オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

売られた花嫁。

2009年03月24日 06時04分11秒 | ラーメン

最近ラーメン記事を書いていない理由は、端的に言えば行ってないからなんですけどね。
先日の伊豆紀行でまたラーメン魂に火がついてしまっています。
ていうか、1月にわざわざ京都までラーメンを食べに行ったのにその紀行文をまだ書いていないぞ。

 

3月25日 創作ラーメンじぱんぐ(豊町)

以前来たときに、壁に「3月1日に新メニュー登場」とか書いてあったのを思い出して、行ってみました。大体、「創作ラーメン」と名乗っているわりに創作メニューが少ないような気がしていたんですよね。以前私が驚愕した、「刺身付きのラーメンランチ」も、いつの間にやら無くなってしまっているし。
で、その新メニューとは「豚(ブーター)麺」。
正確に言うと「ブーター」の字は「豚」ではなくて、壁にはこんな張り紙が貼ってあります。「豚」の字の部分を良く見てください。ウマー。

 

3月24日 麺屋いろは(初生町)

べんがら横町つながりで、以前ここにあった(けどあっという間に撤退していた)富山ラーメンの「萬天」のことが気になって、その前身いろはの分店・初生店に久しぶりに行ってみました。あの濃厚富山豚骨はこっちに移植されていたりするのでしょうか!?

・・・残念ながら、べんがら横町で提供されていた豚骨スープはこちらには無かった。
でも黒ラーメンウマイ!
このいろはの素晴らしい店は、チャーシュー好きに極めて優しいという点でして、普通のラーメン(680円)に対して、チャーシューメンは930円。でもそれよりもさらに上を行く、「スーパーちゃーしゅー麺」(1080円)と「厚切り炙りチャーシューメン」(1300円)が存在するのです。
この日は「スーパーチャーシューメン」を注文。肉が食べたかったから。
このお店のチャーシューは、写真だと美味しそうに見えると思うのですが、残念ながら箸でつまぬとポロポロとなってしまう弾力の無い肉。でもこれをこの個性ある黒い濃厚なスープに浸して食べると、抜群に美味いのです。


・・・・・・が、お金を払って車に乗り込んでから、代金で1300円請求されて、それを払ってしまったことに気づいた。やられたっ、あの中国人の女性店員めっ。くそうっ、深夜で疲れ切っていたんだようっ。

 

3月23日 満洲屋が一番(べんがら横町)

半月ほど前に、べんがら横町開店(2005年)当初のメンバーの中で唯一残っていた「でびっと」がとうとう撤退したんです。一度だけ食べた経験があるので、もう感慨深くって深くって最後に是非食べに行きたかったんですが、いろいろあって結局行けなかった。

で、今日はたまたまザザシティのアニメイトに用があって浜松まで出掛けたんですが、だいぶ前に食べた一幸舎の博多ラーメンがまた食べたくてべんがら横町に向かったら、でびっとの後に新店が入店していたのでフラフラと。
久留米の名店で現在フランチャイズ展開を熱心にしているという「満洲屋が一番」です。もうね、久留米ラーメンというだけでよだれじゅるりです。学生時代、長崎から10人ぐらいで車に乗って久留米までよくラーメンを食べに行っていた記憶があります。

注文したのは極チャーシューとんこつしぼり(980円)
おお! 乳白色!
食べてみて満足。非常に甘いです。甘いのにおいしいです。背脂は最近敬遠気味ですが、山岡家に続けてこうまで美味しい背脂を食べることになるとは! 甘みがある上に、なんと、歯応えまである!(背脂にですよ)
前食べた「萬天」みたいに表面にマー油がくるりとかけられているのですが、タイトルに「極み」とあるのは、中央の赤茶色い「秘伝のタレ」のゆえですが、これがあるだけで通常メニューの「とんこつしぼり」とは100円違います。しかしこれがすごくウマイ。私は舌バカなのでこれがなんなのかさっぱりわかりませんけどね。これは、豆板醤と、豆板醤と、豆板醤と、、、 豆板醤って何でしたっけ?
そもそも「呼び戻し製法」による「豚骨しぼり」っていうのが良く分かりません。
ま、美味しいのでいいです。

