オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

だが敢えて言おう、死ぬなよ!

2012年01月27日 02時12分49秒 | 伊豆の歴史


1月24~26日まで行った伊豆旅行の続き、3回目。
ようやく2日目の朝ですよ。書くのにどれだけ時間がかかっているのか。
でも大丈夫、2日目3日目はそれほど時間がかかんないはず。歴史的なところにはほとんど行かなかったから。(ホントか?)


<1月25日>
朝6時頃、函南のネットカフェで目覚めた私は思ったのでした。
「せっかく伊豆に雪が積もった日に来たのだから、伊豆の雪山を眺めに行くべきだよな」。
そういえば、以前に聞いたことがある。「昔の伊豆の人の娯楽は、寒い日に凍った八丁池でスケートをすること」。
八丁池って私は夏にしか行ったこと無いけど、今日って最高のコンディションじゃないの?
スケート靴は持ってないけど、今日の私はちゃんとチェーンを車に積んでるよ(笑)。7時過ぎに出発しました。

知らない方に説明。
「八丁池」というのは天城山の山麓にある観光スポットです。「伊豆の瞳」と呼ばれています。
「モリアオガエルがうようよいる」という事で知られていますが、カエルはもちろん夏の生き物。でも、冬はわざわざ登る人がいないから知られていないだけで、冬の八丁池にもたくさんの森青河選はいるのかも知れません。
結構山の上の方にあるのですが、上ったって天城山は1000mちょっとの山ですからね、八丁池のある場所なんて知れたもの。
なんたって、昔は皆がスケート靴をかついで通ったっていう場所なんだし。

一路、天城を目指すんですけど、、あんなに雪が降った後だって言うのに、道端に雪が現れたのは、道の駅「天城越え」の付近に至ってからでした。
しかし、南国伊豆で雪がある光景が見られるのは一年に一度ですから、やっぱり私は車の中で興奮状態なのでした。



八丁池には遙か以前に行ったことあります。写真もたくさん撮った筈でしたが、あれはどこにいってしまったのかな。
仕事関係でオフの日に山を歩き回る会があり、天城縦走に参加させて貰った。
30人ぐらいで行ったのだと思いますが、10年ぐらい前の私は有り余る体力だけが自慢で、凄く楽しんだ記憶がある。
ただ、今だったら天狗伝説に合わせてもっともっと写真を撮りまくったんだけどなー。もう一度行きたい。
確かその時は東伊豆か伊豆高原の起点から始まって、八丁池を経由して、天城の旧トンネルの真上に下りて終了だったと思うのですが、今思うとそんなに大した距離じゃないよね。その会では富士山や下田の高根山とかも登ったんですけど、長九郎山にも登った記憶があったような無いような気がするんですけど、どっちでしたっけ。長九郎、私は行ったことがあるのか。



伊豆では雪が積もると言ってもこのくらいなんですが、伊東に通っていた頃は、このくらいでもかなり雪に悩まされました。だって伊豆の人は基本的にチェーンなんて車に積んでないから。



八丁池の登り口は、私の記憶では天城旧トンネルの入口手前にあったような気がするな。天城の新トンネルまで行っても国道135号線は全然チェーンの必要が無い状態でしたが、さすがに旧道は「チェーン必要」となっていました。水生地下の駐車場に車を停めて、いそいそとチェーンを装着し始めます。5年前に買ったけど、一度しか使ったことが無いチェーンだ。ところでこのチェーン、どこで買ったんだっけ? 諏訪だっけ。関係ないけど、天城峠付近の地名って意味不明な物が多いですよね。水生地下ってどういう意味だ。
だがしかし、(経験が乏しいせいで)チェーンが巧く装着できない。おかしいな、前はこんなに苦労しなかった記憶があるのにな。力任せにグイグイやっていたら器具が千切れて壊れそうになったので、あきらめてその状態のまま発進することにしました(笑)



当初私が想定していた登り口は「水生地」でした。
だって、何度かドライブしたときにそこからたくさんの登山人が出てくるのに出くわしたもの。



だがしかし、今回行ってみると、



ガガーン、
封鎖されておる。試しに車を降りてみると、足下の氷は堅く固まっていて私の靴ではツルツル滑って、とても危険です。
こんな道歩けんわっ。
でも運の良いことに、私はひらめきました。
考えてみたら、私が「昔は八丁池が凍るとスケートをしたもんだ」と聞いた相手は、みんな河津の人か下田の人です。私が登るべきはトンネルのこっち側では無い。向こう側にスケーター用のもっと登りやすい道があるような気がしたんです。



水生地の分岐路から天城の旧隧道に向かいます。
さすがに道路が凍ってる。下の新隧道は雪なんてほとんど無いも同然でしたが、さすがに旧隧道は良い雰囲気ですね。このあたりは温暖な伊豆でも比較的頻繁に雪景色となる地帯だと思いますけど、旧隧道は来易くて安全だから今日みたいな天候では良いスポットなのだと思います。

車でトコトコ隧道の中を通って河津側に抜けますと、なんとまあ!
さすが峠の南側。雪がほとんど無い! 同じ伊豆でも南(東)伊豆と中伊豆は、隧道のあっち側とこっち側で全然違うんですね。
そのままどんどん行きますと、「二階滝」という地名があり、そこには「寒天橋」という分岐路があって、そこから(夏の間は)バスが八丁池まで向かっているんですって。
今は冬ですから当然バスなんて通ってないのですが、バスが通れるほどの道ですから、チェーンを装着している私の車は完全無敵なハズ。
と思ったら!
寒天橋のところで道路は封鎖されていまして、車では登れなかった… ばよよーーーん。
でも、さっきの水生地よりは良い道具合だったので、そこから歩いてみることにしました。





歩き始めてしばらく経って気づいたのですが、道路の上にタイヤの跡がある。
なんだよー、車で入れるんじゃないかよー。もちろん営林署かそれ関係のどなたさんかの車の跡でしょうが、雪が降ったのは昨日なのだから、この車が通ったのはそれ以降。というかつい先ほど、みたいな感じのタイヤの跡でした。なんだよなんだよ。





でも車の跡よりも鹿や猪とおぼしき獣の足跡が無数に多いのが印象的でした。
道路は気味が悪いぐらい静かで、さらさらと小さい沢の音以外は鳥の声すら聞こえません。と思ったら鹿の親子がいきなり飛び出てケーンケーン鳴いて走り去ってしまったり。
で、ほとほと歩くのに疲れ切ってしまった頃、「寒天園地」に到着しました。
カメラの記録を見ると、寒天橋を歩き出したのが8:43で、寒天園地に着いたのが9:39。な~~んだ、1時間しか歩いていないのか。もっと歩いたのかと思った。
「寒天園地」というのはバスの終着点でして、つまりここから池までは歩けってことです。
「ま、そこまで行ったらすぐそこに八丁池があるんだろうな」と思って歩き続けていたのですが、着いてみて案内板を見るとビックリ。
「現在地から八丁池まで3.2km 50分」
うをーーいっ! がっくし。
でもここまで来たら仕方が無いので、歩いてみることにします。とほほ。

問題なのは、ここから先の雪の積もり具合がさっきまでとは段違いになっていることで、でも気づくとこの寒天園地には大きな車が一台止まっており、そこから二筋の足跡が上に向かって続いている。なーんだ、先客がやっぱりいたんだ。足跡を見ると、なかなか立派なお靴を履いた方らしいのですが、なんだか不思議な足跡です。対する私は履き古したただのスニーカーだ(笑)。まさか雪山登りをするとは思ってなかったからジャンパー1枚はおっただけだし、せめて手袋ぐらい買ってくれば良かったぜ。





