寺門派総本山、近江の園城寺(=三井寺)にある天狗杉。
足柄の道了尊はこの樹の頂から東に向かって飛び立ったのですよ。
大津はとても好きな町です。京都へ行く際はすべてこの町を起点としたい。この日(2017.4.6)の桜の木の花はこんな感じで半開きでしたが、これまで全国的に寒さが続いて各地で桜祭りの類は大童だったのにこの日は異様に暖かく、翌日に大津の町を巡ったら桜は満開だった。自然って凄いな、と思いました。
琵琶湖料理もとてもお好みなのです。そういえばこの時初めて東横インに泊まったのですよ。極めて鮮烈な体験でした。ああ、琵琶湖大好き。
鮒寿司ってみずから進んで食べようって普通は思わないでしょ? でも大津のお店で食べたら滅茶苦茶おいしいんですから!
琵琶湖博物館(750円)へ行きました。ここが滅法楽しくて、私たちが愛する浜名湖にも是非こういうのを作るべきだと思いました。濱名湖の多種多能の生物や芸能をこんなに網羅できる施設がわたくしたちも欲しいな。(ウォットがあるけど)
これは「アカントガンマルスビクトリイ」。なんだこいつは。
他に、「アカントガンマルスヘイレスティ」も展示されています。
本当はこれは琵琶湖に棲んでいる生き物では無いのですけど(←バイカル湖の生き物)、こういうのを平然と展示できるのも琵琶湖の凄いところ。琵琶湖は世界の「古代湖」の筆頭的な湖だそうで、世界の古代湖には古代湖同士の密接なネットワークがあるんですって。(※濱名湖は古代湖ではない)。わたくしたちの浜名湖が古代湖になるには何をどうしたらいいんだろうな。
本当は私はここには琵琶湖産ブラックバスの「バス天丼」(930円)を食べに行ったのでした。いやいや、めちゃくちゃ美味しいですよ琵琶湖名物黒鱸。濱名湖的うなぎ民族民としては更に「なまず天丼」(930円)も試してみたかったのですけど、実はわたくしこの直前に懐かしい天下一品の堅田店で一杯の天下一品を食べてしまっていたので、とうてい無理でした。南無三。
さて、読書の記録をば。
●2016/12/08 18:13
「フリードリヒ大王の時代には国家財政の良悪が戦争の帰趨にかなりの重みを示していたが、国民徴兵の制度が良く整えられた今日にあっては、金の力はそれほど大きな影響力を持たない。それはせいぜい1、2会戦分を賄えば足りる。英国が莫大な金を使って大量の兵士とその補助者をいくら作り上げようとも、フランスは祖国愛と名誉心で同じだけのものを作り、戦争を賄い得ることを実証したのである。力は黄金で蝕まれ、そしてなお自らをよく守り得ないであろう。歴史は、最も富裕であった国民が実は最強でも至幸でもなかったことを示している」(アントワーヌ・アンリ・ジョミニ『戦争概論』)
●2016/11/24 09:38
「・・・舎利弗は「眼は困る。何でそんなのを欲しがるのだ。もし私の力や財物が欲しいのならばそれをあげるよ」と言ったが乞者は言った。「助力や金なんかいらない。眼だ、眼が欲しいんだ。あなたは檀を行っているのならそれは与えられるだろ?」 仕方なく舎利弗は片目を出して与えた。乞者はそれを取ると匂いを嗅ぎ、嫌な顔をして唾を吐き、地面に棄てて足で踏んだ。舎利弗は思った。こいつは悪人だ。人の世には弊が多い。弊人は度せない。他の人の眼は確かに役に立たないけれど、わざわざ乞うておきながらここまですることはないだろう。私は頑張って人の世を離れるようにしよう。こうして彼は菩薩道を離れ、小乗の道に入ったのである。こういう例を「彼岸に到らなかった」と言う」(龍樹『大智度論』)
●2016/11/24 09:15
