クジラ。
1月13日に行った奈良旅行の記録のつづき、第6回。
…なんてこったい、5回で終わらせる予定だったのに。(書き終わらない)
せっかくヒマでヒマで仕方の無い毎日を送っているのですから、早く次の旅行に行きたいですよ。(でも雪は怖い)
さて、葛城地区には行きたいところがいっぱいあります。
まず、櫛羅のすぐ近くに綏靖天皇の御所跡だという「高丘宮」があります。それからそこからすぐに「室秋津島宮」もある。
葛城の地は「欠史八代」(=第2代綏靖天皇~第9代開化天皇までの、記録があまりない時代。紀でおよそ500年間)の間、政治の中心地だったんですね。
わたくし「失われた〇〇」とか大好きなので、一度ここをじっくり歩いてみたかったんです。
…と思ってたんですけど、車で走っていたら、あっさり通り過ぎてしまいました。わかりづらい。
いいか、またあとで来れば。(※来られませんでした)
で、欠史八代は別名「葛城王朝」と呼ばれております。
謎に満ちた時代です。
が、「葛城王国」の範囲って一体どこからどこまでなんでしょうね。現・御所市と葛城市と大和高田市は入るとして、橿原市は違いますよね。第9代の“日本の猫の大王4世”開化天皇なんか遙か遠くの奈良市のあたりに宮殿(春日率川宮)を作ってしまってます。
「御所市」は「ごしょ」ではなくて「ごせ」と読みます。
古王朝時代の「御所跡」がたくさんあるからこういう地名になったと単純に思いましたのに、なんで読みが「ごせ」なんでしょうね。
WikiPediaには「市内を流れている葛城川に5つの瀬があったとする説や、孝昭天皇の御諸(みもろ)が「御所」に変わったとする説がある」と書いてあります。
意味不明。
が、「ごせ」は決して新しい地名では無く、江戸時代以前から「ごせ」という呼び名があったということは、天誅組の乱を調べていて知りました。
が、この「ごせ」って、本当はきっと「巨勢」か「古瀬」ですよね。
そうだと言い切っていけない何か(もっと深い事情)があるのでしょうか。
巨勢谷を本拠とした「巨勢氏」は葛城地方固有の部族です。
巨勢氏の祖とされる「武内宿禰(たけしうちのすくね)」は、第12代景行天皇から第16代仁徳天皇の頃の人だとされていますから、「欠史八代」の時代よりもあとの人になるわけです。武内の宿禰の父は「屋主忍男武雄心命」(日本書紀)/「比古布都押之信命」(古事記)の2説があり、どちらも第8代孝元天皇に結びつけられておりますが、武内宿禰以前に葛城の地に結びつくような逸話は無いようですね。巨勢氏や蘇我氏は「渡来系氏族」だとされていますし。で、武内宿禰の息子たちが波多氏・林氏・波美氏・星川氏・淡海氏・長谷部氏・許勢(巨勢)氏・雀部氏・軽部氏・蘇我氏・川辺氏・田中氏・高向氏・小治田氏・桜井氏・岸田氏・平群氏・佐和良氏・馬御樴氏・木臣・都奴氏・坂本氏・玉手氏・的氏・生江氏・阿芸那氏・江野財氏らの祖となるのですが、とくに第6男の「かつらぎのそつびこ」(襲津彦)が「葛城氏」の祖、すなわち役ノ行者のご先祖となるわけです。
一方、葛城地方の大神とされているのは「一言主(ひとことぬし)」の神です、性格がよく似ているので出雲神の「事代主(ことしろぬし)」と同一人物とされることもありますが、たぶん別人。一言主が現れるのは第21代雄略天皇の時代で(つまり武内宿禰よりもあとの時代の神)、葛城地方の「賀茂氏」とゆかりが強い神です。暴虐な雄略天皇は「葛城氏」と「賀茂氏」を両方とも粗略に扱いましたので、なんかわけのわからないことになりました。役ノ行者は「賀茂氏」の一族、とされることもあります。
ということは「葛城氏」と「賀茂氏」は同族? まさかね。
御所市のマスコットキャラクターは「そつひこくん」と「いわのちゃん」。
「ソツヒコ」は武内宿禰の息子で、朝鮮出兵等に功のあった武臣。
