勝つためだけに生きた最強戦士。
軍行して戦い続けていたのに負けばかりだった(のに長生きした)宗良親王とは正反対の運命の生涯。

一願一遂之宮。(叶えられない願いもあります。願いとはあなたが自分で遂げる物)

神は人の敬によって威を増し、
人は神の徳によって運を添う。 

見よ、かの森は顕家が孤忠を誇る常磐木ぞ
みよ金剛、峰の色 青史に永く正成が至誠を誌す不朽の字。

まず気づくのが、この神社では境内社のお稲荷さんの存在感が異様に大きいことです。
この写真だけ見ると「神社でよくある赤鳥居の道じゃん」と思われるかと思いますが、中に入ると分離していて、わたくし数えで少なくとも3つのお稲荷の小祠がある。
「旗上芸能稲荷」と書いてあるんですけど、なんで芸能?(親房卿の和歌の道つながりですかね)

で、あとあと境内地図をみましたら、「旗上稲荷社」、「旗上芸能稲荷社(鈴之宮)」、「土の宮」の3つがあるそうでした。
土の宮は正確にはお稲荷さんじゃないそうですが、十分お稲荷に見えます。

世阿弥八世 観世銕之亟。

阿部野神社ではお狐様は「喜常」と呼称するんですって。

ウマ。

詩歌の道。井伊谷宮みたいに、ここに北畠親房のすばらしい歌が陳列されているのかと思いきや、ここには御洒落な小路とお茶室があるのみでした。

「勲之宮」。忠臣・南部師行を祀る。
なんぶもろゆき、、、 ごめんなさいあんまり知りません~、と思ったのですけど、戒光祥出版の『南北朝武将列伝』にもちゃんと独立した項が立てられている(それも初項)、すばらしい武人でした。ごめんなさい。南部師行、楠木正行、北条時行の「行」の字は、誰に由来しているんでしょうね。

「向い鶴」は南部家の家紋だそうです。嘴広鸛に見えます。変な生き物。遠野へ行きたい。

働きは最上の喜び。
本殿をぐるりと取り囲むようにして回廊があって、後ろ側に奥の宮があります。空間を無駄なく使おうという工夫が余すところなく見られるのですが、その、木で作られた塀は三面のすべてが文字でびっしり埋め尽くされているのです。写真では感じられないと思いますけど、これは圧巻。祝詞なのか、古事記的な物語なのかなかなか興味深く見ましたけど、さすがに全部読めませんでしたよ。とにかくサービス心全開。

そして、「何もかも文字で説明しつくそう」という意気込みが随所にありました。さすがにこれも全部は読めませんでしたけど、すごいなあ。

とにかく、とても狭い境内の社なのに見どころたくさん。なにこれ。さすが大坂。井伊谷宮もこうして欲しい。

御朱印をいただきに行ったら、とても会話が心地いいお嬢さんがいて、Googleで見たクチコミの良い人がこの人なのだと思いました。ただ困ったのが、この神社、異様に御朱印の数が豊富なことで、お嬢さんの説明を聞いていると全部欲しくなる。実は12日に浜松の家を出発したとき財布の中身は1万円。「1まんえんでどこまで行けるかチャレンジ」をしていた最中で(※ガソリンと高速はカードで払っていたので別)、8/14のこのとき財布には千円札1枚しか入っていなかったのでした。彦根城で3000円ぐらい取られたのが痛かった。こまめに温泉施設にも寄っていたし。
御朱印なんてほんと興味ないので、普通の御朱印でいいのですが、お稲荷さんの御朱印とか、期間限定のお稲荷さんの修復のための記念御朱印とかお姉さんの解説を聞くとどれも魅力的。お稲荷さん、3つもあってあんなに支援者が多そうなのに、さらに基金が必要なのか。さらに、お嬢さんによるとこの御朱印群の中で一番魅惑的なのは「月替わりの御朱印」だそうで、特別の御朱印帳があって、12ヵ月通って揃えるとそれはそれは見事だそう。見本があったので写真を撮ってきました。ただ、それは書き置きの朱印だそうで、御朱印帳に直接印を押して欲しかったわたくしは、「うーん、だったら普通の御朱印でいいかな」と言ったら、「でも普通の御朱印も書き置きですよ」と言われたので、「じゃあ月替わりの御朱印ください」って言ってしまったのでした(笑)。
でも、最初500円と言われた気がしたのに、なぜか800円払ったぞ。朱印貿易かい。
「遠くから来たので毎月はむりでんねんやねんなあかんなしかし」と言ったんですが、お嬢さんは浜松はあまりよく知らないようでした。(そりゃそうだろう)。建武中興十五社もおそらく御存じない。

 

★湊川神社 (神戸市中央区)

“大楠公”楠木正成を祭る。「湊川の戦い」のあった場所。
神戸の町ってどこが中心なのか素人の私にはわかんない。Googleマップを見ながら慎重に慎重に来たのに(ながら運転は逮捕だぞ)、あと少しで湊川神社というところで変な道路に入ってしまって旋回できぬ道で神戸ポートランドまで行ってしまった。最初からやり直しです。三車線以上ある道には必ず罠が仕掛けてあるのはどうしてなんだろう。(だって川崎とか横浜とか名古屋とか一番左車線は必ず駐車専用レーンなのに、意外に大坂とか神戸とかそうじゃないんだもん。普通真ん中走るじゃん。でも真ん中走ることが罠の場所もあるんだから)。10年間ガラホ使いだった私がスマホに買い換えたのは半年前ですが、確実に半年前より私は道に迷っている。以前は家でGoogleマップを頭に叩き込んでから旅に出かけた物ですが、そもそもGoogleマップすらない25年前の方が、なぜか何もしなくても一直線に目的地にたどり着けていた気がするんですよね。(記憶が美化されているだけかもしれませんが)。実際、方角さえわかればいい。スマホアプリだと向かってる北と南が分かんないんです。

 

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逃げ上手の皇子達。

2021年11月06日 09時41分17秒 |   南北朝

去年の7月に行った信州旅行、もう遥かむかしむかしですが、せっかく撮った写真がもったいないので、写真の陳列だけでもしておこうと思います。まさかこの1年半でマイナーな北条時行が主役のジャンプ漫画が出てくるとは思ってもいなかった。

浪合村で出会ったクマ(の剥製)。一緒に寝ました。

浪合村で泊まったのは、「観音山少年自然の家」(←浜北市民が40年前の子供の頃に自然研修した施設)みたいなかんじのところだったのですが(格安)、「信州で刺身を食べる」ってのは南信では定番らしいのですが、昨晩飯田市で泊まったときはそれができなかったので(一軒で満足してしまう悲しいお年頃)、飯田市の地元スーパーで大量に刺身を買って浪合村に持ち込みました。

だだっぴろい施設でしたが、季節外れ(?)なのでワタシ独り(笑)。

泊まったのは「なみあい楽遊館」という施設。親王の墓所である浪合神社までは1000mぐらいの場所にありました。なんと一泊2,600円税込。

私に割り振られたのはこの写真の2階部分の雰囲気ある板敷きの6畳間だったのですが、なんせ一人貸し切りだったので一階の大広間でテレビ見ながら(うそです『浪合記』を読みながら)、ビールを浴びまくってそのままその場で事切れる流れでした。

写真じゃ分からないと思いますけど、私がこの宿に辿り着いた時点で大豪雨で、近辺を歩き回りたいと思っていたのですけど、とうてい無理でした。周りは自然豊富で、モリアオガエルの卵がそこらじゅうにあったので写真を撮りまくったのですけど、ぜんぶきれいに撮れていませんでした(笑)。

