オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

同一性障害。

2007年09月04日 06時03分02秒 |   源頼朝

加藤太光員と加藤太光貞と加藤太光胤と加藤太景正は同一人物です。
ややこしくて困るけど、伊豆ではよくあることです。

 伊豆の伝説にある、後三条天皇の第三皇子輔仁親王の息子源有仁、の孫、の天野遠景と、狩野茂光の親族の天野遠景と、尊卑分脈にある安達藤九郎民部丞遠兼の子の外嶋左衛門尉遠基の子である左衛門尉遠景も、多分同一人物なのです。(わけわからんけど。でもこれも伊豆ではよくあることです)

では伊豆の工藤介茂光の息子である工藤四郎行光と、甲斐の工藤庄司景光の息子である工藤小次郎行光と、甲斐源氏の加賀美遠光の子である光行が同一人物かどうかは。、、、、検討に注意が必要なのです。(どうしたらいいんだ。同一人物にしちゃうと一番しっくり来るんだけれど)

保元物語に出てくる源義朝の家臣の狩野四郎親光と(※この人平治物語では登場しません)、源平盛衰記に出てくる源三位頼政の最期に立ち会った公藤四郎五郎兄弟と、吾妻鏡に出てくる朝鮮に渡って虎を退治し奥州で討たれて死んだ工藤五郎親光は、同一人物なんだろうか? …そもそも四郎とか五郎とかいう名乗りって何の為にあるの? もし全部同一人物であるとしたら狩野親光は数々の戦いを乗り越えた(狩野茂光以上の)勇士であるはずですよ!

肝心の問題。
北条四郎義時と江間小四郎(小次郎)義時は本当に同一人物なんだろうか?

頼朝生存中の北条時政と、牧氏の乱後の北条時政は本当に同一人物なんだろうか?

頼朝生存中の江間義時と、執権になった後の北条義時は本当に同一人物なんだろうか?

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9 コメント

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勉強になります (詩緒蘭)
2007-09-04 21:48:06
すごく勉強になります。奥が深いですね。時々名前の読み方が分からないこともあります。成願寺って原木(ばらき)にある寺ですよね。

ところで失業中とのことですが、私も求職中です。
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加藤 (麁鹿火)
2007-09-05 18:45:10
そうでしたか、詩緒蘭さんも休職中でしたか。
お互い大変ですよねー。頑張ってくださいね。
…って、私は求職活動すらしていないから困ったものです(完全なニート)。お金がない~


名前の読み方。
たしかに、加藤太光員って何て読むかわからないですね。
「かとうた・みつかず」なんですけど、キーボードでは「みついん」って打たないと出てきませんので、ついつい私は普段からも「かとうみついん」って呼ぶようになっちゃってます(^_^; 同様に「狩野茂光」は「かのもちみつ」ですが、ついついと彼の事を「しげみつ」と。立花宗茂(たちばなむねしげ)は「たちばなむねも」、役小角(えんのおづぬ)は「やくこつの」。一方で「加藤次景廉」(かとうじかげかど)はなぜだか遥か昔の頃にATOKに覚えさせてしまったので、一発変換です。

伊豆で良く出てくる人物。
天野藤内遠景(あまのとうないとおかげ)、外嶋左衛門尉遠基(そとじまさえもんのじょうとおもと)、安達藤九郎盛長(あだちとーくろーもりなが)、仁田忠常(にったただつね)、土肥実平(どいさねひら)、佐奈田余一義忠(さなだよいちよしただ)、走湯山文陽房覚淵(そーとーさんもんよーぼぅかくえん)、前右兵衛権佐頼朝(さきのうひょうえのごんのすけよりとも、略して兵衛佐、さらに略してスケ)、武衛(ぶえい=源頼朝の事)、比企尼(ひきのあま)、亀前(かめのまえ)、姫前(ひめのまえ)、鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろーためとも)、多田新発意満仲(ただのしんぽちまんじゅう)、源三位頼政(げんざんみよりまさ)、菖蒲御前(あやめごぜん)、伊豆冠者有綱(いずのかじゃありつな)、田代冠者信綱(たしろかじゃのぶつな)、蒲冠者範頼(かばのかじゃのりより)、阿野全成(あののぜんじょう)、近藤七(こんどうしち)、、、、 これだけ覚えていれば充分でしょう。


