時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

総目次

2012-05-31 21:52:54 | このブログの構成
蒲殿春秋(五百九十六) 55/31 up
1184年7月頃全国勢力図
佐々木兄弟に関するたわごと


このブログの構成
小説蒲殿春秋目次1 目次2 目次3 目次4 目次5 目次6
蒲殿春秋解説目次
源平時代のたわごと目次 この時代に関すること等の個人的なつぶやきです
日記・軍記物目次 この時代を描いた軍記物や日記等の古典・原典に関するあれこれです
年表一覧
用語解説
地図
系図目次
参考資料

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蒲殿春秋(五百九十六)

2012-05-31 21:49:40 | 蒲殿春秋
夏の照りつく日差しを受けて鎌倉は煮えたぎっていた。
空の色は青く輝き、海はこれでもかといわんばかりに照り返っていた。

熱くなっているのは日差しだけではなかった。
広くない往来に人々が忙しく往来し、御家人たちの邸宅に多くの人々が出入りしていた。

熱く煮えたぎった鎌倉の中で不思議なほどの静けさをたたえた一角があった。
鎌倉殿源頼朝がいる大蔵御所である。

暑いという言葉すら忘れているかのような男は静かに今日も多数の沙汰を下していた。

ここのところ信濃の豪族らが多数初見参に訪れ続々と鎌倉殿の御家人となっている。その対応も忙しい。
また常陸の情勢もおだやかではない。こちらも気が抜けない。
動乱続く畿内や西国の報告も逐次もたらされている。

そしてその鎌倉殿を今一番忙しくさせているのが間近にせまった御家人たちの西国出兵である。

畿内や西国で鎌倉勢を苦しめいている西国の者たちを抑えなければならない。
だが出兵する御家人たちの内情は決して豊かではない。
それでも多くの御家人たちが出兵を希望した。
御家人たちには希望があった。
つい先ごろ行われた木曽攻め、平氏との福原での戦い、そして甲斐信濃攻略によって御家人たちは多数の新規の所領を得た。

彼らは知っている。
彼らに新たに所領を得させたものは鎌倉殿源頼朝であると。
そして彼らは期待する。
今回の西国出兵で手柄をあげればまた所領が獲得できると。

多数に増えてしまった一族に分け与える土地は多ければ多いほど良い。たとえそれが本領から遠く離れた西国の地であっても。

源頼朝は思った。

━━博打だ。それも大いなる博打だ。

命を懸けて、財産を投げ出して戦いに挑む御家人たちにとっても、自分にとっても。

この出兵が成功すれば頼朝は朝廷に対して多くのことを要求することができる。
だが敗れれば、多くのものを失う。
平氏が勢いを盛り返し都を奪還すれば頼朝は再び朝敵になる。
せっかく獲得した東海、東山を沙汰する権限も奪われる。
そうなると従えた御家人たちも離反しかねない。
息をひそめている奥州もどう出るかわからない。

この西国遠征には重大な意義がある。その遠征の指揮をまかせられるべき男が間もなく鎌倉にやってくる。
任国三河から。

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四月も終わりですね

2012-04-30 06:34:08 | Weblog
ご無沙汰しております。
ここのところの多忙と体調不良にかまけ、四月は一切更新しておりませんでした。

現在体調管理につとめつつ色々な史料文献を少しずつ読みながら小説もどきの構想を練っている最中です。

準備できましたら小説もどきの続きを書かせて頂きます。

中々更新できなくてほんとうに申し訳ありません。
しばらくお待ちください。

更新できるようになりましたらまたお付き合いいただければ幸いです。

さがみ
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蒲殿春秋(五百九十五)

2012-03-31 05:45:46 | 蒲殿春秋
無事に任期を果たすことを祈願するはずの一宮参拝は図らずも戦勝祈願の参拝になってしまった。
範頼が祈りの時を終えたときも傍らの妻はまだひたすら祈っていた。