いろりの間もあったけど、ここの使用料は¥1500ですって。(ここからはテレビが見えませんが目の前にクマがいる)

おお、宗良親王(尹良親王)も650年前にこの景色を眺めていたんだな。

 

・・・ただ、私のおぼろげな記憶(楽天トラベルの宿泊履歴)によると宿の予約到着時間を18:00にしていたけど、いろいろやっていたら間に合わなくなって宿に「すみません遅れますすぐ行きますから」と電話をしたような記憶がある。(「到着する頃に電話して」と言われていたのだった)。しかし私のカメラの記録によると18:00に浪合神社を訪れていて写真を撮りまくっている。なんでチェックインを済ませた後、ゆっくり行かなかったんだろ。(・・・というのは豪雨だったからです。おそらく私は写真を撮ることを優先した)

浪合神社。
御祭神は宗良親王の2人いた皇子のひとりである尹良親王。
Wikipediaでも尹良親王は「架空の人物である」とされていて、でもここには立派な古墳があるので「それに相当する何かの人物はいた」とされているというふわふわした感じの歴史上の浪漫のかたまりのような土地にある神社。
「尹良親王」はなんといっても想像上の人物であるので名前の読み方も定まっていなくて、Wikipediaでは「ゆきよししんのう」「これながしんのう」「ただながしんのう」ですが、尹良親王崇拝派のわたくしでもその都度適当な名前でお呼びしちゃってるんですが、「これよし」と「ただよし」が多い気がします。(※尹良親王は足利直義の御落胤説がある。“御落胤”ってなんなのか)。なぜか私のパソコンのATOKには「尹良」を「いいん」で登録してあります。打ちやすいから。(宮城谷昌光氏の『伊尹伝』の影響ですね。井伊家の王子だからですかね。ただし尹良親王は井伊家とは何の関係も無い説もある)。 ※遠江史学的には「ゆきよし」が正解。

神社の写真はそれなりにりっぱな神社に見えると思いますが、実は右側にある建物は「一心流鎖鎌術」の記念館です。なんでやねん。

一心流鎖鎌術は南北朝時代発祥で江戸時代に九州を中心に隆盛を見せ宇宙世紀のジオン公国で全盛を誇った流派だそうですが、宮本武蔵に負けたという伝説を持つという。(でも宍戸梅軒とは全く関係が無いという)。この神社と何の関係があるのでしょう。(調べると、始祖のジオン・念阿弥・ダイクンなる某がここの裏山で修行をしたらしいです。)

写真じゃ分からないと思いますが、この参道が雨で、もはや川状態。

この宝筺印塔、歴史に詳しい人だとここが尹良親王のお墓だと思ってしまうと思うのですけど、これはただの慰霊碑だそうです。

明治12年の勅使参向の碑。
この勅使とは西四辻公業(にしよつつじきみなり)卿。

なにかの小祠がたくさん。

 

・・・で、私は明るいうちにここの視察をしておいて、また丑三つ時ぐらいになってから再度ここを訪れたかったんですよね。「何か私に言いたいことは無いか」って言おうと思って。(※参考)。でも夜通し雨がすごくて無理なはなしでした。
えーーと、後醍醐天皇の関係者のお墓に夜中に行って、「私ははるばる浜松から来たんですよ。何か私に言いたいことはないか」と言うっていうことを私はライフワークにしていたと思うのですけど、それは何がきっかけでしたっけ。さっぱり思いだせない。思い出せないならただ変な奴なだけじゃん。

 

文章を書いていて思い出したんですけど、この「一心流鎖鎌術」の創始者である「念阿弥慈恩(じーくじおん)」という人は、正平5年相馬氏の生まれで新田軍の関係者。全国を流浪して18歳の時九州で剣術の奥義を取得したという人。つまり宗良親王や尹良親王とは同時代の人なんですって。この人が浪合村にやってきたのは58歳の時(応永15年)で、浪合村に「長福寺」という時宗の寺を建てる。それが現在の浪合神社の場所(・・・の入口のすこし南側)だったんですって。
架空の人物である尹良親王が、浪合村か大河原村のどちらかで戦死したのは応永31年で、その直後に長福寺の裏に誰かの手によって、伝・尹良親王のものとされる塚が造られて・・・ って、これを作ったのはおそらく間違いなく念大和尚じゃんね。
長福寺は現存していませんが、その流れを汲む「堯翁院(ぎょうおういん)」という曹洞宗のお寺が、この浪合神社から南へ500mぐらいのところにありまして、なんといってもこのお寺の山号を「尹良山(いんりょうさん)」といって、架空の人物である尹良親王直筆のお経2巻を寺宝としているそうなので(何のお経なのかはネット情報では分からない)、事前に家で情報を集めていたときは「ぜひ行ってみなければ」と思っていたのですが、、、、 当日雨が酷くてすっかり忘れてしまいました。

慈恩さんはお寺の住職さんなのに浪合神社の裏山(摩利支天山・・・通称“念山”)で剣の修行にあけくれていたのだそうで、それってきっと年代的に尹良親王も一緒でしたよね。でもわざわざ浪合神社に「鎖鎌術記念館」があるってことは、鎖鎌ばっかりしていたのかもしれない。

 

阿智村と浪合村は「日本一星空が美しい村」なのだそうです。
でも残念ながら私はさっぱり星が見えませんでした。これは涙だ。尹良親王の無念の涙が槍(もしくは鎖鎌)となって私の泊まっている宿に降り注いでいる。

昨日は18:00頃に神社に行って、尹良親王のお墓の写真をいっぱい撮ったのですが、光量が足りず、ほとんどの写真が役に立たない物になっていました。なので夜が明けてチェックアウトを済ませてから、ふたたび浪合神社へ写真を撮りに行きます。でもしかし、昨日よりも遥かに豪雨が凄くなっていて、昨日以上に2日目撮った写真で綺麗に取れているのものはありませんでした。

諦めて捜しに行ったのは、「尹良親王墳墓の陪塚」です。
「陪塚」は「ばいちょう」と読む。「浪合合戦」で尹良親王を護りながら死んでいった忠義の士たちを弔う塚が各地に点在しているんですって。
ところが、結果から申し上げますと、かなり歩き回ったのに、私は「ろ号」の塚1つしか見つけられませんでした。こんな明晰な地図があるのに見つからないなんて、なんでなんだっ。・・・何でなのかと言い訳しますと、このとき、この地図は私のカメラの中にしか無くて、あまりに雨が凄くてこの中で無闇にカメラを取り出して降り注ぐ涙の鎖鎌の中で大事なカメラがどうにかなってしまやないかと怖くて、私はほとんど地図を見ずにずっとあたりを歩き回っていたのでした。

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中央構造線。

2020年07月30日 02時41分20秒 |   南北朝


<大西山崩壊礫保存園(大西公園)>
昭和36年の大雨による大崩落で亡くなった42名を慰霊するための公園。
広域に桜がたくさん植えられ、花の名所となっています。案内板の説明(・・・本来崩れ難い場所が崩れ落ちたから大災害となった)がとても読んでいて面白い。
亡くなった方々には申し訳ないですが、日本列島には繊細な造りの場所が多々あり、中央構造線を巡るだけでとても有意義な長野旅となるだろう。
若い頃から「フォッサマグナ」という語句が好きでした。(伊豆半島の衝突がその形成に大きな役割を果たしています)
さっき崩れていた御所平もそうですけど、この付近(中央構造線の南側の柔らかい部分)には「~~崩落地」という地名が随所にあります。

