オセンタルカの太陽帝国

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柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

西伊豆の伝説の中にいる源頼朝の正体。

2015年12月17日 18時16分28秒 |   源頼朝


12月1日・2日に行った松崎旅行の日記の続きです。 まつざき荘は元・国民宿舎でして、また宿泊料金も安かったのです。
そして、公式サイトおよび館内案内はやたらと追加料理推しなので、「こりゃ夕食の量が少ないんだな」と思いました。
ま、わたしはもともと胃のコスト性能がA級な方です。だから「その方が夜中に飲みに行けるからいいやな」と思ったのですけど、念のために調べてみたら松崎って飲み屋ってあるの?と心配してしまうくらい居酒屋情報が少ない。隣町の仁科にまで歩いて行けば、懐かしい串特急があるんですけどねえ。
「こりゃ、夕食時間をできるだけ早くして、夜の早い松崎の町のどこかで一人二次会をしよう」と思ったのですけど、16時前ぐらいに宿に着いてチェックインしてみたらば、この宿の夕食時間は18時一択で所要時間は約2時間なんですって。終わっちまう、そんなに時間を掛けていたら松崎の夜は終わってしまう。

・・・というわけで、夕食の前に一人二次会を試みることにしました(笑)



行きましたのは「西伊豆唯一の回転寿司屋」だというこちら。珍しい地魚の握りがたくさんあるという。わたくし魚好きなんですけど、マグロが比較的好きではなく、あんなに好きだった鰺も最近あんまり食べなくなっている。
5時開店(それまで懐かしい松崎の聖地エル・ピーノで時間を潰していました)。本日のメニューはこんな感じでした。



オシャレなメニュー
このお店の素敵な所は、ほとんどのメニューが1貫ずつ出てくること。空腹状態でこれだったらムッとするかもしれませんけど(値段はそこそこだし)、でも今日の私はこのあと宿での夕食を控えてますので、大歓迎でした。
でも記録を取ってなかったのでどれをどの順番で頼んだかさっぱり覚えていません。カメラの中の写真を見てもどれがどの魚なのかちっとも分からぬ。
通風なのであんきもとかしらことかうにとか食べられず、生の貝は好きではない。アレルギー持ちなのでウチワ海老も避けたのですけど、昆布〆ホウボウが食べられなかったのは残念でしたな。
写真に撮らなかったのもあったみたいなのでもうよく分かりません。

今の私から推理するに、このホワイトボードを見て私が注文したであろう順番は、
「端金目(ごそ)」「「沖鰖(おきたかべ)」「活〆鮃(ヒラメ)」「縞鰺」→「煮床節」→「金時鯛」「金目鯛」「太刀魚」→「本鰆」「ヤリイカ」「蛸」→「端金目」「縞鰺」→「縞鰺」って感じかな。

写真はカメラに入っていた順番で並べますけど、ほんと写真だけ見ても何の魚なのか浅学すぎてよく分からない。













伊豆から浜松に越してきて一番痛恨なのは、サザエとかトコブシとかが食べられなくなったこと。トコブシ、、、、トコブシ、、、 懐かしいよう。(560円でした)。小さい物から順番に大きい物まで揃えられていて5個。この写真は遠近法の魔術を使いましたけど、手前の物が一番小さく、一番奥のはそれなりに大きかった。トコブシは大きさによって食感が違う。







この魚はシマアジで、



この魚もシマアジですな。

どの魚を見ても美しい。写真以上に魚の味は魚ごとに違いが際立っていた気がしますよ。(今となってはもう覚えてませんけど・・・ ※この文章を書いているのは23日後です)

