永井路子の「北条政子」をそのまま漫画にしたような少女マンガです。
よかったよかった、私はもう旅行記を書くのをあきらめてしまったのかと思った。
9月8日~10日にかけてした安房半島旅行記の3回目です。1回目と2回目も読んでネ。
さてさて、鋸南町勝山にある頼朝上陸地までようやく辿り着いたわけです。
残念ながらこの日は曇天で、岬に立って遠くを見晴るかしてもほとんど何も見えない。
私が一番気にしていたのは、「房総半島から伊豆半島はどのくらい見えるか」ということでしたが、三浦半島すらぼんやりとしか見えない。残念。
波、、っていうか潮の流れはけっこう荒いみたい。
さて、鋸南町の頼朝上陸地といったら、「頼朝様とツノ無しサザエ」の伝説が有名です。
はるばる安房の海岸に着いた頼朝様は、喜び勇んで小舟から砂浜へ飛び降りたのですが、たまたまそこに活きたサザエが転がっていて、その角が頼朝様の足を貫き、重傷を負ってしまったのだとか。怒りに狂った頼朝様は、「以後この海岸の栄螺には角を生やす事を禁ずる」と命じたという。そのサザエを見てみたく思って、行く前には「伊豆の港町みたいにその場でサザエを焼いて食べさせてくれる店が道路沿いに何件もあるんじゃないかな~」と気軽に考えて行ったら、そんなお店は無かった。(シーズンオフだしね)
「だったらば」と、伊豆での海岸町暮らしが長い私でありますので「こういう町だったらば、サザエの殻なんてのは適当に道ばたにいくらでも投げ捨てられているモノ」と思い直して、適当にそこら辺を歩き回ってみます。
こんな感じ。
ツノが、、、、 ある(笑)
あれですかね。ツノのないサザエは「頼朝様の栄螺」として希少価値があったりして神棚などに飾られて、こんな風に道路端に転がしたりしないものなのかも。一応、ネットで検索したらこんな感じだったんですけどもね。
(※参考);http://gaia-gear.at.webry.info/200907/article_6.html
また勝山海岸でのこの「サザエ伝説」と並ぶ、「頼朝様に与えられた変な名字伝説」のことですが。
上陸するときに手伝ってくれた村民に、頼朝様が感激して「あなたに安房一国あげます!」と叫んだところ、聞き間違えた村民が、「粟一石なんてすぐになくなっちゃうから、それよりも、私たちにありがた~い名字をください」と答えたという。それを聞いた頼朝様は「そうか、バカだなぁ」と言ってそれを姓として与えたという。
というもの。
・・・・・われらが頼朝様はそんなに意地の悪い君主じゃなかったぞ。
伊豆にだって以前に紹介した大鍋・小鍋のようなエピソードがあったりもしますが、逆にむしろ彼とは伊豆韮山の餅売り婆の伝説とか吾妻鏡の土佐坊昌俊の母の逸話とか、受けた恩は決して忘れず篤く報いるお人だったのです。悪意で応じるような事は決してしない。この昔話はどこかでねじ曲げられているように感じます。大体、安房を目指した理由の大きなもののひとつは、「ここには頼朝の幼馴染みの安西景益がいた」からじゃないですか。人の土地を勝手にあげてはいけない。
たとえば、ネットで検索すると、「ある村人が神社に「房総の将兵が左右から加わって頼朝公を助けてくださいますように」と祈願したということを聞いて、のちに頼朝が喜んで“左右加”の姓を賜った」とか、「村人が舟で上陸したばかりの頼朝に、東国一の駿馬を奉った。頼朝はこれに対して“馬賀”という姓を与えた。この馬がのちの池月である」とかいう物も散見できます。
この「そうか」と「ばか」が有名な例ですが、竜島七姓と言われる「菊間・柴本・中山・久保田・鰭崎・生貝・松山」も頼朝が名付けたものだそうで、これがどういう意味を持つ由来なのかも知りたいですね。
さてさてさて、それはそうと一番大事なこと。
「ここって本当に頼朝様が上陸した場所なのか?」を次に考察してみたいと思います。