オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

総括関ヶ原。

2018年08月08日 07時10分55秒 |   神君家康


津川雅彦氏が亡くなったんですって。
私にとって一番楽しかったNHKの大河ドラマは2000年の『葵 徳川三代』で、
津川氏演ずる徳川家康は、
私の中の徳川家康の理想像だったので、
とても悲しい。とてつもなく悲しい。
・・・悲しい。



石田三成の江守徹氏はまだご健在ですね。




「しめたッ!」
石田三成が要害の大垣城を捨てて関ヶ原に移ったということを聞いた津川雅彦氏と本多忠勝。



石田三成の使者 「ご助勢お願いいたす」
島津豊久 「なんじゃとこの野郎、ぶち殺すっぞ!!」



安国寺恵瓊の使者 「戦さは今たけなわでござる! 直ちに兵を進めよとの毛利秀元公のお下知にござる!」
関ヶ原には昼食を食べるだけに来た吉川広家 「オレは今から弁当を食う!」

・・・おもしろいなあ!

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絵で見る名誉革命。

2015年10月25日 18時59分41秒 |   神君家康


浜松駅の付近で働くようになってはや十日。
せっかくここで暮らすことになったんですから(※住んでいるのは気賀ですけど)、折りを見て周辺各所をうろつきまわるようにしているんですが、「へんな町だなー」という思いが日に日に大きくなってきております。

今日は「第2回家康公祭り」の日でした。家康公祭りは第2回ですが(1回目は来ていない)、同時開催の「浜松パワーフードの祭典 家康楽市」(春秋開催)は第8回目なんですって。そっちは以前一度行ったことがある。
今年はももクロの人が来るそうで、せっかくなので見に行ってきました。なんせわたくし大のももクロ好きだから。(そうだっけ)



でもやっぱり人で一杯で、私のカメラ(←ズーム機能を捨てている機種)ではほとんど撮影はムリでしたよ。とほほ。





ももくろの人は2回か3回ぐらい登場したそうですが、私は近所を歩き回っていたので、見られたのは最後の閉会式の時だけでした。


今回の家康楽市が前回と違うと思ったのは、ステージが3ヶ所か4ヶ所ぐらいに設営されていて、それぞれ同時にイベントがなされていたこと。どの時間に何を見に行ったら良いのかさっぱりわからひん。(でもそれはそれで楽しいのかも)。人は数年前のより遙かに多いように感じました。

前回見た時に「おもしろい」と思った井伊直政と直虎の劇をする劇団が今回もまた家康劇をしていたのは嬉しく思いましたが、別会場では別の劇団が別の直虎劇をしていて、なかなか充実していました。(合戦場面では本物の馬を何頭も使っていました)。三河の武将隊は今回は来ていませんでした(たぶん)。







井伊次郎法師直虎(左)が主人公で、主要人物として夏目次郎吉信(=三河武士の代表)とか松下嘉兵衛之綱(=遠江武士の代表)とかが出てくるマニアックな劇でした。

この劇とは別におもしろかったのが、浜松で自前で「浜松武将隊」というのが結成されてたそうで(結成は2015年4月だそうな)、だからあのやたらとかっこいい岡崎の武将隊が来なかったらしいこと。「ちょっと前に盛んに武将隊ブームとかあったなー」とか思ったんだけど(今は全国の武将隊ってどうなっているんでしょう?)、浜松の場合、女性ばかりで「徳川四天王」に扮した5人。5人いるのに四天王。浜松の場合の「徳川四天王」とは「本多平八郎忠勝」「酒井海老掬い忠次」「榊原小平太康政」「井伊万千代直政」と「サキさん」だそうです。



もう忘れちゃったけど、緑が忠勝で赤が直政、とすると青が榊原で紫が太鼓の忠次だったかなあ。
で、「“サキさん”って誰だよ、本多作左(さきざ)かよ」と思ったんですが、しばらく眺めていますと、司会役を務めているこの“サキさん”がとりわけ素晴らしい。またたくまにファンになってしまいました。







「甲斐の武田のひしまるくん」とか「岐阜ののぶさま。」とか「徳川三姉妹」とか、今年もいましたよ。
「徳川三姉妹」とは「亀姫」「督姫」「振姫」の三人です。再来年の大河風ホームドラマでは重要な役割を果たす3人でしょうから、名前を覚えといてくださいね。「督姫」(=家康の次女)と「徳姫」(=信長の長女、信康の嫁、五徳)ってまぎらわしいね。

 亀姫・・・徳川家康の長女。長篠の合戦で奥平信昌への景賞品とされた。
    浜松餃子を愛するあまり、嫌系本多氏を叩き落とす「宇都宮釣り天丼事件」を演出した。
    亀姫の別名は「加納御前」なのですが、これは奥平信昌の滨松での居所が「天狗の叶坊」(現・三組町秋葉神社)だったからなのでしょうな。(※違います。慶長6年に奥平信昌が美濃加納藩10万石の主となったからです。)
 督姫・・・北条氏直の妻。次いで池田輝政に嫁ぐ。おいしい饅頭が大好きでした。
 振姫・・・蒲生氏郷の息子、次いで浅野長晟に嫁す。彼女は結婚相手をとことん出世させることに運命を懸けた。みかんが大好き。
 ちなみに言うと、徳川家康の制式な娘は5人います。


「食の祭典」ですからまた「浜松グルメ」もいろいろ食べてみようと思ったんですけど、昨今の政情を反映してか「鰻グルメ」が極端に減っていたのが寂しいね。浜松と言ったらウナギ、ウナギと言ったら決して「=蒲焼き」ばかりでなく、いろんな調理法のある好食材なのに。

食べたのは、



弁天島山本亭/太助のスッポンスープ(200円)。



200円なのに意外と具だくさんで、でも私は普段から普通に精力絶倫なので、あんまり効果は感じませんでした。
それからクマールさんのカレー。
インド出身のクマールさんは浜松で3店舗を展開していて、私はサンストリート浜北のクマールさんのカレーはよく食べてるんだけど、他のクマールさんはよく知らなかった。カレーナン(800円)とサモサ(500円)を注文。