「イワノ姫」はソツヒコの娘で仁徳天皇の皇后となり、「とてつもなく嫉妬深い女性」として知られる人。
役ノ行者が「葛城氏」であったのか「賀茂氏」であったのか、それがわたくしの頭を悩ましているところでございます。
一般的な本を読めば、役小角は「賀茂役君」、賀茂氏の人です。それはかなり古い時期の伝説集大成である『日本霊異記』(822年)にそう書かれているからであります。
賀茂氏は呪術の家系で、その系統には安倍晴明や鴨長明とかもいますしね。でも、その日本霊異記だって役ノ行者の時代から200年も経ってからの本なのです。端的に言えば、賀茂/葛城の大神である「一言主」が賀茂氏か葛城氏かどっちの立場の人だったか分かれば、対する役ノ行者がどっち側だったのか分かると言っても良い。
この「一言主」もまた、サイトによって「賀茂氏の神」だと言われたり「葛城氏の神」だと言われたりする。
単純に考えてみなければなりませぬ。
・まず、「賀茂氏」の祖神というものが祀られているのが葛城地方にあって、それが「高鴨神社」。
その神様の名前は「味耜高日子根命」(アジシキノタカヒコネのミコト)。出雲神の大国主の息子。
・京都にも賀茂氏の祖神を祀っている神社があって、「上賀茂神社」と「下鴨神社」。
下鴨神社で「賀茂御祖(かものみおや)」とされているのは「玉依姫」とその父「建角身」。
京都の「上賀茂」「下賀茂」から見て、葛城にある「高鴨」が総本社だという。
・「建角身」の出身地は日向(?)で、「神魂(カミムスビ)神」の孫だというけれども、父の名は不明。
・「頭八咫烏」と「建角身」は同一人物だと言われるけれども、神武紀(日本書紀)でそう断言している箇所は無い。『新撰姓氏録』(平安時代初期)が初出。
・そもそも『古事記』にも『日本書紀』にも「建角身」は登場しない。
・「事代主」は賀茂諸神のひとりである。葛城地方の「賀茂都波神社」の主神が事代主神。
・「葛城王朝」の天皇たちには事代主の血統が強く流れ込んでいる。(綏靖天皇の母は事代主の娘、綏靖天皇の皇后も事代主の娘)
・「一言主」は第21代雄略天皇の時代に初めて目撃された神。
同じ出来事が『日本書紀』では天皇が神と一緒に狩りを楽しんだことに、『続日本紀』では天皇は怒って一言主神(高鴨神)を土佐に配流したことになっている。
・一言主の土佐国への追放は、大和国から雄略朝が「葛城勢力(=武内宿禰の一族?)」を駆逐した歴史的事件を反映した神話だと思われる。
・一言主神は天平宝宇8年(764年)になって高賀茂朝臣田守(=賀茂氏?)の請願によって配流を解かれ、葛城に帰ってきた。
・つまり役ノ行者の時代(7世紀)にはまだ「一言主」は配流中?
・配流先の「土佐高賀茂大社」では味鋤高彦根神と一言主神を並列して祀っていた。
・蘇我氏の全盛時代が欽明朝~斉明朝、巨勢氏の全盛期は欽明朝~天武朝、『続日本紀』の成立は桓武朝。
…うーーん、わけわからん。
結局のところ、八咫烏と建角身と阿遅鉏高日子根って本当は別人なんじゃないの? とか、事代主って何人もいた何かの役職名なんじゃないの? とか単純に考えてみたくなるのですが、そうもいかないところが神話世界のおもしろいところ。賀茂氏の謎については大量に本が出ていまして、ぐっちゃぐちゃでもう私の脳では理解しきれません。複雑すぎる。「一言主」は一体葛城氏の神なのかよ、それとも賀茂氏の神なのかよ。(双方の護り神として両者が崇めていたということも十分ありうる)。だとすると、役小角は賀茂氏なのかよ? それとも葛城氏なのかよ? …さっぱりわかりません。
「武内宿禰」が「賀茂氏」の生まれだったとすれば、何も悩まなくていいんですけどね。(でも武内宿禰はなぜか「渡来系」とされる)
やっぱりわたくしは「天狗伝説」にだけ的を絞ってあれこれするしか無いのでした。
(※「鴨」と「阿多」は今後の課題といたしますよ。いつか必ず!)
