奥大道と轍を並べるように走る国道4号線が江刺の國にさしかかると、そこから三陸沿岸に向けて343号線が始まっている。
この街道が、一関の方向から伸びる今泉街道と20キロのところで十文字に交わったところが『摺沢の宿』である。
343号線はここで今泉街道に乗り換えるように九十度折れて高田、大船渡に向かう。
一関から向かって摺沢宿にさしかかったとき、いつのまにか343号線に乗っていることに気がつくので、なにか事情のありそうな街道の元を地図をたどって見ると、そこには甍をきそう重文の古刹があった。
寺院の建物内に安置されている仏像の胎内から、貞観4年(862年)の記録があらわれて、千年以上さかのぼる古くから、つまりこの道があったことを知る。
交差している古道を千厩街道といい、南に八キロほど直進すれば、奥州藤原氏が全盛のころ馬産地のあった『千馬屋』と呼ばれる由緒の地名で、馬屋の表記は、厩ではなく日の下にヒを書くこだわりは、むかし同級生にハガキを書いたから。
ちょうどそのとき来客があった。
「ちょっとパーティに、深い味の赤ワインをいただきます」
みると、髪の長い記憶のバイオリニストがにこやかにそこにいて、ワインを手にした一瞬ののち、車に乗って去っていった。
このような伶人をみると、タンノイによって音楽を聴くだけではなく、ステージに演奏する人々の雅びな様子を拝見することもそうとう意義があると思われるが、うっかり最前列で眠ってしまっては取り返しがつかない。
あるとき、L・マタチッチ氏の指揮する第九交響曲を、N響ライブに招待してくださる人がいて年の暮れに駆けつけると、あいにく満席の二階の一番奥であり、そこではタンノイの放射する底知れないサウンドが非常に懐かしくなってしまった。
サイモンとガーファンクルが、ラジオから流れていたころである。
良いお年を。
この街道が、一関の方向から伸びる今泉街道と20キロのところで十文字に交わったところが『摺沢の宿』である。
343号線はここで今泉街道に乗り換えるように九十度折れて高田、大船渡に向かう。
一関から向かって摺沢宿にさしかかったとき、いつのまにか343号線に乗っていることに気がつくので、なにか事情のありそうな街道の元を地図をたどって見ると、そこには甍をきそう重文の古刹があった。
寺院の建物内に安置されている仏像の胎内から、貞観4年(862年)の記録があらわれて、千年以上さかのぼる古くから、つまりこの道があったことを知る。
交差している古道を千厩街道といい、南に八キロほど直進すれば、奥州藤原氏が全盛のころ馬産地のあった『千馬屋』と呼ばれる由緒の地名で、馬屋の表記は、厩ではなく日の下にヒを書くこだわりは、むかし同級生にハガキを書いたから。
ちょうどそのとき来客があった。
「ちょっとパーティに、深い味の赤ワインをいただきます」
みると、髪の長い記憶のバイオリニストがにこやかにそこにいて、ワインを手にした一瞬ののち、車に乗って去っていった。
このような伶人をみると、タンノイによって音楽を聴くだけではなく、ステージに演奏する人々の雅びな様子を拝見することもそうとう意義があると思われるが、うっかり最前列で眠ってしまっては取り返しがつかない。
あるとき、L・マタチッチ氏の指揮する第九交響曲を、N響ライブに招待してくださる人がいて年の暮れに駆けつけると、あいにく満席の二階の一番奥であり、そこではタンノイの放射する底知れないサウンドが非常に懐かしくなってしまった。
サイモンとガーファンクルが、ラジオから流れていたころである。
良いお年を。