オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

パガニーニ 大協奏曲ホ短調(第6番)。

2014年02月18日 21時10分39秒 | わたしの好きな曲


車のMDプレーヤーが壊れてしまっているのです。
使えないのはMD機能だけなので(とはいってもMDの使いやすさを愛しているからせっかくこれを付けたので、惜しいことなのですけど)、まあしばらくCDで聴いてればいいやと思って、京都旅行に行くときCDを100枚ぐらい積んでいったのですが、やっぱりMDが便利だ。CDはディスクの交換がとてつもなくしづらい。(私の車はマニュアル車だから)。結局、比叡山から葛城・天理まで走っている間、CD交換は放棄してずっと1枚のCDを聴き続けることにしました。私は面倒くさいことが大嫌いなのです。その1枚がパガニーニの協奏曲のディスクでして、京都奈良旅行の時どころか、以後1ヶ月間ずっとこのディスクを車の中に入れたままにしています(笑)

パガニーニのヴァイオリン曲は若いときから大好きで、
20年前に買ったアッカルドの協奏曲集をずっと愛聴しており、
身体の一部になってさえいて、
私の中では既にベートーヴェンやバッハと同格なのですが、
1年半前に買ったダイナミック社版のマッシモ・クァルタ盤のCD全集もまた気に入ってしまって、
いま車で聴いているのはそっちの方。

やっぱり一番「好き」なのは20歳の頃から「第4番」なのですけど、
最近になって自分の中で愛寵度が追い上げているのは、「大協奏曲」と題された「第6番」。
6番なんて番号が付いているけど、本当は若書きの習作で、「第1番」よりも古いんですって。

youtubeで探しても「動いている動画」が探しきれませんでした。
この曲で動いているアッカルドを見てみたいなー。

なので敢えて、聴いたことの無い(動かない)動画を探してみたいと思います。
アレクセイ・ニコラエヴィチ・ゴロコフ、1999年に72歳で亡くなった旧ソ連の方だそうです。

パガニーニの6曲ある協奏曲は、全部サルヴァトーレ・アッカルドの演奏が神がかっていて、全部youtubeで聴けるし、これさえあれば今後100年は戦えるのだと思います。
ただ、他の方々のもいろいろ聴いてみますと、他のクラシックの音楽よりも何倍もパガニーニの音楽は演奏者の個性が出やすいと思います。
このゴロコフという人の演奏も、完璧超人アッカルドの響きとは大分違うんですけど、
やっぱり聴いていて面白いし、満足できます。
それは、私が車の中で聴いているクァルタの演奏もおんなじなんですね。

この「第6番」は「爽快ポイント」が少し多いところが気に入っています。
この(動かない)動画で言いますと、

[7:30]のところ、
[8:30]から[10:35]までの長いヴァイオリンの活躍部分、
[11:47]からの切ない旋律、
[13:32]からの壮麗な気持ちの良い部分、
それから[22:16]の再び気持ち良い尽くしの第1楽章の終結。

わたくしはこういう音楽が好きなのでした。



アレクサンドル・デュバッハの演奏。
ブリリアントの格安シリーズで売られてたやつですね。(買ってない)
これもなかなか良いではないか。(ちょっと音に迫力が足りないか)



そのドゥバッハは、「第4番」は動く動画がありました。
(上のブリリアント盤とは違う機会の演奏みたいですけど)
ドゥバッハはなかなか茶目っ気のあるおっさんでした。

パガニーニの「協奏曲第4番ニ短調」は、わたくしは勝手に「古今の協奏曲の中での最高傑作」だと思っている作品です。
なにが素晴らしいって、「永久に終わらない感じ」を感じさせてくれるところが。
(実際長すぎてなかなか終わらないんですが、これを「拷問」だと評するお客さんもおられる)
第4番の第1楽章は長すぎて、この動画でも2つに分けられている。(惜しい)

続きです。(第2楽章ってこんなに短かったっけ)





第3楽章ギャランテなロンドーはとりわけ素晴らしい。
この楽章は「ラ・カンパネッラ」と双子のような曲調の作品なんですが、別名「トライアングル協奏曲」なので、是非トライアングル奏者を映してもらえたら良かった、と思いますね。
この動画では、特に[2:30]のところのおっさんの「どやっ!」ってところの顔が痛快。本などには「この曲はパガニーニが技巧の誇示を控えめにして、音楽的な表現の充実を目指した作品」と書いてあるんですが、なかなかそれでも十分難しすぎる作品なんでしょうね。
こういう曲こそもっと動く動画を見てみたいところです。
(※それにしてもこの動画にはなぜか「叫ぶお客さん」がたくさんいたらしい。残念だ。欧州ではよくあることなのかしら)


第4番の動く動画はあと幾種類かあります。



ウト・ウーギ。くそ長い序奏の部分をウーギも弾いているところがおもしろい。



やはりトライアングルが無いと寂しいですね。
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今度はイタリア抜きでやろうぜ。

2014年02月15日 19時55分04秒 | 今週の気になる人

クジラ。

1月13日に行った奈良旅行の記録のつづき、第6回。
…なんてこったい、5回で終わらせる予定だったのに。(書き終わらない)
せっかくヒマでヒマで仕方の無い毎日を送っているのですから、早く次の旅行に行きたいですよ。(でも雪は怖い)


さて、葛城地区には行きたいところがいっぱいあります。
まず、櫛羅のすぐ近くに綏靖天皇の御所跡だという「高丘宮」があります。それからそこからすぐに「室秋津島宮」もある。
葛城の地は「欠史八代」(=第2代綏靖天皇~第9代開化天皇までの、記録があまりない時代。紀でおよそ500年間)の間、政治の中心地だったんですね。
わたくし「失われた〇〇」とか大好きなので、一度ここをじっくり歩いてみたかったんです。

…と思ってたんですけど、車で走っていたら、あっさり通り過ぎてしまいました。わかりづらい。
いいか、またあとで来れば。(※来られませんでした)
で、欠史八代は別名「葛城王朝」と呼ばれております。
謎に満ちた時代です。
が、「葛城王国」の範囲って一体どこからどこまでなんでしょうね。現・御所市と葛城市と大和高田市は入るとして、橿原市は違いますよね。第9代の“日本の猫の大王4世”開化天皇なんか遙か遠くの奈良市のあたりに宮殿(春日率川宮)を作ってしまってます。



「御所市」は「ごしょ」ではなくて「ごせ」と読みます。
古王朝時代の「御所跡」がたくさんあるからこういう地名になったと単純に思いましたのに、なんで読みが「ごせ」なんでしょうね。
WikiPediaには「市内を流れている葛城川に5つの瀬があったとする説や、孝昭天皇の御諸(みもろ)が「御所」に変わったとする説がある」と書いてあります。
意味不明。
が、「ごせ」は決して新しい地名では無く、江戸時代以前から「ごせ」という呼び名があったということは、天誅組の乱を調べていて知りました。
が、この「ごせ」って、本当はきっと「巨勢」か「古瀬」ですよね。
そうだと言い切っていけない何か(もっと深い事情)があるのでしょうか。

巨勢谷を本拠とした「巨勢氏」は葛城地方固有の部族です。
巨勢氏の祖とされる「武内宿禰(たけしうちのすくね)」は、第12代景行天皇から第16代仁徳天皇の頃の人だとされていますから、「欠史八代」の時代よりもあとの人になるわけです。武内の宿禰の父は「屋主忍男武雄心命」(日本書紀)/「比古布都押之信命」(古事記)の2説があり、どちらも第8代孝元天皇に結びつけられておりますが、武内宿禰以前に葛城の地に結びつくような逸話は無いようですね。巨勢氏や蘇我氏は「渡来系氏族」だとされていますし。で、武内宿禰の息子たちが波多氏・林氏・波美氏・星川氏・淡海氏・長谷部氏・許勢(巨勢)氏・雀部氏・軽部氏・蘇我氏・川辺氏・田中氏・高向氏・小治田氏・桜井氏・岸田氏・平群氏・佐和良氏・馬御樴氏・木臣・都奴氏・坂本氏・玉手氏・的氏・生江氏・阿芸那氏・江野財氏らの祖となるのですが、とくに第6男の「かつらぎのそつびこ」(襲津彦)が「葛城氏」の祖、すなわち役ノ行者のご先祖となるわけです。
一方、葛城地方の大神とされているのは「一言主(ひとことぬし)」の神です、性格がよく似ているので出雲神の「事代主(ことしろぬし)」と同一人物とされることもありますが、たぶん別人。一言主が現れるのは第21代雄略天皇の時代で(つまり武内宿禰よりもあとの時代の神)、葛城地方の「賀茂氏」とゆかりが強い神です。暴虐な雄略天皇は「葛城氏」と「賀茂氏」を両方とも粗略に扱いましたので、なんかわけのわからないことになりました。役ノ行者は「賀茂氏」の一族、とされることもあります。
ということは「葛城氏」と「賀茂氏」は同族? まさかね。



御所市のマスコットキャラクターは「そつひこくん」と「いわのちゃん」。
「ソツヒコ」は武内宿禰の息子で、朝鮮出兵等に功のあった武臣。
「イワノ姫」はソツヒコの娘で仁徳天皇の皇后となり、「とてつもなく嫉妬深い女性」として知られる人。

