くノ一その一今のうち
さあ、あちらに。
杵間所長は、いくつもあるセットの一つを指さした。
セットたちは撮影に都合がいいように立てられているので、てんでんばらばらの方角を向いている。大方は、横向きや後ろ向きで、なんのセットか分からない。
そのセットも後ろ向きで、ベニヤ板に寸角の骨組みが剝き出しになって、ケーブルやコードが床を這い支木の人形立てにまとわりついている。
「あら」
思わず声が出てしまう。
表に周ると、そのセットは二間続きの洋間。広さの割に写るところだけ作られた天井は低く、大小四つのテーブルの上には本やら地図やら、怪しげな、意味ありげなアイテムが乱雑に置いてある。
「ベイカー街221Bのセットです」
「ベイカー街……シャーロックホームズですね」
「ええ、ワトソンといっしょに住み始めたころの、シリーズ初期のホームズのアパートです」
「ホームズをお撮りになるんですか?」
「いつか撮りたいと、セットを組んでみたんです。将来的には『怪人二十面相』や『少年探偵団』なんかも撮りたいんですけど、そのためには本家本元のホームズをと思いましてね。いやはや、まだ脚本も上がっていないし、役者も目途が立っていません」
「でも、なんか本格的……あ……なんかいい匂いがしますね」
「ホームズはヘビースモーカーでして、一説では大麻やコカインとかもやっていたようなので、まさか本物は使えませんが、調合してそれらしい匂いをさせています……ちょっとくどいですね、窓を開けましょう」
窓を開ける杵間所長。
ガチャリと窓が開くと、とたんに街の喧騒が飛び込んでくる。ドアの外ではアパートの住人が階段を上り下りする気配がして、空気までが生き生きしてくる。
振り返ると、入ってきた方も完全に壁ができていて、照明器具がいっぱいぶら下がっていた頭上も、アパートの天井になっている。もうセットではなく完全にシャーロックホームズの世界になっている。
ええ?
窓の外も書割ではなくて、本当に倫敦の街と空が広がって、まるでVR、いや現実の世界だ。
「これがキネマの世界なんです。観たいもの観せたいものに渾身の力を注げば、こうなります」
すごい、これは忍術に通じるところがあるかもしれない。
「そのいちさん、こちらに来ると、すぐに撮影所の周囲を走って様子を探られたでしょ」
う、見透かされている。
「どうでしたか、撮影所のことはつぶさにご覧になられたでしょう?」
「はい、役目の一つですから」
「でも、どうですか、撮影所の周囲の様子はご覧になれましたか?」
あ?
そう言えば、撮影所の中を調べるのに夢中で、その外側と言われると、道が傾斜していたことと崖があったことぐらいしか思い出せない。
「……どうやら、外の風景はお目に留まらなかったようですね」
「はい、忍者としてはお恥ずかしい限りです(-_-;)」
「いいえいいえ、それがわたしの狙いですから。そのいちさんには申し訳ありませんが、ちょっと嬉しいです」
ちょっと癪だけど、面白くなってきた。
「それで、木下家とのことではご協力願えるんでしょうか?」
「むろんです」
「えと……」
「なぜ、鈴木家に肩入れするか……ですね?」
「あ、はい」
「ワクワクするじゃないですか。この大阪で忍び同士の戦いが繰り広げられるというのは」
「え?」
「活動屋は、ワクワクするのが好きなんですよ。ワクワク、ハラハラ、ドキドキというのは原動力です。そのために、この撮影所は外部とは完全に切り離されています。ここから出撃して、勝っても負けても、ここに戻ってきてください。敵は、キネマ橋からこっちには入れません」
「はい」
「この東洋一のスタジオには想像力の翼があります。想像力があれば、敵の正面を突くことも裏をかくこともできます。そのいちさんや、そのお仲間のワクワク、ハラハラ、ドキドキは、傍で見ているだけで我々活動屋の活力になっていくんです」
「はい」
「フフ、まだ腑に落ちないというお顔ですね」
「あ、いえ」
「そのいちさんを目の前にしていると、なんだか、有能な新人女優さんを見つけたような気がします。期待しています」
「ありがとうございます」
「お部屋は本館の二階に用意しています。『に』の字の縦棒の真ん中のあたりです。食事は一階に食堂があります。突き当りに購買がありますからご利用ください」
「はい」
それから、撮影所のあれこれや、近隣のお話を楽しく聞かせてもらった。
パッと見は、そこらへんのおじさんという感じなのに、喋らせるととても面白い。これも、映画という創造の世界に居るからだろう。
「では、そろそろご案内しましょう」
「はい」
立ち上がったとたんに、ベーカー街のアパートは、セットに戻ってしまった。
天井なんか無くって、照明器具がいっぱいだし、後ろは壁が消えて薄暗いスタジオに続いている。
途中、さっきの受付の前に出ると、来た時には気付かなかった『新人女優募集』のポスターが目についた。
いかにも女優……という感じではなく、女学校を出たばかり、緊張しながらも笑顔を見せているオカッパ頭の女の子。
胸に願書を抱きしめて、ちょっと笑えるぐらいに初々しい。名前のところは長瀬映子と分かりやすい。
長瀬撮影所の映画の子だものね。
「最初は、こういう真っ新な子がいいんです。女優としての色は、本人とわたしたちの化学反応で着いてきますから」
化学反応をバケ学反応と発音、ちょっと笑ってしまう。
「むろん、そのいちさんのような、しっかり自分の色を持った中堅どころも大歓迎ではあります」
ギシギシと木製の階段を上がる。
油びきの匂いがして、油びきの階段や廊下なんて初めてなのに、とても懐かしい感じがした。
☆彡 主な登場人物
- 風間 その 高校三年生 世襲名・そのいち
- 風間 その子 風間そのの祖母(下忍)
- 百地三太夫 百地芸能事務所社長(上忍) 社員=力持ち・嫁持ち・金持ち
- 鈴木 まあや アイドル女優 豊臣家の末裔鈴木家の姫
- 忍冬堂 百地と関係の深い古本屋 おやじとおばちゃん
- 徳川社長 徳川物産社長 等々力百人同心頭の末裔
- 服部課長代理 服部半三(中忍) 脚本家・三村紘一
- 十五代目猿飛佐助 もう一つの豊臣家末裔、木下家に仕える忍者
- 多田さん 照明技師で猿飛佐助の手下
- 杵間さん 帝国キネマ撮影所所長