やたらと会話が達者で楽しかったんですけど、帰ってから写真で確認したら、あの人がクマールさん本人だったんですね。へぇ。


クマールさん。



サモサとは、いわゆる“インド餃子”です。中身はじゃがたら芋。
実はこれに付けられているカレー汁が一番辛くて一番旨かった。



「食の三方ヶ原合戦」、山梨県出品物「こうふ食(く)ほうとう」(300円)。
運良く私の一杯が最後の一杯だったんですって。おいしかった。ほうとう大好き。



今回食べたのはこれだけでした。



さて、濱松城です。



家康楽市とは同時開催で、滨松城では「甦る!若き日の家康公展」「家康公四百年祭 家康公の城展示館」がおこなわれておりました。
個人的にわたくしは浜松城を「全国的に希有の城」と思っていて、その細部を見るのが楽しく、自分が思っている魅力をいろんな機会でいろんな人に語っているのですが、あんまり理解されたことがない。みんな浜松城を「ちっちゃくてつまらない城」と思ってるんですね。さみしい。



わたくしがとりわけ面白く思っているのは、城の北部にあったとされる「深沼部」のところの構造と、城の各所に散りばめられている意味ありげな地名です。「深沼」は江戸時代初期の頃の絵図ではすでに「田」「深田」となってるんですけど家康公時代にはどんな感じだったのでしょうか。家康も吉晴もこっち方面には何も造ってない(でも対信玄を考えると最前面だ)のを考えると、かなり厳しい自然の要害だったはずなのですよね。現在はここに浜松コンコルドがそびえていて、また、いつも家康楽市がおこなわれている広場(駐車場)も家康劇がおこなわれる芝生広場も日本庭園も実は浜松城の域外であって、昔は「深沼」「深田」。
浜松城にちりばめてある珍地名とは、「天守曲輪(天主があるのに本丸ではない)」、「清水曲輪(作左曲輪とか鳥居曲輪とかはわかるが、なんだ清水曲輪って)」、「蛇屋敷」、「樹木屋敷」、「お誕生屋敷(二代将軍秀忠の生まれた場所とされているが、秀忠には別に分器稲荷の近くにも御誕生場(別名・樹木屋敷)がある。この樹木屋敷は旧引馬城にある樹木屋敷とは別。影武者伝説・双子伝説の豊富な家康や秀康にならって秀忠も3人ぐらいいたのかもしれない)」、「菱櫓(歪んだ形の櫓だが、江戸時代にはこの櫓が天主の代わりとされた)」、「玄黙口(この地名の元になったと言われる玄黙寺の詳細は不明である。実は「信玄が黙る」という意味では無いだろうか)」、「下垂口」、「御成厩」、「西の羽城(城の重心部は東側にあるということを示す地名)」、「ハチ蔵」、「銭櫓」、「鉄門」、「榎門」、「埋門」などなど。
帯刀先生の松江城にはこれに類する地名が無いので、全部家康由来の語句なのだと思います。(駿府城にもないけど)。浜松城の「蛇屋敷」の謎を考察するだけで数時間楽しい。


浜松って、ようやく家康を3D化することに腰を上げてきましたね。
観光イメージって、とにかく「目に残る物を造ってしまえばこっちのもの」なんですよ。
それは昭和の中頃に一旦完成された手法。
でも、今現在の浜松市はまだまだ試行錯誤の過程にあるようだ。



これはとても良いと思う。
私の脳内にある「濱松城時代の家康公の肖像」のイメージに最も近い。
せっかくなので、いろいろな角度から。









いろんな意味の込められた表情で、とても良いですね。


参考までに、これまで浜松市が作った肖像。







一定していない。

また、会場内で売られていた小冊子『徳川家康公顕彰四百年記念事業 浜松部会記念誌 若き日の家康公、現る!』(400年記念を記念して400円)がすばらしい。浜松人の知らないところで数十年掛けて浜松市は浜松城を調査しているそうですが、これまでわかりやすい紹介誌はなかなか無かった。今回のこれはとてもよい。滨松城調査の現況がとてもよくわかるしページは充実してるし、今まで浜松にあったものの中で最も良くて理想的な滨松城史の概況書になっています。浜松市は圖版を使い回すのが常でまたいづれ近いうちに別形態の形で編纂され直すと思いますが、今次点で最も手の込んだ集大成になってますし、400円はなんと言っても安い。しばらくの間は滨松城で売られていると思いますので、今のうちに買っておくのが吉。(私も3冊買っときました)

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可睡斎と徳川家康。

2015年03月04日 18時39分41秒 |   神君家康


天気がとても良かったので、袋井市の可睡斎に行ってきました。
とても好きなお寺なのですけど、来るのはいつぐらいぶりなのだろう。可睡斎と秋葉山は私にとって何にも変えられない聖地です。もっと頻繁に折りを見つけて来なくてはなりません。私がいま現在こんなに健康なのは、8年前に秋葉様に無心に祈ったおかげなのですから。

行ってみますと、以前には無かった標識が山門前に建っていた。
「徳川家康公深きゆかりの禅寺」ですって。
確かにゆかりは深いが、家康公が何度この寺に来たことがあるのかは定かではない。
よく見ますと、「家康公歿四百年記念」と書いてありますので、今年建てたばかりの物なようです。

今年は浜松市は一生懸命に「家康イヤー」を盛り上げようとしているのですけど、袋井市でも動きがあったのですね。嬉しいですね。
公式サイトを見ると「徳川家康公顕彰四百年記念事業」は「静岡部会」と「浜松部会」「岡崎部会」と「静岡県部会」の4部制になっていたのでした。なるほどね。



「徳川家康公ゆかりの可睡斎ひなまつり」。
「家康とひなまつりに何かまつわる逸話ってあったっけ?」と思ったのですけど、この家康公「ゆかりの」は「ひなまつり」ではなく「可睡斎」にかかる修飾語。



可睡斎は天狗の御真殿にお参りするだけでしたら拝観無料ですが(駐車場代は300円)、ひなかざりや牡丹園を見ようとすると500円かかります。























案外私のカメラ(XQ1)はこういう場所は苦手でした。



でも前回来たときの写真を見返すと、もっとひどかったので、これで良いこととする。









わたし、牡丹の花ってひどく好きかも。




キンキラキンの額の裏側には「明治十九年六月 二品熾仁親王書」と書かれています。
有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王は個人的に好きな歴史人物です。
(ただし本当はこの年のこの月、熾仁親王は一品に昇叙している)
「アリス川」ってのが不思議の国っぽいですよね。その悲恋のアリスの人が征東軍を率いたんです。
15年ぐらい前に「ニセ有栖川宮事件」てありましたよね。
問題は、この額が本堂(本尊聖観音)ではなくて御真殿(秋葉山三尺坊)の前に掲げられていることで。
この寺にとって本堂と御真殿はどちらが本体なのだろう?



