オセンタルカの太陽帝国

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柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

浪合の昔の物語。

2020年07月03日 22時53分56秒 |   南北朝


<浜北大橋から天竜の山々、7月3日>

「古い道路の埋没に帰せんとするものが最近は意外に多くなっている。それは山あいの細道の草木に覆い尽くされて、もう永いこと誰も通ってみたことがないというものだけでなく、現に毎日のように人が使い、路傍には小家のまだ幾らも残っているものでも、これが以前の何という処へ通る路だったかを、忘れてしまえばやはり埋没であった。人間の懐古にもおおよそ限りがある。三代四代と続けて記憶を試みる折がなく、尋ね寄る旅人も絶えていたとすると、もうそれからさきは天然に近いもの、すなわち彼等の間に無意識に伝わっている痕跡によって、古い世の道を辿るのほかはないのである」(柳田國男『東国古道記』)

 

・・・古道研究家は現代は柳田國男氏が思っていた以上に意外とたくさんおられます。
本やネット記事は無数にあって、学ぶことがたくさんあり、もう私も家から出なくてもいいんじゃと思うほどなんですけど、でも、やっぱり自分で行ってみないと分からないことは多い。
ここ数ヶ月、浜松では働ける日が少なくなってしまって私はしばらくの間掛川市に出稼ぎに行っていました。会社からは休め休めと言われてるんですけど5月に言われるがまま10日間の休みをもらったら、タイミング良く過去有数レベルの痛さの通風に罹ってしまって全く動くことができなくなってしまい、ひどくもったいないことをした。6月も休めと言われていたんですけど掛川で真面目に働き、7月前後に再び待望の4日の休みをもらいました。そろそろ私は非常に疲れてると感じたので(仕事は無かったから全然疲れてないんだけど)、久しぶりの古道巡りの旅に行ってきました!
一番行きたいのはやっぱり憧れの伊豆なのです。前回伊豆に行ったのは3年も前。でも今は伊豆には行きづらい雰囲気なので困る。(※3年前に私が伊豆断ちをした理由は、前の前の会社を「伊豆に引っ越したいから」という理由で辞めてしまったからです。諸事情が重なって伊豆への帰還は未だ叶っていないのですけど、自分の中で恥ずかしすぎてもう伊豆には軽々しく行けない。ちょっと幾段階か遠回りをしてから伊豆へは行きたいと思っています)

 

今回の旅の目的は、「宗良親王の周辺を探すこと」です。
(「信州の天狗探し」にも行きたいですが、範囲が広すぎるのでまた次の機会とします)
朝6時頃に家を出発して天竜川を北上。明け方から雨が強く降っていて天竜川がすごい。とはいえ、浜北大橋の付近では河川敷の余白にはまだまだ余裕があり、「あと何倍かは雨が降っても天竜川は大丈夫だな」と思いました。何百年も水害と闘ってきた地帯ですからね。水窪までやってくると(すでに天竜川の本流からは離れているのですが)、こっちのほうが怖い。水窪川は流れが急なのに川底が浅いのか、ドウドウとすさまじい音を立てて水が流れている。水窪の町はこの水窪川の流れにぴったりと沿って町並みが伸びているのですが、ここの人たち恐くないんでしょうか。
さらに北上し、青崩(あおくずれ)峠へ。
国道152号線の青崩峠はまだ道路が開通してなくて(おそらく永遠に開通しないだろう)、途中で通行止めになっているのですが、それでも来たのは「しっぺい太郎の像」を見たかったから。ここに来るのは20年ぶりぐらいです。(過去の写真は失ってしまった)

しっぺい太郎の墓。
雨がやばくてあたりは真っ暗く、光量が足りなくて写真が全然撮れない(笑)。写真は全部ブレています。

「瑟」(しつ)とはツィター類の楽器だそうで、漢字としては「静かな」「物寂びた」という意味を持つのだそうですが、これが磐田では「悉平太郎」、駒ヶ根では「早太郎」という名前になり、この両地点に挟まれた青崩だけ意味が反対になるのがおもしろい、と思いました。
(※この時点では2日後に駒ヶ根の光前寺にも行くつもりだったのでここを旅の起点としたのですけど、その後いろいろあって光前寺には行けませんでした。とほほ)

