室内ぼたん庭園のタダ券をいただきましたので、可睡斎に行ってきました。
このお寺に来るのは昨年(・・・いや一昨年か)の火祭り以来ですから、一年ぶりですね。
可睡斎というのは西遠・袋井市にある曹洞宗の大寺で、とりわけ徳川家康がこのお寺を保護して、大きな権限を与えたために江戸時代を通じて大いに栄えました。遠江でもっとも大きなお寺。三河・遠江・駿河・伊豆の全曹洞宗を束ねる「東海大僧録」の位を与えられたばかりでなく、家康は明治5年に北の霊山・秋葉山に住まう大天狗の正一位秋葉山三尺坊大権現に山を出てこのお寺に移住するように命じていますし、またお寺の住職にはいつどこでも子供のように勝手に眠っても良いという許可を与えています。(「可睡斎」という名前の由来)
私の家から袋井市までは30分ぐらいなのですが、そこに向かって車を走らせている途中、見たことのあるような景色を通りかかりました。おお、ここは、以前一度(夜に)見に来た「源朝長の首塚」のある友永郷だ。源朝長とは源頼朝のお兄さんで、平治の戦いで無為に死んだ人です。折角なので、寄って昼間の写真を撮っていきます。この墓のある積雲院とは可睡和尚つながりですし。
源義朝、源朝長、源義平。
・・・う~~ん、うまく撮れない(前の格子が邪魔で)
さすがにお寺には笹竜胆の御紋(=一般的に源氏の紋所とされる)が随所に踊っています。
山門のところにある石灯籠が印象的でした。(あそこの部分にあるハートマークが)
それにしても、のちに可睡和尚となる仙麟等膳は、確か可睡斎に入る前に家康からこのお寺を与えられるんですよね。当時の西遠においてこのお寺の位置づけはいかがだったんでしょう。
死んだ朝長の6人の兄弟たちを供養する石仏(ウソ)。
根元に「楠の木 大垣市青墓町」の標識があります。なにか謂われが?
前に「源朝長の刀と源朝長直筆の書き付けがあったが、刀は江戸時代に失われた」ことを書きましたが、市無形文化財の「源朝長公御祭礼」ってのもあるんですね。これが話に聞いた「遠州大念仏の祖形」となったものでしょうか?
にしても、茶畑に囲まれて家は密集していて、同じ遠州でも浜松と比べて桃源郷みたいなところですね、袋井。真夜中に来た前回は分からなかった。
そんなこんなで、そこから10分、可睡斎に向かいます。
可睡斎は大きなお寺ですが、建物の内部の拝観には500円かかります。が、わたしはこれまで秋葉山三尺坊が祀られている「御真殿」(拝観料がタダ)にしか興味が無かったので建物の中には入ったことが無かったのですが、今日はタダ券があるので堂々と入れます。室内ボタン庭園は瑞龍閣という建物の中でやっているといいます。
(これは入口・総受付の萬松閣)
おお、花の見分けには不案内なわたくしですが、牡丹ってなかなかいいものですね。個体の個性の差が大きくて。
事前にしていた期待より花の数がやや少なかったようにも感じましたが、この牡丹庭園は1月1日から5月31日までのかなりの長期間、花を入れ替えながら開催しているそうです。何度も見に来たくなるです。
また、これと並んでつるし雛も華やかに飾られていました。
つるし雛っていうのは伊豆の稲取が有名な伝統芸能ですが、私が住んでいた伊豆の長岡でも最近熱心に展示を行っていて、聞いてみると「稲取のが一番有名ですが、もともとは伊豆の各地で作っていたもので、決して私たちが稲取のまねをしてるんじゃないんですよ」と主張してました。ま、ともかくも伊豆のものなんです。とにかく作るのに手間がかかるそうで、売っているのを見ると小さい物でも2千円とか。
ところが浜松に越してきてから、なぜだか遠州でもこのつるし雛飾りがさかんなことにびっくりしたんです。静岡つながり? 実を言うと私が働いているお店でも2月の1日からつるし雛飾りを盛大に飾ってまして、わざわざ遠くから見に来るひとが沢山いる。伊豆の吊し雛にはひとつひとつの人形に意味があるのですが、なんでも浜松にも教室があって、敢えて伊豆のとは違う創作的な飾りを作っているのだとか。で、この可睡斎の飾りはウチで飾っているものとは若干流派が違うようなのです。・・・流派? 流派があるのか。
この可睡斎は私にとっては天狗のお寺なんですが、上のように「ぼたんの寺」としても有名ですし、またもうひとつ有名なものがあります。「日本一のトイレ」のあるお寺としてです。
日本一のトイレ。
ゆっくり見ていたら、おばちゃんたちを引きつれた若いお坊さんがやってきて解説。
勝手に男性トイレだと思っていたら、男女両用でした。そうか、お寺ですもんね。
ぼたん庭園や大トイレ以外にも、お寺内をすみから見て回れます。
宝物殿もありました。りっぱな絵の屏風もたくさんですし、厳かな高祖廟や歴代住職の廟や。
このお魚は「魚鼓(ぎょく・ぎょこ)」といって、食事の合図のために鳴らすもの。木魚の原型だそうです。またインドでは(弘法大師も言ってる)、魚は居眠り、怠けの戒めの意味があるので禅宗のお寺によく釣り下げられているそうです。
秋葉山三尺坊を祀る御真殿にも内側から行けるようになっていまして、(可睡斎の本尊は聖観音菩薩でそれは本殿に飾られているのですが、お寺を鎮護する三尺坊さまが別にいて、それが鎮座している御真殿という建物が本堂の奥の高いところにあるのです)、なんとそこに至る途中にこんな立派なエスカレータが。わお!
