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オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

伊豆は2度攻められた。

2007年07月02日 21時22分28秒 |   北条早雲

自分の記事を読み直してみると、北条早雲について、さんざんほのめかしただけで、一番肝心なことを断言していませんでしたね。
興国寺城にいた北条早雲の、伊豆攻めのルートについてです。

この記事は「北条早雲の伊豆攻め年表」の続きです。

2005年頃に、「北条早雲研究最前線」という文章が一般向けに出たんですけど、その後最前線はどんな具合になってるんでしょうね? 学術論文なんかよう読めない身分ですので、こういうのが定期的に出てくれるととても助かったんですが…

北条早雲研究で、もっぱら問題となっているのは以下のような事です。

(1).早雲の本当の出身地
(2).早雲の生誕年
(3).早雲の伊豆討ち入りと、中央政界の出来事の連関
(4).伊豆平定の過程(足利茶々丸はいつ死んだか)
(5).早雲が伊豆に討ち入ったときの伊豆の状況について

北条早雲が伊豆に討ち入ったルートについて、一般に膾炙している『北條五代記』という本の中に、「興国寺から黄瀬川を渡り、三島を経由して韮山に攻め寄せた」というのと、「清水湊で今川氏親から兵500を借り、大船10艘で駿河湾を横断して、西伊豆から上陸して山越えをして北上して韮山を突いた」という2つの説が、並列して挙げられているというのは、以前に見たとおりです。

北条五代記を良く読んでみると、細部で具体的な記述に欠け、著者が伊豆に来た事がないことはバレバレなので、これを元にして語らねばならない事がちょっと情けなくなるのですが、これ以外には資料らしい資料がないのが残念でなりません。

早雲の進軍ルートについて、私は以前こう述べました。

(1).西伊豆に上陸して、そこから韮山を目指すのはさすがに無茶じゃないか。だってそれには山越えをいくつもしないとならないから。
(2).早雲は「足利茶々丸の兵の大半が関東へ出陣」している御所が無人状態の時期を狙って韮山を攻めている。だったらわざわざ山を越えるのではなく、直接興国寺から韮山に急行した方がよいはず。
(3).西伊豆から韮山を目指すのが不可能だと思う根拠として、ルート途上にある狩野城には、のちに伊豆で最大の抵抗勢力となる狩野道一(かのどういつ)が住んでいる。


(1)について、船原越えや仁科越えを(車で)するとき、現在は快適な陸橋やトンネルが整備されているけど、これが無かった時代はどうしてたんだろう?と恐ろしく思います。昔の人々の健脚は侮っちゃいけないものですけど、伊豆の山は低いクセに谷間と堅固な尾根の連続ですよ。「天城縦走」というのにも参加させてもらったこともあって、一日で結構歩けるんだな、と感激した事はありましたけど、甲冑重装備で食糧・武器も持って、しかも山を越えた後が本番の戦闘ですよ。
私だったら土肥に上陸したとしてもそこから(新道・トンネルを通らずに)韮山に歩いていくだけで3日はかかると思います。そんな奇襲、無茶ですって!
・・・・と言おうと思ったんですけど、自分を基準にして考えるから無茶だと思うのであって、早雲の手勢だったら案外やっちゃうのかもしれないな、と最近は思っています。
(2)について、ただ、『北条五代記』の記述によると、早雲が上陸した西伊豆の港の村々では村人が兵を怖れて山へ逃げ去り、家の中には病人が大量に残されていたというのです。早雲は病人達に薬を与え、治療をして村人達の心を掴んでから山を越えて下田へ向かい、深根城に籠もる茶々丸の忠臣・関戸播磨守を滅ぼしてから、一日で天城の峠を越え、韮山に襲いかかったということになっています。
・・・・・・・これ、奇襲をしようとする軍勢の行動じゃないですよね。なぜ下田を目指すのか。
(3).早雲が上陸した場所が、西伊豆の北の方じゃなくて、南の方に位置する「松崎・西奈・田子・あられ」になっていることについて、「土肥の富永氏」は狩野の道一と同じく、最後まで早雲に抵抗を示した勢力の本拠地とされているからのようです。一方で、早雲に早く忠誠を誓った者のうちに「土肥の富永三郎左衛門」の名もあるんですけど、これはどうなってるんでしょう。土肥は紛糾していて安全じゃなかったのかな。でも、土肥じゃなければ大丈夫かというとそうでもなくて、松崎の那賀郷や仁科庄は狩野氏の領域だったようですよ。だから結局、早雲が海からの上陸に際して、どうしてもっと北寄りを選ばなかったのかが良く分からない。「船で山越えして奇襲」というのはイメージ的にとても美しいので好きなのですが、大瀬崎や三津浜からの上陸が一番いいような気がします。(それだと近すぎて葛城山の見張りに見つかってしまうんでしょうかね)

 

で、細かい事を全部すっとばして結論なんですが。
『北条早雲研究最前線』の中で、家永遵一氏は、「早雲が伊豆に上陸したときに、村々に病人の数が異様に多かった」という記述に注目し、「これはなんらかの天変地異の直後なのではないか」と推理します。そして災害記録をいろいろ調べた結果、明応6年(1497)の8月25日に東海大地震があり、遠州と伊豆に大津波が起こっている、という事実を発見します。しかも山梨県の『普王寺年代記』という史料に「明応6年の8月に御所が死んだ」という記述があり、さらにさらに地震の直後の28日~29日にかけて極めて強いとてつもない台風が伊豆に襲来しているので、「早雲が西伊豆から下田・深根城を攻めた日時は、明応6年の8月26日と27日の2日間、もしくは30日と31日以外には考えられない」と断言されているのです。おっと、グレゴリオ暦じゃない時代は8月31日って無いんでしたっけ? また台風の後は波が高いので、駿河湾を突っ切るのは不可能かもしれない。ともかく、早雲が西伊豆に上陸したときに家の中にいたのは病人じゃなくて津波による怪我人だったってことになりますね。

要は、早雲が韮山を陥落させたのは延徳3年か明応2年だとされているので、その征服活動と明応6年の大津波のあとの戦闘とは、連動していないということになります。
つまり、北条早雲は2度伊豆を奇襲したのだ! ということを私は言いたいのです。