と、これを書きながらいま、ネット上の「満洲屋が一番」の評判を見ながら、その悪評の数々にげんなりしているのですが、おかしいぞ、すごくおいしかったぞ。
大体チープといわれているチャーシューが、浜松店では味が良く染みたぷりぷりした美味しいものだったし、麺はこれまた良い堅みの食べ応えのあるものだったし、多展開店舗ならではの場所によって違うものかね。あと3ヶ月経つと味が変わるのかね。どうも首をひねる。

ともあれ今回入れ替わった3店のうち、(横浜ラーメンはアレでしたが)、徳島ラーメン(すんません行ったのは1ヶ月前です、まだレポート書いていません)と久留米ラーメンは非常に満足なものだったので、これからもがんばってべんがら横町に行こうと思います。・・・・って言おうかと思ったら、調べてみたら徳一と満洲屋って経営が一緒なんですね。・・・そうと知ったら微妙。

 

3月22日 山岡家(有玉店) 醤油豚骨プレミアム

私は職場では無口な男で通しているのですが、ラーメン話になると熱いわけです。
私の仕事場には私同様、ラーメン好きが異様に多いのでして。男はやっぱりみんなラーメンが好きなのですやはり。(女性は決してラーメン話には加わらない。以前ここにもラーメン通の乙女がいたのですけどもね、もういなくなってしまった、、、)。ラーメン話をしていると山岡家の評価は大きく分かれる。私が議長をつとめる過激(ジャコバン)な山岳派と、穏健な昔ながらのラーメンを押す王党派並びにそれに荷担するジロンド派と。山岡家ってのはラーメンとしては過激を通り越して暴虐の極みなんですが、まあ、過激派と穏健派だったら押しの強い意見の方が往々にして通る道理でしてね。浜松人というのは根底として保守的なのに流行に対しては無抵抗に犯されるがままになる。嘲笑されるのはいつも日和見なジロンドの奴らです。
こんなに山岡家嫌いがいる浜松で、また3/24に浜松で3店舗目が開店されるというニュースを聞いて笑った。この規模の町に3つも山岡家はいらないねん。どんだけみんな山岡家が好きっちや。ちなみに新しい3店舗目は蒲の御厨内ですってよ。4店舗目はぜひ私の住んでる浜北に!

で、その山岡家の悪評で一番多いのはその独特の臭いに関する物で、「あの匂いのせいで一口も食べる気にならない」と言われるほど。おかしいね、私などにはあの強烈な豚のニオイが絶妙に食欲を百倍進させるのにね。
でも、そういった声を気にしたのか、(主に匂いと邪悪な攻撃性の面を改善させた?)「プレミアム豚骨しょうゆ」が期間限定で発売されたというので食べに行ってみました。

山岡家の通常の醤油ラーメンは590円なのですが、この「プレミアム」は730円。(高い)。それにチャーシューを5枚追加(+300円)なので計1,030円でした。・・・・あれ? よく見るとノリが乗っていないぞ?
一見して分かる違いはスープに漂う無数の背脂とワカメ。ワカメはともかく背脂には期待が高まります。家系ラーメンってふつう背脂は使いませんからね。
感想、確かに匂いは控えめ。でもやっぱり山岡家の最大の魅力はあの凶暴な香りなのでした。そういう余分な感慨を気にしないようにすれば、極めて美味しい一杯でした。「山岡家反対派」にも自信を持ってオススメできます。もちろん店内全体を覆う獣の香りはこのプレミアムをもってしてもどうしようもできませんが。
個人的にポイントが高かったのは、小さく刻まれて投入されている沢山の生のタマネギ。最後までシャクシャクです。これが甘ーい背脂と絡み合って、抜群に美味しいったら!