実を言うと地図を見たのは家に帰ってからなのですが、寒天園地って八丁池とめちゃくちゃ離れてね?
なんでここにバスが入ってここから八丁池を目指す人が多いのか。
というようなことは歩いていた時の私はちっとも知りませんので、先にどんな道が待っているのかさっぱりわかんない。
遊歩道には「オオルリ歩道」「コルリ歩道」とかいう名前が付いていましたけど、鳥にほとんど詳しく無い私は、それほどのどかな気分にもなれない。
一番困ったのは、雪が容赦なく靴に入り込んでくることで、まあただの靴だからしょうがないことだよな。冷たいんですが、頑張って足を動かしていればその冷たさはあんまり気になりませんから、一生懸命雪を蹴散らして先人の足跡をたどっていきます。

頼りになるのは先に歩いている人の足跡のみ。
最初は夏は遊歩道であると容易に見て取れる景色だったのですが、雪が深くなってまたゆるやかな上り坂とゆるやかな沢が交互に繰り返すうち、遊歩道らしい雰囲気がだんだん分からなくなってきました。こりゃー、この足跡が無かったら、私は確実に道に迷っていたに違いないぞ。私は幸運だった。
私の先を行く人の足跡はとうとう、道とはとうてい呼べないような斜面を上がっていくようになりました。
…。
……。
このあしあとって、本当に八丁池を目指しているんだろうな?
斜面の吹きさらしに立つと、ビュンビュン吹く風は鋭くて、顔と手に痛い。





…いや違う、ぞっ
先を行く2人の人の足跡は次第に乱れるようになり、あっちをうろうろこっちをうろうろ、しかも明らかに高い方を目指していっていました。
道を知る人の足跡なら、こんな変な風にはならないっ
この二人は何かを捜しているっ(水地以外のね)
そして、私の目指す水地は上では無くて、しばらく登ってから見下ろす場所にあるはずなのだ。(池だから)

私の靴では雪にさらさらと滑りながら、道を登って行き、とうとう足跡のヌシを見つけました。
ふたりの元気そうな高齢な方が、立派なカメラを掲げて、立派な木の写真を撮ってるぞっ
ここまで、この人たちの足跡だけを頼りにここまで歩いてきた私は、途方に暮れました。
「八丁池はどっちの方ですか?」
と、とりあえず聞こうとして二人に近づいて、
でも「うわっ」という声と共に怪訝な顔で見つめられたので、
(そりゃそうだ)
「こんちわー」という声だけ発してそそくさと私はその場を退散しました。



さて、ここから私はどうすりゃいいのか。
八丁池はどっちですか?
とりあえず、来た道を戻る必要があります。
少なくとも途中までは遊歩道だったわけだから、その道は八丁池に向かっている(はず)。
しかし、戻ろうとして、、、 私はどっちから来たんだ?(笑)
って言っても自分の足跡がたくさん残っているから、それを辿ればいいんですけどね。
そうすると、戻る方向はあっちで本来進むべき方向はあっちだったから、
とりあえず自分が今進むべき方向はあっちのほうらしい、ということも分かってきますので、ショートカットしてそっちに向かうことにします。
(あとになって思うと、この思考は非常に危険でしたね。付近の地図・地形すら自分の頭に入っていないのに)

ふと足下を見ると、ところどころに赤い目印が顔を出しています。
これはっ、道の目印だっ。
これを辿っていけばどこかそれらしいところに出て行くに違いないっ
(これは正しい判断でした)

赤い目印は稜線には無く、
谷の際の歩きやすいところを選んで歩いて行きます。
実は風が吹きさらすところは積む雪も少なくなっているのでそれなりに歩きやすいのですが、
谷の陰の道には雪が溜まっていて、ツルツル滑る。雪のせいで赤い目印が埋まってしまっている場所も多々あった。道の上に雪が斜面を成していて、「ここで滑ったら谷底に落ちるぞ」って場所もいっぱいあって、
歩きながら青くなっていました。

「冬山で軽微な装備で死ぬ人のニュース」をよく耳にしますが、それは私みたいな人なんだろうなと、歩きながら考えていました。
アルプスの中ならともかく、南国伊豆のこんな低山なんかで滑って凍死したくなんかないぞっ

やがて、別の人の足跡を発見しました!
なんだかカンジキらしきものを履いている、2、3日前の足跡のように見えるのですが、
今度こそ八丁池に向かう人の足跡にまちがいありません!(根拠は無いけど)

まー結論から言うと、この足跡を辿って、無事に八丁池にたどりつけました。
死ぬかと思ったぜ。
写真の記録を見ると、私が間違った道でふたりの写真家に挨拶してから展望台に立つまで、50分かかったらしい。
足と手が冷たい~~。
何度も雪で転び、買ったばかりのカメラがどうかなっちまわないかと冷や冷やしました。


<展望台から見た伊豆の瞳>

白い。
たしかにスケートができそうだ。
でも、森阿尾賀選りはいませんでした





さて、ここまでで昼になってしまいました。
おなかが空きました。
道を戻ってふたたび鯨屋さんに行くことも考えましたが、それでは面白くないと思い直し、南の方に向かうことにしました。懐かしい河津のあたりでラーメンでも食べることも考えたんだけど、せっかくだから下田まで行ってみようと。そういえば、須崎でスイセン祭りをやっているはず。





須崎半島に着いてみると、おお、さすがに良い景色です。
一気に現世(南国)に戻ってきた気分。
しかしいそいそと駐車場に車を止めようとすると、駐車場のおっちゃんに言われました。
「一昨日の雪嵐でスイセンがみんな潮水を浴びてしまい、枯れてしまった」
うわぉ、なんてこったす。
祭りも何もないじゃん。現地の人は困っちゃってるだろうなあ、観光の目玉が一瞬にして消えて無くなってしまったわけだから。



咲いてない。いや、咲いてるけど、地味。
でもいいんです、私はここに昼飯を食べに来ただけだから(笑)

駐車場から見下ろしたところに漁協だか地元の海産屋さんだかが開いているお店があって、そこに向かう。
下田の名産物といったらサンマ寿司。
(正確に言うとサンマ寿司をウリにしているのは下田の白浜地区と稲取だったっけっか)
むかし下田に住んでいた頃には数えるほどしか食べたことがなかったけど。
この爪木崎のお店では海産物をふんだんに使った海産ラーメンのメニューが多かったのですが、
それらには目を向けず、サンマ寿司を食べてみることにしました。
普通のサンマ寿司は600円だけど、“炙り”にしてもらうと700円ですって。
遠慮無く炙ってもらう。



サンマ寿司ウマーい!!
こんなにウマイものだとは思わなかった。

それから「漁師汁」(500円)。



これはタカアニガニ(深海生物)の味噌で取ったダシの味噌汁の中に、ワタリガニ(非深海生物)とキンメダイ(深海魚)が入ってるんですって。
豪華! そしてウマイ。

それからサザエ(非深海生物)の壺焼きも買ってみた。
2つで1000円ぐらいだったっけ。



伊豆に住んでた頃はサザエなんて飽きるほど食ってたが、浜松に越してきてから全く食べる機会無くなりましたもんなあ。
サザエは旨いなぁ。
酒飲みたいなぁ、、、、 でもこのお店の食べるスペースは露台になっていて、
風が吹きすさぶ中で私はこれらを食べたのでした。
いやぁ、風が吹くって言ったってここは南国パラダイスだから、寒いってもんじゃなかったけどね。
漁師汁が熱々で美味かったから。

で、ここで食べたのがあまりに美味しかったので、私はもう一日を下田で過ごすことに決めたのでした。

とりあえず、暗くなるまで時間を過ごす為に、
須崎の他の場所を探索。
須崎半島の爪木崎の反対側に、「恵比寿島」っていう島があるんですけど、まずそこに行ってみる。
確かここには古代遺跡があったんじゃなかったっけ。まぁ、何度も来たことのある場所だが。
下田の須崎半島は極めて特徴のある形状だと思うんですけど、爪木崎と恵比寿島以外の場所に地名があるんでしょうか?
もちろんひとつひとつにあるはずだと思うけど、少なくともgoogleの地図では岬の名前とか不明。