宿代わりにしている在庁官人の邸に戻るとそこには既に他の官人たちが集っていた。
官人たちは戸惑いの表情を浮かべていた。

範頼は静かに語った。
「間もなく私は鎌倉に行かねばならない。三河国を暫くの間離れねばならなくなった。」
と。その後
「後のことは追って沙汰をする。」
とだけ続けた。

官人たちを下がらせた。

三河守範頼には国守としてせねばならぬことが山積されていた。
ただ、至急鎌倉に戻らねばならないのも事実である。

とりあえず、早急に自分が不在の間政務を代行してくれる目代を任命しておかねばならない。
その目代に相応しい人物は一人しか思い浮かばない。
この異常事態に対応でき三河国の人々と知己であり、能力があり、自分が最も信頼できる人物は彼しかいない。

範頼は鎌倉に早馬を出した。

範頼の使者の口上を受けた鎌倉殿源頼朝は満足げな表情を浮かべた。

数日後、三河守源範頼の元に目代となるべき人物が現れた。
範頼の舅安達藤九郎盛長である。

盛長と入れ替わりに範頼は三河国を出立して鎌倉へと向かった。

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蒲殿春秋(五百九十四)

2012-03-04 16:57:00 | 蒲殿春秋
その範頼はようやく任国三河国に到着したばかりだった。
まずは国衙に入ってた。

範頼が三河国衙に入ったのはこれが初めてではない。
以前に叔父行家が半ば強引に国衙に入り込んでいた頃から何度か上がらせてもらったことがある。

その後行家が三河国を追われてからは範頼は暫く三河に居座って三河国に影響力を強めてはいた。
その後も範頼は三河国衙には何度か足を運んだ。居ついたわけではなかった。
国衙は三河国の東寄りにあるが、範頼はどちらかといえば、西側の額田郡にいることのほうが多かった。

暫くの間三河国衙は主不在だった。
治承寿永の乱勃発時の三河守は平知度だった。
その知度の目代は安田義定と源行家が三河に進出した時に三河国を追われた。
その後正式な三河守が長期間任ぜられなかった。
よって、三河守も目代も数年間不在だった。

その三河国に源範頼が新国守として赴任してきたのである。
国衙に目代ならぬ三河守が現れたのは何十年ぶりのことである。

それにしてもこの国衙の建物には傷み汚れが目立つ。
無理も無い、動乱続きでこの国も大変だったのだから。

範頼はこれからの前途多難を予感した。

一方国衙の役人は全く知らぬ人ばかりではないのは安堵できる。
範頼が三河にいる間に知己になっていた人物も少なくは無い。
国衙の人々は一様に範頼の三河守就任を賀してくれた。
この人々と共にこれから三河国を治めていかねばならない。

範頼は国衙を後にし、国司邸に向かった。
ここは三河守の居館となる公邸であり、範頼夫妻の住居となるところである。

範頼が戻ると国司邸は大掃除の真っ最中であった。
妻の瑠璃が懸命に指示を出して、連れてきた侍女たちと国の女たちと共に片付けホコリを払っているが、あちらこちらから咳の音が止まない。
暮れかかった日差しの中、ホコリが舞い、床のきしむ音が鳴り響く。

この国司邸は国衙以上に荒れ果てていた。
無理も無い。
長いことこの邸は使われていなかったのだから。

国守が国守となっても任国に赴かないしきたりが長年続いていた。
しかもここ数年は正式な国守すらも不在だった。

何十年も使われることの無かったこの国司邸。
ここを住める状態にするのにも暫く時間が掛かりそうだった。

範頼は旅装束を脱ぐとすぐに直垂に着替えた。
ついてきた当麻太郎と吉見次郎も同様にした。
新三河守殿とその郎党は開かなくなった扉の修復を始めた。

その夜範頼一行は在庁官人の邸宅に間借りした。
あの国司邸はまだ寝泊りできる状況ではなったからである。

翌朝は国司としての最初の任務である国一宮詣を行なう。
その支度を妻と供に行なっていた範頼の元に鎌倉から急使が届いた。

「西国に出陣せよ。その支度の為至急鎌倉に戻られよ。」
そのように書かれた頼朝からの一文を使者は範頼に差出した。

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蒲殿春秋(五百九十三)