役ノ行者が「葛城氏」であったのか「賀茂氏」であったのか、それがわたくしの頭を悩ましているところでございます。
一般的な本を読めば、役小角は「賀茂役君」、賀茂氏の人です。それはかなり古い時期の伝説集大成である『日本霊異記』(822年)にそう書かれているからであります。
賀茂氏は呪術の家系で、その系統には安倍晴明や鴨長明とかもいますしね。でも、その日本霊異記だって役ノ行者の時代から200年も経ってからの本なのです。端的に言えば、賀茂/葛城の大神である「一言主」が賀茂氏か葛城氏かどっちの立場の人だったか分かれば、対する役ノ行者がどっち側だったのか分かると言っても良い。
この「一言主」もまた、サイトによって「賀茂氏の神」だと言われたり「葛城氏の神」だと言われたりする。

単純に考えてみなければなりませぬ。
・まず、「賀茂氏」の祖神というものが祀られているのが葛城地方にあって、それが「高鴨神社」。
 その神様の名前は「味耜高日子根命」(アジシキノタカヒコネのミコト)。出雲神の大国主の息子。
・京都にも賀茂氏の祖神を祀っている神社があって、「上賀茂神社」と「下鴨神社」。
 下鴨神社で「賀茂御祖(かものみおや)」とされているのは「玉依姫」とその父「建角身」。
 京都の「上賀茂」「下賀茂」から見て、葛城にある「高鴨」が総本社だという。
・「建角身」の出身地は日向(?)で、「神魂(カミムスビ)神」の孫だというけれども、父の名は不明。
・「頭八咫烏」と「建角身」は同一人物だと言われるけれども、神武紀(日本書紀)でそう断言している箇所は無い。『新撰姓氏録』(平安時代初期)が初出。
・そもそも『古事記』にも『日本書紀』にも「建角身」は登場しない。
・「事代主」は賀茂諸神のひとりである。葛城地方の「賀茂都波神社」の主神が事代主神。
・「葛城王朝」の天皇たちには事代主の血統が強く流れ込んでいる。(綏靖天皇の母は事代主の娘、綏靖天皇の皇后も事代主の娘)
・「一言主」は第21代雄略天皇の時代に初めて目撃された神。
 同じ出来事が『日本書紀』では天皇が神と一緒に狩りを楽しんだことに、『続日本紀』では天皇は怒って一言主神(高鴨神)を土佐に配流したことになっている。
・一言主の土佐国への追放は、大和国から雄略朝が「葛城勢力(=武内宿禰の一族?)」を駆逐した歴史的事件を反映した神話だと思われる。
・一言主神は天平宝宇8年(764年)になって高賀茂朝臣田守(=賀茂氏?)の請願によって配流を解かれ、葛城に帰ってきた。
・つまり役ノ行者の時代(7世紀)にはまだ「一言主」は配流中?
・配流先の「土佐高賀茂大社」では味鋤高彦根神と一言主神を並列して祀っていた。
・蘇我氏の全盛時代が欽明朝~斉明朝、巨勢氏の全盛期は欽明朝~天武朝、『続日本紀』の成立は桓武朝。

…うーーん、わけわからん。
結局のところ、八咫烏と建角身と阿遅鉏高日子根って本当は別人なんじゃないの? とか、事代主って何人もいた何かの役職名なんじゃないの? とか単純に考えてみたくなるのですが、そうもいかないところが神話世界のおもしろいところ。賀茂氏の謎については大量に本が出ていまして、ぐっちゃぐちゃでもう私の脳では理解しきれません。複雑すぎる。「一言主」は一体葛城氏の神なのかよ、それとも賀茂氏の神なのかよ。(双方の護り神として両者が崇めていたということも十分ありうる)。だとすると、役小角は賀茂氏なのかよ? それとも葛城氏なのかよ? …さっぱりわかりません。
「武内宿禰」が「賀茂氏」の生まれだったとすれば、何も悩まなくていいんですけどね。(でも武内宿禰はなぜか「渡来系」とされる)
やっぱりわたくしは「天狗伝説」にだけ的を絞ってあれこれするしか無いのでした。
(※「鴨」と「阿多」は今後の課題といたしますよ。いつか必ず!)



葛木坐一言主神社(かつらぎにいますひとことぬしじんじゃ)へ。



関係無いんですが、われらが浜松の英雄“トンボ斬りの達人”本多平八郎忠勝が活躍した「一言坂」(静岡県磐田市)には、一生に一度だけ「一言だけ」願いを叶えてくれる観音様がある、ということで「一言坂」っていうんですが、これってこの「一言主神」のことですよね。遠州では葛城の神様が観音様になっちゃってます。



さて、一言主の神は日本書紀では男の神なのですが(雄略天皇とそっくりの姿をして現れたと表現されている為)、役ノ行者伝承や謡曲『葛城』に出てくるのは女神です。しかもかなり容貌の醜い神とされる。これは「山の神はみんな女」という謂われに引っ張られてしまったんでしょうかね。ただ、一言主の神は「アヂスキノタカヒコネ」と同一人物だという伝えもあり(またかい)、その味耜高日子根は日本書紀では、「親友の天雅彦と姿がそっくりで、天雅彦の葬式に行ったらその家族に天雅彦と間違われて激怒した」というエピソードがある人です。実は、一言主のコダマやサトリ的神格から考えを思い巡らせば、「他人と似た姿になれる神」という神性(妖怪的な神という性格)もありうるんじゃないか。柳田國男に『一言主考』というのがあって今ちょうど手元に無いんですが、なんて書いてあったっけ? 役ノ行者の前に女の姿となって現れたと言うことは(容姿を恥じて決して現れないんですが)何か意味があるのかもしれん。まさか役ノ行者が実は女だったなんてことはないでしょうが、後鬼が行者の使いとなって神の元を訪れたのかもしれん。

私がここまで一言主や葛城氏にこだわるのは、一言主が「葛城や吉野の天狗たちの元締め」と考えられるからです。
役ノ行者が前鬼と後鬼に「葛城と吉野に橋を架けよ」と命じて諸国の天狗を参集したとき、なかなか作業が進んでいないことを知ってぷりぷりして前鬼と後鬼を問いただすと、前鬼と後鬼は「だって一言主の神が夜しか働くことを許してくれないんですもん」と弁明する。行者が一言主を呼びつけると、神は「働きたくないわけじゃないのよ。私は醜いから顔を誰にも見られたくないの。許してね」という長いセリフを言う。行者は神に言うことをきかせることができませんでした。

その一言主の神と役ノ行者がどのような間柄だったのかが重要なことです。
一言主と行者が仲良く同じ氏族だったならば話は簡単です。でも明らかにそうじゃない。行者は神を虐げている。同じ一族の目上の者に対する態度じゃ無い。その一番の原因は、行者は仙人とは言っても、仏法をとことん追求した仏教的な人だったから、ということがあると思います。でもそれにしたって、自分の土地の神様に対してやりすぎだ。
役ノ行者は賀茂氏かそうじゃないか。
行者の名字(?)は「役」です。
なに、役って?
役ノ行者の名前が「鴨ノ行者」でも「葛ノ行者」でもなかった理由は考えてみなくてはなりません。
「賀茂役君(かものえのきみ)は今の高賀茂朝臣(たかがものあそみ)と同じ」と記述しているのは『続日本紀』ではなくて『日本霊異記』です。続日本紀にはそんな説明はありません。

「賀茂君氏」は大物主の子である大田田根子の孫大鴨積を始祖とする三輪氏族に属する地祇系氏族。大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。姓は君のち朝臣。大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された。なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。姓は君であったが、壬申の乱の功臣である鴨蝦夷を出し、天武天皇13年(684)に朝臣姓を賜与された。

とウィキペディアには書いてあります。これが役ノ行者に結びつくのかどうか。
役ノ行者以外に「賀茂役君」という称号を持っている人が実はもう一人だけおりまして、『続日本紀』(養老3年7月)に従六位上の賀茂役首石穂という人が正六位になって「賀茂役君」の名を賜った、ということが書いてあります。(役ノ行者が伊豆に流刑されたのはその34年前)。「賀茂役君」は決して役ノ行者だけのアダ名じゃなかったんですね。 だとすると山の中の引きこもりだと考えられる役ノ行者も、実は正六位相当の官位を持つ官吏だった可能性はある。(役ノ行者と天智・天武天皇の交流を示す伝説もあるし)、役ノ行者は當麻(たいま)のあたりに数百里の所領を持っていた、という逸話もある。(天武天皇が役ノ行者に土地を譲らせ、そこに建ったのが当麻寺)

最古の行者伝である中世期の『役行者本記』(成立年代不詳)には行者の出自説がいくつか載せられています。
・小角の父は説が多い。父親がそもそもいなかった(処女懐胎)説もある。
・山護主臣が葛城山の麓に棲み、高賀茂の姓を賜り、君の号を命じられた。5代のちの金足君は事葛城君を生んだ。事葛城君には一人の娘だけがあった。出雲の加茂の富登江の子(大角/真影麿)を呼び寄せてその娘(白専女)の婿とした。真影は「十十寸麿君」(とときまろのきみ)と号し、このふたりから小角が生まれた。(※山護主臣も事葛城君もググっても出てきません)
・仁賢天皇の時代、平群真鳥が乱を起こし誅伐された。その子孫は葛城の麓に隠れて住んだ。役ノ行者の母は謀反人の一族と言うことで縁談が無く、野合して生まれたのが小角である。額に小さな角のような固まりがあったので小角と名付けた。
・小角のことを役君とするのは鬼神を使役したから。役公と書くのは誤り。

それから、最初からずっと小角と一言主が仲が悪かったかというとそうでもなくて、修行を始めたばかりの小角に「金剛山の頂上に法喜菩薩が来ていますよ。ありがたい説法を毎日していますから、行ってらっしゃい」と長いセリフで教えてあげたのは一言主だということになっています。(『役行者御伝記図会』)


一言稲荷。


ご神木(大イチョウ)。なんだこれ。


蜘蛛塚。土蜘蛛を祀っている。
この土蜘蛛は謡曲「土蜘蛛」に出てくる土蜘蛛で、源頼光のお話だそうです。
私の手持ちの「謡曲集」(新潮社)には収録されていない…

一言主神社は、
「一言の願いだったら、たった一つだけ必ず叶える」ということで有名だそうです。
一生でたったひとつだけ。つまりこの神社に「毎年初詣に来る」ってのはあり得ないわけなのですね。
でも「一言だけで表現できるお願い」って何なんでしょう。
散々悩んだ末に、「助けて」ってお願いしときました。
だって他に思いつかないんだもん。ひとことって言われたって。
たすけて!