店の奥の席に店主らしい横柄な感じの人が座っていてパソコンでぱちぱちやっていて(←けどサイトを見ると、こだわりを持って毎日の魚の選定をしているのはこの人だという)、握ってくれたのは優しい感じの若い人で、その人がショーケースの中から魚を理出して斬って握っていく様を見ているのは楽しかった。とりわけ縞鰺が美味しかったので3回ぐらい注文したら、とても楽しそうに縞鰺の美味しさの秘密を語ってくださったのが楽しかった。実は縞鰺の旬は今ではなく、真夏の頃の縞鰺はこれよりもさらに、溶け出すくらいの上品な脂が美味なんですって。
縞鰺を日常的に食べられるお店を近所で欲しいな~。大好物の真鰺とは全然違う味です。そういえばこのお店の真鰺は食べなかった。(高かったからかな。逆に食べてみるべきだったのに)

お会計ももう覚えてませんけど、生ビールも3杯ぐらい飲んで4千~5千円ぐらいだったと思います。この後の夕食分の胃の余地の計算をした上で、このお店を後にしました。
おいしくて楽しかったです。また来よう。

そして宿に戻って夕飯です。



おお、理想的な見た目。
今日のおっちゃんはこのくらいでいいのですよ。



白身魚のソテー。なんの白身魚なのかは聞き忘れました。



右端の淡泊な色の魚が何なのか気になるところですが、聞き忘れました。
生の甘海老も普通に食べちゃいました。最近の私には海老の禁忌が無くなってしまってる気もします。(まだよく分からない)





この宿、なんか異様にキビナゴ押しなんですね。松崎の名物なんでしょうか。追加メニューにも安価なキビナゴ料理が並んでいたのですけど、すでに今日の私の腹にはそれを迎え入れられる余地はもう無さそうだったので、断念しました。キビナゴって西海にすむ魚で私には九州のイメージがあるんだよな。実は伊豆のあたりが北限だという。



寄せ鍋。金目鯛と渡り蟹が入っています。



揚げ物。カボチャの向こう側には桜海老の小さなかき揚げがあって、美味でした。

総じてこんな感じだろうな、という感じ。
最後にオマケで西伊豆名物トコロテンが出てきたのですけど、あまりに腹の中の余地が無くて、とても苦心をしました。若い頃の私はなぜかトコロテンが嫌いだったのですけど、今の私は空腹だったらおいしいと思うでしょう。




源頼朝にまつわる本を何冊か持ってきていたので、それを適当に読んで適当に寝たら即座に朝。
朝食です。



まつざき荘の朝食はノルマン式です。
写真だけだと何の変哲もなさげに見えましょうけど、実はわたくし的には夕食よりもこの朝食の方がより感銘が大きかった。すげーほどよさ。種類が多すぎるわけではないけど少ないとは到底言えない。ああ、空腹だったらもっと食べるのになあ。連泊したい。ベーコンとかスクランブルエッグとかはありきたりですけど、魚類が充実している。干物・揚げ魚数種・煮魚・お薩摩がありましたよ。

下の写真で赤いのはマグロのすき身ですよ。山葵漬けも岩のりも蒲鉾も伊豆じゃなかったらわざわざ買って食べないですものね。



朝9時ぐらいに出発しました。
まず向かったのは宮内村にある「伊那上神社」。むかしは町の中心部の最重要地だったろうと思われる場所にある古社です。
この神社、どこかで「源頼朝と関係がある」という記述を目にしたので。



なんの変哲も無い地味な見た目なのですけど、立派に式内社のひとつです。(※伊豆は式内社が不自然に多い地)



扁額には変な字が使われています。「上」の字に注目ね。

『伊豆の頼朝』より。
「この神社は天正18年、豊臣の伊豆攻略軍のため焼打作戦に遭い社宝記録を一時に失ったといわれているが、幸いにも宮司金指靖夫家には治承5年(1181)以降、正中・文和・応永・宝徳の古文書を蔵しており、更に同家系図の中に次のような注目すべき記事もある。

   「号伊豫守承安3年源頼朝公御参詣大明神
     時義 法名善義居士」

また、『豆州志稿』の伊那上神社記事の中にも、「往昔源頼朝社田を附し、爾来将軍の崇敬浅からずと云」と述べている。『南豆風土誌』には、「源頼朝の社田を寄進するや、爾来将軍の尊信浅からず、神地5百石を領し、宮殿宏壮、末社80有余を有して西伊豆第一の宮居たりき」と記されている。


