オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

役ノ行者の呼び声。

2014年01月26日 15時20分02秒 | 今週の気になる人

この写真は細江町中川の刑部城にいる役ノ小角。
なぜか足下におキツネさまが。(前鬼と後鬼でしょう)



1/12に行った琵琶湖旅行の記録の続き、その4。

最後は「松ヶ崎普門坊(まつがさきふもんぼう)」です。

知切光歳・著『圖聚天狗列伝』(1977)より。
「近江八幡市から一里半ばかり北の、湖水に突き出した南端の長命寺は、延暦寺西塔の別院といわれる古刹である。背後の長命寺には、「富士権現の母神の墓」と伝えられる大岩石があることで知られている。孝霊帝朝の富士山突起と琵琶湖陥没の伝承から、琵琶湖を生んだ母神という付会らしい。この長命寺の住僧が天狗に化ったという見聞を、国学者の伴蒿蹊が『閑田耕筆』(享和元年刊)に書いている」
(要約)元禄の頃、長命寺の普門坊という名前の僧が、百日荒行して天狗に変じた。しばらくのち隣りの牧村にある彼の実家(郷士)に「今後は来られぬ」という声が響いた。長命寺の裏山に祠が造られ、年に一回のこの社の祭りは牧村の実家が行い、以後100年続いている。
「百余年の間、毎年例祭を絶やさなかったとは、普門坊の霊威と練行のことがその地方の住民に相当強く印象づけられ、畏敬されていたからであろう。ただこの種の天狗化生譚はほかにも幾つもある。普門坊はたまたま蒿蹊のような優れた学者の筆に載り、そのうえ松ヶ崎普門坊という狗名まで残されていたのが幸いで、列伝の一狗に加えたまでである」



のんびりドライブしていたら、またも16:00頃になっておりました。
昨日の横川でもそうでしたが、こういったお寺の拝観は大概17:00までで、受付も1時間~30分前には締めきってしまうところも多いですから、焦る。
近江に詳しくないわたくしは「長命寺」という名前のお寺さんのことは知りませんでしたが、現地の観光案内板には大概場所が示されておりますのでなかなか有名なお寺のようだ。「長命寺港」という港が琵琶湖観光の拠点のひとつになっているからでもあるみたいですが。
安土城~彦根城付近の水郷の風景には心洗われるものがありましたが、足は留めず長命寺を目指します。



有名なお寺とは思えないぐねぐねした坂道を延々登っていくとお寺があり、この時間なのに駐車場にはたくさんの参拝の車が停まっておりました。
そこからなかなか味のある風情の石段が。



とってもありがた~い名前のお寺です。開創伝説は聖徳太子。
太子がここに遊びに来たとき、「500年前に武内宿禰が字を書いた柳の木がある」と聞いて、見に来たところ「寿命を長くし望みを叶えさせよ(寿命長遠諸願成就)」と彫ってあったので感心し、お寺を建て、武内宿禰の長寿にあやかって名付けたとのこと。天台宗。姨綺耶山(いきやさん)長命寺。桜餅とは関係ないそうです。
武内宿禰は孝霊天皇より5代あとの天皇の時代の人ですから、知切光歳の書いた「富士山の権現の母(この女神の名は不明)の巨岩」は宿禰が来たときには、既にここにあったことになる。
というか、我らが伊豆の国の英雄・佐々木定綱(=蛭ヶ小島の蛭子の君の一の子分)ととてもゆかりの深いお寺だそうです。へぇ。
近江佐々木氏は六角家の祖。六角家は蔵前家の源流。

やはりお寺のお名前がお名前ですから、真摯にお参りしている人が多い。
長寿などは願いたくない私は本堂を巡って見るのにも身が狭く、困ってしまいました。
重要文化財の三重塔も見所だといいます。でもただいま1年4ヶ月をかけての修復工事の真っ最中だそうで、見学用の足場が組まれ、2層目の屋根辺りを間近で見させていただけるようになっていました。さきほど竹生島でも似たような工事現場を興味深く見たばかりです。

で、敷地内を巡って天狗様の祠を捜します。
興味深いのが、本堂の近くにこれまた立派な(すこし小さい)「護法権現社」というのがありまして、「これが天狗様か?」と思ったら、護法権現というのは武内宿禰のことだそう。その建物は江戸後期のものだそうで、そのまた隣りにある立派な「三仏堂」と見事な調和を見せている。これは神仏分離の騒ぎのとき大変だったろうなぁ、と思いました。で、その「護法権現社」というのを覗き込みますと、背後に見事な巨石を背負ってまして、これが武内宿禰の神体だとみなされているようだ。



これがその武内宿禰の神体(を横から見たもの)ですが「修多羅(すたら)岩」と呼ぶのだそうです。
「すたら」?
「仏教用語である」と下に解説板がありますが、そんな用語があるのか。と思って検索してみると、確かに「修多羅」は仏教用語でありますが、その意味は見事に解説サイトによってばらばら。同一の語句とは思えないほどです。少なくともここに書いてあるような説明は、他では見いだせない。そもそも「しゅたら」と読むのがメイン潮流で、これを「すたら」と読むのは北九州市にある地名ぐらい。何者だ、スタラ?(「しゅうだら」と読むお寺もあるそうです)
そういえば、このお寺の山名も「姨綺耶(いきや)山」という意味不明の名前。
「なにかナゾのあるお寺なのか!?」とワクワクしてきました。

知切師が言った「富士権現の御母堂の岩」というのこれか、もしかして富士権現と武内宿禰の伝説の融合がここにある!?と思って周囲を見回すと、本堂の背後に相当する位置にアレ。



あれが「六所権現影向石」ですね。(少し離れた場所から撮ったので、ボけちゃった)
なんでこれが「六所権現」なのかわからないですけど、寺伝によればあれが「武内宿禰が長寿を願った」だそうです。(柳の木じゃなかったっけ)

そしてこちら。



太郎坊大権現の鳥居!
なんで太郎坊?(普門坊とは別者か?)
そしてお分かりになりますか? 鳥居の上には無数の小石が並べられております。



鳥居の先をずんずん進みますと、ありました、天狗の社。



何かゆがんでる?的な建物ですが、これは本社ではなく拝殿で、背後にある2つの巨石の間に、登って行く石段がある。



琵琶湖の普門坊はまさかの巨石祭祀場でした。
要は、磐座信仰の場所であり、お寺なんですね。近江という国は。
この石(のどちらか)が「富士権現の母」なのでしょうか?



左側の石。
あきらかに、さっき見た「修多羅石」とか「六所権現影向石」よりこっちの方が存在感あります。
お寺よりもこっちの方が本体なんじゃ?

慌てて検索してみますと、
「寺の縁起によれば、後奈良天皇の時代に長命寺にいた普門坊なる超人的力をもった僧が、寺を守護するため大天狗に変じたものという」
「その後、京都の愛宕山に移り住んだ太郎坊天狗が故郷の山を懐かしく思い、近くにあった大岩を投げ飛ばすと長命寺の境内に突き刺さったという。その大岩は飛来石として信仰の対象になった」

え、後奈良天皇?(戦国時代初期) ・・・知切光歳と寺の縁起は書いてることが違う。(よくあることだが)
大体、ここの天狗が愛宕山に行ったなんて話も初耳だよ。
・・・いや待て、誰も愛宕山太郎坊と松ヶ崎普門坊が同一人物だなんて言ってない。
近江に遊びに来た「太郎坊」と、ここ出身の「普門坊」は別人なんじゃ。
愛宕山の太郎坊が奈良時代ぐらいの人だったと仮定すれば、武内宿禰や聖徳太子がこの両岩を見ていないことは説明付く。
「普門坊」という人も、戦国時代と江戸時代に2人いたんじゃ・・・
とはいえ謎は深くなります。



また出たよ「魔王」。
(でも普門坊と太郎坊は別人みたいですね)
この拝殿のある場所は寺内で一番景色が良く、琵琶湖の美しい景色を近江八幡城方面に向かって一望できます。



で、正面にとても形の良い山が見えるんですが。
あれって、東近江市の太郎坊宮山(赤神山=阿賀神社)じゃありません?
あそこも巨石信仰の山でしたから、近くに似たような姿の石を持つこんな山があったから、こんな名前(太郎坊権現)で関連づけられたのも腑に落ちます。
でもそもそも、なんで近江に太郎坊伝説があるんでしたっけ?
そういえば3年前に太郎坊宮(ここのすぐ近く)に登ったとき、見落としていた事があったことを思い出しました。


(2010.11.6に撮った写真)

「太郎坊はこの岩山(赤神山)で修行をしながらご祭神「正哉吾勝勝速日天忍穂耳命」を守っていた天狗」、とはなんじゃらほい。
愛宕山の太郎坊の正体は、聖徳太子の師・日羅だとか弘法大師の高弟・真済だとかいくつかの説がありますが、どの由来も東近江にゆかりはありません。
また、愛宕権現と言えば普通は「火之迦具土神」(イザナミ神・イザナギ神の息子)。
「アマノオシホミミのミコト」(スサノオ神から生まれた)とは繋がりが遠いです。
もっとも「太郎坊と愛宕権現の結びつき」も「たまたま太郎坊が愛宕山に住んでいたから」ぐらいしか無いと思われるのですが、
でも、短絡的に考えて、実は愛宕山の天狗の大総帥・太郎坊と近江から愛宕山に移った太郎坊って、坊名が同じなだけの別人なんじゃないですか?
うーーん、わけがわからなくなってきた。


話を変えまして、孝霊帝期に飛んできたという「富士権現の母の岩」というのは、「太郎坊が愛宕山から飛ばした飛来石」と同一なのでしょうか。
もしかしたら「富士」と「太郎坊」つながりで、この太郎坊は「富士山太郎坊(陀羅尼坊)」という可能性もありうる(かもしれない)。

でも、この「富士権現」が「木花咲耶姫」だったとして、その母の実の名前がわからないのです。日本書紀にはニニギの尊の妻(木花咲耶姫)に関する記述はとても長く(第八まで異説を紹介していて)、なのに姫の母はでてこない。姫の父は「大山祇神」で子供の多い大神ですが、その妻の一人に「鹿屋野比売神」というのがあり(手持ちの神名事典には大山祇の妻はこの人しか名前が無い)、この「カヤヌヒメ」が富士権現の母なのでしょうか。(違うような、そうなような。木花咲耶姫の異名も「鹿葦津姫」「葦津姫」ですから、繋がりはある。鹿野=萱)。でも、記紀の「カヤヌヒメ」はもっとおっきなイメージなのです。
琵琶湖の傍らの山上の岩に、どうして曖昧な「富士権現の母」などという逸話がついたのか?

もしかして、富士権現の母というのは後世に変化したもので、寺内の巨石信仰の有り体からもともとは「富士権現の姉(磐長媛)」だったんじゃないか、とも思いました。富士山も又背比べ伝説が豊富ですし、長命寺は竹生島信仰とも縁深いようだし、さっき見た「伊吹山と浅井岳の対立」とも通づる所があったような気もしますし。そうだ、とよた時さんによると駿河の愛鷹山も富士山と背比べをしようとして、怒った足柄山に首を蹴り落とされ、海に落ちたのが伊豆大島になったんですよ。愛鷹権現は瓊瓊杵尊。夫婦喧嘩か。
まぁ、いずれも富士権現が女神だとは限らないんですけどね。富士権現は謎な神。


これが在りし日の怪力普門坊の姿かな。

そこの説明に、「天狗の飛来石と爪彫り手水鉢は本殿の傍にある」と書いてあるので、本堂まで戻って付近を捜してみたんですが見つからず(工事中だし)、諦めて退去したんですが、家に帰って調べてみたらここに書いてあった「本殿」とは太郎坊の小祠のことであった。なんとっ。「太郎坊の飛来石(おそらく富士権現の母と同一)」は、拝殿のうしろにある2つの巨石のうちの右側だそうです。なんてこったい。


さてそこから、
せっかくなので湖の幸を食したいと思い、「鮎家の郷」やら道の駅やら「琵琶湖博物館」で足を止めたのですが、17:00を過ぎると食べられるところは無し(なんでやねん)。
琵琶湖って本当にぐるっと回るだけで一日が終わってしまうんですね。
仕方がないので「草津よいとこ一度はおいで~」の草津温泉(イオンモールにあった風呂屋)でひとっぷろ浴び(日曜日なので座る場所もないほどの混雑ぶりだった)、その近くでラーメンを食べました。



ちゃんぽんとんこつらーめん豊(駒井沢店)。
こってりとんこつらーめん、760円。

長浜~彦根の辺りを走っていたとき、ちゃんぽん屋のチェーン店を頻繁に見たんですよね。滋賀ってチャンポンが何かあるんですか?(※「近江ちゃんぽん」という分野があるという)
せっかくなのでそのチェーン店に入ってみたかったのですが、草津では見つからず、このお店へ。
で、チャンポンではなく普通のラーメンを注文してしまいました。