麺がいつもより黄色くて、しかもすこし縮れていたので「いつもと違うこれ専用の麺?」って思ったんです。でも隣りの人のをチラリとみたら同じ色だった。・・・・あれ? もとからこんな色だっけ? でも写真で見るだけでもよだれが出るくらい美味しい麺です。極太麺大好き。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一つの指輪は全てを見つけ、一つの指輪は全てを捕らえて、うらやみのなかにうなぎとめる。

2009年03月17日 21時28分08秒 |   源頼朝

久しぶりに2日間も休みが貰えたので、「溜まってる日記を次々と消化させるぞー」と意気込んでいたら、親が「温泉でも行くか?」と言うからどうせ近くの日帰り温泉だと思って「オッケー♪」と答えてから「どこに行くの?」と問うと、下部温泉だという。山梨県です。遠いよ、日帰りはしんどいよ、と躊躇しているともちろん日帰りじゃなくてお泊まりですってさ。親は最近変な会員制の旅館巡り企画に手を出してまして、格安で泊まれる代わりに年に数十回のペースで各地の旅館を巡らないとモトが取れないらしい(11月に行った越前旅行もソレでした)。もちろん費用は親が全部出してくれるというのです。気持ちの悪い状態のママで宙ぶらりんとなっている多々のブログ記事のことは気になりましたが、でもやっぱり信玄公の隠し湯のことも捨てがたいし、結局「うん」と答えちゃった。・・・・ところが、明日の今日で宿の予約が簡単に取れるわけもなく、やっぱり下部は満杯だったそうで、代わりに伊東の温泉に行くことになった・・・・・・
結果オーライ。ラッキ~

もちろん、この旅は私にとって「伊豆の伝説の頼朝巡り」の一環です。
前の一巡では見逃してしまっていた場所が多かったですからね。

午後3時ぐらいに伊東に着いたのですが、親をホテルに置いて早々に私は一人で車を出す。向かうのは伊豆高原にある富戸です。
伊豆高原は世にも珍しい場所でして、高原なのに海がある。この富戸港が以前1年ぐらい私の仕事場だったことがありまして、伊豆の国市の自宅からここに赴くたびに、「なんと美しい海なんだろう~」と毎回嘆息していたのでした。大好き。
海の景色と同じくらい独特なのが、港町の風情です。なんと文字通りに海に面しているのに高原地帯の趣なのです。落葉樹と溶岩性大地と細い山道。通勤していた頃から度々その桃源郷のような光景を写真に撮ろうと幾度と無く試みていたのですが、どうにも巧くいかないので今日もあきらめる。

さて、ここにも頼朝伝説がひとつあります。
源頼朝と伊東の領主・祐親法師の3女との間に生まれた嬰児に関する伝説。
曾我物語では激怒した祐親によって幼児は伊東の町の真中を流れる松川の上流で沈められたことになっているのですが、伊東の伝説では、3才児の遺体は川を流れて海に出、海流に流されて富戸の海岸に打ち上げられたことになっているのです。松川の河口と富戸海岸ってかなり遠いぞ。

当地の伝説では、海流に遙々15km流されてきたこの幼児を、富戸海岸でつりをしていた釣り人が発見して、崖の上で乾かして丁重に葬ったということにされています。その幼児がとんでもない高価な衣服を着ていたので釣り人はその遺体の身分が気になっていろいろ調べてみたところ、頼朝の子らしいということが明らかになったのだという。頼朝ものちに子を発見してくれたこの男のことを知り、称賛の言葉と生川(なまかわ)という姓を与えたそうです。

近くに、頼朝がこの死んだ自分の子を祀った「富戸三島神社」があります。

富戸の町はきわめて独特なつくりをしています。きわめて細い坂道と地形の高低差で出来た町。働いていた頃は一帯を難儀して走り回っていたのですが、そういえばスーパーうわみつじの陰に小さな神社があったことは気が付いていた。でもまさかこれが頼朝ゆかりの神社だったなんて思いもよらなかった。

小さな神社ですが、彫り物がやたらと見事です。
また、さらにこの本殿に接着するような形で細長い巨大な歩廊とお籠り堂というか公民館みたいな巨大な建物が付属していまして、この土地にとってこの神社がどういう位置づけなのかが気になる。ちょっと変わった神社です。