7月の頭に行った「隠し伊那谷を巡る旅」の記録。1日目(その3)。
この頃は浜松はとても静穏だったのでわざわざ(観光地を助けるために)行ってやろうかな、と思って行ったのですが、その後一ヶ月経ってその浜松は「出かけたくない町」になってしまった。


<小渋湖-四徳湖>
昭和44年の小渋ダム完成によるダム湖。この水の下に「桶谷」の里があったという。「桶谷」の地名の由来は“高貴な人が棲まった”という「王家谷」が転じたものだという。

何度も同じ地図貼ってごめんなさい。
新しい地図用意するのめんどくさい。

 

次に、宗良親王の盟友であった北条時行が同じく長期間住んでいたという「桶谷」「四徳小屋」も近くにあるというので、それを見に行きます。

ずっと参照している『宗良親王 信州大河原の三十年』という本の地図に、「桶谷には北条時行の墓がある」と書いてあるんですよね。さっき道の駅で観光案内所のお兄さんに、それはあるのかどうか訊いてみました。私の持っている本(そんなにたくさんないが)に北条時行の墓について書いてあるのはこの本だけ。(北条時行という人は有名人物なのに「墓所」が存在しないようです)
でも、観光案内所のお兄さんの反応は、やっぱり「知らない」でした。(当たり前か)。ただ、川の底に沈んだ桶谷のことをそれなりに教えて下さいました。実はさっき私が大河原入りしたのは松川町から小渋川を遡ってだったのですけど、事前に地図を見ながら「桶谷の里があったとしたらこのあたりかな」と思っていた場所(「桶谷の泉」より東側)は、予想より全然そういう気配が無かったのです。(本では小渋川と鹿塩川が合流する所のすぐ下みたいな書き方だったのにな)。
でも、お兄さんによると「ダムによって沈んだ桶谷」は確かにあの川沿いにあったという。私が思っていたより桶谷はもっと西側だったのかもしれない。
お兄さんは、「お墓のことはよく知らないけど、道路の途中に何かの石碑があるのは見たことがあるので、それを見に行ったらいいかもしれない」とも教えて下さいました。(それはその後うっかり通り過ぎてしまいましたけど、恐らくGoogle-mapに「交通事故供養仏」と書いてあるやつですかね。それとも桶谷の泉のことかも)

「四徳小屋というのがどの付近か」も聞いてみたかったのですけど、聞いても無駄なような気がしてやめてしまいました。(「桶谷」までは大鹿村だけど、「四徳」は中川村で管轄が違うでしょうから)

(※道の駅で買った『今、甦る村の浪漫!』に少しだけ記述があります。「『伊那史概要』は「大河原の北条坂の麓に、北条家と名乗る家が四戸あり、時行の末孫と称し、そこに時行の墓というのがある。しかし、上伊那の藤澤谷、福地だとの諸説もあっていずれが真なるかは不明である。ともかく藤澤から大河原の谷にかけて時行伝説があることは北条に何らかの関係があったことは考えられる」と延べ」「頭屋敷・別当・木戸口の名前があるのは時行がこの地に住んだ名残で大河原の内でも更に峻険な谷間に落人が潜伏したとしても無理のない土地である」などなど)・・・ただ、この本の著者にも詳しいことは分からないようです。

小渋湖のまんなかあたりに北から注ぎ込んでいる小渋川の支流(四徳川)があって、それを遡っていくと「四徳の里」です。
四徳の村も「三六災害」で瀕死のダメージを受け、全村移住を余儀なくされてしまったそうです。現在は無人だという。

雨はもうそれほどひどくなくなっていましたが、道がすごくて、四徳まで至る道の写真をほとんど撮れませんでした。
荒れ果てているということはないんですけど、川に沿って細くうねうねとして起伏がある過酷な道。でも、ちゃんと管理はされているらしい。四徳の村が放棄されてからこの道路沿いには集落はないはずですが、「四徳温泉」と「キャンプ場」がこの先にある。

事前に地図を見て、「北条時行が潜伏した四徳小屋があるとしたらどこだっただろう」と考えてみました。まあ、人にみつからないように建てた小屋でしょうから、案内板でも無い限り見つけることは不可能でしょう。地図に載ってないけど「四徳の集落」はどこにあったのでしょうか。おそらく四徳神社というのが集落の中心だったでしょう。

で、行ってみたんですが凄かった。どこまで行くんだ!と心配するぐらいの道の奥の奥にあって、よくこんな場所に人が住んだな、と思う所です。大河原の宗良親王の御所と同じ思想を感じる。さっきまで、「四徳の里から少し離れた不便な場所に四徳小屋はあるのでは」と考えていたのですが、こんな不便な場所なんだから四徳小屋はここでいいよ!
なんでこんなところにこの里はあるんでしょう?
明らかに農業は全然できない土地なので、林業か狩猟民か木地師が住むような場所だったのか。(平家の落人伝説があったといいます)。交通の場所としては西隣と東隣に「大伊那谷」と「大河原-分杭峠の道」があるのだからわざわざこんな所を通ることはない。まさに宗良親王が好みそうな場所だと思いました。(※私が思っている以上には折草峠の交通は頻繁だったそうです)


<四徳小学校跡>


<四徳神社>
主祭神は諏訪神(建御名方命)

道路が狭いので最初は分からないんですけど、林の中に広大な住宅地の跡があったことに気づく。

なんかいろいろある!
・・・が急に山ビルが怖くなってしまって、私はこれ以上奥には行きませんでした。
「四徳小屋」がここにあってもおかしくはない感じ。

 

最盛期には100戸の家があったといいます。畑もあった。
後になってから知ったので行かなかったんですけど、中川村文化センターにこの四徳集落を再現した大きな立体ジオラマがあるそうです。ネットでその写真(小さい)を見ると四徳の里は私が思っていたより広い範囲に家に分散していた。ジオラマには各所の地名も貼られているようですけど、その中に「四徳小屋」はあるのでしょうか。(見に行きたい)

 

北条時行は「中先代の乱」で「廿日先代」したあと、すぐに鎌倉を奪回されて諏訪へ逃げ、そのあと南朝方に降参し、けっきょく何もせずに死んだような印象があるんですけど、実は宗良親王とはかなり長いつきあいだったようで、16年間ぐらい一緒に行動しています。宗良親王にとっては比叡山で一緒に活動した猟奇的な兄(護良親王)が殺害されるきっかけを作った張本人ですから、彼に複雑な感情を抱いていたに違いありませんが、宗良親王と北条時行が初めて出会ったのは延元3年(1338年)の船旅の時。年齢は15歳差。
たまたま宗良親王と彼は同じ船に同乗することになったんですけど、遠州灘沖で暴風雨に遭い、座礁して遠州白羽に上陸。一緒に北浜名湖の井伊谷城に入ります。延元4年(1339年)から仁木義長・高師泰らの井伊谷攻略が本格的に始まりますが、延元5年(1340年)の井伊谷落城の直前に北条時行が伊那谷に出現し、「王徳寺城」で挙兵。(遠江国での北朝軍を牽制するためだったと思われます)。が、それは井伊城の陥落にはほとんど影響を及ぼさず、宗良親王は遠江を失った後、安倍川の城から富士山の麓、甲斐国を経て、越後国・寺泊、越中国・名子の浦に移り、最後に信濃国を頼って大河原に入る。北条時行はその間ずっと信濃にいたと思われますが、そこからまた宗良親王の片腕的になって戦ったってことですね。