記憶が定かで無いのですけど、この見事なお面も以前は無かったような気がする。鼻に何本も掛かっている細い縄のわっかは「三尺坊の願いのこもった念珠」だそうでこの効験は極めて鮮やか、お値段300円だそうです。



なんと4月11日から秘伝の三尺坊像のご開帳が始まるそうで、一瞬「しまった!」と思ったのですが(またしばらく来ないだろうから)、よく考えるとわたし、これ以前に見たことありますね。


さてさて、
前回来たときに私は書きました。
徳川家康が可睡和尚と初めて会ったのはいつでどこだったのかということについてです。

「調べてみると、この逸話は相当胡散臭いですぞ。
お寺には「このお寺が窮地の家康を救った」然と書かれておりますが、家康が仙麟等膳に可睡斎を与えたのは家康の浜松移住後です。つまり、幼い家康をこの寺で救うことは不可能」

この記述は、当時、可睡斎の公式サイトにそういう説明があり、実は現在でもウィキペディアにはその記述に従った文章が残っているのですけど、だいぶ前にその説明はサイトから撤去されており、今回行ったら出世六の字穴前の看板も新しい立派なものに変わっておりました。



無難・・・。
“伝説の一つとして”武田軍に追われた少年竹千代が父広忠と共に袋井のこの穴に逃げ込んだという話はとても微笑ましいので、その記述が無くなってしまったのはとても惜しいです。「出世六文字」もなんか哲学的な説明になってしまいましたね。

で、現在のお寺の見解はどうなっているのかというと、そもそもの見解がなんとかどうとかいうものでなく、もともと御真殿の前にこういう石碑が立っているんですよね。(明治30年の建立)



写真だとさっぱりわからないでしょうけど、可睡斎の由来がみっちり書いてあります。
漢文みっちりなのでこれまでは素通りしていましたけど、今日は敢えて読んでみます。ヒマだからな。

大意
「旧記によると、家康公が幼時駿府で人質になっていたとき、増善寺に等膳がいて家康と等膳の二人は仲良くなった。等膳は石橋氏の出身でその父は五右衛門尉といい、伊勢の国・篠島に住んでいた。家康公が駿府を脱出して国に帰ろうとしたとき等膳に相談し、等膳はその父に相談した。等膳の父は自分の一族の船に商売の装いをさせて清水港に入港した。等膳は家康公を葛籠に盛り、背負って間道を駆け、船に乗せて篠島へ逃がした。家康公はやがて岡崎城に帰ることができ、壮年になって浜松城に移ったとき、等膳が妙見斎の住持として篠島にあることを聞いて、急いで彼を篠島から呼んで感謝を述べた。親しく話し合っているうち、等膳は昏昏としてしまった。公はそれを見て笑って言った。すごく遠い所から来たんだから睡くなるのは当たり前だ。眠ってもいいんだよ。こうして目の前で寝てしまったのも私を子同然に思っていてくれるからだ。無二の絆を感じる。馬を賜て寝たまま帰ってもらいたいが、篠島は遠すぎる。東久野の地に東陽軒の跡があるので、そこに寺を建てて住職となるように・・・(後略)」

・・・なんだこれ。
とにかく私が以前抱いた「可睡和尚は幼い家康をどこで助けたのか?」という疑問のうち、選択肢①.静岡で助けた ②.伊勢篠島で助けた ③.袋井で助けた の中で、①番と②番の両方が正解だったのでした。(明治30年の時点では)。要は篠島に伝わる伝説(※参考)と駿府に伝わる伝説を両方組み合わせたって事ですよね。この伝説だと等膳その人よりも等膳の父とその一族の方が功が大きく、その後石橋氏が大名か高家になってる位でも良いと思うんですけど(そんな事実はない)、明治の時点では松平広忠の事跡は篠島でもそんなに知られていなかったのか(家康の父・広忠も篠島の石橋氏に助けられたことがある)、可睡斎においてはすべてがごっちゃに混じり合ってしまって、昭和末期に「出世六の字穴において、武田軍に追われた広忠と家康が隠れて、その後出世した」というものになってしまったのですね(おそらく)
でもそもそも「少年時代の家康が駿府から逃げた」という事実は無いので、実のところ等膳和尚がどこで家康を助けたのかは結局不明なのです。家康が篠島に行ったことがあるっていうのは本当なんですかね。
「等膳の父が家康の父を掛塚で助けた故事が転化したのか?」とも思うのですけど、とすると家康本人がそんなに可睡和尚に恩と信頼を持つ意味がよく分からなくなりますし。
なお、「武田軍に追われた家康が出世六の字穴に逃げ込んだ」というのはこれとは全然別のエピソードです。おそらく家康30歳ぐらいの頃の話でしょう。
それにしても篠島って伊勢国なのですね。義良親王伝説のある日間賀島と合わせていつか行こうと企んでいるのですが。



以前は崩れかけて危険だった「出世六の字穴」も、今は整えられて中を覗けるようにライトアップされています(入れませんけど)。改めて見ますと、鎌倉の護良親王の土牢のように、地下一階がありそうな雰囲気ですね。





可睡斎側は今後も「徳川家康公ゆかり」を強調していくようです。




せっかくなので、そこから10分の久野城にも行ってみました。
東名高速道路を走っていると大きな看板が目に入るので、場所はよく知っているんですけどこれまで一度も行ったことの無かったお城です。

久野(くの)氏というのは徳川家康の遠州獲りに際して大きな役割を果たした一族で、舘山寺の大沢氏や井伊谷の井伊氏と違い、久野宗能という人は最初から全面的に家康の味方をしたので家康はとても助かった。(とはいえ久野氏の内部では親徳川派の宗能と、親今川派の叔父の宗益の間には内紛があり、宗能留守中にクーデターが起ころうとしたこともあります)。ともかく久野宗能は家康が心から信頼した数少ない遠江武士の一人。



こっちの看板がいつも東名から見える看板ですね。
城で一番高い本丸の位置に立っています。




写真じゃ全然表現できないのですけど、歩き回ってみると起伏に富んでいて、曲輪がはっきりしていて、とても面白い城です。事前に勝手にしていた予想より遙かに大きかったです。