子供を流したとき、沈めた人間はかわいそうに思って近く(伊東市鎌田町)の八幡神社の境内に生えていた橘の小枝を子供の両の手に握らせましたが、富戸海岸に流れ着いたときに子供はまだその小枝を握りしめていたそうです。村人はその小枝をここに植えましたがそれはすぐ枯れ、惜しんだ村人がもう一度植えたら今度は見事に根付いたそうです。(再生の神話?)  ただし現在あるこの木は3代目(?)らしい。

注目すべきなのは、ここで頼朝は死んだ自分の子供を「若宮八幡」として祭り、また神社を三島神社としたことです。私が「頼朝は自分を三島明神もしくは蛭子神と同一視していたと思う」という説を遙か遙か大昔に唱えたことがありましたよね。(どこで言ったんでしたっけ)。若宮八幡といえばふつうは八幡神(応神天皇)の息子(仁徳天皇)のことを指すのですが、別の人になっている例も全国には多々あります。
ただし、この富戸の三島神社自体は奈良時代からここにあったと看板には書かれており、頼朝はたまたま自分の息子が上がった近くにあった三島社に「若宮八幡」を足しただけとこと。看板には続けて「この富戸三島神社は頼朝が流人時代に遙拝した十七社のうちのひとつである」と書かれています。
気になったのはこの神社の壁には「鹿島踊り」の歌詞の額縁が飾られていたこと。鹿島踊り自体は謎の風習なのですが、全国に結構見られる伝統芸能でして、静岡では島田大祭のものが有名ですが、伊豆でもこれを伝えている所はこれまた多い。
でもよく考えてみれば鹿島大神というのは記紀のタケミカヅチ神のことで、三島神の本体とされるヒトコトヌシ神とは不倶戴天の敵じゃん。下総の鹿島大社の正面がタケミナカタ神を祀る信濃の諏訪大社を睨むような形で建てられている、とかいう話を思い出します。(※注;こちらのサイトさんには、「鹿島踊りが伝わっている地域には出雲神を祀っている場合が多い」と書かれています)
で、鹿島踊りとは地区によって大漁祈願とか、悪霊退散とか、疾病退散とか、航海安全とか、全然違う意味を願われていますが、とりわけ伊豆の富戸においては、ここが全国でも有数の海坊主伝説の中心地であるという事も留意すべきです。

なお、上掲の伊東市の看板には「千鶴丸」に「ちづる」とルビを振っていますよ。岩波書店版の曾我物語では「せんつる」なのに。「万寿(まんじゅ=頼家)」、「千幡(せんまん=実朝)」、「一幡(いちまん=頼家の子)」に対応しているんだと思うんですけど、伊東市では「ちづる」とするのが公式見解。

神社の裏には伊東市の名木と書かれた「たぶの木」がありました。以前行った伊東の町中の「音無神社」にもありましたよね、タブのでかいのが。なにげに頼朝と関係のある植物なのでしょうか。

さて、3年ぐらい前に富戸の海岸を仕事で流していた頃、海岸沿いにとても気になっていたスポットがありました。なんやら岸壁に展望台らしきものが立っているのですが、ゼンリンの地図でもそこに至る道が載っていないという謎のスポット。のちに、千鶴丸の産衣石についての情報を調べていたところ、どうやらその謎の展望台の所にそれがあるらしいという。今回意を決してそこに行ってみました。どこに車を止めるんだか分からないほどの小路の果てにあります。まさに絶界の港町・富戸らしいスポットであります。

ほんとにね、「こんなところ入っていいんか」という街路を入っていくんです。でもその先はちゃんとしたちょっとした公園になっているので心配ご無用です。徒歩15分先の海岸に車を停め小路を抜け行ってわたしが入って行ったとき、入口付近で犬を連れて散歩している地元民らしき方に「なんだこいつ」「不審者だ」「怪しいぜこの男」的にじろりと見られて(被害妄想)路地を突き進んだのに、でもその先には観光客らしき若い女性たちがたくさん戯れていてかなり脱力したのでした。駐車場も無いのにどこから湧いたのだこの人たちは。まあ、ここは城ヶ崎に次ぐ絶景スポットなのですね。