わたしはてっきり、宗良親王が信州大河原に棲み着いた興国5年(1344年)以降に、北条時行もその寄騎として出城的な感じで桶谷ないし四徳にキャンプを張ったのだと思っていましたけど、大鹿村に伝わる伝説では、それより遥かに先立つ「元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡したとき、諏訪氏に匿われた亀寿丸(=時行)が潜んでいたのが王家谷(桶谷)」ということになっているようです。うーーむ。諏訪湖と遠いじゃん。諏訪大社で手厚く匿われていたのではなかったのか。ここは諏訪家領だったのでしょうか? そもそも北条得宗家は王家じゃ無いのに「王家谷」というのはおかしい、やっぱりこの王家とは宗良親王のことではないのかと私は思っていたのですけど、宗良親王を匿った香坂高宗と諏訪氏の関係はどうだったのか。井伊氏にしろ知久氏にしろ石黒氏にしろ、「勤王の士」であって鎌倉幕府軍とは相性は良くなかったと思うのですが、宗良親王と北条時行が手を結んだことによって諏訪氏(と鎌倉幕府の残党)は南朝軍に組み入れられることになり、南朝を少し延命させた。幼い亀寿丸が潜んだのが四徳だったらよく分かる。四徳神社は諏訪系の神社でしたし、四徳と大河原は実は違う文化圏だということもわかります。

 

・・・四徳ですでに17時ぐらいになってしまいました。
今日はもっといろいろ行く計画だったのですが、大回りをたくさんしすぎて時間が無くなってしまいました。残念です。今日は「大草城」で締めくくるつもりだったのです。宗良親王は「信濃ノ宮」と呼ばれる以上に「大草ノ宮」と呼ばれる頻度が多かったのです。大河原と大草の里は近かったのか。それとももしかしたら中世には大河原は大草郷の一部だったのか。(少なくとも四徳は大草領域なようです)

でももう時間切れ、今日の宿に向かいます。
四徳の里から一気に飯田の市街へ。(道に迷った)
今日の宿はココ。

殿岡温泉ですって。
飯田の中心地からは少しだけ離れています。本当は久しぶりに「知らない町の居酒屋歩き」をしたかったのです。でも宿を決めようとしたとき(3日前)に雨と分かっていたので、やめてしまいました。予約するとき「健康ランドに宿泊スペースがある感じなのかな」と思ったのですが、逆で、本当に「ビジネスホテルに豊富なお風呂が付いている」という感じでした(笑)
飯田周辺のビジネスホテルは、浜松・掛川の標準よりも1000円ぐらい高い感じです。この宿は一泊朝食付き¥6000。ちょっと高い。浜松が価格が破壊されすぎているのかもしれませんね。(不景気だから)。逆に考えると、長野県南部は観光が良い感じで保持されているということですから、ちょっと安心します。温泉付きだし。
この宿、「館内はすべてハダシで」と言われたことがちょっと新鮮でした。さすが温泉宿。

部屋の窓から見た景色。

長野県はどこにいっても山の感じがとても素晴らしいのですけど、4日間雨のせいでほとんど山の写真を撮りませんでした。写真撮っても見た目の圧倒感は全然再現できないなあ~~。上の写真は午後6時ぐらいです。

ひとっ風呂あびてから、夕食へ。

この宿に決めたのは、¥6000の宿泊料に「ビール一杯無料」だったからです。(浜松の安宿ではビール1杯付きは普通なのにね~~)

館内併設の中華料理店。
とりあえず、ぎょうざと皿うどんとまーぼーどうふを注文。

餃子は浜松餃子ではありませんでした(当たり前)。血饂飩はなぜか2種類あり(ノーマル(醤油?)と長崎皿うどん)、佐世保市出身者のわたくしは当然長崎うどんにしましたけど、最近リンガーハットにすら行ってないなぁ。長崎ちゃんぽんと近江ちゃんぽんは知ってるけど、皿うどんが長崎以外にもあったとは。麻婆豆腐は「凄く辛いよ」と言われました。(辛くて美味しかった)

いや、凄く美味しい店でした。店内は宿泊者と外来客半々ぐらいな感じでしたけど、一人で広い4人テーブルを占拠してだらだら飲みながら長居が許される感じ。厨房の様子はやや殺伐としているが、おねえさまたちの対応はとてもいい。で、食べ終わったらこのたった3品でかなり満腹(笑)。(ビールは3杯か4杯)。あれ、私は居酒屋巡りをする予定じゃなかったっけ。(長野県で刺身か酒蕎麦を食べたかった ←このお店はそれも充実していた)。でももう駄目です。情けない。長野の地酒を飲みたかったです~。

飯田弁って浜松弁とほぼ共通なんですね。
徳川家康経由で三河弁と遠州弁がよく似ているのは知っていましたけど、飯田弁が同じなのはどうしてなんでしょう。「あばな」と「おやすみなんしょ」は言いませんけど。

部屋に入って読書をしまくりながらだんらだんら過ごしましたけど、部屋でビールを飲んだ記憶がありませんので、私は本当にあれで満足してしまったらしい。テレビの長野のローカル番組は静岡と全然違うので(当たり前だ)面白かった。佐世保で水害が非道いというニュースを見ました。この部屋には強力な空気清浄機が付いていて、ずぶ濡れの靴を乾かすのに非常に便利でした。(フロントの人は新聞紙をたくさんくれました)。お風呂へは3回ぐらい入りました。

朝。
朝食です。なんとこの宿ではこのご時勢でも朝食は野蛮なバイキングの人がやっているという。(静岡ではハラルド王形式は半年前に絶滅させられているというのに)
ただノルマン方式であっても、敵勢を目にして大声で叫ぶときと店員の右脇から1ヤードに近づく畏れのあるときはマスクの着用を義務づけられていました。

まぁ、私は朝はあんまり食べられませんので、このくらい。サラダ多め。
地元要素として野沢菜がうれしかったですね。

右側にある焼きそばみたいのは、細切り大根(?)と肉そぼろです。左上は高野豆腐のクリーム和え。

 

さて2日目です。
まずは飯田の町の中心地である飯田城跡に向かいます。
地図を見てて「JR飯田線はどうしてここだけ不自然に曲がっているんだろう」と思っていました。実際に車で走ってみて分かりました。なんだこの変な地形。飯田の町の形はおもしろいです。確かにこんな開けた場所(に見える)のに絶好の要害ですね。私が戦国武将でもここに城を建てると思います。(小笠原貞宗は別の場所を選びましたが)。飯田は浜松からすぐ(笑)ですので小さい頃から私は何度も来たことがあるはずです。でも、こんな変な町だとは初めて知った。(通過したことしかなかったんですね)
今回の旅は「(南北朝時代の)お城巡り」でありまして、さきだって飯田城についてもいろいろ調べたんですけど、「今回の旅とは目的がそぐわないな」と思って主要目的地からは外してしまったんです。ただし飯田城(の造り)もそれ単体ではすごく面白いお城だと思います。また来ましょうね、私。

で、飯田城自体は今回どうでもいいとして、
来たかったのはここです。

飯田城の本丸跡にある「柳田國男館」(柳田國男記念伊那民俗学研究所)。
今回の旅行を思いついたのは一週間前に『東国古道記』を読んだからですが、どうして飯田に柳田國男の博物館があるんだって。

柳田國男が旧姓・松岡国男といって兵庫県で生まれそこで育ったのは知っています。福崎町へはいずれ訪れたい。それから10歳で茨城県へ移ってあとはずっと東京住まいだったのですが、飯田市は柳田國男と何かあったんでしたっけ。もしかして旧姓の「松岡氏」が飯田市の北の方にある「松岡城」と関係ある? と長野県のお城ばっかり調べていた私は思ったのでした。信州の松岡氏は小笠原貞宗の与党として南北朝時代には宗良親王と敵対する側でしたが、戦国時代になって急速に“忠節の輩”井伊氏と接近し、井伊直親つながりで遠州とは関係が深いんですよね。
でも記念館へ行ってみたら、柳田國男の松岡氏は飯田市と全く関係が無かった。関係があるのは柳田氏でした。
(※松岡城も訪問予定地だったのですが、いろいろあって行けませんでした。このお城も図を見るだけでとてもエキサイティングなお城なので、、、 近いうちにまた行くぞ!)

