ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

猫間が淵

2008年06月29日 | 歴史の革袋
平泉古図によれば、大きな池がその市街地に二つ横たわっていたが、今は無い。
『猫間が淵』という妙な名前に惹かれて、或る天気の良い日に出掛けてみた。
京の七条坊に「猫間」という地名があるので「祇園」や「鈴沢」などの地名と同じように、憧れの名を平泉に移した謂れがあるのだろうか。
猫間が淵は、柳の御所と伽羅の御所を隔てて大きなナマズのように横たわって古地図にあるが、ここで忘れてならないのは、当時の北上川は現在位置ではなく桜山の麓を流れていたらしい位置にあって、風光明媚を楽しむというより御所の生活水に欠かせなかったと思われる。
通りかかった婦人に「猫間が淵はどこですか?」と尋ねてみた。
あいては困惑していたが、しばらく歩いてなだらかな傾斜の一帯を指し「この辺なんですけど...」と、ほのかに笑った。
見たことも無いものを、たずねて申しわけありませんでした。ほんとうに、忽然と歴史に消えた猫間が淵である。
先日、函館の某ジャズ喫茶の御二人が、わざわざROYCEにもお寄りくださった。
「八戸から遠征されたお客が、ROYCEに寄るように申されまして」と、木下オーディオのことをご紹介くださった。管球アンプで動作させる本格的なシステムによって、天下無双のジャズが鳴っているのだと、ご主人のにこやかに話される雰囲気からよく解った。
このあと、隣り街の管球ビッグ・システムのジャズ喫茶『エル○ィン』を尋ねるそうであるが、そこのマスターという人は、あるときROYCEにやってきて、「自分のアンプ?たしかレシーバーです」と言った人物ではなかろうか?奉行所の人相書と、特長がよく似ていたので。



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桝盛

2008年06月28日 | 歴史の革袋
平泉能楽堂のある、関山北側の広場の端にレストランがあって、湯気の立ち昇るどんぶり蕎麦をいただくと散策の半分が終了する。
おもむろに建物の裏手のベランダに廻らせてもらうと、眼下に一幅の景観が広がり、遠く焼石連峰が雪を載せて連なっているのが遠望される。
あの山の向こうが佐竹藩だ。
平野のあちこちに点在する家と田畑を縫って流れる一筋の川面の光りを『衣川』といい、古代の戦役で有名な「衣の館は綻びにけり」の問歌のとうり、この川を対峙した軍馬が嘶き、川が赤く染まった古戦場とはなかなか想像できない平安な風景である。
眼を凝らして探すのは、桝盛といって四角いフレームに垣根の樹が育ったものが残っていたらしく、戦場に赴く鎧武者の乗った軍馬をそこにドヤドヤと入れて、軍団編成の単位に使ったメートル原器があったといわれている。
藤原時代の平泉の人口は15万と記録にあり、それが本当なら、もはや京の都にせまる都会となって傍目にも脅威でさえあるが、一定の戦闘スタイルと軍団管理が完成しても、あまり目立たないようによろしく繁栄していたのである。
先日、ROYCEに珍しい名前のお客がみえて、この付近に住まわれているのを思い出した。
歴史書をひもとくと、鎌倉軍が平泉を占領した後、頼朝がこの地に残していった軍団長の名前と同じであり、おも立ちもどこか関東武者をしのばせたが、はたして末裔かもしれず、壁にサインをいただくのを失念したのがおしまれる。
その御仁は、『バディ・リッチ』の片手16分の連打をテープに録って、遅廻して解析しましたが、噂どうりのテクニックです、と申されていた。
スイングかテクニックか、またストロングなバイタリティか、タンノイは幽玄の世界にジャズをいざなって、絵巻物のようなシーンを広げていった。