恵比寿島。逆光だった。島だけど橋が架かっていて、歩いて行けます。
ここにある遺跡について、
私の頭の中には、「古代の祭祀場」とか「伊豆に独特の洞窟古墳跡」とか「黒曜石遺跡」とか「吉田松陰が潜んだ場所」(※それは弁天島という名前の別の島)とかいう情報がグルグルするんですけど、よくわかんない。(調べてないから)
でも面白く変な島でした。
風が強かった。



(…つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インドの青鬼。

2012年01月27日 02時10分53秒 | 伊豆の歴史


1月24~26日に行った伊豆旅行記のつづき。まだ1日目の午後3時頃。

クジラ屋さんを出てから、とりあえず蛭ヶ小島に向かいます。
伊豆に来るたびに必ず伊豆の国市巡りになってしまうのはなんだかなー、と自分でも思わないのではないのですが、私にとっての聖地なんだからしょうがない。
それにしても、私がいなくなった5年間の間に、伊豆の国市(とくに私の住んでいた大仁町)はかなり変わってしまった気がします。淋しいな。
しかし、昔の大仁町よりも今の大仁町の方がさらに住みたい気がするな。
(伊東市で働くことが決まったとき、それまで下田市に住んでいた私は「どこから伊東に通おう」と考えて、「韮山に近い便利なところにしたい」と思い、大仁町の田京地区を選んだのでした。この時の私の決断は素晴らしかったと思う。憧れの伊東市内に住もうか、それとも函南まで出ようかどうしようかかなり迷ったから)

ともかく、次の目的地は「江川邸」→「堀越御所」→「守山砦」です。
事前に見た伊豆の国市のホームページで、江川邸に隣接する郷土資料館で、「幕末のヒーロー・江川坦庵のイラスト展」をやっている記事を見たのです。うをーー。





貼られていた横幕、「韮山反射炉を世界遺産に」ですって。あはははは。
太郎左衛門氏のたくさんの絵画が飾られています。太郎左衛門だけではなく、その師たちの絵も何点も。坦庵の絵の師としてまず思い浮かぶのは谷文晁ですが、文晁の絵はそれほどなくて「大国士豊」の絵が多かった(…気がする …もう忘れかけてたりして)。残念ながら館内は「禁撮影」で、あのすばらしい絵の数々が私の手元に残ってないです。入口で貰えるパンフに主要絵の写真が載ってますので、永久保存ですけども。
坦庵大明神の自画像が、何点もあったです。坦庵の弟子達による坦庵の肖像画もあって、興味深かったです。眼がそれほど大きくないのもあった。坦庵は龍が大好きだったらしい。何点もあった。また、3cmぐらいの百人一首シリーズとかいうびっくりする物もあって、なんでこんなのを描いたんだろうか。
一番おもしろかったのが「忍」の字。
大明神がまだ若かった頃、その母が激しい気性の息子に対して何度も「忍」「忍」「忍」と言い聞かせ、坦庵師は大人になってからも「忍」の語句を心の戒めとして生涯大切にしていたという。江川太郎左衛門についての本を見ると必ず、太郎左衛門が書いた立派な「忍」の文字の書の写真が掲げられているのですが、さらに逆に太郎左衛門はその母にも手の平サイズの「携帯用の忍の字」を書いて贈ったという。このちっちゃな「忍」の実物がおもしろくておもしろくて。坦庵も激しかったが、それを贈り返された母もまた激烈だったのだろうか。
この特別展は、行って本当に良かった。おもしろかった。

つづいて隣の江川邸へ。
江川邸はそれこそ何度も行ってるんですが、まぁついでなので。
たまたま先客に熱心に説明していたおばちゃんのボランティアガイドさんのお話を盗み聞くようにそれとなく聞いていたのですが、この人の話が面白かった。ガイドの人って凄いや。


パン祖の碑



一週間ぐらいまえに丁度デジカメを買い換えたばかりだったのですが、このカメラ(FUJIFILM FINEPIX F600EXR)、そんなに高くなかったのに暗い処の撮影にメチャクチャ強いぞ。前のカメラはこんな所だとぶれぶれだったのに~。最近のカメラって凄いや、何の加工もしていないのにこの明るさだ。でもって、土間に大砲が据え付けてある素敵な江川邸。この大砲についてもガイドのおばちゃんが面白いことを言っていた気が。(忘れた)


続いて行ったのが、北条郷の守山。


守山にもそれこそ何度も行ったことある気がしますが、実のところ登ったことあるのは一度きりだったりして。
でもしかし、山頂からの眺望はなかなかのものだったと思います。
私が伊豆の国市を気に入っている理由の一つに、「立地が箱庭みたい」というのがあるのですが、まるでシムシティーの練習マップみたいだと思うのよね。その最も理想的だと思う景色が見られるのが、この守山からの景観だと思う。源頼朝も北条義時も足利直義も足利茶々丸も北条早雲も、ここからの伊豆の国市を眺めたのかしら。眺めたんだよ、もちろん。
平重衡も畠山国清も佐久間象山も桂小五郎もジョン万次郎も斎藤弥九郎もここに登ったことがあるに違いない。


守山から函南・箱根方面。雪空だぞ。


守山から江間方面。
北条郷と江間郷は隣接してますが、現在は狩野川によって隔てられている。
鎌倉時代前期には地続きだったとされている(?)
通常の天気だったらばこの大嵐山の背後の愛鷹山の背後に富士山が見えます。


守山から韮山高校・蛭ヶ小島方面。
前にも書きましたが、守山の山頂まで行っても、山木判官のいた山木郷は韮山に隠れてしまって、見えません。
江川代官屋敷も見えませんよ。
蛭ヶ小島は見えるけど。しかし、現地民じゃないとどれが蛭ヶ小島かも分からないことでしょう。
韮山高校のあるところが、韮山城の「御座敷」と呼ばれていたところです。

前にも書いたことですが、『吾妻鏡』では源頼朝は山木襲撃のときに自分は出撃しなくて、守山の麓の自分の(というか時政の)屋敷の縁側に出て心配げに山木の方向をずっと眺めていて、高い木の上に馬係の江田新平次を登らせて、敵屋敷を焼く煙が上がらないか上がらないかとやきもきしながら監視させていたのですが、おそらくその場所はこの守山の頂上では無くて、願成就院のあたり(おそらく守山八幡宮のあるあたり)かね。そもそも北条時政の屋敷がどのあたりにあったのか、いまだにわかっていないのだ。そもそも、吾妻鏡でも「戌の刻(午後8時)過ぎに出撃した襲撃隊が子の刻(0時)に堤信遠を討ち取り、そのあとに山木館へ向かっている」のだから、丑三つ時ぐらいの深夜なはずだ。もし首尾良く出火したとしても、この角度でその火が見えたのかはなはだ疑問だ。「月が良く照る夜だった」と書いてあるけれども。



さて、今回わざわざ北条郷へ行こうと思ったのは、一匹の鯨へ昼ご飯を食べる前に寄った近所の本屋で、この本を見たからです。
うをー。
こういう本が欲しかった。この本は決して地元本では無くて、全国の幅広い遺跡を扱っているシリーズの一冊なのですが、2010年に発行された本がこうして小書店の店頭に並んでいるのはまさに地元ならでは。1500円でしたが、この本はわたしにとっては非常にエキサイティングで、すぐさま北条の里を見に行きたくなったのでした。
確か、私の住んでいた時から「伊豆の国市は北条遺跡一帯を遺跡公園として整備する準備を進めている」と言っていた気がするな。
そりゃそうだ、ここは鎌倉時代の始まりの場所なんだから、日本の国の中でも指を折っていいくらい重要な場所のひとつだぞ。いや、言い間違えた、「鎌倉時代と戦国時代と幕末の時代の始まった場所」なんだから。

とは言っても実際に歩いてみると、遺跡の集まっている周辺は非常に淋しい静かな場所なのです。
守山の東側には下田街道(国道136号線)が通っていて大昔からの幹道で、頼朝の時代から賑わっていたに違いないのですが、堀越御所跡・政子産湯の井戸のあるあたりは全然離れていない筈なのにとても厳か。いや逆にそれが「金持ちの宅地」「由緒ある地」の雰囲気を醸し出してはいなくもないのですが、でもしかし、「昔の狩野川の本流は守山の東側を流れていた説」を考え始めてしまうと、わけがわからなくなる。守山の東が川だったとすると、下田街道はどこを通っていたのだ?


