唐橋中将といふ人の子に、行雅僧都とて、教相の人の師する僧ありけり。気の上る病ありて、年のやうやう闌くる程に、鼻の中ふたがりて、息も出で難かりければ、さまざまにつくろひけれど、わづらはしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞の面のやうに見えけるが、ただ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額のほど鼻になりなどして、後は、坊の内の人にも見えず籠りゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて、死ににけり。
かかる病もある事にこそありけれ。
これは一見、週刊誌の都市伝説記事のようであります。
それもトップ記事ではなく。余った紙面の埋め草のような記事ですねえ。
唐橋中将という、ちょっと偉い貴族の息子で行雅僧都(僧都とは、偉い坊さんのこと)という気の短い人がいて、歳をとるにつれて顔面が腫れ崩れる病気を患った。
しまいには鬼のような顔になり、人目を避けて暮らしていたが、間もなく亡くなってしまった。
世の中にはケッタイな病気もあるもんだね。
あっさり読むと、これだけのことであります。しかし還暦を来年にひかえたわたしには違った意味にとれる。
わたしは子どものころから自分の容貌(スガタカタチ)には自信がありませんでした。ヒョロリと背だけが(子どもとしては)高く、筋肉がほとんど無く、同年配の男の子に比べ、あきらかに貧弱でありました。
おまけに顔が良くない。目は、よく言えば「彫りが深い」 有り体にいえば落ちくぼんで、目の下にはいつもクマが出ていて、徹夜明けのようなご面相。
小学校の高学年のころ母が、三面鏡を買いました。そして、生まれて初めて自分の横顔を見た、見てしまいました(;゚Д゚)!
人類の顔だとは思えませんでした。額の下はフランケンシュタインのように落ちくぼみ……そう言えば、思い出しました。五年生のころクラスのアクタレに「フランケン」というあだ名で呼ばれていたことを。
――このことだったのか……!?
鼻から下は、野坂昭如に似ている。野坂氏には申し訳ないが、人前に出るのが嫌になりました。
そのせいで、このころのわたしの写真は、クラスの集合写真ぐらいしか残っていません。極端な写真ギライでありました。
目の落ちくぼみと同時に発見したのが、チョー絶壁の後頭部。つむじのあたりから、切り落としたように頭が無いのです。
今、そのころの数少ない写真を見ると、気にするほどじゃないと思います。
だれでも、思春期のころは変わりゆく自分のスガタカタチの欠点ばかり目につこものです。で、ここまでは笑って済まされることです。
大人になって、芝居をするようになると、自分の顔がどうやったらマシに見えるか気が付きました。少し斜めに構えた笑顔がいいことに気づき、舞台での顔の向け方、表情の作り方を工夫するようになりました。
三十代になってからは、このアングル、表情を利用して見合用の写真を何十枚も撮った。「え、大橋さんですか?」
見合いの冒頭に相手の女性に言われることもありました(^_^;)。しかし、教師と役者の二足のワラジであったので、喋ることや、相手から話を聞き出すことはたくみで、その縁で今のカミサンといっしょになりました。
さて、笑って済まされない本題であります。
わたしは五十を過ぎてから鬱病を患いました。五年のあいだ通院とカウンセリングと休職をくり返しました。人と接触することもひどく苦手になり、とうとう鏡で自分の顔を見ることもできなくなりました。
退職前の三年間が特に重篤で、家人がいない時は電話線も抜いていておりました。
そして退職を決意し、その書類を整え、退職が決まると、快方に向かいました。名実共に退職が決定した年の三月末日に床屋に行きました。実に五年ぶりの床屋です。
……そこで五年ぶりに自分の顔を見た、見てしまいました。 行雅僧都ほどではありませんが、自分の変貌ぶりに唖然としました。そこには知っている自分より十歳は歳を食った顔がありました。顔の肉が垂れ下がり、頬齢線(ほうれいせん)は深く、あちこちに老化によるシミの兆しさえあります。何よりも目に光がありません。
その後、縁あってT高校の演劇部のコーチをやりました。もう、表情は使い分けられるようになっていました。
ある日、稽古中に役者の生徒が一人いなくなりました。トイレかな……と、思っていたら、あとで顧問の先生に言われましたた。
「大橋先生の目が怖くて、稽古場におられません……やて」
いやはや…………