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二階大堂

2008年06月27日 | 歴史の革袋
鎌倉の頼朝は1191年7月に全国から集めた28万の大軍を組んでいよいよ『平泉』に攻め登る、と『吾妻鏡』にある。
このとき平泉には、すばらしい音響を奏でる巨大伽藍装置が幾つも有ったのであるけれど、頼朝がとくに気に入ってしまったのが『二階大堂』という黄金の大仏を入れた二階建てのユニットである。
鎌倉に戻ると、さっそくこの恒久平安を願って藤原三代の造った同じ物を建立し、彼はときどき拝観に行っている。
当方が、博物館で小さく復元された模型を見ても、二階建ての非の打ちどころのない雄大なバランスが忘れられない。
無量光院が『パラゴン』とすれば、これは『エレクトロボイス・パトリシアン』といってよいのか、なまなかの思いつきで具現できる建造物ではないので、復元は遅れるかもしれない。台座に使われた礎石が国道四号線の関山北側中腹に残っているところをわずかに見て、いまは往時をしのぶ。
あのような傑作にふさわしい音楽といえば、ロイヤルで聴くマイルスもよいが、セルゲイ・ラフマニノフのピアノC二番の雄大なスケールを聴いてみたくなる。
夕刻、二人の客人がお見えになったとき、アシュケナージとモスクワフィルをターンテーブルに載せ、巧者アシュケナージに納得したが、盤質が傷んでいるので気分がいまいちであった。
次回はリフテルとワルシャワ・フィルのほうにしたい。


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神戸の客

2008年06月26日 | 巡礼者の記帳
「神戸から来ました。東北は初めてです」と申される御仁は、どこか飄々として俄には奥行きの計りがたい人である。
そうと察したかバッグから1枚の写真を取り出して見せてくださったのが『パラゴン』のある部屋であった。
各地のパラゴンを訪ねて、さまざまの音の響きを楽しまれては、御自宅のパラゴンに還流させる効率の良いスタイルの、このような人の完成されつつあるサウンドをしばし想像する。
「このたびは、日本一とうわさの川向うの『B』をめざして来たのですが、ロイヤルをまともに聴いたのはこれが初めてです」と申されて、笑顔でいるのがよろしい。
するとそのとき、久しぶりの余震がドーンと突き上げて天上のライトも揺れているが、CURTIS FULLER のトロンボーンがたまたまびくともせず分厚い低音を響かせ続けるので、「流石です」と言葉に繰り返されていた。
震度3はあったはずであるのに、SPUが命拾いしたらしい。
このお客が、あの烈震の翌日『B』に電話をいれたところ「これからのことはわからないけど、いまは大丈夫、ワッハッハ」と電話の向こうの言葉であったそうだが、そういえばテテの隠れマスターからきょうハガキが届いて、タンノイが正面を向いて鳴っているか心配されているようだ。


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甲賀市の客

2008年06月25日 | 巡礼者の記帳
以前にもお会いしているこの御仁について、甲賀市に生まれると人はこのような人物になるのか、と思ったほど、中世の人格とあか抜けた未来人が微妙にミックスされて印象深い。
「いまは、このような屋敷を預かって住んでいるため、これまで使う出番のない布団干しも30人分あって大変です」と真顔で申され、カウント・ベイシーの一団でも受け入れてくれそうな雰囲気だ。
ことしは、吹きガラスの四人展の人選が決まって、陶芸のほうもなにかにをこなして...と、資料を拝見する。
『マル・ウォルドロン』の西ドイツの演奏がもしあれば、あれは非常に秀逸ですから、などと、タンノイのジャズに傾聴しているとき、隣りの若い衆が「箱鳴りがする」と言ったものだから、コレコレとピクリと慌てていたのがとても良かった。
箱鳴りの味がわからないと、先に進まないタンノイの馥郁たる世界である。
いつか無銭旅行で或る喫茶店の空き地に車を停めテントで寝ていたら、ご親切にモーニング珈琲を届けてくださって、お金がないといったら、「それはよいから開店時間までに出発してください」と言われました。こんど、こちらにも自前の車でまいります、などとポンポン話されることがジャズである。
そう言われては珈琲代を躊躇したものだが、出されたのは手の切れるような福沢諭吉であったから、受け取って良かったのかな。