足神様。
井伊谷にもよく似た名前と効能の「足切観音堂」という宗良親王遺跡があるのですけど、伝説はそれぞれちょっと違います。(青崩のこちらの方は、北条時頼の廻国伝説)
「北条氏の謎の山間ネットワーク」については、この後何回か話題に出てきますので覚えておいて下さいね。

そこから後戻りして「ひょー越峠」へ。
水窪からダイレクトに長野へ行くには、現在はこの道を行くしか手段がありません。
「ひょーこえ」は漢字では「兵越」と書くのですが、ここはかなで書くのがならわしです。(「へいごえ」と誤って読まれないようにするためか)。
ただし「兵越」の「兵」は「ひょー」と読む以外許さないのに、「越」の部分は「ひょーごえ」と読んでも「ひょーこし」でも「ひょうごし」としてもどれでも正解だそうです。
わたくし青崩までは過去2、3回来たことがあるのですが、ヒョー越を越えたのは一回しかありませんでした。(用が無かったから)

そこから長野県に向かって道を下りていく。
すると、変な看板があります。

読めないと思うので書きおこしますと、

長慶天皇の処在所(大野田神社)
信濃の国、最南の奥地遠山郷は、今でこそ鉄道を始め自動車道で大変便利になりましたが、其の昔は文字通り陸の孤島であった。
南へ出るには、青崩峠か兵越峠を、又北へ出るには小川路峠か地蔵峠を越さなくてはならなかった。こんな山奥にかしこくも、長慶天皇が在位五年で其の位を後亀山天皇におゆずりになりになり、長慶院法皇と名乗り義兵をつのる為に、この上の大野田においでになったと伝う。法皇は、侍医三平阿者裏法師、村沢善衛門、宮下藪下と伝った主従八人で村の衆には、京都の小畑の落人だと伝っておられ法皇は常に白馬にお乗りになり和田の松島に行ったり来たりしたとのこと、今思うに夏は涼しい大野田に冬は暖かな松島でお住まいになったと考えられます。
此の村にある小畑とか善屋づくりとか朝日善屋とか伝う地名は、其の頃、従者等が、村の人達を使い耕作していた処で大野田には法皇をおまつりした大野田神社があります。屋敷は千坪余第二次世界大戦で境内木は切られ食糧増産した後へ植えた杉が今では立派な森になっております。
境内に何百年たったかわからぬ朽ち果てた欅の株があり苔むしてはいるものの直径丈余の大きさであったと推定され昔を忍ぶには、充分な古さをもっております。この株からお姫様が使用したと伝う銅鏡が出たと伝う伝説もあります。
右、伊那谷の伝説より抜粋させてもらいました。
平成十一年(一九九九年) 此田自治会」

長慶天皇、、、、
この“最後の戦う天皇”の伝説は全国各地にあり、その全てが信頼ならないものですが、この南の旧天竜市にも長慶天皇の姫の伝説の故地があり、なかなか注目すべき物だとは思います。長慶天皇が退位したとされる時期も漠然としているのですが、一般的に長慶天皇は15年在位したとされているのですが、それがこの看板にあるように帝が在位5年でここに来たとしたら伊那谷にいたとされる宗良親王も最晩年のバリバリの時期で(親王の余命はあと10年か20年かある)、天皇は今なおさかんな小父さんを頼ってここに来に違いありませんね。もっと若い尹良親王もいます。この記述だと長慶天皇は数季節はここにいたと思われます。ていうかこの場所より上の地点に「大野田」という集落があったのですかよ。全然人の住まったという雰囲気を感じないんですけど。でもここは年月の経った古道なのですから、すごいな。

この看板のある場所から草と土砂に覆われたかなり厳しい小道を車で300m。神社がありました。

なんだこの変な形の社殿は。
古さびた欅の株ってどれだろう?

