オセンタルカの太陽帝国

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2011年01月06日 11時13分28秒 |   南北朝


どうしてこんな抜群の空模様の日に見に行ってしまったのか。(12/8)。近いうちにもう一度見に行こうそうしよう。

年末年始の超過酷労働期間がようやく終りに近づきました。ぐわは。
12/31はお泊まりのお仕事で、それはそれは大変だったんですけど、朝の9時に上がれたので初詣に行ってきました。舘山寺のフラワーパークの裏にある曾許乃御立神社(←この神社についてはいっぱい語りたい事があるので、またいづれ)と、井伊谷宮。

井伊谷宮を訪れるのも久しぶりですね。
浜松北部では、初詣の参拝先として井伊谷宮はもっとも著名なところのひとつでございまして、普段来てもほとんど無人状態なことの多いこのお宮が、この日ばかりは人でごった返している。出店もたくさん出てたりしていましてね。こんな光景、滅多に見られないや。

念のため、井伊谷宮について再び説明申し上げておきます。

井伊谷宮(いいのやぐう)(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)
祭神は征夷将軍宮・宗良(むねよし/むねなが)親王。親王は後醍醐天皇の第7皇子(第2皇子・第4皇子とも)で、南北朝時代に遠江、信濃、越中、越後などを転戦しながら北朝軍と苛烈に戦い、また二条派の歌人としても知られていた人。
明治元年に天皇が江戸城に移った際、宗良親王や護良親王・懐良親王らの霊を宮中に祀った物を、明治5年2月に各地に移した。宗良親王については各地に没承地のある中から井伊谷が選ばれ、社殿の造立には井伊家当主・井伊直憲(井伊直弼の子)が当たった。
歴史上の宗良親王は苦難の生涯を歩んだ御人ですが、祭神としての御神徳は、当の神社のサイトによると、「学徳成就・合格」「長寿・除災開運」だそうなのですが、個人的にはこれらに加えて、「旅行の安全」(=あの危険な時代にこのお方は結構安全にいろんなところを訪れている)、「恋愛旺盛」(=絶対そんなヒマは無かっただろうに、この人の歌集の中のロマンスの歌の比重の大きさはどうだ)、「家庭内円満」 (=この人の親類縁者への気のかけようは涙を誘う)、「人徳抜群」(=劣勢の南朝軍は、戦いに負けるたびに宗良親王のもとに集った)、「武威発揚」「感受性守護」「仏法修法」「苦難耐侭」「速攻回復」「地方隆盛」などなども加えても良いと思います。

宗良親王の廟所は、井伊谷宮の社殿の裏手にあります。
宗良親王の墓所の伝承地は、実は各地にあります。森茂暁氏のご本では「信濃の国大河原が有力」と書いてありますが、その他にも親王が死んだ場所の候補地として、浪合村、河内国山田、信濃国入野谷長谷などの説があるそうです。遠江国井伊谷の説は、それらを聞いてしまうとどうも分が悪い気がするのですが、しかし、江戸時代中期の幕府役人である大草公弼の書いた『南山巡狩録』にある記述が、その根拠になっているそうで、ま、ちょっとだけ胸を張ってみる。これを書いた大草という人… 大河原の香坂氏に関係のある人でしょうか?(よく分からんのですが、宗良親王は大河原近くの大草郷にちなんで“大草宮”とも呼ばれていた。“信濃宮”や“妙法院宮”とは全く違う“大草宮”という響きから、宗良親王は大草で崩御したという説は有力。浜名湖畔にも「大草山」はあるんですけど、これは全然関係ないらしい)。一方で、こんな本が書かれる以前に当の引佐にいくたりかのそういう伝承のあったことも、確かに間違いのないことなんですよ。
だがしかし、明治5年に江戸城内から井伊谷宮がここに移された事によって、事情が変わります。「宮内庁お墨付き」で「浜名湖畔が親王の終焉地」と認定されたことになったのです。井伊家の菩提寺であった龍譚寺の裏手に、おそらく何らかの石碑があったみたいなのですが、もともとは今の井伊谷宮のある場所は龍譚寺の敷地内だったのでした。
龍譚寺ってのは一体いつぐらいからあったんでしょうね。

さてさて、
神社の方では破魔弓を買う人たちやおみくじを引く人たちでごったがえしていました。しかし、この期に及んで私がおみくじなんて見ても仕方が無いからな。どうせ今年も凶だろうから。「神社の裏に回って親王の墓の前を拝んでから帰ろう」と思って、喧噪を離れてテクテク歩いていきますと、あら、まぁ、なんてことでしょう!