葛木坐一言主神社(かつらぎにいますひとことぬしじんじゃ)へ。
関係無いんですが、われらが浜松の英雄“トンボ斬りの達人”本多平八郎忠勝が活躍した「一言坂」(静岡県磐田市)には、一生に一度だけ「一言だけ」願いを叶えてくれる観音様がある、ということで「一言坂」っていうんですが、これってこの「一言主神」のことですよね。遠州では葛城の神様が観音様になっちゃってます。
さて、一言主の神は日本書紀では男の神なのですが(雄略天皇とそっくりの姿をして現れたと表現されている為)、役ノ行者伝承や謡曲『葛城』に出てくるのは女神です。しかもかなり容貌の醜い神とされる。これは「山の神はみんな女」という謂われに引っ張られてしまったんでしょうかね。ただ、一言主の神は「アヂスキノタカヒコネ」と同一人物だという伝えもあり(またかい)、その味耜高日子根は日本書紀では、「親友の天雅彦と姿がそっくりで、天雅彦の葬式に行ったらその家族に天雅彦と間違われて激怒した」というエピソードがある人です。実は、一言主のコダマやサトリ的神格から考えを思い巡らせば、「他人と似た姿になれる神」という神性(妖怪的な神という性格)もありうるんじゃないか。柳田國男に『一言主考』というのがあって今ちょうど手元に無いんですが、なんて書いてあったっけ? 役ノ行者の前に女の姿となって現れたと言うことは(容姿を恥じて決して現れないんですが)何か意味があるのかもしれん。まさか役ノ行者が実は女だったなんてことはないでしょうが、後鬼が行者の使いとなって神の元を訪れたのかもしれん。
私がここまで一言主や葛城氏にこだわるのは、一言主が「葛城や吉野の天狗たちの元締め」と考えられるからです。
役ノ行者が前鬼と後鬼に「葛城と吉野に橋を架けよ」と命じて諸国の天狗を参集したとき、なかなか作業が進んでいないことを知ってぷりぷりして前鬼と後鬼を問いただすと、前鬼と後鬼は「だって一言主の神が夜しか働くことを許してくれないんですもん」と弁明する。行者が一言主を呼びつけると、神は「働きたくないわけじゃないのよ。私は醜いから顔を誰にも見られたくないの。許してね」という長いセリフを言う。行者は神に言うことをきかせることができませんでした。
その一言主の神と役ノ行者がどのような間柄だったのかが重要なことです。
一言主と行者が仲良く同じ氏族だったならば話は簡単です。でも明らかにそうじゃない。行者は神を虐げている。同じ一族の目上の者に対する態度じゃ無い。その一番の原因は、行者は仙人とは言っても、仏法をとことん追求した仏教的な人だったから、ということがあると思います。でもそれにしたって、自分の土地の神様に対してやりすぎだ。
役ノ行者は賀茂氏かそうじゃないか。
行者の名字(?)は「役」です。
なに、役って?
役ノ行者の名前が「鴨ノ行者」でも「葛ノ行者」でもなかった理由は考えてみなくてはなりません。
「賀茂役君(かものえのきみ)は今の高賀茂朝臣(たかがものあそみ)と同じ」と記述しているのは『続日本紀』ではなくて『日本霊異記』です。続日本紀にはそんな説明はありません。
「賀茂君氏」は大物主の子である大田田根子の孫大鴨積を始祖とする三輪氏族に属する地祇系氏族。大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。姓は君のち朝臣。大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された。なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。姓は君であったが、壬申の乱の功臣である鴨蝦夷を出し、天武天皇13年(684)に朝臣姓を賜与された。
とウィキペディアには書いてあります。これが役ノ行者に結びつくのかどうか。
役ノ行者以外に「賀茂役君」という称号を持っている人が実はもう一人だけおりまして、『続日本紀』(養老3年7月)に従六位上の賀茂役首石穂という人が正六位になって「賀茂役君」の名を賜った、ということが書いてあります。(役ノ行者が伊豆に流刑されたのはその34年前)。「賀茂役君」は決して役ノ行者だけのアダ名じゃなかったんですね。 だとすると山の中の引きこもりだと考えられる役ノ行者も、実は正六位相当の官位を持つ官吏だった可能性はある。(役ノ行者と天智・天武天皇の交流を示す伝説もあるし)、役ノ行者は當麻(たいま)のあたりに数百里の所領を持っていた、という逸話もある。(天武天皇が役ノ行者に土地を譲らせ、そこに建ったのが当麻寺)
最古の行者伝である中世期の『役行者本記』(成立年代不詳)には行者の出自説がいくつか載せられています。
・小角の父は説が多い。父親がそもそもいなかった(処女懐胎)説もある。
・山護主臣が葛城山の麓に棲み、高賀茂の姓を賜り、君の号を命じられた。5代のちの金足君は事葛城君を生んだ。事葛城君には一人の娘だけがあった。出雲の加茂の富登江の子(大角/真影麿)を呼び寄せてその娘(白専女)の婿とした。真影は「十十寸麿君」(とときまろのきみ)と号し、このふたりから小角が生まれた。(※山護主臣も事葛城君もググっても出てきません)