社の前に焚き火の場があります。道者たちのキャンプの場所になっているのかな。

中を覗くとそこにもイロリが。護摩檀?
どういう方々がいまでも長慶天皇を祀っているのでしょうか。
長慶天皇信仰って今でもあるのかな。

・・・なんだか来てみても意味の解せぬものばかりで、雨がすごいので早々に退散して車に引きこもったのですけど、違和感を感じて腕を見てみますと、うぎゃーー、数匹の山ビルが私の腕にうねうねと! わたくしパニックになってしまって手ではたいてもつねってもヒルどもは頑固に食い付いてまったく離れず、とれないー。で、冷静になって、乾いたハンカチで優しくつまむと容易く取れたので車の窓の外へ捨てる。このハンカチは道中使えなくなってしまいましたけど、こんなこともあろうかとタオルとハンカチはたくさん持ってきていて良かった。ライターを持ってるといいと聞きますが、私は煙草は吸わないから。
山ビルってすごいね。まず、生理的な嫌悪感で立つおぞ気がものすごい。
こんなほとんど人の訪れぬ場所であろうのに、ピンポイントで人に落ちる術を持っている。人の持つ体温か赤外線か、地の振動か、己の持つ超音波か、どうやって人を察してその腕に腕にぽつんと落ちて取り憑くのでしょう。私、あそこにいたのはほんと短時間だったんですよ。高校生の頃『高野聖』を読んで戦慄した記憶がありますけど、山ビルの恐怖を実際に味わったことがこれまで私にはなかった。ただ、ハンカチを取り出すまでかなりの時間がかかってその間ヒルは私の腕でうねうねしていたのに、血が吸われていた形跡はありませんでした。(ヒルに皮膚に穴を開けられると、血が止まらなくなるという)。長慶天皇はすごいね。こんな場所に長く棲んでいたなんて。ここで定期的に火を焚いていると思われる崇拝者の方々もすごいですね。私はその対処法を知った今でも山ビルは怖いですわ。源頼朝公が好んで蛭の多い小島に棲んでいたことも思い起こされますね。最もこの場合のヒルとは野蒜だと見なされるともされますから、和えたらおいしいのかも知れませんが。
見える限り蛭子は取り除いたつもりですが、首筋からシャツの中ですとか、靴の中ですとか、ジーパンの上ですとか、まだまだヒルがいっぱい自分の身体の上にいる気がしてならず、その後のドライブはずっと気持ち悪い気分が続いていました。

そして、国道152号線を北上します。
この道はもう一ヶ所、遠山郷から北へ15kmの地点(地蔵峠)で未開通地点となり、その迂回路として「蛇洞(じゃぼら)林道」という道が設置されているのですが、行ってみましたらなんとなんと! 蛇洞林道も道路崩壊とかで交通止めとなっている!
ここから宗良親王が30年棲んだという大河原の里まで行くつもりだったのですが、どうすればいいんですか!

・・・結局ここから迂回路を通って喬木村まで行き、北上して松川町から小渋川沿いに大鹿村に入りました。かなり大回り。
ただ、過去に一度私は(20年前)ヒョー越を越えて遠山郷に入ったことがあったのですけど、その時4月ぐらいだったのに峠は雪に覆われていて、雪に慣れぬ南国民の私はその付近の坂の上で浮かれてスピードを出しすぎて判断を誤って(行けると思って)雪に突っ込んで、身動きが取れなくなって、雪と数時間(と私は思っているけど実際は数十分だったんだろう)格闘してようやく雪から脱出したんだけど、扉を開けて後を見つつ勢いを付けて脱出したものですから右扉を雪の塊にあてて中破してしまって車はかなり無残な見た目になってしまった。私は命が助かったのですからこのぐらいの犠牲は安い物、むしろ勲章だと思ったのですが、その頃の私は公務員で、その中破した車で通勤していたらかなり白い目で見られ、暗にいろいろ言われた。その2ヵ月後に伊東のすみやで豪雨で何も見えなくなった日に同じように右扉を開けて勢いよくバックをしていたときに、何かに勢いよくぶつけて同じ扉を大破してしまい、結局その車は廃車にしてしまいました。私が長らく愛したフォードのレーザーという車でした。次に乗ったのは小カローラのアレックス(NT-1)。以後ずっとトヨタ車です。
で、私が事故った場所はどこだったっけと(記憶がもうおぼろげなので)、そこを見てみたいと思ってずっときょろきょろして来たんですけど、なんと、その152号線の通行止め地点のあたり(つまり蛇洞林道の入口付近)からすこし上に登ったあたりでしたよ。ここ全然ヒョー越峠じゃないじゃん。(記憶という物は定かならざるものだ)。ここからずいぶん苦労して里に出た記憶がありますが、どうしてさっき通ってきた遠山の郷が見覚えがない感じがしたわけだ。

予定では10時ぐらいには大河原へ着いている計画でしたが、昨日変な寝方をしてしまったので途中猛烈な眠けに襲われ仮眠をとって、またかなり大回りしたことで、大河原への到着は12時ぐらいになってしまいました。

町の中央部(?)にある道の駅『歌舞伎の郷 大鹿』。

「大河原(おおがわら)」の隠し里は、「鹿塩(かしお)村」と合併したことで「大鹿(おおしか)村」となったのですが、ここは「村歌舞伎」でとても有名なんですって。一応、数日前に映画『大鹿村騒動記』(2011年)をhuluで観て予習はしてきたのですけど、歌舞伎はあんまり興味ないです。ただ、この映画を観るまで私は「大鹿村(おおしかむら)」を「おおむら」って読んでいたぜ。

道の駅で、地元の人が書いた本を購入。こういうのがとても助かるんです。大河原の宗良親王のことはネットでもそんなに詳しい情報がないですから。こういう場所には地元の人しか知らない事がたくさんある。

左の本が¥1200(税別)で右の本は¥1400(税別)
あとあと、この本によって考えさせられることがたくさんありました。

おなかが空いていたので、ここで昼食です。
この道の駅には、2つのレストランがあって同じ場所で隣り合っています。この2店はどういう関係なんでしょう。
メニューの中で「鹿肉ステーキ定食」(¥1400・税込)があったのでそれを食べたくなってしまいました。
(映画の中で主人公は鹿肉料理屋を経営していたから)

おお!
春野の『いきいき天狗村』でも鹿焼き肉定食を食べたことがありますけど、見た目が全然違う。

鹿肉は歯ごたえがとても堅いんですけど、その噛み締め具合に美味しさを生み出す仕組みがある感じで、とても美味しくいただけました。鹿肉って牛肉・豚肉・鶏肉・羊肉に次ぐ「第5の肉」として充分行けるんじゃないでしょうか。(私は今の「一般的な肉」ってバリエーションが乏しすぎると思ってるんですよね。なんで鳥肉は「鶏」一択、数段階落ちて鴨肉があるくらいなんでしょうか。旧石器時代にはマンモス肉、オオウミガラス(ペンギン)肉、ドードー肉、狸肉、兎肉、鯨肉等々いろいろなグルメに満ちあふれていたというのに。でもジビエって高い)

「特別な塩」をふりかけて食べるそうです。

大鹿村は山奥なのに塩が出てくる(と思われていた)ことも有名なんですって。
さっき買った本によると、「大河原村」と「鹿塩村」の関係はなかなか複雑だそうです。
明治8年に一度「大河原」と「鹿塩」は合併し、両村から一文字ずつ取って「大鹿村」が誕生したのですが、両村はケンカが絶えず、明治15年に分離してしまった。(合併解消することってあるんだ)。でもその7年後に再度合併。(なにがあったんだ)。以後130年、そのしこりをずっと抱えているのだそうです。・・・行ってみて分かったんですけど、大河原と鹿塩村は山に隔てられて距離が離れすぎているわい。

私があまりに美味しそうに食べていたからか(笑)、食後に外に出てメニューの写真を眺めていると、調理をしていたとおぼしきおっちゃんが外に出てきていろいろと説明をしてくれました。このすぐ近くにジビエのあれこれを現地加工する加工場(ヘルシーMEAT大鹿)があって、かなり美味しく新鮮なお肉を調達できるのだとか。鹿肉もすごいのだけど、ここで本当に美味しいのは「カツ丼」で、ここの豚肉はとても肉厚で旨みがあり、ここで食べたら他では食べられなくなるくらいの食べ応えがあるものを目指しているのだとか。すげえ。(その話を聞いてカツ丼を食べたくなったけど、とうてい私の貧弱なお腹はそれを許してはくれませんでした。残念)

大河原の町は、小渋川に沿った細い平地に南北に長い感じで、とても独特な地形です。
小渋湖からここに入った地点(大鹿村役場のあるあたり)ですでに秘境の雰囲気なのですが、そこから南下して道の駅を通り過ぎて、さらに南下して、国道152線から脇道に入る感じで小渋川を遡ると、大河原城のある歴史の中心地、「上蔵(わぞ)」地区。

上蔵地区に入って一番最初に目に入るのが、「長野県で一番古い木造建築」といわれる福徳寺です。
お寺というかただのお堂に見えますが(実際無住)、宗良親王も折に触れて参籠していたという立派な宗良親王遺跡です。
大河原城からは徒歩5分。

こんな見た目のお堂、遠江国の姫街道にもありますね。(西気賀駅近くの薬師堂)
平安時代に浄土信仰が流行った頃に建てられた阿弥陀信仰の建物だそうですが、南北朝時代に2度も天台座主を経験した宗良親王がやってきたことにより、天台宗の寺院に生まれ変わったそうです。(ただのお堂ですが)

いきなり出てくる水野忠邦。
水野忠邦が欲しかったのはこのお堂の方みたいですが、天保の大飢饉が起こったのは忠邦がお堂の中身を見ちゃったからじゃないでしょうか。(※天保の大飢饉が始まったのは天保4年からです。念のため)

水野忠邦は「天保の改革の大失敗」のおかげで日本史の中では悪人みたいな位置づけだと思いますが、『風雲児たち』では政治欲は盛大だったけど私欲は控えめ(「上知令」にはみんなが無条件で従うと思っていた)みたいに描かれているせいで、このエピソードも「ホントかよ」と思う。でも、千村飯田役所を通じて「この建物を浜松に献上せよ」という命令があったのは、本当のことだそうです。(村民が断ったのでそれは阻まれました。・・・断れるんだ)。水野忠邦が全国行脚をした話は私は知らないのですが、どうして彼がこのお堂を浜松に欲しいと思ったのでしょうか?
水野越前守忠邦は30年も浜松藩主であった人なんですけど、他の藩主に比べても浜松では異様に逸話の少ない人です。唯一、千歳町にそのころあった牢獄で(法家っぽい水野忠邦としては珍しい)人情味のある伝説がひとつあるぐらい。ただ、『浜松市史』には「天保の大飢饉」の影響を心配してこまめに指図をしていた様子が書かれています。そして、『浜松市史』によると水野忠邦は無茶な課税や借金を繰り返すので(そして返さない)浜松市民にめちゃくちゃ嫌われていたそうです。(渡辺崋山の日記にそう書いてあるという)。田沼ほどじゃないにしろ、ワイロも大まじめにたくさん贈りまくって集めまくっていたみたい。そして、浜松時代の忠邦は古学とかお寺にある古い物とか、そういったものがなかなか好きだったそうです。

この場所に宗良親王に関する物は何もありませんでした。しかたがないですけど。

この付近の風景。
写真じゃ分からないですけど、雨が降ったり止んだりしています。降るときはいきなり始まって雨の勢いが凄い。

ここから徒歩5分のところにある大河原城。
宗良親王が30年も籠もっていた場所です。

・・・が、小さな案内標識はあるんですけど、なんか微妙にわかりづらくて道に迷う迷う。変な道に入って進むと行き止まりでどなたかのお宅に入ってしまい間違えるんですけど、結局のところ、別の変な道に入ってどなたかのお宅の畑を通り過ぎていかないと、城へは到着できません。畑はハリガネの柵に囲まれていて「ここ通っていいの?」と思うのですが、この柵や網はシカ避けイノシシ避けなので、通り過ぎた後はきちんと閉じないとなりません。

やっぱり雨がそこそこ降っていて、光量が足りず、写真が変な色みになってしまいますのはごめんあそばせ。
大河原城。
「ちっせー」と思います。本当に宗良親王と香坂高宗はこんな狭い所に籠もっていたのでしょうか。
こんもりとした盛り土っぽい周りに広くもない濠を巡らしてある感じですが、親王と香坂とあと他に3人ぐらいがキャンプを張ったらいっぱいぐらいな広さです。