岩の岬(御根もしくはう根というそうです)の先にはこぢんまりと城ヶ崎桜が乱れ咲いており、その先にありました。「産衣石」「若宮八幡」です。

神社は、わたしがこよなく憧れるALABAMAさんは「竜宮神社」と呼んでおられますが、小さな祠です。でもこんな小さな岬なのに盛り上がった石段の上にある。なぜだか旗を掲揚する長いポールが2本も立っています。何の時に使うんでしょう。(特別な祭礼があるのだなきっと)

この産衣石。明らかに火山岩で、しかも表面の灰白色のざらざらした腐食しやすい部分と内部の黒い光沢のある堅い部分の2層に分かれているのが見て取れて、周囲の岩と違うのが分かるのですが、なにやら上部に人の手でコンクリで何かを立てようとしたらしい構造があることがわかります。これなに?

「2時間サスペンスの名所」として有名なのは隣の城ヶ崎ですが、富戸のここでもそれより小規模ですが極めて優れた絶景を眺めることができます。柱状節理。海が深い碧。
ここに千鶴丸が流れ着いたのですね。ジャジャッ、ジャジャッ、ジャジャジャーーン。最初犯人とされたのは松川の上流で彼を沈めたことが目撃された伊東祐親の郎党でしたが、名探偵・稗田礼次郎の巧みな推理により真犯人は別にいてそれは当初被害者だとみなされた意外な高貴な人物だということが明らかになったのでした。キーとなるのは時刻表トリックならぬ海流時刻表トリックです。大体3歳児なのに産着を着ているのがおかしいじゃん。最後に厳かに哀しい真相を告げてから馬上より相模川に身を投げる連続殺人の真犯人(実は彼は女性でした)。

千鶴遺産はこのくらいにして、次は以前探索しそびれた、八幡野の「河津三郎の血塚」に行きます。
ここは隔絶された別荘地にあって、「関係者以外の無断進入を禁ずる」の看板が随所に立てられているのですが、申し訳ないけど無視して進むことにします。ゴメンナサイ。

よし、これだけ明るければ大丈夫。
って、前来たときは車のライトが届く範囲まで進んだんですが、その先に遙か深い闇が延々続いている気がして「こりゃだめだ」と思って引き返したんでした。
ところが、明るい今になって来てみれば、前回引き返した地点のほんの先に目的のものがあった。ほんのちょっとのものだったのだよ~~

でもこの血塚、確かに何か禍々しい感じがします。
何かのオカルト本にも「無念に殺された武者の怨念が~」とか書かれていた気がするナ。
ここで殺された河津三郎とは伊東領主・伊東祐親の長男で、強力で知られのちに相撲の神にまでなった人ですが、彼の父祐親が無惨に所領を奪った伯父の遺児(工藤祐経)の雇ったスナイパーによってここで殺されました。暗殺者たちも狙うんなら当の本人の祐親にすればいいのに。で、十数年後に河津三郎の息子たち(曾我兄弟)が仇討ちとしてなぜか源頼朝を狙い、間違って工藤祐経を殺してしまうのです。この事件はほんとわけわからん。
この塚の目の前が広大な竹林で、冬の風が吹き付けるたびに何かが叩きつけられる音がぱしっぱしっと鳴る。
が、とにかく雰囲気があるので、一方で心安らぐ場所であるのも間違いない。
「どうしてこんなに心が安らぐんだろう?」と思って、塚の前の小道をどんどん遡ってみたらその理由が分かった。

塚の横に看板があったのですが、この道は現在の海沿いの国道が出来る前は、下田街道の本道が通っていた場所だったんですって。
通常ならば、そのような場所は地域起こしの名のもとにそれっぽい改修をなされてチープに売り出されるのが常で、実際この場所も伊東市によって「なんとかの散歩道」とかの整備をされかけたらしいのですが、何らかの理由でそれが中止されたらしい。この道も途中で行き止まりになっています。
しかし、そのおかげでこの付近には一切の開発がなされてなく、静寂。この石垣はわざとらしいですけどね。でも許容範囲です。
「鎌倉時代の街道ってこんなかんじだったんだな」と改めてしみじみしました。
河津の三郎はこの近くを馬で家まで帰ろうとしていたときに、木の陰から狙撃されたんですね。
この付近にあるという実際の狙撃点、“椎の木三本”も結局どこにあるのか良く分からなかったですけど。