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金色堂

2008年06月24日 | 歴史の革袋
1124年に完成した『金色堂』は、黄金の御堂という奇抜な姿をして、あらゆる季節の変化に照り映え、多くの旅人を驚かせた。
いまコンクリートの覆堂におさまっているのは、どこかROYCEの黄金のホーンの付いたタンノイに似ているけれど、むこうは創建の頃から数十年は、むき出しの黄金堂が風雨の中にそのまま建っていたというから素晴らしい。
時代が六百年下って、江戸時代に芭蕉の見た金色堂は、覆堂という名の建物で外観がすっぽり包まれ、内陣だけがありがたく観賞できている。
ドナルド・キーン氏は芭蕉の時代からさらに三百年下がって覆堂に訪れた時、アメリカ育ちであるのに、こんなことを言っている。
「私は日本にきてからすばらしい仏像に夢中になって、これこそ絶対的な美だと時々感じたことがある。広隆寺の薬師如来などがそうであった。
だが、震えるほど美に打たれ、自我を忘れて、この世でない世界に入ったと感じたのは、中尊寺の内陣を見た時だけである。」
金色堂の全容がはじめて姿を表したのは、ごく最近の1965年の大修理からである。
このことは、現在の鑑賞者はトクした立場にあるようだが、覆堂に覆われたころの見えない金色堂を見た印象でいうと、もしかすると昔の方がすばらしかったのでは?と、別の印象も起きて難しい。
このように金色堂には三つの姿があり、堂の本質に相違はないが、いまも芭蕉のころの覆堂は「がらんどう」になって傍に残されている。
子供の時、親の言いつける用事で中尊に行った。
そのご婦人は「まってね」というと、金色堂の境内の「ミズ」という韮のようなものをいっぱい採って持たせてくださったが、観光客が見ていて少し恥ずかしかった。
たまにコルトレーンの黄金のサキソフォーンの音色を聴いて、思い出す。


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天空の回廊

2008年06月22日 | 歴史の革袋
その路を車は勢いよく昇って行くと、瞬く間に視界は空の中にあって、遠く下界に桜山が見えた。
噂によれば、毛越寺庭園と金色堂を結ぶ最短の間道は、山を分け入って、誰一人通らない細道が舗装されてあるときいて、長いこと探していた空の道である。
フィレンツェのポンテ・ヴェッキオ橋のヴァザーリの秘密回廊のように、仕掛けの隠れた古都は霞がたなびいている。
春に遠征して、途中に造られた東屋で珈琲にサンドイッチを摘んでいると、山裾の東北高速道を静かに流れて行く車の列が見える。秋には海苔のおにぎりとタクアンに御茶でカセットのエヴァンスを鳴らし、運転を人に任せてビールや新酒をゆっくり楽しんでみた。
ついでにパーカーのキャップを廻して、白い紙に瞑想を二.三行ならべたら、気分は一瞬サンテグジュペリかバルザックとなったのがもうしわけない。


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平泉の風

2008年06月21日 | 歴史の革袋
余震の間隙を突いてスタスタと一人、女性が現れた。
「平泉から来ました」と申され、涼しい顔でタンノイのまえに居る。
江戸時代の〃一関の柵〃の柱書きも〈入り鉄砲に出女〉だから、ここは念のため亀甲占いをしたほうが良いのか。
十中八,九答えはなくてよいのだが、ころあいを見て漠然と尋ねた。
「ところで、ジャズの神様って...誰のことだって?」
「はい、それはチャーリー・パーカーでしょう。わたしはC・アダレイのほうが好きですけれど」
あれぇ?おまえは何者だ。
C・アダレイが良いというなら、右と左、どっちがアダレイのサクスか、ついでに『SO WHAT』を聴いてみよう。
平泉も、遺跡だけの街ではない。