うを、見た目が全然違うのに、天下一品ぽい。
味をあの系統のまま、どろどろを無くした感じ。(写真では十分どろどろしているように見えると思いますが)
「ドッテリしてない天下一品みたいなのを食べたい」とかいう関西地方の需要があって生まれたものかしら。
が、好みです。天下一品好きだから。



「近江チャンポン」、これもまた次回の課題です・・・
そこから、昨日泊まったネカフェに今日もお世話になろうかな、と思いきや、明日に備えて南下をすることを思いつきました。目的地は奈良にしよう!
・・・でもおかしいな、私は京都旅行に来たはずなのに・・・(だって貴船神社で西は凶、南が吉、と言われたから)。役ノ行者が私を呼んでいる気がした。


大津から瀬田川沿いに通ったことの無い道を南下。
適度に道を迷いつつ、奈良県に入ってぎゅんぎゅん走ってるとふたたび小腹が空いてきました。
(さっき食べた草津のラーメン屋は19:00頃。今は23:00頃)
食欲の出るのは良いことだ。
なので適当に見付けたラーメン屋に飛び込む。



「大阪千日前 河童ラーメン本舗(天理店)」ですって。
天狗探しに来てるのにカッパっておもしろいじゃん。

で、入口の扉に貼ってあった絵。



おお、本当にカッパをテーマにしてるんですな。
ていうか、関西の人ってすげぇな。なんだこれ。


メーカー製だからメカゴジラなのか。


ほんとかよ。
おかっぱ頭の河童もいるかもしれないですが、河童がすべからくおかっぱ頭というわけでも無いと思う。
関係無いんですが、おかっぱ頭の児は「禿」って書いて「かむろ」なんですよね。ハゲてないのになんでだろ。男児の禿(かむろ)は今では絶滅しているのに女児の禿(芸妓見習)は今でもたくさんいるという。今では児を脱すると禿は増加する。女児の禿(かむろ)と河童の頭とおかっぱ頭の女児も全然違いますよね。なんか不思議。


この人の描く絵は麺が八岐。ジョッキは蛭児様。頭の上には天むす? 真中の海栗はナニ?

こういうの嫌いじゃないんで写真を何枚も撮ったんですが(特にトイレの地区が凄かった)
薄暗かったから多くがブれていました。残念、雰囲気がとても良かったのに。

ラーメンは、入口のところに券売機がありまして、そこで選びます。
「河童ラーメン」(=ノーマルのラーメン、690円)とか「黒河童」「赤河童」「工場ラーメン」「河童めし」「河童定食」などがありましたが、無難に「チャーシュー麺(煮卵入り)990円」を注文しました。

席に座ると、かわいらしいおねえさんが「サービスです」と言って、これを出してくれました。おお。



「揚げニンニク(無料)」ですって。いい薫り。しかもこれ、おかわり自由なんだそうです。これ、揚げたてホクホクですのでお替わりされるたびに揚げるんでしょうか。さらにこれだけじゃなくて「生大蒜」と「キムチ」も無料。それは別に珍しくはないが、「そうだよね、カッパと言えば忍辱ですもんね」と嬉しくなりました(←キウリだろ)。
難を言えばいまわたくしお寺巡りの旅をしている最中(不許葷酒入山門)なのですが、、、 今更そんなことを言っても仕方が無いだろう。しかし酒が欲しい。





このチャーシューの器への貼り付け方は関西方式なんですね。
しかし、中央の祟り神の正体がわからん。もしかしてこの青ネギ?(よく見たら入口の扉のポスターにそうだと書いてありました)・・・納得ができないが。



味はエグ味のない京都風って感じで、これまた好みです。
近くにあったら(ニンニクを食べに)通うでしょうな、と思いました。

食べ終わってドライブを再開すると、橿原にも同系列の店舗がありました。いいな。
大和高田市で目星をつけてあったネカフェを見付け、就寝。
『夏目友人帳』の続きを読むつもりだったのに、ほとんど読むことなく、朝まで熟睡しました。ニンニクパワーのおかげか。




朝10:00頃目覚めて出立。
今日の目的は、葛城山です。

葛城山はわれらが伊豆にゆかり深い役ノ行者の出身地であり、伊豆長岡の葛城山も、そこに篭もった役ノ行者によって「故郷の山に似ている」ということで名付けられたのものですから以前からとても興味があったのですが、今日の目的はあくまで「天狗さがし」です。

役ノ行者その人も天狗っぽい人ですが(行者は山岳修行・修験道の祖であり、天狗と修験道は切れぬ仲にありますから当然のことですが)、でも意外と「役ノ行者が天狗」っていう説は無いんですよね。役ノ行者は「超人」ですが、“天狗”とはまた別の存在だとみなされている。なんでなんでしょうね。
そう考えると、伝教大師最澄はよく天狗になってるのに、弘法大師空海や聖徳太子も天狗にはなってないんですよね。何か原理があるのか。
それに対して、役ノ行者の配下である“前鬼(ぜんき)”と“後鬼(ごき)”は、天狗の世界では立派な天狗ペアです。
名前に“鬼”ってついてるのに天狗。っていうか“鬼”であると同時に“天狗”。
3年前に吉野郡下北山村に「前鬼の里」を捜しに行ったんですけど、10月の時期には里は閉ざされていて、見ることが出来なかった。
今年の夏には行けるかなぁ・・・



知切光歳『天狗考』より。
「役ノ行者は舒明帝6年(634)の出生とあるから、同9年の天狗星のときには4歳になっていたわけで、その後もしばしば起きた隕星現象もつぶさに見聞したことであろうし、はなはだ早熟で13歳の頃には既に神異を見せていたというから、僧旻の命名した天狗のことも早くから知っていたに違いない。ところが早い頃の彼の伝記が天狗のことに少しも言及していないのは、その頃の天体現象、山の怪異、市井の物の怪、精霊(すだま)、怨霊、弧怪、鬼神などについて、天狗の仕業と感じていなかったためと受け取らざるを得ない。すなわち、初期の山嶽宗教を奉じた修験の徒は、天狗のことを論外に置いたということになる。そうした現象が幾百年か続いて、平安朝の末期に忽然として天狗と山伏の強い結びつきが表面に出てくる」


役ノ行者の業績についてはそのうちちゃんと勉強しましょうね。
今の私はまだ勉強不足。
今は知るべきは、その役ノ行者の偉業の出発点になった葛城山の様子と、その後彼に使役されるようになった全国の天狗についてです。


知切光歳『圖聚天狗列伝』より。
「葛城山の麓の腋上村に、茅原(ちばら)という所がある。そこに地祀族の賀茂ノ公(かものきみ)が代々住んでいた。役ノ行者はその賀茂ノ公氏の出身である。賀茂氏は、神武、綏靖、安寧三代の皇后を出した大和きっての名族で、上古から葛城の神を奉じて、その神託を奏し、呪術の家として知られていた。役ノ行者は、父の賀茂公大角(ふとき)に対して小角(おづぬ)というのが通り名であった。一説には額に一本の角があったので「小角(ささき)」と呼ばれたとある。『役行者本記』には「出生したとき、既に人語を口にしたので母の白専女(しろとうめ)が怖れて、この子は私の手ではとても育てることができませんと言って、野に捨てた。ところが嬰児は乳も無いのに飢えず、禽獣が従い馴れ、餓狼でさえ餌食にしようとはしなかった。自然に空から紫の雲が垂れて雨露を凌ぎ、甘露を降らせて養った」とあるから、獣の乳かなにかで養育されたのであろう。それを母が見て、また拾い帰って育てた」


そういえば私が役ノ小角について初めて知ったのは、学生時代に愛読していた山田ミネコの『ふふふの闇』と『最終戦争』のシリーズだったなぁ。懐かしい。


「彼を仏道に導いたのは、叔父の願行上人であるともいう。『小笹秘要録』には「願慶一乗坊は行者の叔父、之に従ひて出家す。生年9歳の時なり。其の後、髪を剃らずして19歳に至る」とある。深草元政の『山伏詩序』では、叔父願行が仏法の師であるとし、さらには山伏の鼻祖も願行であるとも言っている。(中略)古来、役ノ行者の業績とされている幾多の高山開発・仏閣創建の中には、願行の開いたもの、あるいは共同で開いた社寺も少なくないのではあるまいか」

「行者が葛城山に入ったのは、13歳の時とも17歳の時とも言うが、実際はもっと早くから山に親しみ、山に遊んでいたのが、17歳のころから山に籠もりきりになって、刻苦練行の三昧に入ったのではあるまいか。そして20歳を超えるころには苦修の効成り、呪術無双、山神でさえも呪縛し、使役して、薪水の労を執らせる大神通者に達していたものであろう。そして25歳の時、摂津国箕面山で籠山修行をしている。その前後に葛城山塊の山々峰々をくまなく跋渉し、河内国生駒山では山上の山魅(こだま、または山神)として恐れられた前鬼、後鬼を従え、同じ連峯の鬼取山では後に行者の二世、三世を継いだ義覚、義元の二鬼を折伏するなど、しきりに呪法による奇跡を発揮した活躍時代であろう。行者が更に勇猛心を起こして吉野大峯に登山し、付近の連山を跋渉し有縁の聖地を求めて彷徨の末、菊丈窟に籠もって数年に及ぶ刻苦修練の三昧に入ったのは、天智天皇6年(667)7月、行者34歳の夏だという」

「行者は37歳の夏に大峯を下って、それ以来諸国の霊嶽を踏破しては、いったんは大和に引き返してくる。曽野拠点は吉野、葛城のどちらかであったが、多くは葛城であったようである。その後の行者の行状から見ると、行者をはぐくみ、行者がすみからすみまで知り尽くした聖なる神の山、故郷の山である葛城山を呪法の修験道場とし、峨々たる吉野の山を修験の行場と見、那智と吉野の両端をその拠点の霊場と見たようである」




お恥ずかしい話、葛城山は葛城市にあるのだと思って目指していたのですが、実際は「御所(ごせ)市」にあるそうです。
知らんかった。
葛城市って何をもって葛城市なんでしょう?
・・・なんて、「伊豆の国市」なんていう意味不明の名前を持つ国の住人に言われたくありませんな。たはは。
なお、「葛城市」の「葛」の字は、正式には一太郎(ATOK)でも出てこない特別な漢字を使うそうです。山の葛城山も同様だそうで、「葛城」と書くのは便宜的な処置ですって。(表示できないから)。ただ、パソだけの問題かと思いきや、御所市で貰ってきた印刷物(観光協会のもの)では「表示できないカツ」の字と表示できる「葛城」のふたつが混在しています。ま、別に気にしなくても良いみたい。
伊豆では「葛城」の文字について悩んだことなど無かったですねえ。


琵琶湖の特産品。

2014年01月20日 19時07分45秒 | 今週の気になる人


1月12日に行った琵琶湖旅行の記録の続き、第3回。


8時に目を覚まし、出発。
今日の目的は琵琶湖一周。
私は遠江国の住人ですので、近江の国のことを兄のようにお慕い申し上げておるのです。
琵琶湖の北の方には行ったことが無かったので。

知切光歳の『圖聚天狗列伝』には、琵琶湖の天狗には3人が名を挙げられています。

  ・比良山次郎坊(ひらさんじろうぼう)
  ・竹生島行神坊(ちくぶじまぎょうじんぼう)
  ・松ヶ崎普門坊(まつがさきふもんぼう)

比良山は3年前にも天狗を捜しに行ったことがありますので、今回はパス。
(3年前無目的に適当に比良の山の中を歩いたんですが、何も見付けられませんでした。
痕跡がなさすぎるのです。今の時期に比良の山に入ったらきっと遭難します。
でもそういえば、ダンダ坊遺跡(比良の僧兵の城砦跡?)は見付けたのでした)


3年前に撮った比良山のダンダ坊・・・ 写真だと何がなにやら。


今日は竹生島に行ってみることにします。
竹生島は琵琶湖の北端にある小島。浜名湖でいえば礫島にあたる島です。
浜名湖には礫島ひとつしか島が無いのですが(人工島・弁天島(象島)もあるが)、琵琶湖には「竹生島」、「多景島」、「沖島」という3つの島があって、それぞれ個性を持っている。
本当は面白そうなので3つとも回りたかったんです。
夏だったら大津を出発して、「3つの島を1日かけて巡るクルーズ」というのがあるそうなんですが、この時期にはお休みしているらしい。
なので竹生島だけ行くことにしました。(天狗がいるのは竹生島だけだから)



