くノ一その一今のうち
八畳ほどの控室は品のいい鶯色を基調とした洋室で、区別できるほどの知識は無いんだけど調度類はアールデコとかアールヌーボーとかの感じで、仏蘭西の、それこそ漢字で書きたくなる巴里の高級アパルトメント。
「外国の俳優に来てもらうことも考えていますから」
鍵を手渡してくれながら、杵間所長は言っていた。
わたしも、事務所の道具帳や嫁持ちさんたちがネットでチェックしてるのを横目で見る程度の勉強なんだけど、作り込みに夢と志の高さを感じて敬服する。
細い猫脚のソファーに腰を下ろすと、優しくドアがノックされる。
「はい、どうぞ」
『失礼します』
きちんと断わりを入れて入ってきたのは……驚いた、さっきの募集ポスターの女の子。
「長瀬映子さん?」
「はい、ありがとうございます。さっそく名前を憶えていただいて(^▽^)」
「実在の人物だったのね!」
「あ、いえ、そのいちさんのお目に留まりましたので実体化することができました。所長から付き人を言いつかりました」
「え?」
「まだ、ほんの駆け出しというのもおこがましい身ですが、よろしくお引き回しくださいませ」
「いえ、そんな。わたしもリアルじゃ、鈴木まあやの付き人だし(^_^;)」
「まあやさま……?」
「令和じゃ、人気女優なのよ、わたしの主筋のお姫さまでもあるんだけどね」
「はい、情報は登録されています。いつか、こちらでも女優をしていただけたら嬉しいです」
「そうね、その時は付き人にまわらせてもらうわ」
「あ、それはご勘弁ください。そのいちさんが付き人になられたら、わたし失業ですから」
「あ、そうね、ごめんなさい」
「撮影所の案内を仰せつかりました。よろしければ、今からでも……」
「そうね、お願いするわ」
「はい、承りました!」
で、ビックリした!
なんと映子さんは閉じたままのドアの隙間から出ていった。
「え、映子さん( ゚Д゚)!?」
「え、あ、ああ……実体化が不十分なんで、体に厚みが無いようです(^0^;)」
たしかに、彼女の横に回ると体が薄くなり、真横に立つと完全に奥行きがなくなって見えなくなってしまう。
改めてドアを開けてくれる。
「それではご案内いたします」
採用されたばかりだというのに、映子さんは、撮影所のことはノラネコの通り道まで知っていて、一時間余り楽しく案内してもらった。
撮影所のあれこれは、これからの展開で触れることになると思うんだけど、一つだけ言っておくわ。
撮影所のどこへ行っても所長の他に人は見えない。
でも、ちゃんと気配はある。
運ばれる途中の道具や配線途中の照明や音響のケーブルたち、塗りかけでペンキの匂いがきつい書割の背景、蓋の開いたドーランが置きっぱなしの化粧前、スタジオの外には長椅子がコの字に並んで、読みかけの台本や仕込帳、小道具なのか個人の持ち物か分からない煙管の載った煙草盆……そのどれもが、ちょっと席を外しました的に息づいている。
それらの一つ一つに映子さんは楽しそうに説明を付け加えてくれて、その説明だけでも動画にアップすれば、すぐに数千件のアクセスは獲得できそう。
「あ、すみません、つい夢中で、わたしばっかり喋ってしまいました(^△^;)。ちょうど時分時です、お昼にしましょう!」
食堂は、にの字の縦棒の上。本館の一階の西の端にある。
観音開きのドアを入ると、学食ほどの広さの大食堂。
八人掛け、四人掛け、二人掛けの他にも南側の窓に面したところには個食用のカウンターもあって、効率的な食事が出来るようになっている。
「奥の四人掛け、ちょうど空いてます」
ちょうども何も食堂に居るのは、わたしたちだけなんだけど「ちょうど」ということでラッキーという気になる。映子さんが案内してくれたのは、西の大きな窓辺の四人掛け。食堂は一階なんだけど、土地に傾斜があって、塀の向こう側の景色がよく見える。
「杵間所長のこだわりなんです、ここから綺麗な夕陽が拝めるんですよ。茅渟(チヌ)の海って、古事記や日本書紀にも出ていて、日本でも有数の夕陽の名所で、もう少し南西に行ったところには夕陽丘って、ここよりスゴイ名所があるんです。あ、お昼は所長のお勧めで松花堂弁当なんですが、いいですか?」
「あ、うん。いつもロケ弁だから」
「ロケ弁じゃないんですよ、松花堂弁当というのは……ま、見てのお楽しみです♪」
映子さんがイソイソと向かったのは厨房のカウンター。
厨房は、これから忙しくなると見え、仕込みや調理の為に湯気が立ち込め、お昼前の活気に満ちている。
湯気の中から重箱が二つ差し出され、映子さんが重ねてテーブルに持ってきてくれる。
「わあ、可愛いけど充実してる!」
蓋を開けると、箱の中は十字に仕切られていて、ご飯で一つ、あとの三つが天ぷらと焼き魚をメインにしたおかずのブロックになっている。
「元々はお茶席で出されたもので、量も程よく中身も充実。撮影前は、これくらいがいいんだそうです。撮影後は、これに二つ三つ多い幕内もありますし、各種ランチや定食、麺類や一品ものとかが取り揃えてあるらしいですよ」
「では、いただきまーす」
おいしくいただいて、お茶を淹れながら映子さんが、すこし畏まる。
「あのう……わたしの呼び方なんですが」
「あ、苗字の方が良かった?」
「あ、それはどちらでもいいんですけど、わたしは付き人ですから、呼び捨てにしてください」
「ええ、そんな」
「中には『先生』って自分のことを呼ばせている俳優さんもおられるんです。さん付けでは……ちょっと、申しわけないです」
ああ、でも、まあやもわたしのことを呼び捨てにはしないし……っていうか、わたしこそ、まあやのことを呼び捨てにしてるし。
「あ、それじゃ、えいちゃんって呼ぶのはどうかな。映子だから『えいちゃん』」
「あ、はい、それならいいと思います」
プルルル プルルル
納得して、九分通り食べたところで電話の呼び出し音。
いつの間にか、テーブルの上に黒電話が載っている。
「はい、風魔組、付き人の長瀬です……」
間髪を置かずにえいちゃんが受話器を取る、受話器から漏れてくるのは男の人の声だ。
「はい、少々お待ちください……そのいちさん、ホームズさんです」
「え、ホームズ?」
「はい、ベイカー街のシャーロック・ホームズさんからです」
「え……?」
戸惑いながらも、えいちゃんが両手で差し出す受話器を受け取る。
「はい、お電話替わりました、風魔です」
『すぐに事務所にきてくれたまえ』
「えと、撮影所のですか?」
『事務所と言えばベイカー街221Bに決まっているじゃないか。わたしは仕事で留守にする。詳細はテーブルの上に置いておくので、確認したらただちに現場に向かいたまえ(『ホームズ時間が……』の声がする、ワトソンだろうか)。あ、それからミス・エイコは優秀な助手だ、必ず同行させたまえ。それでは幸運を祈る』
「あ、もしもし……」
「参りましょう!」
えいちゃんはマナジリを上げ、松花堂弁当の空き箱を重ねて返却口に向かう。わたしも、急いでお茶を飲んで席を立った。
☆彡 主な登場人物
- 風間 その 高校三年生 世襲名・そのいち
- 風間 その子 風間そのの祖母(下忍)
- 百地三太夫 百地芸能事務所社長(上忍) 社員=力持ち・嫁持ち・金持ち
- 鈴木 まあや アイドル女優 豊臣家の末裔鈴木家の姫
- 忍冬堂 百地と関係の深い古本屋 おやじとおばちゃん
- 徳川社長 徳川物産社長 等々力百人同心頭の末裔
- 服部課長代理 服部半三(中忍) 脚本家・三村紘一
- 十五代目猿飛佐助 もう一つの豊臣家末裔、木下家に仕える忍者
- 多田さん 照明技師で猿飛佐助の手下
- 杵間さん 帝国キネマ撮影所所長