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誰が風を見たでしょう、と。

2008年06月20日 | 歴史の革袋
毛越寺庭園の独鈷水の一部が「遣り水」となって、ゆっくり常行堂の傍らを流れ大泉池にそそいでいる。
その湖畔の、誰でも知っている可憐な枝垂れ桜は、見えなくなった。
或る写真展で、柳のような枝先の強風に舞踊っている先端が、青い空を背景にした『風』という組写真になったものを見た。
それが、しばらく心にかかっていたのは、そうまでして永遠に残したかった枝といえば、奥の細道広しといえども、あの場所に立つ枝垂れ桜ではないか。
そこからすこし離れると、一体の石仏が永遠の時間を佇んでいるのが見える。
あるとき「太陽」という雑誌に、夏草茂る庭園を背景にした石仏が写っていたので、心に止まった。
夏休みに浄土庭園を訪れ、写真と同じシーンをファインダーに覗いたが、なにかがおかしい。
撮影の時だけ、石仏は百八十度廻れ右させられたと知り、石になったのちも働かされる気の抜けない立場だが、体力や気力もなければ、あそこまで人は撮れるものではない。
ところで、すでに評価の定まったはずのコルトレーンのこと、なるべく聴かないでいれば新鮮な発見もあるこの世界である。
いつのことか某寺島氏と申される人物がROYCEに現れたとき、当方はぜひ碩学の感性の一端を伺えればと、コルトレーンに針を載せた。
すると、お付きの人が飛んで見えて「どうか、それだけは...」と、生まれて初めて貴重な体験をしたのである。
そこで某寺島氏を見ると、頭を抱え地蔵様のように廻れ右しているジャズ的姿があった。
1961年の11月2日と3日にライブ録音された「ヴィレッジ・ヴァンガードのコルトレーン」は、たまたま二枚のLPを持って、どちらのカッティングが良いか、ドルフィーがバスクラリネットで「ブブィ~」とアンサンブルはじめるあたりから気を取られるので、完遂できないでいる。
タンノイはすばらしい。



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蘭亭帖

2008年06月19日 | 歴史の革袋
ワンカップ銘酒も、豊穣な大地の恵みの雫である。
「毛越寺の裏山に抜け穴があって、そこから大量の水が湧いている」と、老人は一日の作業の終わりに立ち寄っては、うまそうにちびりちびりと愛呑んで不思議な話をした。
よろしい、そんなに不思議なものなら。当方は或る天気の良い休日、毛越寺の裏手にそれの地下から地上に湧き出るという水を見に行った。
『独鈷水』は、小鳥がさえずり、リスの姿も見える山腹から、突然のように滔々と流れ出ていたが、いったい誰が工事したのか、水源はどこか、あまり昔のことでわからないそうだ。
それからしばらくした或る日の新聞に、毛越寺の庭に古代の遣り水遺構が発掘されたので『曲水宴』が平安の昔のまま復活されると載ったとき、あのどっこ水を使うのだなと感じた。
再び見に行くと、崖地の岩を整える工事が始まって、せせらぎの上流から詠み人が次に待ちはべる人に歌を流し送る風流が想像される。
古代中国浙江省紹興に王義之という書聖がいて、353年の3月3日におこなわれた蘭亭曲水の宴が紹興酒とともに有名であるが、いまその人物の書が、断簡でも発見されれば億の値が付くといわれる。
ワンカップのご老体は、また不思議なことを言った。
厳美のそのまた先の街道沿いの岩山に、多数の深い洞窟が穿たれて、誰もその中を確かめた人がいないほど深いものがある。平安、鎌倉のころ平泉の館まで隠し通路があったのでは。
さすがにおいそれとは探検できず、気にはしていた最近、一万年に一度とかいう烈震が起こって、はたしてその洞窟が無事か、中に隠されていたという砂金などはどうなったのか、確かめる術もない。
では、厳美の上の磐井川辺あたりから、木のおわんに一寸法師がダンゴと清酒を積んで、石巻湾に流れ着くまでに、右岸左岸でジャズを鳴らすいろいろな巣窟を辿る謂れも、あってもよいねと、タンノイでジャズを聴く。


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at Basin Street

2008年06月14日 | 徒然の記
小学生の頃、特別史跡『毛越寺』の拝観料に、石ころの多い街道を手のひらに握ってきた20円を置いた。
だだっ広い庭園の先にぽつんと建っている、破れかけた宝蔵庫の縁台に近寄ると、鍬を持った老人が野良仕事の帰りに、煙りを鼻から噴いて休んでいた。
麦藁帽の下の窪んだ眼には、大泉池が映っている。
「あの先の、国道を造ったとき、掘り返した土の中から鳥の形をした大変な物が見つかったのじゃ」
見知らぬ老人の物語る思い出が子供には何の事かわからなかったが、このころニューヨクでは、クリフォード・ブラウンとマックスローチの五重奏団によって『WHAT IS THIS THING CALLED LOVE』などが吹き込まれていた。
この毛越寺と称される区角については、地元の人は知っていることだが、平安期のころ回廊の付いた伽藍建築が3面も豪華に並ぶ威容が辺りを払って賑々しいところである。
パリに倣えばシャンゼリゼか、南大門は凱旋門、北上川はセーヌ川、伽羅の御所はルーブル宮、柳の御所はヴェルサイユ宮、中尊寺はモンマルトル、柵の瀬橋はミラボー橋といった比肩が、外国人にはわかりやすい。
なぜ『奥の細道』に毛越寺の記述がないのか疑問に思っていたが、芭蕉が訪れたころ、大泉が池のある浄土庭園は葦の生えた草原に放置され、情趣を見いだせなかったからなのか。
あと一句のために、もったいないことであった。
いずれ往時の建築がすべて復元され甍を並べることがあれば、現在の平泉の風景は、だいぶ趣のかわったものになるが、浄土庭園をこのままの景色で楽しんでいたいと思う、そうとう浮世離れしている平安期の傑作である。