柳田國男館の一階は大書斎です。
これは柳田國男の研究の絶頂期に、自宅兼交流の場として世田谷の成城に建てた家(「喜談書屋」)を、柳田國男の死後、飯田に移築した物だという。この建物を作るきっかけとなったのが、昭和2年に

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ヒル神とジブ・ジブの高原。

2020年07月15日 13時20分15秒 |   南北朝


ちょっと高い所から眺めた上蔵(わぞ)の里。

 

7月の頭に4日間出かけた「隠れ伊那谷を巡る旅」、の一日目(その2)。
浜松市から見て飯田市は隣り町なので「いつでも行けるや」と後回しにしていたのですけど、こういう時代になってしまったので、「今こそ」と思って行ってみたのです。おとなりさんだけど遠かったです。

さて、次に大河原城の近くにある「信濃宮」に行きました。
祭神として“信濃宮(しなののみや)”宗良親王を祀っているので「信濃宮」なのですが、いわゆる「建武中興十五社」には入っていません。井伊谷宮とか鎌倉宮とかが明治時代なのに対して、この神社は昭和時代(昭和15年~23年)の創建なのが関係あるのでしょうか。それとも「名跡は一人の人物に対してふたつはいらない」という考えなのかな。「信濃宮」は「しなのぐう」と読みます。

信濃宮は小高い所にあります。
坂を登る途中に、「一ノ鳥居」があって、ここから歩いて登れようになっているのですけど、雨が凄いのでこれは歩けなかった。

古寂びている。
笠木の部分の一部分に銅板が巻いてあるんですけど、これはどういった意味があるんでしょう?
(その下の貫の方にも同じ物が巻かれていたらしい形跡がある)
何か字でも書いてあるのかと思ったのですけど、ただの雨の模様でした。

この門にはひとつ宗良親王の歌碑があります。

写真がブレてしまって判読するのに苦労しましたけど、これは「谷深き 雪の埋木 まてしばし あわではつべき 春ならなくに」の歌ですね。(なぜか万葉仮名で書いてあります)。この歌には『李花集』では「山ふかくすみ侍りし頃さらに雪のみふりつみて月日の行方も覚えず侍りしかば」の詞書(ことばがき)があるのですが、この歌ってどういう意味? 「あわではつべき」の意味が分からないのですけど、要するに「雪が多すぎて春なんて来ねーよ」という意味ですよね。「俺は泡となって果てるべき」という自虐ですかな。だとすると「まてしばし」がよく分かんないんですが。もしかして1370年前後に越中方面を平定していた斯波義将のことでしょうか。待て斯波氏! 宗良親王が若い頃流されていたのは阿波でなくて讃岐ですが、この人のことですから「安房」は「勝つ」海舟(=安房守)と掛けているとか。(※冗談ですよ)

坂道を登っていくと、社殿の後ろ側に駐車場スペースがあるのですが、障害物があってそこまで辿り着けず、どこかの畑の前に道を塞ぐ形で車を放置して(どうせ他の人など来ない)、百数十m歩いて神社に到着したのでした。

思ったよりでかい!(そして写真ではあの大きさ感は表現できてない!)と思ったのですけど、ここ、本殿だけで拝殿がありません。

この場所は特に宗良親王にちなんだ場所とかではないのだそうで、どこかのだれかが昭和15年に「ここなら神社を建てるのにちょうど良さそうだ」と適当に選んだ場所だそうですけど、それにしては「宗良親王はあんな所よりもここに城を建てたら良かったのに」と思ってしまいたくなる好地です。

神社創建の経緯については案内板に詳しく書いてあります。
昭和15年に皇紀2600年を記念し(『今、甦る村の浪漫!』には「昭和12年からの支那事変の泥沼化に国威発揚の必要を感じて」と書いてある)、近衛文麿の側近だった長野県知事・富田健治が主導しておこなわれた事業。場所の選定については紆余曲折あったが、宗良親王の研究で名高かった市村咸人氏らの運動によって現在地になったという。小学生などから金を出させて必要な資金を集め(・・・浜松でも似た様な話があったような気が)、勤労奉仕で山地の整地を開始。かなり土木作業が進んだ所で昭和20年の終戦。資金が無いことになってしまったので(どこにいったのか)、ふたたび募金を募って、昭和23年に本殿のみ建立。

行ってみると、かなり広いのです。
当初の予定では、社殿をいろいろ建てる計画だったと思われます。
(桜をたくさん植えて、「信州の吉野」とする未来だったといいます。その座は高遠に奪われてしまいました)

この建物は何でしょう?(社務所は別にある)
大鹿村のことですから、歌舞伎を奉納する神楽殿かな。

本殿前の小門の左右にも歌碑があります。

「われを世に ありやととはば 信濃なる いなとこたへよ 嶺の松風」

「君がため 世のため何か 惜しからむ 捨ててかひある 命なりせば」

立派な建物群の中にあって、手水だけが刳り抜き式木棺型の木製。朽ち果てまくっているけど、ちゃんと水道の蛇口が(2つも)付いている(笑)
もしかしてこれは昭和23年創建当時の物でしょうか。味ある。

手水の右側にも歌碑がありまして、

(歌碑には書いていない詞書き) 信濃国大川原と申し侍りける深山の奥に、心うつくしう庵一二ばかりしてすみ侍りける谷あひの空もいく程ならぬに月をみてよみ侍りし
「いずかたも 山の端近き 柴の戸は 月みる空や すくなかるらむ」

また斯波だ!
興国3年に宗良親王が初めて越中へ行ったときに、越中国で猛威を振るっていたのは斯波高経(=斯波義将の父)だったのです。もちろん何の関係もありませんけど、この歌は「越中との境はどこも斯波の門が堅すぎて、信濃の山奥に籠もっているしか無い」という意味に違いありませんね。もちろん「月」とは富山湾の蛍烏賊漁のこと。「ホタルイカがくえねーじゃないか」と親王は怒っている。

ということで、信濃宮にある宗良親王の歌碑は4つでした。
信濃宮の敷地はなかなか広いんですけど、浜松の井伊谷宮と同じく、見所がほとんどないです。来ても面白くない。昭和の計画の通りにここが「桜の名所」とならなかった事が残念ですね。いや、長野の桜の名所としては高遠城が戦前から有名なのですから、ここは『李花集』にちなんで「スモモ(李)」のきれいな白い花の木をたくさん植えるのでも良かった。(※『李花集』の「李」「式部卿」の唐名(李部大尚卿)にちなんでいるのだそうですけど、『新葉和歌集』では宗良親王は自分のことを誇らしく「中務卿」と書いているのにね。これに先立つ30年前の延元2年に二品尊澄法親王が還俗し、一品宗良親王と名前を変えたときに、後醍醐天皇がくれたのが式部卿の役職だったそうです。『李花集』の完成は『新葉和歌集』の製作よりも少しだけ早いのですけど、もしかして『新葉和歌集』を長慶天皇に出す直前まで、宗良親王は式部卿のままだったのでしょうか。(少なくとも皇族にとっては後村上天皇にもらった「征夷大将軍」よりも後醍醐天皇に頂いた「式部卿」の方が価値が高い?)
ただ、井伊谷宮も信濃宮と同じぐらいつまらないとは言っても、井伊谷宮には宗良親王の和歌の「超解釈」な案内板がたくさん立っているので、それは眺めていてなかなか面白く、見所と言ってもいいような感じもあります。信濃宮もあの路線でいけばいいのにと思います。