社頭の案内板より。
「祭神・・・積羽八重事代主神

社傳に依れば當社は第五拾貮代嵯峨天皇弘仁8年(817)伊豫國越智郡三島より遷座したと傳えられ、また伊豆國國府三島より遷座したと傳られる。
 文治元年(1186)の文書に仁科荘那賀郷三島宮、正中貮年(1346)の文書に三島大明神、慶長拾参年(1608)時の金山奉行兼伊豆代官大久保石見守が寄進した金燈籠には仲神社とほりこんである。昔は三島大明神、三島宮または仲神社といわれたのである。
承安参年(1173)源頼朝當社に参詣され社田を寄進したので其の後は将軍家の尊嵩が厚く、神領五百石を領し宮殿廣大荘厳末社八拾有餘を有し西伊豆第一の大社であったが、天正年間の大火に遭い時の社司金差義長四拾餘社を再建して従来の大社の面目を保ったが、續いて間もなく慶長年間に再び火災に遭ひ、壮麗の新宮殿、本社、拝殿、社寶、舊記、等一宇も餘さず全焼したがなお貮拾石の御朱印地を賜わって大社の面影を今も傳えている。
上宮とは慶長五年(1600)の神領附の古文書が最初である。
 次に現在の伊那上宮という名の現存しているものでは 正徳貮年(1712)の棟札が最初で唯一神道祭官・従五位下金指伊賀守義治が署名して豆州那賀郷大鎮守也といって従来の伊豆の五大社の面目を傳えている。

當社所蔵文化財
 一、 神像
 二、 神鏡 経塚から出土した鎌倉時代中期の和鏡
 三、 古文書
 四、 金燈籠 大久保石見守が寄進したとの金燈籠は我國の當代工藝美術の標本となっている貴重な文化財である

                             昭和参拾壹年拾月拾七日縣指定文化財」

おもしろいことがたくさん書いてある。
別の式内社である「仲神社」は別の所にあることになっている。(長安が知らなくても仕方が無いが)
私の仮説では三嶋大社が現在地に移ったのは平安最後期としてるんですけど、この地域と三宅島・下田白浜との関係はどうなってるんでしょうか。
ちなみに「伊豆の五大社」といったら一般には「三嶋大社」(三島市)、「伊古奈比命神社(白浜神社)」(下田市)、「物忌奈命神社」(神津島)、「阿波神社」(神津島)、「楊原神社」(沼津市)。
伊那上神社の「伊那」の字はどこから来たのでしょうか。(※一説には猪名部氏に由来していると言われる)。もしかしたら「那賀」も「伊那」に由来があるのかもしれませんけど、宮司の一族が「金指氏」というのは何か意味ありげですよね。
「経塚から出土した鎌倉時代中期の和鏡」というのは、「源頼朝が寄進した国宝の鏡」なのかな。(そんなのが地中から出てくるのはおかしいかな)
さかんに書かれている「承安3年に頼朝公が社田を寄進した」という記述ですけど、承安3年というのはまだ頼朝が人質生活を送っていた頃(=伊豆に流されてきて13年後、山木館襲撃まであと7年)ですから、本当にそんなことが出来たとは思われない。ただし、伊豆の伝説の中で「文覚上人が後白河法皇の怒りを買って伊豆に流された年」というのが「承安3年(1173年)」とされています。

と、せっかくの頼朝遺跡なのに来てみてもほとんど頼朝公の香りは嗅ぎ取れない場所でしたが、まぁいいんです。
そんなことより、境内はよく見てみるとすこしずつおかしい点があります。

拝殿の後ろに本殿があるのですけど、拝殿と本殿はつながっておらず、その本殿の前に(隠すようにして)新しめの狛犬が置いてある。ふつう狛犬は拝殿の前にある物だと思うが(でも狛犬にはルールがあるわけではない。)踏まれている仔イヌがかわいいですね。