一言神社から見た葛城の里。


次に向かいますは「高天原」(たかまがはら)。
俗世にまみれた愚人には「高天原は天の上にあるもの」と思ってたんですけど(もしくは九州)、実は葛城にあったんですよ。
ウィキペディアには高天原伝説は十箇所ぐらいあると書いてあります。
葛城の高天原の場合、天狗がいます。土蜘蛛もいます。


高天彦(たかまひこ)神社。祭神は高産霊尊(たかみむすびのみこと)。

知切光歳『圖聚天狗列伝』より。
「今昔物語に「天狗を祭りし僧、内裏に参りて現に追はるる話」というのがある。円融天皇に憑いた天狗は諸山の高僧の加持祈祷でも一向に退散しなかったが、奈良東大寺の裏山に住む聖の祈祷でたちまち退散した。ところがこの聖は、長年天狗を祭って方術を行い効験を現してきた外法使いだったことが発覚して、宮中から追い出されてしまったのであった。染殿皇后に邪恋を燃やした修験者は明らかに葛城の修験と明記してあるし、円融帝の病を癒やした聖(外法使い)も大和の外術者だから、おそらく葛城で修法した者に違いない。一人は天狗に化り、一人は天狗を祭る。後世では京都の町でも天狗を使う外術者が大勢輩出しているが、今昔物語の世界以前では、その道の達人はみんな大和、それも葛城で修行した修験者上りがほとんどである」
「葛城の呪術は神儒(道教)仏の三道をミックスした独特の日本呪術で、役ノ行者が創始した者である。その母胎となった葛城の山嶽宗教に仏法の密教を吹き込んだ行者の叔父の願行を忘れてはならない。筆者は葛城山高間坊は、この願行上人か、あるいはその系統の呪術者ではないかとさえ思っている」
「葛城山高間坊の素性と来歴は容易に断定し難い。本命はやはり一言主神だと思うが、またこんな話もある。葛城の呪術の伝統はその後も長く伝えられ、その後の修験の行力とは別個のものとして命脈を保ってきているらしい。大正から昭和の初めにかけて、呪術者として盛名のあった岡崎市万燈山の内田恵亮氏は真言宗醍醐派、すなわち当山山伏の本山に属する僧侶であるが、公衆の面前で幾度か「物品取り寄せの術」を披露して見せたという。(中略)内田氏は、常に自分を助けて術を行わせてくださるのは、大和の葛城山高間坊という古い天狗様だと言っていたという。醍醐派は葛城山には縁の深い宗派で、醍醐三宝院では一日一回、定期的に葛城登山を欠かさない」(※知切師は「葛城山高間坊には真言宗醍醐派の密法が何か関係してるかも」と言っている)



高天原は金剛山の裾に広がっているのですが、葛城の里側から見た金剛山のことを「高天山(たかまやま)」あるいは「高間山」と呼ぶそうです。
願行上人と役ノ行者の結びつきがよくわからないのですが、知切師は役ノ行者の修法形成に、叔父の仏法の深い関与があったと言っています。

高天の里はすごく鄙びていますが、よく見るととても門構えや石構えが立派な家ばかり。神話の時代からここに家を構えている方々なのでしょうか。
そこから歩いて「橋本院」へ向かいます。



ここが高天原か~。なんだか天国的なところですよ(思い込み)
のんびり歩いていますと突然、傍らの草叢から「ヴォヴォッ」という声が聞こえたので驚きました。これは2日前に比叡山横川でも聴いて「猿か猪か?」と恐ろしく思ったのと同じ声ですよ。まさか私に憑いてきたのッ と思って良く草むらの中に目をこらすと、何か変な小鳥が駆けていったよ。えっ、あれって鳥の声だったの!?





10分ぐらい歩いて橋本院。里なのに車では容易に行けないところにあります。(行こうと思えば行けなくも無い)
このお寺の前身が「高天寺」というお寺でして、「行基菩薩が開創」したのに「役ノ行者が修行した」とも言っている変なお寺。(行基よりも行者は前の時代の人)。おそらくきっと、願行おじさまと少年小角が一緒にいろいろ勉強したお寺がここなんですね。境内を一応歩き回りましたけど、天狗的な説明は一切ありませんでした(仕方ない)。でもわたくし的にはここを役ノ行者ゆかりの天狗遺跡と認定いたします。かなり広い山園が整備されておりまして、これまた天国的な雰囲気のお寺でありました。
あと、近くに「蜘蛛窟」というのがあったんですが、封鎖されていて近くに近寄れないようになっていました。残念。
葛城では、土蜘蛛と天狗って何か関係があったと思う。


さて、『圖修天狗列伝』には「大和国の天狗」として、「奈良大久杉坂坊」「葛城山高間坊」「吉野皆杉小桜坊」「大峯前鬼・後鬼」「大峯菊丈坊」「大峯金平六」の七狗を挙げられています。
せっかくですからもう一狗ぐらい行っておきたいところ。

「悲運のままで崩じられた後醍醐帝大塔宮が、あの世で魔界に墜ちて怨霊天狗に化られたという説は、『太平記』の仁和寺六本杉の天狗評定、続いて『雲景未来記』の愛宕山上の天狗集会で、世上に喧伝され、林羅山・平田篤胤等が更にそれを強調している。それではその後醍醐帝、大塔宮がどこの山の天狗に化っておられるだろうときけば、誰人もそれには吉野を思い浮べるであろう。ところで『雲景未来記』では、更に加えて崇徳院・光仁皇后も天狗の仲間に入れている。崇徳院が讃岐の配所で天狗に化られたことは諸書に散見するが、さて光仁皇后の井上内親王はどうであろう。
光仁皇后は宝亀元年(770)皇后に冊立され、翌年我が子の他戸親王が立太子となって、我が世の春をことほいだのも束の間、翌宝亀3年「三月二日、井上内親王巫蠱ニ座シ」て皇后を廃せられた。続いて五月二十七日、「皇太子ヲ廃ス」と『大日本史』の記述は簡単だが、62歳で皇位につかれた天子であるから、次の王位について、親王・廷臣間にいろいろと謀略があったらしい。結局、皇后が我が子他戸太子を王位につけたくて、光仁帝を呪殺しようとしたことが発覚し、皇后・太子ともに廃されたうえ、庶民に落とされて獄に繋がれ、宝亀6年には「廃后井上内親王、庶人他戸、並ビニ率ス」とある。王宮内部の葛藤は相当に熾烈なものがあったらしく、どちらが是か否かはいまだになぞとされている。ところがそれ以来、天変地妖相次いで絶え間なく、これは皇后・太子の霊が冤鬼となりあるいは雷火となって祟りをなすものという噂が高く、ついに皇后の憤墓に勅使を立てて、御霊神社として祭り、怒りを静めたという」
「昔、真言の良算上人が四方に遊歴し、吉野金峰山から薊嶽に移り、和佐羅が滝の畔で籠居すること数十年、法華経を誦するに「鬼神出現シテ仏果ヲ供ス。猛獣毒蛇皆悉ク馴レ伏ス」と『元享釈書』にある。良算は金峯山から移ったというから、薊嶽周辺の天狗もやはり吉野の天狗であろう」
「大峯登山醍醐派の大先達、桜本坊は、一目千本を見渡す谷上の灯籠辻の右の方にあり、三宝院門跡の宿坊であったが、近年独立して吉野修験宗の本山となった。吉野山はどこを歩いても桜々であって、桜にちなんだ由緒がついて廻る。金精大明神は、岩倉谷の殊にみごとな桜樹の多い所にあるので有名である。仏家では蔵王権現とも称しているが、吉野八大神の筆頭で、すなわち吉野山鎮守の神である。(中略)筆者は金精明神の境内から蹴ぬけの塔のあたりにもしかしたら金精桜がなかったかときいて廻ったが、金精社の禰宜、塔の堂守などの老人も、いずれも聞いたことがないという。というのは甲斐の国の東山梨郡の最北端、金峰山の里宮金峯神社に金桜社があり、境内に金精桜がある。金桜社は天狗を祭った小祠である。また東京都西多摩郡氷川の御嶽神社の奥の院にある桜坊祠も天狗社であることから、金桜社も桜坊祠も同じ天狗を祭っているのではあるまいか。それはすなわち本地の吉野皆杉小桜坊であり、吉野山古来からの地主神、金精明神を擬したものであると推定したからであった。それを裏書きする痕跡は得られなかったが、金精大明神社に賽し、四辺の幽邃な山気に触れたことで、自分の推測を更に深めたことである。吉野皆杉小桜坊は、役ノ行者登峯以前から吉野山塊に棲息していた地主神が化った、というよりそのまま祭り上げられた古参天狗と見る」