・仁賢天皇の時代、平群真鳥が乱を起こし誅伐された。その子孫は葛城の麓に隠れて住んだ。役ノ行者の母は謀反人の一族と言うことで縁談が無く、野合して生まれたのが小角である。額に小さな角のような固まりがあったので小角と名付けた。
・小角のことを役君とするのは鬼神を使役したから。役公と書くのは誤り。
それから、最初からずっと小角と一言主が仲が悪かったかというとそうでもなくて、修行を始めたばかりの小角に「金剛山の頂上に法喜菩薩が来ていますよ。ありがたい説法を毎日していますから、行ってらっしゃい」と長いセリフで教えてあげたのは一言主だということになっています。(『役行者御伝記図会』)
一言稲荷。
ご神木(大イチョウ)。なんだこれ。
蜘蛛塚。土蜘蛛を祀っている。
この土蜘蛛は謡曲「土蜘蛛」に出てくる土蜘蛛で、源頼光のお話だそうです。
私の手持ちの「謡曲集」(新潮社)には収録されていない…
一言主神社は、
「一言の願いだったら、たった一つだけ必ず叶える」ということで有名だそうです。
一生でたったひとつだけ。つまりこの神社に「毎年初詣に来る」ってのはあり得ないわけなのですね。
でも「一言だけで表現できるお願い」って何なんでしょう。
散々悩んだ末に、「助けて」ってお願いしときました。
だって他に思いつかないんだもん。ひとことって言われたって。
たすけて!
一言神社から見た葛城の里。
次に向かいますは「高天原」(たかまがはら)。
俗世にまみれた愚人には「高天原は天の上にあるもの」と思ってたんですけど(もしくは九州)、実は葛城にあったんですよ。
ウィキペディアには高天原伝説は十箇所ぐらいあると書いてあります。
葛城の高天原の場合、天狗がいます。土蜘蛛もいます。
高天彦(たかまひこ)神社。祭神は高
見産霊尊(たかみむすびのみこと)。
知切光歳『圖聚天狗列伝』より。
「今昔物語に「天狗を祭りし僧、内裏に参りて現に追はるる話」というのがある。円融天皇に憑いた天狗は諸山の高僧の加持祈祷でも一向に退散しなかったが、奈良東大寺の裏山に住む聖の祈祷でたちまち退散した。ところがこの聖は、長年天狗を祭って方術を行い効験を現してきた外法使いだったことが発覚して、宮中から追い出されてしまったのであった。染殿皇后に邪恋を燃やした修験者は明らかに葛城の修験と明記してあるし、円融帝の病を癒やした聖(外法使い)も大和の外術者だから、おそらく葛城で修法した者に違いない。一人は天狗に化り、一人は天狗を祭る。後世では京都の町でも天狗を使う外術者が大勢輩出しているが、今昔物語の世界以前では、その道の達人はみんな大和、それも葛城で修行した修験者上りがほとんどである」
「葛城の呪術は神儒(道教)仏の三道をミックスした独特の日本呪術で、役ノ行者が創始した者である。その母胎となった葛城の山嶽宗教に仏法の密教を吹き込んだ行者の叔父の
願行を忘れてはならない。筆者は葛城山高間坊は、この願行上人か、あるいはその系統の呪術者ではないかとさえ思っている」
「葛城山高間坊の素性と来歴は容易に断定し難い。
本命はやはり一言主神だと思うが、またこんな話もある。葛城の呪術の伝統はその後も長く伝えられ、その後の修験の行力とは別個のものとして命脈を保ってきているらしい。大正から昭和の初めにかけて、呪術者として盛名のあった岡崎市万燈山の内田恵亮氏は真言宗醍醐派、すなわち当山山伏の本山に属する僧侶であるが、公衆の面前で幾度か「物品取り寄せの術」を披露して見せたという。(中略)内田氏は、常に自分を助けて術を行わせてくださるのは、大和の葛城山高間坊という古い天狗様だと言っていたという。醍醐派は葛城山には縁の深い宗派で、醍醐三宝院では一日一回、定期的に葛城登山を欠かさない」(※知切師は「葛城山高間坊には真言宗醍醐派の密法が何か関係してるかも」と言っている)
高天原は金剛山の裾に広がっているのですが、葛城の里側から見た金剛山のことを「高天山(たかまやま)」あるいは「高間山」と呼ぶそうです。
願行上人と役ノ行者の結びつきがよくわからないのですが、知切師は役ノ行者の修法形成に、叔父の仏法の深い関与があったと言っています。
高天の里はすごく鄙びていますが、よく見るととても門構えや石構えが立派な家ばかり。神話の時代からここに家を構えている方々なのでしょうか。
そこから歩いて「橋本院」へ向かいます。
ここが高天原か~。なんだか天国的なところですよ(思い込み)
のんびり歩いていますと突然、傍らの草叢から「ヴォヴォッ」という声が聞こえたので驚きました。これは2日前に比叡山横川でも聴いて「猿か猪か?」と恐ろしく思ったのと同じ声ですよ。まさか私に憑いてきたのッ と思って良く草むらの中に目をこらすと、何か変な小鳥が駆けていったよ。えっ、あれって鳥の声だったの!?