さてさて、最後にこのお寺と徳川家康との関係を考察してみたいと思います。
可睡斎が創建されたのは室町時代初期の応永年間で、開祖は恕仲天(にょちゅうてんぎん)といいますが、繁栄の礎が築かれたのは、家康の師だった“可睡和尚”仙麟等膳(せんりんとうぜん)が11世の住職になってからです。
当然、「可睡斎」という寺名が付いたのはその可睡和尚の時代ですが、それ以前の東洋軒と呼ばれていた頃のこのお寺がどれほど繁盛していたのかという情報はいくらググっても出てこないです。(誰も興味がないから載ってないだけで、図書館等に行けば一発で分かると思うんですけどね)。
とにかく、家康の時代に大きくなったんです。
ウィキペディアに気になることが書いてあります。
「徳川家康が、幼い頃、武田信玄の軍から逃れたとき、仙麟等膳によって父と共に匿われた」
武田信玄が駿河・遠江に進出を始めたのは今川義元が死んだ以降ですから、幼い頃の家康が武田信玄と戦ったはずなどないので(ましてや松平広忠が!)、ウィキペディアに特有の誤情報といえるのでしょう。事実、可睡斎の公式サイトにはそんなこと書いてありません。こうです。
「11代目の住職仙麟等膳和尚は、幼い徳川家康とその父を戦乱の中から救い出しかくまいました」
・・・・ん?
だとするとその時の敵は誰? 織田信秀軍?
実を言いますと、可睡斎の境内に立っている看板には次のように書かれています。
「武田信玄との戦いで、遠州森・袋井方面に攻めてきた武田軍に追われ、この寺のほら穴に逃げ込んで命拾いをした」
・・・いったい、家康とこのお寺との間に因縁ができたのはいつの時点の話なんじゃらほい。
家康が逃げ込んだという穴のある奥の院付近。奥の院は数年前に火事で焼けて再建されたそうです。
さすが火の神(=三尺坊権現)を祀っているお寺ですから、たまにはそういうこともなくっちゃね。
調べてみると、この逸話は相当胡散臭いですぞ。
お寺には「このお寺が窮地の家康を救った」然と書かれておりますが、家康が仙麟等膳に可睡斎を与えたのは家康の浜松移住後です。つまり、幼い家康をこの寺で救うことは不可能なのですが、実のところ等膳が何年にこの寺の住職となったのか正確な年代が分からないので、浜松で20年間信玄に苦しめられた家康が、武田軍からアジール的に幾度か逃げ込むと言うことはあったかもしれない、無かったかもしれない。武田軍は信仰は篤かったけれども、敵地の寺社は平気で焼き払いましたからね。(この点には異論もあるそうです。武田軍は決して寺に手を出さなかったという説もあるらしい)
で、ネットで調べてみますと、仙麟等膳が家康を救ったエピソードが伝わる寺には、この可睡斎のほかに2つあるというのです。
ひとつは仙麟等膳の出身地と伝えられる伊勢の国の近くにある篠島。(※愛知県に属す)
もうひとつは、家康が人質時代を過ごしていた静岡で、そのころ等膳が住職をしていたという増善寺。
篠島の逸話は、例えばこのブログさんを参照して欲しいのですが、実際に家康が幾度となくこの小島に渡っているという記録があるそうで、信憑性がある。さらにこちらさんには篠島の妙見斎で仙麟等膳に侍していた小坊主・のちの士峰宋山が竹千代の遊び友達になったとか、仙麟等膳の父も竹千代の父の松平広忠や伯父の松平信定を保護したとか、いろいろと興味深いことが書かれていますぞ。
一方静岡の方にはこんなことが書かれています。うーーん。
結局の所、たまたまお寺にちょうどいい大きさの穴があったので適当に「家康逃げ込み伝説」が生まれ、それに付け加える形で家康に寵愛された仙麟等膳の逸話がすべて「このお寺で起こったこと」とされたとしか思えないです。・・・いや別に、本当に等膳が、篠島と駿府と袋井で計3回家康の危機を救ったのかもしれませんけどね。家康の生涯は窮地の連続でしたから。
一方で、家康の三尺坊好きは本当のところであったようです。
可睡斎ではなくて秋葉山に伝わる伝説なのですが、立派な息子を得ることを望んだ三河国主・松平広忠がわざわざこの山に登って祈祷した結果、生まれたのが竹千代だという逸話があります。
のちに浜松を侵略した家康は早々に、北からの脅威・武田信玄に対抗する必要上、春野の天野氏を取り込み、同時に秋葉山の修験者たちを手勢に加えます。とりわけ家康に諜報員・外交官として重宝されたのが新潟栃尾から来た修験者・茂林光幡(もりんこうは)。