手水と歌碑の前には、何も載っていない石檀が置いてあります。作りかけにも見えなくもない。
遠州に住んでいる私たちには「これは龍燈(秋葉山常夜燈)が立っていた跡か?」と思いたくなりますが、そんなわけがなく、ここに何かのお堂とかこの大きさに合う常夜燈とかを建てるとしたら手水と歌碑が遮られることになってしまい、甚だ不便な配置に見えますので、いささか不可解な基壇です。
宗良親王の銅像でも建てる計画があったんでしょうか。そうしても段が低すぎる。これに見あう像を立てるとしたら宗良親王は3m級です。

 

境内の随所が草深く薄暗く湿気に満ちて人気がまったく無いので、また山ビルに襲われるんじゃないか、そこらの木の枝にこんもり血吸い蝙蝠が集って人の首筋に落ちる機会を窺っているんじゃないかと冷や冷やしながら歩き回ったんですけど、意外と全く大丈夫でした。山ビルって滅多に来ない人間より鹿とか山犬とかを常の宿主としているので、人里のほとりにはほとんど出ないようです。鹿とか山猫とかは人の気配のあるところは絶対近づかない。(もちろん本来はカモシカも)。また旅の途中のビビリな私みたいな人間ならいざしらず、村の人間は蛭の危険度はよく知っているから見かけたらすぐに消去行動に出てしまうと思う。血を吸っている途中の山ビルは動けないので、訓練されている里人を相手にしたら到底増えない。山ビルが出るか出ないかは、自然世界と文明社会の境界を示していると思います。

 

・・・次は、さらにこの奥の奥、宗良親王が30年も棲まっていたとされる「御所平」を目指しました。
上蔵の里の時点で思いっきり山の奥の奥の里、という感じが強いのに、さらにどんづまりのずんどまりがあるだなんて、宗良親王はなんてマゾヒストなんだ。親王が山登り沢登りが趣味だったとは聞かないんですよね~。(※赤石岳山頂には宗良親王にまつわる伝説があります)

地図で見ると、本当に、マジかよこの奥にさらに行くのかよ、という場所です。
ただ、道の脇に一定間隔で石仏が設置されているのを見かける。伊豆などでもよく変な所に石仏があったりするのですが、それは「ここは古道です」という目印です。この道も、見た目以上に「人が通っていたんだよ」というアピールなのでしょうか。十数個はあったと思います。ただ、石仏同士の統一感はなく、いろいろな時代の物が無作為に(一定間隔をもって)置いてある気がして、何らかの偽装的な意図も感じます。

 

御所平に行く途中に「釜澤」という集落があり、そこにある八幡宮に、「宗良親王の宝筺印塔」というものがあるといいます。

伝・「宗良親王の墓碑」

宗良親王の入寂場所伝承地には5説あって、

(1)、静岡県浜松市の井伊谷
(2)、長野県大鹿村の大川原
(3)、大阪府枚方市河内山田
(4)、岐阜県中津川市(恵那郡高山と坂下に伝承地がある)
(5)、長野県阿智村の浪合

ですが、最新研究で一番有力なのが伊那の大川原。浜松市民には微妙な感情が湧きおこりますね。文献的な根拠がその説のゆえんなのですけど、この宝筺印塔はその物証だとされています。(※他に長野県には4箇所ぐらい“宗良親王の墓”あるいは“死んだ場所”があります)。Wikipediaには新潟と富山にも宗良親王の没地伝承地があると書いてありますが。(どこだ)
宗良親王の兄である護良親王も6つ首塚がある「首が8つぐらいある人」だったので、宗良親王も「死んだ後に身体が7つぐらいあった人だった」としてもそんなにおかしくありませんけどね。

石造物には詳しくないのですけど、この宝筺印塔は西日本型であるそうだ。
『太平記』の中でわたくしの最大のお気に入り人物の一人である足利義詮のアダ名が「寳篋院殿」なので、「宝筺印(院)とは何か?」という事のなぞときも少しずつ再開しなければとは思っているのですけど、宝筺塔の研究はめちゃくちゃややこしそうです。
塔身中央に「宝筺印ダラニ」を納める空洞がある(ことになっている)(はこ)形を持つのが宝筺印塔。
陀羅尼とは仏を表す言葉であり仏尊と等価(=仏そのもの)とされているので、この箱は仏がおわす天であるということで、転じてお墓の形にふさわしいということになったんでしょうかねえ。「箱」なのでその箱の中に故人の御骨とか入れるのかと思うとそうではなく、埋葬郭は他のお墓と同じく地下です。実際には塔身には殆どの場合空洞などありません。古墳なんか造成した盛り土の中に埋葬郭を作るので、それと比べることも文化の変化史として面白いと思う。この宝筺印塔が作られることが無くなったことは何が起因だったのかも。で、「宝筺印塔に入れるから宝筺印陀羅尼というのか」と思いきや、陀羅尼の解釈では「宝篋」とは如来の加持する仏の一人らしいですよ。宝筺印陀羅尼は比較的長めの陀羅尼です。(読み上げるものではなく書く陀羅尼だからか)

で、大鹿村のこの伝・宗良親王墓標は村人の間では「九輪さま」と呼ばれていたそうです。
「九輪」の「輪」とは、

ここ(・・・ってどこかは察して欲しいんですけど)の部分が9つの輪っかが重なっていることになっているからだと思われるのですが、宝筺印塔って普通ここは九輪なのが標準らしい。なんやねん。
屋根の部分のこの形のことは「馬耳型突起」というそうだ。馬?

現地ではこの案内板、ちゃんと読めたのでカメラに収めて帰ってきたのですけど、やはり光量が足りなさすぎたのか、家に帰って写真でこの案内を読もうとしてみて、読めそうなのになぜか読めないことに憤った。
なんとか解読してみますね。

「大鹿村指定文化財 石造宝篋印塔
所在地 大鹿村大字大河原 番地
建立 室町時代初期
構造 石質(?) 多孔性安山岩 通称 伊豆石
塔総高 八七.九糎 基盤 四五.五糎平方
基礎石には正面に花瓶、側面に蓮花、後方
月日輪を●●、塔身には四面に四種の梵字●●
蓋上部四隅に馬耳型突起が斜立する●●
霊盥(?)、伏鉢、受花、九輪、宝珠が組まれ、又
塔は多少、損傷はあるが室町時代初期の名
残●●●いる貴重な●●●●。
由来
里人に古来よりの伝承 ●九輪ノ塔●●
宗良尹(?)良両親王御●●●●●、●●
盡く、南北朝時代●●●根拠地
なれば、宗良親王●●●●と、南朝●
李花集●●●●●●。
    昭和四十九年●月
          大鹿村教育委員会」

全然読めーん。
晴天の日に写真を撮ればバッチリだったに違いありませんのに。(また写真を撮りに行くしかないのか?)