ところで、琵琶湖の各地域の呼び名についてです。
浜名湖は形が入り組んでますから、場所によって「浜名湖本湖」「弁天島」「今切れ口」「引佐細江湖」「庄内湖」「猪鼻湖」「松見が浦」「内浦湾(舘山寺)」「鷲津湾」という名前が付いています。
この日記を書くに当たって、琵琶湖にも相当の地名が無いか調べたんですが、琵琶湖の場合、「北湖」と「南湖」という区分をするそうです。
その「南湖」というのは琵琶湖大橋(堅田--ピエリ守山)より南の細い部分。北と南のバランスが悪過ぎやせんか。
(南湖の部分だけでさえ広さで言えば浜名湖本湖よりも遙かに広いのですが)

ちゃんと調べれば「赤野井湾」「山ノ下湾」「奥出湾」「塩津湾」「大浦湾」「マイアミ海」などの地名があるようです。
でももっぱら沿岸の集落名・港名「~沖」と呼ばれる事の方が多いみたい。そりゃそうか。


さてさて、“琵琶湖で一番神秘的な島”竹生島に行くには、大きく3つのルートがあります。
・長浜港から(琵琶湖汽船)・・・片道約30分、往復2980円。冬季は1日2便。
・今津港から(琵琶湖汽船)・・・片道約30分、往復2520円。冬季は1日2便。(土日祝のみ)
・彦根港から(オーミマリン)・・・片道約40分、往復3300円。冬季は1日2便。
それぞれ2便ずつとはいえ、選択肢は豊富ですね。だって人が住んでいない島なんですから、只観光だけの線なのに。さすが竹生島。夏はもっと本数が多いです。もちろん車で来ていないのなら、往と復を片道の別々とする組み合わせもできます。夏には大津港出発の便もあるという。

私は3つのうち「今津港」を出発する物を選ぶことにしました。
たまたま日曜日でしたし、どうせ琵琶湖を一周するつもりでしたし、この往復が島での滞在時間が一番長かったし(80分)、何より料金が一番安でしたから。
今はともかく、平経正や延喜帝の時代には、どこから出発するのが一般的だったんでしょうか。志木沢郁氏の『可児才蔵』では比叡山麓の明智光秀に仕えていた可児才蔵が琵琶湖最北端の菅浦まで馬で行って、漁師に舟を借りて竹生島に渡る描写があるのですが、今の時代ではその方法はなかなか・・・

出航の時間は10:30。
今津港がすぐにみつかるか自信が無かったので「間に合うかな」とヒヤヒヤしながら行ったんですが、10時前には無事到着していました。大津からは50kmぐらいなので、1時間半ちょっとですね。

そうそう、このルートを選んだ理由のひとつは、







雪を冠った比良山を間近で見たかったからでもありました。
「近江八景」の一つは「比良の暮雪」。まだ朝なので暮雪ならぬ「明雪」ですが、美しくて迫力がある。近江八景にならって遠江にも「浜名八景」というのがあるんですけど、「比良の暮雪」に対応するのがわれらが舘山寺の「大草山の暮雪」なんですよ。偉容は段違いだし南国浜名の東岸で雪が積もることなんてありませんけど。
とくに堅田の町中から見る比良山が見事です。あのどこかに次郎坊がいるんですよー。
(北比良の堂満岳とカラ岳の間にリフトとロープウェイがあって(2004年に廃止)その山頂駅の付近に「次郎坊」という地名があったといいます。スキーのためのロープウェイだったそうなので、冬の間も次郎坊に登れたんですよね。八雲が原のスキー場の脇に接した場所なので、便宜的に付けられた新しい地名だったのかもしれませんが。それよりも堂満岳(どうまんだけ、1057m)の名前の由来は何? カニ?)

写真で見ると雲一つ無い晴天に見えるかも知れませんが、実は天気は良いのに東の方がたいぶモヤってまして、既に対岸は見えない。
しまった、昨日の方が見晴らしは良かった。


9:14の景色。



到着した9:40頃にはその場に私しかいなくて、「やべえ、貸切か?」と思ったのですが、「琵琶湖周航の歌資料館」やら「ヴォーリズ通り」やら歩いて戻ると(意外と楽しかった)、出発の10:30には乗客は10人前後に。寒いですからね、こんなもんですよね。









浜名湖の遊覧船が大好きなので、琵琶湖の遊覧がどんなのかとても楽しみだったんです。
なので浜名湖との対比。
浜名湖の場合、舘山寺を出発して30分で周遊するコースと60分で周遊して帰ってくるコースがあるんです。30分コースなんて行ってすぐ戻ってくる感じであっという間なんですが、それでも行ける範囲のポイントをいちいち回り、ゆったりとした雰囲気を味わうことが出来る。
琵琶湖の場合は、片道30分なんですが、ただ一直線に竹生島を目指す。スピードも速く、全く連絡船です。
一応座席で、琵琶湖案内のビデオをずっと見ていることもできますけど、湖上の風景を見ていても景色は雄大すぎてすぐ飽きる。浜名湖は地形が入り組んでますから沿岸をちまちまのろのろ走るだけで、「浜名湖って狭いんだな」と改めて思いました。琵琶湖は広い。深さもだいぶありそうです。
琵琶湖は浜名湖に比べて波がほとんどありません。地形的に潮の干満も無いのかしらね。
この日は空気が煙っていて、かなり近づかないと竹生島の姿もはっきりしませんでした。

竹生島には季節によりいろんな形態のクルーズが様々あります。
今津港発のに一回乗っただけでは琵琶湖遊覧の感覚は掴めないんだろうな、と思います。
浜名湖遊覧とは大違いです。
浜名湖の遊覧も、むかしは5つぐらいのコースがあったそうなんですけどねえ。



今津港からのルートは、ニュースでよく見た「カワウの害が甚だしい」島のお尻の方から近づきます。凄いねカワウ。




下にある鳥居は神社(都久夫須麻神社)のもので、上に見える(階段はまだまだずっと続くが)の鳥居はお寺(巌金山宝厳寺)の物。まあ、明治以前はお寺も神社も一体だったんですが。

竹生島の見所についてはいろんなサイトで紹介されているので省略するとして、わたしはこの島の天狗のお話だけを・・・
・・・しようかと思ったんですが、ウィキペディアの解説が(私的に)とても面白いので紹介。
この島は現在は「弁天様の島」として有名ですが、島自体は「浅井姫命(あざいひめのみこと)」といいます。浅井の姫は弁天(市杵島姫)とは別の女神だという。
淺井比売の本体は滋賀県の北東部にある伊吹山脈の「浅井岳」(1317m)で、伊吹山塊の主峰・伊吹山(1377m)の男神「多多美比古命(ただみひこのみこと)」とは伯父・姪の間柄だったそうです。ある日、この二人が「背比べをしよう」ということになったのですが、姫の方がおほほほほほと背伸びするとみるみる標高が伸びていったため、伯父は怒って手にした刀で姫の首をはね飛ばしてしまいます。姫の首は湖に落ち、「つぶつぶつぶつぶ・・・」という音をたてながら沈んでいったので「つぶつぶくび島」→「つくび島」という名前になったとか。この昔話にはいくつかのバリエーションがありますが、怒りがまだ収まらなかったのか、伯父は姪の身体の本体の「浅井岳」という名前も「金糞岳」という名前に変えてしまいます。
これは竹生嶋縁起によれば孝霊天皇25年のことだといいます。

大人げないのは伯父の「多多美比古」で、何も頸をはねなくても、と思うのですが、このタタミヒコもまた謎的な神で、鍛冶神だともいい(だから金糞か)、また「伊富岐大神」と同一人物だともいう。伊吹の大神といえば大猪に化けてヤマトタケルを祟り殺した人で、その正体は「八岐大蛇」とも言われており、そうか、八岐大蛇なんだったら仕方が無いね。(何が)。姪ももしかしたら首は3つぐらいあったかもしれない。
なお、現在の金糞山は1317m、竹生島の水面上の標高は197m。竹生島付近の湖の深さは104mだそうですから、それらを足すと、首を切られる直前の浅井姫の身長は(顔がひとつしかなかったのだとしたら)1618mということになる。うち300mが顔部だったことになり、浅井姫の真姿は6頭身の美女。近江の国では一番であり、金糞岳のすぐ近くにある能郷白山(美濃国で一番高い、1617m)にも1m勝ったことになりますね。ただし、竹生島は湖底とは繋がっていない(浮いている)という伝説もあります。
ところで「浅井比」の名の由来は何だろう?
「孝霊天皇4年に東で富士山が隆起して西に琵琶湖が出現した」という伝説があり(林羅山『神社考』)、この場合下手人はデェダラボッチですよね。だとすると巨人デェダラ坊と巨大女アサイ姫は同時代の人間だということになる。
(※「景行天皇10年に竹生島が出現した」という伝承もある。)




『圖聚天狗列伝』より。
「行基が弁天堂を開くまでの竹生島は人跡を絶した無人島で、程近い多景島と共に比良山塊の天狗どもの絶好の遊び場であった。そこに行基が寺を創建し始めたのだから、天狗どもはわれらのなわ張りを渡すなとばかり、様々の障碍をほしいままにした。しかしそうした天狗どもの蠢動も、法験無双の行基菩薩の折伏にあって静まった。首領の行神坊がまず仏価に浴し、眷属とともに長く島の護法たらんことを誓い、剃髪ならぬもろ手の指の生爪ことごとくを切ってささげた。天狗の有力な武器である爪をみんな切ったというのだから、発心の程が知られよう。行神坊という坊名はこのとき行基に授かったものか。弁天堂へ登る鬱蒼とした道の傍ら、大きな杉の下に行神坊を祭った天狗堂がある。そこは昼なお暗い樹蔭で、この小島の中でと思うほど一種の魔気を漂わせている。行神坊が切って捧げた生爪は、今も山上の宝物館に、役ノ行者の竹杖その他、数多くの宝物、古文書類と一緒に陳列されている」

この逸話の出典はなんなのでしょうか?
知切光歳が本の名前を挙げないのは珍しいので、近所の人(神社の人?)に聞いたエピソードなのかも知れない。
「行神坊が比良の天狗」と断言しているのも、「湖畔の伝承」として「竹生島では比良の天狗の集会がおこなわれる」と書いていますから、独自に比良の天狗話と白髭明神(猿田彦)の逸話を蒐集したときの聞き書きかもしれませんね。



島内の案内板に全く天狗堂のことは書いてありませんが、階段を昇りきるとすぐに見つかりました。
知切師は「魔所のように禍々しい」と書いてますけど、すっごく明るい場所にあります。30年のうちに雰囲気が変わってしまったのでしょうか。



で、書いてある名前は行神坊ならぬ「行尋坊」。
知切師は「行神坊」という名前をどこから持ってきたのでしょうか?
「行神坊」という名前を知切師以外に使っている人はいません。
(※同様の例は「光明山利鋒坊」→現地名「光明山笠鋒坊」があります)



堂の上部に絵が飾ってあります。おおっ、行尋坊天狗の御姿だっ



なんとやさしげな。
どなたが描いた絵なんでしょうね?



天狗堂のうしろにあった2本杉。
この堂は湖を背にして建っています。
残念ながら堂の付近には行尋坊のいわれなどの解説板などは無し。
惜しいですよね、こういうメジャーな観光地の目立つところに天狗様の偉業をさりげなく示しておけば、今の世でも天狗様信仰の人は増やせると思うのにね。(誰も要らないって)

それから、頂上付近にある宝物殿に向かいます。別料金500円。
もちろん行尋坊の生爪を見に行ったのです。
ところが、入館料を支払ったとき、おっちゃんが「中に弘法大師の請来目録があるよ」と言う。そこでもらったパンフレットの表写真もそれ。実はわたくし写経が趣味なのですが、字の練習をするとき常に手本にしているのが空海の『風信帖』と『潅頂記』でして(ネットでいくらでも見れる。本もたくさん出てる)、大師様の字をそれはそれは愛しているのですが(それにしては私のクセッ字は全く似ないが)、弘法大師の真筆がここにある!?
その前に陣取ってずーっとそれを眺めてたんですが、これって本物? 確かに弘法大師の字には見えるが、空海って書によって全く筆跡が違うし、どうなんだろうね、これ? とパンフレットに書いてある解説をずっと読みながら悩むことしばし。そもそもなんで弘法大師の書が竹生島なんかにあるんだよ、と思ったら解説にも「平安時代中期の写本」とちゃんと書いてあった。なんだよ、大師の字と似ているから勘違いするところだったよ、とホッとして宝物館を後にしたんでした。めでたしめでたし。
この書の中で空海は自分の名前のことを変な文字で書いていることが面白かった。空海の「海」の字を「泉」みたいな字で書いてるの。(「泉」の「白」の部分が「毎」)
・・・と安心して家に帰って念のため検索したんですが、やっぱり弘法大師直筆の『請来目録』の本物はやっぱり竹生島にあるんじゃん。
あれ、本物だったの!? 本物だったんですかッ!?