守山の西を流れる現在の狩野川。なかなか草深い。

北条家屋敷跡があったと言われる円城寺遺跡の付近(上の写真の付近)には桜の木が何本も植わっていて、「狩野川桜公園」と呼ばれています。「北条遺跡を大々的に整備する」と公言していた伊豆の国市はここを真っ先に整備したらしくて(笑)、すごくきれいな公園(駐車場)になっていた。そういえば私も若い頃花見に来てどんちゃんやったことがありますなー。当然源頼朝も北条政子も春になったらここで毎年どんちゃかやっていたはずだ。…と言いたくもあるけれども、なんといってもここは北条氏邸の目の前。流人如きが花見宴会など許されなかったかも知れぬな。

で、登場しますのが上の御本でございます。
私が本屋で一目惚れしたのは、北条氏遺跡の屋敷跡の変遷を時代に区切って示してあったことで、



そもそもが、「ここが北条氏の屋敷跡だ」と決定されたのはつい最近の1992~3年の調査のことだったという。その時から詳しい調査が始まって、つい2年ぐらい前まで続いていたと思いますが、要は、何が私が感激したかって、土を掘り返して出てくるのはただ柱の穴だけのはずなのに、エラい研究者の方々は、そこにある穴がどの時点での柱の跡なのか即座に見分けてしまっていることだ。不肖なわたくしは、この図解を観てだっていったいどんな建物がそこに建っていたのだかイメージすら出来ないんですが、さすが研究者の方々は違う。北条氏邸が一番豪華だった頃の一番大きな建物は、一体何LDKだったんでしょうね?(柱の数を見てもさっぱりわかんない) やっぱり研究者の人って凄い。

驚くべき事は、室町時代になってから北条高時の母(円成尼)の建てた円成寺の発掘地図。



なんで同じ敷地にズレて建っているのに、このふたつの遺跡を混同しちゃわないんだろう?

かいつまんで言えば、この「北条氏邸」にはもともとそこそこの大きさのある2つの建物しか建ってなかったのですが、12世紀後半~13世紀初頭になって急激に建物が増え、13世紀の半ばにはもう建物が消え失せているのです。たったそれだけのことで、この建物が「北条時政の物だった」と断定できるのです。すなわち、12世紀後半と見当される1bの建物群には12世紀半ばの1aの建物に付け加える形で建物が増殖しているから、ここに住んでい人が急激な権力を得た、と。それに当てはまる人は当時は源頼朝と北条政子と北条時政と江間義時と牧の方と北条時定ぐらいでしょうが、政子と頼朝と義時はもう鎌倉に行ってしまってるので、やっぱり時政かな、と。
それに付随して、いくつかの時政についての謎の靄ももやもやと漂いだしてきます。
まず、「北条時政は北条氏の正統では無かった」という説。確かにここ円成寺跡史跡の場所は、決して広大な北条郷の中の一等地じゃなかったような気もするな。幹道から離れすぎている。
…いやいや、゛も昔の狩野川が守山の東を流れていて現在の流れに流れては無かったのだとしたら、古代の下田街道もこの屋敷の前を通っていたかもしれないとなり、そう考えるとここは逆に防備に優れた谷間の一等地だったかもしれないです。(鎌倉時代の伊豆と鎌倉では、屋敷は谷間に造るんです。守山の地図を見るとここが一番良い谷間です)
「もし時政流が本家じゃなかったとしたら、北条の本家はどこにあったんだよ?」という問いは、「もちろん堀越御所のあった場所なんじゃない?」という答えに繋がるだろうと思うのですが、気になるのが“堀越”(ほりこし)という地名。「堀を越えた向こう側」という意味ですから、例え地図で見て広大な屋敷地として最適でも、由来的に「(本家の)外側」って感じがする。単純に「すごい堀のある場所」なんだという可能性もありますが。
「時政が盛大に造った願成就院が時政の屋敷のあった場所じゃないか?」と考えるむきもあるでしょうが、願成就院を時政が造り始めたのは文治5年(1189)で、実を言うと意外なことに北条時宗が寺家(寺宮)(=願成就院のある一帯)を頼朝から「賜った」のは奥州征伐の功を上げたとされるその文治5年なのです。
それから、北条時政と江間義時の関係についてです。なんで義時は江間姓を名乗っているのか。前にも言ったことがある気もしますが、時政には“三郎宗時”という嫡男を持っていたのだから、『曽我物語』にあるように四郎義時は幼いうちに江間家に養子にやられていたのです。つまり江間家は北条家の分家などでは無く、全然別の独立した家である。だとすると、正治2年(1200)のいわゆる「十三人の合議制」で北条氏だけ二人入っているのが説明つく。この時点で荒くれ関東武士たちが北条氏だけ大きな顔をすることを許したとは思えませんよ。北条氏と江間氏は別々、という認識だったのです。(一方で、この説には「アダチ家も遠元と盛長が、三浦家にも義澄と義盛がいるじゃないか」という弱点があるのですが、そのどれもが別家扱いですしな)。全然別の視点で、こんなことも言った覚えもあります。北条家の系図を見てみると、関東から熱海に移住してきた平聖範は“阿多美四郎禅師”を名乗った。その子なのか甥なのか判然としない(もしかしたら実在しなかったかもしれない)平直方はよく分からない人物でしたが、直方の子かあるいは甥だった平時方が初めて北条郷に住み伊豆守北条四郎時方を名乗り、時方の子であるらしい時家も“北条四郎大夫”を名乗り、時家の息子であるらしい時政も伊豆“四郎”を名乗っている。つまり北条家は代々嫡男が“四郎”を名乗る風習があり、つまり時政も江間小四郎義時も北条氏的に言えばふつうに正嫡だったのかもしれない。とすると、北条氏の本領は本当は江間にあったのかもしれず(だって現在は狩野川で隔てられている江間と北条が、もし昔狩野川が無かったとしたら、ほんのすぐそこだから)、ま、続いて江間家を継いだ北条泰時は“江間太郎”を名乗ってるんですけどね。(そういえば江間小四郎義時には、大蛇に呑まれた長男がいたはず。それが“四郎”で、その弟が太郎泰時だったのかも)
現実的に考えて、まー、頼朝の時代にも守山の西側にも枝分かれする狩野川の支流があって、北條と江間は隔てられていたんだと思いますがね。



そういえば少し前に変な設定のマンガを読みました。
「違えない女」という題名の小編で、「北條氏では一番最初に生まれる女児が非常に大切で、その女児は巫女的性格を持つ。北條氏は長女が生まれて初めて全てが始まる。だから同腹兄弟なのに三郎宗時は庶子で、政子以降に生まれた四郎義時が嫡男となった」。なんだそりゃー。




さてさて、そこからほど近くの所にある「堀越御所跡」。
わたしのいなかった5年間の間に、史蹟整備に何か進展があったかなー、と観に行ったら、まぁ何も無いままでした。
だだっ広い。
しかしまぁ、5年前の私はこの光景を見て「何も無いなー」と思うのみだったのでしたが、今回の私は敢えてこの中を歩き回ってみました。
というのも、現地で掲げられている地図板の中に、



