オセンタルカの太陽帝国

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悪魔のトリル。

2024年06月20日 11時06分46秒 | わたしの好きな曲

高校生の頃、クラスメートのJ君が、「悪魔組曲第2番って知ってる?」と訊いてきた。
「悪魔のトリルじゃなくて?」と尋ね返したら、「いや違う。悪魔みたいな人の作ったもの凄い曲」「きのうテレビでやってた」「クラシックの曲だよ」と言われた。今となってはJ君の名前すら覚えてないんだけど、小説の話とか音楽の話とかよくしていた仲の良い友達だったのです。(・・・でもよく考えてみると、高校生の時、私に友達っていたっけ。いやいやいたんだよ、おもしろいJ君)

去年、わたしたちも60歳になって、「同窓会をやろう」という話が回ってきた。この齢になると同窓会ってあたりまえにやるものだと思いますが、わたしそういうのメンドクサイのでこれまで全部無視していたのです。でもなぜかそのとき「〇〇高校2年○組」の同窓会だと言われて、「なんで2年生の同窓会やねん」「J君いるかも」「グインサーガとかベルガリアード物語の話をよくしていた安田君もいるかも」「淡い恋心を抱いていたRさんもいるかも」と思って参加しました。いませんでした。知らない人だらけでした。知らない人ばかりなのに、なぜか昭和の記憶の明晰な人だらけで、私はおののきました。同窓会恐い。

結局、悪魔組曲第2番って何だったんでしょうね。
やっぱりタルティーニの悪魔のトリルのことだったんじゃないでしょうか。
でもあの時代にテレビでタルティーニなんてやるはずがありませんよね。
ナゾ。

ジュセッペ・タルティーニは今でも決して有名な作曲家ではないと思いますが、エピソードを重視する名曲界隈では『悪魔のトリル』は屈指の知名度を誇る曲のひとつです。それは、タイトルのセンスが良いから。作曲の経緯にまつわる逸話がすごいから。
私の青年時代に圧倒的な全盛期を迎えていた社会思想社の現代教養文庫というのがあって、本屋さんでは圧倒的に私の興味を引く一角として私は夢中になっていた。今は無き現代教養文庫はあのころ何より安かったし、あらゆる分野を網羅していた。私たちは自分の部屋の本棚に『火吹山の魔法使い』とか『盗賊都市』とか『モンスター誕生』とか『仮面の破壊者』とか『宇宙の連邦捜査官』とか『エピソード魔法の歴史』とか『フェアリーの誕生』とか『奇妙な論理』とか庄司浅水氏の『世界の奇談』『奇談千夜一夜』『世界の奇跡』『世界七不思議』とか『ポケット・サイエンス』とか『ブルターニュ幻想集』とかエヴスリンの『ギリシャ神話小辞典』とか山室静氏の『サガとエッダの物語』とか『カルタゴ』とか『ローマ神話の誕生』とか『シャルルマーニュ伝説』とか『メリュジーヌ物語』とか『フィン・マックールの冒険』とかをずらっと並べてうっとりとして知識欲を満足させていました。それらの中の一冊に野呂信次郎氏の『名曲物語』という一冊があって、この本が私にとっては古典的な音楽についてのもっとも基本な知識源でした。どんな名曲を聴いてもこの本のことが頭に浮かぶ。
この本の中に「悪魔のトリル」の一項があって、ですから小学生の頃より、この曲は名曲中の名曲のひとつという認識でした。
この本の挿絵の悪魔のようにもみえるタルティーニの肖像画もあいまって、とてもインパクトがあったのでしょう。

大学生になると、私はCDを買いあさるようになりました。
私の町のアーケード街には、大きなレコード屋が2軒あって、クラシック音楽のCDが非常に充実していたのです。ちょうどタルティーニ生誕888年(※フェイク)だとのことで、タルティーニの知らない曲が大量に発表されておりました。タルティーニはとても作品が豊富な人だそうです。7枚ぐらい買ったのですが、「あれ? これらのタルティーニは私の求めているタルティーニとは違うぞ」と思うようになりました。いや、全体的に言えばタルティーニもすばらしいんですけどね。J君の言う悪魔成分についてです。

結局、青年時代に私は10枚の悪魔のトリルを買いました。
初めて買った悪魔のトリルはイツァーク・パールマンで、なぜか私はこれを「違う!」と思いました。ナタン・ミルシテインやエミール・ギレリスやアンネ=ゾフィー・ムターやヘンリク・シェリングらを聴き比べて、最後に買ったアルテュール・グリュミオーでようやく私は「これだ!」と思いました。

