ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

ラジオ深夜便

2012年12月22日 | 巡礼者の記帳
昔も今も、3月15日といえば、勘定奉行署に諸表を納付する期限であったが、どうしても深夜明け方まで事務が追いつかない。
そのとき、つれずれに初めて『ラジオ深夜便』を聞いた。
関西の海洋学の学者が、外国の大学にいて教鞭を執りながら学術論文をいくつも完成させていく生活経験を、エリックサテイのピアノのように淡々と、良い味を醸し話していた。
書類を投函して月夜の勘定署帰りの車のラジオでも続きを聞いて、つい、聴いたことをコメントしようと行動したのがめずらしい。
「あなたの研究生活は聞いてとてもおもしろい」
と、研究室にメールしておいたところ、なんと学究に忙しい時間を割いてお返事があった。
「あの放送は昼の時間の収録でしたが、深夜にもかかわらず、東北では、ほかにもう一人のかたからメールをいただきました」うんぬんの内容である。
このとき初めて『ラジオ深夜便』番組を知ったが、そういえば先日久しぶりにおみえになった志津川の元船長さんとご一緒の貴婦人も、ラジオ深夜便のことを申されていた。
「ジャズ喫茶に初めて来ましたが、わたしは、多少思い違いをしていました。ジャズについては、ラジオ深夜便で何度か聴いております」
一方、元船長さんは、得意の手帳からメモ紙を取り出してこちらに渡し、筆跡もかわらずご健勝で、なによりのことである。
そういえば勘定奉行署からあのあとに連絡があった。
「二階の奥の部屋まで出向いてください」
!!
なにかおたっしとはいただけない。書類の数字に不備が有ったらしい。
しかたなく夕刻行くと、くだんの御仁はやっと出先から戻っていて、対面した当方は机の前に直立しお話を承っていた。
すると、突然背後のドアのほうから声がした。
「そのお客さんを、こちらのソフアに座っていただいて」
声の人物はすぐ姿を消して誰かわからなかったが、言われてしばらく何事か考えていた御役人は言った。
「もう、おひきとりになってけっこうです」
あのときの声の主は、決算講習会で目の前に居た新任の御奉行と似ていたようだが、古い記憶でわからない。
ラジオ深夜便は、画廊の先生からいただいた録音テープでも聴くことが出来てなるほどおもしろく、また、水戸の御仁達も話題にされていたが、ジェットストリームとも違った魅力が静かに聴取者をあつめているようだ。
翌日の勤務にそなえ、布団に入っても眠れぬひとには、あまりおもしろい話はドクであるが。
早朝の積もった雪にこぼれたウサギの餌に、スズメが一羽飛んで来た。