一度目は延徳3年(もしくは明応2年)、堀越御所の手薄を狙って、陸路興国寺から韮山を急襲。
二度目は明応6年、狩野の道一との長い膠着戦闘を打開する為に、いったん小田原を狙うというフェイントを見せつつ、大地震の後の混乱に乗じて密かに西伊豆に上陸して、下田と河津を奇襲。茶々丸を死亡させ狩野を孤立化させ、一挙に伊豆平定を図る。(※河津城の案内板には、早雲が河津を攻めたのは明応2年と書かれていますが、ムシ)
家永説が定説となった時点で、そう結論づけるのが当たり前ですよね。
大地震すら作戦遂行の為にうまく利用してしまうドラマティックな武将なんて、そうはいないと思いますよ。
・・・・・・しかしその後の早雲研究最前線って、どうなってしまったんでしょうね?


一般に手に入れやすい「早雲研究最前線」は、新人物往来社の『戦国の魁 早雲と北条一族』(2005年)です。この本はカラー写真が豊富でとても見事なのですが、定価が¥2000でちょっと高い。現地にお住みであれば、韮山の郷土資料館で¥1000で売ってる『奔る雲の如く~今甦る北条早雲~』(2001年)という本が、遥かに詳しく突っ込んだ文章で、お奨めです。

北条早雲の小説と言ったら、司馬遼太郎の『箱根の坂』が有名なのですが、伊豆攻めに関しては省略されまくりで、興奮できるものとはいいがたい。
それ以外にも北条早雲の小説はけっこういっぱいあるのですが、伊豆攻めについては消化不良気味で、満足できるものがほとんど無いのです。そんな中で唯一、「2度の伊豆攻め」について言及している作品が、南原幹雄の『謀将・北条早雲』です。この本は2002年刊行で、参考資料として『奔る雲の如く』も挙げられているのですが…・

明応6年の大地震と、その大地震後の混乱に乗じて清水湊を出発して西伊豆を急襲する様子はなかなか見事なのですが、、、、、、 なぜだかこの本では北条早雲は、それに先立つ明応2年の奇襲の時も、別働隊1000に清水湊から西奈・松崎・あられ・田子に上陸させているのです。なんでーーーー。奇襲の達人は、同じ手を2度と使わないんですよーー。しかも別働隊が1000人って…(多すぎる)。
それ以外にも、この小説は不必要なエロ描写が多すぎるので、どうにもお奨めしがたい小説です。なんでこの人は早雲にエロをさせたがるんだろう? 変なの。

そして、この小説の最大の問題点。
これまでの定説では、北条早雲は「永享4年(1432)生まれ」だとされていたのですが、最新最前線では、北条早雲の正体が備前生まれの「伊勢新九郎盛時」だと確定されたせいで「康正2年(1456)生まれ」だと訂正されているのです。この小説でも、その説にのっとっている。
つまり、司馬遼太郎の小説では、伊勢新九郎は今川家の当主・氏親を長く補佐した功績を称えられて興国寺城を与えられたのが56歳。それから隠居したていで堀越公方に取り入り、還暦を過ぎたボケ老人のフリをして伊豆中を探索。見事60歳で伊豆を切り取った後も矍鑠として戦い続け、88歳で没するまで最後まで元気だった。
というのが、康正2年生まれになっちゃうとすると、早雲が興国寺城城主になったのは32歳、まだ若者の匂いの残る顔に精一杯の媚びを浮かべて堀越公方に取り入り、突然豹変してエネルギッシュに伊豆を奪取。64歳で死ぬまで脂ギッシュに伊豆と相模を駆けめぐった熱いオッサン、となってしまうのです。
いやーーーん。

そうです、私は早雲研究最前線は大好きなのに、「早雲は通説より20歳も若かった」とする新説(いまや定説)は、どうしてもイヤでイヤで、受け入れる事ができないのです。
だって伊豆って、今も昔も変わらず「定年後の新天地」じゃないんですか?
私にとって、64歳という若さで死んじゃう早雲なんて、早雲じゃない。
早雲には90歳ぐらいまで元気で動いていてもらわなきゃ。
じゃないと「早雲寺殿二十一箇条」の存在意義も変わっちゃうじゃないですか。
・・・ああ、矛盾してるなあ。でも、いまの最新定説では「早雲は20歳若い」なのです。
ま、「北条早雲=備中の伊勢新九郎盛時」説だって、ただ合致する史料が多いからという理由だけでそう言われてるんであって、今後の研究でどうなるか分からないんですからね♪

★参考★
『ウィキペディアの北条早雲の項』
「ノート」での生年に関する考察が熱い。

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修善寺城。

2006年10月10日 20時40分39秒 |   北条早雲

秋の気持ちのいい日に山登りをしたい、と言ってからはや2週間(^_^;
今日も凄くよい天気だったので、「登るぞー」と思って選んだのが修善寺城。今度こそ!
修善寺城は、伊豆の歴史の中で2度も名前が出てくる素晴らしいお城です。一度目は、南北朝時代の「畠山国清の乱」のとき、国清は三津城(発端丈山)=金山城(城山)=修善寺城を結ぶ素晴らしい防衛ラインを築いたのですが、鎌倉公方・足利基氏の物量作戦(&自分の奢り)に負けて、三津・金山城を捨ててこの修善寺城に立て籠もり、そしてここで降伏したのでした。
二度目は戦国時代の開緒「北条早雲の伊豆討ち入り」のとき、北条郷の堀越御所から逃亡した鎌倉公方・足利茶々丸が守山城塞→願成就院を経ながら各地を逃げ回ったすえ、この修善寺城に落ち着き(多分隣接する狩野郷の狩野道一の後援があったのでしょう)、しばらく抗戦したというのでした。