そもそも、井伊谷宮の裏には宗良親王の宝篋印塔があるのですが、その周りには土塁が設けられ、ふだんは入口ががっちりと閉められ、わたしたちは遙か遠くから小さな石塔の尊影を仰ぎ見るしか無いのです。
その入口には黒い鉄柵があって「みだりに域内に立ち入らぬこと 魚鳥等を捕らぬこと 竹木などを切らぬこと 宮内庁」の看板が庶民を見下しているのですが、今日ばかりはその鉄柵が開け放たれているではありませんか。
入れる、入れるぞっ。
このように開け放ってあるってことは、「正月だけは我が輩の前に罷り越しても良いよ」という神様の粋なお年玉なのでしょう。
何かの本で「昔は宗良親王の周りの土塁はなかった」「いくらでも墓石の前に詣でる事が出来た」という記事を読んで、(わたしも宗良様の眼前に立ちたい~、と)とても悔しく思っていたので、今日はまさに小躍りしました。

神の御墓の前には供壇が設けられ、なぜだかそこだけ照らすように白く陽の光が差し込んでいて、神々しくもまぶしい。
このお墓のうしろに聳えているのが井伊谷宮の社殿(の後ろ姿)なのですが、ということは神社は墓石の前に立てられているのですが、この墓石へはぐるりと回り込むようにして辿り着くのだから、つまり墓石は神社に背を向けて立っている形となる。(宝篋塔に前と後ろがあるのか知りませんが)。で、当然あの社殿の中には墓石とは別の神様の本体が入っているのでしょうが。

というわけで皆さん、井伊谷宮に来るのは正月に限りますよ!
お墓に参拝できますから!!
(※ただし関連グッズ売り場がお守りやおみくじばかりになってしまって、幾多の宗良親王グッズは手に入れられなくなります。宗良親王の私家集である『李花集』が手に入れられるのは、日本でもここだけ!)

ちなみに墓石には「冷湛寺殿」という字が彫ってありますよ。
もちろん「冷湛寺」は「龍譚寺」のことでしょうが、親王が冷淡な人だったみたいでオカシイ。この親王ほど熱い心のお人はおられなかったのに。

はっ、でも龍譚寺のサイトに、龍譚寺がそれまでの自浄寺という名前から龍譚寺って名前に改められたのは、戦国時代に井伊直盛(直政の2代前)が死んでからって書いてあったような気が。

まぁいいや、
宗良親王が神様を歌った歌。
・すはの海や氷をふみて渡る世も神しまもらはあやうからめや
    (「すわ!」という状況の連続を、薄氷を踏むような心境でここまで来たが、神様
     を信じる心さえ護っていれば、まあ、なんとかなったものだ)
・すはのうみやみきわの氷ふみわけて神も道ある世には迷はす
    (厳しい世でも、身を切る覚悟で進め。道さえあれば神様も迷わない)
・そのかみに祈りし末のいかなればかけはなるらむかもの河浪
    (大昔に想像した未来が、なんでこんなかけ離れたものになってしまったのだ。
     鴨川のほとりの宮殿はどこに流されてしまったの?賭けは負けなの? 神様のバカ!)

これを見ると、宗良親王には古来の神々に対する思いはなんとなく希薄なものだったみたい。
(だって天台座主だった人ですもん。仏法に対する思いは人一倍だったのですが)
まさか自分が神様となって祀られようとは、思ってもなかったに違いない。

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