このあたりが「主税(ちから)屋敷」のあたり。下の屋敷。

さてさて、この付近で一番の勢力と言ったら、掛川城にいる朝比奈氏や小笠山にいる小笠原氏です。
大手門も東海道のある南方向では無くて、掛川城・駿府城のある東方面についているのですが、築城当時は掛川城・駿府城は重要な味方でした。たとえば浜松城の場合、浜松城の南側に大手門が付いていて南の東海道に臨んでいるのですが、浜松城の敵(武田軍)は常に北からやってきました。浜松城の戦闘的な主要門は搦め手(玄黙門)だったと思います。久野城の仮想敵とはどちらから来るものだったのでしょう。築城当時はいざしらず、宗能の時期には北からも西からも東からも敵が来ることが考えられましたから、父と兄の死によっていきなり名家の当主となった宗能は大変だったでしょうね。

城の南側に「高見」と題された曲輪があり、太平洋方向を見張るかせるようになっていますが、高見よりも本丸の方が高いので、本丸の方が眺望が良かったはずです。そもそもこのあたりの地形は起伏に富んでいて(丘ばかりで)本丸からでも敵方の動きなんてさっぱりわからなかったでしょう。



本丸から見る東名高速道路。現在は久野城の南に「シンドラーエレベーターの塔」が立っていて、そちらの方が物見の役にふさわしかろう。(でもシンドラーエレベータは眺望塔ではありません)。久野城からは小笠山がよく見えました。反対側の可睡斎のある丘はよくわかりませんでした。



とにかく、歩いていてとても楽しいお城でした。徳川家康史っておもしろいですね。




ついでなので、掛川駅のすぐ近くにある「ジェット家」にも行ってみました。
2012年9月開店のお店ですけど、こんなに家系を愛する私がなぜかこの店にはまだ来たことが無くて、忸怩としていたのでした。
定休日が不定なのだそうですけど、蔵前家と同じく11時から22時まで通しで営業しているのがありがたいです。この日は16時ぐらいに訪問。蔵前家もこのぐらいの時間が一番好みなのです。

噂には聞いてましたけど、店主がかなり不思議な雰囲気です。最初店の人なのか全然別の人なのか戸惑ってしまったくらい。
チャーシュー麺(800円)に海苔(100円)をトッピングして注文してみました。
麺は酒井製麺、海苔も横浜の丸曽根だそうです。

見てますと、本当に丁寧にラーメンを作っています。
こんなに長く麺を揉んでいる店、初めて見ました。

そしてビックリ、ゆで上がった麺を上げるとき、それまでまったく無言だった店主が麺に語りかけ始めたのです。盛りつけるとき、チャーシューにもさかんに語りかけています。それで一気にこの店主が好きになりました。



店主はチャーシューよりも先に海苔を入れました。また、作業台には沢山のチャーシューを入れたドンブリがあるのですが、店主はわざわざ奥から新しい肉の塊を持ってきて丁寧に切り分け、切ったばかりのを私の丼に入れました。(作業台のはいつ使うの?)。そして菠薐草はトッピングしていないのにこの量。とにかく具材の存在感の大きいラーメンです。



スープを飲んでみる。
圧倒的に支配しているのが鶏油。事前にたっぷり入れていた。その奥に控える醤油味。こよなく愛する吉田家の醤油味に似ていてとても好みでしたが、吉田家と違ってそんなにしょっぱくない。とにかくまろやかさを打ち出す初期の蔵前家とは全然正反対の思想でした。



麺は柔らかめ。具材の存在感が大きく、とりわけチャーシューの食いでのありといったら。チャーシューはやや肉臭くシーチキンぽい味わいの物で、好きなタイプでした。海苔も油にとても良く合う。ただし、具材全体がとても見事すぎて、スープをすぐにぬるくしてしまったのが残念だった。ほうれん草の匂いがとても気になりました。
全体的に、最初の一口と最後の一口がとても美味しいラーメンでした。この醤油の強さはまた食べに来たい。でもその後一晩、ラーメンの油が脳にまとわりついていました。後味がずっと引く。
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家康楽市。

2014年04月26日 17時40分06秒 |   神君家康

<2014年3月26日に竣工したばかりの浜松城天守門>

足のケガが完治しました。もうどこも痛くありません。
浜松城公園で2日間にかけて「家康楽市」というのをやるというので見に行ってきました。
今回で第5回目だそうです。



浜松に越してきたばかりのころ「浜松人は誰も歴史に興味が無い」「徳川家康が浜松にいたことすら知らない人の方が多いと思う(みんなどうでも良いと思っている)」と独りでプンプンしていたことを懐かしく思い出します。一体、こんなに「家康、家康」「出世、出世」とばかり言う町になってしまうだなんて、どこの私が予想したでしょうか。昨年の出世大名家康くんの茶番は関心が無かった私ですら背中が痒くなりましたが、まあ、終わってみれば良かった出来事だったと思います。

「浜松産 食のイベント 家康楽市 In 浜松出世城」は「春の陣」と「秋の陣」が行われるそうで、つまり第5回目の今年は3年目だということです。
すべては「浜松福市長 うなぎイヌ」が政変により失脚し、「出世大名家康くん」が出世を果たした2011年以降のブームですよね。家康くんはゆるキャラとしてはけっこう遅出だったイメージがありますけど、ゆるキャラブームってまだ継続してるんですか?







10時ぐらいに会場に着きますとやってましたのが武将隊のショー。
浜松には武将隊がいませんで、この方々は岡崎市の武将隊。「グレート家康公「葵」武将隊」といって、はるばる武将の名産地の岡崎からやってきてくださったそうです。とは言っても肝心のグレート家康公は来ておられませんで、今日いた3人は、左から服部半蔵、酒井忠次、赤い人がわれらが浜松出身の人斬り兵部だとか。まぁ、井伊直政公が来てれば浜松的には万事良い気がしますけど、榊原康政も本多忠勝も岡崎よりも浜松の方でより活躍したのにね、プリプリ、とか思ってましたら、HP見たら井伊直政も酒井忠次も14時に岡崎城の公演に出演することになってる。13時ぐらいまで浜松にいたような気がするんですけど、四天王も大変ね。(※よく見たら、わかりづらいところに3人は浜松にいると書いてありました)
これはどうも、浜松にも自前の武将隊が欲しいですよねえ。井伊直政(※浜松出身者)は必須として、井伊谷三人衆(※浜松出身者ではない)と大沢基胤(※浜松出身者)と飯尾連龍(※浜松出身者)とその妻・椿姫(※フランス人)と叶坊光幡(※浜松出身者ではない)あたりを入れて。(←地味ね)。朝比奈とか小原とかもいいですねえ。



岡崎の井伊直政はかっこいい。



2日目(4/27)の武将隊は、酒井忠次が抜けて、井伊直政、服部半蔵、榊原康政(=右のヒゲ男)の3人が来てくれていました。改めて、武将隊はすごいです。こんなに動きにくそうな衣装なのに、歌って踊って飛び跳ねられる訓練を存分にしていることが見て取れました。更に全員がそれぞれ交代で司会ができる話術も身につけているみたい。おっかけらしき人もたくさんいて、本当に彼らはアイドルなんだなと思った。




面白いと思ったのは、会場に何人も家康公がいたことで、



この人(真ん中の黒い歯朶具足の人)は何かの重鎮らしくて、ずっと会場を威厳を保って歩き続けていた。何の人なんだろ?