ところで、私はこの修善寺城を求めてドライブするのは3度目なのでありました。
修善寺城のある城山はとても目立つ山で、テレビ局の鉄塔が何本も立つ姿は存在感があり、修善寺のどこからでも分かる山なのですが、でもどこから登ったらよいのかわからない。いつものクセで事前に何も調べず行ってしまう私は過去2度玉砕。おかしいなぁ、ネットで見ると修善寺城に登っている人はたくさんいるのに、柏久保城や狩野城のような登城口の標識がどこにもないのです。(目印のメモを持って行かないからだ)。今回こそネットで綿密に情報収集。すると、これまで私が探索していた修善寺町役場の付近ではなく、もっともっと南の本立野(ほんたちの)というに登り口があるというのでした。ガガーーン。じじ実を言うと、私が九州から伊豆に越してきた10年前、初めて住んだ町が修善寺でして、アパートがあったのはその本立野だったのでした。・・・私の旧居から10分も離れていない所だった。何してたんだろ、当時の私。

で、そこまで調べてから出掛けたんですが、結局登り口の場所が分からず、それから何時間も迷いました(笑) まず、城口の目印はなんとかいうお寺だか神社だかというのですが、そのメモ持ってくるの忘れた(笑)。途中で法立寺という寺を見つけ、隣接する墓地が城山の山肌にかなり広範囲に広がっていたので、きっとそのどこかに登城口があるのだろうと思って、お墓の中をうろうろと探し回ったんですが、どうしてもそれらしい箇所が無い。わたし、お墓を彷徨う不審人物でした。結局ここは違うらしいと悟って、迷路のような本立野のの中を車で回ったんですが、どうしても他にそれらしい場所が見つからない。こりゃダメだ、情報を探しに出戻ろうと思って、伊豆市の市役所まで戻り、隣接する図書館に入りました。これがまぁ!素晴らしい図書館でして、欲しい資料ばかりがずらりと並んでいる。ついつい関係ない本まで読みふけり、気が付くと2時間が経過してました(笑)。こりゃいかんと図書館のキレイなおねいさんにゼンリンの地図を借りて見てみると、あるじゃん、さっき散々右往した場所に「城山神社」というのが。どうして見落としたんだろう? でもゼンリンで見る限りは、その神社は車で侵入できないようなのです。(←行ってみて分かりましたが、勘違いでした)。実はその時点で4時半ぐらいだったので、諦める気持ち満点でしたが、次に来るときの事を考えて、どうもこの付近には車を駐車する場所がない、そういえばさっき行きすぎたところにあった修善寺道路沿いの洋食屋の定休日は火曜日(つまり今日)で、要するに今日そこに車を止めて城にアタックするほかは無いなと考え直したのでした。


車を無断で停めさせてもらった場所。(ゴメンナサイ)

歩きながら本立野を彷徨うと、神社発見。
しかし遠くに見えるのに、そこに至る道がわからない~どこから入るんだ~。すると丁度元気よく自転車で駆けていく小学生がいたので、つかまえて「どうやってあの神社に行くの?」と聞いたら、「この畑の中を通っていくんだよ」と教えてくれたので(たぶんその子の家の畑)、ビクビクしながらそこを通っていったのでした。(・・・本当のルートはどこからだったんだろう?)

 
道が分からなかった城山神社                やけにかっこよく見えた狛犬

しかし普通、大手門って城の正面にあるものですよね? 修善寺城は畠山国清が三島方面から攻めてくる鎌倉公方・足利基氏の軍勢を迎え撃つために築いたものですから(狩野氏が中世初期に築いた砦を改築したのだという説もありますが)、当然鎌倉勢を迎撃しやすいように、いまの伊豆市役所の辺り(※地図中で(A)のところ)に大手門の登り口があるのだろうと探し回ったのに、実際は入り口は山の南側(※地図中の黄色い↑印のところ)にありました。
これは明らかに、攻撃よりも防御と退却面の確保を重視していますね。3つあった城のうち、本城は金山城だったそうなのでそうなっているのでしょうか。狩野川の流れも現在よりもっと広かったはずなので、狩野川と桂川の合流する(A)の付近は現在は住宅密集地ですが昔は広くて深い淵だったのかもしれず、また北側の山肌(NTTの裏手)には城山や守山と同様のガンコな岩肌が露出していて、この修善寺城が落とすに堅い堅城と呼ばれていたことが良く分かるような気がしました。

城山神社の境内は、それ自体が城跡とも見て取れるような広い独特の形状をしています。ここにも大手門の遺構があったかもしれないし、無かったかも知れません。
神社の右奥に向かってみると、「畠山国清古戦場跡」と書かれた朽ち果てた板が落ちていまして、どうやらここから登るようです。・・・・えーー?入り口からして、朽ち果てた坂である。ここから登るのーー?

不安は当たり、いきなり険しい坂道です。ヘっホっハっホっ。でもいいんです、私は汗をかくために山登りをしたいんですから。残念なのは夕暮れが迫っているので写真を撮ろうとしても光量が足りず、どうしてもブレてしまうことぐらい。やたらと女郎蜘蛛の巣が多いので、「ごめんよー巣、壊すよー」と声を掛けながら突き進んでいきます。(この付近には谷底へ人を引き吊り込む浄蓮の滝の伝説があるので、デカい蜘蛛は無碍にはできません)。この城山の標高は240mだそうですが、そもそもの海抜が高い修善寺のこと、実際にはそんなに登らなくていいに違いありません。


岩が露出している所多数。いいねぇ、伊豆っぽいねぇ。


ホントにこれが登り道かい。人が多く登る城ではないようです。


頂上付近で、突如として古城の曲輪っぽくなる。

この道を使って頂上に行くと、なにやら謂われがありそうな石祠があり(何の祠かわかりませんでした)、さらに進むと頂上の二の曲輪に厳かに鎮座ましましているらしい神社(日枝神社だっけ? 、、、忘れた)の裏手に出ます。その神社の裏にはなぜか恵比寿さまの石像があって、とてもにこやかに微笑んでいたそのお顔が印象的。