冷静に考えて私の目にしたのは平安中期のレプリカで(だってそう書いてあるし、重要文化財って書いてあるし)、でも国宝である本物も竹生島に蔵されている? うーーん、わからん。

で、天狗の生爪。
そんなのあった? 弘法大師に夢中になってたので、見た記憶がありません。うー。
見た人の記録はたくさんあるのであることは間違いないのですけど、あったかしら。あったとして、この私が脳裏に見たことすら留めていないだなんてこと、あり得るのかしら。「爪とは思えないほど大きい」と見た皆様は書いておられます。うー。天狗の爪の隣には竹生島の天狗についての解説もあったそうです。う゛ー。
それから、ネットで調べたら「竹生島神社の一の鳥居の隣に石碑があって、その裏側には行尋坊の爪の後が残っている」という情報があったので、一の鳥居の付近を探したんですけど、結局見付けることは出来ませんでした。だってこの鳥居、新しいんですもん。家に帰って調べ直してみたら、この「竹生島神社」というのは島にある神社のことではなく、湖の対岸の早崎町にあるという竹生島神社のことでした。ややこしいわい。(竹生島も早崎町に属している)(※参考
ついでにネットで知った情報。
「行尋坊は随従として行基の傍らを離れる事なく、「死んでも永遠にこの島の守護を誓う」と言って、指の生爪を剥いで天狗となった」
知切師とは若干ニュアンスが違うような同じなような。
行基の側にずっといたのなら、少しは記録が残っていそうな。行基の伝記もそのうち捜してみましょうね。

さて、島での滞在時間は80分です。
探索の時間は「長ければ長いほど良い」と思っておりましたが、50分もするとやることが無くなりました(笑)
もちろん本堂も唐門も船廊下も神社もじっくり眺めましたよ。
見たかった「白蛇様」を見付けられなかったのですが、どこにあったのでしょうか。
まぁいいです、今日の目的は天狗探しであり、その目的は達したのですから。
大々的な工事中の箇所がかなりあり、見学はいささか不便でした。
でもこの修復工事、昨年始まり6年もかけてみっちりやるそうで、



ここなんかもカラフルな色に塗り直されるそう。
そうか、次回来たときは(来ることがあるか?)この景色はもう無いのね。
違うポップな雰囲気になってしまっているのね。

船着き場には土産物屋が何軒も並んでおるのですが(7軒あるそう)
この季節なので営業してたのは1軒のみでした。
たった1軒でも開いているのはありがたいもので、ちょうど小腹が空いていたので何か食べようと思い、ちょっと覗いたら前から食べたいと思っていた「鮒寿司」の文字があったので「しめた」と思ったのですが、実は先程「竹生島に来るルートは選択肢が多い」と書いたんですが、この時期だけは便宜的にみんな同じ時間に島に上陸して同じ時間に退島するように設定されているようで、つまり長浜からのお客さんも彦根からのお客さんもこの1軒のお店に殺到しており、なんかめんどくさくなっちゃった。いいや、鮒寿司なんか滋賀県ならどこでも売ってるだろうし、どうせこういう観光島の値段は必要以上に高いだろうし、と思って諦めました。
ここは季節中は客引きがすごく煩わしいそうなのですが、私は昨日貴船でとても好ましい客引きに遇う経験をしたばかりですし、今となって思えばもったいないことをしたな。

あとはずーーっと湖の景色を眺めておりました。
竹生島から比良の山や伊吹の山を望むことを楽しみにしておりましたのに、全然見えひん。
対岸すら見えません。
琵琶湖って広いなあ、と思いました。

そこから湖を戻って、13時ごろにドライブ再開。
すぐに道の駅「マキノ追坂峠」を発見しまして、小腹を満たす為に寄り道。
すでに周囲は雪だらけになってまして、堅田あたりとは全然景色が違う。なのに道の駅は人でごったがえしておりました。





鮒寿司、高ぇ。
ついでに「鯖寿司」も買ってみました。
3年前にドライブに来たとき、白髭神社を通って高島市から西進し、朽木谷を通って京都に戻ったんですよね。その途中、夜道の朽木谷で鯖寿司ののぼりをたくさん目にし、「喰いてぇ~」と思っていたのでした。朽木谷は通称「鯖街道」。琵琶湖全体で鯖寿司が名産物かどうかは知りませんが、少なくともマキノのここではご当地グルメだ。3年越しの夢。
で、道の駅の中にはいろんなメーカーのいろんな鯖寿司が売られてまして、さすが鯖街道。でも困ったことに値段が全然違う。
分量にかかわらず、安いのは安いが、高いのは高い。これは困ります。
おそらく材料の生産地による差だと思うのですが、そんなこと言われても。
「生と焼きを食べ比べてみよう」と思って(真ん中ぐらいの値段のを)購入してみました。

さっそく外に出て、雪に囲まれた屋根付きのベンチに座って食べて見ます。
雪が降ってます。寒い。

まず、鮒寿司から。
これは食べて見ないとどんなものか全く想像もつかないですからな。
静岡でこれを食べられる機会は全く無い。







おそるおそるご飯の部分から食べ始めてみます。
おお、ウワサには聞いてましたが、本当に〇ってやがる。
酸っぱいニオイに酸っぱい味。本当なんだ。

続いてフナの身の部分。堅い! そして酸っぱい。
不思議な食べ物だなあ。
これは酒と一緒に食べるもんじゃないか?
すげえ、どうしてこれが食べ物になったのかと考えると涙が出る。
結局の所、4分の1弱食べたところで諦めて(もうこれ以上食えん)、家に持ち帰ることにしました。
賞味期限は未開封で1/22までと書いてありますが、車の中でこれ以上〇ったとしても全然問題は無いでしょう。だってすでに〇っているから。
さっき竹生島でこれを食べなくて本当に良かった。
怖い物が大好きな私をこんなに怖れさせるとは、恐ろしい食べ物だ。

家に帰ってから(2日後に)お酒と一緒に食べてみました。
あれ? 酒を供にすればいくらでも食べられる。
なんだこれ。
ていうか、むしろ好きだぞ。
分かっていてもバクバクは食べられませんけど、ちびりちびり食べる物ですね、これは。
ご飯の部分は食べなくても食べてもどちらでもいいそうですね。
「チーズみたいな味」と一般に評されていて、「なにが?」と不思議に思っていたのですが、
確かに卵の部分がチーズみたい。ここが一番美味しい。
すばらしい。(でも一気に食べられず、3日かけて食べました)
食べきってしまった今となっては、写真を見るだけでよだれが出るほどです。
なお、卵の部分は初心者向けで、通は雄の鮒寿司を好むそうです。恐るべし近江県人。
雄の鮒寿司は諸処の事情からものすごく希少価値があるそうです。

話を1/12に戻しまして、続いて鯖寿司を食べる。



うん、うまい。
ウマい以外に言葉が無いですよ。だって鯖ですもん。
琵琶湖畔でわざわざサバを食べることの是非を考えてみようともしましたが、だって仕方がないよ、そういう文化だったんだもん。
なお、鯖寿司は静岡でも頻繁に食べられます。

続いて焼きサバの寿司を。



うーーん、ますます旨い。
焼きサバですからね、美味しいのは当然だ。鯖ってなんて素晴らしい魚だろう。
(浜名湖でも鯖は獲れます)。ただ、若狭の鯖の脂っこさは世界一なのだそうです。

・・・ドライブを再開します。
そこから琵琶湖の北辺を通って湖東地域に行こうとしたんです。
ところが雪は降ってるし、道路はもう凍ってるし、「ただいまの気温3度」とか書いてあるし、もうぶるぶる。
いえ、さすがの私でも3度では水は凍らないとは知ってますが、道を走っている車は平気でびゅんびゅん飛ばしてますから、きっとみんな雪タイヤ穿いてんだな、と、それは当たり前なんですが(南国生まれの私は雪タイヤなんて持ってない)、自分の後ろに3台も車が付けばどうしても飛ばしたくなる自分がいて、やがてガードレールにつっこんで小破している車やそこへ向かうパト車など見て、やばい、このままだと自分もアレになる、と。



本来なら琵琶湖北辺を通る国道303号線を通っていくべきでしたが、そのルートは山道でして、いくら国道ではあるとしても今の私の車のタイヤでは危険だ(と、思いました)。
従って比較的平地だと思われる国道161号線を通り、琵琶湖北部の山地をぐるっと回っていこうと思ったのですが、琵琶湖って思ったより標高の高いところにあったみたいで、福井県に向かってじりじりと坂を下っていく。いやぁ~~、これ以上北に行きたくない、坂を下りたくない。
坂を下っていけば気温は上がっていくはずですが、北へ向かっている為その安心感は相殺され、実際に車の外温計は、2度、1度と下がっていき、だって雪が降ってるんだから1度だったら道路はやばいじゃん、こりゃやばい、タイヤにチェーンを巻くべきか、とウジウジしだしたところで、国道6号線が出現し、山を迂回して南下開始。助かった~~と思いつつ、また琵琶湖に戻ってくるまで気温は1度から2度を上下しているままでした。その距離およそ20km。南国人には雪の降る道路は怖い。

それにしても琵琶湖は北と南の気候の差が大きい。
浜名湖より凄い、と思いました。(当たり前)
長浜市ですらも、小谷城のあたりと長浜城のあたりは全然風景が違う。余呉湖とか賤ヶ岳とか姉川とか、本来なら見て回りたいところがいっぱいあったんですが、雪が怖いあまり、ぜんぶ素通りしてしまいました。初めてほっとできたのは長浜市の南部辺り。
改めて不思議なのは、戦国浅井氏の領土ですね。あの山地を真ん中に挟んで、どうして西浅井と東浅井、それから高島市のあたりまで支配できたんでしょうか。私は雪山を必要以上に怖がってますけど、船利用前提ですよね。


そこからは適当に、道の駅やらお土産やさんやら覗きつつ南下していきました。
「琵琶湖の特産品」ってなんでしょう。
なにかおもしろそうなおみやげないかなー、と思って見て回ったんですが、佃煮とか甘露煮が多かったですね。(苦手)
もちろんさっき食べた鮒寿司はすばらしい発明品ですが、
もっと湖魚的なのはないかと。

遠江湖人的には、いろいろな本で紹介されていた「琵琶湖八珍」が面白いと思いました。
これは昨年、安土城考古博物館(なぜ?)が主体となって選定されたもので、、「琵琶鱒」「小鮎」「似五郎鮒」「ハス(コイ科の大きな魚)」「本もろこ(コイ科の小さな魚)」「いさざ(ハゼ科)」「琵琶ヨシノボリ(ハゼ科)」「スジエビ」の8つですって。
本当は、ウナギやシジミを推す声も大きかったのですが(実際に琵琶湖沿いには鰻屋が多かった。瀬田シジミもブランド)、将来のことも見据えて敢えてこの8つにしたんですって。
おもしろいのは、「食材」としてこの8つが選ばれたんですが、「料理方法」は敢えて問わないってところ。
例えばあの素晴らしい「鮒寿司」の材料が「ニゴロブナ」なのですが、
米に漬けて●らすの他にもニゴロブナにはたくさんの調理法があって、ここではそれらをすべてひっくるめて「珍」とするという。



ヨシノボリって食べる文化が琵琶湖にはあったのか。
この「琵琶湖八珍」は「宍道湖七珍」をリスペクトして提唱されたそうで、
そもそもその宍道湖七珍も調べてみると、例えば松江市のサイトなどには「シラウオの酢味噌」「アマサギ(ワカサギ)の照焼」「鱸の奉書焼」「鯉の糸造り」「煮たモロゲエビ(ホンジョウエビ)」「シジミ汁」「ウナギの蒲焼き」などが紹介してあって、それらを一緒に食べるのが本来がごとくの書かれ方をされているのですが、これももともとは、「スズキ」「モロゲ」「ウナギ」「アマサギ」「シジミ」「コイ」「シラウオ」の7つの食材そのものをさすものだったとか。
その大元の「宍道湖七珍」も言い始めた最初は昭和30年頃だそうですからそんなに古くもないし、そもそも「鱸」「蜆」「白魚」「鰻」「公魚」「モロゲエビ(ヨシエビ)」は浜名湖にもいるし食材として珍しくも無い。(この「珍」というのは「珍味」という意味ではないのかしらね)



それに対し、「琵琶湖八珍」はよく出来てるし、琵琶湖らしさを体現できてる。
(ウナギやシジミなんか(と言ったら近江の人に怒られるだろうけど)選ぶべきではなかった)
海の恵みの種類で言ったら、浜名湖の方が何倍も恵まれている気もするけど、浜名湖も琵琶湖に学ぶべきところはたくさんあるよな、
とドライブしつつ、佃煮ばっかりで買う物が無いことを嘆きながら、思っていました。

でも実際のところ、琵琶湖の一番の恵みって魚などではなく、水郷地帯の豊かな水田と農作物のような気もしますけどね。
(浜名湖には一番欠如しているものだ)