10分ぐらい歩いて橋本院。里なのに車では容易に行けないところにあります。(行こうと思えば行けなくも無い)
このお寺の前身が「高天寺」というお寺でして、「行基菩薩が開創」したのに「役ノ行者が修行した」とも言っている変なお寺。(行基よりも行者は前の時代の人)。おそらくきっと、願行おじさまと少年小角が一緒にいろいろ勉強したお寺がここなんですね。境内を一応歩き回りましたけど、天狗的な説明は一切ありませんでした(仕方ない)。でもわたくし的にはここを役ノ行者ゆかりの天狗遺跡と認定いたします。かなり広い山園が整備されておりまして、これまた天国的な雰囲気のお寺でありました。
あと、近くに「蜘蛛窟」というのがあったんですが、封鎖されていて近くに近寄れないようになっていました。残念。
葛城では、土蜘蛛と天狗って何か関係があったと思う。
さて、『圖修天狗列伝』には「大和国の天狗」として、「奈良大久杉坂坊」「葛城山高間坊」「吉野皆杉小桜坊」「大峯前鬼・後鬼」「大峯菊丈坊」「大峯金平六」の七狗を挙げられています。
せっかくですからもう一狗ぐらい行っておきたいところ。
「悲運のままで崩じられた
後醍醐帝、
大塔宮が、あの世で魔界に墜ちて怨霊天狗に化られたという説は、『太平記』の仁和寺六本杉の天狗評定、続いて『雲景未来記』の愛宕山上の天狗集会で、世上に喧伝され、林羅山・平田篤胤等が更にそれを強調している。それではその後醍醐帝、大塔宮がどこの山の天狗に化っておられるだろうときけば、誰人もそれには吉野を思い浮べるであろう。ところで『雲景未来記』では、更に加えて
崇徳院・光仁皇后も天狗の仲間に入れている。崇徳院が讃岐の配所で天狗に化られたことは諸書に散見するが、さて光仁皇后の
井上内親王はどうであろう。
光仁皇后は宝亀元年(770)皇后に冊立され、翌年我が子の他戸親王が立太子となって、我が世の春をことほいだのも束の間、翌宝亀3年「三月二日、井上内親王巫蠱ニ座シ」て皇后を廃せられた。続いて五月二十七日、「皇太子ヲ廃ス」と『大日本史』の記述は簡単だが、62歳で皇位につかれた天子であるから、次の王位について、親王・廷臣間にいろいろと謀略があったらしい。結局、皇后が我が子他戸太子を王位につけたくて、光仁帝を呪殺しようとしたことが発覚し、皇后・太子ともに廃されたうえ、庶民に落とされて獄に繋がれ、宝亀6年には「廃后井上内親王、庶人他戸、並ビニ率ス」とある。王宮内部の葛藤は相当に熾烈なものがあったらしく、どちらが是か否かはいまだになぞとされている。ところがそれ以来、天変地妖相次いで絶え間なく、これは皇后・太子の霊が冤鬼となりあるいは雷火となって祟りをなすものという噂が高く、ついに皇后の憤墓に勅使を立てて、御霊神社として祭り、怒りを静めたという」
「昔、真言の
良算上人が四方に遊歴し、吉野金峰山から薊嶽に移り、和佐羅が滝の畔で籠居すること数十年、法華経を誦するに「
鬼神出現シテ仏果ヲ供ス。猛獣毒蛇皆悉ク馴レ伏ス」と『元享釈書』にある。良算は金峯山から移ったというから、薊嶽周辺の天狗もやはり吉野の天狗であろう」
「大峯登山醍醐派の大先達、桜本坊は、一目千本を見渡す谷上の灯籠辻の右の方にあり、三宝院門跡の宿坊であったが、近年独立して吉野修験宗の本山となった。吉野山はどこを歩いても桜々であって、桜にちなんだ由緒がついて廻る。
金精大明神は、岩倉谷の殊にみごとな桜樹の多い所にあるので有名である。仏家では
