オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

宗良親王の兄弟たち(その1)。

2008年03月05日 07時49分51秒 |   南北朝

一宮・尊良親王(たかよししんのう)。
宗良親王の、男の兄弟としては唯一の同母の兄です。
すごーくたくさんいる後醍醐天皇の皇子の中の、一番上になる人だそうです。皇子たちは大体20人ぐらいいたそうですが(『群書類従』の中の『本朝皇胤紹運』では17名。ただしこれには浜松の方広寺を作った無文元選は含まれていない。たぶん)、本によってその順番はまちまちです。他あらぬ天皇家の系譜なんだから系図とか生没年とかしっかり記録として残っていそうだと思うんですけどね、この兄弟たちはそうではないみたい。
だけど、尊良親王だけは、諸本一致して「一番目の皇子」としているそうです。でも、彼もまた誕生年ははっきりしてないそうなんですけどね。3番目(とされる)の護良親王と同年の生まれの可能性もあるようです。
だとすれば、1306年頃の生まれ、父・尊治(=のちの後醍醐天皇)は20歳ぐらい。宗良とは5歳ぐらい離れています。母は二条為世の娘・為子。この母は「とても寵愛された」と本に書いてありますが、尊良が7歳ぐらいのときに亡くなったようです。
長男ということで、後醍醐天皇の顔に似せて描いてみました。あと、おにいちゃんっぽくしてみました。

尊良親王の生涯を一行でまとめてみると、「いろんなことをやったけど、全部パッとしなかった人」です。本当に行動的に全国を飛び回っていたのですが、それが成果として大々的に喧伝できるものはひとつもなく、性格的にも能力的にも良く出来た弟たちの後塵を拝している。いや、これは別に彼が悪かったわけではなく、弟たちが優れていすぎたためなんですけど。

まず、彼の名前。父の名前の一字を貰っていますから、父・後醍醐が長男にかけたなみなみならぬ期待が見て取れます。母は皇族でこそありませんが、その父・二条大納言為世は家柄的にも申し分ない高位の貴族ですから彼が皇太子となっても全然不思議じゃないのですが、やがて父の期待は2番目(だと思われる)世良親王に移り、そして、天皇となった父が初めて皇太子に指定したのは阿野廉子の子の恒良親王でした。おにいちゃん、立場無し。
せっかくの「尊」の字も、のちに「雲法親王」(=護良親王)、「澄法親王」(=宗良親王)、足利氏と、量産されまくってるし。
尊良の祖父は二条為世です。この人は、「当代髄一の歌人」と言われた人で、藤原定家の直系です。たしか「古今伝授」を代々受け継ぐ家系じゃなかったでしたっけ。祖父のこの尊良に対する愛情もなみなみならぬものだったと伝えており、当然和歌の心もしっかりと教え込まれたことでしょうが、「歌の皇子」の地位は弟の宗良親王に奪われてしまっております。「新葉和歌集」には尊良の歌も結構な数収録されているそうなのですが。どんなのでしょう。
しかし、文弱で戦争が嫌いだったとされる宗良親王に比べて、彼は体は丈夫だったようです。戦争もたぶん好きだったんじゃないかしら。しかし残念ながら、傍らには軍事に格別の才能を見せる護良親王がいたので、ここでもおにいちゃんの腕が光る余地はありませんでした。

1331年、「元弘の変」で後醍醐天皇が鎌倉幕府によって捕縛されたとき、大和の国で尊良もつかまりました。しかしその逮捕は、優しい書き方の本では「父と弟の身の上が心配で里に出てきたところを見つかった」などと書かれますが、「必要もないのにのこのこ出てきたお人よしな尊良」とある本もあって涙をさそいます。
その後、土佐の国に島流しとなりますが、同じルートで護送された父・後醍醐天皇と宗良親王との3人の間で心温まるやりとりがあり、配流されてるけどここが彼の生涯の中で最後の平穏だったときだと思われます。なかなか感動的な親子愛だ。(が、省略します)
その後、逮捕をのがれた護良親王が畿内で暗躍を始めると、尊良親王はなぜか突然長崎県の北部に(なんでそんなところに!)現われて、軍事活動を始めます。畿内での六波羅攻めと連動して九州大宰府の鎮西探題府も陥落しますが、これを指揮したのは尊良であるようです。が、全然有名にならないんですね。むしろ、九州の兵たちが尊良に従ったのは、それに先立つ数ヶ月前に護良親王が密かに九州に渡って、根回しがしてあったからみたい。きっと、護良から司令が四国に飛び、「オレが全部お膳立てしておいたでおじゃるから、あんちゃん九州へいっておじゃれ。心配無いでおじゃる、兵たちには話をつけてあるから、あんちゃんはポケッと突っ立っているだけですぐ全部終わるでおじゃるよ」「…わかったでおじゃる」とかいうやり取りがあったんでしょうね。護良の才幹だけが光ります。兄ちゃんかたなし。