2012-02-18 22:30:15 | 蒲殿春秋
井上光盛を殺害した前後、源頼朝は信濃の住人達の本領安堵を行い彼の地への勢力固めを精力的に行なった。
また、一方で北陸へ比企能員を勧農使として派遣し、かつて木曽義仲の勢力下にあった地域へも積極的に取り込みを始めている。

義仲が滅び、甲斐源氏を押さえ込んだ頼朝はこの時期東国の覇権の強化を望んでいた。

信濃、北陸に手を伸ばす頼朝はかつて甲斐源氏が押さえ込んでいた東海道への勢力浸透を画している。
その方策の一つが国司の任官である。
かつて一条忠頼が威勢を振るっていた駿河には故源三位頼政の縁者源広綱を駿河守にし
異母弟源範頼を三河守に推薦した。

この駿河と三河の間には遠江があるが、その遠江は甲斐源氏安田義定が遠江守として実権をしっかり握っている。
安田義定は頼朝にここのところ接近はしているが、元々頼朝からは独立して挙兵した武家棟梁であるがゆえに
頼朝は安田義定に対しては一定の警戒感を捨てていない。

この時点で頼朝は遠江の両隣の国に自ら推薦して国司を置くことで安田義定を挟撃している形を創った。



ただし三河守源範頼は異母弟であるといっても、安田義定との縁が深く心許せるものではない。
しかし、その一方で三河国に無視しがたい勢力を有する熱田大宮司家とのつながりを範頼が重視しているのも承知している。

とにかく範頼を頼朝の母方熱田大宮司家との縁で縛りつけ、安田義定から引き離し自らの東海道勢力拡大の一翼を担わせるようにしたい、
頼朝はつい半月ほど前にそのように願っていた。

だが、都から随時送られてくる知らせがその頼朝の東海道への思惑を断念させつつあった。

都より西の山陽道に頼朝は梶原景時、土肥実平を派遣して屋島にある平氏と対峙させている。
だがここにきて平氏方につく瀬戸内豪族が急増して梶原景時、土肥実平が苦境に追い込まれている。


そこで都にいる義経に畿内の兵を集めて、山陽道の援軍に旅立てという命令を出した。
義経も支度を着々と行なっていた。
そのようなときに、伊賀伊勢の反乱が起きたのである。しかもその反乱の火の手は中々止みそうに無い。

このような状況では義経に援軍を出させるわけには行かない。
それどころか義経や畿内の御家人たちすら畿内の反乱軍に追い落とされかねない。
畿内を失えば頼朝は再び賊軍に転落する。その転落は頼朝の東国の盟主の地位を奪いかねない。

こうなっては仕方が無い。
福原の平氏討伐、甲斐攻めと出兵続きで疲弊気味の東国武士たちを再び畿内そして西国に送らなければならない。

その指揮官は誰にするか?
頼朝は東国の住人達の本領安堵をし続けなければならない。
東国における頼朝の権威は未だに不安定である。
さらには北に奥州藤原氏が存在する。
頼朝は鎌倉を離れることが出来ない。

やはり頼朝の分身となる大将軍が必要である。
頼朝の代官として大将軍をつとめるのはやはり頼朝の実弟でなければならない。

義経は既に都にいる。

全成は出家者である。

再出兵する東国のもののふたちを指揮できる男は一人しかいない。
頼朝は任地に出発させてばかりの異母弟を再び鎌倉に呼び戻させることにした。

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佐々木兄弟に関するたわごと

2012-02-08 23:36:18 | 源平時代に関するたわごと
久々の更新になります。

頼朝の挙兵以来、いや流刑時代からの功臣ともいえる佐々木兄弟についてです。
平治の乱に敗れた義朝に従った為に近江の領地没収の憂き目に遭い相模国渋谷重国の元に身を寄せた佐々木秀義には五人の息子がいました。