・・・さて続けて、「八幡野」という地名の語源となった「来宮八幡神社」に行ってみました。異邦神である来宮神と武神である八幡神が一緒に祀られているという珍しい神社で(普通にある合祀という形ではなくて、並列された別々の一級神が同一の社殿で祀られているという扱い)、これまた「頼朝が自らを異訪神としてみなしている」という私の説を証立てたかったんですが、行ってみても何の証拠も無かったので、今回は解説をパスします。
雰囲気は良かったですよ。狛犬がやたらたくさんありました。
冒頭の狛犬の写真はここのものです。

・・・で、つづけて本日のメインイベント!
伊東市吉田にある「吉田家」です!
数ある家系ラーメンのうち、わたくしが「もっとも美味しい」と信じてやまないお店。
吉田家とは藤原北家勧修寺流の公家で、初代関東申次吉田経房や後の三房の一人吉田定房を輩出し、後に嫡流は甘露寺家、庶流が中御門家・坊城家・万里小路家・勧修寺家・穂波家・岡崎家・芝山家・清閑寺家などと名を変え、現在も存続しております。

なんといってもね、キャベツがね、キャベツが!!

今回はチャーシューメン(950円)に玉子(50円)をトッピングしてみました。
朝から何も食べていないわりにそんなにお腹も空いていなかったので普段ならタマゴなんて付けないのですが、そういえばここのタマゴは現在主流の味付半熟玉子ではなくただの普通のユデタマゴだったな~と思い出し、写真に撮りたくなって注文してみました。うん、普通のゆで卵です。味は染みていません。

以前にも書きましたが、店内が異様に見晴らしが良いので、かつては「怒声で有名」とされたが今では丸くなった(らしい?)というおやっさんと若い衆らのほのぼのしい掛け合い、2つの寸胴の中身、麺切りは若い衆に全部任すが盛りつけのコーディネートはおやっさんがやっている様子などをただただ黙って見つめて麺が出てくるまで待つしかありませんでしたが、これがきわめて楽しい。
吉田家のラーメンは一般に「しょっぱい」と評されることが多く、わたしもそう感じたことが多々あるのですが、この日の一口目は抜群に美味かった。なんという調和! なんという攻撃力! なんというシャクシャクするキャベツ!
チャーシューも麺の旨みも抜群です。こんなにウマかったっけ。
う~~ん、山岡家の百倍うえです。

が、最後の方にはやっぱりしょっぱくなっていました。
塩だれは下の方にたまっていたんですね。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠州地方の源平時代に関する地図。

2009年03月06日 15時37分28秒 | 遠州の歴史

以前に、「浜松周辺には歴史的に面白い場所が少ない」と言いましたが、愚痴ってばかりいてもしょうがないので、一覧できる地図を作ってみました。
「多いじゃん」なんて言うなかれ。遠州に限らず、源平にまつわる伝説なんて、全国どこに行ってもコレくらいはあるものなんですよ。これじゃ少ない方です。
私は“頼朝伝説の宝庫”伊豆に住んでましたので、どうしてもそれと比べて嘆いてしまう。

では、とりあえず各所の見所をリストアップした上で、この土地全体の特異性を述べてみようと思います。

(A).(かば)の御厨(みくりや)
われらが征西大将軍・源範頼公の出身地です。ここについては以前に詳述しました、、、 あら、よく見たら、まだ途中でしたが、、、見所は3ヶ所。蒲神宮、子安神社、竜泉寺(範頼別邸跡、範頼の墓、範頼の愛馬の首塚がある)。蒲神宮の社伝によれば今の宮司さんの家系は範頼の血を継いでいるそう。地図に書き忘れましたが、佐鳴湖畔には「範頼茶屋」がありましたね。