☆テレビ画面、震度6の表示が2か所に繋がって、ぬあんとこれは驚いた、あいだに挟まれている空白表示が当方の場所であるが。



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花巻市の客

2008年06月10日 | 巡礼者の記帳
廊下のガラスに反射した陽光が、日陰の苔を鮮やかな緑にしている。
休日のそのときピンポーンと鳴って、訪ねてきたのは以前にもお会いしている花巻市のオーディオ遊人であった。
本業の建築で、このあいだ東京の高層マンションに仕掛かっていることはお聞きしていたが、事のついでに、多数のオーディオ大尽のお宅を訪問された成果を、当方は楽しませていただく。
この人物は、当方のタンノイを褒めることも、けなすこともなく、その様子はまるでナマ演奏にも動じない石像であるかのようだ。
かわりに、よそのオーディオ装置のことになると、楽しそうに褒めるので、気分が若干、不等辺三角形になるのは当方だけであろうか。
しかし一方、資料や図面まで届けてくれて、この道は「はてがない」ということを暗に滲ませて、オーディオのワビサビを吟味し、各地を行脚する西行や能因法師のような遊人と思える。
以前同道された、煉瓦の部屋に装置を構える御仁のその後を尋ねると、あの時の最高の装置は、いまは入れ替わっている、と知って、万物の流転を思う。
「エレクトロボイスの良い『出もの』がここに有る、と某中古店から彼に電話しました。それ、押さえて、と彼が言って、その時から替って鳴っていますが、ちょっと修繕して、やっぱり非常に良い音が出ています」
幸いにしてスピーカー・ユニットの破損は軽微で、堂々たる音であるそうな。
「ところで、この写真の...」といって、彼はROYCEのテーブルファイルの写真を指した。
以前、寺島某導師に同道されたつわもの集団のなかに、ひとり判明しない謎の人物が写ってそこに居たが、その御仁のお宅を訪ねてこられたいきさつを聞くことができた。
「向ヶ丘遊園のコンクリート書店の二階のオーディオ・ルームには、大きな角の丸いビンテージ・スピーカーが鎮座してありまして(ヴァイタボックス・コーナーホーン?)なかなかそれを鳴らしてくださらず、大小いろいろのスピ-カーを、フェルトをまるめて前にちょんと置いて、どう、音かわったでしょ、と楽しそうに遊ぶ人でした」
その人物は知人をあちこち電話し、花巻市の自宅に持ち帰る管球アンプを一緒に探してくださったそうである。
「フェリーで館山まで行くことも考えたのですが...」今回は、佐久間先生の『コンコルド』まで足を伸ばせぬまま、と申されると、遊人はスーツのジャケットを片手に公園のツツジの先を去っていった。
モノラル一発の音を、小粋な管球アンプで鳴らしてみたい、と言った彼の描く装置を、タンノイを聴きながらあれこれ想像する。