長男 定綱
次男 経高
三男 盛綱
四男 高綱
五男 義清

です。

彼等は異母兄弟です。

定綱、盛綱、高綱ー母 源為義娘
経高ーーーーーーー母 宇都宮氏
義清ーーーーーーー母 渋谷重国娘

と系図ではなっているようです。

ただこの系図通りの母親だったとすると「変だな?」と思うところがあります。

それは、為義娘が母とされる三人の名前から感じています。

三人に共通する字は「綱」です。
で、この「綱」という字は宇都宮氏に多く使われている字なのです。

八田宗綱ー宇都宮朝綱ー成綱ー頼綱

と代々宇都宮氏は「綱」という字を使用しています。

一方、宇都宮氏の娘を母としているはずの経高は「綱」という文字を使用していません。

また、頼朝の挙兵の頃長男定綱は宇都宮にいて経高は相模国にいたようです。
そう考えると定綱の方が経高より宇都宮氏に縁が近かったような気がします。


そのように考えると実は為義娘を母とされる定綱、盛綱、高綱三兄弟の方が実は宇都宮氏に近い人が母方だったんじゃないかな、と最近妄想しております。

ここに書いたことはあくまでも妄想です。


すいません。まだ小説の更新遅れてます。

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時政と吉田経房

2012-01-28 21:40:20 | 源平時代に関するたわごと
久しぶりの更新になってしまいました。
まずは近況報告をさせていただきます。

年が明けてからも多忙となってしまいました。
ここにきてやって多忙の波も落ち着いてきたのですが、今度は読書熱に侵されてしまいました。
今年の大河ドラマが「平清盛」ということもあり、平安末期に関する関連本が多数出版されています。
その中で専門の方がお書きになった良書も出版されてますので、(財布の中身がかなり痛いのですが)つい購入して読みふけっておりました。

そして今度は、「現代語訳吾妻鏡」に嵌っています。

ここ暫くの間読む閑も無かったのですが、あることを調べたくて読んでいるうちについ嵌ってしまったという次第です。
現在も「現代語訳吾妻鏡」に嵌っております。

というわけで小説の更新はもう暫くお待ちください。

ここから先は吾妻鏡で現在読んでいるところで気になるところを書かせて頂きます。

文治元年(1185年) 平家が滅んだ後義経と険悪になった頼朝は義経失脚後舅の北条時政を上洛させます。

この時都側の窓口になっているのが院近臣でもある吉田(藤原)経房さんです。

前にも書かせていただいた通り吉田経房さんはこの時代を調べるには欠かせない日記「吉記」の筆者です。

頼朝が吉田経房さんを窓口に指定した理由は推測がつきます。

実は平治の乱以前頼朝と同時期に経房が上西門院に仕えていたのです。
つまり、頼朝にとっては経房は職場の同僚だった時期もあり口をきいてもらうのに好都合だったのではないかと思うのです。

そして、何故時政が鎌倉側の交渉人になったのでしょうか?
九条兼実は時政のことを「北条丸」と記しています。
兼実は時政をかなり下にみています。
つまり、都から見れば頼朝の舅とはいえその程度の存在にしか過ぎない人です。

当時頼朝からみて都との交渉に使えそうな人は他にいなかったんでしょうか?

当時の頼朝の親族は(義経を除く)
異母弟 範頼、全成
姉婿 一条能保

くらいしかいません。

で、範頼ですが、範頼の都での窓口になりそうなのは藤原範季ですが
範季は義経に通じているという疑惑をもたれています。
このような状況では範頼が義経の二の舞になる可能可能性もあり範頼を都に送るわけにはいきません。

