自分の記事を読み直してみると、北条早雲について、さんざんほのめかしただけで、一番肝心なことを断言していませんでしたね。
興国寺城にいた北条早雲の、伊豆攻めのルートについてです。
この記事は「北条早雲の伊豆攻め年表」の続きです。
2005年頃に、「北条早雲研究最前線」という文章が一般向けに出たんですけど、その後最前線はどんな具合になってるんでしょうね? 学術論文なんかよう読めない身分ですので、こういうのが定期的に出てくれるととても助かったんですが…
北条早雲研究で、もっぱら問題となっているのは以下のような事です。
(1).早雲の本当の出身地
(2).早雲の生誕年
(3).早雲の伊豆討ち入りと、中央政界の出来事の連関
(4).伊豆平定の過程(足利茶々丸はいつ死んだか)
(5).早雲が伊豆に討ち入ったときの伊豆の状況について
北条早雲が伊豆に討ち入ったルートについて、一般に膾炙している『北條五代記』という本の中に、「興国寺から黄瀬川を渡り、三島を経由して韮山に攻め寄せた」というのと、「清水湊で今川氏親から兵500を借り、大船10艘で駿河湾を横断して、西伊豆から上陸して山越えをして北上して韮山を突いた」という2つの説が、並列して挙げられているというのは、以前に見たとおりです。
北条五代記を良く読んでみると、細部で具体的な記述に欠け、著者が伊豆に来た事がないことはバレバレなので、これを元にして語らねばならない事がちょっと情けなくなるのですが、これ以外には資料らしい資料がないのが残念でなりません。
早雲の進軍ルートについて、私は以前こう述べました。
(1).西伊豆に上陸して、そこから韮山を目指すのはさすがに無茶じゃないか。だってそれには山越えをいくつもしないとならないから。
(2).早雲は「足利茶々丸の兵の大半が関東へ出陣」している御所が無人状態の時期を狙って韮山を攻めている。だったらわざわざ山を越えるのではなく、直接興国寺から韮山に急行した方がよいはず。
(3).西伊豆から韮山を目指すのが不可能だと思う根拠として、ルート途上にある狩野城には、のちに伊豆で最大の抵抗勢力となる狩野道一(かのどういつ)が住んでいる。
(1)について、船原越えや仁科越えを(車で)するとき、現在は快適な陸橋やトンネルが整備されているけど、これが無かった時代はどうしてたんだろう?と恐ろしく思います。昔の人々の健脚は侮っちゃいけないものですけど、伊豆の山は低いクセに谷間と堅固な尾根の連続ですよ。「天城縦走」というのにも参加させてもらったこともあって、一日で結構歩けるんだな、と感激した事はありましたけど、甲冑重装備で食糧・武器も持って、しかも山を越えた後が本番の戦闘ですよ。
私だったら土肥に上陸したとしてもそこから(新道・トンネルを通らずに)韮山に歩いていくだけで3日はかかると思います。そんな奇襲、無茶ですって!
・・・・と言おうと思ったんですけど、自分を基準にして考えるから無茶だと思うのであって、早雲の手勢だったら案外やっちゃうのかもしれないな、と最近は思っています。
(2)について、ただ、『北条五代記』の記述によると、早雲が上陸した西伊豆の港の村々では村人が兵を怖れて山へ逃げ去り、家の中には病人が大量に残されていたというのです。早雲は病人達に薬を与え、治療をして村人達の心を掴んでから山を越えて下田へ向かい、深根城に籠もる茶々丸の忠臣・関戸播磨守を滅ぼしてから、一日で天城の峠を越え、韮山に襲いかかったということになっています。
・・・・・・・これ、奇襲をしようとする軍勢の行動じゃないですよね。なぜ下田を目指すのか。
(3).早雲が上陸した場所が、西伊豆の北の方じゃなくて、南の方に位置する「松崎・西奈・田子・あられ」になっていることについて、「土肥の富永氏」は狩野の道一と同じく、最後まで早雲に抵抗を示した勢力の本拠地とされているからのようです。一方で、早雲に早く忠誠を誓った者のうちに「土肥の富永三郎左衛門」の名もあるんですけど、これはどうなってるんでしょう。土肥は紛糾していて安全じゃなかったのかな。でも、土肥じゃなければ大丈夫かというとそうでもなくて、松崎の那賀郷や仁科庄は狩野氏の領域だったようですよ。だから結局、早雲が海からの上陸に際して、どうしてもっと北寄りを選ばなかったのかが良く分からない。「船で山越えして奇襲」というのはイメージ的にとても美しいので好きなのですが、大瀬崎や三津浜からの上陸が一番いいような気がします。(それだと近すぎて葛城山の見張りに見つかってしまうんでしょうかね)
で、細かい事を全部すっとばして結論なんですが。