(つづく)

丑の刻参りの呪詛に恐怖す。

2014年01月18日 14時06分43秒 | 今週の気になる人

鞍馬寺の紋はどう見ても「天狗のうちわ」なのですが、お寺の説明によると「菊の花を正面からではなく横から見たものをデザインした」と伝えられているそうです。え?
また天狗様も、鞍馬山にいるものは「姿を見せない山の精霊」「マイナスをプラスに転化させる力を持つもの」だそうです。へー。


1月11日に行った京都旅行の記録、その2。
3年前に来たときは鞍馬のすぐ近くにある貴船神社も素通りしてしまってまして、丑年生まれの私は丑の刻参りにもとても興味を持ってたので残念な思いを日々強くしていたのでした。今度こそは貴船にも行ってみよう。
わたくしの生まれ育った遠江国旧浜北市は、これ以上の田舎町もないってくらいのどうしようもない田舎町ですが、むかしは町の中央にそれなりの繁華街があってその町を「貴布禰(きぶね)」と呼んでおりました。その町も再開発によって跡形も無くなっていますが、現在の遠州鉄道「浜北駅」も昔の呼称は「貴布禰駅」だったんですよ。小学生になったとき歴史に興味に持ったばかりのわたくしはいろいろな地名由来を調べ始め、「貴布禰」は水神信仰の地名だと知った。私の家は天龍川の河原にありましたから、「諏訪信仰」「龍神信仰」とは別に天龍川の祟りのみなもとに「貴船信仰」というものもあることに感嘆を持った。水神にもいろいろ種類があるのだと。
その貴船信仰のおおもとは京都にある鞍馬の山なのです。



鞍馬山の門前から坂を下り、貴船口からまた坂へ入る。うを、鞍馬本町と貴船はすぐそこだと思っていたのに、貴船口から貴船の門前まではかなりの距離がある。歩いている人もけっこういます。遠くて寂しい道なのに。駐車場を捜すんですがほとんど無い、おまけにところどころ見かける看板には「駐車場代1000円」と書いてある。高いよ。(鞍馬の駐車場代は500円だった)
貴船の門前にも駐車場があったのですが、やはり1000円でおまけに何かの工事中で駐車不可。
やたらと道が狭いし「この先駐車場があるのか? 無かったとしてもUターンできるのか?」と思ったところに料理屋さんがあり、そこで客引きをしている上品な人がいて(あとで調べたら女将さんだった)、「もしおなかが空いていたらここで湯豆腐を食べて、車はいくらでも停めててもいいからゆっくりお参りしてらっしゃいよ」「ひとりでも全然いいですよ」と言われて、「うん、そういえば小腹が空いてるな」と思ってランチの料金を尋ねたら、3500円。湯豆腐が3500円! でも考えてみたら「京都で湯豆腐」ってなかなかおもしろそうじゃないですか。3500円って高くないなと思い直し(なんでだ)「ごちそうになります」と言って駐車場に停めてもらいました。
お店は「貴船茶屋」というお店です。本来は川床料理のお店(=夏のみ)だそうです。



お店の中はかなりレトロな造りの座敷。ええじゃないか。



すでに席がしつらえてあって(1人だったのに!)、火を付けられる。





おおおお、本当に湯豆腐だけで3500円なのか!?
さすが京都、やるなっ、と思っていたらかっこいい料理人の男が京野菜の天麩羅と炊き合わせを持ってきてくださいました。なぁんだ(と、がっかりしてしまう自分がいたりして)





炊き合わせなんですが、「どうせ京風の味付けなんだろー?」と、濃い味好きな東蝦夷な私が挑戦的な気持ちになってしまうのは仕方の無いところでございます。が、蔭に隠れてタラコを炊いたのもあったりして、とても芸が細かい。やっぱりおっさんは京都の力に感服です。例えば天麩羅にも一番奥に何かの真丈のもちもちした何かがいたりもして。



肝心の豆腐です。
天麩羅を食べているうちにぐつぐつ煮立ってきますので、食べる。おお、普通の豆腐だ。
私は常から豆腐が大好きなのですが、その実、良い豆腐を食べ分ける舌など持ち合わせていなかったのでした。
とはいえ3500円の豆腐ですから、きっと凄い豆腐を使っていない訳が無い、と思いながら楽しく食べました。
豆腐ダレが濃い・・・ これは京風じゃないのね(大歓迎だ)



それから、ジャコご飯と香の物と果物で終了。満足しました。
そしてあとあとに図らずもここで豆腐を食べたことを感謝することになりました。とても程良い満ち足りた腹持ちがとても長時間持続した。最近の私はとても粗食になっているので、いきなり脂っぽいものを食べたら大変なことになっていたかもしれない。寺社巡りをするにあたってこのささやかで精進的な膨満感はなかなかありがたい。

「なんで京都で湯豆腐?」と思うんですが、調べてもなかなか分かりません。
精進料理の中心と考えられたから京都とのつながりを感じられますが、別にお寺は京都だけにしか無いわけではないし・・・。ここのサイトを見ると「室町時代には豆腐といえば奈良」だったそうです。現在は、京で湯豆腐といえば「南禅寺界隈」となっているそうですが(なんでだろう)京都全体で湯豆腐が料理屋メニューとなっています。なんでだろう? 「祇園豆腐」というものもありますが、京都には豆腐メーカーが多いのかしら? 
「豆腐を誰が発明したか?」(伝説では淮南王劉安だそうです。何か逸話があるのか?)とか「日本に製法を持ち帰ったのは誰か?」とか(伝説では弘法大師。・・・高野豆腐が先なのか?)なんて考えたことも無かったのですが、またいずれ金持ちになったら、京都に他の豆腐を食べに訪れたいですね。




それから貴船神社(きねじんじゃ)に参拝。
18代反正天皇の時代に玉依姫命(神武天皇の母)が大阪港から「黄色い船」に乗ってここにやってきたから「黄船」→「貴船」。という説明が貴船神社のサイトに書いてあったんですが、その玉依姫命は別に当社の祭神では無いそうです。神武天皇の母ってそんな長寿伝説がありましたっけ? ウィキペディアを見ると「玉依姫」の項にはややこしいことが書いてありまして、玉依姫は何人もいたそうですから、「タケノツヌミ神の娘」の玉依姫がそれっぽいかも知れない。建角身にしても11代垂仁天皇の頃の人で、この頃の天皇はみんなとんでもない長寿ですから建角身の娘だったとしても玉依姫も人並み外れた長生きだったということになりますが、貴船神社は賀茂別雷神社の摂社だったそうで、賀茂別雷命の母は伝説では建角身の娘の方の玉依姫だとされているから。とにかく記紀では反正天皇は5年しか在位していなかったことになっていて、そこにピンポイントに玉依姫の創建伝説があるところが面白い。反正天皇は身長が9尺2寸半もあったそうです。



貴船神社は「絵馬の発祥の地」だそうで江間好きな私は「何か書いてみても良いな」とチラと思ったのですが、「今は別に願いたいことも無いし」と思い直し(←えっ!?)、でもここが実質わたしの今年の初詣だったため、おみくじだけ引いておくことにしました。(さっき行ったばかりの鞍馬寺の鞍馬弘教という教義はヘンテコ教義だと思うため、ノーカウントとする)
この神社の「水みくじ」は有名でしたね。
本殿の目の前にある水場に紙を浮かべると文字が浮かび出てくるというのですが、テレビで見て想像していたより占う水場は小さかった。



でーーいっ、小吉!  (凶でなかっただけ良しとしよう)

 ・「商売」・・・利益は思わしくない (ショック!)
 ・「旅行」・・・行っても心配だらけ
 ・「恋愛」・・・他人の妨害がある。末永く我慢すればそのうちにね。 (誰だっ)
 ・「病気」・・・重くなるが治るよ。
 ・「無くしたもの」・・・出てこない。
 ・「転居」・・・急ぐな。

うーーーーん、、、、。ちょっと厳しい一年になりそうだ・・・

で、「この狭い境内のどこで丑の刻参りをするんだ?」「どこかに山の奥にでも入る道でもあるんかな」と思ったのですが、私はこの先に「奥の宮」というのがあることを知りませんでした。(※貴船の奥宮は本宮から約700m)。丑の刻参りをしたい人(?)はそっちに行くようです。
これも知らなかったのですが、本宮にいる神は「高龗(たかおかみ)神」で、奥の宮にいるのが「暗龗(くらおかみ)神」ですって。神社によればどっちも別の名前の同じ神だそうなのですが、天龍川にいることになっているのは「闇龗神」なんですよ。
貴船神社は、本を読めば読むほどおもしろいので、また行ってみたいです。
とにかく鞍馬が「天狗の山」なのに、そこから少しだけ行った所にある貴船が「鬼の谷」となっており、空気の匂いさえもが全然違うところが興味深い。
「丑の刻参り」の語句が初めて出てくる作品は室町時代の謡曲『鉄輪』だそうですよ。(※丑の刻参りの風習自体はもっと古くからあったとされるが)謡曲の世界も面白いですね。いろんなところで参考文献になる。本を数冊買ってありましたので、そのうち詳しく読んでみましょう。




せっかく叡山電鉄沿線にいるのだから、そこから比叡山延暦寺に行ってみることにします。
折角だからケーブルカー・ロープウェイを使って登山しても面白いな、と一瞬思ったりもしたのですが、調べてみたらなんかややこしいし、横川まで行くのだったら移動手段が結局必要だし、車で向かうことにしました。でもいづれまたケーブルカーでも登ってみたいですね。



比叡山て、こんなに大都市に挟まれた山なのに、なかなかの高さですよね。(標高848m)
秋葉山(866m)と同じくらい。
比叡山は有名な魔所です。天台宗の大道場でもあるのですが、今回の私の目的はもちろん天狗探求。
確かとても若かった頃来た事がある。デジカメもまだ持っていなかったくらいの頃で、写るんですでいっぱい暗がりの写真を撮ったんですが、それももう手元に残っていない。でもなんかとても良い思い出があります。

比叡山は、天狗伝説もまたとても豊富です。(20年前に来たときの私は知りませんでしたがね)
日本最古の「天狗の聖地」といっても良いです。
まず、『今昔物語集』(第20巻)に載っている12話の天狗説話のうち、少しでも比叡山に関わりのあるものが7話。

 1.天竺の天狗が海水の音を聞いて我が国にやってきた話
 2.震旦の天狗の智羅永寿が我が国にやってきた話
 3.天狗が仏に変身して都の中で木の上に座っていた話
    『今昔物語』ではこの仏の正体を天狗だと見破ったのは深草帝の皇子ですが、
    ほぼ同様の話を伝える『宇治拾遺物語』ではその役を叡山の僧がします。

 4.天狗を祭る僧が内裏で奇跡を起こしたが馬脚を現して追われた話
 7.美人で誇り高い染殿が天狗に惑わされ狂乱した話
    『今昔物語』ではこの話に決着はつきませんが、
    後の世に成立した『是害房絵巻』では比良山聞是坊が是害坊に言う。
    「染殿をたぶらかした鬼はその後、智証大師円珍に挑んで琵琶湖に沈められた。
     おまえもわざわざ中華の国から来たんなら死ぬつもりでがんばらんかッ」
 
 8(欠話).良源僧正、霊となり観音院に来たり、余慶僧正をこらしめた話
 11.万能池の竜王が天狗に誘拐された話

ただし今昔物語では比叡山は「天狗の山」とされているのではなく、天狗を退治する役として比叡山の僧が関わっていることが多いです。叡山の僧は天狗には滅法強い。(※それは、『今昔物語集』を編纂したのが叡山の僧だとされているから)。例外的に、巻19に「比叡山の天狗、僧を助けて恩を報いた話」というタイトルがあってどんな物語か興味が沸くのですが、残ってるのはタイトルだけで本文は失われているそうです。残念だ。良い話だったらいいのに。同様に欠話の巻20の第8話も、慈恵大師良源(角大師)の役は天狗的な役なのか、天狗を懲らしめる役なのか・・・ (天台座主第20代・余慶僧正も第2話において大唐天狗・智羅永寿を散々に蹴り嘲った人です)

室町時代後期~江戸時代中期にかけて成立したと思われる『天狗経』には、そのころ著名であった48人の天狗の名前が列挙されていて中世の天狗世界の把握の集大成となっています。残念ながら天狗は日陰者なので、その48人のうち半分はやがてデータの詳細が失われ、どういった背景を持つ超自然の顕現なのか今のわたしたちには分からないものになっおりますが、それでも天狗経の中の48狗を、現在でも「日本の48大天狗」と呼んでおります。
その48人のうち、比叡山に棲むとされているのは2人。