(B).池田の宿(しゅく)
天龍川の渡し場として栄えた宿。
遠江守だった平宗盛とこの宿の長者の娘だった熊野(ゆや)御前とのロマンスが有名です。宗盛の切願を振り切って故郷に帰国したあとも、熊野御前はいろいろとエピソードを残しているのだとか。
「熊野の長藤」で有名な行興寺と源平新田という地名があります。
源平の時代には池田の宿は天龍川の西岸にあったのですが、川の流れの変化によって現在は東岸となり磐田市に属しています。

(C).白拍子(しらびょうし;地名)
熊野御前に関連して、平家物語の終わり頃に平重衡と千手(せんじゅ)の前という人のロマンスが出てきます。千手は静岡市の手越の宿の長者の娘で、伊豆で狩野宗茂の手引きによって重衡とロマンスし、重衡が死んだあと、平家物語では信州善光寺に、源平盛衰記では「中将第3年の遠忌に当けるには、強て暇を申つゝ、千手23、伊王22、緑の髪を落し、墨の衣に裁替て、一所に庵室を結び、九品に往生を祈りけり」となっているのですが、なぜか当地の伝説では、千手はここに移り住んで重衡の菩提を弔ったとされているのです。
推するにこの背景にはなにかと強い影響力を持っていたらしい熊野御前の何らかの引きがあったかと。
地名となった「白拍子」も当然この女性のことですが、・・・あれ、いつ千手の前は白拍子になったでしたっけ? ただの頼朝付きの奥ゆかしい侍女だったはず・・・ そういえば当地のせんじゅのまえは「千寿」という当て字になってます。別人かも。
でも当地ではこの類稀なる美女を偲んで地酒がつくられたりしています。

(D).浅羽(あさば)の荘
治承4年(1180年)に遠江守となった甲斐源氏の安田義定の拠点です。義定は建久5年(1194年)に頼朝によって討伐されており、その間遠江の国主としての義定はさまざまな問題を引き起こしたことが吾妻鏡に記されているのですが(一度などは後白河法皇の抗議によって下総守に左遷させられている)、なかなかどうして、兄の武田信義よりもとてもエネルギッシュで積極的で政治的で無思慮な人間だったようです。平家追討では大活躍。
さがみさんの小説には快活な義定公が頻繁に出てくるのでおすすめなのですが、個人的な関心としては、吾妻鏡において最初遠江となった義定をバカにして強く反発し、激しい諍いを起こした遠州の豪族の浅羽庄司宗信と相良三郎が、のちには義定の心強い手勢となっていること。知られざる所でなにか男っぽいドラマがあったようです。
ところで、義定は朝廷から遠江守に任じられたはずなのに、彼が遠江に持っていた領地って浅羽だけなんですかね。辺鄙な土地すぎる。
なお、義定のあと(1199年から)に遠江守となっているのは北条時政です。

(E).橋本の陣
その安田義定が、富士川の戦い後、源氏よりも平家の方がまだ圧倒している時期(治承5年閏2月)に尾張まで再び進軍している平家軍を見て、和田義盛や岡部忠綱、狩野親光、宇佐見祐成、土屋義清を率いて陣を張ろうとしたのが新居町のここ。名将が名将たるゆえんは布陣を見れば全部わかってしまうもの。果たしてここに城を構えた甲斐源氏の雄・安田義定は名将だったのでしょうかね。
(この頃の頼朝は一分の間隙もなく義定を信頼しています。すでに平行して遠江国での紛争は起こり始めていますけど)
この時代はまだ浜名湖は太平洋とは繋がっていない純粋な淡水湖だったので、歩いて舞阪からここに来れたそうです。

また、別のエピソードですが、源頼朝の‘16人の愛人’のひとり・もみじ姫が隠棲した紅葉寺がこの近くにあります。それは奥州征伐後の建久元年(1190)に上洛する途中に頼朝がここにしばらく滞在して大芸者遊びをしたときの出来事だと思われますが、それとも別に、『増鏡』にはこの橋本で頼朝が梶原景時と歌合戦をして「なんと仲の良い主従だ」と人々を感嘆させたというエピソードも載っています。