「七ツ石」という文字があって「なんですかそれ?」と思ったからで、
以前からこの看板(平成8年作)には七つ石が書き入れられてあったのですが、今回初めて関心を持ったからで。
少なくとも伊豆においては「~~石」という名前があったらそれが頼朝遺跡なのは定説。
ここに「亀石」があるのは知っておったのですが、それと対になる「鶴石」があるのは失念しておった。
残りの5つは何なんだろう。

それはそうと、堀越御所跡は広すぎるのです。
上の写真(分かりづらいと思いますが地図写真の中で「現在地」と書かれている地点)を見ても敷地が広大なのは分かって頂けると思いますが、実はこの写真でもその一部で、以前の私はここに立って上の景色を見ただけで「広いなあ~」と思っていたのですが、件の「亀石」はこの光景の視界の外にある。で、上の敷地と亀石のある区画は鎌倉公方の寝殿と池があったとされている一画なのですが、そのスクエア(=つまり上の地図にある区画)は、上掲の本によれば堀越御所の全体の1/3なのだという。(確かに上の方に「築山」とか地名があるしね)。うおー、思っていたより広いんや。
ま、なんと言っても「公方さま」(=足利政知)の住んでいた場所なのですからね。広くて当たり前なのですが。
でもしかし、よく考えてみると、この堀越御所だとされている北東の一角には、“北条一族の菩提寺”とされた「成福寺」があったはずだぞ。
足利政知がいた時代(堀越御所が壮麗な寝殿造りを構えていた時代)には、この成福寺はどうなっていたのか。公家文化を思い起こせば、自分の敷地内に大きな寺の一つや二つを内包していても何も問題は無い気がしますが、なんと言っても「成福寺は北条氏の菩提寺」。足利氏の貴種たる政知(=足利義政の弟)がそんなものを大事にするいわれがありません。
伊豆に伝わっている伝説によれば、成福寺は北条時宗の3男北条正宗が「北条氏の菩提を弔うために」元弘3年(1333年=鎌倉幕府滅亡直後)に建てたのだとされるのですが、そもそもこの場所は遙か昔に伊豆守だった北条時方が庁舎を置いた場所、北条時宗が持仏堂を置いた場所、そして源頼朝と北条政子が一緒に住んだ小屋があった場所だとされていたところだそうです。この成福寺は、足利政知がここに御殿を構えたときにはどうなっちゃったのだろうか。
こちらのサイトさんによると、「戦国時代の終わり頃に、鎌倉の成福寺の住職が迫害されて伊豆に逃れてきて伊豆に成福寺を造った」と書かれていますから、前・成福寺は正宗の死後に廃絶してしまったのかも知れない。
見逃せないのは「成福寺のあった付近に頼朝と政子が住んでいた」という伝説があることで、北条氏には憎しみがあったであろう足利政知も、源頼朝については別だったかも知れぬ。そして、その伝説の根底には「北条時政の屋敷は現在の推定地とは違うところ(=堀越御所のあった場所)」だったという概念がある。
そういえば、「北条政子産湯の井戸」って、変なところにあります。どうしてここなんだろうか? そして、地図には「御誕生場」という広大な(今は何も無い)一画が。
先述の本によると、堀越御所の中からは14~15世紀(=御所建造以前)の井戸が28基、御所時代(16世紀)の井戸が11基発見されているそうです。井戸ありすぎや。

前置きが長くなりましたけど、これが亀石ですって。





注意しなくてはならないのは、この看板で「この付近(=堀越御所)が鎌倉時代に北条時政の屋敷があったとされている」と書かれているのは、平成2年時点での常識であった物が、その後研究が進んで「そうではない」(という定説に)換えられてしまったということです。
鶴石があると書いてある場所を一生懸命捜してみたけど、よく分かりませんでした。
で、あとの5ツも石が多すぎて、よく分かりませんでした。地図中には場所を印してあるのだから、特定できるはずなんですけどね。
もうひとつ気になるのが「江戸時代に七ツ石と呼ばれるようになった」という箇所。江戸時代にかなり広範囲にわたって「変な物に変な名前を付けまくるまくるブーム」が起こったというその実態を、わたくしはかなりまえからさぐりまくりたい気分でいっぱいでございます。江戸時代ってどんな時代だったんだろ。


亀石付近にあった「鰯石」もしくは「人面石」(仮称)。

御所内を歩き回って、その中にテニスコートやプール(?)の跡があったことを面白く思いました。
さすが公方さまだな。肉体の鍛錬に余念が無い。
いずれこの場所を伊豆の国市が一乗谷遺跡のようにありのままに整備してくださることを、強く望みたいと思います。ありのままってどんなものだっていう話だがな。


真珠淵(伊東の八重姫が入水したと言われているところ)

あとは、守山南側の真珠院や信光寺(工事していた)をぶらぶらと眺めていたら、17時を過ぎて暗くなってきてしまったので、またも伊豆長岡駅に向かいます。
やっぱり機会があれば何度でもクジラ屋さんに通いたいよね。



復活された「あっさり魚介ラーメン」も“黄金比率の”「合わせ味」も食べ直してみたい気がしたけれども、今回昼に来たときに気になったのは、かつて「9の付く日」にしか食べられなかった限定メニューのRー35ラーメン“ワサビ味”が、いつでも食べられる制式メニュー化されていたことです。うををおーー

「R30が一番ウマイ」と信じている信者ですが、敢えて言います。R30とワサビの組み合わせはサイコー。
今日の夕食にはこれ(750円)と東京田子ライス(280円)を組み合わせてみました。
R35のデフォルトは細麺ですので、当然太麺にチェンジ。
このスープには絶対極太麺が似合うと思うんだけどなぁ。
…と極太麺好きの私はどのスープに対しても同じ事を言うであろうので、信じてはいけません。
とにかくプリプリした一匹の鯨の極太麺、サイコー。

一匹の鯨の山葵ラーメンは、全然ツーンと来る刺激臭は無いのです。
だがしかし、山葵の風味は十分なくらいに満ちている。
なんて幸せなことでしょう。舌には山葵のツブがザラザラと転がり、存分に美味しい。
これを食べたら、全てのラーメンに大量の練り山葵を放り込みたくなってしまうぜ。
なのに驚くべき事に、R35は美味しいR30の延長なのです。
うーーむ、前より美味しくなってる気もするぜ。

そして鮹ライスも「以前よりも美味し」かった。タレの部分がオイシかった。
クジラ屋さん、サイコー!!!!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大丈夫、死ななきゃ それはかすり傷。

2012年01月27日 02時09分29秒 | 伊豆の歴史


長い休日を貰ったので、3日ぐらい伊豆に行ってきました。
去年の大地震が起こった頃、ちょうど伊豆旅行を計画していたのですが、計画停電がなんとかで旅行を中止して、それから1年も伊豆には足を運んでいなかったのでした。
「伊豆が好き」とこんなに言っているはずなのに、停電ごときで二の足を踏んだ去年の自分がもどかしい。伊豆と同じぐらい岩手県(の遠野)が好きなので、こっちもちゃんと行かないといけませんよね。(なかなかできぬが)


<1月24日>
朝の6時ぐらいに家を出発。昔の私だったら国一を使っていたので、伊豆に行くにはもっと早く出発しなくてはなりませんでしたが、今回は東名高速を使うことにしました。だって下道を通っていくといつも余計なところに寄ってしまうんだもの。国一で行くと伊豆まで4時間ですが高速だと2時間。わずか2時間の差ですが、旅行にとってこの2時間は大きい。