蔵王権現とも称しているが、吉野八大神の筆頭で、すなわち吉野山鎮守の神である。(中略)筆者は金精明神の境内から蹴ぬけの塔のあたりにもしかしたら金精桜がなかったかときいて廻ったが、金精社の禰宜、塔の堂守などの老人も、いずれも聞いたことがないという。というのは甲斐の国の東山梨郡の最北端、金峰山の里宮金峯神社に金桜社があり、境内に金精桜がある。金桜社は天狗を祭った小祠である。また東京都西多摩郡氷川の御嶽神社の奥の院にある桜坊祠も天狗社であることから、金桜社も桜坊祠も同じ天狗を祭っているのではあるまいか。それはすなわち本地の吉野皆杉小桜坊であり、吉野山古来からの地主神、金精明神を擬したものであると推定したからであった。それを裏書きする痕跡は得られなかったが、金精大明神社に賽し、四辺の幽邃な山気に触れたことで、自分の推測を更に深めたことである。吉野皆杉小桜坊は、役ノ行者登峯以前から吉野山塊に棲息していた地主神が化った、というよりそのまま祭り上げられた古参天狗と見る」
知切師の本の素晴らしいところは、いろいろな説をこれでもかと併記してくださることで、上の抜粋文章を読んだだけでは「ああ、吉野皆杉小桜坊というのは吉野のかなり奥の方にある金峯神社(金精大明神)のことなんだな」と思うと思うのですが、なかなかどうして、知切師は「怨霊となった井上内親王」の説も捨ててないと思う。知切師の渾身の調査でも「皆杉」も「小桜」も結局何も分かってないのですから。どうしてここまで「吉野」「皆杉」「小桜」にこだわらないといけないかというと、「吉野皆杉小桜坊」は、天狗探求には絶対に欠かせない『天狗経』に載っている四十八大天狗のうちの一狗だからです。知切師も大変だ。
で、こんなにわからないことだらけの天狗様ですのに、知切師は『天狗の研究』の「日本天狗番付」で、吉野皆杉小桜坊を「年寄り」(=ちょっと特別な存在)にしてしまっています。剛毅だ。(歴史が古いからですけど)
ま、ともかく、古代史に疎い私は井上内親王の物語を知りませんでした。
なのでその御霊神社へ向かってみることにいたします。
持っていたギャラクシーで「御霊神社 五條」で検索してみますと、ずらっと出てくる御霊神社。
なんでこんなに五條市には御霊神社があるんだっ、そんなに無念に死んだ人がこの付近には多いのかっ、と混乱しつつ、『圖聚天狗列伝』には「五條市霊安寺町」という地名があったので、そこにある御霊神社へ向かってみます。
行ってみると、地図上では分かっているはずなのに、なかなか車を停めてじっくりと地図を眺める場所を見付けられず、霊安寺町がどこからどこまでか分からずウロウロ。
ようやく見付けた御霊神社。住宅地の片隅にあるんですが、
想像していたより遙かに立派な神社でした。
拝殿のところに小冊子が置いてありまして(持ち帰り可能)かなり詳しくこの神社の説明が書いてあります。
それをとりあえずじっくり読む。
すると、びっくりしたことにさっき検索して出たたくさんの五條市の「御霊神社」は、すべて「井上内親王」のものだそうです。その数21社。なんでそんなにたくさん。早良親王や菅原道真や崇徳上皇などが入り混じっているのでしょう、などと勝手に思っていたので、一瞬背筋がぞわっとしました。この井上内親王、まじでやばい人や。
このパンフがとてつもなく面白くて、見過ごせないポイントがいっぱい。
まず、主祭神は井上内親王(
いのえないしんのう)なのですが、同時に「他戸親王」(おさべしんのう)と「早良親王」(さわらしんのう)と「火雷神」(ほのいかづちのかみ)もまつられている。他戸親王は井上内親王の子供だから良いとして、早良親王は他戸親王の異母兄弟。(光仁天皇の10人ぐらいの息子のうち、山部親王が桓武天皇として即位した。早良親王は桓武帝と同母兄弟)。謀略によって蹴落とされたらしい井上内親王が早良親王をかかえこんでいるのはおかしな気がしたのですけど、実は、都で頻発する祟り現象を宥める為に、井上内親王と早良親王は同じ時に(延暦19年(800年))神とされ、早良には「崇道天皇」の諡号が与えられ、吉野には御霊神社が作られたんですって(最初に作られたのは「霊安寺」というお寺で、神社はその附属だったそうですけど)。