「徳川三姫」と一緒に。



浜松ではまだ家康くんは大人気。家康くんふわふわ、おこさま200円。



金陀美鎧の家康公はなんと神谷昌志氏と歴史講座をやっておられた。
神谷昌志という方は浜松歴史界のスーパースター。昭和4年生まれですから今年85歳になられるのですが、話は明晰でとても力強く、つくづく元気だ。わたくし、ほっとして泣きそうになってしまいましたよ。実物を拝見するのは初めてですけど。



最後に『井伊直政誕生物語』という劇(劇団砂喰社)という劇があり、そこに出てきた徳川家康。この役者さんがすごく良かった。声がとっても良い。でもこの役者さんはメインイベントである『三方原合戦』では武田方の指揮官をやってました。かっこよかった。3週間前に行った細江の姫様道中でも井伊直政の劇をやってましたので、同じ劇団の方かと思ったら違った。一つの町で違う劇団がそれぞれ井伊家の物語を語り伝えているとは、とても頼もしいことだと思いました。それぞれの劇団は全然別の語り口と描写でありましたよ。今回の砂喰社は井伊直虎の誕生(1550年頃)から関ヶ原の戦い(1600年)までをわずか40分で描写していて、こんなごちゃごちゃした時代を40分で収めるのは凄い、と思いました。細江の劇では井伊谷三人衆と悪家老の小野但馬守に光を当ててましたが、こっちのそこの部分をバッサリと斬ってました。それも良かったと思います。今川氏真役の役者さんがとても愛らしい方でした。

ゆるキャラと、そんなにゆるくないマスコットキャラクターもいっぱいいました。



一番頑張っていたように見えたのが地元・遠州信用金庫の福理事長・えんちゃん。
おなかにポケットがあるので有袋類かと思われますが、公式サイトを見ても「秘密にしてね」としか書かれていないので謎のキャラクターであります。ただ、サイトのイラストを見る限り(このグルミの見た目からは想像できないんですけど)この子は羊ですね。「なんで浜松に羊?」と思うし有袋類に羊はいないんですけど、ほら、浜松の工業力の源は明治期の繊維業にありましたから、それと関係していると思われます。お腹の袋は遠信の勢力圏の東限が「袋井」であることを示しているのかしら。キャラは本当は蚕の方が良かったんでしょうけど虫はグロいですからね。意外と天竜の方ではジンギスカンも名産ですよ。



浜松と言ったらやっぱり鰻で、丸塚町にあるという「鰻菜詩」の福店長・うなしー。
横のこのお姉様は私がカメラを構えて待機してましたら撮って撮ってと強要してくださった。やたらと知らない他人に対してアグレッシブなのも浜松風であります。



この祭りは「三方ヶ原の合戦を食の文化の上で再現する」ということを掲げておりまして、山梨県のキャラクターもたくさん来ておったのです。甲府のB級グルメ「鳥もつ」のキャラクター、“縁をとりもつ”くん。



山梨名物ほうとうのキャラクターはフーリン(風林)ちゃんとカザーン(火山)ちゃんですって。



御殿場市からは、「富士山樹空の森」のじゅくうちゃんと「御殿場みくりやそば」の“みくりやんがすきー犬”。「ミクリヤンがスキー」とは「シベリアンハスキー」にちなんでいるんですって。ガスキーが手に持っているのは釘を打った棍棒ではなく山芋だそうです。御殿場は世紀末都市なのかと思っちゃいましたよ。どうして浜松と御殿場市が? という点についてはなんか説明してくださっていたんですけど、失念してしまいました。樹空の森というのも聞いたことの無い施設ですけど、3年ぐらい前に誕生した場所だそうで、御殿場の自衛隊が絡んだ公園のようですから、軍事繋がりの話なのかも知れない。「みくりやそば」のPRのために御殿場の役場の方々が有志で来ているのだそうです。大変だ。



これは「ポッカレモン」の忍者キャラ“レモンじゃ”ですね。最近毎晩の私のお供「二階堂の檸檬コーラ割」にポッカレモンは欠かせませんから、レモンじゃには抱きつきたい気分だ。でも、そのとなりにいたこの子は何者なんでしょう? 浜松ってなんかレモンと関係ありましたっけ?





2日間にかけて行われた「ゆるキャラ城落とし合戦」では、出世大名家康くんと公益社団法人やまなし観光推進機構の武田菱丸くんと彦根のひこにゃんが。
この祭りは「食の三方ヶ原合戦」を謳っているので、毎年2回欠かさず武田菱丸君は浜松まで来てくれているそうです。さすが行動力に溢れる武田氏!
祭りは2日間にかけて行われるので「城落とし合戦」も1日目と2日目の2回行われ、今年は第5回のお祭りなので、城落とし合戦は通算第9回戦と第10回戦だったそうです。家康くんと菱丸くんはとても仲が悪く(という設定で)ゆるキャラとしては大先輩であるひこにゃんが仲裁役をつとめるという変な展開。三方ヶ原合戦のとき井伊直政って9歳だったんですけどね。というか、ひこにゃんって井伊直政の息子の井伊直孝がモチーフじゃなかったでしたっけ。

そこに、さらに岐阜市の織田信長キャラの「のぶさま。」と彦根市の「石田三成」(右)と「島左近」が応援にかけつけるという、不思議な不思議な三方原合戦。







「城落とし合戦」というのは浜松でだけ昔から見られる風習で、小学校の運動会で騎馬戦&玉入れのかわりにおこなわれるものだそうです。「浜松で」とはいっても隣市の旧浜北市では見たことも聞いたことも無いものでしたよ。でも、記録では最古の記録は雄踏小学校の昭和15年だそうです。ボールを投げてお城の模型に当て(※中に火薬が仕込んである)相手よりも先にそれを爆発させた方が勝ちなのだそうです。「浜松楽市」では徳川軍と武田軍に分かれて過去8回城落とし合戦をしたのですが、これまで徳川方が1勝7敗なのだそうです。武田軍は圧倒的に強い。で、今回行われた2回戦でも、両日とも武田軍の勝ち(笑)。浜松は累計1勝9敗。なんと、ここまで史実に忠実なお祭りなんですね、岐阜の信長様も満足だと思います。
決して作為的に武田軍が勝つようになっているわけではなく、実は合戦に参加している子供達はみんな浜松の子供たちなので、無邪気に城攻めをしてるんですけど、徳川軍(白軍)の子供たちもちゃんと頑張ってるのに、どうしても武田(赤軍)の方が勝ってしまうというのが、見ていてほほえましいものでした。このまま今後も毎年武田が勝ち続けて欲しい、そう思います。