知切師の本の素晴らしいところは、いろいろな説をこれでもかと併記してくださることで、上の抜粋文章を読んだだけでは「ああ、吉野皆杉小桜坊というのは吉野のかなり奥の方にある金峯神社(金精大明神)のことなんだな」と思うと思うのですが、なかなかどうして、知切師は「怨霊となった井上内親王」の説も捨ててないと思う。知切師の渾身の調査でも「皆杉」も「小桜」も結局何も分かってないのですから。どうしてここまで「吉野」「皆杉」「小桜」にこだわらないといけないかというと、「吉野皆杉小桜坊」は、天狗探求には絶対に欠かせない『天狗経』に載っている四十八大天狗のうちの一狗だからです。知切師も大変だ。
で、こんなにわからないことだらけの天狗様ですのに、知切師は『天狗の研究』の「日本天狗番付」で、吉野皆杉小桜坊を「年寄り」(=ちょっと特別な存在)にしてしまっています。剛毅だ。(歴史が古いからですけど)

ま、ともかく、古代史に疎い私は井上内親王の物語を知りませんでした。
なのでその御霊神社へ向かってみることにいたします。
持っていたギャラクシーで「御霊神社 五條」で検索してみますと、ずらっと出てくる御霊神社。
なんでこんなに五條市には御霊神社があるんだっ、そんなに無念に死んだ人がこの付近には多いのかっ、と混乱しつつ、『圖聚天狗列伝』には「五條市霊安寺町」という地名があったので、そこにある御霊神社へ向かってみます。

行ってみると、地図上では分かっているはずなのに、なかなか車を停めてじっくりと地図を眺める場所を見付けられず、霊安寺町がどこからどこまでか分からずウロウロ。
ようやく見付けた御霊神社。住宅地の片隅にあるんですが、



想像していたより遙かに立派な神社でした。
拝殿のところに小冊子が置いてありまして(持ち帰り可能)かなり詳しくこの神社の説明が書いてあります。
それをとりあえずじっくり読む。
すると、びっくりしたことにさっき検索して出たたくさんの五條市の「御霊神社」は、すべて「井上内親王」のものだそうです。その数21社。なんでそんなにたくさん。早良親王や菅原道真や崇徳上皇などが入り混じっているのでしょう、などと勝手に思っていたので、一瞬背筋がぞわっとしました。この井上内親王、まじでやばい人や。
このパンフがとてつもなく面白くて、見過ごせないポイントがいっぱい。
まず、主祭神は井上内親王(いのえないしんのう)なのですが、同時に「他戸親王」(おさべしんのう)と「早良親王」(さわらしんのう)と「火雷神」(ほのいかづちのかみ)もまつられている。他戸親王は井上内親王の子供だから良いとして、早良親王は他戸親王の異母兄弟。(光仁天皇の10人ぐらいの息子のうち、山部親王が桓武天皇として即位した。早良親王は桓武帝と同母兄弟)。謀略によって蹴落とされたらしい井上内親王が早良親王をかかえこんでいるのはおかしな気がしたのですけど、実は、都で頻発する祟り現象を宥める為に、井上内親王と早良親王は同じ時に(延暦19年(800年))神とされ、早良には「崇道天皇」の諡号が与えられ、吉野には御霊神社が作られたんですって(最初に作られたのは「霊安寺」というお寺で、神社はその附属だったそうですけど)。
(※井上内親王の廃后は772年、その死が775年、相次ぐ天変地異により初めて光仁天皇が故廃后を祀ったのが777年、光仁の譲位と桓武の即位が781年、藤原種継暗殺と早良親王の憤死が785年)
早良親王の怨霊の話はさすがの私でもよく知ってましたが、井上内親王のおはなしはあまり知りませんでしたよ。
そういえば、大好きな里中満智子の漫画『女帝の手記』でも井上内親王が出てましたね。称徳天皇(=主人公。井上内親王の異母妹)に「目立たなくてかわいそうな女性」と思われながら、ひどく嫌われた女性。

で、最後の「火雷神」というのが神話の中の登場人物かと思いきや、実在の人物(?)だというのです。井上内親王と他戸親王は廃后・廃太子になった後、五條市のこのあたりに流されます。このとき母は懐妊していて、五條市西久留の産屋峰というところで出産したのだそうです。このとき内親王57歳。すげえ、神話の時代の話のようだ。生まれた子は2年後「母の仇を討つために」雷神になったという。(本当はこの子がどうなったのかは不明)
「なぜ付近に21社も御霊神社が作られることになったのか」ということですが、嘉禎4年(1238)に土地の豪族の吉原氏と牧野氏に諍いがあり、それが原因で神社は分祀されたのだそうです。とはいってもこの時の争いは、何を争ったのかが不明なんですって。(なんだそりゃ)。鎌倉時代に10社に「宮分け」が行われ、江戸中期までに21まで増えたのだそうです。「当地の祖先は、やんごとない内親王親子のご不幸に、心から哀悼の誠を捧げ、ご冥福を祈り、崇敬の誠を捧げてきた。其の願いが、身近にお祀りしたいという思いとなり宮分けに発展したと考えられる」
おもしろい… おもしろいけど、解せぬ。(史上こんなに求められた祟り神の人がいたでしょうか… あ、菅公(学問の神)がいたっけ。井上内親王にも何か霊験があるんでしょうか)

ちょっと時間をかけて境内を歩き回り、いろんなところを覗き込んだりパシャパシャ写真を撮ったりしてしまいました。


さて、時間は14時半過ぎです。お腹が減ってきました。実は五條市は柿の葉寿司の名産地で、随所にお店を見かけたりしたのでした。
3年前に大塔村と長慶天皇と前鬼の里巡りをしたときに十津川の道の駅で食べた2種類の柿の葉寿司がおいしくておいしくて、ぜひお土産に買って帰りたいと思っていたのですが、一方で昨日の経験から「京都奈良のラーメンチェーン店をもうちょっと追求してみたい」「奈良周辺のラーメンチェーンのバリエーションは凄いと思う」とも思っていたので、柿の葉寿司の前に五條市でラーメン屋を食べたくなったのでした。ところが探すと一軒も見当たらぬ。くそぅ、求めてないときにはにょきにょき出てきやがるくせに、と思って御所市に移動。そうしても運が悪くて全くラーメン屋に行き当たらず、更に橿原→天理市へと移動。さすがにようやくラーメン屋がたくさん出てくるようになりましたが、既に時間が悪く、15時半を過ぎてたら閉じている店がほとんど。
「失敗したな、まもなく17時だし、メシを喰うことを諦めて、石上神宮へ行って、その後食べるか」と思ったところ、神宮の手前で折良く開いているお店を見付けました。
天理スタミナラーメン彩華の本店! 寄ってみたかったんだ。ちょうど数日前、浜松で私が最も良く行くラーメン屋さんの店主が、このお店のことを話してくれてたんですよね。なんというタイムリー。



サイカラーメン(小)モモチャーシュー入り(880円)を注文。



おおう、素晴らしいニンニクの香り。
…って、彩華はスタミナラーメンを名乗ってないんでしたっけ。
さっそくつるつるとスープをすすりますと、(すでに熟知している味ですが)すっごい好み。
逆に麺はあんまり好みじゃないんですが、それにしても旨い。
と、勢いよく食べ干そうとしたんです。ところが何か体調に異変が。

あれ? なんか息苦しい。息が出来ない。これって喘息ですよ。なんでいきなり。
いや、そういえばさっきから運転中若干呼吸がしづらいような気がしていたんですが。



だから、元気が良かったのは一口目だけで、あとは急激に悪化する息苦しさと戦いながら麺を啜ることになってしまいました。
これがまた、ラーメン(小)のはずなのにサイカラーメンはかなりなボリュームで、とても苦しかった。
啜るのが死ぬほど苦しひ。
とほほほほほ、折角のラーメン行脚がこんな始末になってしまうだなんて。
わたくし、15年ぐらい前に奈良の山の中のお店で天理ラーメンを食べたことがあるんです。その記憶が、自分の中で判然としてないんです。「天理スタミナラーメン」だったのか「彩華」だったのか、あの忘れがたい記憶と照らし合わせたかったのにー。麺を食べ終えるだけで精一杯で、しまいには味なんかわからなくなっていました。ごめんなさいラーメン屋さん。
またいつか必ず再挑戦しますからね。



息も絶え絶えになって石上(いそのかみ)神宮へ。
ここへ来たのも数日前のラーメン屋さん店主との会話から。私が歴史好きだとは私の顔を見れば分かってしまうものなのか、なぜかいつも歴史話をたくさんしてくださるラーメン屋さんです。店主さん的には一番凄い神社は美保神社(祭神;事代主)で、定期的に出かけるんですって。私は美保神社にはまだ行ったことが無いんですよね。でも、店主さんの話を聞いていると、「いつかいかねば」という気になってくる。本当に「何かある」感がすごいんですって。

でも美保神社と同じようによく行かれるという神社が石上神宮なんですって。ほぼ毎年行くと言ってらした。石上神宮だったら私も行ったことがあるし、本でもいろいろ調べてますから話を合わせることもできます。ほら、あたし偽物部麁鹿火だし。
が、体調のせいでふらふら~~



石上神宮はすごい神社なのです。でも、一番凄いといわれるのは「何も無い」禁足地(御本地)というところ。参拝客は多いのですが、あまり観光地化されていなくて、境内に説明版もほとんど無いので、一見さんには何がすごいのかわかるまい。ここを訪れるのは「この神社が凄い」ってことを知っている人だけなんですね。
が、せっかく来たのに今の私にはいろいろ見廻るような余力も無く、お賽銭だけ投げ込んで力無く去るしかありませんでした。
ほらアレですよ、今の私にこそ必要な呪文。
ふるべゆらゆらとふるべ~~(←死者を蘇らすことすらできる謎の呪文。十種神宝が必要となります)