(※井上内親王の廃后は772年、その死が775年、相次ぐ天変地異により初めて光仁天皇が故廃后を祀ったのが777年、光仁の譲位と桓武の即位が781年、藤原種継暗殺と早良親王の憤死が785年)
早良親王の怨霊の話はさすがの私でもよく知ってましたが、井上内親王のおはなしはあまり知りませんでしたよ。
そういえば、大好きな里中満智子の漫画『女帝の手記』でも井上内親王が出てましたね。称徳天皇(=主人公。井上内親王の異母妹)に「目立たなくてかわいそうな女性」と思われながら、ひどく嫌われた女性。
で、最後の「火雷神」というのが神話の中の登場人物かと思いきや、実在の人物(?)だというのです。井上内親王と他戸親王は廃后・廃太子になった後、五條市のこのあたりに流されます。このとき母は懐妊していて、五條市西久留の産屋峰というところで出産したのだそうです。このとき内親王57歳。すげえ、神話の時代の話のようだ。生まれた子は2年後「母の仇を討つために」雷神になったという。(本当はこの子がどうなったのかは不明)
「なぜ付近に21社も御霊神社が作られることになったのか」ということですが、嘉禎4年(1238)に土地の豪族の吉原氏と牧野氏に諍いがあり、それが原因で神社は分祀されたのだそうです。とはいってもこの時の争いは、何を争ったのかが不明なんですって。(なんだそりゃ)。鎌倉時代に10社に「宮分け」が行われ、江戸中期までに21まで増えたのだそうです。「当地の祖先は、やんごとない内親王親子のご不幸に、心から哀悼の誠を捧げ、ご冥福を祈り、崇敬の誠を捧げてきた。其の願いが、身近にお祀りしたいという思いとなり宮分けに発展したと考えられる」
おもしろい… おもしろいけど、解せぬ。(史上こんなに求められた祟り神の人がいたでしょうか… あ、菅公(学問の神)がいたっけ。井上内親王にも何か霊験があるんでしょうか)
ちょっと時間をかけて境内を歩き回り、いろんなところを覗き込んだりパシャパシャ写真を撮ったりしてしまいました。
さて、時間は14時半過ぎです。お腹が減ってきました。実は五條市は柿の葉寿司の名産地で、随所にお店を見かけたりしたのでした。
3年前に大塔村と長慶天皇と前鬼の里巡りをしたときに十津川の道の駅で食べた2種類の柿の葉寿司がおいしくておいしくて、ぜひお土産に買って帰りたいと思っていたのですが、一方で昨日の経験から「京都奈良のラーメンチェーン店をもうちょっと追求してみたい」「奈良周辺のラーメンチェーンのバリエーションは凄いと思う」とも思っていたので、柿の葉寿司の前に五條市でラーメン屋を食べたくなったのでした。ところが探すと一軒も見当たらぬ。くそぅ、求めてないときにはにょきにょき出てきやがるくせに、と思って御所市に移動。そうしても運が悪くて全くラーメン屋に行き当たらず、更に橿原→天理市へと移動。さすがにようやくラーメン屋がたくさん出てくるようになりましたが、既に時間が悪く、15時半を過ぎてたら閉じている店がほとんど。
「失敗したな、まもなく17時だし、メシを喰うことを諦めて、石上神宮へ行って、その後食べるか」と思ったところ、神宮の手前で折良く開いているお店を見付けました。
天理スタミナラーメン彩華の本店! 寄ってみたかったんだ。ちょうど数日前、浜松で私が最も良く行くラーメン屋さんの店主が、このお店のことを話してくれてたんですよね。なんというタイムリー。
サイカラーメン(小)モモチャーシュー入り(880円)を注文。
おおう、素晴らしいニンニクの香り。
…って、彩華はスタミナラーメンを名乗ってないんでしたっけ。
さっそくつるつるとスープをすすりますと、(すでに熟知している味ですが)すっごい好み。
逆に麺はあんまり好みじゃないんですが、それにしても旨い。
と、勢いよく食べ干そうとしたんです。ところが何か体調に異変が。