これ、梵字なんですね。(下り藤かなんかかと見たときは思った)
下の変な模様は「花瓶」だったのか。(確かに花を挿せるようになっています。水を入れるスペースもあるんでしょうか)

これが「蓮の花」。(紅葉の葉かと思った)
宗良親王熱烈崇拝者のわたくしですが、別に瘧(おこり)の持病は持ってなかったから、この苔を持ち帰って煎じて飲んだりしようとする気は起きませんでした。よかったよかった。怒りの持病は持っています。年取って怒りっぽくなっちゃって。宗良親王は怒りの感情はある人だったんだろうか。(短気な人は90歳近くまでなかなか生きられない)。瘧って何だろう。太陽フレアにも効くといいね。

この宝筺印塔は釜澤の里の「宇佐八幡神社」の境内の隅にあります。

神社についての案内板が無いので詳細がよくわかりませんが、この神社がなかなかくせものの神社。

この八幡神社の祭神は応神天皇と尹良親王なのです。なぜだ。
尹良親王が大河原にもいたという物的証拠は(彼の母が井伊の姫ではなく香坂の縁者だったという異説はありますが)ここしかないと思います。まず、なんでただの「八幡神社」ではなくて「宇佐八幡」なんでしょう? 遠江國気賀にある二宮神社では、祭神である「駿河姫(二宮神)」の傍らに「若宮八幡」として仁徳天皇ならぬ尹良親王が祀られていたりもするのですが、八幡神は武神ですから戦士の化身()である宗良親王と同一視されたこともあったかとは思いますが、なぜ宇佐?(宗良親王は九州へは行ったことがありません) 『浪合記』で「尹良親王は大河原で戦死した」と書かれているのを反映しているのではないか。

・・・いろいろ考えたいことはありましたが、なにしろ雨がひどくて、早々に車に退散しました。
本によると、この神社には八幡神、尹良親王のほかにも、洞院実世・園基隆・藤原光資・堀川光継・宇佐美殿・桐羽殿も配祠されているといいます。変な形の建物ですが、地元の人でないと中を見ることはできないでしょうねえ。この釜澤の里には宗良親王が開いたという「大龍寺」があり、また大龍寺は尹良親王の菩提寺であったといいます。(おそらく大龍寺の痕跡は現在はまったく無い)
釜沢の里の南の端に「宗良親王の妃の一人」だと伝わる「紀伊のきさきのひよう所」があると書いてあります。

この宝筺印塔と宗良親王の関係について分かりやすく書いた本も読んだことがある気がしますけど、どの本だっけ。

 

そこからさらに先にあるという「御所平」を目指します。
「釜沢」の里ですら奥地の奥地という気がするのに、まだまだ奥にまで行って住んだなんて、一体親王は何を考えていたのか。「ここまで来たら、行けるところまで行かぬと心願成就せぬ気がして・・・」みたいな宗良親王の声が聞こえてきそうです。釜沢はなんとなく昨日の大雨で道路通行が制限されている気配があって、人が住んでいるような気がしない場所でした。でも民家の建物は比較的新しいし、車もあったし、「人がいない」と思ったのは私の錯覚でしたでしょう。

宇佐八幡社からしばらく進むと、「この先通行止め」の看板があります。
うそぅッ!?、聞いてないっ!!
ここを見るためにはるばる来たというのにっ、通行止めだなんて困る。

『ゆるきゃん△』で、「通行止めって書いてあっても、行ける場合がある」って学んでたので、とりあえず進んでみます。(さっき蛇洞林道は結局進めなかったけどな)。だってここはこの道以外の迂回路は無い(と思われる)のですから。
釜沢から御所平までおよそ2km。
道路は随所で側面から水と小石が吹きだしていて確かに危険でしたが、こんなのこの程度の山道ならよくあるある。私の小回り利く愛車はへっちゃらです。いくつか川となっている箇所を通り過ぎてから、とうとう私でも「ヤバイ」と思うバリケードの前までやってきました。道路が損壊してるんですって。(ホントかよ)。
いやーん、ここから歩くしかないのか。(まだ行くつもり)
バリケードの前に車を置いて、歩き始めます。ちょうど運良く雨はほとんど止みかけていました。車でかなり来れたので、歩く距離は半分の1kmぐらいなはずです。私が住んでいる浜北大橋は長さがちょうど1000mということになっていて、私はいろいろな所を歩くとき、距離をこの橋で換算することに慣れています。なんだ、浜北大橋片道分じゃん。当然帰りの道を考えると倍になりますが、そうは言っても浜北大橋往復になるぐらいなのですから。(歩き慣れたあの橋はほんと短いという体感なのでね、私にとっては便利)

900mほど歩いたところで突然現れた崩落箇所。
こりゃ車は通れねーや。
ここを乗り越えようとして、私は「アスファルトはとても柔らかい」ことに気づいて愕然としました。写真の手前の所ですでにグズグズ。アスファルトは固い地面の上にあるから堅いんですね。こいつ自体はこうなってしまうとひどく脆いのです。経験とするため、とりあえず崩れた所を歩いてみましたけど、これ、絶対やめたほうがいいですよ。ここ、崩れた所がさらに落ちれば100mは滑り落ってやられるでしょう。実は左側の護崖のコンクリの部分がこんな状態になってもさすがかなり強固なので、この上を歩くべきです。

この先少しの所に、宗良親王最大の遺蹟「御所平(ごしょだいら)」があります。

この小屋が、宗良親王が30年棲まったという御所を模しています。
この場所の侘しい感じを演出するための観光施設です。
昭和56年刊行の『宗良親王 信州大河原の三十年』という本にはこの小屋のことが書かれてませんので、それ以降に建てられた物だと思います。
(建物の前の「宗良親王御在所跡」の石碑には「平成2年12月」と彫ってあります)

この小屋自体にはどうせ作り物なので何も思うことはないですが、何も無いよりはいいですやね。
宗良親王好きにとっては『李花集』の中には、この場所で詠んだと思われる歌がとても大きな比重を占めているので、場所そのものがとても感慨深い。

「いづかたも 山の端近き 柴の戸は 月見る空や すくなかるらむ」

・・・確かにこの場所は山が迫り全く空が狭い。
同じ大河原であっても、この歌が詠まれたのは大河原城のある上蔵の里ではなかったと感じます。

宗良親王が600年前に眺めた山の空。

 

「心ざし ふかくふりつむ 雪なれど とふべき人の なきぞ悲しき」
「ふりにける 雪と我身ぞ あたらしき 春にはあへぬ ものにぞありける」
「かりの宿 かこふばかりの 呉竹を ありし園とや 鶯のなく」
「春ごとに あひやどりせし 鶯も 竹の園生に 我しのぶらむ」
「山にても 猶うき時の かくれがは ありける物を 岩のかげみち」
「いはで思ふ 谷の心も くるしきは 身をうもれ木と 過ごすらん」
「風わたる 賤かかきねに はふ葛の くるしや何の 恨みなるらむ」
「ありとても あるかひもなき 帚木の 伏屋にのみや 年をへぬらむ」
「今はわが 友とだにみす 窓の竹 むかしながらの 色しあへねば」
「かかる世の ためしもいまだ 白雪に うもれやせむ 園のくれ竹」

 

・・・宗良親王の小屋は竹の垣根で囲われていたと思われるため(そしてなぜか宗良親王はいつも竹から勇気やさまざまな感情をもらっていた)、ここにも竹の垣根を再現するべきですね。また数人の(高貴な)従者もこの四方に小屋を建てていたと思われます。

高床式。
ムカデとかヒルとか怖いですもんね。
蛭ヶ小島の頼朝公は高床式は許されなかったと思われます。

小屋の後ろのなだらかな坂地は、「なにかがあったのだろうな」と思わせます。
(いくつかの小庵とか、畑とか?)
でもさすがに山ビルが怖くて、私はあそこに足を踏み入れられませんでした。

どこかに「的場」があって「今でも鉄の鏃が発見される」そうですけど、それはここから少しだけ離れた場所であるようでした。

 