あれですね、五條市で御霊神社の中を歩き回ってからいきなり体調が悪くなったのですから、なにか井上内親王様の怒りを買うようなことをしてしまったんだと思います。(心当たりがいっぱいあったりして)。実は、今後どうするか決めてなく、御所市の周辺にはまだまだ見て回る予定の箇所がいっぱいあって、「あと2泊ぐらいしようかな」ぐらい思ってたんですが、何かもう駄目な気がして、帰宅することに決めました。呼吸は苦しくても車の運転はできるんですね。

来た道とは違う道(伊勢湾岸道と国道一号)をびゅんびゅん飛ばして、22時ぐらいには浜松に帰着しました。そのあと2日ぐらい息苦しさに苦しみました。(失業者は保険証を持っていないので病院には行けないのです)
でもおかしいな、私は「京都に行こうかな」と思って旅立ったはずなのに、思い返すとほとんど京都で何も見ていない。
(それは貴船神社で「西は凶」と言われたからだ)
(「病は重くなるが治る」とも言われた)
近いうちにまた京都に行き直して素敵な滞在をしてやる、と強く誓いました。
とっぺんぱらりのぷう。どっとはらい。えんつこもんつこさげすた。

(…おしまい)


※おおおおお、書き終えた!!!!
この手の記事を私が最後まで書き終えたのは初めてではないでしょうか!!!!
ちょっと感激しております(1ヶ月半もかかったけど)
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ブランとサマー。

2014年02月06日 16時28分39秒 | わたしの好きな曲


アントニオ・ヴィヴァルディは好き。
なかでも「四季」は、「調和の霊感」に次いで好き。
(「夏」と「冬」しか聴かないですが)


1年前に引っ越しまして、20年かけて貯めたCDコレクションはすべて実家に置いてきてしまったのです。
さらに、車のオーディオが壊れてしまいまして、MDコレクションも聴けなくなってしまったのです。
目下のところ、非道い音楽日照りでして、YouTubeにお世話になるしかない。
とかいいつつ、このパソコンも専らガンダム再生専用機なのでして、
合間を縫って音楽を聴くんですが、
パソコンで音楽を聴くって言うのはなんか馴れないですね。

いまヴィヴァルディで一番お気に入りなのが、この方。



マリ・シリェ・サミュエルセン(Mari Silje Samuelsen)、ノルウェイのお嬢さんですって。


わたくしの20年来の「四季」のお気に入りはホグウッド指揮/ジョン・ホロウェイ(ヴァイオリン)1982年でした。
カーステレオが壊れてなければ今後20年もずっとこれだけ聴いていたでしょう。

でもここに至って別の物を聴く必要が出てきたというのも面白いことです。
例えばラーメン屋だったら、好きなお店がひとつできたら他の店に行く必要も無いし、
他の人の趣味にケチをつける必要も無いはずです。
クラシック音楽もまったくおんなじ理屈のはずなのですが、

見ておもしろい音楽と聴いて安らぐ音楽は違う。
またカーステレオが復帰したら、ホグウッドばかり聴くことになるんだろうな。
このお嬢さんは車で聴くとなったら、絶対敬遠する類だろうな。
・・・と思いながら、楽しく見ることにしております。
うしろのおっさんも面白い。

  太陽が灼きつけるこの過酷な季節には
  人[0:44]も動物の群れ[1:17]も生気を失い、松の木[1:33]も熱く燃えあがる
  郭公が呻き声[2:11]を出すと、それにつられ
  雉鳩[2:26]と五色鶸[2:52]も軋りをあげる

  小風が吹く[3:02]
  それを打ち払うよう北から強い風[3:17]が突発的に諍いを仕かけてくる
  羊飼いは嵐の予兆に恐れを抱き[3:41]、
  自分の不運に涙を流す[3:56]~[5:30]。

  強い稲妻と雷鳴、
  そして怒り狂うハエの群れの襲来に
  羊飼いの四肢は疲れ切ってしまうのだ

  おお、もうおしまいだ[8:12]、思った通り[8:17]
  空は雷を轟ろかせ[8:22]、閃光を走らせ[8:57]
  霰を降らせ[9:15]、育った麦の穂を蹴散らしてゆく[9:37]


わたしがこの「夏」を面白いと思うのは、聴いていて「暑さ」を全然感じないことなんですね。「冬」はちゃんと寒いのに。
イタリア東北部の夏と日本の夏は、全然違うんだなー、と面白く思うのです。

それから、ヴィヴァルディはいつも1曲をしっかり10分で終わらせることもすごい。
ここからたった100年後に同じイタリアにパガニーニみたいな怪物が現れてくるなんて。





同じマリお嬢さんの「冬」。
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葛木坐(かつらぎにいます)。

2014年02月03日 10時23分12秒 | 今週の気になる人


1月13日に行った奈良旅行の記録の続き、第5回。最終回。
やれやれ、やっと書き終わります。こんなにヒマな毎日なのに書くのに20日もかかるなんて思っていませんでした。




葛城山へはロープウェイで登れます。(伊豆の葛城山と一緒です)
伊豆ではロープウェイ文化は廃れかけているのに、京都・奈良・大阪では各所で栄えていてとても羨ましい。
伊豆は登ると絶景の富士山がみえますけど、奈良の葛城山はどうなのでしょう、と思いましたが、地理的に伊豆以上に雄大な右と左の景色を眺められることは間違いない。
ロープウェイ乗り場への登り道は、わかりづらい場所にありました。

料金は往復で1220円。
でも、麓の駐車場は料金が1000円でした。高ぇよ、と思ったけどここに停める他はなく、ところが、そこに停まって下界を眺めていたらおっちゃんが寄ってきて景色の解説をしてくださった。あれとあれとあれが畝傍山と天香具山と耳成山だよ、って。確かにここから見る大和三山はきれい。でも眼下にはもっと大事な「葛城盆地」(=失われた欠史八代の時代に日本の首都だった場所)が広がっているのですから、そんな遠くでなく、こっちをアピールすればよいのに、とそのときは可笑しく思いました。でもこれはやっぱり私は浅はかで、葛城の神・建角身(=八咫烏)が晩年葛城に棲んだのは、神武帝のいる畝傍山がよく見えたからなんですよね。(と、愛読書『神武』(安彦良和)に書いてある。もっとも漫画では建角身(主人公)は神武よりも先に死んでしまいますが、史実(・・・)では角身は綏靖天皇を補佐しています)。ここからもっと畝傍山と三輪山を眺めておくんだった。さらにおっちゃんは、「資料をあげるから待ってて」と言って、パンフレットを何部も持ってきてくださいました。おぉ、なんと親切な。これがとっても役立つ物で、実はきのう「役ノ行者の生家の跡(茅原)」をネットで一生懸命調べたけど分からなかったのが一発で載っており(結局行かなかったけど)、後で助かりました。おっちゃん、ありがとう!



びっくりしたことに、伊豆の葛城山と大和の葛城山は、本当に雰囲気が似ているのです。
もちろん伊豆は標高452m、奈良の本物は標高959mですから規模が違うのですが、それにしても雰囲気がとても良い。(伊豆の葛城山には「役ノ行者が伊豆大島に流されて、あまりに閑すぎて伊豆の各所や富士山を遊び回っていたとき、故郷の葛城によく似た場所を見付けたので“葛城山”と名付けた」という伝説がある)。これは驚いた。前に「伊豆長岡は伊豆に流されてきた藤原基経が、故郷の長岡京に似ていたから“長岡”と名付けた」という伝説を検証する為に長岡京市を訪れたら、「どこが似てるねん」と驚いたことがありますので、それと比べると感慨は一更。



残念ながら景色は昨日よりも更にけぶってしまっておりますが、これまた下界の葛城の盆地は伊豆の国の盆地と似てる。登った所には天神社と小さな不動明王がおわしますが、ここまでは伊豆っぽい。(←なんて言い草)





が、その先は違っておりました。こんな景色は伊豆には無いっ。(・・・そんなことないか)









寒い。とはいえ一昨日の比叡山とは比べものになりません。やっぱ温かいわ。
先客にひとりのお父さんとひとりの娘さんがいて、「お父さんはやくー」と言ってました。
「この人たち何してるの?」と私は思いました。
それから、単独でザクザクと雪を踏み分けて、リュックを担いで北から南に歩いて行く人を2人ほど見ました。
おぉ、行者の末裔はまだいるのねー(←単なる山歩きの人ですって)
しばらく歩いていると、ロープウェイからプラスチックのそりを持った家族連れが2組ほど。
「あら、人がいないと思ったら雪が全く無いじゃない」
「下の掲示板にそう書いてあったろ」
とかいう会話。なんとっ、冬はあのロープウェイはファミリーの雪遊び専用になっていたのか。
今日は寒くない日だったのね。(私などロープウェイ乗り場には「山頂気温-4℃」と書いてあっておののいたのに)
行者の、、、、 行者の修験の聖蹟が今では雪遊び会場、、、(泣)



山頂から大阪方面の雄大な景色を見て、私は心慰めるしかありませんでした。
もちろん伊豆にはこんな大都市はありませんが、葛城の山頂からの(大阪湾の)海の景色も、沼津湾の風景にとても良く似ている。(と私は思いました)。ていうかモヤっててあんま良く見えないな。