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ピクチャー・オブ・ヒース

2012年12月19日 | レコードのお話
小学校が統合されて消えることが各地に散見されるが、ついに当方の昔にも番がまわってきた。
「母校はいま、納豆工場になっています」
熊本のお客の申されたことを、このさい思い出す。
あれは、ホッピングというスプリングを巻いた棒に乗って、ピョンピョン跳ねる遊びの流行ったころ、小学校舎は背後の小山に鍵形に坂道が迂回しており、傍に平安期の観音像を拝する古刹の寺院が山目の旧国道の先にあった。
坂道の途中に『とつけもの屋』と俗に言う店があって、横綱鏡里のブロマイドを買った。
校舎の角部屋には陽が射さず、昼なお暗く、幻灯室というスライド映写の専用部屋にされていたが、低学年のあるとき2クラスを集め『フランダースの犬』の上映があった。
シーンと一巻見終わって、先生が暗幕を開け部屋が明るくなると、我々ガキンチョとは違い感性のきたえた先生に涙は無いのを見て感心したが、予想があたったように二人の先生は生徒を見ていた。
フランダースの物語は、めめしさを嫌う西洋的センスか本国では人気がないと聞き、民族の果敢を感じる。
このフランダースを見せられた1956年の頃は、ジャズ世界にとって新しい局面がいくつも勃発して忙しく、たとえば「56年のペッパーにハズレなし」と定評の作品群など、背伸びしても存在をまだ知らなかった。
後年になって、誰もこの時代に特異な思い入れがあることが、タンノイのスピーカーと似ている。
廃盤の『プレイボーイズ』ジャケットの『ピクチャー・オブ・ヒース』を鑑賞するとき、異様な高値をよんでいるものがジャケットを新しく変えて、再発売になっている。
チェット・ベイカー、アート・ペッパー、フィル・アーソ、 カール・パーキンス
あるいはまた
アート・ペッパー(as) ラス・フリーマン(p) ベン・タッカー(b) チャック・フローレス(dms)。
たのもしい面々のこのサウンドを、自在に脳裏に想像できる人も多かろうが、元の録音テープは一緒なのに、ジャケットが代わればスピーカーのエンクロージャーのような違いが、やはりある。
先日、水戸から5人の客人が登場されて、いざタンノイの音を鳴らしたところ、エアボリューム的に絨毯一枚敷いたくらい音が吸われることに驚く。
ユニットを4つにして、倍の空間で豊かに鳴らしたいものである。
水戸学御専攻の各人の、これまでのご活躍のことは「水戸の三ぽい」とも言われ、おそろしくて聞くことはしなかった。




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地震の343号線

2012年12月09日 | 徒然の記
日本列島が強震に揺れた先夜のこと、343号線を海側へ走っていた。
そのとき車内に奇妙な振動がおこり警告音が鳴った。
路肩の事業所前のスペースに停め、携帯の緊急連絡から大地震発生を知ったが、Royceのオーデイオ装置は、盛んに揺れているのか。
しばらく待っていたが回線混雑で通話できなかった。
そのとき、なんてこった、何者かが当方の車を道の反対側から探照灯照射している。
おまけに再び地震がユサユサと始まり、このゆれで津波は?引き返すのか。
だが周囲に停電はまだおこらず、ふたたび竹駒方面にすすむと、峠下の町から避難しているらしい車の長い列を見た。
ただごとではない。
前方の暗い夜景には電飾ライトを回転させた業務車両が遠くに見えて、反射装束を纏った1台が行く手に現れ、高田の海岸道路に近寄らないようにマイクで広報している。
では、大船渡に入るには隧道を行くのか。
そこはむかし道を間違えてゴミ焼却場の広場にはまりこんだところで、あのとき係員が走ってきて「すみませーん、ご苦労様でーす」と声をかけられたのが?いまもって謎であるが、土地勘のない者にすべてパズルである。
しばらく上下や左右に曲がった迷路を走ると、トレーラーが二股道の半分を塞いで、いなせな若い衆がハンドルを動かしており、そこで当方もハンドルを左に切った。
街に警報の長いサイレンは鳴りわたって、やっと夜の大船渡朝集殿に着いてみると、目の前の広場は、かって通信パラボラアンテナ車両はじめ多数の車両で埋まっていた騒然としたあの日がまぼろしのようだ。
いま見る静かな周囲は警報が解かれているらしく、業務を終えた若い女性が一人、また一人門柱の鎖を超えて帰って行く。
当方が次に満員のコンビニから出たあとで、いつもの駐車場に乗り入れた暗がりのヘッドライトに浮かぶもの、この地にめずらしい熊本ナンバープレートを見た。
震災の応援に火の国から遣わされた人が居ると、あとで聞いたものである。
343号線を帰路、笹の田峠のループ橋を過ぎたあたりで、ラジオからめずらしい『リナ・ホーン』の歌うムーン・リバーが流れてきて、しばし耳を傾けたが、地震のおさまった夜道は凍ったマイナス2度であった。
寒さの森にひそむ鹿や狸に、先人の翁と合作によって一句詠む。

旅人と 我が名呼ばれむ 白い月




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