そしてそれと並んで、異様な雰囲気の古寂びた建物がありました。

これです!
かつて修善寺温泉が大繁栄(?)をしていた頃、大好評をもって稼働していたというロープウェイの遺跡。もの悲しい、、、。異邦人である私にとってみたら、「なんでこんなところにロープウェイが?」と思うのですが、伊豆長岡の葛城山のロープウェイと匹敵するような何らかの素晴らしいものがここにはあったということでしょう。そしてそれは、かつて畠山国清が詰めの城としてここに城を築いた理由と同等の物だったのではないか。、、、そういう思いがあったからこそ、私が「修善寺城に登ってみたい」とずっと前から思っていたのです。
この建物は意外にもロープウェイの発着場ではなくて、待合室だったようです。では、ロープウェイはどこから出ていたんだろう? 万感の思いを胸に、建物の中に入ってみます。ををうっ。床が木の板だ。閉鎖された年月の長さを物語るように、床の板が朽ちて、何ヶ所か抜けている(笑)。これは怖い。なかなかエキサイティング!
待合所の観覧窓から外を眺めると、見えるのは北西の修善寺温泉街の方角。そうです、このロープウェイは本来の城の大手ではなく、上古は絶壁であった修禅寺温泉卿の方から登ってくるようになっていたのでした。・・・・早雲の時代にこれがあったら、城攻め(もしくは迎撃)は便利だっただろうなあ。殺生将軍頼家の時代にこれがあったら、彼はきっとここに月を見に来ていたことでしょう。
しかし、場内にある解説図板によると、どうも現在の修善寺道路の降り口あたりにその発着場があったようだ。どうも場所が中途半端だなぁ。ここから温泉街まではさらにかなり歩かねばならない。・・・そのあたりが、ここが閉鎖に追い込まれた理由なんだろうなぁ。(=修禅寺温泉からも修善寺駅からも歩いて来られない)

などなど考えながら暗い建物の中で無心に解説板を眺めていますと、突然外に人の気配。そのおっさんはおもむろに建物の中に入ってきまして、「うをっ」と驚かれました。そりゃ驚くでしょう。私はふだん人の気配を放たないことにかけては自信があります。夕暮れ時にこんなところに人がいる方がおかしい。どうやら営林署かなんかの山の管理の関係者の方のようです。

折角なので、その方に疑問に思っていたことを聞いちゃいました。どこが本丸なのか。ロープウェーはどこに着いていたのか。いつ頃までロープウェーがあったのか。この城への登り口はいくつあるのか。

ロープウェイの建物からさらに登っていく小山があります。これが昔の本丸で、でも現在もちゃんと城の遺構らしく(公園っぽく)形が整っているように見えるのは、城がそのまま残っていたわけではなくて、ロープウェイがあった頃に頂上にバーベキュー屋さんが出来て、その時に整えられた。バーベキュー屋は現在テレビ塔が立っているあたりにあったひうです。このテレビ塔、かなり大がかりなもので多分わたしのウチのテレビもここからの電波を受信しているんじゃないかしらん。ということは、テレビが完全に普及する前後にバーベキュウ屋は役割を終えたってことなのね。

頂上にある「畠山国清古戦場古蹟 城山公園」の石碑と、古井戸跡と、稲荷と獅子のいる小祠と、謎の大石。中世の古い井戸があるという話は本で読んでいましたが、頂上にあるのね。ちゃんと水が出たのかしら。

なか、どうなってるんだろう?

で、ロープウェイの跡が、ココでした。どんなロープウェイだったのか夢想させる痕跡すらない寂しい遺跡ですね。
いやーー、でも思ったよりいろいろ見られて、満腹満腹。


頂上から狩野郷・天城方面を見る。なかなか。


目を50度左に向けると、中伊豆方面。見渡しがいいですね。


遥かなる天城の山々。伊豆は山だらけなのに、低い山ばかりなので山上もなだらかな曲面に見えるんですね。なかなかこの景色は好き。


修禅寺温泉郷の方角。

さっき会ったおじさまに、「韮山方面を見晴らせる場所は無いんですか?」と聞いたら、頂上にバーベキュー屋があった頃はそこから韮山・三島が見渡せて、とても景色が良かったんだそうだ。現在はテレビの鉄塔に登らないと無理だとのこと。残念。しかしここ、あと少し木を切り払えば、ホントに景色がいいですよ。富士山が見えない事が現在大盛況の葛城山に負けてしまいそうな点ですが、逆に気持ちの良い天城の山々が奥深くまで見える。上に掲げた3つの方向を同時に見れる場所は、他には無いですよ。ロープウェーが廃止されてしまったことが、本当に悔やまれます。

当然、そんな理由から、戦国時代にもこの城はとても大切な要衝だったと思います。しかし北条早雲は、明応2年に堀越御所から脱出した足利茶々丸がこの城に篭もっているのを攻撃し、それを散々打ち破ったあと、なぜか1.5km離れた場所に柏久保城を新築して、狩野郷からの狩野氏の攻撃に備えているのです。(修善寺城を早雲が使用したという形跡はありません)。これはどういうことでしょう? 早雲が修善寺城を落としたんじゃないのか? 私だったら柏久保城よりも修善寺城の方が遥かに重要な位置と考えると思います。考えるに(1).足利茶々丸は北条早雲をみごと撃退した(そんなバカな) (2).早雲は茶々丸を敗走させたが修善寺城は落とせなかった (3).狩野城と修善寺城と連絡があまりにも密すぎて、狩野氏がすぐに反撃する気配を見せていたため早雲がすぐに入るには危険な状況だった (4).畠山国清が構築した「3城を密接に結ぶ防衛網」がまだ生きていて、南の狩野城からだけではなく西方の修禅寺温泉郷、北西の瓜生野等、攻められる可能性が多方面にあったので後方へ引いた (5).早雲側に寝返ったばかりの大見三人衆から、大見郷(中伊豆)に近い所に陣を構えてくれと要請された (6).中伊豆と狩野の間の山中に狩野氏と伊東氏を結ぶ連絡道路があって(現在そこはとてもまばらな別荘地になっていますが、戦国時代は通れたのかな)それを抑える必要があった・・・こんなところだと考えますが、どうでしょう?

で、そのおじさまに教えて貰ったのですが、もっと登りやすい登り道が他にもありました。(しかし畠山国清時代の正式な登り道は、私が登ってきた細いルートだったそうです)。頂上の案内板に、「中腹に江戸時代に大久保長安が金鉱を探して掘った穴が2ヵ所ある」と書いてあったのですが、、 ここかな?