さて、葛城山と役ノ行者についてです。
超魔人・役ノ行者の伝説は出生関係だけでも膨大すぎて今の私の手には負えませんので、天狗っぽいものに関係する物だけ触れることにしておきましょう。私が参照している本は、志村有弘・著『鬼人 役行者小角』(角川ソフィア文庫、2001年)です。この本はとても便利です。

・13歳のときから毎晩葛城の峯に登るようになり、夜明けに家に帰ることが日常になった。17歳の時に出家して、藤の皮で作った衣を着て、松の葉を食料とするようになった。どのように苦しく困難な修行であっても、決して怠けることは無かった。(『役行者本記』)

・天智天皇4年、32歳のとき母に別れを告げ金剛山に入った行者が樹々を踏み分け岩を這い上り山の八合目まで来ると、突然山が崩れるように鳴動した。だが何も目に見えない。行者は驚いて山の祟りか、あるいは天狗の仕業かと手にした錫杖を岩に突き立てると、遙かな峯に立っている人影が見えた。その背丈はおよそ3m。顔は赤く両目は鏡のようで短い髭が顔を覆い、髪は乱れ獣の皮をまとい、履を履き、手には鉾を持っていた。その者が「不浄千万の身でこの山へ登るな。帰れ」と叫ぶので、行者はムッときて「儂は幼少から五辛穀物肉類を断ち、常に孔雀明王の呪を持誦し、欲望を持たぬ精進潔斎の身である。神ならば知っているはずだ。知らないのならばお前は神では無い」。そこから行者と悪鬼は戦いが数刻に及んだが、やがて悪鬼は逃げだし、行者がそれを追うとおびただしい数の悪鬼の援軍があらわれ、行者を襲った。行者が手にした独鈷を投げると、悪鬼たちは消えてしまった。(『役行者御伝記図会』)

・持統天皇9年、行者が葛城山から吉野の大峯に石の橋を架けようとしたとき、前鬼と後鬼に「鬼神と天狗を駆使しろ」と命じた。二鬼が畏まってこの命を諸国の霊場に伝えると、鞍馬の僧正房・愛宕の太郎房・比良の二郎房・伊豆奈の三郎・富士太郎・厳島の三鬼神・上野の妙義房・筑波法印・彦山の豊前房・大山の伯耆房・比叡山の法性房・肥後の阿闍梨・高雄の内供奉・白峯の相狭房・秋葉の三尺房・高野山の法性房・堺の浦の太郎房・大峯の金平六・葛城の高間房等、百千万人の天狗眷属が集まった。(『役行者御伝記図会』)・・・法性坊、、、高雄内供奉、、、 いつの時代の人だ。

・行者が生駒山の般若霊窟で修行をしていたとき、遠くから大石を投げたり暗がりで襲ってきたり、いやがらせをする者がいた。行者が錫杖を使ってその者を捕らえると、2人の鬼であった。鬼は地元の人間が、里との関わりを断って自由に山を駆け巡っているうちに力が高まって鬼となったと語り、行者の神通自在には到底敵わないため心を改め、自分に従う眷族・悪鬼・天狗たちと共に行者に仕えたいと願った。行者はここに鬼取山鶴林寺を建て、2人の鬼は義覚・義玄と名乗った。(『役行者御伝記図会』)

・遠州原田村長福寺の門前にひとりの山伏がいた。とても貧しかったので、長福寺の住職が憐れんで毎年山伏の峯入りの費用を用立ててやっていた。代が変わると新しい住職は山伏に金をやることを惜しみ、「この寺にはこの釣り鐘以外に金がない」と嘘を言った。ところがその言葉がおわらぬうちに見慣れぬ大柄な僧が来て、その鐘をかついで飛び去ってしまった。やがて大峯の釈迦ヶ岳の絶壁に鐘がかけられ、鐘懸岩と呼ばれるようになった。この大力の僧は行者の変化したものか、または前鬼・後鬼のたぐいか。(『役行者霊験記』)

・一言主神は前鬼・後鬼に「昼間ではなく夜に出て橋を作るようにしたい」と言った。二鬼は畏まってもろもろの天狗に命を出した。橋造りがなかなか進まぬので行者は前鬼・後鬼を急かした。二鬼は「頑張っているけど、一言主神が昼に働くことを禁じているのが遅延の原因」と弁明した。行者が一言主のもとを訪れただすと神は「働くことを嫌っているわけではない。わが容貌が醜いことを恥じているゆえだ。行者よ、恨みめさるな」と言った。(『役行者御伝記図会』)

・韓国広足は行者の教え通り勤行を始めた。ところが300日勤めても何の験も顕れず、師も秘術を教えてくれない。広足は行者に頭を下げ、術を教えてくれるよう頼んだ。行者は広足を諭した。「確かにお前は肉食を断ち女を退け不浄には近寄らず、形は優婆塞をなしている。だが心の中に戒がない。衆生を救う心が無く自らの立身出世ばかり願っている。お前が験を顕すことは難しい。心の中に強い決意を持って優婆塞の行をするべきである」。広足は行者を強く恨み、朝廷へ行者を訴えた。「彼は深い山や魔所の幽谷に篭り、不思議な邪法を修練し、通力自在で飛行することが出来る身となり、鬼神を駆使して、諸国の天狗を集めて葛城の峯に篭もり、天位を傾け、神国を魔界にしようと企てております。すみやかに征伐しなければ天下の乱れとなりましょう」。諸卿は驚いて「行者が悪いことをするなどと聞いたことはないが、とりあえず彼を朝廷につれてくるように」と広足に命じた。広足は50人の兵で葛城山に赴いた。行者はすでに前鬼・後鬼や鬼神・天狗たちを連れ、箕面山に飛び去っていた。彼らは幽冥の者なので人の目に触れることはなかった。広足と50の兵士は三日三晩葛城山を探し回ったけれど、道に迷ってしまった。とうとう食糧が尽き、餓死寸前になったので兵士達は広足に訴えた。「行者を攻めることは仏の御心ではない。神仏に詫びれば、帰る道は見つかると思います」。広足は怒ってきかなかった。やがて山中が鳴動して空がかき曇り、天空から声が聞こえた。「広足よ、汝が舌を振るって讒言し、天朝の使いとして来たとしても行者は神通自在だから飛び去ってしまうのだ。夫の及ぶどころではない」。広足は言い返した。「役小角が謀反の企てをしていることは既に天子の耳に入っている。その罪を糾明する為の勅使である。悪鬼外道の知ったところではない」。すると数千の悪鬼の姿が空中に現れ、広足と50の兵士は山麓の谷に吹き飛ばされ、息も絶え絶えに里へ帰った。これらのふしぎはみな天狗のなせるわざか。(『役行者御伝記図会』)

・行者と顔見知りの紀州の商人が、摂津で行者と行き会って挨拶をして別れた。紀州に戻ると、人々が行者が亡くなったと言って嘆いている。商人が「そんなわけがない。私は7日前に摂津で行者と会った」と言うと、「嘘を言うな、行者が亡くなったのは14日前だ」と言う。そこで皆で一緒に大峯に行って行者の亡骸を確かめることにした。墓所に行って棺を開けると、衲衣・錫杖・鉄の下駄は入っているが遺体は無い。また竹の杖と冠も消えていた。みなが驚いていると、突然空が黒くなり、雷鳴が轟いて豪雨となった。天地が鳴動して岩の間から無数の天狗・魍魎・悪鬼・悪神・獅子・狐が湧き出てきて、人々は慌てて逃げ帰ったという。(『役行者顛末秘蔵記』)

・大宝元年、行者は知人の泰澄とともに愛宕山に登り清滝に行った。そのとき風雨雷電がおこった。異変を感じた二人が念誦すると、地蔵・龍樹・富樓那・毘沙門が光を放ちながら出てきた。さらに、日羅・善界・栄術の三神がおのおのの眷族をつれて現れ、大杉の樹上に立った。「われらはかつて霊山会上で仏の付属となり、大魔王となった。願わくはこの山を領し、群生を利益しよう」そう言って消えた。行者は杉の木を封じて四所明神とし、清滝祠と称することにした。滝の上には千手大士を安置した。(『役君徴業録』)


・・・こんなものでしょうか。
めぼしいものが無いですね。
が、行者の伝説には上に掲げたもの以外に、鬼は良く出てくるのです。とくに前鬼後鬼は10人ずついたんじゃないかと思うぐらい、いろんなところに出身伝説がある。というのも日本の天狗史で初めてまとまって天狗が登場する作品が『今昔物語集』で、一方鬼は記紀や風土記のころから盛んに語られているのですから、既に天狗が登場する前にある程度形の定まってしまった行者伝説には、天狗の加わる余地はあまりなかったようなのです。中世・近世を通じてつくられた行者伝説は、今昔物語より少し前の『日本霊異記』に出てくる行者伝をベースに拡がっていきますが、その『日本霊異記』に出てくるのは「鬼神」だけで「天狗」がいない。(が、天狗という語句は出ずとも『日本霊異記』では行者その人が天狗そのものです)。で、前鬼・後鬼がのちに「鬼でもあり天狗でもある」とされたように、天狗という言葉を使われずとも、「鬼であり天狗でもある」鬼は他にもたくさんいたんじゃないかと思うのですけど、そのあたりはなかなか微妙なものであります。(実際のところ、その例は前鬼(善鬼坊)に限るみたいですね)
なお、行者伝に頻繁に出てくる『役行者御伝記図会』という本は江戸末期の嘉永3年に出版された本。すでに天狗ブームが盛り上がって諸国の天狗の設定ができあがった後の物です。
行者伝で一番古いのは『役行者本記』。行者の直弟子である役ノ義元が724年に書いたという触れ込みの本ですが、(諸説ありますが)南北朝の頃に伊豆で成立のようです。これには天狗は出てきません。これらを踏まえた上で。