>原木の成願寺
「伊豆の頼朝伝説」の方に「成願寺の餅売り婆さん」の話を追加しておきましたので、見てください~~(^=^)
で、、、、、 ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど、詩緒蘭さんのパソコンで私の作った地図って、ちゃんと表示されます?
私、この地図の仕組みが良く分からなくて、自分でもうまく表示されなかったり、投稿したはずの文章が消えていたり、項目の順番が勝手に入れ替わっていたり、写真をたくさん投稿しているのに「×」になっていたり。(※「×」の部分をクリックすると写真が表示されるようになります)
働いていた頃は職場のパソコンで確認していたんですけどね~
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読み方 (詩緒蘭)
2007-09-05 23:02:18
ヽ((◎д◎ ))ゝ ひょえぇ~、これじゃ読めない訳だ。名字と名前の区別がつきませんね。初めて聞く名前です。

地図は出ていますよ。

実は餅売り婆さんの寺ですが、私の母の実家の菩提寺なんです。

アッ、それから麁鹿火さんは今地面に根をはやしている時節なんですね。暗い地面にしっかり根が付いたら、必ず双葉が出ますよ。(^◇^)ノ
私も同じかな。
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加藤某重大事件。 (麁鹿火)
2007-09-06 07:06:18
すみませーーーん。
読み直してみたら「求職」のことを「休職」と書いてしまっていました。
失礼極まりないですね。
勝手に休職してるのは私だっつーーの。いつから私はこんなにヤル気の無い男になってしまったんでしょうか。反省して六萬部写経しまする
でも、詩緒蘭さんありがとうございます。ほっとしました。
餅売り婆さんのお寺、そうだったんですね。
そういうゆかりがあるというのは、とてもうらやましいのです~~


>初めて聞く名前です。
うふふふふふふ、ここに挙げた名前はすべて伊豆の重要人物で、いずれ私の地図とこのブログで詳しく語られる予定なのですよ。伊豆にゆかりのある人なら、全部覚えておいて損は無いはずです(笑) 覚えても何も役に立ちませんけど、伊豆の温泉巡りは格段に楽しくなるはずですよ。多分。
(……あ、足立遠基と姫前だけは関東の人でしたね)
ああああ、地図を書いているといろんなところがうずきます。取材をしに熱海か箱根に行きたいなぁ。でも私にはもぅガソリン代が… それ以前にデジカメが壊れてしまっているのでした。

今困っているのは、「狩野親光」や「加藤太光員」、「加藤五景員」、「沢六郎宗家」など、伊豆出身であり伊豆に長く住んでいて活躍もしているのに、なぜか遺蹟が全く無い人物の事を、どうやって地図に書き込もうか、ということなのでした。
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Unknown (ナカハラ)
2023-06-06 21:26:03
天野系図のところでコメントさせて頂きました。伍年程に成りますが有難うございます。母方南家だと思い、仲麻呂卿など歴史を学ぶなかで、腑に落ち勿い内容として、不比等初孫?豊成や弟麻呂は、なぜ反対勢力から逃れ、子孫も工藤流子爵家など残ったのか。