 ・比叡山法性坊(ひえいざんほっしょうぼう)・・・48大天狗の4人目
 ・横川の覺海坊(よかわのかっかいぼう)・・・48大天狗の5人目


まず、『今昔物語』の方は、比叡山が舞台になっているのは1つだけ(智羅永寿の話)だけ。
智羅永寿(ちらようじゅ)というのは中国からやってきた大天狗の名前で、後の世になって、謡曲『善界』(観世)『是界』(宝生・金春・喜多)『是我意』(金剛)とか『是害房絵巻』では「是害房」などと、「ちらよ」が「せかい/ぜがい」という名前に代わってしまうのですが、とにかく彼ははるばる日本にやってきて、別の山の日本の天狗と共に(『是害房絵巻』では愛宕の日羅坊、『善界』では愛宕の太郎坊天狗)、一緒に比叡山に降り立ちます。
その遺跡はどこなのかと探そうと思いました。
その場所は、今昔物語の描写によると、
「比叡の山の大嶽の石卒塔婆のもとに飛び登りて、震旦の天狗も此の天狗も道邊に並み居ぬ。(中略)とばかりあれば、山の上の方より、餘慶律師といふ人、腰輿に乗りて京へ下る。この人は只今たふときおぼえありて、いかで陵ぜむと思ふに、極めてうれし。やうやく卒塔婆のもと過ぐるほどに、事すらむかしかとし思ひてこの老法師の方を見れば、老法師もなし。また律師もいと平らかに弟子どもあまた引き具して下りぬ。怪しく、いかに見えぬにかあらむと思ひて、震旦の天狗を尋ぬれば、南の谷に尻を逆様にて隠れ居り。此の天狗寄りて、「何とここには隠れたまへるぞ」と問へば、答ふるやう、「この過ぎつる僧は誰ぞ」と問へば、此の天狗、「これは只今のやむごとなき験者餘慶律師といふ人なり。山の千手院より内の御修法行ひに下るるなり。(後略)」

この場所はどこか?
ヒントは「大嶽の石卒塔婆のある道ばた」、「山の上から余慶律師が」、「山の千手院より」、「余慶僧正は観音院僧正とも呼ばれた」。
これだけをメモして比叡山に行ったんですが。

・・・わかりませんでした。
だって「行けば分かるだろう」と思って行ったのですけど、「観音院」すらどこにあるのか分かんないんだもん。
「観音院」と「山の千手院」は同じものだと思うのです。でも現在の比叡山にはその建物は無い。(信長に焼かれたか?)
でも、家に帰ってから調べ直したんですけど、もしかしてこれ
くそー、もうちょっと調べておけば。

とすると、「大嶽」というのが「大比叡の山頂」だとして、「山王院の方角から都の方へ向かって下りていく山肌」で「石卒塔婆」を捜せばよかったのか。
地図で言うとこのへん?(また(雪の無い時期に)行きましょう)
(※『是害房絵巻』では余慶は「千光院ノ律師」となっているそうです。千光院なら西塔にあった建物です。(今は無い))




続きまして、「比叡山法性坊」。
これはわかりやすい。モデルになった人物として、「法性坊尊意」(第13世天台座主)という高僧がいるからです。
「法性坊尊意」と言っても知名度は無いのかもしれませんけど、それはそれは凄いお坊様。
11歳のとき高雄の山に入り、21歳で智証大師円珍から戒を受け、加持祈祷の術に秀で、元三大師・良源は弟子。
宮中で、菅原道真の祟りを調伏し、平将門の乱も調伏するなどエピソードも多い人です。
菅原道真とは親しい友人だったんですって。(21歳の年齢差があったそうですけど。菅公が年長)
謡曲の『雷電』では死んで荒ぶった道真の霊を、法性坊が鎮める。
生前からかなりの徳のある僧として高名だったそうです。
そういう人が「死後、天狗になった」ということがインパクト強いんでして。

その天狗化については、知切光歳師の『圖聚天狗列伝』が詳細です。
「将門を調伏した天慶3年2月下旬の22日、法性坊は頭をきれいに剃ってもらい、念入りに沐浴の後、かねて念願の往生の日が近づいたことを弟子たちに告げた。結縁のために柱を立てて集まる人に知らせ、24日早朝、新しい法衣に着替えた。口中と手足を浄め、自分の坊舎、東塔東谷の南光坊から中堂まで輿をひかせ、いつもの勤行に仕立て、なんらの病もなしに示寂したのであった。享年81。(あるいは75とも)。少しも屍臭がしないので、弔問の僧俗どもが奇異に思った。送葬の日、ひとつの奇瑞があった。数百羽も打ち群れて南光坊の空を飛び交い、哀しい声で鳴きたてていた山の鴉が、葬りが終わると、いずこともなく飛び去ったのである。人々は法性坊の死を悼んで鴉が鳴くのだと見たかも知れないが、現世の業を終えていよいよ天狗界の王者を迎える鴉天狗どもの御迎えの声だったのかもしれない。おそらく棺の中は死出の衣装だけを残して、遺体は遠く横川の空へ飛び去った。羅山の『神社考』にはそのときの光景を、「尊意ハ群鳥ト同ジク、横川ノ杉ニ翔リ」と叙している」
「法性坊は叡山天狗の首領とされているけれども、根が座主上がりの高僧だけに、動乱を好まず、もっぱら愛山護法の天狗、呪術に通暁し法験あらたかな天狗として、自分の立場を固守して愛宕や鞍馬の天狗の下風に就くこともなかった」



要は、法性坊の天狗遺跡の場所は、根本中堂なんですね。これは叡山の中心となる建物。とてもわかりやすい。
根本中堂はそれはそれは見事な建物でしたけど、内部は禁撮影でした。
そして思いっきり寒くって、床が冷たくて、足がしびれてきた。(宝物殿も足が凍えた)
私は非常に寒さに強い人間のつもりなんですけど、それにしても我慢できないほど。
お坊さんて尊敬するなあ、と思いました。

で、天狗経48天狗のうちの39番目、上野の国・妙義坊もその正体は法性坊尊意なんだそうです。
48人しかいない大人物のうちの2人が同一人物だなんてアリか?
その謎もそのうち解かなけりゃ。



で、比叡山東塔に来たのなら、あわせて見ておかねばならないのはこれ。
なんと根本中堂に下る坂の上の所にありました。
なんでこの場所なのか。
“大塔の宮”尊雲法親王も116・118世の天台座主になった人ですが、この人はこの場所に棲んでいたんでしょうか?

『太平記』より
「この大塔の二品親王は、時の貫主(=座主)にておわせしかども、今は行学ともに捨てはてさせたまいて、朝暮ただ武勇の嗜なみのほかは他に事なし。お好みあるゆえにやよりけん、早業は江都が軽捷にも超えたれば、七尺の屏風もまた必ずしも高しともせず。打ち物は子房(=張良)が兵法を得たまへば、一巻の秘書尽されずと云う事なし。天台座主始まって、義真和尚より以来一百余代、いまだかかる不思議の門主(=座主)はおわさず。」
すでにこの時点で天狗的(遮那王的)なのですが、
この碑の脇に置いてある看板を読むと、
「当時、根本中堂を御座所としてのちに大講堂へ入る。弟の尊澄法親王(=宗良親王)と一緒に常住した」
と書いてある。
おお、根本中堂で寝起きしていたのか。(・・・できるのか?)
寝る場所は他にあったのかな。

大講堂も大塔宮の天狗遺跡として私的に認定。





大塔宮のモニュメント?

そこから横川に向かいます。
「西塔」も行きたかったけど、さっき貴船で引いたおみくじで「西は凶」と言われてしまったし。
西塔には伝教大師の遺跡が多く、平田篤胤などは『古今妖魅考』の中で「比叡山次郎坊(=比良山次郎坊)の正体は伝教大師最澄である」と断言しているのだそうですけど、知切師は「そんなバカな」と首をかしげておられます。

横川は20年前に来たときも歩いたことがあります。
20年前も、そろそろ日が落ちるころに来て徐々に木々の間が暗くなり、とても幽玄な気持ちになりました。
今日も図らずも似たような時刻になってきてしまっており、冥くなる、だんだん冥くなる・・・
道路がかなり凍っており、一度道に撒かれた融雪剤でタイヤがツルッと滑ってしまったので急に恐くなり、ゆっくりとソロソロと運転して横川の駐車場に到着したちょうどそのとき、関係者らしい車が出て行った ・・・しまった、閉門の時間です。(16時)
でも閉門といっても係員がいなくなって横川中堂に入れなくなるだけで、普通に建物の間を歩くことはできます。
(慈覚大師作だという(伝)「日本一優しい顔の聖観音」というのを見たかったけれど)



しばらく歩いてみて気付いたんですが、わたし、ここに来た事ないや。
そうか、20年前に来たと思ったのは、横川じゃなくて実は西塔だったんだな。
適度な年月は、勝手に自分の記憶を捏造してしまうから困ってしまいます。
そうか、私は横川を歩くのは初めてでしたか。



中堂の坂を登っていたとき、顔のすぐ横で何か獣の気配がして「ヴォヴォッ」という声も聞こえました。
吃驚して「猿!?」と思ってじっと雪を見つめたんですが、何もいない。何!?
そういえば秋葉山を登っていたときも、見えない犬の気配を感じたことがあったのですよね。
何なのだろう。(今回の猿と前回の犬の気配は全然違う物でしたけど)


さてさて、「横川の覚海坊」についてです。
とても分かりやすい「比叡山法性坊」に対し、こちらの天狗はナゾに包まれています。
『圖聚天狗列伝』によりますと、「覚海」という名前で自ら望んで天狗に成ったという伝説を持つ高僧が13世紀に高野山に実在してまして、なんとなく伝統的に「高野山にいた南証坊覚海法印という人が48大天狗の横川覚海坊の正体だ」ということにされているのですが、「本当にそうか?」と知切師も頸を捻っています。
それは、高野山の高僧が死後、比叡山の天狗になるのはどう考えてもおかしいから。(そりゃおかしいですよね)
知切師によると、「天狗になった覚海は今でも高野山で姿が見られることがあるという」とのことで、(高野山ではこの覚海天狗を「大魔王」として祭っているともいいます)、またこの「南証坊覚海」とは別人で同じく高野山で天狗になったとされる「美髯公と呼ばれた覚海」という人もいた、と書いています。(知切師によると「現在高野山で目撃される覚海坊とはこの美髯公の方では無いか」とのこと。「美髯公」というあだ名を持つ日本人の方が天狗よりも珍しい気もしますけど)。どちらにせよ、高野山には覚海坊にまつわる天狗伝説はいっぱいあるのに、比叡山に伝わる覚海坊は名前のみで逸話が一切無いのです。
「覚海」と言う名前はよくあった名前だと思う。
伊豆に伝わる北條高時の母の名も「覚海円成尼」ですし。
でも、
「横川覚海坊と高野の覚海は同名別狗ではないのか」
「いずれにしても、確証が無いかぎり、横川覚海坊は南証坊覚海としておきたい」
「横川覚海坊は横川中堂の護法などではなく、逆に北の方から都を目指して嫌がらせをしようとなだれ込んでくる天狗の一団を支援している首領のひとり、と見たらどうであろうか。それなら高野山出身者が覚海坊であってもおかしくない」
うん、知切大先生がそう言うんなら、私もそうだと思います。

どちらにせよ、横川の近辺は天狗的な雰囲気が充満しております。いいところだ。



また近いうちにもっと丁寧にこの山の中を歩いてみたいです。もっと早い時間に来て、一日中歩き廻りたい。



だんだん闇くなってきてきており、「この山の中にはもう私しかいないんだな」と思って歩いていたら、奥にある四季講堂(元三大師堂)から数人が激しく読経をしている声が聞こえてきました。
おお。
元三大師(慈恵大師・良源)こそ天狗的な人だと思うんですけど、この人って天狗になった逸話って無いんでしたっけ?
(もっと変なものになってしまったから、天狗は無いのか)

 


そういえば今になって思い出したんですが、延暦寺の「一つ目小僧の伝説」にも私は強い興味を持っていたんでした。
探すの忘れてました。
この、一つ目小僧になったという「慈忍和尚」というのも、今昔物語において大唐天狗の智羅永寿をピシパシ苛めていた「飯室権僧正・尋禅」(第19世座主)なんですよ。
・・・小僧じゃないじゃん、小僧どころか大和尚(かしょう)じゃん。(正確には「一眼一足」と呼ぶそうですよ)
比叡山は化け物ばかりだな。

  (妖怪伝承データベースより)
  信濃国・北安曇郡の小谷では、天狗を一眼一脚の怪物、もしくは山犬という。
  松本平ではチンバともいうらしい。

(★次回への課題)(※参考サイト
比叡山にも「魔王堂」があって、天狗が祀られているそうだ。(鞍馬と同じく魔王の正体は毘沙門天だそうですけど)
ここにも慈忍和尚が関わっているそうです。