葛城山の山頂から南を見ると険しい崖の山が見えます。それが「金剛山」(1125m)。
金剛山には「赤坂城」と「千早城」がありまして、元弘元年(1331年)に楠木正成と共に大塔宮護良親王が幕府軍と激しい戦いをした場所です。天狗界的には、のちに大塔宮が天狗化したとしたらこの赤坂城と千早城に篭もった4ヶ月間は重要な契機になったと思われますから、とても興味深い場所であります。でも、葛城山から見る金剛山はとても険しく、その金剛山にも山頂へ行くロープウェイがあるんですがその乗り場は反対側の大阪側で、行くのも大変なので、「まぁ今回は良いとしよう」「今日の目的は葛城山で、その目的は果たしたからな」と思いました。
・・・でも実は、私の登った葛城山は、役ノ行者が登った葛城山とは違う物で、
ここから見える金剛山が、役ノ行者的に言う本当の葛城山だったんですって。
なんだそりゃー。
一体この葛城山は何を持って葛城山というのでしょう?
と思ったんですが、こちらも「行者の修行場」としての地位はちゃんとあるらしい。
要は、「行者が幼い頃から歩き回って慣れ親しんでいた葛城山」というのがこの葛城山で、
「32歳の時に母に別れを告げて入った葛城山」というのが金剛山なんですね。
わかりづらいわ。
伊豆でも、葛城山の隣りにある大仁町の城山は、頼朝伝説で言う城山とは別の山(でも隣り合っている小峰)、という話を思い出してしまいました。
(※ついでに言いますと、65歳ぐらいのときに一言主神に命じて「葛城山と吉野の金峰山の頂上を石の橋で結べ」と命じた葛城山は、本当は現在の葛城山のとなりにある岩橋山)

葛城山と金剛山の間には水越峠という峠道がありまして、山塊を分断しております。
さきほど私の前をザックザックと歩いて行った人たちは、当然あの金剛山(本物の葛城山)を目指しているんだなあと、凄いと思いました。

さらに、こちらの葛城山にはその水越峠の辺りに「天狗谷」という地名があるそうです。
でも、知切光歳の本を読んでも天狗的なエピソードは特にないみたいなので、行くのは止めました。
それから、反対側の岩橋山の方には、一言主と天狗たちが途中まで作ったという岩の橋の残骸が、今でも残っているそうです。
『圖聚天狗列伝』に説明が詳しく載っていますし、そこへ行った人の記録もたくさん見ることができるのですが、でも、こんな日にこんな軽装備で山歩きをする自信も無かったのでこちらも今日は諦めました。
意気地無し。
『圖聚天狗列伝』より。
「例の石橋の下に、三個の有名な岩窟がある。「胎内くぐり」「鉾立石」「鍋釜石」である。昔、土ぐもと呼ばれる山鬼(あるいは山賊)が出没して住民を悩ますので、神武帝のとき追捕を出した。が、土ぐもはかなたの岩窟、こなたの岩窟を抜けくぐりつつして容易に捕らえられないので、葛で網を作って岩窟を覆って捕らえた。そこから葛城という地名がついたという。この山塊には、むかし天孫降臨の時乗ってこられた、天の磐船と呼ぶ石の刳り船に似た岩が、五十余個も散在している。その岩舟で籠居修練していた修法者の一人が、業成って大天狗天岩舟檀特坊とにり、河内岩船山に止住しているといわれているが、これも葛城の裾に当たる」

役ノ行者が山の中に棲んでいたとしたら、一体どのような暮らしをしていたのだろう。
まさか家みたいなものを作るはずが無いし、庵なども無かっただろうからきっと洞窟ですよね。本当に野営かもしれませんけど。葛城は土蜘蛛伝説の土地でもあります。山の中に住むのにちょうど良い岩窟があるのかどうか。あるいは知切師の言う磐船の残骸もみられるのかどうか、そんなことを考えながら適当にぷらぷらしましたけれど、見つかりませんでした。



ロープウェイ乗り場の横にあるお寺。

さて、ロープウェイを下りながらさっき頂いたパンフレットを読んでますとこんな記述が。
「くじらの滝(櫛羅の滝)
葛城山の中腹にあり、弘法大師によって名付けられたと言われています。この滝は別名、“不動の滝”または“尼ヶ滝”と呼ばれ、滝に打たれると不動明王の功徳によって脳病によく効くと言われています」

脳病・・・
これがきっと行者が修行したという滝だな。きっとこの近くに行者が住んだ(と思われる)穴居もあるに違いない、と早合点して、そこに向かう事にしました。山頂とは違ってここには雪が全く無かったからです。(※家に帰ってから調べてみたら、「クジラの滝」と「行者の滝」は別物でした)

ロープウェイから歩いて15分ぐらい。
山歩きをしている人が何人もいました。ロープウェイを使わずに葛城山の山頂を目指すルートは何通りもあって、でも実はそのうちこの滝を通っていく「櫛羅の滝コース」は昨年の台風で道が崩れ、通れなくなっているそうです。その旨が登山道入口に掲示されているので、皆さんは別のルートへ入ってしまいます。私は登山が目的ではなく、見たいのは滝なので「行けるところまで行ってみよう」と思って行きますと、滝まで何の苦も無くたどり着けました。(御所市役所のサイトを見ると、行者の滝(二の滝)も頑張れば行けるみたい。なんてこったい)







おお、あの下で行者さまが水に打たれて修行したんですなと、(このときの私は更にこの上にもう一つ滝があるなんて知らないから… パンフにも載ってないし)満足しました。わざわざ行者が選んだ場所ですから、この場所がこの山で最も禍々しい魔所のひとつであることは間違いありませんね。天狗や悪鬼も夜な夜な幼い行者に悪さを仕掛けに通っていたハズ。どれどれ行者様が居住した岩窟でも無いのかな~とあたりを見回したけど見つからず、とよた時さんは「滝のすぐそばにお籠もり堂がある」と書いておられるんですけど、それも見なかった気が。無くなっちゃったのかな。



なんと!
ここにクジラがいたから「鯨の滝」じゃなかったのか。
弘法大師も意外と役ノ行者マニアでして、いろんな場所で行者巡りの逸話を残しておられます。
「天竺のクジラの滝によく似ているからクジラの滝と名付けた」って、まるで大師様がインドでその滝を実際に見たことがあるかのような口ぶりですが、もちろん大師様はインドに行ったことがあるのです、伝説では。(「渡天見佛」「渡天拝釈尊」…13世紀頃に初めて加わったエピソードだそうです)
インドに「クジラの滝」なんて名前の滝、あるのか?
大師伝説では大師が訪れたのは、マガダ国の首都(王舎城)にある霊鷲山なので、その付近にある滝なのかなと思って探してみたんですけど、見つかりません。弘法大師のことなので、何かのお経に出てくる地名なのかもね、と思って法華経や般若経の中を探そうとしたんですけど、、、、 見つかるかぁ! そもそもインドの内陸でクジラ地名が出てくるのがおかしい。
で、地元の人が書いているらしいこのサイトを見ますと、

「8.倶尸羅(櫛羅)村
一に「倶尸羅」とも書いた。永井氏が櫛羅と改字したと伝える。暦応乃安養寺大般若経には「倶尸羅郷」と墨書されている。郡誌によると、「天神ノ森より一連の松並木曲屈たる列をなし、麓倶尸羅に達す。之れ登山の坂道の両側にあるものにして、松の列は平カナの「くしら」の字形をなせりといふ云々。」とあり。
 また、櫛羅の瀧上方に寺屋敷と呼ばれている安位寺跡がある。ここの地形がインドの仏蹟クチラ城の地形に似ているために起こったともいわれている。」

む…?
クチラ城…?

検索してみますと「クチラ城」でヒットするのは一件だけ。「仏陀が荼毘にふされた場所」のことだとある。それって「クシナラ(クシナガラ)城」の事ですよね。漢字で書くと(涅槃経では)「拘尸那羅」だったはず。そもそも末羅国の主邑であるクシナーラーは平原のただ中にあって、葛城山とは全く景色が似ていない。
結局のところ、「天竺にあるというクジラの滝」はナゾでした。ただ、「尸羅」という文字は、仏教ではいろんな場所で使われる言葉であります。7世紀インドの英雄王ハルシャ=ヴァルダナも漢語で書くと「尸羅逸多」ですよ。

また、
「不動寺
なお、境内西南に小さな池があるが、この池はその昔、役行者が櫛羅の瀧で修行していたときに結んだ庵の跡で、後世になっても建物等を建てないために池(兼・防火用水池)にしたという口伝が残っている」

という記述と、「櫛羅の滝」が別名「尼の滝」と呼ばれる理由について、

「役行者がはじめ下の瀧で修行していたが、母が行者を慕って一緒に修行しようと同行したので、行者は女と一緒では修行できないと言って、この瀧を母に譲り、自分は上の瀧で修行することにしたということから、これらの名が付けられた」