そして、この道をくだっていくと、私が登り始めた城山神社に着きました。しかしそこでもうひとつ分岐点を見つけまして、そっちを歩いていきますと、修禅寺トンネルの上を歩いていく道があり、そしてちょうど私が車を停めた洋食屋の真正面に出た。こんな道があったのか、、、。
あの小迷路のような本立野のを彷徨わなくていい分、修善寺城に登りたいときはこの洋食屋のところから登り始めるといいでしょう。

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願成就院の足利茶々丸の墓。

2006年08月27日 22時53分00秒 |   北条早雲


願成就院の裏手にある守山八幡宮。
源頼朝旗挙げ祈願の地です。願成就院よりも遥か前からあったんでしょうね。
このお堂(舞殿?)の後ろに長い石段があり、その上に本殿がある。



守山の展望台からの韮山平野の眺望。
山木攻めのとき、頼朝は裏山の木に家来を一人登らせて、山木からの火が見えるかどうか報告させたといいますが、それは多分ここなんでしょうね。(一番景色の良いポイント)

『吾妻鏡』 (文治5年6月6日)
北條殿が奥州征伐の成功を祈るため、伊豆国北條の地に、伽藍の営作を企てられた。吉日を選んで立柱上棟をし、供養をおこなった。名付けて願成就院。本尊は阿弥陀三尊ならびに不動多聞の形像である。これらは、かねてからこの日のために用意されていたものであり、北條殿はその地に赴き、周辺設備の荘重化と儀礼を丁重におこなうことを指示した。

『吾妻鏡』 (文治5年12月9日)
願成就院の北のあたりに二品(=頼朝)の宿殿を建てようとして土地を掘り起こすと、古い額が出てきた。それには「願成就院」と記されていた。夜空に輝く星の遠近は測りがたいが、一度光った物の跡は消える事がないのである(※よくわからないけれども、要するに、北条氏が建てた願成就院の付近から、大昔の同じ名前の寺の遺物が出てくるなんて奇蹟だ、と言っている)。後略・・・・・

伊豆韮山の北条氏屋敷に隣接している願成就院は、北条時政が創建した北条氏の菩提寺なのですが、名前がすごいですよね。「願いがかなう寺院」。恋人岬とか喜望峰とかしあわせ教団とか、そういうネーミングの元祖でしょう。しかし、この場合の「望み」とは「奥州藤原氏を征伐する」ことであります。この時点ではまだ“反逆者”源義経は奥州で生きていましたから、言い換えればここは「義経死ね死ね寺」である、ということもできるわけです。伊豆の人はノンキだからなぜか(ゆかりもないのに)義経の事を必要以上に好きであるように感じますけど(有名人ですからね)、伊豆ってのは本来そういう場所なんですよぉ。
で、時政は奥州攻めには加わらなかったみたいですけど(義時は出陣した)、見事、奥州は征伐されて大願は果たされたわけなので、このお寺のご利益も抜群というわけだ。

しかしながら、その後の歴史の中に登場する願成就院について、わたくしがいつも涙を流しながらでないと本を読めないのは“悲運の鎌倉公方”足利茶々丸のことです。足利茶々丸は、初代堀越公方であった足利政知の長男ですが、父と養母になぜか邪険にされ、父が死去した直後に(←茶々丸が惨殺したという説もある)「茶々丸は気が狂っているので家督を継ぐ権利が無い」と周囲に言いふらす継母と弟を斬り殺し、2代目堀越公方にぶじに就任したのもつかのま(←公方になれなかったという説もある)、興国寺から邪悪で陰険な伊勢新九郎長氏という男が攻めてきて、あっけなく殺されてしまったのです(←この時死なずに別の場所に逃げたというウワサもある)。
このとき足利茶々丸は最初は住居の堀越御所(父政知が北条屋敷の故地に建てた寝殿造りの御殿)にいたのですが、そこは防御に向いていなかったのでひとしきり戦ってから裏手の守山に逃げ、そこから願成就院に下りて、態勢を立て直そうとしたところを敵勢に激しく攻め立てられ、無惨にも斬り殺されたとも、みずから自害したともいいます。
願成就院には「茶々丸の首洗いの池」というものもあります。


河村恵利のマンガに出てくる茶々丸は、こんな感じ。

茶々丸さまも、戦いのさなかに一度山に登って、それからこのお寺に下りてきたときは「戦神・八幡大菩薩と願いのかなうお寺の両方が揃ってるんだから、このオレ様をどうにかしてくれ」と願ったと思うんですが、結局願いは北條早雲(=伊勢新九郎)の方が聞き届けられて、茶々丸の方はどうにもならなかった。・・・・・いや、茶々丸はここでは死ぬ事をまぬかれて「下田の深根城で死んだ」とか「下田でも死なず三浦半島へ渡った」とかいう伝説もあるわけですから、「願成就院で死んだ」と思わされているのは、仏さまのおはからいのおかげなのかな。よくわかりません。

さて、この戦いの記録を読んでいてついつい思ってしまう事は、「なんで隣接する願成就院に行くのに、わざわざ一度山に登るんだよー」ということです。戦国時代直前のお寺の事ですから、少しは防御の構築がしてあったんでしょうか。願成就院に逃げるのは分かります。「広い御所の探索→広い寺の境内の探索」でかなり時間が稼げますものね。しかし、なぜその間に山を登る?
いや、むしろ山に登った方が良いんです。堀越公方が住んでいた堀越御所は、戦乱の室町中期では不思議に思えるぐらいにまったく防備がなかったらしい。そのかわりに背後の守山は堅い岩肌をいかした堅砦がわりになっていて、とりわけ現在の展望台があるあたりは、両側が切り立った石切場状(?)で、何かあったらここに逃げ込めば、しばらくは持ったんですって。狩野川の流れも絶好の堀でした。
でも、早雲が攻めてきたっていってもせいぜい百数十~数百名だし、山は広いんだから、真珠院の方角とか、狩野川を渡って江間に逃げるとかせず、わざわざ近い願成就院に行ったのか?
でも、現在の展望台のある手前の部分が主郭になるのですが、ここにのぼる口は2つしかなくて(知られてないのがもっとあるんでしょうですけど)、それを地図上に---で示しておきました。多分、北条氏邸の奥の登り口からのぼって、自然に願成就院におりちゃったのかなぁ。いや、さすがに背後の城なんだから、反対側に抜ける道もあったはずですね。
私が推測するに、冷酷残忍無比な茶々丸さまは、やばい事態になって背後の山に逃げるとなった時に、そこにいた家臣全員に向かって、「お前ら全員、オレの盾となれ。オレが山を登って逃げ出せた頃を見はからって、お前らは一丸となって敵に突入して死ね」という命令を出したんだと思う。でも、根は寂しがりやの茶々丸さま、守山は吾妻鑑の頃から怪異の起こる山だというし、暗い山道をのぼっているうちに寂しくなって、やがて賑やかな方に向かってフラフラと歩いていってしまったんだと思いますね。