で、問題はこいつらです。







こういうのが目立たぬようにして何ヶ所かに分けておいてある。
なんだこれ。どうしてウサギなんだろう?
大久保長安の金燈籠はどこにあるのかわかりませんでした。

そこを去って、次に向かったのは「相生堂」です。
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富士山を賞めるな。

2015年12月03日 01時30分45秒 | 伊豆の歴史


餃子記事にまだ手を付けてもいませんのに後免なさい。
連休をもらったので伊豆に行ってきました。2年ぶりだよ2年ぶり!
かつて私がこれほど伊豆と離れていたことがあるだろうか!

今回の目的地は松崎町です。



が、西伊豆に行くには伊豆の国市を通らないとならないため、仕方の無いことですけどいつもおきまりの聖地巡礼をしてしまうのです。これは儀式です儀式。大好きな物はいつまでもその場所にあるかどうか確認しとかなくてはならない。

まず行ったのは沼津市の狩野川の河口にある我入道(がにゅうどう)と牛臥山(うしぶせやま)。牛臥山っていつも脇から見ているのに、そういえば行ったことがありませんでした。



今回の松崎行きを思い立ったきっかけは2つあるのですが、その1つはこの本を読んだからでした。



伊豆半島ジオパーク推進協議会・監修『Izu 伊豆半島ジオパークトレッキングガイド 伊豆の山歩き海歩き』(静岡新聞社、2015年)
わたくしが伊豆を去った直後ぐらいから、ジオなんとか的な本がぽつぽつと出版されるようになりました。私の伊豆に関する興味はあくまでも歴史で、ジオなんとかについては知識も関心も無く、でも生物史には少しだけ興味があるから手には取ったり取らなかったりしていたのですが、今年の1月ぐらいに出版されていたコレ。凄く伊豆に行きたくなる一冊でした。
伊豆は基本的に岩だらけですからどこにいっても崖がむき出しになっているのですが、その岩はだ一つ一つにも歴史があるということになると、そんな話。



牛臥山は牛が寝ているような形に見えるからこの名前なんですが、遠景撮るの忘れちゃった。



新しく設置されていた看板が素晴らしい。なんとわくわくする説明か。



こんな景色も伊豆じゃよくあるものだから以前はなんとも思わなかったのだろうけど、溶岩がどういう風で吹き上がればこんな形で何十万年後に残るんでしょうね。(この屏風的な溶岩の壁の向こう側にはむかし大山巌の別荘があったそうで、そっちのプライベートビーチ的な雰囲気の方が明治好きの好奇心をそそりますけど)



牛臥山の反対側にある大朝神社。さっきの看板には「日蓮聖人が津波退散の祈祷をした」と書かれていて、それに由来して“潮留明神”と呼ばれているそうですけど、そんなことよりこの神社は「式内大朝神社」の論社の一つである極めて古い神社だったのでした。(そのものズバリな名前であるに関わらずこの神社が“論社のひとつ”(Wikipediaによると有力候補が別にある)扱いなのは、すぐ近くにある楊原神社(延喜式では明神大社)とこの神社が密接な結びつきを持っていて、こっちの神社の方が完全に従属するものと見なされているせいか、もしくは楊原神社の祭神が大山祇・磐長媛・木花咲耶媛なのに対してこっちは大日靈賣(=天照大神のこと)なのが却って中途半端だと思われるからでしょうかねえ)。由緒ありそうな神社なのに境内には説明案内が全く無く、何が大きな朝なのか、詳細が分かりません(そもそも私は「源頼朝に関係があるんじゃないか」と思ってここを訪れたのでした)。思うに日蓮伝説以前から地形的に、津波があった時などに牛臥山に登る道(登れる道があるのかどうか知りませんけど)の入り口にあるところに作られた神社でも水や岩と深い結びつきのある物なのじゃ無いでしょうか。日蓮は正嘉2年に富士市の實相寺に遊びに行った時(←円珍の手になる一切経を見に行ったという)、途中沼津の村々が津波の被害で苦しんでいるのを見て、何ヶ所かで津波避けの祈祷を行ったという。大朝神社のすぐ近くに「日緬寺」という名前の日蓮宗のおもしろそうなお寺があって、「ミャンマーと何か関係がある?」と思ったんですけど、中に入らなかったのでよくわかりません。(←※サイトを見るとやはり日蓮とビルマとお酒が関係あるお寺のようです)