建武の中興が始まると、なぜか一時的に尊良の名前は現れなくなります。父は彼には何の役割も負わせようとしなかったのか。しかし、足利尊氏が反逆すると、後醍醐天皇が尊氏鎮撫のために関東に送った新田義貞軍の旗頭として、尊良親王が指名されます。ちょっと前の記事で紹介した話で出てきた「一宮」というのがこの尊良親王のことですね。しかしご覧のとおり、「不吉な前兆」が一宮の出陣に際して起こって、皆をイヤ~な気にさせます。
その翌年(延元元年、1336)、後醍醐天皇は恒良親王に位を譲り、その恒良と共に尊良を北陸に送りますが、リーダーは恒良の方。新田勢と共に越前の金ヶ崎城に籠りますが、高師泰の大軍に包囲されます。大将の新田義貞は大事な恒良親王を保護してからくも城を脱出しますが、尊良親王は逃げそびれ、義貞の息子の新田義顕と共に玉砕します。27歳だったと言われています。(しかしこの年齢は間違っているだろうともいわれています。何歳だったのかな)

太平記による彼の最期の記述。
自害を決意した新田義顕が、尊良に敵に投降するようにと勧めると、親王は高らかな笑い声を上げ、「主上が京へ帰るとき、私を元首の将、お前を股肱の臣として供奉させることを想定して越前に送られた。軍の長としてはお前あっての私なのでおじゃる。股肱の臣なくしては私は軍を率いることはできぬでおじゃる。お前が死ぬというのなら、私も命を白刃の上に縮め、黄泉の世界から怨みを晴らすでおじゃる。…で、自害とはどのようにしたら良いでおじゃるのか?」

うっうっうっ。
思うに、彼には兄弟がたくさんいすぎて父にとっても長兄としても収拾をつけようとする気もおこらず、でも彼には別に「兄として兄弟をまとめてうまくやろう」なんて気はさらさら無かったに違いありませんね。好きなように行動しているように見える。名誉欲・権勢欲などはちっとも感じられない。でも兄として、できることは率先してやってやろうと、優しい気持ちから思ってやっていたのだと思う。
私も、4人兄弟の長男で、下3人の方が遙かに優れているからわかる(笑)。B型だし。

そうそう、彼には2人の妻と美しい恋愛をし、少なくとも息子と娘が1人ずつはいたはずですが、それらがどうなったのかはさっぱりわかりません。二条家へ引き取られたかも。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 徳川十六神将(その1)。 | トップ | 舘山三尺坊大権現。 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
グリコ護良事件。 (麁鹿火)
2008-03-07 07:47:58
追加情報~~。
尊良親王と遠州の関係について述べるのを忘れていましたが、「四皇子の難破漂着」事件のとき、尊良は宗良親王と同じ船に乗っていて、一緒に井伊谷まで行ったそうです。その後、尊良は吉野に戻り、それから北陸へ行きます。

また、「尊良親王の娘と息子のことはよく分らない」と書いてしまいましたが、尊良親王の子の名が「守永(もりなが)親王」だと書いてある本を見つけました。
もりなが!
尊良親王はどれだけ弟の護良のことが好きやねん。
護良は尊良のことを「普通の性能の便利アイテム」ぐらいにしか思って無かったと思うのですが、兄は弟のことが大好きだったんですね。息子に弟と同じ名前をつけてしまうくらいですから。

「護良親王」は最近の通説では「もりよししんのう」と読むのですが、最近とてもお世話になっている本田猪三郎氏の御本によりますと、遠州地方では宗良親王のことを当時から「むねながしんのう」と呼んでいたという微証があるのだそうです。

もちろん、尊良親王の子については名前以外はわかりません。でも、親王の名は得ているんですね。後醍醐天皇の子ですら(例えば無文元選)親王の宣下をしてもらえなかった人がいるというのに。守永親王については二条為世の力かしら。
兄弟で名前が同じ人だった例として、後村上天皇の皇子だった長慶天皇と後亀山天皇は名が両方「ひろなり」です。このふたりは仲が悪かったようですね。長慶天皇の方を「ゆたなり」、後亀山の方を「よしなり」と読む場合もあります。
返信する
えへへ。 (麁鹿火)
2008-03-11 19:14:28
さらに間違いの訂正。
本文中に、「建武の新政では父・後醍醐天皇は長男の尊良に何の役も与えなかった」と書いてしまいましたが、太平記には「一宮中務卿親王」と書いてありますね。中務卿は立派な役職です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8B%99%E7%9C%81
よっぽど変なことをしないと歴史には名前が表れてこないから、勘違いしちゃってこまります。私はダメな奴です。尊良親王ごめんなさい。
返信する

コメントを投稿

  南北朝」カテゴリの最新記事