と書いてあるのが面白いですね。

もっとおもしろいのは、「供尸羅」の地名を「櫛羅」に改めたという「永井信濃守」のこと。
この「永井氏」はわれらが神君・徳川家康公の配下で、勇猛で知られた「永井直勝」の御子孫ですよ。
永井直勝は知多半島の出身で、三河軍の中では若手だったのですが、顔が美形でまた太鼓が巧かったので岡崎三郎信康(直勝より4歳年長)に気に入られたという人物。おもしろいのは、美顔で知られた井伊直政も直勝の2歳年長だったのですが、直政と直勝はどちらも「万千代」という名前で、そりが合ったのか合わなかったのか、関ヶ原後に死ぬ寸前の直政と大喧嘩してその後仲直りして、「真の友」扱いされたこと。その喧嘩の原因が、関ヶ原で功績を挙げたのにほとんど領地を増やせてもらえなくて激怒していた井伊直政と本多忠勝を、永井直勝が「領地なんて少なくてもいいじゃん」「ご主君あってのことですよ」と窘めたこと。その直勝も遡ること16年前の小牧・長久手の戦いで、池田恒興を討ち取ったのに5000石しか貰えず、のちに仲良くなった池田輝政(東三河15万2千石)に「俺の父の首がそれだけしか価値が無かったなんて」と嘆かれたというエピソードがある。そもそもその恒興の首も、万千代直勝が勘違いして万千代直政から横取りしてしまったものだとするエピソードもある。
とにかく永井直勝は家康家臣団の中でも稀に見る好人物だったようです。

そんな永井直勝も関ヶ原後は順調に出世を重ね、亡くなる寛永3年には下総古河で8万9千石。
その息子2人は英才だったそうで、淀藩と高槻藩で合わせて10万石。この兄弟2人を淀と高槻に置いたことを「永井体制」というのだそうです。
が、その後の永井家の歴史はちょっと悲しくて、弟藩の高槻永井藩(3万6千石)は幕末までそのまま存続するのですが、本家の永井家は丹後宮津藩(7万3千石)に移封された後に、延宝7年当主の直長(27歳)が突然鳥羽藩主の内藤忠勝に刺し殺され、子供が無かったため、領地取り上げとなってしまったのでした。直勝の死去から54年後のこと。
(※岩槻藩→美濃加納藩の永井家(3万2千石)もあります)

ところが永井家は譜代の名家とされていたのか、「ちょっと惜しい」ということで弟・直円に大和国新庄藩(1万石)を与えて復活させる。ここは先祖の永井直勝と井伊直政の逸話が活きたと嬉しくなるところですね。ていうか、継げる弟がいたのに7万3千石は取り上げか。なお、この時期は近畿では大名の殺害事件・変死が頻発していて(忠臣蔵の事件も20年後)、でも大概の場合は「病死した」と偽って届けて乗り切ることがよくあったのですが、永井直長の場合はお江戸の増上寺で公的行事(将軍家綱の死亡直後の法要)の中での殺害だったため、隠せなかったんですね。厳しい。
弟と別家がそれぞれ3万石超なのに、本家はずっと1万石だったという悲しかったという話です。
それは、もう、鯨に憧れたっていいじゃないか。

さて、話はここからです。
葛城の「供羅」→「櫛羅」の改名についてです。
これをした「永井信濃守」というのが誰で、それがいつの話なのかということです。
答えを言いますと、それは新庄永井藩8代目、永井信濃守直壮(なおさか)(なおたか、とも)。
文久3年(1863年)の事です。幕末ですよ、幕末! 当主の直壮は家督継ぎたてで、17歳でした。

「せっかく弘法大師が命名し、住人が1000年も守ってきた有り難い地名を勝手に改名(改字)しちゃうなんて!」
と言いたくなるところですが、
実は祖先の永井直勝も、元々の名前は「長田直勝」だったのですが、神君・家康から直々に「長田という姓は縁起が悪いから変えろ」と言われて(←長田庄司忠致の故事から)、「永井」と変えたところ家運が隆盛したという話があるので、「字」にはひときわこだわりたい家系だったと思います。

その改名のきっかけは、当主・直壮がそれまで藩名の由来だった大和国新庄(現・葛城市)から葛城山のふもと(現・御所市)に引越し、ついでに藩名も「新庄藩」から「くじら藩」へと変えてしまったからです。ただ藩主が約2km離れたところに新しい家を建てたというだけで、藩名まで変わってしまうのはすごいですね。永井直壮は新藩を創設し、櫛羅藩の初代藩主となったのに、支配地は一切変わってないのです。日本はそれから5年後に明治維新を迎えます。

彼はなぜわざわざ藩名を変えたのか。
それは17歳の新藩主は鯨が好きで好きでどうしても「くじら藩主」と名乗ってみたかったから!
…ではありませんで、
ウィキペディアには変なことが書いてあります。

「幕府による文久の改革の一端である参勤交代制度改革の余波を受けて、陣屋を櫛羅に新設した」
「櫛羅は藩領の中でも特に栄えていたところで、要害の地でもあったことが理由だったとされている」
「直壮は領民の移住や集住を奨励し、藩名も正式に櫛羅藩と改めた」

なんで「参勤交代制度が改定」されたと言う理由が櫛羅藩成立の原因となるんだ?
「櫛羅が要害だったから」って、17歳の若藩主は戦争でもするつもりだったのか?

「文久の改革」(1862年)ていうのは薩摩国父・島津久光と朝廷のやつらによって幕府が無理矢理させられた一連の変革のことですね。大作幕末漫画『風雲児たち』がそろそろここに差し掛かりますから(※最新刊(第23巻)が万延元年(1860年)までようやく来た)どう描かれるか非常に楽しみなところですが、若き永井直壮が時代の何かを感じ取って、新庄を引き払って要害の葛城山に要塞を作ろうとしたって事ですよね。
そもそもここは大和の国のどんづまりなので、新庄だろうが櫛羅だろうが何が違うのか良く分からないところであります。
そもそも櫛羅藩は小藩過ぎて、検索してみても永井直壮がどんな人物だったのか、そういう記述が一切ありません。
幕末の動乱において、「佐幕」だったのか「朝廷派」だったのかも分かんない。
でも、その行動から見て、充分「徳川家思い」の人だった気がしますね。

こちらのサイトさんにまた興味深いことが書いてありました。

「歴代の新庄藩主は定府大名で新庄には住まず、陣屋を構えた形跡も無い」
定府大名というのは「ずっと江戸に住んでいた大名」ってことです。永井氏の場合は大阪や二条城に勤めていることも多かったそうです。
もっとも直壮は旗本永井家(7000石←領地はどこか不明)から養子に入った人で、藩主になる前はどこに住んでいたのか、何歳で養子になったのかもよく分かりません。




…若藩主・直壮が何を考えて「櫛羅藩」を作ったのか、
考えてみようと思ったのですが、
あきらかに「文久3年8月に天誅組の変が起こったから」でした。
(※新庄藩主・永井若狭守直幹が隠居して、養子・直壮が新藩主となったのは文久3年12月。)
8月16日に約60名の恐ろしい恐ろしい天誅組が隣藩の狭山藩にやってきて「仲間に加われ」と脅しをかけてきたとき、狭山藩(北条氏)はゲベール銃10丁他と食料を差し出すしか無かったといいますから、もしこれがまかりまちがってこちらにやってきてたらと考えると、本当に怖いことだったでしょう。北条氏は外様で永井氏は譜代大名でしたから、天誅組がこちらに「なかまになれ」などと言うはずはありません。五條代官の運命は彼(←というのは9月時点の藩主・若狭守直幹)の物だったのかもしれないのです。(前年におこなわれた文久の改革のせいで彼はすぐ近くにいたと推察される。これを島津の鬼の陰謀だったと考えてもおかしくない)。永井氏は1万石で、幕末ですから動員力はおそらく100人弱ですよね。(狭山藩も同じぐらいの条件だった)

天誅組は8月17日に五條代官所を襲撃。
それから8月25日に兵力1200(←十津川郷士が加わったから)ぐらいで高取城に攻め寄せる。
そのあと(8月28日)幕府の命で討伐隊(総勢約1万5千)が編成されるのですが、櫛羅藩は命令の中に入っていませんので当事者扱いされてたんだと思います。高取城攻防戦のとき、天誅組の主導者・吉村虎太郎は別働隊を率いて御所市内をうろつき回っていたという。討伐隊は紀州藩・津藩・彦根藩・膳所藩・郡山藩・岸和田藩・柳本藩・小泉藩・柳生藩・芝村藩・狭山藩・高取藩・尼崎藩。
天誅組が壊滅したのは9月27日。

こんな恐ろしい事件が起こったら、要害の場所に陣をかまえたくなりますて。
(…でもよく考えたら、彼が今後も同様なこと(=西方からの敵を迎え撃つような事態)が起こると予想したとすると、櫛羅はむしろ前線に近くなる気がしますけど。水越峠からの敵は自分が引き受ける。千早口からの敵は自分と高取藩で。穴虫峠・竹内峠からの敵は郡山藩・自分・丹南藩・小泉藩・田原本藩の合同で迎え撃てばいいんですよね。この配置図から見ると、狭山藩の場所からしか抜ける方向が無いのです。高取城を獲ったらこっちのものだ。)
ともかく、「櫛羅藩が成立」したのは、藩主が決して役ノ行者や弘法大師に憧れたからからではなく、だから「俱屍羅という字はとても縁起が悪い」と考えたとしても仕方が無かったことだったのです。もっとも、「グルメだった若殿がどうしても“くじら藩主”と名乗りたかった」という可能性は捨てきれません。

その後の動乱で彼がどうふるまったか知りたいところでもありますが、
慶応元年に若死にし、後を継いだ養子の直哉(15歳)は動乱に際して何もせず(先々代は存命だったからその人が舵を取っていたのだろう)、そのまま明治を迎え、無事に待望の「くじら県」の成立を見たのでした。
めでたしめでたし。

(つづく)
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