そこから富士山を見に狩野河原へ。沼津市から見る富士山は、手前にある愛鷹山が邪魔をしてよく見えないもどかしい感じがもやもやと募るのですけど、愛鷹山だって実はとても素晴らしい霊山なのです。いづれ体調を整えて登ってみたい。



我入道の岸辺。脇にある小山に変なお城みたいな小さな建築物があったので「なんだあれ?」と思って近くまで歩いて行ったら、これはこれで由緒のある八幡神社の本殿だったりしました。これも昔は津波の待避所の所に建てられた神殿に違いない。我入道の渡しの付近は独特な味のある建物に溢れていて、沼津市の中できちんと貴重な観光資源になり得る場所だと思いました。


そこから韮山の反射炉へ。



ホロリ。いまいちよく意味の分からない韮山の観光の目玉だった反射炉が、こんなに人のごったがえす場所になってしまうだなんてなあ。世の中ってほんと意味が分からないよなあ。わざわざこんなの遠くから見に来て楽しいだなんて普通は思わないもんなあ。・・・もう世の中のもの全てを世界遺産に認定してしまえばいいのに。
久しぶりに来た世界遺産・伊豆韮山の黄金の反射炉は、脇にあった土産物屋は撤去されて駐車場になっており、駐車場からも良く反射炉のカメハメハ大王のような威容を眺められるようになっていました。隣接していた「地ビールレストラン蔵屋鳴沢」の施設は土産物屋が移転してきており、すさまじい人でごった返しておりました。「あれ、あの美味しい地ビールレストランは!?」と一瞬焦ったのですけど、土産物屋の奥でひっそりと営業してましたよ。・・・また時政御膳を食べに来たいな(あるかな)。

で、一番確認したかったのは、近くにあるあの変な太郎左衛門像です。



あった! あったよ9年前のままだ!



よかったよかった。

そこから山道を登って少しの所にある「頼朝の一句石」へ。



こちらは記憶にある物より少し姿が変わってしまっておる。(ツタが切り払われているだけか)
説明看板が朽ちて割れ落ちてしまっていますね。
そういえば「頼朝の一句石」って言いますけど、伊豆の頼朝伝説蒐集の集大成である『伊豆の頼朝~史跡と伝説~』(静岡県田方地区文化財保護審議委員等連絡協議会編、昭和54年)には、この岩のことは載っていないのでした。松尾書店の『史話と伝説 伊豆・箱根』と小山枯柴氏の『伊豆の伝説』にも載ってませんね。何に書かれてたんでしたっけ?

そこから韮山の時代劇場にある「韮山の英傑ステンドグラス集」へ。



こういうモニュメントは、効果的に作れば観光の目玉になれるはずなのに、全くじみーなのは逆に好ましい。韮山地区にはこういうのに溢れています。



そしてそこから昼食へ。



私がいつからラーメン好きだったのかよく分かんないんですけど、確実に一匹の鯨はその成立に関与してるんですよね。大仁の前に住んでいた下田でも宝来家とか吉田家とか大好きだったし、九州に住んでいた頃も久留米のラーメンとか平戸のアゴとか好きだったんですけど、一匹の鯨やさんって開店して9年なんですね。もっと前からあると思ってた。
開店直後に、「サッカーワールドカップで日本が勝ち続けている間は100円キャンペーン」というのをやっていたのを思い出しました。恥ずかしげも無く清貧だったわたくしは何度も100円ラーメンを食べに行ったなあ。そうそう、あの頃はかわいい娘さんがラーメンを作っていたんだった。



