ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

MISTY

2008年01月30日 | 諸子百家
皿のうえの『雀』に、考えこむ。
道玄坂の小料理屋の二階に、オーディオ・マニアの面々が集まって忘年会があったとき、織部の小皿に二羽のっていた黒いアタマの雀の姿焼き。
尾頭付きの据え膳だが、これ喰うの?
このときみな、一瞬オーディオを忘れて、皿を凝視した。誰も場所柄をわきまえ否をはさむ失礼はなかったけれど、まんいち美味しかったらどうする。
我と来て遊べや.....か。
終わってみれば、ほとんど手つかずで、皿から集め、ハチ公にでもおそなえしたらよかった。
道玄坂は、インテリアの店や横町があって、記憶によれば、ただの風の吹く坂ではない。
TSUYOSHI YAMAMOTOの『MISTY』を買い求めたのは道玄坂下である。
エロール・ガーナーは、この曲をニューヨークからシカゴに向かう旅客機のなかで思いついたそうだが、当方にとっては、山本 剛とスズメなのか。

☆昔の記憶で、連続20人またの機会に。


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予期せぬ訪問者

2008年01月29日 | 諸子百家
むかしお世話になったところに、いろいろな出来事があった。
「近所のお巡りさんが、通路のドアから身を乗り出しているが、どうしますか」
4階の食堂で夜食を済ませラインに戻ると、ご注進があった。
行ってみると、目黒通りの交番の人である。
毎日通って見知っているその御仁は、世話好きのタメのある人物であるが、つい先日まで、どうしたことか御自分たちで建物を金網で覆い、竹篭に入った水沢藩の高野長英のようにしていたから、通勤時の評判になっていた。見ちゃだめ、と申し合わせていたのが、乱も収まって金網も取れ、火事とケンカの花のお江戸も太平に戻った。
大所帯のこちらが夜間にどういう仕事をしているか工場を見たがっている様子だが、どうしたものか、近所付合いであり、当方の一存で入ってもらうことにした。
「これが、写真をつくるところですかー」と、明るいなかにさまざま機械が動いて、若い衆が立ち働いているところを、もの珍しそうにしている。
オーディオ・アンプと同じかスイス製グレタッグ社のマシンは1Hで7560枚の写真が作れた。
「おやおや、これは」などとラインで目ざとく見つけた写真を、感に堪えぬように手に取った。それは、多才で剛腕な営業のタイアップ「ファンタジック水着撮影会」の1枚で、傍には不良品の大量に棄てられたダンボール箱がある。
「モデルさんは、自分のところに人を集めようとして○○なこともあるんでしょ」などと、写真を手にとって、踊り子のマネージャーのような珍案を繰り出したので、ただのメガネの制服人ではない。
まじめな社風を思んばかって、箱から選んだ数枚を渡し、「そういえば出荷基準の参考までに、ご意見を聞きたいのでよろしく」と言ってみた。
「では、お預かりして本庁に問い合わせましょう」と、頷いて帰っていった。
後日、次のようなみことのりが返ってきた。
『この問い合わせに、戦前の検閲の復活になるようなことはできません。良識の基準でどうぞ』
あのころは、水着のほかにもスーパーカー・ブームで、雑誌の付録に付ける『ランボルギーニ』の生写真を大量に講○社に納めたりしていた。






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アヴェドン

2008年01月28日 | 諸子百家
現像されたフイルムが滝のようにハンガーに釣り下がってブラブラと出てきていたが、或る時からロール状に処理されるようになった。
通路を通りながら、つい横目で観察してしまうのがよその職場だ。
そこは謹厳で正確な仕事ぶりで昔から鳴らしており、皆な兵隊のように折り目正しく、何かと絵になっている。
あるとき、フイルムを何本かダメにする事故があって、念のため神棚も祀られた。
どうも、それにくらべて、我々の居るところは、マイルス8重奏団の録音現場のように....だったか。
ひょろりとした彼が、ゴム手袋にゴムの前掛けで、腰を低くして業務連絡してくるとき、その迫力の無さに油断していたが、四階の食堂で一服していると、思いがけず声を掛けてきた。
「こんなの、どうです」
エッフェル塔を遠景にした石畳にハイヒールが乗っている、大きな写真集のワン・シーンである。『リチャード・アヴェドン』か。
ほかにどんなお宝が、彼の家にあるのか、何度か交渉したのだがついに出撃は叶わなかった。
ところで、五味康佑さんにマイルスを聴かせるなら、バッキングもタメのある、このへんのLPが良いのか。
――つまるところ、言葉で表現できないところから音楽は始まらなければならない。タンノイでマイルスを聴けば、痛切なる音色がそう語っている――
彼に『アメリカの音』を書かせたかった。