(F).
源頼朝の命の恩人・慈愛深き池禅尼の出身地と伝えられる場所。
浜松市の中心街にあります。
・・・って、いや、禅尼(藤原宗子)は藤原北家の名門(父は従四位上ですが)の出で、池の禅尼と呼ばれたのは六波羅の池殿で暮らしていたからで、決して出身地がその由来になったのではないのですが、、、、
しかし当地では一般にこういう通説になってるんだもん。その理屈で言ったら池なんて字の付く地名、世界に星の数ほどあるぞ。
ま、この時代、藤原氏の末裔の広がりなんて、いろんな可能性が考えられます。

(G).長田(ながた)
頼朝の父である源義朝を、知多半島の野間にて卑怯にも風呂場にて騙し討ちしたとされる長田(おさだ)庄司(しょうじ)忠致(ただむね)の出身地だといわれています。
・・・って、世の平家物語愛好家は、みんな長田庄司は三河の出身者だと思ってると思うんですけど。
しかも長田(おさだ)じゃなくて長田(ながた)だし、よりにもよって蒲御厨の中心地にあるし、今では長田町という名前は嫌われて和田町という名前に改称されてるし、てか、よりにもよって和田だし。
でも考えてみれば、機を見て敏、世の流れに先んじて自分の長所を権力者に巧みにアピールしてみせるのはいかにも浜松人らしいです。あの猜疑心の固まりである頼朝が、いくら激戦のさなかとはいえ、親が殺されて20年も経っているとはいえ、最も憎っくき忠致に対して「粉骨砕身すれば美濃尾張を与える」と言ったなんて、この背景には何かがあったと思えてならないです。長田もまた騙されただよ。長田氏の子孫と伝えられる一族は意外にたくさんいますし。
遠州人なんて、裏切ってより栄達を求めてナンボです。その本能により他人にたやすく騙されるのもまた遠州人の特質です。

(H).鎌田町
逆に言うと、“とことん忠義の士”で知られる鎌田正清はどうも流行に本能的に敏感な遠州人っぽくないです。むしろ伊豆人っぽい。
鎌田は長田の娘婿だったそうですが、そういう違和感が長田をああいう行いに走らせたと言えなくもなくもなくもなくはない。
逆にどう見ても勝ち目の無さそうな源義経に最後まで従ったと伝えられる鎌田正近(=正清の息子だといわれる)は、なんとなく遠州人らしいです。この磐田市鎌田町がその鎌田一族の故地だということです。

(I).朝長(=源頼朝の兄)の墓
ここについてはここここで詳しく書きました。

(J).医王山薬王院油山寺
眼病療癒と大天狗“軍善坊”の功験で当地に名を轟かす油山寺は“遠州三山”のひとつですが、源頼朝とも深く関わりがあるとも言われています。
油山寺の公式サイトには「油山寺の本堂と三重塔は建久元年に源頼朝公が眼病全快のお礼に建立したものであり、その後、遠江国守護職工藤祐経が薬師堂と共に普請奉行をされた由緒深い塔であります」と仰天のことが書いてあります。頼朝はいつ眼病になって工藤祐経っていつ遠江守護になったんだ?
入り組んだ系譜を持つ中遠の名族・久野氏(※遠江守を称す)の系図の中に祐経がちらっと出てくるらしいのでこういう記述になったらしいと愚考致します。(※参考サイト

(K).渋川の「渋」は渋谷金王丸の「渋」。
なんですって。
当然当地の伝承では金王丸と土佐坊昌俊は別人です。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

油がテカテカ。

2009年03月02日 23時32分16秒 | 遠州の歴史

ついでなので、近くにある油山寺へ行ってみました。
可睡斎・油山寺・法多山をまとめて「遠州三山」というのですが、わたしは興味が無かったのでこれまで行ったことがなかった。どこにあるかも知らなかった。油山寺は可睡斎のおとなりさんなんですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする