ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

『零戦』

2010年09月26日 | 巡礼者の記帳
再び、銀色の豪勢な車体が店の前に滑り込んで、ボデイの先端に三菱の巨大なエンブレムが燦然と輝いていた。
すると太平洋戦争のとき、赤城の艦上に並んでいた『ゼロ戦』を作っていたところは、いまこのような乗用車を造っているのか。
むかし横浜の高島屋に冷蔵庫を探しに行ったところ、性能が四ッ星冷却という薄壁の白モノを勧められた。
ドアの内側にユンカース事業部と書かれたステッカーをみて、三国同盟の急降下爆撃機を造っていた会社とわかり使うことにした。
しばらく、爆撃機にビールを冷やさせて暮らした気分が、平和な産業に姿を変えて兵士が戦っているところを舌の先に感じたのであるが。
さてその車から現れたお客は、ジャズピアノの魔術師、山下洋輔氏に似た御仁で、どこかいっそう上品であり、戦時中はラジオの製作に凝り、同伴のご子息とひねもす管球アンプの競作が40台になるという。
安房の佐久間氏の元を訪ねてアンプ談義をされたこともある、このような柔らかく、しかし抜く手も見せない達人紳士の製作になるアンプが、いったいどのような音を響かせるのか、誰でも興味をおぼえることであろうが、仙台にお住まいとのことである。
ジャズ・ピアニスト下洋輔氏について逸話のあることを承知しているが、氏の弾いた『エリーゼのために』という名曲が、うっとりと始まる前半、ポリーニのようにまったく順調に進んで、これはなんだと思ったころ、突然すさまじいダイナミックレンジの4ビートの快奏になっていった。
エリーゼ嬢も感涙にむせぶひまのあるだろうか、稲妻のような演奏がみごとである。



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マッシー・アイアン

2010年09月21日 | 徒然の記
小さな庭で恐縮だが、マッシー・アイアンを四.五回素振りし、一日をはじめる。
ゆっくりからだが回転して、青い空が見えると、松の木に巨大な蜘蛛が巣を広げているのが見える。
水戸のタンノイ氏が再び登場したのはついこのあいだ、夏のはじめのことだが、これまで小学校に勤務の傍ら、オーケストラでトロンボーンをたしなむとうかがっていた。
「中学の勤務もまもなく終わります」
このたびは若干の進展を申されて、小さな異動があったのか。
当方の記憶に一部加筆がおこなわれ、御婦人と一関に来た際には、タンノイを聴くあいだ別行動になるという細部はそのままに。
ところで水戸の客に、そのとき静かな同伴の御仁がいた。
「わたしは、いつも農地に出て野菜畑を耕しています」
どこか気さくで開放的に、嬉しそうな人であった。
「あなたは、このあいだまで校長先生だったでしょ」
水戸のタンノイ氏は一言、微笑んでまたタンノイのジャズを聴いた。
高清水町のT社長の申されていた、娘さんのために自宅の増築をしたいと電話のあった校長先生や、江刺國のジャズ好きな校長先生のことが、続いて思い出された。
みなそうとうな、剣術使いであることが偲ばれる。
シェリーマンの『234』にあるME AND SOME DRUMSの、理屈抜きにすさまじいスティックさばきが、集中豪雨のようにタンノイのまえで飛沫を飛ばしているのを聴いて、タンノイも豪勢なトランスのアンプをほしがっているのか。
トランスを組み立てる仕事人は、それに加えてトランス性能に重要な要点があると話しておられたが、先日、房州の佐久間駿氏が造る「コンコルド」のテレビ映像を見て、『直熱管アンプ放浪記』のどこにも書かれていなかったハンバーグ・メニューを食べてみたいと思う。






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ときじくのかぐのこのみ

2010年09月18日 | 歴史の革袋
きょうは三越、あすは伊勢丹。
豪気で気もそぞろな都会の楽しみも、みちのくに東下りした義経に京は遠い。
そこで、平泉を中心に東西南北にのびる街道を、非時香木の実でも探しながら日替わりで遠乗りしたのであろうか。
車のエンジンを吹かして、カーステレオのスイッチをオンすると、そこに流れるエリスのジャズ・コンコードは景色を変えて後方に飛んで行く。
義経の見た342街道の秋の景色をSS氏が撮った。

先日の午後、銀色の乗用車がROYCEの前に滑り込んできた。
むかし、『隼』という戦闘機を造っていた会社のエンブレムが、車の先端についている。
――とても早そうな車ですが、あの会社がこのような豪華なモデルを造っていたのですか。
「これは、勤め先が用意しているものです。きょうは、新潟から回ってきたのですが、さあて、どうやら一日仕事になりませんね」
クールな男性が申されるには、日本で2番目の性能になる最新の大型MRIを南部藩に据えつける準備があって、遠征の途中に、ジャズをあびるスケジュールであるそうな。
その装置は、設置後の調整もあって二か月がかりの仕事になると申されている。