・・・・ただ、ここまで歩いてくる途中ずっと考えていたのですけど、宗良親王がこんなところに30年間ずっと隠れていたというのは、本当は無かったんじゃないか。宗良親王が山登りが趣味とかだったら分かるんですけど多分そうではなく、なんでこんな場所を選んだのか。確かに大河原は実は隠れた交通の要衝であり、宗良親王が好んだどんづまりのごんどまりであり、しかし、ここまでくろのくろ(←これは遠州弁)まで来る必要はあったのか。その前に居た遠州國の井伊谷は親王にとって便利な場所だったのですが、好地すぎて早々に仁木義長や高師泰らに攻め落とされてしまった。越後の寺泊や越中の名子の浦、諏訪氏の諏訪も同様です。便利すぎてはいかんのです。奴らはすぐそこを落とします。でもそれを知り尽くした宗良親王や南朝の方々も、長い時間をかけて「便利ではなさそうだけど実は便利な場所」「奴らが「あそこだったらちょっと見逃してやろうかな」と思うんじゃないかという場所」のキワのキワを追求したのだと思う。
宗良親王の行動基準的に、大河原の里のこの御所平の位置は、不便が大きすぎて便利はどうだったのかな。(「絶対敵が来ない場所」を突き詰めたらここ以上はないんですが)、宗良親王は「決して諦めない人」で「必要に応じていろいろ場所に現れる」ことを身上にしていた人だったんですから。
この「御所平」の場所は、「都から来たという高貴なだれか知らない人が数十年間いることになってるけど、本当かどうかはだれも知らない」という伝説の場所で、敵は決して宗良某がそこにいるのか確認しには行かない。親王は本当は身を隠していろいろな場所を随時訪れていたり、もっと気持ちいい場所に避暑的に棲み着いていたりしたんじゃないか。

今はここは道の終点なんですけど、宗良親王の時代にはここから北方面に鹿塩郷にぬける峠道(「越路」)があり、ここから北に1kmの山の中にある寺沢という集落(!)には、「長谷庵」という宗良親王が創建したという寺院があったといいます。(現在は全く痕跡は無いそうです)

また、ここから谷底を見下ろすと遙か下方に寺沢川が見えるんですけど、あそこまで下りていく山道もありそうですよ。(宗良親王の時代にはやっぱり谷沿いに歩いてきて、あそこからここまで上がってくる方法が一般的であり、つまり私が車で来て崩落していたあの道は親王当時は無かった(逃げるための獣道)だったでしょうなあ)

ただし現在は、ここが道の一番奥です。
いくらこの「御所平」が、観光で保っている小村・大河原の重要な見どころのひとつであるとはいえ、ここは全く無人で、人が住む場所から離れているのです。そこに至る唯一の道が崩れてしまっているのですが、あそこは修復されるんでしょうか。それにかかる経費を考えると、それはかなり先のことでないでしょうか。今日私は運良くここまで歩いて来られましたけど、すごく危なかったから、いずれあのバリケードももっと強固な物にされ、私も他の世の宗良親王愛好家も、次にここに来られるのは数年後になってしまうんじゃ(あるいは永遠に来られなくなってしまうんじゃ)ないでしょうか。・・・あそこが崩れたのはいつのことなんでしょう?

・・・などと考えながら、道を歩いて戻ります。
すると、私が車を止めたバリケードの前にもう一台白い軽トラが停まり、2人のおっちゃんが私の車の前でなにやらしゃべっているのが見える。
やべぇッ
立ち入り禁止の場所に入ったのが見つかっちまったっ。当局の人だ。
怒られるっ。

どうしようもないので、不必要にへらへらしながら
「すみません~~、やっぱダメでしたかぁ~~?」
とか言いながら近づいていったら、「なんだこいつ」みたいな顔をされ、
逆に、「この先どうなってました?」「どこまで進めますか?」「私たちもこの先行くのは初めてなので」とか言われました。
(中部電力の人たちでした)

愛想笑いしながら狭い道で車をUターンして道を戻っていくと、電力会社のトラックが次々と。
そうか、電線はあそこまで通っていたものな。
ああいうのは一度通してしまったら、駄目になったらすぐに元に戻さないとならない。
いま調査に来たとすると、あそこが崩落したのは今日昨日の話なのかもしれない。だったら意外と早く復旧するのかも。宗良親王の道、早く元に戻って欲しいですね。
(※7月28日現在、御所平へはまだ通行止めのようです。釜沢までは時間を区切って一時的に復旧しました)

 

・・・こんな感じで私の初めての大河原行きは完結してしまいましたけど、道の修復を待って(数年後?)、また行かなければならないと思っています。だって、こんなにいろいろなところを歩いて覗き廻ったのに、それをほとんど記録(写真)に撮ってない。いくつかの重要な事項は私の頭の中にしか無いのです。それは雨がひどすぎたから。カメラが壊れたら困ると思ったから。とかいいつつこのカメラはネットで2まんえんぐらいで買った安いカメラ(FinePixS1)なんですけど、乱暴に酷使しすぎました。そろそろ(今日ぐらいに)壊れてしまうんじゃないかみたいなヒヤヒヤ。びしょぬれだー。(防水ではない)

浜松からここまで来て、見て聞きたかったことは2つです。
(1).ここから見えるという赤石岳はどんな感じか。宗良親王は登山をしたのか。
(2).ここではホトトギスの泣き声がたくさん聞こえるのか。

私は本当にこの付近でホトトギスの鳴き声をたくさん聞いて、とても感動した。
「きょっきょ、きょきょきょきょー」という特徴ある変な鳴き音。
宗良親王の詠んだ歌は1500ぐらいあるんですが、個人的になんとなくホトトギスの歌が気になっていたんですよね。
宗良親王の歌にはホトトギスが多いんです。別に、宗良親王がこの鳥が特別に好きだったのではないと思います。なんとなく詠んでいるという感はあり、でもウグイスや鶴や鶉やカラスよりもこいつが彼に珍重されていたんだということはわかる。これは宗良親王ばかりではなく、この時代の人ってやたらホトトギスで何かを詠みまくっているんですね。(これは私が『新葉和歌集』を読んだ印象)。私は天竜川下流の平野に住んでいますが、こんな変な声の鳥、それほど聴いた記憶が無かったんです。日本でホトトギスを愛でる文化って、中世と近世ではかなりの隔絶が生じてしまっているのではないか、と思いまして。なかぬなら、なくのをききにいこう。

そしたら、大鹿村では時鳥をたくさん聞くことができた。山の中ってたくさんいるのだなあー。
ホトトギスって、ほんと変な声だなやあー。きょっきょきょキョ

 

「物おもふ 我にかぎらば 時鳥 なかぬも怪にぞ こころあるべき」
「なかぬかな とふかき夜の 時鳥 ただなのるべき 里のあたりを」
「深山を ひとりないてそ 時鳥 われも都の 人はまつらむ」
「一聲の 後にいかにせむ ほとときす 鳴くよりなかき 夏のよならば」
「時鳥 ただの一聲の なみだにて 雲ものこらぬ よひの村雨」
「ひと聲は おぼつかなきを 郭公 われもききつと いふ人もかな」

 

・・・悲しい。
カッコーとホトトギスはどう考えても別の鳥なんですが、日本の文化史上は同じ鳥だということです。ネットで検索すると腑に落ちる説明がたくさんあります。これは日本独自の文化。ヨーロッパにはキョッキョキョキョキョキョと鳴く鳥はいるのでしょうかね。ヴィヴァルディとかジャヌカンでは「カッコー」としか鳴かないです。欧州ではカッコウは嫌われ者。

・・・いや、ヴィヴァルディのこれってキョッキョキャケタキャなのかな。
イタリアでもカッコウ=ほととぎす? これは世界認識?
逆に腑に落ちた。

 

 

(・・・つづきます)

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