「むかし天竺で舎利弗が六波羅蜜を成就しようとして、5つまで終了し最後の壇波羅蜜(布施)に取りかかろうとしたところ、隣国から来たひとりの婆羅門が金を乞うたので与えた。次に衣を乞うたので与えた。次に妻と従者を乞うたので与えた。次に身体の毛を全てくれと言ったので、一本残らず抜いて与えた。次に「お前の目をくれ」と言ったので、舎利弗は困ったのだけれど、いま自分はそういう行をしているのだからと思って、自分で両眼をくり抜いた。すると婆羅門はそれを手に取り、「目って綺麗だけど顔から出すと汚いものだね」と言って地面に投げ捨て、足で踏みつぶしてしまった。それで舎利弗は「この野郎、目は身体の中で一番大事な部分なんだぞ」と(心の中で)少し怒ってしまった。すると彼がそれまでに積んだ五波羅蜜の行の成果をも一気に解けてしまったとのことである」(『太平記』)
●2016/10/22 13:26
「放置しておけないので高祖が親征したが、平城近くの白登山で匈奴の大軍に重囲されるという大厄難に陥った。陳平の奇計によってともかくも脱出することができはしたものの、「その計は秘す。世、聞くを得るなし」と史記の陳平列伝にあって、世に知られては高祖の恥辱となるような不名誉な策略によって助かったとしか思われない。こういう目に遭ったために、高祖は武力によって匈奴を征伐することに懲りてしまって、以後は匈奴の單于に一族の女を妻としてあたえたり、年々に一定額の匈奴のよろこぶ物資を贈ってきげんを取り結ぶという和親策をとることにしたが、それでもなおうまくいかないこともあった」(海音寺潮五郎『中国妖艶伝』)
●2016/10/22 11:39
「リッベントロープは9月にローマを訪れ、チアーノに「イギリスの国防は無いも同然だ。ドイツは一個師団で簡単に崩壊させることができる」と述べた。これは彼の無知を証明するものに他ならない。しかし実際に、20万のドイツ突撃隊が英国に上陸したらどうなるかと私はいつも考えていた。双方とも残虐で大量の殺し合いを行ったことであろう。血も涙も無い果たし合いになったことであろう。敵が恐怖戦術を用いてくれば、われわれは手段を選ばず対抗する覚悟であった。私は「各人がそれぞれ一人を道連れにできる」という標語を使うつもりであった」(ウィンストン・チャーチル『第二次世界大戦』)
●2016/10/21 11:04
「われわれにとって“和音”といえばたとえば「ドミソ」のことであるが、中世において「ドミソ」は不協和音だった。つまり「ミ(三度)」が入ってはいけなかったのである。ためしにピアノで「ドミソ」と「ドソ」を弾き比べてみてほしい。柔らかい前者の響きに対して、後者はどこか尖ってまろやかさを欠く。空虚なものに聴こえるはずだ。だが中世の人々にとっては、この(近代の和声法では「空虚五度」と呼ばれて禁則とされる)「ドソ」の響きの方が「正しかった」のである」(岡田暁生『西洋音楽史』)
●2016/09/10 18:31
「ごく一般には、革命家には極端なアンチ・フェミニストが多かったといってよい。にも関わらず革命の理想の寓意は多くの場合女性の姿で表現された。もちろん中には極めてローマ的な厳しさを持った女性の理想像もあったが、多くはローマ的よりもっと親しみの持てる身近な女性のイメージが多用された。人権宣言を子供に教育するという観念は、図象では若い女性で示されたり、自然や共和国を表現するのに豊かな胸をはだけた女性像がさかんに使われてきたのである。この矛盾はもともと男が女に抱いた意識と連動したことであろうし、崇めると同時に貶めるという長い歴史と無関係ではなかった。特にカリカチュアの世界では、男はせいぜいスカトロジーどまりだが、女はもっと露出的にエロチックに描かれる」(多木浩二『絵で見るフランス革命』)
●2016/08/31 07:28