武田軍の子供たちもみんな「家康くん」の帽子をかぶっているのがなかなか。



歴史的に実際に爆破戦のあった城郭は湖西市の宇津山城攻防戦(1568年)。
三方ヶ原合戦(1573年)は城の取り合いの戦いではありませんでした。それに先立つ宇津山城の戦いの故事こそが三河及び遠州での手筒花火文化の起源の一端を担っていると私は考えています。いづれ闘将浜松市が現・湖西市を倒し(合併して)さらなる出世を果たしたあかつきには、是非とも宇津山戦の爆破の史実を再現してもらいたいものですよね。



「徳川三姫」というのは、お城の近くの貸衣装屋さんが毎回選定しているものだそうです。この着物はとっても高価な物だとのことです。中のモデルさんは近くの芸術系の学校の学生さんだとか。右から、長女・亀姫(母は築山御前)、次女・督姫(母は西郡の局)、三女・振姫(母はお竹の方)ですって。家康には娘が5人いたんですけど、3人しか選ばれないのは、家康の浜松城時代に誕生していたのがこの3人だけだったからだと思われます。というか家康ってすごいです。長女・亀姫は駿府で、次女・督姫は岡崎城で、三女・振姫は浜松城で、四女・松姫は伏見城で、五女・市姫は駿府城で、ちゃんと産み分けている。(市姫が江戸城で生まれていれば完璧だったのに)。亀姫と振姫の姉妹は15歳の年齢差があったそうです。長女亀姫と末妹市姫は47歳差。天下人の娘も大変だ。





三女の振姫のみが浜松ゆかりの姫ってことですね。
でも振姫の母の竹の方は武田家に縁のある女性。(穴山氏の傍系の娘)。神谷昌志氏の御本によりますとお竹の方が家康の側室となる2年前(1580年←天目山の戦いの2年前)に振姫は生誕したそうであります。どうなってるんだ?



お子様に井伊の赤備えを100円で貸し出すコーナーもあり、また大人でも和服で会場を訪れれば各店舗でいろいろと特典が受けられるというイベントもやっていたそうで、全体的にコスプレ祭りのような雰囲気でした。



わたしが子供の頃にこんな祭りが近くであったら、狂喜乱舞して泣いて喜んだでしょうにねえ。(無かった)。さすがにこの歳になると感激も小さくなってしまっているのが悲しいところであります。



武田の菱丸くんはタヌキキャラかと思ったら、甲斐犬をモチーフにしているとのことでした。そりゃそうですよね、狸といったら徳川家康の専売特許ですし信玄公が狸になる理由がありませんものね。



岐阜ののぶさま。は頭の後ろに名札がつけてあって、ご当地キャラ初心者の私に優しかった。実はのぶさま。は犬や猫科のキャラではなくて、「狼」キャラなのだそうです。



武将姿の太鼓隊がいて、この方々はこの祭りの為に結成された浜松の方々で、今回が初お披露目だったそうですが、説明を聞いたら浜松の自衛隊の方々だそうでした。なんだよー、自衛隊は大嫌いだ。(←憲法に違反した存在だから)


こんな説明書きもありました。本当ですか?






さて、「食の祭典」なので、がんばっていろいろと食べて見ましたよ。



まず、憎っくき武田軍が誇るグルメ的万能栄養食、ほうとうから。300円。
う、うまい。私が毎日家で作っている鍋料理と同じ感じがしますが、家の鍋ではカボチャなんて入れはしませんからねえ。家の近くでほうとう麺売ってるところ無いかなー。(捜してないだけで静岡では普通に売ってる気もします)。豚は「甲州信玄豚」という銘柄だそうです。とりもっちゃんはいたのに、甲府名物・鳥もつを売っている店はありませんでした。痛風の私は鳥もつなんて食えないがなー。



われらが浜松を代表する食材といったら「うなぎ」。ロシア料理サモワァールの出店で、「うなぎピロシキ」(500円)を買ってみました。名前の通り、うなぎの入ったピロシキです。(鰻の入ってない普通のピロシキは250円で売られていた)。つまりうなぎ部分だけで250円ってことだ。



食べかけ写真でごめんあそばせ。ピロシキって旨いなぁ~。揚げた皮のところが信じられないくらい旨い。そして、ロシア料理ですらウナギを入れるだけで浜松料理となってしまうのですから、鰻とは偉大な食材です。サモワァールとは浜松駅のすぐ近くにあるお店で、小学生ぐらいのときよく連れて行ってもらった記憶がある。苺ジャムをたっぷり入れるロシア紅茶が大好きでした。大人になってからは一度も行ったことがありませんけど、少なくとも40年以上の歴史のあるお店ってことですよね。懐かしくなって「つぼやきキノコ」(600円)も注文してみました。



おおぅ、これこれ。小学生の頃、これが大好きだったなあ。中にはグラタン状のシチューが入っています。大人になってから(男のやもめなので)シチューやグラタンなんて何十年も食ったことないなあ。これは家庭科が醸す味だ。ほろりと悲しくなりました。これに鰻が入っていたらもっといいですネ。



続いて食べてみましたのが、サゴー浪漫館の「家康公の長寿めし」(400円)



食べ方を説明されずに渡されたのですけど、実は容器は二重になってまして、下の段には熱々のあんかけが入ってる。上の御飯をあんかけの中に投入して食べろ、ということなのかしら。いや「あんかけ」というのは上からかけるから「あんかけ」なのであって、これに逆に何かを入れられる場合はなんていうのかしら。あんかけられ? これが「家康めし」たる由縁は、家康公は常々長寿の秘訣を「麦と味噌」(あるいは具だくさんの味噌汁)だと語っていたからだそうです。麦、、、 五穀米?赤米?に見えますけどこれは麦飯なのでしょうか。味噌が焼き味噌だったらもっと家康っぽかったのになぁ。家康はあんかけは好きだったのかなあ。かけられあんの中には鰯のつみれがごろごろ入ってまして、とても美味しうございました。