最初の目的地は沼津港。
知らぬうちに、沼津港に「深海魚水族館」というのが出来たというのです。
私の深海魚好きは知らない人はいないと思いますが(笑)、昨年の12月にオープンしたばかりのこの施設、けっこう話題を呼んでいるらしい。
世の中に深海魚好きってどれぐらいいるんだろうか。(新しい本が意外と相次いで出ているので、静かなブームが来ているらしいことを知る)
しかし、伊豆で深海魚って言ったら戸田か土肥。それが沼津港って… 食べられるのっ? もしかして“深海魚刺盛り御膳”とか“深海魚の掻き揚げ富士山盛り”とか食べられたりしちゃうのっ!?
が、前日カップラーメン1つしか食べてなかった私は、お腹が空いて、富士川のあたりでサービスエリアに寄り、朝ご飯を食べてしまっていたのでありました。


「富士川楽座」にて「ミニ丼セット」(950円)
5種類のミニ丼から2つを選べるんですが、由比に近いので「桜エビ掻き揚げ丼」と「釜揚げシラス丼」を。
別セットで「生シラス」と「生桜エビ」のミニ丼セットもあって、真剣に悩んでしまったのでした。
しかし私は海老アレルギー体質。これまで桜エビでアレルギーが出たことが無いのですが(だって生桜エビ食べたことないもん)、そこで躊躇してかきあげにしてしまったの。






しかし、桜エビのかきあげってめちゃくちゃ美味いな。ちょっと塩気が強いけど。
そしてシラス丼も、ご飯の醤油味がめちゃうまー。


でもって懐かしき伊豆に着いたのは朝9時前。
水族館が開くのが10時だというので、時間を過ごす場所として選んだのが、沼津の町並みを見下ろす香貫山。香貫山は登山人に人気の高い「沼津アルプス」の最北で、標高は193mとお手軽で(もちろん山頂近くまで車で上れるし)、遺跡もあり、なかなかに面白い山なんですが、私はこれまで機会に恵まれなかったのでした。香貫山にあるっていう遺跡は平安時代の経塚だそうで、修験道との結びつきを窺わせるものだという。そういえば頼朝の同母弟の希義が平治の乱後に香貫に逃れていたって、さがみさんが言っていたっけ。

香貫山はそれはもー分かりづらいところに入口がありまして、細いうね道をうねうねのぼっていますと、予想以上に沿道にいる人が多いのです。(山道の落ち葉を掃除している近隣の皆様のようです)。小雪がちらつく寒い空だってのに、ごくろうさまなこってす。

香貫山のシンボルって言ったらこの五重の塔。



沼津駅からも見えますからね。でもこれはどこかのお寺の塔なのではなくて、戦後に建てられた戦没者慰霊碑らしい。へー。そして、思ったよりちっさかった。



この五重塔から少しくだった道端に、原田濱人の歌碑がありました。実はこれが今日私がこの山に登った一番の目的かもしれない。原田濱人ったってどなたもご存じないと思いますが、最近の私のマイブームなのさっ。
さて、この五重塔は香貫山の山頂にあるのではなく、「展望台までここから900m(もしくは1.2km)」と案内板に書いてあります。立派な道が続いているらしいのですが、車で入れるのはこの五重の塔(香稜台)までで、ここからは歩きです。「900m(もしくは1.2km)なんてすぐそこだろ」と思って歩き始めたのですが、なかなかどうして、なかなかな距離がありました。


山道の途中にいた「ぼうこちゃん」なる、この山のマスコットキャラクター?

この香貫山の展望台には、各テレビ局のカメラが設置されているそうです。
とりわけ、私の部屋で常に点けられている静岡だいいちテレビの画面では、県内の天気状況を説明するニュースが流されるとき、静岡市よりも浜松市よりもなぜか、常に香貫山から見た沼津市の景色が流されるのです。ここからは富士山もきっと綺麗にみえるはずなのだけれど、そうじゃなくて駿河湾の映像なのね。この光景が「最も静岡県らしい景色」とされているのかね。私は香貫山に登ったことはありませんでしたが、それでもさすがにその映像には望郷感に胸を締め付けられるんですよね。(それは十国山から見た景色、もしくは箱根の坂から国道一号線を三島方面に下ってくる景色と同一でもあるからだが)


今から行く沼津港方面。どれが目指すべき水族館の建物なのか、貴方はわかりますか?


これだね、この景色。千本浜方面。


そして南の方の伊豆方向に目を向けると、、、 雪雲だぞーー。

とにかくこの日は、「関東地方で大雪が降った」というニュースがあった日だったのです。こんな日に東へ向かわねばならぬ自分にチッと舌打ちしながらの旅だったのに、30分ぐらい歩いてこの展望台に来れば、なぜか壮年と言うよりさらに上の年代の人でひしめいていた。えっ。ここは南国だというのに小雪舞う異常な日だぞ。この人たちはどこから湧いたんだっ。…と、私はその中の一員な己が身の況にはちっとも気付かず、「さすが沼津アルプスは人々に愛されているなー」と、呑気なことを考えていたのでした。


さて、ここでわたくしどもはこの香貫郷と、源希義のつながりについて考えてみなければなりませぬ。
なんで希義は沼津で平家に捕まえられたんでしょうね?
情報をまとめておきましょう。源希義(みなもとのまれよし)源頼朝の8人いた兄弟の中で唯一の同母弟。(浜松の伝説では範頼卿の母も頼朝の母と同一とされているのですが、残念なことに一般的にはこれは邪説とされています)。頼朝と希義の母は由良御前(ゆらごぜん)といって、名古屋の熱田神宮の大宮司である藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘でしたが、季範は久寿2年(1155年)には死んでしまい、その没年がどう関係あるのかどうか分かんないけど保元の乱(保元元年=1156年)には熱田神宮家は源義朝に援軍を送っているけど、平治の乱(平治元年=1159年)には義朝の要請を完全無視。
保元の乱と平治の乱の時の熱田大宮司は藤原範忠(ふじわらののりただ)で、この人は藤原季範の息子なんですが頼朝の母とは異父兄弟で、そして父の存命中は父と仲が悪かったとされています。
そして、この範忠が平家方として沼津の香貫において希義を捕らえて京に送り、希義が土佐へ流罪となったのは平治の乱の4ヶ月後のことなのです。
でも、なんで希義が沼津で捕まったの?
なんで熱田大宮司が沼津で希義を捕まえたの?
なんで沼津?

源頼朝と源希義は兄弟でしたが、その年齢差は10歳もありました。13歳の時に平治の乱で初陣した頼朝でしたから、その弟である希義は3歳で、当然、平治の乱で参戦できるような年齢では無く、ではどうして幼児であるこの彼が沼津にいたのだろう。『平治物語』の希義についての記述はあまりにも少ないのですけれど、どうもこの幼児が戦い勃発時には名古屋にいて、負けを知ってたまたま沼津まで逃げたときに捕まった、という風では無いんですよね。なんらかの希義を保護する勢力が沼津にあったとするべき。戦いに先立って希義が沼津へ疎開させられたのか、そもそも希義が沼津で育ったのか。さがみさんは「頼朝の父義朝の乳母子鎌田正清の娘が「香貫局」と称していたとしている本がある」と書いています。でも私はその本を知りません。鎌田氏って磐田の土豪ですよ。沼津との関わりがさっぱり分からない。でもしかし、鎌田氏と伊豆は深い関わりがあります(伝説がいくつかある)。伊豆っていうか、伊豆についてはたくさん資料があるんだけど平治の乱当時の沼津がピンポイントでどんな状態だったのかを知る材料が全く無いのですわな。
香貫の局とは、鎌田の娘が香貫のそれなりの豪族に嫁いで、それが義朝の勢力に賛同できるほどの力を持っていたって事でしょうか。

伊豆北部と源氏との結びつきを思い出すにふさわしい語句は、沼津にはいっぱいあります。「源頼政と三戸御厨」「大岡郷の牧氏」「阿野全成と阿野庄」「黄瀬川の対陣」「千本松原の六代松」等々。しかし、どれもが頼朝遺跡としてはかなりの後期のものばかりで、源平合戦が始まる20年も前の平治の乱の直後に、沼津がどんな状態だったのか、さっぱりわかんないです。



