いつもなら朝食の最中にやってくる。
「お早うございます、今日の予定ですが……」
そう言って、一日のスケジュールを言ってくれる放出さんがやってこなかった。
――とりあえず部屋で待機していてください――
お茶をすすっているとメールがやってきたので、大人しく部屋に戻ることにした。
廊下まで冷房の効いた屋内なんだけど、それでも窓の傍を通るとムッと暑気を感じる。外に出たらいかばかりかと、ちょっとばかり嫌になったりする。
二階に上がると、掃除のスタッフが各部屋を掃除の真っ最中。
いつもならスケジュールの説明で、もっと時間がかかる。そのぶん早く上がって来たのだからスタッフに落ち度があっての事じゃない。
すぴかの部屋の前にはトマトジュースの空き缶でいっぱいになったゴミ袋が出されている。やっぱ、買い占めたのはすぴかのようだ。
とりあえず廊下を曲がったところのレストスペースに……すでに三人の先客。なによりも夕べのカフェオレの恨みの籠った綾香の目が鬱陶しい。
「掛けなさいよ」
「ちょっと館内探訪」
一子のお誘いも断って、そのまま階段を下りて一階に戻る。
下りたところに小さなテーブルセットがあって、お人形さんのようにすぴかが座っている。
「前、いいか?」
「うん、いいわよ、あっちいくとこだから」
そう言われては座れない、座りかけの尻を持ち上げてすぴかの後に続く。
「アマノジャク」
「どっちがだよ」
けっきょく、廊下を進んでロビーまで出てきたので、並んで……といっても一人分空けてソファーに座る。
チ……聖天使の舌打ちにもめげず、座り続ける。てか、ここを立ったら行くところがない。宿題忘れた小学生じゃあるまいし、廊下で突っ立っているのも変だもんな。
バサリ
すぴかが新聞を投げてよこす。
「んだよ」
「オッサンは新聞でも読んでなきゃ間が持たないでしょ」
ちょっとムカついた。
「おまえ、ホテルのトマトジュース買い占めたんだな」
「いいでしょ、売ってるんだから……それに、ほかに飲む人もいないわ」
「っていうことじゃなくてだな」
「話のきっかけだとしたら、地獄の底のように最低の前振りよ。そんなことだから、世界の半分は女なのに、いまだにボッチ男でいなきゃならないのよ」
「おまえなあ」
「それとも、真夏の寂しさを妹の親友で紛らわせようという浅ましさなのかしら」
「もうちょっと普通に喋れないのか、夕べは違っただろう」
「え、夕べ?」
ヤバイ、墓穴を掘りかけている……。
「ひょっとして、自販機のトマトジュースになにか仕込んで、わたしが眠りに落ちた後忍び込んで」
「なんちゅう妄想だ!」
「だって、この春、この聖体に、あろうことかマウストゥーマウスの蘇生術を施して、聖天使の魅力に目覚めたのはだれかしら」
「め、目覚めてねーし! ただの人命救助だったし! じゃなくて、放出さんと庭の橋の上で話してたじゃねえか!」
「え、なんのこと…………?」
ちょっと時間が停まったような、地獄の釜の蓋が開いたような気がした……。
♡主な登場人物♡
新垣綾香 坂の上高校一年生 この春から兄の亮介と二人暮らし
新垣亮介 坂の上高校二年生 この春から妹の綾香と二人暮らし
夢里すぴか 坂の上高校一年生 綾香の友だち トマトジュースまみれで呼吸停止
桜井 薫 坂の上高校の生活指導部長 ムクツケキおっさん
唐沢悦子 エッチャン先生 亮介の担任 なにかと的外れで口やかましいセンセ
高階真治 亮介の親友
北村一子 亮介の幼なじみ