続きまして、割烹みその(千歳町)の出店より、浜名湖名物・ふぐの唐揚げ(500円)。
サバフグですって。甘ーい甘酢がたっぷり絡めてあります。タコのげそ揚げもおまけして入れてくれました。ふぐは美味いですね。部位によってとても噛み応えのある箇所がある。3切れぐらい入っていました。



そのあとは、鰻料理店・鰻菜詩の出店から、うなぎコロッケ(150円)と鰻さつま揚げ(2枚100円)と鰻エキス入りスティックパイ(100円)と三色ウナギおにぎり(200円)を。
もう、ウナギと名前が付いていれば何でもいいと思っていますね。

コロッケはどこに鰻が入っているかわからなかった。



スティックはうなぎパイと共通するような風味。



さつま揚げめちゃくちゃおいしい。



このおにぎり(団子)も完成度が高かった。




“浜松新名物”弁天福まんじゅう。
(300円だったのですが、終わり近かったので200円にしてくれました)
実はこれが「食の三方原合戦」において甲斐の宝刀に対する浜松軍の今回の主力だったそうです。
「春野紅茶で煮た遠州夢ポークを、三方原のじゃがいもで包んだご当地グルメ」。
地元の食材ばかりを使った一品ってことですね。
浜名湖の要素がありませんが、どうして名前に「弁天島」が付いているのかといいますと
形が「弁天島の鳥居に沈む夕日を見立てました」
とのことです。
これを作ってるのが弁天島の有名な料理店「太助」であるからでもあります。

まんじゅうはほとんどジャガイモでして、箸で割ると中に豚の角煮が入っています。
うまい。あんの部分がうまい。
ごちそうさま。


・・・さすがにもう食べられません。
(※これらを2日にわたって食べました)
甲州と遠州の料理対決の勝敗がどうやってつけられるのか知りませんが、総じて美味しかった。
つくづく「浜松は食材の可能性に満ちている」と思いました。
似たようなイベントがあったら、ぜひまた行ってみましょう。





そうそう、浜松商工会の展示物がこれでした。
新しく、浜松五社神社(=徳川秀忠の産土神)と浜松八幡宮(=浜松全体の鎮守)の絵馬をスクエアエニックス社の『戦国ixa』の図柄にしたんだそうです(笑)。わざわざ公式の人に頼んで絵馬にしてもらったんですって。なお、ゲームでの徳川家康の図柄はすでに新型第三バージョン(駿府人質時代の家康公)に変更になっておりますよ。この絵馬の家康公は第二バージョン。

商工会では来年の「徳川家康公顕彰四百年祭」に向けて「浜松 闘将・家康プロジェクト~天下取り挑戦伝説~」というのをやっておるそうでして、興味深く見ていましたら商工会の若い人が熱く説明してくれました。曰く、浜松で家康が過ごした苦難の17年間が、その後泰平の300年を生み出したエネルギーの源である。商工会は壮年期の家康の闘気を浜松人にアピールすることで、今後の商工業の発展に繋げるつもりである、と。まるで昔のどこぞの私が考えていたようなことを・・・ こんな若い人がたくさんいるのなら浜松も安泰だ。浜松城天守閣も早く新しいのに建て替えて欲しいですね。

でもこの新型絵馬(ではなくて「出世手形」と書いてある)、1つ戰圓ですって。一般の絵馬に較べて倍ぐらい高い。



関係無いですが、今回のこのお祭りでわたくしの一番の収穫というのが、前からほしくてほしくてたまらなかった『伊豆の頼朝 史蹟と伝説』という本を、近くの古本屋で1000円で見付けたことでありました。この本、静岡県の図書館だったらどこでも置いてありますけど、静岡県田方地区文化財保護審議委員等連絡協議会の編纂で、要は非売の本だったんですよ。なんでこんな店にこんな美本が。この本は昭和54年のものですが、未だに伊豆の頼朝本の中で一番の集大成であります。これは次の伊豆行きがはかどりますぞ。
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『浜松城時代の徳川家康の研究』。

2010年01月28日 20時56分08秒 |   神君家康

サンストリート浜北の本屋さんで平積みされていたので、おっ、と思いました。
せっかくの浜松の町なのに、地元ならではという類書は無いので。
価格は2300円。わたくしにとっては少々高かったので、手にとって購入までに少しだけ悩みました。
ページは360頁でボリューム感はあります。
試しに家康の遠江侵入のクライマックスの堀江城の戦いのあたりの記述を読むと、いまいちサラッと流してる。「このくらいなら20年くらいかければ自分でだって調べられるかも」と思ったんですが、2年ぐらい前に作った家康年表が誤りだらけでちょうど作り直したいと思っていたこともあり、「えいやっ」と思って買ってしまいました。あとから思えば、このとき思い切っておいてとても良かった。これは私には常に傍らにある本となることでしょう。とても便利な本だったのでした。

著者の小楠和正氏にはこれまで『検証!三方原合戦』、『結城秀康の研究』などの著作があります。「~三方原合戦」は図書館で見た事ある。(機会が無くて手に取らなかったけど)。中学校の教諭を定年退職したあと浜松中央図書館に勤務した方だそうで。・・・ハッ! 文章の組み立て方が似てるので、以前に浜松中央図書館で貰ってきた極めて充実したパンフレットはこの方が書いたんじゃッ!? ・・・と思ったんですが、でもやはりしかし『三方原合戦展』のパンフレットの中で『検証!三方原合戦』は参照本のひとつに挙げられていて、その記述の仕方が当事者ではない書き方だったような気もしたな。残念ながらその5冊のパンフレット、本棚のどこかに大事に仕舞ってしまったらしくて、いま手元に無くて確認できないんですけど。
家に帰って奥付をみると、、、 出版社名が無い、、、、。
自費出版だったんですね。これは頭が下がります。
自費出版でこの体裁で2300円はかなり大変なんじゃないかと。
今の浜松にはこういうのを世に出そうという本屋さんが無いんですよね。

浜松に住んでいた26歳から44歳までの17年間は戦いの連続です。でも「姉川の戦い」と「三方ヶ原の戦い」と「長篠の戦い」以外は勝ったり負けたりの地味な小競り合い続きなので、地元浜松でも「家康はいつも負けていた」「家康はいつも逃げていた」というだけで片づける事が多い。そのひとつひとつの出来事について、詳しく検証してくれているのがこの御本なのです。
この時代の家康について語っている資料はとても少ないんだそうですね。良質な本として名が挙げられる事の多い『家忠日記』、『三河物語』、『信長公記』、『甲陽軍艦』でも書かれていることがしばしば食い違っている。それに『武徳編年集成』とか『浜松御在城記』とか『三河後風土記』とか『静岡県史』とか旧陸軍参謀本部の『日本戦役』とか『顕如上人貝塚御座所日記』とか『知立神社古文書』とか、その他ごっちゃごちゃした沢山のあらゆる資料をいちいち並べ比べて、検証してくれている。これは便利です。
本って読み比べるのって異様に楽しそうなんですが、労力と時間が掛かる。御著者は73歳だそうですが、とても楽しんでおられるのだと思いました。

構成は、浜松城時代の家康の行動の各資料事の丹念な読み比べと、著者様みずからがその事件の場所の現場におもむいてみてのその御感想の、2本立て。
とても便利なのは、最初から順を追って全ての出来事を追いかけてくださっていること。この本の冒頭に書かれているのですが、浜松城時代の家康様の行動をすべて網羅している良質な史料は、ひとつもないのだそうです。適当にいろいろ書かれていることをどう組み合わせるかが面白いところ。驚くべき事は、かなり食い違うすべての出来事について、そのれぞれでどれが正しいのか著者様なりの判断を書いてくださっていること。当然、その過程で「通説」とはかなり違う著者様なりの結論がたくさん現れます。それが非常に多い事が、この本の最大の価値だと思います。

例をいくつか挙げてみましょう。
その1.
三方原合戦の直後の武田信玄の滞在地について。
通説では、気賀の町のはずれにある「刑部城」です。
主に甲陽軍鑑(並びに家忠日記・松平記・菅沼家譜・浜松御在城記などの信頼できる資料ほぼ全て)に「刑部で越冬した」とあるからですが(※実は刑部以外の場所を挙げている史料も結構あるのです。『三河物語』も)、著者は『浜松御在城記』に「信玄は三瀧城(=三岳城)に入って陣城を構え、ここで越冬した」と書いてあることを引き(←その後に同書は「正月7日に刑部を発った」と書いてあるのに)、実際に刑部城に行ってみて「ここに3万の武田勢が宿営するのは無理だ」と直感、さらに現地の聞き取りで「昔の刑部郷は現在の上中下の刑部村だけでなく隣接する地域を含んでいた」(←そうなんですか?)という情報を得て、「信玄は井伊谷で越冬した」と結論づけてくださっているのです。
すげえ。私も刑部城は何度も見に行っていますが、確かに小さすぎますわな。・・・何度見に行ったって単純な私などは「あああ、この小さな山に信玄様は半月も動けないような重病で伏せっていたんだなぁ」と単純に感激し、ついでにこの小城に入りきれない甲州の兵士たちがわらわらと周辺の低地にテントを張っている光景を夢想していたんですが、そう言われれば、ここって三方原の台地から坂を駆け下りたすぐのところですよ。勝った後とはいえ、高いところと低い所を考えてみれば、長期の陣を張る場所としてはおかしい。あのあたりは台地のひだの谷間が多くて複雑な地形ですし、昔は都田川が浜名湖に注ぎ込む湿地だった気もしますし。
「井伊谷」(いいのや)と言えば“美しく激しい赤鬼”井伊(万千代丸!)直政。波瀾の幼少時代を送った井伊直政は三方ヶ原の戦いの時12歳ですが、この頃は祖母の井伊直虎(女性です。万千代との年齢差は不明)に引き取られて井伊谷にいたハズ。(武田勢の引佐への侵入によって直政は浜松城へ避難し、家康に見いだされ“万千代”の名を与えられたとされております)。のちの万千代はこの少年時代に見た武田信玄のカッチョヨサがトラウマとなって、逆にのちに赤備えを家康に熱望することになったきっかけになったんじゃなかろうか。

その2.
武田軍の堀江城(=舘山寺町)攻撃について。
現地では堀江城(別名パルパル城)は、「家康と信玄がそれぞれ攻めても落ちなかった不落の城」と言われているのですヨ。(言ってるのは主にワタクシのみですガ)
舘山寺って武田信玄が三方ヶ原合戦後に籠っていた(?)刑部城のすぐ近くなんです。車で13分ぐらい。なので、わたくし単純に「信玄が突然の病気になって動けなくなってしまったので、することがない武田の末兵たちがヒマすぎて近くにあった敵対する城を戯れて攻めた」のだと思っていたのです。でも現地に伝承はいくつもあることは知っていても、史実としてはどの本にそれが載っているのかは知らなかった。
この本によるとそれが載っているのは、なんと『信長公記』だそうです。
著者様は言います。「信長公記では、「二俣城を攻め落としその勢いで武田信玄は堀江城へ廻って攻めた」とありますが、堀江城は二俣城からは三方原台地を横断して、さらに一度台地を下りたところにある遠くの小さな城である。(この記述だと三方原決戦の前に堀江城を攻めた事になるので、わざわざその前に家康を無視したというパフォーマンスをしてみせ、それに対する家康の出方を注視している信玄様が)わざわざこんなところを攻めるという事実があったとは到底思われない。“堀江”を都田の“堀谷”とすれば問題がないのかもしれないが、それでも疑問は残るのである」としているのです。
なんてこったーーい。でも確かにその通り。
現地には確かに伝説はあります。(※参考;http://www.ai-trip.com/trip/horie/horie3/horie3.html
ただし伝説があるからといってその出来事が本当の事実であるのかというと、「歴史上にほんの少しだけ痕跡があると分かると直ちにその周囲に無数の数百倍のミジンコの群れのような夢想説が生み出される」ということを知っている私たち(プラトンのアトランティスとかシンギスカン義経説とか謙信女性説とか家康影武者説とか朝青龍悪人説とか)としては慎重にならざるを得ない。まさか『信長公記』に信玄の堀江城攻めが三方原合戦の前であったと描かれていたとは! ・・・他の史料は無いんですか?
『信長公記』は歴史好きには唯一無二とされている史料ですが、家康関連については若干薄いところもあるように感じられるところもあるしなぁ。(何より“三方原”を“身方が原”と表記しているところが。なんだこりゃ。語源を知っている隣人だったら絶対こうは表さない)。手持ちの信長公記を読むとこの堀江城攻めの記事には変なエピソードが混ぜられています。これってよく考えると家康伝説でいう堀川城攻めでの逸話(三方原合戦に先立つ10年前の出来事)がごっちゃにされてないですか?

その3.
築山御前について。

コメント (2)
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