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IT NEVER ENTERED MY MIND

2008年01月27日 | 歴史の革袋
或る夕刻、それまで一度も入ったことのない社長室に呼ばれた。
落ち着いた照明と絨毯の部屋に、一人の紳士をテーブルに囲んでお歴々が五人、難しい話をしている。
ちょっと緊張がゆるんだとき、「皆さん、不明なところをよくお聞きしておきなさい」と社長が言った。
偉いさんのお供で当方は、翌日から極秘裏に郊外の某社に出向することになったことを、そのとき知った。
同僚たちに挨拶もなしで、永年お世話になっている職場からぷっつり姿を消したのである。
2ヶ月で戻るはずが、行ってみるとゆっくり2年になった。坂道の上のこじんまりした会社は、ほのぼのと時間が流れた。
そこで台湾から来ているCHINさんに会った。痩身で少し色の付いたメガネをしている、マイルスの支那服に似合いそうな人物である。
当方になにかと社内の情報を集めてくる怪しいCHINさんから、自宅に誘われた。
帰り道一緒に歩いて部屋に向かうとき、「道端に繁殖しているさまざまの草花を全部食べてみましたが、毒草もあって下痢して、食用を選り分けるのに気を使いました」と土手の周囲を指さし言った。
敷地の庭に廃物を埋める穴を掘ったとき、CHINさんだけは見る間に深く掘って息も乱れず、強靭な体力を誇示した。
倹約したお金を、台湾に帰るとき、薬品や家電製品の仕入れに使うそうである。
ポケットから手帳を出して、挟んだ写真をそっと見せてくるので、「なに?」のぞくと、そこにとても綺麗な女性が映っていた。くにの近所の子であるが、たぶんあなたと結婚したがると、匂わせるアイデア?がなんとなくよろしいというか、けしからん。
彼が再入国のとき許可が下りず、ひとまず本社と相談してから霞ヶ関に向かった。
地下鉄も虎ノ門かどこか記憶に薄いが、階段を上がって地上に出てみると、厳めしい機動隊が周囲ぐるりと五十人ほど待ちかまえて一斉にこちらを見るので、おほっ“とびっくりした。
指揮車の上から双眼鏡と白い杖をかざした隊員達が、いちいち地下鉄から上がってくる人間を、大声で仲間内に確認している。
どうやら出口を間違えたようで、あとに続いてくる客が、そういえば居なかった。
ササッと寄ってきた隊員に「法○省」と言うと、遥か遠くを指さした。
長いカウンターの一角で用件を告げると、丁度昼休みになったから待つように言う職員は、いそいそと取り出した将棋盤で隣りの同僚と指し始めた。
こちらは閑なので、たまにのぞくと、さすがに中飛車で大胆だ。
あれからしばらくになるが、CHINさんは台湾にいて、あいかわらず『風水』を占っているだろうか。
『WORKIN』の五人のメンバーをマイルスのオリジナル・クインテットというのはどうなのか、最初に9重奏団を組んだ1948年のあのころがオリジナルというわけでないようだ。
56年5月11日にまとめて録音された四枚のディスクの出来栄えを聴けば、絶品の演奏にオリジナルを納得したのであろう。
一度にそんなにやられては、当時の高価なLPに、だれも財布のヒモが金縛りにあいながら。