というわけで、(一説では)願成就院が茶々丸の終焉の地だとされているのです。


茶々丸公の墓所。
墓石には、「延徳4年4月10日 成就院九成居士」と刻まれています。

さて、数年前に私が初めて、このお寺に愛する茶々丸君のお墓を拝みに行ったとき、その墓所のあまりに異様な雰囲気に、ビックリしてしまいました。
そこはまるで不思議空間。

このお寺には、同時に創建者・北条時政公のお墓もあり、寺の入り口付近にあるそれは、小綺麗に整えられた立派な威厳のあるものだったのですが、一方で寺の裏手にある茶々丸公のお墓の方は・・・・・ 周囲が・・・・・
おかしな石像にぎっしりと取り囲まれていた・・・・・

あからさまに、後ろにある茶々丸よりも手前のメガネのおっさんの方が目立っている、、。

なんでもこのお寺では、開山八百年記念事業として、「平成の五百羅漢製作」というものをおこなっており、その分野ではとても有名なんだとか。(ネットで検索してみると、さまざまなバリエーションのいろんな像があって、ひとつひとつ見る分にはとても楽しいものです)

しかしながら、大量に並んでいるとやっぱりコワイ。
茶々丸さまの墓石のある斜面の付近は、こんな感じです。

なんでも、現在でも申込みは受付中で、写真を持って行けばお寺の一角の製作場で作ってもらえるそうですし、望めば自分で彫ることも可能(彫り方を教えてくれる)そうです。
代金は、一式10万円で、永代供養つき・・・ 高いのか安いのか分かりません。

しかしながら、もちろん死んだ家族の供養のためにこれを彫ってもらっている人が多いのですが、中には(生きた)自分の姿や、お手製のファンシーなイラストをもとに彫ってもらっている人もいるようです。もちろんそういう人たちは、何か願うことがあってわざわざこの寺にモニュメントを残すのですね。願成就のこころ、まだ現在でも健在です。お願いは叶う気がしますね。なむなむ。


この池が「首洗いの池」かな?
しかしやはり、石像の方が目立つ。

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早雲の伊豆侵攻ルート。

2006年05月27日 04時50分34秒 |   北条早雲

北条早雲の小説などで「伊豆攻め」の部分を読むと、(本によって書いてある事は微妙に違う事もありますが)、大体つぎのような感じで書いてあることが多いです。

堀越公方・足利政知が死去したあと、残虐な足利茶々丸が公方家を継ぎ、仲の悪い継母と弟の潤童子を殺害した。富士の興国寺城にいた早雲は、政知の代から伊豆を狙っていていろいろな策を足利家中にほどこしていたが、茶々丸の暴政ぶりを聞いてついに伊豆を攻め取る事に決め、警戒をさせぬよう家督を息子の氏綱に譲り、隠居を装って修善寺温泉に逗留した。修善寺の温泉を拠点に早雲は伊豆全体の地勢をさぐり、土豪たちを懐柔し、工作活動を施した
ついに時機到来、関東で山内上杉家と扇谷上杉家の紛争が起こったのである。茶々丸の兵が多数関東へ出陣していった。早雲は駿府へ戻り、主君の今川氏親から兵300を借り受け、自分の持ち兵を会わせた兵500で、清水湊から舟で出帆した。富士・興国寺と韮山は目と鼻の先であるが、茶々丸が沼津口に警戒の人員を置いていることが予想できたからである。駿河湾を突っ切って西伊豆に上陸した早雲の兵は、山を越え、茶々丸の防備の裏をかいて南方から韮山を突いた。早雲の動きをまったく予想できていず警戒もしていなかった堀越御所は、あっという間に陥落。茶々丸は、韮山の願成就院で自殺したとも、忠実な家臣を頼って南伊豆に落ちていったともいう。
戦後、早雲が伊豆の各地で起こっていた疫病による大勢の病人を手厚く看護したため、30日前後で伊豆の大部分が早雲に帰順した。

最初に早雲のこの作戦を読んだ人は、とても興奮するはずです。そしてこう思うはずです。「さすが“戦国の三大梟雄のひとり”と言われた早雲! 奇襲作戦はお手のものだね」、と。早雲、かっこいい。確かに富士から沼津・三島にかけての陸路はだだっぴろく(細長い)平地が広がっており、大軍を動かせば遠くからでも丸わかりだ。船でだったら清水港から一直線だし、西伊豆には隠れて上陸できる地点も数多くある。スピードも早いだろう。(ちょっと遠いような気もするけど)警戒されてない山地を越えて攻め寄せるのは、やっぱり頭がいい。ハンニバルやナポレオンのアルプス越えみたいじゃないか!