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『アニタ・オディ』

2010年09月12日 | レコードのお話
『アニタ・オディ』のマーティ・ペイチ楽団のオーケストラを唄伴にした大きなスケールは、壁全体がステージに広がって、大掛かりなサウンドが花である。
58年のクラブ、ミスター・ケリーズを聴くと、トリオで音像もぐっと接近し、ラリー・ウッズのベースが、ウォルター・ペイジの剛弦ベースのように唸って、バックロードホーンは凄い。
62年のスリー・サウンズと手合わせしたLPは、唄伴というより交互にマイペースを聴かせる嗜好がおもしろい。
四枚のLPを聴いて、アニタ・オディの音像をこころゆくまで楽しんだ。
しかし、あるとき偶然、スタジオでコマーシャル用に唄うフルスイングしているまったく別人のアニタ・オディをマッキントッシュ・アンプで聴いて、唖然とした。
まるで腕まくりした姉御のアニタの巨体が、タンノイの前で、豪放に唄っていたのである。
これはいつのまにかついに臨界をこえて、ノーブレス・オブリージェになったのかアニタ・オディは、凄い。
しかし、いまもって一番のものといえば、やっぱり56年にピーターソンが唄伴をつとめた『シングス・ザ・モスト』かな。
B面ラストの三曲をタンノイで聴くと、ゆっくりした時間がまどろんでいる、アニタとピーターソン・トリオの独特の雰囲気が気分である。
夏もいよいよ峠を越えたそこに現れたのは、「通路の散水弁から水が少々漏れていますが」と、紺色のシャツで決めたSS氏であった。
南三陸の観光船に乗って、この夏撮った海鳥の飛翔の一枚を、それとなくチラリとテーブルの上にすべらせたSS氏の、写識が遺憾なく発揮されている、後方に飛ぶ一羽の構図も、唄伴のようで見蕩れた。
しばらく感心するとSS氏は、
「まあ、それほどでもありません」とご謙遜である。







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橋下の夏

2010年09月01日 | 歴史の革袋
710年に唐の長安をイメージに造られた奈良の平城京は、当時の住人約20万といわれ、なにかとあの神仙古代のよすがをしのぶあこがれのモデル都市であるが、東北にも平安京を偲ばせる謎の古都がある。
現存する金色堂の材木の伐採年代から、おおむね1100年にそのまぼろしの都市の景観はほぼ完成した、住人15万というおそるべき巨大な平安朝都市『平泉』であるが、戦渦に焼亡して、今はない。
昔、千葉のS氏が奥方と遊びに来られたとき、現在の平泉の核心といえる金色堂にご案内したが、土地の者は国道の正門から月見坂に上らず、車で途中まで登って、金色堂にすたすた歩いて行く方法を知っている。
さて、月見坂を登って金色堂を見たのか、バイパスしてぱっと見たのか?
後々おおいに、それが美の壺人生の岐路になるであろう。
月見坂の一番下から延々と歩いて登る体験をしてしまうと、金色堂を見たさいのありがたみは、疲労困憊のはての恍惚である。
それゆえに、天下の国宝にご夫妻を正しく案内せねばという責任感にとらわれてつい、言ってしまった。
――うえでお待ちしていますから、ここから登って来てください。
当方は車で登って待つことしばし、思いのほか特急でふうふういいながら登ってこられたご夫妻は、汗ひとつかかずゆうゆうと待っている当方を見て唖然としておられたが、それほど月見坂は長い。
だが、西行や芭蕉が、京や江戸から長征した故事を思えば、眼下の坂も踏み段のひとつにも能わず、車でバイパスするなど、せっかく旅の楽しみに水をさす、無粋でなかろうかと考えた。
当方が奈良の平城京を初めて訪ねたとき、距離がわからず駅からタクシーに乗った。
運転者は「ハイ」と黙って乗せてくれたが、それから2キロも乗らないうちに、どうぞとドアが空かれてびっくりした、そこが原野の平城京趾であった。
大黒様の丘と土地の人に呼ばれていた土盛りが大極殿の跡であったように、失われた都が、わずかに区画が守られて長い年月を経てきたが、現在の平泉の都も、全容はまだほとんど土の中である。
あの時代に、15万といわれる居住規模は、木造の家屋が平らに並ぶ様相を想像すると、往時の日本列島に数えるほどしかない、空前絶後の景色が広がっていたはずであるのが、そらおそろしい。
はたして、想像の都市は、現実の景観を再び地上に表すのであろうか。
できることなら、その立ち並ぶ板葺きの町屋のひとつに、携帯タンノイを持って、二.三日旅の仮住まいを楽しみたい。
チャーリーパーカーのサマータイムをのんびり聴きつつ、きょうはやっと涼しくなりそうだと思ったそのとき、「どうも」と現れた人物は、赤い自転車から降りてひさしぶりにみる、あのSS氏であった。
鍔広の帽子をぬぐと、白い長髪はどうされたというのか、GIカットに整形された頭部が風を切って似合っていてびっくりした。
ピンクのシャツにアンモン貝のタイバーを下げて、その貝の部分だけで五万両というが、一般人に価値はわからないそうである。
以前にも、ユニオンジャックのストッキングで現れた客に驚かされたが、武芸の心得のあるものこの周囲にうろうろしていて、先日もサドルの高い組立て自転車が早朝に走って現れて「缶ビール一個」と、朝から楽しそうだった。
ともかくまあよろしいでしょうかと、彼はボンタンアメをこちらに勧めながら、再び新しい写真の数々を拝見したのであった。
むこうのペースではあるが、それもジャズである。





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