全成は出家してますし義経の同母兄です。やはり交渉人にはできません。

一条能保は都に住んでいましたが、この時期は色々な都合で鎌倉に来ていて鎌倉にいる必要があったようです。

それで後は親族扱いできそうなのは北条時政くらいしかいなかったというのが実は本音だったんじゃないかななどと考えています。

ただ、もう一つだけ北条時政が窓口に選ばれた理由になりそうなものがあります。

それは吉田家に伝わる文書の中に、経房が伊豆守だったときに時政との交流を示す内容が残されているらしいのです。

それならば、経房を朝廷側の窓口に指定したい頼朝にとっては好都合だったと思います。

ただし、この経房を交渉窓口に指定した主体者はあくまでも頼朝だったと思います。
先ほど述べたように、頼朝と経房は職場の同僚という関係もあり、頼朝は経房の人柄をかなり買っていたようなのです。

時政と経房との間につながりがあったとしても頼朝と経房との関係に比べると希薄であると思います。
経房が伊豆守でいたのは10歳から17歳の間までのことで、しかも現地には行っていないのですから。

ただこの上洛は元々都とのそれなりのつながりをもっていたと推測される時政にとってはかなりメリットのあるものだったのではないだろうか
ということは言っていいのかも知れないと思っております。

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謹賀新年

2012-01-02 07:16:25 | Weblog
一日遅れですが新年あけましておめでとうございます。

さて本年は無事新年を迎えることができて本当によかったと感じております。
正月を迎えることがこんなに有難いことだったのかということを
今まで生きていて初めて深く感じることができました。

さて昨年は多忙につきブログ更新が非常に遅くなっておりました。
本年はもう少しペースを上げたいな、と思っております。

お付き合いいただけましたら幸いに存じます。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

平成24年1月2日 さがみ
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蒲殿春秋(五百九十二)

2011-12-22 23:05:09 | 蒲殿春秋
それから間もなく、堀藤次の郎党藤内光澄が誅された。
藤内光澄は木曽義高を殺害した男である。

その報告を頼朝は冷たく聞いた。
義高を殺害した張本人を殺したとて堀藤次に対する信頼が回復されるものではない。
ただし、義高の死後塞ぎがちになっている大姫の心は多少は晴れるかもしれない、そのような期待は多少は持てる。

頼朝が興味を示したのは堀藤次が伝えたその次の報告である。
義高を連れ出した背後にいる人物とそれを一条忠頼との間をつないだ人物がいるということ。
背後にいる人物━それは信濃国諏訪下社大祝金刺盛澄。
その盛澄と一条忠頼を結んだ人物が信濃国住人井上光盛。

井上光盛ーーー彼も清和源氏の一人である。
かつて義仲と共闘し、横田河原の戦いでは城資職を敗北に追いやる奇襲をやってのけた男である。
義仲と深い縁故があり、信濃国で一定の勢力を持つ光盛がこの義高逃走に噛んでいた。

頼朝は光盛の名を心に刻んだ。

そのような折、井上光盛が東国に下ってくるとの知らせが頼朝の元に舞い込んできた。
しかもかつて一条忠頼が威勢を振るっていた駿河国に向かっているらしいとも。

頼朝は命じた。井上光盛を誅せよ、と。

一条忠頼と結び、義高逃走に一役買っていたというだけでも誅するに値すると頼朝は考えた。
しかも信濃国住人がわざわざ駿河国に向かっている。
頼朝の脳裏には光盛が危険なものとしか映っていなかった。

その命はすぐに実行された。頼朝の命を受けた数人の御家人達がすぐさま井上光盛を討ち取りに出かけた。

井上光盛は殺されるまで自分に何が起きているのかを知ることができなかった。
光盛はかつての盟友一条忠頼と親交があった平維盛の頼みで東国の住人達を維盛に就けようと工作を始めようとした矢先のことだった。
その動きは東国の誰にも知られていないはずだった。
何ゆえに自分が殺されねばならぬのか理解できぬまま命を奪われた。

頼朝は平維盛の思惑を知らなかった。
だが、その思惑とは別のところで井上光盛の命を奪うことを命じた。
結果、平維盛の思惑は外れひいては頼朝の危機を未然に防ぐことになったのである。

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