魔法少女マヂカ・292
地面に激突したのではないようだ。
倒れ伏してはいるが、ちゃんと意識はある。おそるおそる指先を動かしてみる……ちゃんと動いている。
指先が動かせるということは、その根元の手足も無事なのだろう……うん、痛みも無く動かせる。
体の他のところにも異常はないようだ。
体の下にはケットのようなものが布いてある。兵隊の毛布に似ているが、カシミアのように肌触りが良くて心地いい。
そのケットの下は芝生だろうか、その下の地面も作付け前の畑のように感触が優しい。
寝返りを打つと、柔らかな青空を一群れの雲がゆるゆると流れていく。
あ…………小さな黄色い蝶々が二つ戯れながら視界を横切っていく。
蝶々を追った先に立っている後姿…………孫悟嬢。
「ああ、やっと目が覚めたか」
振り返った旧友は、遠足のお弁当のあとのようにリラックスしているが、どこか困惑の表情だ。
「ちょっと、面倒なところに来てしまった」
「どこなのだ、ここは?」
「起きて見れば分かる」
よっこいしょ。
「もうやられてるな『よっこいしょ』なんて、戦闘中の魔法少女が口にする掛け声じゃないぞ」
「あ……そうだな、さっきまでの緊張感がまるで…………この穏やかさは…………」
そこは、ささやかな丘の上。丘は緑に覆われていて、わたしが目覚めた頂上は若草色の芝生、その上に敷かれているのは上質なケット、まるで、貴族のピクニックだ。
丘の裾には小川が流れていて、耳を澄ますと小鳥のさえずりとせせらぎの音が懐かしい。
小川の橋からは、緑の麦畑の中を遠景の村へと小道が続いて、ネギ坊主のような教会の尖塔が穏やかに風景を引き締めている。
まるで、印象派の画家がウクライナを旅行して描いた油絵の中に居るようだ。
あ
「分かったようだね」
「ポチョムキン村だな」
「ああ、ちょっと厄介だ」
厄介と言いながらも悟嬢には緊張感も切迫感も無い。たぶんわたしにもない。
ポチョムキン村とは、見掛け倒しの平和や安定を装ったハリボテのまがい物という意味なんだ。
ポチョムキンと言えば、ロシア革命の先駆け。水兵たちが反乱を起こした戦艦ポチョムキン。
しかし、その名前の主は、18世紀、エカテリーナ二世の覚えも目出度い帝政ロシアの主席海軍大将であり、大貴族だ。
エカテリーナ二世の秘密の夫と呼ばれたのがポチョムキン公爵。
軍事にも政治にも大した才能も業績も無いポチョムキンであったが、エカテリーナ二世への献身は凄まじかった。
エカテリーナ二世がウクライナの村々を視察に行くときは、沿道沿いの村々をきれいに清掃させ、清掃で間に合わないところはハリボテのセットでそれらしく見せた。領民たちにもこざっぱりした成りをさせて、彼女の治世がうまくいっているように見せかけて満足させた。
以来、ロシアでは政治的粉飾、取り繕いのことを『ポチョムキン村』と呼ぶようになったのだ。
「そう、ただのハリボテならぶち壊してしまえばいいだけなんだけどね……」
丘の上、古手の魔法少女はそろって腕を組んでしまう。
ポチョムキン村の面倒なところは、99%の嘘の中に1%の真実、あるいは真情が籠っているところなのだ。
それは、けしてむげにぶち壊していいものではないのだ。
ぶち壊しただけでは、この煉獄のようなポチョムキン村から脱出することはできない。
代々のロシア担当魔法少女の言い伝えなのだ……。
※ 主な登場人物
- 渡辺真智香(マヂカ) 魔法少女 2年B組 調理研 特務師団隊員
- 要海友里(ユリ) 魔法少女候補生 2年B組 調理研 特務師団隊員
- 藤本清美(キヨミ) 魔法少女候補生 2年B組 調理研 特務師団隊員
- 野々村典子(ノンコ) 魔法少女候補生 2年B組 調理研 特務師団隊員
- 安倍晴美 日暮里高校講師 担任代行 調理研顧問 特務師団隊長 アキバのメイドクィーン(バジーナ・ミカエル・フォン・クルゼンシュタイン一世)
- 来栖種次 陸上自衛隊特務師団司令
- 渡辺綾香(ケルベロス) 魔王の秘書 東池袋に真智香の姉として済むようになって綾香を名乗る
- ブリンダ・マクギャバン 魔法少女(アメリカ) 千駄木女学院2年 特務師団隊員
- ガーゴイル ブリンダの使い魔
- サム(サマンサ) 霊雁島の第七艦隊の魔法少女
- ソーリャ ロシアの魔法少女
- 孫悟嬢 中国の魔法少女
※ この章の登場人物
- 高坂霧子 原宿にある高坂侯爵家の娘
- 春日 高坂家のメイド長
- 田中 高坂家の執事長
- 虎沢クマ 霧子お付きのメイド
- 松本 高坂家の運転手
- 新畑 インバネスの男
- 箕作健人 請願巡査
- ファントム 時空を超えたお尋ね者