R30ラーメン(750円)と東京タコライス(280円)を注文。
一口目を食べると不思議に甘いんですけど、次第にどんどん生姜の味が口内を刺激してくる、それがとても美味しい生姜ラーメン。むかしに比べるとネギが多くなっててそれがジャマに感じ、また昔の写真と比べると春菊の量があからさまに減っているんだけれど、やはり9年の間にいろいろ試行錯誤して葱と春菊はこの量に落ち着いたんでしょうなあ。(茗荷と春菊はもっと多い方が嬉しい)。でも生姜の後味は鋭さを増していて、むかしより心地良い。



麺も思い出の中にあるのと少し変わっている気がしますけど(おそらく気のせい)、一匹の鯨の麺には独特な香りがあって、とても懐かしい。
一匹の鯨の一番素晴らしいのは後味で、じんじんした感じがこのあと松崎に着くまで続いたのでした。


そこから船原峠を通って西伊豆を目指します。
南国生まれのわたくしはついつい伊豆も浜松も気候が似たようなものだと思ってしまうクセがあってそれは9割方そうなんですけど、観光資源的に一番似ているのが紅葉についてなんですよね。伊豆も浜松と同じぐらい紅葉しない。(局部的な場所を除いて)。そんな伊豆の中で局所的な例外の一つが船原の峠だったことを思い出しました。船原峠の紅葉はとても綺麗でした。でも高速度で運転してたので写真が撮れませんでした。
そこから船原峠を土肥に向かっていく下り道の険しい山容もとても美しい光景だと思います。(すでに船原以下は南国なので紅葉は殆ど目立ちませんけど)。ここの光景も「写真に撮りたい写真に撮りたい」といっつも思ってるんですけど、やはり高速運転で駆け抜けるための道なので、十年来写真に撮る機会が無いのでした。船原の旧道から伊豆スカイラインに入ったところにある「頼朝の運試し石」も「8年前と同じ場所にあるかな」と確かめたく思って旧道に入ってみたんですけど、旧道のどこかで崖崩れが起こったみたいで「土肥には抜けられません」と書いてあったので、引き帰さざるをえませんでした。残念。

そこから一気に南下して、懐かしい西伊豆町仁科に入る直前に、右に入って浮島(ふとう)海岸へ行く。
西伊豆へ足繁く通っていた頃、この浮島海岸が一番大好きな地形と景色なのでしたのよ。



崖に挟まれた狭い海岸で、見る方向毎に景色が全く違って見所多いところが好き。
何年か前の秋に伊豆に大きな台風が来たとき、たまたま私はこの海岸にいてボーっと海を眺めてドラマチックな思いをしていたことがあったんですよ。






昔の絵(写真)はがき風に画像処理。



上空? この上に? この上に海底の火山があってそれがすべて波によって洗い流されたって話ですよね?
気の遠くなる話だ。



でも、こんな岩の模様にまでいちいち注意を持って眺めたことはありませんでした。

そこから小道をたどって田子の町へ。
田子の町は極めて複雑な形をしています。道を知らなかったら私の車ごときでは絶対進退に困る。その分味のある空気があるので、いつかくまなくゆっくりと巡ってみたいと思っていたのでした。だから今日の私は車の中に自転車を積んできてあります。(今日は松崎の町を巡るにして)明日は懐かしい田子の町の探索をしよう、と心に決めました。ついでに、浮島海岸から崖を伝って歩いてくる道の途中に承久の乱で伊豆に逃れてきた宮方の貴人の子の塚(“五輪様”という)もあると聞くので、それも見てみたいと。(・・・でも実際は翌日は時間が無くなってできませんでした)







田子はカツオの町なんですよね。浜松人はカツオが大好きなのです。田子には丸ちゃんの工場があって、そこも仕事で良く通っていました。だから今でも私はマルちゃん製品を愛好してるんだな。