あれ? なんか息苦しい。息が出来ない。これって喘息ですよ。なんでいきなり。
いや、そういえばさっきから運転中若干呼吸がしづらいような気がしていたんですが。
だから、元気が良かったのは一口目だけで、あとは急激に悪化する息苦しさと戦いながら麺を啜ることになってしまいました。
これがまた、ラーメン(小)のはずなのにサイカラーメンはかなりなボリュームで、とても苦しかった。
啜るのが死ぬほど苦しひ。
とほほほほほ、折角のラーメン行脚がこんな始末になってしまうだなんて。
わたくし、15年ぐらい前に奈良の山の中のお店で天理ラーメンを食べたことがあるんです。その記憶が、自分の中で判然としてないんです。「天理スタミナラーメン」だったのか「彩華」だったのか、あの忘れがたい記憶と照らし合わせたかったのにー。麺を食べ終えるだけで精一杯で、しまいには味なんかわからなくなっていました。ごめんなさいラーメン屋さん。
またいつか必ず再挑戦しますからね。
息も絶え絶えになって石上(いそのかみ)神宮へ。
ここへ来たのも数日前のラーメン屋さん店主との会話から。私が歴史好きだとは私の顔を見れば分かってしまうものなのか、なぜかいつも歴史話をたくさんしてくださるラーメン屋さんです。店主さん的には一番凄い神社は美保神社(祭神;事代主)で、定期的に出かけるんですって。私は美保神社にはまだ行ったことが無いんですよね。でも、店主さんの話を聞いていると、「いつかいかねば」という気になってくる。本当に「何かある」感がすごいんですって。
でも美保神社と同じようによく行かれるという神社が石上神宮なんですって。ほぼ毎年行くと言ってらした。石上神宮だったら私も行ったことがあるし、本でもいろいろ調べてますから話を合わせることもできます。ほら、あたし偽物部麁鹿火だし。
が、体調のせいでふらふら~~
石上神宮はすごい神社なのです。でも、一番凄いといわれるのは「何も無い」禁足地(御本地)というところ。参拝客は多いのですが、あまり観光地化されていなくて、境内に説明版もほとんど無いので、一見さんには何がすごいのかわかるまい。ここを訪れるのは「この神社が凄い」ってことを知っている人だけなんですね。
が、せっかく来たのに今の私にはいろいろ見廻るような余力も無く、お賽銭だけ投げ込んで力無く去るしかありませんでした。
ほらアレですよ、今の私にこそ必要な呪文。
ふるべゆらゆらとふるべ~~(←死者を蘇らすことすらできる謎の呪文。十種神宝が必要となります)
あれですね、五條市で御霊神社の中を歩き回ってからいきなり体調が悪くなったのですから、なにか井上内親王様の怒りを買うようなことをしてしまったんだと思います。(心当たりがいっぱいあったりして)。実は、今後どうするか決めてなく、御所市の周辺にはまだまだ見て回る予定の箇所がいっぱいあって、「あと2泊ぐらいしようかな」ぐらい思ってたんですが、何かもう駄目な気がして、帰宅することに決めました。呼吸は苦しくても車の運転はできるんですね。
来た道とは違う道(伊勢湾岸道と国道一号)をびゅんびゅん飛ばして、22時ぐらいには浜松に帰着しました。そのあと2日ぐらい息苦しさに苦しみました。(失業者は保険証を持っていないので病院には行けないのです)
でもおかしいな、私は「京都に行こうかな」と思って旅立ったはずなのに、思い返すとほとんど京都で何も見ていない。
(それは貴船神社で「西は凶」と言われたからだ)
(「病は重くなるが治る」とも言われた)
近いうちにまた京都に行き直して素敵な滞在をしてやる、と強く誓いました。
とっぺんぱらりのぷう。どっとはらい。えんつこもんつこさげすた。
(…おしまい)
※おおおおお、書き終えた!!!!
この手の記事を私が最後まで書き終えたのは初めてではないでしょうか!!!!
ちょっと感激しております(1ヶ月半もかかったけど)