横川から琵琶湖の方に坂を下ります。
出てきた場所は堅田の町。
「そういえば3年前に堅田で天下一品を食べたな」と思って行ってみましたら、見当たらない。
「あら、なくなってしまったか」と思って車を走らせたら、別の場所にありました。



写真がブレてしまいましたが、花飾りがたくさんある。
移転したばかりなのですね。以前の店舗は屋台色を大きく出した独特な外観だったのに、残念。
でも内装と壁の効能書きは見覚えのある物でした。
(※検索したらリニューアルオープンしたのは去年の7月だそうです。なんだこの花)



味付け煮卵チャーシューメン(こってり)¥920 を注文。
高いな。(でもノーマルのこってりラーメンは¥680 なんですよ。)
前回はこのお店で「豚トロチャーシュー」を頼んでしまった記憶があるので、今回は通常タイプのチャーシューに。
こっちの方が好きなんだ。



写真じゃもうわからないぐらいにヌトヌト。これだこれだ。
以前の旅ではその後、はからずも天下一品行脚の旅になってしまったんですが、今回はこの一杯でもういいや。
(前回の旅でひどく感激した「あわせ味」(←浜松店には無い)はもう一度食べてみたい思いもしますが)


それから適当にお風呂を探し、(琵琶湖畔には温泉が豊富)、大津に戻って
4年前、三井寺に行ったときに利用したネットカフェで夜を明かしました。
なにか化け物的な作品を読みたくなって、『夏目友人帳』を読みながら寝たのですが、
なんだ、あれ、あのばあさまがどうなったか非常に気になるじゃ無いか。
ねえねえ、婆ちゃんは幸せになったの? どうなの?
・・・明日もつづきを読もう、、、

(つづく)

てっぺんのイヌ。

2014年01月13日 22時41分14秒 | 今週の気になる人


あいも変わらずわたくしは天狗様に夢中です。
6年前にも同じ事言ってましたよね。
6年にも渡って同じ事を求めて本を読み続けられる対象があるのは幸せなことだ。

いずれ、何十年後かにどこかで調べた成果を発表したい。
が、いろいろ調べたことを纏める場として、

 ★日本の大天狗(google版)
 ★天狗の地図Ⅱ(bing版)
 ★遠州地方の天狗(bing版)
 ★遠州地方の天狗(google版)

あたりを想定してたんです。
最初利用していたのはmsnによるbing版で、初めその便利さに目を見張ったものでしたが、アップグレードされるたびに何故か徐々に不便に、見た目も悪くなっていき、あるとき「こりゃダメだ」と思ってgoogleに移った。google版はさすがgoogle様で、bing版と違う操作部分があるにせよそれなりに便利だったのですが、これもメジャー/マイナーチェンジが頻繁で、つい先だっておこなわれた「新しいgoogleマップ」へのアップグレードで、不覚にも使い方が全く分からなくなってしまいました。なんだこりゃ。一生懸命やった書き込みが全部無効化されちゃったじゃん。「以前のマップ版」に戻る手段も不明です。困った困った。
いまのgoogle版は本当に噴飯物で(以前出来たことができなくなったということは、こんなに人をいらだたせるものか)、ただ今は試行錯誤の構築期なのかもしれない。今の状態ならばあんなに不便なbing版の方がまだマシなほどで、再移行も考えなくてはなりません。ただgoogleはまた変わってくださる可能性も大きいので、注視が必要なのです。文字数が無制限で大きな写真を使えれば良いのに。
私は「一度作ったら10年後にもそのまま使えるデータ」が欲しいだけなんだよ~~。そもそも私のような使い方が推奨されていないのか。




・・・と嘆きながら、鞍馬山に再び行ってきました。
鞍馬天狗は日本の天狗群の中の代表格。実はわたくし、3年ぐらい前に一度鞍馬山に行ったことがあります。愛読していた『日本怪奇幻想紀行』(同朋社・2000年)という本に「鞍馬山は日本一の天狗密度」という記述があって、「天狗密度ってなんやねん」と思ってかなりワクワクして行ったのですが、山内にはほとんど天狗の説明や遺構など見当たらず、とてもがっかりした記憶がある。ところが家に帰ってきていろいろ調べてみますと、全然違うじゃないですか。「これはまた行かねば」という思いを強くしていたのでした。

前回行ったときは、まず高雄山の神護寺に登って文覚上人の墓まで歩き、そのあと愛宕山にも登って、それから鞍馬山に行ったので坂道つづきでもう疲れ果ててしまっていて、それ以上歩きまわる気力も無かったので、体力を温存する為にケーブルカーで上まで行って、そこから奥の院の「魔王殿」までがんばって(約800m)歩いたのでした。ところがその行程中にはほとんど天狗成分が無く、意外に感じたのでした。天狗の山じゃなかったのかよ。例えば可睡斎や道了尊のように天狗の像が建ってたりはしない。御真殿があったりもしない。天狗的に出来たことといえば僧正ヶ谷の高い杉の木の間で無理矢理天狗の気配を呼吸するぐらいのことでしたかな。山内には天狗の由来を書いた看板などもほとんど無く、唯一あったのは「謡曲『鞍馬天狗』の案内板」ぐらい。こりゃあ天狗探求にはなかなか上級者向けの山だ、と閉口するしかなかったのでした。
最深部にある「奥の院・魔王殿」というのが鞍馬で一番のパワースポットとされています。ちまたではここにいる大魔王が日本全国の大天狗の総帥だとされており、そこを目指して歩いていく人が多いのですが、到着してみると、そこには天狗を捜して歩いている呑気な私のような人間が場違いであると感じるほど、熱心で真剣な参拝者が多いのにのけぞった。皆さんここにいるのが天狗だから魔王殿まではるばる見に来ていたのではなく、魔王が魔王だから真摯にお参りに来ている人ばかりだった。来る前は大魔王を神体としてるなんてふざけた寺だと思っていたのに、そんな戯れ言を許すような空気は現地には無かった。
とはいえ、行ってみて明らかになった問題点というのもいくつかあります。

  (1).鞍馬山は何をもって天狗の山なのか。
  (2).鞍馬の天狗(護法魔王尊・鞍馬の大僧正・鬼一法眼)の正体は何か

これは、最初歩いただけでは分からなかったことでした。
今回は、それを再び感じてみる旅であったのでした。

朝の4時に浜松を出発し、延々と国道一号線を走り続けて11時に鞍馬山に到着しました。
いつも豊田付近から伊勢湾岸道を通っていってしまうので、「今回は真面目に一号線を走ろう」と思ったら、思いっきり時間がかかった。
実は旅に行くときは地図を見る習慣のないわたくし(旅に行かないときに良く地図を見るから)は、誤って「一号線は関ヶ原を通って米原に出る」と思い込んでいたのですが(それは東名高速道路だ)、実際はただ名古屋の町中を通って伊勢湾岸道と同じ四日市に繋がっていました。ただ遠回りしただけでした。
でも京都に入ってから適当に道を走っていたら、一発で鞍馬の山に到着したよ。ふふふ、私は方向感覚には自信があるのだ。一度行った所ですしね。(※鞍馬の山はすごく分かりづらい山の奥にあります)

まず第一に、前回の旅の失敗点。
鞍馬の山は山内ではなく、「鞍馬駅」が一番の天狗スポットだったのですよ。
私は常に車で移動するから、駅なんて完全に盲点であった。こんな山の奥に鉄道が走っていることからして田舎者の私にとっては不思議なことだったのですが、山門から歩いて3分の所に叡山電鉄の鞍馬駅がありました。



おお、あれはよく見る鞍馬の天狗面!
こんなところにあったのか。



駅舎の隣には天狗(が脇に描かれている)顔出しが。



こんな案内板も。これは山中にあった方が良い気が。



駅舎に入ると、中に「~最後の浮世絵師が描く源平の世界~『月岡芳年と義経』展」というものが展示されていました。素晴らしい。
月岡芳年は幕末から明治中頃にかけて活躍した人です。武将の場面絵が多く、中に天狗も共に描かれているものも数多くあって、目の離せない人です。最近、なんかこの手の浮世絵本が頻繁に出されてますよね。わたしも妖怪・怪談絵を中心に何冊か買いました。が、月岡芳年は作品の数が膨大すぎてわたくしもいまだ全体像がつかみきれておりません。
鞍馬駅のこれは「義経展」ですから、一ノ谷の戦いや屋島の戦いなどの場面がメインなのですが、中に天狗の描かれた物も2点だけありました。



「武勇雪月花」のシリーズより、「五條乃月」。
芳年の初期(第Ⅱ期)にあたる慶応3年の作品だそうです。五條の橋の上での弁慶と牛若丸の対決を描いた物。義経物語の中でも最も絵になりやすい盛り上がりの部分ですが、天狗伝説の世界ではこのとき橋の上から鞍馬の大僧正が見下ろしていて、配下の八天狗が牛若丸を見えないように助け、いつもの三倍も高く牛若は舞い上がり、天狗の力で弁慶は打ち負かされた。ということになっています。
武勇雪月花という連作は「雪」「月」「花」をテーマに3つの作品から成り、「雪」をテーマにした「吉野の雪」は義経の忠臣・佐藤忠信と横川覚範の対決を描いたもの。「花」がテーマの「生田の森 ゑびらの梅」は生田の森の戦いで、鎧(箙)に梅の花を差して優雅に(?)戦った梶原源太景季を描いた物。つまり「五条乃月」では「月」の象徴が天狗だった、ということになりますね。ん?
この絵はとても有名なので、何度も見たことがある気になっていましたが、家に帰って手持ちの本を確認してみたら、一枚も載っていませんでした。あれ?(芳年は作品数が多すぎるんですよ)

その拡大図です。



分かりづらいんですが、僧正坊の右側にいるふたりのうち、赤い服の男が愛宕山栄術太郎(太郎坊)、その右の白い衣の男が比良山次郎坊です。どちらも顔立ちがおもしろいでしょ?
さらに面白いのがこちらです。



西塔武蔵坊辯慶の薙刀にぶらさがっているのが飯縄の三郎。その右側にいる鳥頭のやつが白峯相模坊。おわかりになりますでしょうか。飯縄三郎は仰向けになっているのでちょっと顔が分かりづらいのですが、顔が普通の人顔に見えるんですよ。すごいでしょ?
って何がおかしいのかわかんないって? 実は、「飯縄系天狗」っていうのは天狗群の中で一党を為していまして、この系統はみんな「顔がカラス」というのは常識なんです。(・・・なんですったら!)。飯縄系天狗には秋葉山三尺坊とか小笠山三尽坊とか小田原道了尊とか高尾の天狗とかがいます。月岡芳年がそれを知らないのはおかしい。
これに対して、白峯相模坊の方は(この人は金色の大鳶になった崇徳帝の眷属ですから)鳥顔なのは妥当だ。



さらにもうちょっと見てみましょう。この書き方だと、どっちが前鬼でどっちが彦山豊前坊か悩みますが、前鬼は前世が鬼なんだから顔が鳥なのはおかしい。きっと鳥顔が豊前坊で人顔が前鬼坊だ。大山伯耆坊も顔が隠れててわかりづらいのですが、鳥顔。この人は相模の大山から相模坊が飛び去っていなくなったあとに伯耆からやってきて大山に住みついた人ですから、別に相模坊と同じ顔だとしてもおかしくない。
とすると、この絵でおかしいのは飯縄三郎だけなのだ!!! 三郎が鳥の顔でないのはどう見てもおかしい!!!