「“アメリカ”=“自由”であると浅薄でない観察者は言う。この正当に尊重された原理は“ボルシェヴィズム”から“酒精分2.75%のビールを飲む権利”までのすべてと解釈されている。“チャンス”という語句もアメリカでは人気のある言葉で有り、「アメリカ」と「チャンス」が同義語であるということは、モンゴメリの『米国史の主要事実』を通じてエマーソンにより、多くの若者の頭に叩き込まれてきた。しかし銘記すべき事は、「アメリカ」を定義しているつもりのほとんどが、その特質をヨーロッパの源泉にまで辿りたがらないということである。彼らは自然発生が生物と同様に思想でも稀である事を悟ろうとはせず、アメリカが先立つ起源の無い孤立した現象であるかのように論じようとする。実は「アメリカ気質」は「アングロサクソン気質」の発展した物である」(ラヴクラフト『アメリカ気風』)
●2016/08/31 06:35
「サヴォナローラの審理は拷問によっておこなわれた。その拷問はあまり厳しくはなかったという。作られた報告書は比較的中立なものであった。その報告書にはサヴォナローラに対する誹謗中傷の文句は全く書かれておらず、彼の個人的性癖・秘密裏の政治的活動については全く触れぬ一方で、サヴォナローラの示した予言は決して神の啓示では無かったとしていた。それは教義と聖書の研究に基づいた彼自身の見解であったとする。彼の目的は教会で高い地位を得ることではなく、遍いた会議を開催して堕落した僧侶の世界を一新したい。その達成は教皇になるよりも高貴なことだと彼は考えた、とした。裁判の場でその報告書が読み上げられると、サヴォナローラは「言葉少なく」同意し、有罪が確定したという。その言葉は様々に解釈されよう」(グイッチャルディーニ『イタリア史』)
●2016/08/29 11:20
「戦いに敗けたマケドニア王ペルセウスが降伏した時、王が「執政官の元に連れて行ってくれ」と言ったので、逆に急いで執政官アエミリウスの方が会いに来た。ところがそのとき王が見苦しくもひれ伏し執政官の膝にすがりついて助命を乞うたので、アエミリウスは呆然として言った。「気の毒な人だ。あなたは神話の国の王なのだから、運命すら非難することができるのに、そんな態度をしたら、あなたの不遇は当然のもので、捕虜となることが当然で、栄光の帝王であったあなたの過去の方が不当な物だとなってしまう。どうしてあなたは自分がローマに立派な相応しい敵であったことを示そうとしないのです。卑怯はローマ人が最も軽蔑するものです」。こうして王は運命が失脚した人々から奪い取らない唯一の物、すなわち憐れみをも失ってしまったのである」(プルターク『アエミリウス・パウルス伝』)
●2016/08/19 12:48
今日の第六天魔王「ヴァジラーという尼様が托鉢の後に薄暗い森で休憩を取ろうとした。巨大な齧歯類が彼女に身の毛のよだつほどの恐怖を与えようとして語りかけた。「生者は誰が作ったのかな。生者は何から作られたのかな。生者はやがてどうなってしまうのかな」。
彼女は困った。
「誰が私に話しかけているのだろう。もしかして悪魔?」。
そう思って慌てて独り言を言った。
「悪魔さんは生きてるものがいると思っているのね。でもそれは間違っている。生物はただのパーツの集合ですよ。総合体の生きた物なんていうのはないのです。簡単に言うと“五蘊”の活動が「己は生きている」という錯覚を引き起こすんですね。だから苦しみが起こりとどまりそして滅びていく。苦しみ以外にはなにも生起しないし、他には何も滅びない」
・・・巨大な齧歯類は、「この女性はよく知っている」と思ってその場を去った」(仏典『悪魔との対話』)
●2016/08/19 04:45
今日の尊良親王 (冬の哥の中に)「おのづから まどろむほどに 氷るなり 泪(なみだ)ひまなき たへの袖」
(大意)勝手にまどろむなかに、涙が勝手に流れて勝手に凍ってさらに勝手に涙が流れ、更に氷る。本当に袖が乾く間もないよ。(乾く前に凍るんだから)