でもそれから30年経った今で、私がグリュミオーで何を満足したのか、よく分かんないんですよね。

音楽にそんなに詳しくない私は「トリル」っていうのがよくわかんなくて、「トリルは囀(さえず)るっていう意味」と聞いて、「つまりこのギコギコ言ってる汚い(?)音が悪魔のトリルなんだな」と思うのですが、でも全体的に見ればこの曲って非常に美しいじゃないですか。
悪魔がトリルっている部分はこの曲全体のごく一部であって、つまりそれ以外の非常に美しい曲部分は夢で見た悪魔の演奏部分ではなくて、タルティーニ自身が思いついた悪霊的に美しい音楽である。

実は現在一般に聴かれるこの曲は、タルティーニが作曲したそのままの音楽ではなくて、20世紀になってフリッツ・クライスラーという変な人がアレンジした現代的バージョンである。

最初は10枚ものCDを聴いて最後にアルテュール・グリュミオーで満足したとき、浅薄な私は「ああ、この悪魔のトリルって、トリルの悪魔部分はあまりに高度な難曲過ぎて、ほとんどの人は弾けないんだな。これはグリュミオーほどの達人中の達人が弾いて初めて満足できる技巧曲なのだ」と思ったのです。
でもあとあと考えてみて、そんなはずがないじゃないじゃないですか。私が最初「ものたりない」と感じてしまった(※この曲限定の話ですよ)イツァーク・パールマンは、めちゃくちゃヴァイオリンが神がかっていて、この頃一世を風靡していた人です。私にとってモーツァルトのヴァイオリンソナタ集は、パールマンとバレンボイムの組み合わせの物が最上。

だから、「クライスラー編曲バージョン以外にいろんなバージョンがあるんだ。その違いだ」と思おうとしましたのですけど、そうでもないみたいね。
いま、いろいろな悪魔のトリルを聴き比べているんですけど、20代の頃の私が10枚の悪魔のトリルを聴き比べて、9枚までは「これは違う」と思い、10枚目のグリュミオーを聴いて「これだ!」と思った理由と理屈が、それから40年経った今の私にはさっぱりわからない。

この曲を聴くにあたって私が10年ぐらいもっとも重要視していた箇所は、高松あいさんの動画だったら[13:21]のところから、パールマンさんだったら[12:23]のところからの個所ですが、これがピンポイントな「悪魔の囀り声」なのだろう、「全然囀ってないじゃん」「さすが岩悪魔」と面白くおもっているところなんですが、CDで聴くと真珠男さんあまりにも流してしまっているように感じるのですけど、動画で見るとパールマンさんのやりたいことが良く分かって、今になって見るとパールマンさんいいじゃないですか。ていうかパールマンめちゃくちゃ魅せるのが上手いな。

わたしが初めて聴いた悪魔のトリルってだれのだったんだろう、とずっと考えていたんですけど(NHKのFM放送をカセットテープに録音したものだったんですけど、子供の私は演奏者をメモしていなかった)、なんとなくイダ・ヘンデルさん(1962年)だったような気がします。これが一番耳にしっくりきます。

ゾフィーの母。

 

 

タルティーニは決して悪魔のトリルだけの一発屋さんではなくて、協奏曲分野に多大の重要な作品群があるそうです。またフリッツ・クライスラーの編曲ではもう一曲、『失われたディドー』という曲があって、高校生時代これもよく聴いていました。ところが、大学生になってCDを買い集めるようになると、私の買ったタルティーニのCDはバロック時代の様式で演奏したものばかり。クライスラーのディドーは見付けることはできませんでした。

いま検索してみましたら、ダヴィッド・オイストラフの失われたディドーがありますね。

失われたディドーも悪魔のトリルとは少し違った性向の曲で、とても美しいですよね。
「ディドー」とはカルタゴ市を建設した悲しい女王の名前。『アイネイアース』に出てくる。
子供時代にわたしの聴いていたのはおそらくこのオイストラフです。(オイストラフの悪魔のトリルはあまり私の心にひっかからなかった。ブラームスとハチャトゥリアンとショスタコーヴィチのオイストラフは大好きです)

 

 

高松あいさんの別バージョン。可憐だ。

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