一番わかんないのは、『平治物語』で香貫郷のある場所が「駿河國」と記されていることで。
これは「沼津市って伊豆地方なの? そうじゃないの?」という問題にも繋がることだと思いますが、これはあくまで私の価値基準なんだけど、「伊豆と駿河の境は狩野川と黄瀬川」だと思っています。なので沼津っていう町は半分が伊豆で半分が駿河。繁華街のある沼津駅周辺は狩野川の北にあるので駿河域ですよね。だけど、香貫郷ってどう見たって伊豆じゃん。
平安時代には狩野川の河口って(天龍川や富士川と同様)もっとグチャグチャしていたと思うし。狩野川の河口を整備したのは鎌倉時代になって北条氏が、っていう伝説があります。隠れるにふさわしい混沌の地だからこそ源希義もここに隠れようと思ったのだろうし、結局のところ、希義はなんでここにいたのだろう?
寿永元年(1182年)に希義の仇討ちの為に頼朝によって源有綱(=源頼政の孫。伊豆右衛門尉と呼ばれた)が土佐に派遣されたのは何か意味があるのかな。記録によるかぎり源頼政が伊豆の知行国主であることが分かるのは仁安2年(1167年)からなんですけど、それ以前からの頼政と伊豆との関わりは無いとも言えない。それとも、それよりも伊豆の修験道が何か関係があるんでしょうか? 『源平盛衰記』には為義と箱根山について何か仄めかされているし。
結局のところ、源希義という人の前半生はかなりの謎なんです。個人的には「源希義って満良親王(=後醍醐天皇の皇子)に似てるなー」と思って、なんとなく興味を持っている。少しだけね。
……といっても源希義の謎について、香貫山の上から町を見下ろしたぐらいで分かるはずもないので、(10時になったので)そそくさと私は水族館に向かうのでありました。




沼津港と深海魚は、意外と意外な組み合わせであります。
そりゃー、「深海魚と言えば駿河湾」という認識は近年とみに高まっていることだとは思いますが、沼津港は駿河湾の中でも一、二を争う良港。深海魚などに頼らずとも、沼津はウマイ魚で満ちあふれている。魚の有名店がいくつもある沼津港に行って、なんでわざわざ深海魚を見なくちゃなんないのか。でも、だからこそおもしろいものなのかもね。深海魚よりも価値のある魚がたくさんあつまる大港で、深海魚が集まるのも沼津港以上の港は他に無い、ってことで。
伊豆に住んでいた頃、私はお魚には人並みの興味関心しか持っていなかったため、沼津港にお魚を食べに行ったことがありませんでした。私が住んでいた頃から沼津港は「お魚のテーマパーク」として勇名を馳せていましたが、沼津港地区の外れに「松福」というラーメン屋さんがあって、ここには頻繁に足を運んだんですが、お魚など食べにわざわざ出かけることなど考えられなかった。
それが、伊豆から引っ越して5年経ち、こんなにお魚大好きに自分がなっているだなんて、どこの自分が想像しただろう。(※いまの私は、浜名湖のお魚のウンチクを毎日語る仕事をしています)。でも、浜名湖には深海魚がいないんですよね。(いるという噂もあるが)。やっぱり深海魚といえば伊豆、駿河湾。私の「深海魚好き」は今の「浜名湖の魚好き」とは別方向から由来する物でした。今から十年ぐらい前に、ダイドーの「ミウ」という飲み物に「深海生物コレクション」(※参考)という小さなフィギュアが付いてまして、これに夢中になった。やはりその当時の私の興味は「深海魚の奇抜な姿」に対する物で、その頃手軽に読める本は北村雄一氏のものぐらいしか無かったんですが、『イラスト事典深海生物図鑑』(1998年)と『深海生物ファイル』(2005年)がバイブルでした。今はカラーの本がたくさん出ていて、とても楽しいですね。
で、伊豆には“深海魚の町”として知られる戸田村がありまして、そこでは深海魚料理が食べられる。
コウモリダコやホウライエソを想像しながら深海魚を食べに行くと、それとは全然美的感覚の狂った、ゲホウやらトロボッチやらメギスやらという物が出てきて、これはこれで面白かった。深海は奥が深い、と思った物です。

ところで、深海魚水族館は沼津港のどのあたりにできたんだろう?
と思って行ってみると、うおー、あんなに通い詰めた松福のすぐ近くじゃん。こりゃー驚いた。

玄関を入って正面にいるのは大王具足。うをー。



いつのまにやら、こういうのが深海生物の代表格になってしまったんだな。入口に真っ先に現れるくらい。十年ぐらい前に、下田の海中水族館に、この半分ぐらいしかない普通の具足虫が飾られていたことを思い出しました。大王具足虫は日本にはいないことになっていますが、唯の具足虫の方は海底に無数にいるはずです。その具足虫が飾られてはいず、大王具足の方がいたことに、この水族館の方向性が表れているのかも知れない、と後になって思いました。

全体を見回してみると、一階の入口は小さな水槽がメインです。いろんな生物がいるのですが、なぜだか深海生物じゃ無いのも多い。



それにはちゃんとした理由があるのだそうで、普通の生物と深海生物の形状の違いを並べて対比させるためだったいうのですが、なるほどねー、へー。
しかし、深海生物をたくさん見たいと思ってきているのに、チンアナゴとか見てしまうと、苦笑してしまう。
しかしながら、地味ながらもそこそこ面白い生き物もかなりいるっ



入口付近にいたコレ。
うひょー、千手海鼠の一種だっ。いや、千手海鼠は10cmぐらいしか無いと本に書いてありますから、30cmくらいあるこれは別の生き物でしょうが(説明版に何て書いてあったか忘れた、単に「深海ナマコの一種」とか書いてあるだけじゃなかったっけ?)、でもこりゃーセンジュちゃんだっ。私の持ってるミウのフィギュアではツルンとしているんですが、本当のセンジュナマコはショウガのようなボコボコだそうで、でもこのサイトを見ると、千手の前の形にはいろいろなバリエーションがあるみたいですね。ていうかネット上にあるセンジュナマコの写真は同一の生物だと思えない。私の好む優美な姿の物も、捜せばあります。いずれはここ沼津港水族館で、千手の前を飾ってもらいたいものだ。



「深海はナマコだらけで、全ての生物の90%がナマコ」と書いている人がいます。ほんとうだろうか。千手の前(10cm)は中深層にいる人で、それより下の超深層にいるのが熊御前(10cm以下)の仲間になるそうです。その流れで行くと、沼津港のコレは比較的低深層のものなはずですよね。私の手もちの図鑑では、ナマコの仲間は「千手海鼠」「熊海鼠」「夢海鼠」「烏帽子海鼠」「禿海鼠」ぐらいしか載ってない。深海にはもっと沢山の種類のナマコがいるはず。「詳細なナマコ図鑑が欲しいな」と私は思うのでした。検索すると「ナマコ・ガイドブック」というのがありますが、この本で深海ナマコが充実してるとも思えないな。この件については沼津港が負うべき課題だと思いますよ。