・・・・・・極寒の中で戦いに負け続け、味方を失い続けていく自分の寒い身を歌っている。「おのずから」が「まどろむ」と「凍る」と「涙」と「ひまがない」と「たへ」のすべての語句にかかっているのがこの歌における親王の腕の妙なんですね。いや「たへ」とわざわざ仮名で書いているのは「妙」と「多栄」と「耐え」と「絶え」を掛けているのだろうから、「袖」とは父・後醍醐帝のことを言っているのかもしれないけど、まだこの時点で帝は死んでないので、やっぱり弟・護良親王のことを偲んでいるのかもしれない。今は亡き彼のことを考えると涙すらも勝手にバキバキと凍ってしまうって。
●2016/06/26 12:41
「細川忠興に、通の冑とはどういうものか尋ねた人がいた。忠興はみっちりと書いた極意をその人の使いに渡した。使いの人はそれをざっと読んで言った。立て物の下地は桐の木と書いてあるが、木だとすぐ折れてしまうじゃありませんか? 即座に忠興は憤怒した。お前は弓箭取りの使いとも思えぬな。いくさに臨む者が誰が生きて帰ろうなどと思うものか。ふたつ無き命なのだから兜の立物が折れることなど厭うべきものでもない。軽いのが一番だ。立物が折れるほど働く者に何の見苦しきことがあろうか。むしろ面目である、と言った」(『常山紀談』)
●2016/05/05 01:29
「私たちのために、宗教上の人物や神話に出てくる人物は姿を変えられてしまった。本当は宗教や神話の先師たちは、自分たちが何を話しているかを承知していた。その象徴的な言葉が改めて読めるようになれば、必要なのは、その教えが自然と耳に入るように神話等を集めるアンソロジストの手腕だけとなる」(ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』)
●2016/04/18 17:12
「宝暦の初めのころ参州矢作橋の普請が行われ、江戸から大勢の役人や職人がやってきた。ある日一人の人足が川を眺めていると、板に乗った人形みたいなものが流れてくるのを見つけた。ああ子供が遊んで流したんだな、でも、その人形が子供が作ったとは思われぬほど見事だったので、彼はそれを面白く思って持ち帰って宿所に飾った。するとその夜しきりと、変な、夢なのか夢でないのかよくわからないものを見た。明日はこんなことがあるよ、誰かは明日寝込むよ、誰かは明日あそこへ行くよ、と。夜中だったので凄く面白かった。朝起きて彼は思った。これが世に言う外法かと。翌日懐にそれを入れて歩くと、終始それはそんな調子だった。最初は面白かったが、次第にうるさく邪険に思った。でも、こんなもの容易には捨てられない。思い余ってそれを知人に打ち明けると、こう言われた」
「彼はすごくおののいて言った。変なもの拾うんじゃないにー。儂も遠州の山の方でそんなものを流すと云うことを聞いたことがあるだら。でも、それ捨てたら禍を受けるというだに。おまえ馬鹿だら。・・・今さらそんなことを言われても、と江戸の若者が途方にくれていると遠州の老人は言った。きにすんなきにすんな、そんなもん元のよう板に乗せて子供が流したようにしたらエエだら、できる限り川の上の方に行って後ろを向いて放ればええでえ。誰も気にせんに。投げたら絶対そっちを見たらいかんで(罪悪感が出るからな)。そう言われたので、若者は大いに喜んで老人に言われたとおりにすると、とてもすっきりした」(『耳囊』巻3)
●2016/04/17 09:08
「貞観2年に太宗が封徳彝に言いました。「世の安寧はすべて政治に有用な人材の有るか無いかに懸かっている。先般お前に賢才をできる限り推挙するように命じたのに、お前はいまだ一人も推薦してこないではないか。天下は重いのだぞ。お前には朕の重責を分かち合って貰いたいのだ。お前が言ってくれなければ朕は何を頼りにすれば良いのか」。封徳彝は言いました。「一生懸命探しているのですけどなかなか見つからないのです」。太宗は言いました。「名君は決して人を過去や未来に求めたりはしない。みな当時に実在する人の中から選ぶのだ。殷の高宗が夢によって傅説を得たとか周の文王が釣りの途中の太公望に会ったとか、そんな奇跡を待っていたら現代の賢才を得る機会を逸してしまうよ」。封徳彝は赤面して御前を退した」(『貞観政要』)
●2016/04/17 08:27
「関ヶ原後、公は大久保治右衛門忠佐に2万石を与えて三枚橋の城主としたが、渡辺忠右衛門(=槍の半蔵)は殿の近習に向かい、たびたび声高に不満をぶちまけていた。皆は治右衛門を武功の者と言うが、奴はこの忠右衛門を見て逃げた情けない者だぞ、と。この話を聞いて公は治右衛門を召して言った。私は聞いている。三河の一向一揆の時、渡辺兄弟が弓を持ちその配下の七人が鉄砲を持って待ち構えている前に、お前は立ちはだかって「一対一の勝負なら手並みを見せてやろうが、飛び道具だらけの大勢に一人で向かうのは犬死にだ」と大音声を放ってから退いたのだと。お前の方が正しい。渡辺のような馬鹿を言う奴は今後取り合わず、捨て置くべきだぞ」(『常山紀談』)
●2016/03/08 23:11
「彼は自分を「敏感な気むずかしい性格」だとしている。晩成型であった彼の身体的精神的人格が完成される様は、我々が「精神感性の釣り合い」と名付けたもので、細長型分裂気質の実に典型的な形態であった。少尉時代には背長身痩躯のモルトケの行動は均衡を欠き、この男が立派な軍人となることは非常に難しいと思われたが、その後、この敏感性は押し出しの立派な自制力のある簡潔な言動に覆われて目立たなくなった。晩年のモルトケは、動きが少なく、非常に真面目で寡黙で硬い彫刻のような顔つきをしていた。危機に瀕した戦争の瞬間ですら氷のような冷静さを保ったことは天下周知のことであり、この冷静さが周囲にも感応して、彼は反射的に人々を指導し統制することができたのである」(クレッチマー『天才の心理学』)
●2016/03/08 16:23
「むかし周の武王が殷の紂王を誅そうと兵を起こしたとき、厚い冬の空がどんよりと天を隠し重い雪が丈高く降り積もっていました。武王は心細く思ったのだけど、突如、五輪の車と二頭の馬に乗る人が門の外に現れて言ったそうです。「紂を誅すに、努め怠けなかれ!」。武王は不思議に思って人をやって調べさせると、雪の中に車馬の跡はありませんでした。それで海神が天の使として来たのだと知って、紂を誅する決意を得たのだそうです。漢の高祖は韓信の軍に囲れて危険だった時、天がいきなり霧に覆われて闇になって、間一髪で逃げられたそうです。これらはみな人の為に恵を成した英傑に、天が加護を与えたのです。木曽殿はいかがでしょうか」(『源平盛衰記』巻34)
●2016/03/08 15:42
「それはとにかく、われわれの子供の時分には、火の玉、人魂などをひどく尊敬したものであるが、今の子供らはいっこうにみくびってしまってこわがらない。そういうものを怖がらない子供等を少し可哀想な気もするのである。こわいものを沢山にもつ人は幸福だと思うからである。可怖いもののない世の中を淋しく思うからである」(寺田寅彦『化物の進化』、昭和8年)
●2016/03/08 15:24
「ナポレオンの“攻勢防御”の神髄を物語るのに、フランス革命以前にギベールが予想したやり方以上のものは誰も考えられない。「新時代にふさわしい将帥は、敵前において頻繁に移動し、不断に敵の決心を動揺させ、敵を欺瞞し、故意にわが無防備の地点を敵に暴露することによりここに導入、敵の主力を引き寄せるように努める。これによって将帥たちは、敵に対する反撃作戦要領を生得できるようになる」ということである。ギベールの言った戦闘理念の真意と柔軟性の効果は、その直後にナポレオンが出たからこそ私たちも明確に思い描くことが出来る。ナポレオンについては筆者はこれを「投げ網」または「流動する水銀の塊」だと言いたい」(ベイジル・リデルハート『ナポレオンの亡霊~戦略の誤用が歴史に与えた影響~』)
●2016/03/04 22:05
「人が幸福になれるかどうかは、今現在の状態をしっかり把握してそうなった原因ととるべき態度をしっかり熟慮し、それにもとづいた精神状態に自分を保てられるかにかかっていて、運の変転というのはそれほど重大な浮沈の原因にならない。今お前は喩えようの無い悲しみの際にいるが、今お前を訪れる人たちの目に浮かぶ悲しみの涙や言葉などに慰めを期待してはならない。それはそういう習慣になっているから人はそうしているだけで、不幸に見舞われた人がいたらそうするべきだからそうしているだけの事だ。それよりはお悔やみに来た人々の目に、お前が子供のため、家のため、そしてお前の今後の生き方のために、相変わらず羨ましいほど立派だと映るように、ということを念ずるべきだろう」(プルタルコス『妻を慰める手紙』 ~息子を失った自分の妻に送った手紙)
●2016/03/03 03:27
「家康が塩市口まで7、8町ばかりまで逃げてきた時、敵勢も迫って甚だ危険な状況になった。正成は息子の彌九郎に言った。「お前、殿の代わりになる気はあるか?」 彌九郎は「望むところですぞ」と答えた。正成は言った。俺が引き返し殿の代わりに討ち死にすれば話は早いのだけれど、後に残す殿の近習は若者ばかりなのだ。今はただ殿を逃げきらすことがわが方の勝利条件なのだけれど、若い奴らは北(にげ)ることを嫌がるからな。私が死に、若者ばかりになったら殿は危なくなるだろう。だが迎え討つべき場所はここなのだ。本当は俺が残りたいのだがな。それを聞いて彌九郎は引き返した。顧みて父を見たその顔には愁い色があった。彌九郎は競い掛かる敵に馳せ合わせ突き退け、ついにここで討ち取られた。家康はその後浜松の城に無事入城した」(『名将言行録』~内藤正成)
●2016/02/29 17:20
「フン王はテオドシウス2世に対し、ローマ帝国に仕えている多くのフン人を引き渡すように要求した。皇帝はこれに対し全く聞こえぬふりをした。フンの傭兵はローマ軍の中で最も優れた精鋭であったし、ローマのフン人たちもフンには帰りたがらなかった。逃亡者とみなされている彼らがフンの軍隊に戻ればどんな運命が待ち構えているか明らかだった。磔刑か、でなければ串刺し。(中略) 443年に皇帝はアッチラに屈して5日行程ほどの広大な領土を割譲した。国境の都市は灰燼に帰し、住民から見捨てられ、無人の土地と化した。徒歩の者はもはやこの領地を横断できなかった。アッチラが望んだように、これがフン人たちの脱走を阻む領土の柵となったのである」(ルイ・アンビス『アッチラとフン族』)
●2016/02/29 10:12
「皆さんうろたえてはダメ、こんなことぐらいで。またルーアンが奪われたけど悲しむことはないわ。済んだ事はいくら嘆いて悔やんでも悩みは消えたりせず悔恨は増すばかりだから。あの気違いトールボットはしばらく威張らせておいて、孔雀のように尻尾を見せびらかすままにしておきましょう。あんなの引っこ抜くの簡単なんだから。殿下と皆さんがこれから私の言うとおりにしてくれるのならば」
「われわれはこれまでもお前に従い、お前の策略を決して疑ったことは無かった。一度不意打ちを食らったくらいで信頼が消えたりはしないぞ」
「ではいいこと、ジャンヌの考えはこうよ。もっともらしい理屈に甘い言葉を混ぜて、バーガンディ公爵を言いくるめて誘うの。トールボットを捨てて私たちにつくように」
「それがいいぞ、かわいい乙女よ」
(シェイクスピア『ヘンリー6世』)
●2016/02/26 13:52
「四季折々の季節の変化がいちぢるしいように日本の人間の受容性は調子の早い移り変わりを要求する。それは大陸的な落ち着きを持たないと共に、はなはだしく活発であり敏感である。活発敏感であるがゆえに疲れやすく持久性を持たない。しかもその疲労は無刺激的な休養によって癒されるのではなくして、新しい刺激・気分の転換等の感情の変化によって癒される。癒された時、感情は変化によって全然他の感情となっているのではなく、依然としてもとの感情なのである。だから持久性を持たないことの裏に持久性を隠している。すなわち感情は変化においてひそかに持久する」(和辻哲郎『風土』)
●2015/12/23 12:10
「この2人は百年戦争という薄氷の上で自分達が立つてゐる基板がいつフランス軍の手によつて打砕かれるか解らぬといふ危険を半ば意識しながら、そして半ばそれを忘れながら、一口に言へばすべてを見ぬ振りをしながらあたかも諜し合せたかの如く王位を守る者と奪う者といふ内乱劇を演じてゐたと言へよう。『リチャード2世』は作者が恰もその間の事情を見抜いてゐたかの様に書かれてゐる。リチャード2世は被害者の役割を、ヘンリー4世は加害者の役割を意識してゐるばかりか、更にそれぞれに相手の役割まで理解しながら行き掛り上あくまでゲイムとしてそれを演じ通さねばならぬと思つてゐるかの様である。それは必ずしも近代的な解釈とのみは言ひ切れない」(福田恆存『私の英国史』)
●2015/12/16 09:12
レオポルド「デモクラテスさん、私の理解する限り野蛮人に対して現在のスペインがやっている戦争は正しい意図のもとに行われてはおりません。つまり、戦争とは大概のところ結果的に戦利品としての金や銀を暴力的に得ることを目的として行われていて、現在のスペインの行為もその例に違わないのです。聖アウグスティヌスは言っています。「戦は決して犯罪ではないが、財貨を求めて争うのは罪である」。聖アンブロシウスも言っています。「たとえ相手が悪人であろうが、その財産を没収するために相手を追い詰める行為は悪である」。スペインの戦争は野蛮人にとり甚だ有害かつ残忍な物であり略奪行為です。法の下では盗人でも道ゆく人から奪った物はおとなしく当人に返却しなければならぬように、スペインは奪った物を野蛮人に返却する義務があります」
デモクラテス「レオポルドさん、君主や国家が総合的に臣下や人民を支配しているからといって、おのおのの総督や執政官が犯している罪がすべて国家が認めているものだとみなしてはいけません。たとえ多くの実例があろうとも、邪悪で不正な総督やら執政官やらが異国で犯した卑劣な行為が、本国にて君主や廉直なひとびとが策定している政治の結果だとみなしてはならないのです。君主がしなければならないのは不正を阻止すること。「正されぬ過ちは是認されたことであり、擁護されぬ真理は抑圧されたも同義である」というインノケンティウス3世の尊い教えは有名です」(セプールベダ『第二のデモクラテス~戦争の正当原因についての対話~』)
●2015/12/15 18:45
「男女のオシャレはこの60年間で2度も3度も目に立って変わった。それは決してお化粧の進歩ではなく、男の方でも“男らしさ”というものの基準そのものが昔のものとは比べようもないものになってしまったのだ。だがオシャレという物は常に現在の物が最も正しく、振り返ってみれば過去の物はみな少しずつおかしい。(中略) われわれの着る衣服が時代を追ってその材料を増加し色や形の好みも目まぐろしく移っていきながら、必ずしもまるまる前のものを滅ぼしてもしまわず新旧雑処して残っていたということは、乱暴なようだがまた好都合なことでもあった。仮に各人が自分の境遇、風土と労作との実際に照らして遠慮無く望むことを表白しうるようになったとしたら、もう一度改めて真に自由なる選択をして末にはめいめいの生活を改良する望みがあるからである」(柳田國男『明治大正史・世相篇』)