藤氏伝承では、不比等卿は中大兄のお子様、しかし天智帝の崩御には、崇峻帝以来の抵抗勢力の影響が、学説的に謂われます。抵抗勢力を避ける為に、長子豊成を蘇我本流となった石川家から養子(後代の猶子?)として後で入れ、それより前に武智麿卿というより、祖父不比等卿の意向で、実子を先に石川(豊成)家に養子として入れた。
同様に三男乙麿も、物部氏系石上家と同様のやり取りがあり、藤原南家没落後に、伝承も消えた。とすると、仲麻呂の乱も天智落胤系vs乙巳の変抵抗勢力等の背景が、影響しているかと。
これを謂うと中大兄は母帝が退出後乙巳の変の中心となるが、鎌子の墓が、2つあり、蘇我太郎に鎌子は返討ちに遭い、内臣太郎がのちに中大兄と和解し、入鹿(鹿が神使である藤原氏に入った、入れ替わった)と改名したとすると、前後に例の無い大織冠の意味がはっきりします。
ネットの対話は苦手ですので、私的な感想文的コメントを書かせていただきました。
p.s. 後三條源氏さまの田代氏(男系)天野氏(女系)も、初代が系図上意図して入れ替わったとすると、天野氏の後代の後小松帝などの信頼ぶりも納得出来ます。尚、吾妻鑑にある相州とは時政ですが、遠州とは、文字通り遠景のことで、これだと別格になるので、西園寺家以降か、後に両方同じに訂正させられたのかと。
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Unknown (ナカハラ)
2023-10-05 18:21:37
こちらにコメントさせて頂きます。まず、太政大臣に迄成った仲麻呂卿が追い落とされたのは、天智帝お手付きの不比等卿の初孫であったが故に危険視或いはライバル視された。豊成は、別系。何故なら豊成子孫は
何ら危険視されず、従五位下くらいで江戸期まで続いていた。さて工藤などの乙麻呂流は、何故危険視されなかったのかは、字の如く乙流、別系統の男系だから。つまり皇位に対抗しうる勢力であり得た。ならば、北家房前の子孫も、実は村上帝迄、常にライバル達、菅家等に狙われていた、政権を。そこで、村上朱雀兄弟を育てていた母穏子様は、二人を入れ替えて菅道真勢力から守られた可能性がある。これは、皇統の大制には影響無いが、順が憚りもあり村上帝以降、天武帝以来の天皇号が公式に消え、江戸期の光格帝迄、院の称号に憚られたのは、同一性の秘匿と、体制擁護に他ならないのだろうと。
さて南家は、北家にとってライバルではないが、藤原の正統な本家の家であり、巨勢麿流は、天智帝男系の可能性あり、ライバル視され室町末期に閑院流の男系を入れらまさに藪の中のように。いずれにせよ工藤流は、饒速日、穂積鈴木(本姓は、霊木→霊を同音の鈴に代えさせられ、訓読と推察)と同系で、天皇家の女系(綏靖帝などの頃から)に過ぎず、天野のように遠景が、薨去後、贈位三品なのに従?正?の別も無く、三品は三位のことだ、ど北家に解釈され、以降2例くらい北家に三品イコール三位の後例が出来たように思う。
実は、天野後三條源氏(実は、男系⁇)が、一定の忖度が有り得たのは、徳川からも、単に源氏では有り得ない。御堂関白道長公ど娘藤原彰子様の血を引く源氏だからなのです。 つまり、宇多源氏、嵯峨源氏、清和や平家とは一線を画す。道長公と彰子様の血筋を直に引く現在子孫が、確認される源氏或いは皇族は、旧い順に後三條、鎌倉皇族将軍子孫、伏見宮皇族様、順徳源氏系(足利義満以降、但しこれは女系、男系は清和源氏)、藤原近衛前久公が、木下藤吉郎様を藤原近衛に養子(猶子?)に入れられた反動として、近衛家本家が、道長男系から男系の後陽成源氏に変化。以降は、閑院宮さまご子孫あるいは東山帝ご子孫となるわけで、すべで道長彰子さま御二人の血筋の源氏、皇族な訳です。 したがって近衛家が、後陽成源氏男系(皇別摂家)に成られる迄は、御堂関白男系であった摂関家から、多かれ少なかれ、別格視または特別視(天野は、二條家様などから)された訳です。
江戸幕府の公家諸法度や新体制で事実上明治維新の公家大名系のみの華族制固定に成り忖度は過去の話となりました。
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Unknown (タカトシ)
2023-10-10 07:36:14
視覚に障害もあり下書きをじかに書いたので誤字脱字があり申し訳ありません。

以下訂正いたします。
「さて工藤などの乙麻呂流は、何故危険視されなかったのかは、字の如く乙流、別系統の男系だから。つまり皇位に対抗しうる勢力であり得た。→あり得なかった。」
「母穏子様は、二人を入れ替えて菅道真勢力から守られた可能性がある。→菅原道真」
「これは、皇統の大制には影響無いが、→皇位順が皇統一貫の大勢には影響無いのだが(継体帝以前の億計王と弘計王の兄弟天皇の場合のように、つまり、現皇統の先祖は男系で同じ)」
「体制擁護に他ならないのだろうと。→当時の宇多帝醍醐帝の天皇家サイドのではなく、基経公、師輔公以降の旧摂関家サイドの何らかの体制⁇擁護に他ならないのだろうと(これはタブーだらけの中古史のタブーの一?)。」
「閑院流の男系を入れらまさに藪の中のように。→養子に入れられ、藤原武智麻呂以来の男系が終わり、薮家の名のようになりました。」
「天皇家の女系(綏靖帝などの頃から)に過ぎず、→(史実では孝元帝后の欝色謎命など、但し、先代旧事本紀の穂積祖の饒速日の家来または同族系の32程の別の一族たちの子孫も実際古代天皇の女系にいる可能性がある)」

「御堂関白道長公ど娘藤原彰子様→道長公と、」
「男系の後陽成源氏に変化。→男系の後陽成源氏(家は道長子孫)に変化。」

足利義満以来、公家みかどの上に実効権力として女系順徳源氏(藤原道長、彰子さま女系子孫)男系清和帝子孫の将軍に対抗するように上級公家サイドは、養子を下級他家に入れるなどして近衛、九条の二家に公家の権力が収束するように努めた。太閤秀吉の養子入れもその延長であり、一元支配の反動が幕末にあり、摂関体制が完全崩壊した。
義満以前は、家と血筋は、どちらも大事だった筈で、江戸幕府以降、血筋よりも家の流れが、庶民に至るまで出来た。
今日の時代は、すべてが変革し、欧米とは違う、どのような、家主義でない、個人主義が日本に出来てゆくかは、22世紀まであと78年もあるが、生まれた世代が高齢になる頃分かるかも知れないと思います。

藤原南家の御参照は、奈良県榮山寺古文書に尚侍藤原鮒子様という未確認の南家の有力女性がおられたようです。
後小松帝に関しては、南朝と北朝を足利将軍の都合のいい側を即位させる両天秤皇位主義になりそうになり(後円融帝の更衣を義満に奪われそうになり)、後小松帝の英断で皇統が、統一され今日では崇光源氏の伏見宮家が、皇位継承家になり、天野ほかは、原則北朝の臣下となったと思います。

全体として、検索の『歴史ディレクトリ』にある三千以上の一族は、徳川家なども一定の忖度があったと思います。南家は武智麻呂、巨勢麿流、乙麻呂、是公、天野のみかと。

あと古い時代は、やんごとなき御方の⁇『れき』検索で、参照になるでしょうか?
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Unknown (タカトシ)
2023-10-19 20:05:31
失礼しました。れき→れきチ
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瓊光け工藤ひ玉へ。 (麁鹿火)
2024-05-14 23:26:46
中原様。
不義理いたして誠に申し訳ございませぬ。
いろいろ書かねばと思ってしばらく長いあいだ浅考しておったのですけど、今回の大河ドラマの描き方が一番分かりやすいと思いました。藤原氏の時代にはあまり深いことは起こらなかった。たまたまの小さいことで浮沈が生ずる、みたいな。
最近読んでいます『足利将軍たちの戦国乱世』(中公新書)では、もっと大胆にささいなことで物事が上下する。どっちが良いのか私には分かりません。
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