実はこのお城は50m四方の方形の居館だったのですが、親王が世を去って600年の間に、(このお城は崖の下から見上げられるような場所ギリギリに立っていたため)、敷地の大部分が崖の下に崩れ落ちてしまったのだそうです。いま残っている部分は半分ぐらいらしい。明治時代にはすでにかなり崩れ落ちてしまっていたのだそうですけど、昭和の頃に崩落防止の工事をしたので、もうこれ以上は崩れ落ちないそうです。安心。

この石碑がかなり左に寄って建てられているので一目見て「ちっさい城だ」と思ってしまうのですが、50m四方といったら実はなかなかの大きさだ。(※この「50m」には濠の面積も含まれています)
ただしこのお城の場所、この上蔵地区ではかなり低所に位置しています。もっと位置的に有利な高い場所はこの周辺にいくらであるように見えますのに。

また、戦国時代のお城のように、「二の丸」「三の丸」とか「虎口」「城門」があったわけでもありません。
ただ、浅い濠に囲まれた、単郭の方形の館があっただけ。
一応、正平24年に北朝軍(上杉朝房・畠山基国(と、小笠原貞宗))が一度このお城に攻め寄せてきたとき、香坂高宗と宗良親王(と御室光資と澁谷三郎)がこの城で巧みに翻弄して撃退した、とされているのですが、ほんとにこんな防御のへったくれも無い城で? (※征夷冬将軍(=大雪)の助勢が大きかったらしい)

・・・思いますに、車なんてない古代、この里に来たろうとすると小渋川の流れに沿った川沿いを歩くことになり、下の道から人の住まう上蔵の里に入る付近は、藪とか林とかで巧妙に隠されていたのではないか。この城の役割は、川のあたりから「あんな高い崖の上に城が!?」と見上げさせて絶望させるための物で、今の上蔵の里方面から攻められることは想定してなく、城の大手は今は崩れ落ちた崖の方角だった。
松平城・堀田城や駿木城・天狗森城との連携が大事な事で、上蔵の里への入口さえ知られなければ、大河原城は崖の上の難攻不落で他に逃げ放題な城だったと思うのです。
宗良親王を隠す上蔵の里は、”隠れ里”だった。
「上蔵」と書いて「わぞ」と読むのも実は偽装ではないでしょうか。
地図を見ながら来た人に、「カミクラ!? そんな名前の村このあたりにはねーでよッ」「ウエクラムラなんてのもありゃせねよッ」とか言うための。

でも、上から下を覗き込んでも、川がちょっと見えるくらい。(崩れていますからね)
現在下からこのお城を見上げると、どんな風に見えるんでしょうか。

戦国時代になって、武田信玄がこの城を攻めたとき、城は一瞬で落ちたそうです。
(信玄公は周囲の地形を調べに調べてから攻めますから)

大河原城から見た上蔵(わぞ)の里。

で、このハリガネの柵から大河原城に歩いて入ろうとしたとき、お城の横にヘンな物が見えたのです。

ヤギ?
・・・と思ったらカモシカ!
近づいていっても全然逃げようともせぬ(笑)

城付きのカモシカ。
さすが「大かも鹿村」!
大昔はヘラジカの仲間とかオオツノシカもこの付近にはたくさん棲まっていたに違いない。

「大河原城」で検索すると、他にもこのカモシカについて書いている人がいますので、本当にこの羚羊はこのお城に棲み着いている「城カモシカ」らしいです。さすがやね、大鹿村。「毛ヨシ親王(ツノナガ(くない)シンノウ)」と名付けてあげよう。

で、そこから看板に従って「香坂高宗のお墓」を探そうとしたんですけど、いくら探しても見つかりません。

なぜだッ!?
けっこう歩き回ったのですけど、雨がひどくなってきたので諦めました。

 

・・・たったこれぐらい書いただけで17000文字ですって。
gooって昔はもっとたくさん書けませんでしたっけ。「大河原を脱出するところまで書いて1万5000文字ぐらいかな」と思っていたんですけど。(私の書き方が冗長すぎるだけですが)

 

(・・・つづきます)

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