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豊川稲荷の客

2008年06月07日 | 巡礼者の記帳
JBL4343をマッキントッシュで鳴らすジャズ好きが、愛知県から本州を北上し、要所の歌枕のジャズを楽しみながら、道奥に分け入ってきた。
「豊川稲荷から歩いて15分のところに住んでいます」と申された御仁は、7年前と4年前にも登場されていたので3度目である。
このたびはじめて同伴者があった。
「こんな感じの部屋がいいので、予算、よろしく」と申された会話を小耳にして、情けある妻女と新婚ツアーかもしれない。
そういえば、昔、愛知県豊川稲荷に参詣したことがある。
案内人が、若い人でも三河漫才の才能を滲ませて面白かった。
ほかの記憶でよみがえるのは長野善光寺で、修業僧の集団が渡り廊下を進んでくると、皮も破れるような強烈な大太鼓の6ビート連打が、38センチウーハー10発のような重低音で鳴り響いて、あれを凌ぐ迫力はまだ聴いたことがない。
50年代に一世風靡したアートペッパーが、ブランクののちカムバックした70年のヴィレッジ・ヴァンガード・ライブは、はたして何がどうなったのか、タンノイ・ニューモデルの登場のように気になって聴いた。




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東北ニュージーランド村

2008年06月06日 | 歴史の革袋
前沢町を名乗った人々がいる。
黄色いキャブリオレで夕刻現れた、ご夫妻。
北欧からリュックでレコードを買ってこられた多才な御仁。
アルテックを鳴らし、管球アンプを組み立てる沈黙の研究者。
「ここにタンノイがあると気仙沼できいて」と登場された円満な御仁。奥方は、やや迷惑であらせられたような気がしないでもないが。
その人から伝え聞いて登場された、〃わたしはまだ忙しい身であるが、もちろんオーディオを楽しむことにやぶさかではありません〃という感じの、やるときはやる、ハートがバランス配線の長身の御仁。
このような人々の住んでいる、平泉と水沢のあいだにさりげなく在る町で、隣接地が世界遺産になろうというこのごろ『ステーキ肉の超絶、前沢牛』に露払いをさせている賢人の町なのかもしれない。
或る時、前沢の手前を左に折れて、山を分け入り丘を越え舗装された道をどこまでも分け入ってちょっと不安になった頃、ついにあらわれたのが、連休日に異常な混雑を見せる『東北ニュージーランド村』である。
空と稜線が360度連なって見渡せる広大な自然公園のここかしこに、日本庭園や遊戯施設の在るのんびりした景色が気に入って、ボートや洋弓を楽しみ、へっぽこゴルフを馬や羊に笑われていたような気がする。
ところが、広い空間のどこに移動しても、空中の柱のスピーカーからあのジャズが降って来たのが奇妙だ。
ディキシーランド・ジャズが、四六時中聞こえている。
タンノイで聴いたノーマン・グランツの『Jazz at the Phiharmonic』が思い出され、これはいったいどういう人物の趣味なのか、帰りぎは管理事務所を訪れてみた。
事務員は部屋の一角のアンプをゆっくり指さした。
「有線放送」であった。








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パラゴンの客

2008年06月03日 | 巡礼者の記帳
「拙者の、うじすじょうはともかく...」と現れた御仁は、まっすぐの姿勢でソフアに腰を下ろすと、『JBLパラゴン』のために吟味した木材を集めてオーディオルームを造ったのです、と申されて、マッキントッシュやマークレビンソンのほか、最適のこしらえを追求されたこれまでを、言葉少なに振り返られ、珈琲カップを手に持った。
「それにしてもこのタンノイは、シンバルのスイングにあおられてほかの楽器が遅れずに鳴っているのがなんとも不思議です。タンノイも昔、鳴らしてみましたが」
この日のROYCEは、ついに手に入れた真空管を新たに挿し換えたブリテン製の重量アンプをマランツ#7に繋いでいたが、ロイヤルはホーン・スピーカーであるという忘れかけた認識を新たにさせる音像であった。
それは、タンノイという延長上に鳴って、タンノイを床の間に据える面々の約束に収まる弦の絹擦れにも柔軟なホーンであるが、しかし!?845アンプとも300Bアンプとも違った新境地を見せていた。
「楽器が先程よりますます鳴ってきましたね」とうれしそうに、珈琲をもう一杯お願いしますと申されると、タンノイもいいかなぁ、このシンバルはホンモノの音が出ていて奇妙だ、などというこの御仁のパラゴンの音が、ロイヤルと重なって聴こえるような気がする。
せっかく、虫がおさまっているのになあ、と自重を洩らすその御仁に挑みかけるように、サラ・ボーンの声が、胴の奥から吹き出されて上昇し、虹色に輝いて飛翔していくと、こちらまで思わず手のひらを握った。



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