・・・いえ待ってください。実はこの絵はおかしくないのです。
実はね。
芳年の師の歌川国芳にも、同種の絵があります。
この時代はこういう絵が一種の流行でしたから、みんなが似たような絵を描きまくっていた。



歌川国芳・画『平家の驕奢悪逆を憎み、鞍馬山の僧正坊を始め諸山の八天狗、御曹子牛若丸の影身に添ひ源家再興を企るに、随従の英雄を伏さしむる図』(弘化5年←芳年の絵の19年前に描かれた絵)
ちょっとわかりづらいのでまた拡大しますね。



おわかりになりますでしょうか?
偉大なる先生の国芳の描く絵では飯縄三郎が鳥顔なのは良いとして(正しいから)、こっちの方は愛宕山栄術太郎の方も鳥顔にされてしまっている。
このふたつの絵の対照表を作ってみますね。

            国芳    芳年

  愛宕山太郎坊   鳥     人
  比良山次郎坊   人     人
  飯縄山三郎坊   鳥     人
  大峯前鬼坊    鳥?    人
  彦山豊前坊    人     鳥
  白峯相模坊    人     鳥
  大山伯耆坊    鳥     鳥
  富士山太郎坊  (いない) (いない)

こう並べてみると、芳年はわざと師の国芳と逆の組み合わせにしているように思えます。比良山次郎坊は両方で人顔になってますが、両方とも必要以上におもしろい顔。何者だ次郎坊。その次郎坊を両方人顔にしてしまったので、伯耆坊もどちらでも鳥顔にされたのかしらね。
それでも芳年には躊躇があったので、三郎と伯耆坊の顔がわかりづらいように意図的に隠したりのけぞらせたりしたのでしょうか。





鞍馬駅舎にあったもうひとつの芳年の天狗図がこちら。こちらは晩年(明治18年)の「芳年漫画」から、「舎那王於鞍馬山學武術之圖」。
僧正坊の鼻がながーい。実は師の国芳にも同テーマの絵が4枚ありましてね。・・・・・・長くなるからもうやめよう。



鞍馬駅の前には土産物屋が数件ありまして、そこにも天狗エキスがいっぱい。おもしろーい。
教訓。
鞍馬に来たら鞍馬駅に行け!
一番天狗の密度があるのは駅前だ。

それからお寺に向かいます。
山門の前に「雍州路」というお店が建っているのですが、このお店は「鞍馬駅前のお店」ではなくて「鞍馬寺の山内のお店」というたたずまい。前回来たとき、そのお店の前の看板に描かれたイラストが数少ない天狗成分だった。
それが、3年前と看板が変わっていました。(正月バージョン)



ていうか、検索してみるとこの看板の絵は頻繁に描き換えられているようです。ええね。
ぼたん鍋5500円か~。猪鍋のフルコースってなんだろう。



山門をくぐって愛山費(200円)を払うとすぐにケーブルカー乗り場があります。このケーブルカー、片道100円と破格に安いのでつい乗りたくなってしまう誘惑に駆られますが、今回は頑張って九十九折りの道を歩いてみることにする。ただ、このケーブルカー乗り場の建物(普明殿)は内部がすこし異様なため、念のため見ていくことにする。ケーブルカーの待合所の隣は毘沙門天の礼拝所になっていて一部的に暗いです。

その建物の2階は鞍馬山の自然の紹介コーナーになっているのですが、その一画に天狗コーナーがありました。前回来たときは気付かんかった。





とても真面目だ。ええね。



カルカロドン・メガロ天狗の爪!! でけえ。きっとこれが僧正坊の両手の爪ですね。

そこから歩いて登ります。今日はまだ元気です。



由岐神社の門をくぐり抜けると雪景色。南国・遠江の人間は雪を見ると無闇に嬉しくなってしまいます。そうかー、雪があるから由岐神社かー(違う)



そこから遮那王が暮らしていた「東光坊」の脇を通って九十九折りを歩くんですが、そんなに疲れることもなくお寺に到着。なぁんだ、清少納言に瞞された。こんなのへっちゃらだ。



さて、ここからが真の目的です。
鞍馬山の中に、全部で4つの「護法魔王尊」の像があるというのです。前回はすべて見逃してしまった。
鞍馬山は「鞍馬弘教」という独特の教義を持っているのですが、訪れてみると熱心に礼拝している人が多く、私みたいな不信心者がぷらぷらと面白半分に歩き回っているのは悪い気がしてしまって、前回はそそくさと「奥の院」へ向かってしまったのです。今回の旅は護法魔王尊の像を見ることが本題だ。

4つある魔王尊像のうち、ひとつはお寺の秘仏とされる御本尊(鞍馬山の本尊は毘沙門天なのですが、教義では毘沙門天と千手観音と大魔王が三位一体の同一人物とされているので、本堂にはこのつがそれぞれ本尊として立てられている)は秘仏なので見ることが出来ないのですが、その前に「お前立ち」という代わりの像が立てられているそうです。これが魔王尊像の2つ目。これを拝むことが出来ないかと本堂に入ってじっと暗闇を見つめたのですが、本堂の中はとても暗く、目の悪い私には見ることができませんでした。ちぇっ。きっと心得の良い者にしか見ることのできないものなのでしょう。堂内は禁撮影。

3つめの魔王尊像は、本堂の隣りにある「光明王堂」に安置されているといいます。



実は今回わざわざこの時期に来たのは、鞍馬寺では1月1日~15日まで「しめのうち詣で」というのをやっていると聞いたからで、なんとなくこの期間なら魔王尊像を拝めるのではないかと思ったからです。来て見たら、光明王堂の扉は閉まっていた。ぐわーー。
ネットで見るとここの扉が開いていることもあるようなのですが、いつだったら良いのでしょうか・・・
今回も任務に失敗してしまった・・・
(※秘仏の魔王尊の写真は本等にいっぱい載っています)
魔王は「常に16歳の少年の姿に見える」という設定です。
(↓)16歳。



4つ目の魔王尊像は、来た途中の「鬼一法眼社」の傍らにあるといいます。
鬼一法眼堂、、、 って来る途中あったっけ。
入口でもらったパンフの地図はいまいち分かりづらく、鬼一法眼社の位置がはっきりしません。注意深く道を下ります。
ありました。遮那王のいた「東光坊跡」のすぐ近くだった。



お堂の隣りに池があり、上から水が注がれている。この水の流れのことを「魔王之瀧」と呼ぶそうです。池の傍らには「魔王之碑」もある。



その瀧の部分をよく見てみますと、いました!



なんだか16歳の魔王が〇〇してるような構図だなー。
しかしまた、「なんでこんなところに鬼一法眼が?」という問いには、なかなか答えられないようです。
そもそも鬼一法眼(きいちほうげん)は伝説上の人で、天狗マニアには「護法魔王尊・僧正ヶ谷僧正坊と並ぶ鞍馬の山の名前のある天狗のひとり」ともみなされているのですが、そもそもなんで彼が天狗扱いされることになったのかという事情も、なかなかややこしいです。(※2005年のNHK大河ドラマ『義経』に鬼一法眼を、怪しいこと極まりない美輪明宏が演じましたので、天狗的なイメージ形成にすごく役だったのですが)。
まず、鬼一法眼の伝説についてはここのブログさんが詳しいです。
鬼一法眼は「義経に兵法を授けた人物」として知られるので、東光坊と鬼一法眼社がこんなに近いのならば、さぞかし牛若の勉強もはかどっただろうと思われますが、伝説の中にも鬼一法眼が鞍馬山に住んでいたなどという伝えはありません。

鬼一法眼が初めて登場するのは、室町時代に成立した『義経記』です。義経記では彼は天狗などではありません。京で名の知れた陰陽師。安倍晴明の旧跡にほど近い一条堀川に住んでいました。陰陽師と天狗は相容れない存在です。
義経記では鬼一法眼は帝から下賜された十六巻の書を秘蔵しておりまして、それを天下に名高い『六韜』だと思った義経が狙います。(本物の六韜は6巻ですが、鬼一法眼は増補版を持っていたのかもしれない、違うのかも知れない。そもそもこれは六韜ではなかったのかもしれない。だって六韜は太公望が書いた本のはずなのに、義経記には「太公望がこれを読んで八尺の壁を登って天に昇った」と書いてあるから)。すでに義経は牛若でも遮那王でもなく、一度奥州平泉に行って元服して17歳になっています。
京に戻ってきた義経は、鬼一法眼に「六韜を読ませてくれ」と申し入れますが、鬼一法眼は意地悪をして断ります。困った義経は勝手に鬼一法眼の邸内に住み込んで鬼一法眼の末娘をたぶらかし、娘の手を借りてその書を持ってこさせ、半年ほどかけて全て写し取ってしまいます。そのあと鬼一法眼の邸内で義経はわざと目立つように振る舞ったので(なにやってんだ)法眼も義経の存在に気付き、怒り狂って娘婿の湛海という手練れを呼び、あいつを殺してしまえという。それを娘から聞いた義経は(義経記では六韜を写し取ったあとも一ヶ月半近く義経は鬼一法眼の邸内に隠れて住んでいたことになっている)、隠れて湛海を返り討ちし、山科へ去る。娘は悲しみのあまり死を迎え、鬼一法眼は「後悔先に立たず」と思ったということです。
「義経ひでー」と思うばかりですが、いつしかこれが「鬼一法眼は義経に兵法を教えた」という話にすりかわってしまったといいます。
室町時代初期に成立した謡曲『鞍馬天狗』(作者は世阿弥だとも言われている)では鬼一法眼は出てこず、「義経に兵法を教えたのは大僧正ヶ谷に古くから棲んでいる大天狗」となっています。
戦国時代にはどういった事情か「鬼一法眼が鞍馬寺に六韜のうちの『虎の巻』を寄贈した」ことになっており、実際に中世に勧進聖・御師・願人たちによって鞍馬寺の勧進のために毘沙門天像や「鬼一法眼兵法虎巻」を頒布して回ることもあったそうです。
このあたりが現在鞍馬の山内に「鬼一法眼社」がある理由かもしれませんね。
江戸時代にはいつのまにか「実は鬼一法眼は源義経に心を寄せていた」ということになってしまっており、享保年間成立の『鎌倉実記』などには義経の股肱の臣の名前の中に“鬼二郎幸胤”と“鬼三太清悦”の名が見える。この二人は暗黙として“吉岡鬼一法眼憲海の兄弟・息子・あるいは赤の他人”として作品ごとに異なった扱いをされています。
その集大成ともいえるのが享保年間成立の義太夫節浄瑠璃『鬼一法眼三略巻』というとてつもなく長い作品で、そこでは「鬼一法眼はもともと源氏の与党であったが、平家全盛の時代になって心ならずも平家から糧を受ける身となってしまった。清盛公から「兵法書をよこせ」と度々催促を受けて心を病み、夜な夜な鞍馬山に出かけることになった。そこで不憫な少年・牛若丸に出合い、僧正坊の扮装をして少年に兵法を伝授することにする。義経に稽古を与えた鞍馬天狗の正体はなんと鬼一法眼だったのである」というふうになりました。この題材の扱いの分析についてはこの記事がとても勉強になります。 で、この作品が現在の天狗世界で鬼一法眼が天狗扱いされる根拠となっております。
で、その『虎の巻』についても、義経記ではその説明は「爰に代々の帝の御宝、天下に秘蔵されたる十六巻の書あり。異朝にもわが朝にも伝えし人、一人としておろそかなる事なし。異朝には、太公望これを読みて八尺の壁にのぼり、天にあがる徳を得たり。張良は一巻の書と名付け、これを読みて三尺の竹に乗りて虚空を駆ける。樊ロ會はこれを伝えて甲冑をよろい弓箭を取って敵に向って怒れば頭の兜の鉢を通す。本朝の武士には坂上田村麻呂これを読み伝えて悪事の高丸を取り、藤原利仁これを読みて赤頭の四郎将軍を取る。それより後は絶えて久しかりけるを、下野国の住人・相馬小次郎将門これを読み伝えて、わが身の勢達者なるによって朝敵となる。されども天命を背く者のややもすれば世を保つ者少なし、(略)、それより後はまた絶えて久しく読む人もなし、ただいたづらに代々の帝の宝蔵に籠め置かりたりけるを、そのころ一条堀川に陰陽師法師に鬼一法眼とて文武二道の達者あり、天下のご祈祷師でありけるが、これを賜りて秘蔵してぞ持ちたりける」となっているのが、いつしかこれが「唐の国から吉備真備が伝え、大江氏に贈られたもの(←時代が合わない)を大江匡房が八幡太郎に与え源氏の重宝とした。いつしかそれを鬼一法眼が手に入れてしまい、義経はただそれを鬼謀を使って取り戻しただけ」という風に変化した。
義経記では明らかに『六韜』単体なのにこれもまた『六韜三略』とセットで語られるようになり、題名からして『鬼一法眼三略巻』も『三略』が主役っぽいのに実際は「虎の巻」(←六韜の一部)を巡って争っているという。
「義経は書写した六韜のうち、“虎の巻”以外は焼き捨てた」という説話もあるのですが、その出典はなんなのでしょうか。それから現在出回っている「鞍馬の虎の巻」もなかなかヘンなものらしいですよね。見てみたい。
義経が入手のためこんなに苦労した『六韜』も、現代の私たちは容易に読むことが出来るのですから涙が出ることです。うーーん、私もなんか上から目線で語ってしまってる。義経記の中で義経がそんな私を激しく非難する文があります。

「鞍馬山の魔王尊と僧正坊は同一人物なのか? あるいは別人なのか?」という説明は、また数年後に鞍馬山を訪れたときに、稿を改めて致すことにしますね。
もう一つのナゾは「狩野古法眼元信の描いたという天狗絵の実際」ですよ。これもまたいずれ。(正月は宝物殿は閉鎖されておりました)

今回の収穫は、「鬼一法眼社にあった魔王尊像を見た」ということにしておきます。
それにしても、ここ(東の谷)から少年牛若が奥の院にある僧正ヶ谷に夜な夜な通うのはなかなか大変なことですね。一度本堂を通らなければ西の谷には行けない。


<東光坊跡 義経公供養塔>(昭和15年建立)