…なんだか書いているうちにまた行きたい気分になってしまったので、後の記事は流します。忘れた頃にまた行こう。

















全般的なことを言いますと、深海魚じゃない水槽が多くを占めていることは、全体的に明るさを増していて、カップルのデート等には最適だと思う。でもそれは、この水族館が開館したばかりで展示物が揃ってないためで、おいおい深海魚の珍しいのが増えていくんじゃないのかな。「深海魚水族館」という名前を聞いて、深海魚図鑑に載っているような奇妙奇天烈なものを想像して行くと、それらはほとんどいないので、ガッカリすることになるのだと思う。この水族館の開館当時のメダマは「メンダコ」だったらしくて、でもそれはすぐ死んでしまったらしい。私の後ろでおばちゃん連れが「麺蛸どこー?」とか言っていて、物の哀れを誘いました。でも、私が行ったときにおばちゃん連れがやたらと多かったのも象徴的で、「深海魚」っていうのはかなり広い年代層にアピールできる素材ではないかな。現在の展示物は、人によってはがっかりするものかもしれない。でも、よーーく見てみると、小さい展示槽の片隅に、なかなかニヤリとできる物も多かった。私は楽しかった。テヅルモヅル見入ってしまう。「ヒカリキンメ水槽」なんかも、なかなか凄いと思う。
「シーラカンス」というのがこの水族館の最大の目玉で、確かにそれは見事で確かにそれは深海魚なんですが、私には微妙でしたな。いづれ、数年後に「駿河湾の地味な深海魚コーナー」が充実していることを望みます。戸田港で食べられる魚たちが泳いでいる姿を見たいな。

実は静岡県には他に2つの深海魚の展示が充実しているところがあります。
清水港の東海大学水族館と戸田港の深海魚博物館で、この二つは別の形で深海魚をたくさん陳列している。ただし両方とも、生きている深海魚では無くて、おびただしい数の深海魚の標本です。それらに対して沼津港は数は少ないけれども、生きている魚がメインだと言うことは評価できる。(標本も少しあったけど)。
一方、全国的には、そんなに遠くない鎌倉の新・江ノ島水族館の深海魚コーナーが見事なものです。ピンクに照明されたザラビクニンとか、あれには沼津港ごときでは太刀打ちできないだろうなー。しかし、あそこは本格的すぎるのです。ゴエモンコシオリエビとかミョウジンシンカイコシオリエビとか、シロウトが観て楽しめるものでもない。
沼津港は沼津港で、独自の道を行って欲しいと思います。
でもかつて、油壺マリンパークでも深海魚特別展をやっていたし、箱根水族園でもザラビクニンを観た思い出もある気がする。つくづく私の住んでるところは深海魚天国だなー。


…さて、12時前後に水族館を出ました。
目の前には沼津港。そして水族館前にはやはり深海魚を食べられるお食事屋さんがありました。でも、しかし、ぐぬぬ、、、、 朝のサクラエビとシラスが効いていて、まだ食べられぬ、、、 グヌヌ、、、 桜エビも深海魚だし、我慢するしかないのか、、、

当然目の前にある松福も食べられぬ。
泣く泣く沼津を後にして伊豆の国に向かい、懐かしい伊豆長岡を一周して伊豆長岡駅に向かうと14時ごろ。
ようやく何か食べられる気がしてきた。とすると、向かうべきは、クジラ屋さんだな。



注文するのは、夢にまで見た大人の時間・薬味たっぷりR-30ラーメン(750円)。
うわーーい。
なんだか記憶にある物より見た目がおとなしくなっていますが、食べてみると、記憶にある物よりも遙かに美味しくなってるぞっ!!!
うわーーーい。すごいな。
ここ数回、このラーメンのデフォルトが細麺で、太麺にしてもらうと言うのを忘れてしまい、悲しい思いをしたのですが、今回は「オススメは太麺」に変更されていました。



数年ぶりにR30を太麺で食べたけど、この太麺凄い。そもそも私は6年前にこの麺で太麺好きになったのでした…(遠い目)
それにしてもR30はウマイ。薬味感というかスパイシーさが図太くなっている感じがする。

(…つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陽気な未亡人。

2012年01月20日 00時15分07秒 | わたしの好きな曲


デアゴスティーニの『隔週刊オペラ・コレクション』があと2巻で完結となっていたのでした。
(全65巻)
最初の頃はきちんと買ってたけど、結果として揃えたのは30冊くらいだったなー。
そのうちの6割がまだ封を開けてすらいない(笑)
単巻として2000円は破格の価格でしたけど、買い続けるのには微妙に腹が痛い、、、、。
全体としてこのシリーズは「値段相応の映像が多い」(←2000円で買えるシリーズは他に無いのになんていう言い草) が「たまに素晴らしい物が混じってる」でした。
オペラは多分に好き嫌いがとっても効いてくる分野なので、プッチーニとかワーグナーとかは全然食指が動かぬ。ヴェルディは音楽は好きなんですけど映像として見る気は起きなくて、ほとんど本棚に収めたままなのでした。
個人的に、このシリーズの中で宝物にしたいくらい気に入ってたのは、第1号クライバーの『カルメン』と第31号ベームの『後宮』、第39号ミンコフスキの『天国と地獄』、第52号ゲルギエフの『ボリス』、第62号『メリーウィドウ』くらいでした。って、これだけかよ! (…見てないだけ見てないだけ!!)

で、さっき観始めたんですけど、メリーウィドウが素晴らしい!
未亡人が美人なんです。
ダグマル・シェレンベルガーという人ですって。
最初、胸の谷間が非常に魅力的な美人(ウーテ・グフレラー)が出てきて歌っていたのでこの人が主人公の未亡人かと思っていたら、
本当の未亡人がもっと美人だったっていう。
指揮はフランツ・ヴェルザー=メスト。2004年。
映像はなかなかにキレイ。

私はこのメリー・ウィドウっていうオペレッタが大好きで大好きで、シュヴァルツコップの歌うCDをそれはもう愛聴してきたのですが、、、
聴く一辺倒だったので話のスジがまったく分からん。



今回のDVDに由来する動画はユーチューブでは上のものだけみたいです。
(ウソ、ちゃんと時間をかけて捜してないから)
だから、ダグマル・シェレンベルガーちゃんの魅力をあなたにも見てもらうために、別オペラから。



カールマンのオペレッタ『伯爵夫人マリツァ』から。
気品と分かり易い神々しさと馬鹿馬鹿しっぽさを併せてごったくさを出すのがオペレッタというものの真髄みたいよ。
ダグマルちゃんは私が心に抱く「陽気な未亡人」とは若干食い違うけど、これはこれでまたよし。















なんか、メリーウィドウ、思ったより動画が少ないな。
もっと素晴らしい映像はたくさんあるはず。




そして! 最後に我らがエリーザベト・シュワルツコップフ嬢!
そうか、私がダグマル未亡人に違和感を感じるのはコップフ氏のせいだったんだな。
「紅の豚のジーナに似てるような感じだよね」という私の未亡人観はこの人(のCD)に由来していたのだった。





全曲の動画があった。(2時間07分)。凄いね。やっぱりこれは全部続けて観た方が面白いですよね。オペレッタ風の作り。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河ドラマ「平清盛」

2012年01月15日 03時00分18秒 | テレビ日記

うっかり大河ドラマの放送日を忘れてしまっていて、一回目を見そびれてしまったので、
土曜日の再放送に注意細心しておりました。

北条政子役が杏ですって!
でも、さっき撮ったのを見てみたら、おもしろいじゃん。
今年こそ全話を見るようにがんばりたいと思います。
わたし、前回の「お江」もそれなりに楽しく見ていたんですけどね、
今回は珍しい平安時代後期ですから、
この日記でも視聴記を書いてみようと思う。
何年か前の「義経」も前半だけは楽しく見ていたんですが、
そういえば私は伊豆に住むまでは、当然のごとくに平氏派だったのでした。
関ヶ原の戦いでは石田三成が好き、九州三国志では龍造寺が好き、南朝と北朝では新田義貞が好き、第二次大戦では当然第三帝国に死ぬまで付いていくようなわたくしですもの。

ところで、この大河ドラマ、
音楽に吉松隆が関わってるんですね!
突然大好きなプレイアデス舞曲集の中の一曲が流れて悶え死んだ。
(※ 吉松氏は「今様のところを初音ミクを使って作曲した」と面白いことを述べておられますよ だがここはどんな旋律を充てたって不自然に感じるところだと思う)
冒頭の曲は別のプレイアデス舞曲です。
プレイアデス舞曲集って、今一体何曲ぐらいあるんだろう?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする