ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

泉が城と芭蕉

2010年03月27日 | 歴史の革袋
泉が城は、前に触れた『河崎の柵』と会社が同じ系列の『業近の柵』の古代に建っていたところである。
『奥の細道』に次のように現れる。
『まず高舘にのぼれば北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る』
いよいよ一関に入って芭蕉が川向うの二夜庵に泊った日は十二日であるが、その前の旅程から三段飛びの踏み切り板に爪先を合わせるようにその日を芭蕉は調整して、尊敬する『西行』が数百年前に平泉に入った日に合わせて韻を踏んで、と言われていることなど、非常な入れ込みが凄い。
それはエバンス・マニアを自認する者が、『ビレッジ・ヴァンガード』に日本から海を越えて、25日の日曜日に席に着くようなこと?。
この『和泉が城』について、芭蕉が存在をわざわざ奥の細道に残しているのはどうも訳がある。
泉が城の主は、三郎忠衡といって藤原黄金カンパニーの常務取締ポジションであるが、社長である父から、東下りしてきた義経のサポートを命じられて、いつも接待していた。
平泉に入った義経は、さいしょ高館にある眺望館に住まわされたが、のちにおそらく常務の屋敷に近い場所に住居を賜って、広い平地にすんでいたのではなかろうか。
秀衡の没後、義経の立場が危うくなったとき、北方にひそかに逃がしたのもこの泉三郎忠衡ではなかろうかと想像するのは、副社長と専務の二人の兄に、攻め滅ぼされているからである。
この秀衡の三男でありながら兄弟と戦って義経を守った和泉三郎に、芭蕉はけなげを感じ一章をもうけたのかもしれない。
平泉を散策するとき、いつも気になっていながら、まだ辿り着けない。

数日前、福島のいわき市からお見えになった人は、ちょっと秀衡に似ていて貫禄があった。秀衡が現代に居れば、金色堂の近くの能楽堂で、たまにビッグバンド・ジャズを奏でるはずである。






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