『北条早雲研究最前線』の中で、家永遵一氏は、「早雲が伊豆に上陸したときに、村々に病人の数が異様に多かった」という記述に注目し、「これはなんらかの天変地異の直後なのではないか」と推理します。そして災害記録をいろいろ調べた結果、明応6年(1497)の8月25日に東海大地震があり、遠州と伊豆に大津波が起こっている、という事実を発見します。しかも山梨県の『普王寺年代記』という史料に「明応6年の8月に御所が死んだ」という記述があり、さらにさらに地震の直後の28日~29日にかけて極めて強いとてつもない台風が伊豆に襲来しているので、「早雲が西伊豆から下田・深根城を攻めた日時は、明応6年の8月26日と27日の2日間、もしくは30日と31日以外には考えられない」と断言されているのです。おっと、グレゴリオ暦じゃない時代は8月31日って無いんでしたっけ? また台風の後は波が高いので、駿河湾を突っ切るのは不可能かもしれない。ともかく、早雲が西伊豆に上陸したときに家の中にいたのは病人じゃなくて津波による怪我人だったってことになりますね。
要は、早雲が韮山を陥落させたのは延徳3年か明応2年だとされているので、その征服活動と明応6年の大津波のあとの戦闘とは、連動していないということになります。
つまり、北条早雲は2度伊豆を奇襲したのだ! ということを私は言いたいのです。
一度目は延徳3年(もしくは明応2年)、堀越御所の手薄を狙って、陸路興国寺から韮山を急襲。
二度目は明応6年、狩野の道一との長い膠着戦闘を打開する為に、いったん小田原を狙うというフェイントを見せつつ、大地震の後の混乱に乗じて密かに西伊豆に上陸して、下田と河津を奇襲。茶々丸を死亡させ狩野を孤立化させ、一挙に伊豆平定を図る。(※河津城の案内板には、早雲が河津を攻めたのは明応2年と書かれていますが、ムシ)
家永説が定説となった時点で、そう結論づけるのが当たり前ですよね。
大地震すら作戦遂行の為にうまく利用してしまうドラマティックな武将なんて、そうはいないと思いますよ。
・・・・・・しかしその後の早雲研究最前線って、どうなってしまったんでしょうね?
一般に手に入れやすい「早雲研究最前線」は、新人物往来社の『戦国の魁 早雲と北条一族』(2005年)です。この本はカラー写真が豊富でとても見事なのですが、定価が¥2000でちょっと高い。現地にお住みであれば、韮山の郷土資料館で¥1000で売ってる『奔る雲の如く~今甦る北条早雲~』(2001年)という本が、遥かに詳しく突っ込んだ文章で、お奨めです。
北条早雲の小説と言ったら、司馬遼太郎の『箱根の坂』が有名なのですが、伊豆攻めに関しては省略されまくりで、興奮できるものとはいいがたい。
それ以外にも北条早雲の小説はけっこういっぱいあるのですが、伊豆攻めについては消化不良気味で、満足できるものがほとんど無いのです。そんな中で唯一、「2度の伊豆攻め」について言及している作品が、南原幹雄の『謀将・北条早雲』です。この本は2002年刊行で、参考資料として『奔る雲の如く』も挙げられているのですが…・
明応6年の大地震と、その大地震後の混乱に乗じて清水湊を出発して西伊豆を急襲する様子はなかなか見事なのですが、、、、、、 なぜだかこの本では北条早雲は、それに先立つ明応2年の奇襲の時も、別働隊1000に清水湊から西奈・松崎・あられ・田子に上陸させているのです。なんでーーーー。奇襲の達人は、同じ手を2度と使わないんですよーー。しかも別働隊が1000人って…(多すぎる)。
それ以外にも、この小説は不必要なエロ描写が多すぎるので、どうにもお奨めしがたい小説です。なんでこの人は早雲にエロをさせたがるんだろう? 変なの。
そして、この小説の最大の問題点。
これまでの定説では、北条早雲は「永享4年(1432)生まれ」だとされていたのですが、最新最前線では、北条早雲の正体が備前生まれの「伊勢新九郎盛時」だと確定されたせいで「康正2年(1456)生まれ」だと訂正されているのです。この小説でも、その説にのっとっている。
つまり、司馬遼太郎の小説では、伊勢新九郎は今川家の当主・氏親を長く補佐した功績を称えられて興国寺城を与えられたのが56歳。それから隠居したていで堀越公方に取り入り、還暦を過ぎたボケ老人のフリをして伊豆中を探索。見事60歳で伊豆を切り取った後も矍鑠として戦い続け、88歳で没するまで最後まで元気だった。
というのが、康正2年生まれになっちゃうとすると、早雲が興国寺城城主になったのは32歳、まだ若者の匂いの残る顔に精一杯の媚びを浮かべて堀越公方に取り入り、突然豹変してエネルギッシュに伊豆を奪取。64歳で死ぬまで脂ギッシュに伊豆と相模を駆けめぐった熱いオッサン、となってしまうのです。
いやーーーん。
そうです、私は早雲研究最前線は大好きなのに、「早雲は通説より20歳も若かった」とする新説(いまや定説)は、どうしてもイヤでイヤで、受け入れる事ができないのです。
だって伊豆って、今も昔も変わらず「定年後の新天地」じゃないんですか?
私にとって、64歳という若さで死んじゃう早雲なんて、早雲じゃない。
早雲には90歳ぐらいまで元気で動いていてもらわなきゃ。
じゃないと「早雲寺殿二十一箇条」の存在意義も変わっちゃうじゃないですか。
・・・ああ、矛盾してるなあ。でも、いまの最新定説では「早雲は20歳若い」なのです。
ま、「北条早雲=備中の伊勢新九郎盛時」説だって、ただ合致する史料が多いからという理由だけでそう言われてるんであって、今後の研究でどうなるか分からないんですからね♪
★参考★
『ウィキペディアの北条早雲の項』
「ノート」での生年に関する考察が熱い。