・・・でも、ちょっと待って!
最初はその作戦がかっこいいと思っていた私でも、車で西伊豆から北伊豆への道を何度も通っているうちに、「本当にそんな侵攻は可能なの?」と思うようになってきてしまいました。西伊豆から韮山に通じているルートは(有料道路だった西伊豆スカイラインを除いても)現在3ルートありますが、中でも一番快適で便利な道は、土肥から天城湯ヶ島へと抜ける「船原越え」のルートです。でも快適な山越えは現代の道路だからであって、実際、船原はすごく長いトンネルと高くて頑丈な鉄橋の連続。それがなかったであろう中世の船原峠は、切り立つ崖と深い谷ばかりで、重い甲冑を着込んだ兵士たちが越えるに相応しいルートとは思われません。疲れます。では、船原でなかったとしたら、次に考えられるルートはどこだろう。残るは「戸田から修善寺」に抜ける「ダルマ山みち」と、「安良里・仁科から天城湯ヶ島」に抜ける「仁科峠」なんですけど、、、、 そもそも西伊豆は広いっ。清水港を出帆した早雲は、いったいどこへ上陸したというのでしょう?? そして、私でも「山越えを使った奇襲って頭いいのか?」と思うようになってきました。

『名将言行録』では、「清水の港から船出して伊豆に押し入り、堀越の館を囲んで火を放って攻めた」としか書かれていません。司馬遼太郎の『箱根の坂』では、「山風の強い西伊豆の海岸に着いた」とは書いてあるけど、具体的な上陸地の地名については記述しておりません。でも、本当にたくさんの資料を読んで説得力のある文章を書こうとする海音寺潮五郎の『武将列伝(二)』には、「松崎・西奈・田子・あられ」に上陸して、「そこから北上して(海岸づたいに船で大瀬を廻った可能性も示唆されているが)堀越御所を目指した」と書かれているのだ。なんと! 遠いし無茶だよそれは。以後、いろんな作品でもそれと同じ上陸地があげられているのですが、私が素人考えで考える一番行きやすいルートは「戸田から上陸して修善寺に抜けて、北上」なのに、なぜかそういうルートはとらないのね。西伊豆でも遠い南の方なのね。どうして? (一方、南原幹雄の『謀将 北条早雲』では、堀越攻めの上陸地を「戸田、土肥、宇久須」としているんですが、この本にはひとつ問題にしたい点があるので、後述)  海音寺が「松崎・仁科・田子・安良里」の名前を挙げた理由は、江戸時代初期に北条家の遺臣によって書かれた『北条五代記』にその地名が挙げられているから、だそうなのです。うーーーむ。

ただ、資料にあるからといってその説を採るとすると、最大の問題にぶち当たるのです。仁科周辺に上陸したということは「仁科峠」を通って中伊豆に出たということでしょうが(実際、中世に一番利用されたと思われるのはこの道です)、最近十年間ぐらい小和田哲夫あたりがしきりに強調していることに、「伊豆平定を目指す早雲の目の前に、湯ヶ島の狩野城にいる強大な領主・狩野道一が立ちはだかって、最後まで激しく早雲と戦いあった」というのです。「仁科越え」と「船原越え」ルートを取った場合、その狩野成の前を通っていかねば韮山に行くことはできないのです。最初は中立だった狩野道一が敗北して逃げてきた堀越公方に要請されて敵に回ったとの可能性も捨てきれませんが(北条氏の関東制覇後、狩野氏は小田原の五大家老のひとつになっているので)、でも、そんなことないだろうな。ともかく、修善寺温泉で詳しく勢力分布を研究したはずの慎重な早雲が、長く疲れる山道のあとに、少しでも交戦する可能性のある勢力の領地を通っていくというルートを選択するとは思えない。奇襲の意味が無くなるし。

奇襲とは、迅速さを重視してこその作戦です。軍が関東に行ってしまってその留守の手薄さを突いての奇襲なのに、わざわざ大回りして何日かかるのかも分からないような道筋を取るなんて、しかも山を越えてわざわざ疲れるなんて、馬鹿っぽいと思いませんか?(山越えをしたナポレオンという偉人もいるけど) 私の見積もりでは、(狩野氏との交渉を穏便に済ませたとしても)山を越えて韮山に到達するのにかかる日数は、4日ぐらいです。

そもそもどうして、“海からの迂回説”が重視されるようになったのかというと、幕末に成立した『名将言行録』が原因だと思うのです。前に見たように、名将言行録は大量の資料を参照してまとめ上げられたのですが、その膨大な資料のひとつに『北条五代記』というものがあり、“海からの迂回説”とその上陸地点の具体的な地名は、それに載っておりました。(海音寺潮五郎もそれを参照した)。ところが実際にその北条五代記を読んでみると、その書き方は次のようになっているというのです。
まず、“巻之一”には早雲の進撃の様子として、「興国寺城から、黄瀬川を渡って韮山へ攻め寄せ、茶々丸を討ち取った」と書かれている。つまり、地図を見たら想像しやすい、一直線に敵陣目がけて急襲する軍容を描いているんですね。ところが、“巻之七”で「或る老士の語ったはなし」として「早雲は手勢200人に加えて、今川氏親から借りた300人の兵を足した500人を、大船10艘に乗せて清水湊を出帆し、松崎・西奈・多子・あられに着岸した。住民たちは海賊が来たと勘違いして山に逃げ込んでしまったが、早雲が村々を見廻ると、どの家にも3~5人の病人がいたので、「何があったのか?」と訊いたら「風病が流行り、みんな5~7日ぐらい伏せって10人中8~9人は死んでしまう」と言われた。早雲の兵たちが看病すると、ほとんどの者が回復した。七日後に下田の深根城に~~(後略)と記してあるといるのです。つまり、“海からの迂回説”は「異説のひとつ」ってことかいっ。
『北条五代記』とは、小田原征伐で一度滅んだ北条家が徳川家の温情で復活した時に、遺臣だった三浦浄心が「もう一度北条家の威信世に知らしめよう」と発奮してまとめたものなので、実際に北条家の歴史の故事を知る人(=或る老士、実際に体験した人)に詳しい取材もできたでしょうし、滅亡前の北条家の家中に伝わっていた伝承を豊富に取り入れることができたと思いますが、一方でこの作者はその他にも『慶長見聞集』、『順礼物語』、『そぞろ物語』などのたくさんの物語・見聞録を書いていて、また変人・天海大僧正の弟子でもあった人なので「その内容には信頼できない点も多い」という人も多い。で、幕末にそれを参照してできた『名将言行録』では、北条五代記に載っていたいくつかの説の中で、一番派手でおもしろそうなのだけを選んで採用しちゃったんですね。それが、現代ではわたしたちの常識になってしまった。
では、“海からの迂回説”は物語作家の手による物語的な脚色の強い物なのか。
・・・・と思うと、じつは、事態はもうちょっと複雑なんですなーー。(つづく)