そこから松崎の町へ。
今回松崎行きを決めた理由はコレでした。



少し前にhuluでこのドラマが配信されたのです。「懐かしいなー」と思って一気に観て、それで一気に松崎町に行きたくなった。
私は小さい頃からテレビドラマを見るのが大好きなのですけど、なぜか私の脳内ではこのドラマを観たのは1995年ぐらいのつもりでした。(作中の年代が1986年ぐらいだからだ)。でも本当は2004年の作品だったんですって。そんなに最近だっけ。

まずは牛原山に登る。
牛原山は236mですから登るのはそんなに大変じゃ無いですけど、頂上付近まで車で行くことが出来ます。仕事で松崎に通っていた頃は、この山にも毎週(仕事で)登ってたんでした。
牛原山と牛臥山って何か関係があるんですかね。伊豆って赤牛伝説の豊富な土地だった覚えが。



が、この山、車用の道路は長くて、麓から足で登ってくるのは意外と大変ですぞ。足で登る用の近道が別にあるのかな。


そこから松崎港へ行って車を停め、愛車のトリクロロメタン号(折りたたみ自転車)を取り出して松崎の町の中を走り回ります。



瀬嵜神社。
小さな神社で何の神社かの説明板も無いのですが、社頭の額に「正一位瀬嵜神社」と書かれています。
「正一位とは大きく出たな」と思ったのですけど、家に帰って調べてみたら、お稲荷様のおやしろだったのでした。
お稲荷さんだから正一位なんですね。
ウィキペディアによると、「本社(伏見稲荷)と関係が深い稲荷は全部“正一位”を付けて呼べ」と命じたのは建久5年の後鳥羽天皇だったそうで、それは伏見稲荷に相伝された伝説に基づくと言います。でも松崎のこの瀬嵜神社、おきつね様を思わせる物が全く見えません。



浜丁橋。



















やべえ、松崎の町、ものすごく楽しい。
特になまこ壁の家が無造作に点在する様は下田市を上回っているのではないでしょうか。松崎町の素晴らしいところは、細部のささやかな物に対して再開発される必要がまったくなされなかったという所です。さすが伊豆の僻地。浜松だったら悪い意味でどんな奥地でも即座に破壊されていただろうものばかりです。
TBSのドラマも当たり前の事ですけど、ノスタルジックに見える箇所だけを選んで撮影しているので、あのドラマの中にある町並みがそのままイコール松崎だってわけでもありません。だって、個性的な松崎近辺の海辺の景色って、殆ど出てきませんでしたしね。別に松崎だから成立したノスタルジックなドラマ、というわけでは無いようです。
そもそも松崎には鉄道が走ってませんし。
(松崎や土肥で「駅」って言ったらふつうバス停のことを指す、って以前言ったことがあるな。そういえば「土肥駅」は臺灣料理屋に変貌してしまっていました)
むしろ普通の家々の中に古くさいなまこ壁が取り残されるように点在している、それが住みやすい町かどうかは別にして理想的な景色となっている。
松崎の町はつくづく楽しい。
10年前の私の記憶の中にある町とほとんど同じなんですよね。



そして、町が運営する博物館的な施設である「明治商家 中瀬邸」。



たまたま自転車で走ってたら行き会ったから入ってみただけなんですけど(入館料100円)、ここがひたすら楽しかった。
「中瀬邸」と言いながら正式名称は「旧・依田直吉邸」だそうで、どうしてこの建物のことを「中瀬邸」と言うのか誰も知らないそうです。
「中瀬」というのは地名でも無いとか。
松崎で依田氏といえば「依田勉三」「依田左次平」「依田四郎」などが聖人としてあがめられていて、由緒正しい支配者の一族なのですけど、この「中瀬邸」の依田直吉はおそらく庶流で明治の初めに成金になったみたい。そういう成金的な事情が随所に感じられる建物の細部の意匠がとても楽しい建物だったのでした。(豪華で堅牢な防火蔵の作りが一番おもしろかった)
個人的には依田さんには富士市のあたりでたくさん会ったことがあるので、富士的なイメージの強い名字だったのですが、松崎町の依田さんは源義仲の末裔を名乗っていて天正10年に江尻湊から移ってきたという伝承を持つそうです。(※信濃の依田さんはふつう源為公(みなもとのためとも)の裔を名乗る)。浜松とゆかりの深い依田信蕃とは同族の別流らしい。
で、この中瀬邸の離れが「松崎町ロケ地資料館」になっていて、そこに(おもに『世界の中心で愛を叫ぶ』の)いろいろな作品の小物の展示をしていました。もちろんわたくしは同作が目当てで同町に行ったのですけど、松崎を舞台にした作品って他にもたくさんあるんですね。家に帰ってからhuluに佐藤健の『とんび』もあることを知って、一気に観ました。(『世界の中心』以上に西伊豆が舞台であることに意味があまりない作品でしたけど、この日ふと行った牛臥山の大山巌の別荘跡地が主要なロケ地だったことを知って、びっくりしてしまいました。惜しいことをした、もっと写真を撮っておけば良かった)



で、中瀬邸に付属している豪華なコテ絵のある蔵は、「ジオなんとかの案内所」(※無人)になってまして、これも内部は見応えがありましたよ。


ちょっと巡っただけのつもりで1時間半が経っていました。予定より時間が経つのが早いです。
これは全然時間が足りませんわ。
残りの探索は明日に回すことにして(←果たせませんでした)、一旦宿に向かうことにしました。

本日宿にすることにしたのは、町営の「伊豆まつざき荘」です。海に面していて景色がとても良さそうだったから。
宿泊費は一泊10,260円(税込)。



まつざき荘は「夕日のよく見える宿」だそうで、部屋に入って外を眺めますと、さすが。



で、窓から右下を見ると、「弁天島」という名前の小山があったので、そこに行ってみたくなりました。
弁天島はむかしは島で「巨鯛島(こだいじま)」と言ったんですって。



島は小さいのですけれども、さまざまな形の石が組み合わさっていて、とても見所が多いです。
ぐるりと一周して歩ける遊歩道が作られていて、とても楽しい。このような島も伊豆には何ヶ所もあるものですけど、ジオなんとかなんてものには私は興味を持ち合わせていなかったからかつては「伊豆っぽい景色だなー」ぐらいしか思わなかったな。
ジオヘリテイジに興味を持つようになると、小さな岩ひとつひとつの形が非常に面白い。
・・・が、すでに光量の足りなくなる時間にさしかかっていたので、(写真はたくさん撮ったんですけど)ほとんど私のカメラは役に立たなくなっておりました。あの洞窟の写真が欲しかったのに、残念。



この細かい石が固まってできたような巨岩(こういうのもさざれ石と言うのかな)がこの島の構成物で、見た限り触ったらぼろぼろと崩れてしまいそうに見える岩ですが、実際はすごく硬い。またこういう岩とは別に巨岩もごろごろしていて、「こりゃ確かに信仰対象になりそうな島だ」と思いました。ちなみにこの島の別名が「巨鯛島(古代島)」というのは、ここが黒鯛釣りのスポットであるからのようです。



島の裏側(まつざき荘のある側)からは99段の石段があって、それを登ると大永5年(1525)に勧請されたという厳島神社があります。この山の頂上付近の景色も足下の岩の様子もこれまた面白い。(本当は植生も面白いのだそうですが、それは現在の私でも全く興味が無い)



もう暗くてブレブレですけど、とても面白い形をした神社です。
こんな変な形の神社ってある? 拝殿(?)前には白い玉石が敷き詰められています。
また、軒先には(よく見えませんでしょうけど)変な飾りが。




伊豆まつざき荘から見る夕日は、確かに見事でしたよ。





(・・・つづきます)
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