 

参考までに、「奇襲作戦の代名詞」といわれた“桶狭間の戦い”の同縮尺の地図も載せときます。かつて織田信長は「今川義元を油断させるために、迂回ルート(緑色のルート)をとった」と言われていましたが、最近は否定されているのだそうです。(藪が多く山道だから) ね? 清洲城から桶狭間は、平地を一直線でしょ?(ま、信長の場合は自分の領地内なんですけど)

ただ、ここでは触れない予定ですが、山道の中を大きく迂回して奇襲に成功した例に源義経の「鵯越え」、また、信じられない長い距離を短日で駆け抜けて奇襲に成功した例に源義経の「屋島の戦い」があるんですけどね。(義経の場合は兵は150騎ぐらい)

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伊豆の早雲。

2006年05月22日 19時03分33秒 |   北条早雲

北条早雲の生涯で、申し訳ないですけど私が気になる部分は、やっぱり伊豆侵攻の部分だけです。とくにその部分は早雲の戦略と性格が色濃く出ているのに、資料が少なくて部分的な事しか分かっていないのです。また、その部分的なところをつなぎ合わせようとすると、かなり無茶な事になるし、つじつまがあわない。(年表参照) 
それは、「早雲伝説」が出来てくる過程で、おのおのが勝手にある資料をつなぎあわせてそれらしい伝奇を作り上げたことが原因ですが、今の時代になっても、ある材料(どうも、早雲関係の信頼できる資料はすでに出尽くしているようです)を組み合わせれば、自分なりの伝記を造り出すことは可能だという事に気付きました、それは、なかなか楽しいことです。

早雲の伊豆攻めにおける問題点(これから調べます)
(1).早雲が攻め入った時期はいつか?
(2).堀越公方・政知の在世中に、どの程度御所の内部に入り込めていたか?
(3).政知は病死か? 茶々丸による殺害か?
(4).早雲の前工作の実際。修善寺温泉以外にも入った温泉はあるか?
(5).早雲はどのルートで堀越御所に攻め入ったか?
(6).堀越公方の家臣団。 (三島周辺の在地武士の様子が全く不明である)
(7).室町幕府・古河御所の介入はどのくらいだったのか。
(8).明応の大地震と大津波と大台風の実際。
(9).風魔の忍者、梟の勇者たちって、この頃いたの?
(10).伊豆平定を後回しにして小田原攻めをしたのか?

……と、こんな感じだと思います。おいおいいろんなことについて調べていきたいし、調べる度に違う事を言ってしまいたくなることばかりなんですけど。

 

しかしその前に!
早雲について、どうしても納得のいかないことを2点、掲げておきましょう。
まず、早雲の肖像画についてです。
早雲の肖像画として伝えられている物は、2点あります。どちらも有名な絵ですし、2点とも、武将としての並々ならぬ精神力がビシビシと伝えられてくる、とても優れた絵だと思います。 ……でも、、、 これってどう見ても別人じゃね?

   
(箱根・早雲寺蔵)                  (岡山県・法泉寺蔵)

私が、「早雲の生涯が入り組んでいるのは、複数の人物の伝記が入り交じって語られたものだから」とつねづね言っている由縁です。(←本気で言ってるわけじゃありませんよ) ただし、個人的に左の絵の方が個人的に好みだし、絵としても優れていると思うんですが、再現絵とかで表現する時は、右側タイプになっちゃうんですよねー。武将っぽく猛々しいからだろうか。でも、目が大きすぎだっちゅーねん。

   
(小田原駅前早雲像)                 (井原電鉄・荏原駅前早雲像)

悔しいっ。(早雲寺の境内に、左側タイプの木像があるといいますが) というわけで、私が早雲の外見について触れる時は、「目が細く、アゴが細く、口びるが薄い」イメージで語りたいと思います。そちらが私のイメージなんです。

 

2点目。
私がどうしても触れたくないことに触れないといけません。早雲の年齢についてです。江戸時代に伝わっていた伝説で、「早雲は88歳で死んだ」という伝説があって、だから「伊豆討ち入りをしたのは56歳の時」というのが定説だったんです。かっこいいよね。エネルギッシュな老人、節制を心懸け、長生き。

ところが、いろいろ分析すると、おかしいところが出てきちゃっているのだそうです。まず、早雲が駿河で出世するきっかけとなったのは、とても親しかった姉か妹の「北川殿」が、駿河の国主・今川義忠の妻となっていたからなんです。この北川殿の生年も不明なんですが、駿河側の資料では、北川殿の母は「伊勢貞国のむすめ」と書かれているのだそうです。(つまり、伊勢貞国の孫)。北川殿は早雲の同母の姉妹(姉か妹かは分かりませんが)と考えるのが自然なのですが、伊勢貞国の生年は1398年だというのは確実なので、その孫である早雲が定説通り1428年生まれだとするのは無理があるんですって。で、専門家のいろいろややこしい検討の結果、「早雲は1456年生まれとするのが、いちばん妥当だろう」とするのが、最近評価されているせつなんだそうです。いやーーーーん、私が思ってるのよりも30年も若くなってしまーーうっ。(そんなことありうるのか) 定説を覆す証拠をいろいろと積み重ねて真実を探し出す学問はすごいですが、早雲についてだけはイヤだわっ。だって、「早雲が56歳で死去しちゃった」なんて説が新しい定説などになったとしたら、『早雲寺殿二十一箇条』などで早雲が節度と節制を呼びかけている事に、全然意味が無くなってしまうじゃないですか。

というわけで、一応私の中では、「伊勢貞国は11歳で娘を生み、その娘は10歳で北川殿を生み、その7年後に早雲を生んだ」ということにしておきます。 (「北川殿は早雲のちょっと年上の姉だった」説が好きなので)
・・・・・・ん? そういえば司馬遼太郎の『箱根の坂』では、北川殿は早雲の「異腹の妹」だったな?

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