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写真家大先生

2008年01月26日 | 諸子百家
会場の黒板を背に、滔々と一席ぶっておられるのは、大江健三郎に似た、日本で高名な写真家である。
かしずくように左右に居並ぶ某大会社の技術員の面々は、各地の応募会社から差し向けられた受講者を前に、一定の緊張感をかもしていた。
といっても当方は、人材のあふれている社内から選抜され出席しているわけでなく、家でタンノイを聴いていたとき電話があって、「今夕は出社しなくてもよいから、明朝緊急に万障繰り合わせてかならず出席するように」厳命されてしまった、本来の予定人物と違う代理の立場であった。
否応無い宮使えの分際であることをわきまえて、地図を調べると、当時の日野というところは相当遠く、新宿に一旦出て快速で向かうか、登戸に廻って乗り換えるか、いずれ早朝の始発で向かっても三時間はかかりそうで、どうやらいまから出向いて目的地で宿を取って待機するしかないのか。
翌日当方は、全国から参集し宿で待機していた面々をしりめに、会場と同じ領内に住みながら一番遅れてもまだ到着しなかったので、心配した企画会社は、当方の社に問い合わせをくださっている。
旅先のケルンで皆からはぐれ行方不明になったときも、上司は「亜奴はきっと一人になれて喜んでいる」と言ったらしいから、万事察しているのか、何の連絡も無かった。
講師の写真家先生が、スタジオ写真の必要条件と奥義について、我々に伝授されること半時くらい過ぎたころ、「先生、そこはちょっと違います」と申しわけなさそうに異議を唱えたのは紺の背広に四角い顔の偉そうな社員であったが、以前にも見かけている人である。
すると写真家先生は、厚いメガネの縁を押さえて、なに?と言い
「ふーん、そんなら、あなたがやりなさいよ」と、のたまった。
立ち疲れた陪席社員たちも、そこで体を揉み解すように笑って、受講の我々も眠気が吹き飛んだが、訂正を言った人物は、間違った説明を受講者に持ち帰られては社の責任問題になるので、必死にとりなして、なにか江戸時代のような風景があった。
最終日までにいくつか試験があり、その結果を、全受講者の何番目の成績か本人には内緒で会社にレポートが送られていることを、誰も知らなかった。

☆KAS氏の撮影による伊豆沼の夕景






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必ず見に来る男

2008年01月24日 | 歴史の革袋
昔お世話になったところは、あるとき社員600人と契約社員が200人である。
ここに6人の取締役がいて、我々の取締りにO氏がいた。チラッと現れる男、血液C型。
配属された係のチーフは教育熱心で、日曜にもかかわらず、高額なドイツの機械を分解し構造をマスターしようと召集される。シーンとした会社に我々だけとは。
昼食は近所の食堂でいただいて、なんとビールまで取ってくださった。誰も飲まなかったのでチーフがしかたなく飲んで顔が赤い。
講義の続きをやっているところに、ふらりと現れたのがそのO氏で、まさか“と驚いたチーフは、飲んだものが逆流しどっと赤くなって、必ず見に来る男は、首をかしげつつ帰った。
それが手始めで、この人物、どこにもチラリと現れる、と気が付いた。
或る真夜中、隣りのドラム行程の歯車が壊れ、いつも威張ってこちらを煽っていたA氏が青くなって引き攣った顔で飛んできた。「どうしましょう」って、あんた。
初めての事故に、翌日の東京中の6営業所の大騒ぎが浮かんでぞっとした。
そこで思いついたのが、この必ず見に来る役員のことである。
ここは大胆に、上司を二階級飛ばし、寝ている取締役の家に電話してみた。
「はい、Oです」夜中に平静の声で、出来るところまで仕事を進めて、あとは明日手配しましょう、とのことである。
やれやれと片付けていると、なんとその必ず見に来る男は現れて、やにわに机の電話を握ると、壊れた機械を製造した会社の社長を起こし、深夜にもかかわらずガミガミとクレームを言っている。本当は、修理にすぐ来てもらいたかったのか。
翌朝現場に立ち寄ってみると、工具と部品を握って派遣された3人の男が、大勢の社員に物珍しそうに取り囲まれて、肩身を狭く恐縮しながら大型ドラムを分解している姿が有った。
しばらくのち、当方が郊外の某社にいて、屋根裏に作られた薬品溶解室で一人のんびりポリタンクのクサい薬品を撹拌しているとき、床に四角く切り取られた梯子の穴からにゅっと顔を出した男に驚いた。遠路はるばるあらわれてサッと帰ったのは、その『必ず見に来る男』であった。
D・エリントンは1956年にクラーク・テリー、ジョン・サンダース、ジョニー・ホッジス。リック・ヘンダースンなど22名のジャズ・オーケストラにボーカルの編成で、この『ドラム・イズ・ウーマン』はいっぷう変わった音楽だ。

☆敬称略で、さらに付け加えると、
偶然、先輩諸兄に誘われて、この近寄り難い役員のご自宅を訪問したことがある。
見ると、自宅と塀の間に、ゲンコツ1個の微妙な隙間を残し乗用車が納まっており、人間業ではないな、と感じた。
落ち着いた旧家に、二人の麗人がご家族としておられ「女の子は、その日が来るまでお預かりしているという存在かな」、と申されて、またいわく、「どこのどなたと縁組みになるかこればかりはね、世間のどなたとも仲よく行かねばなりません」と。
当方は、ジュージューいう焼き肉をいただきながら、まったく世間音痴のため場違いな発言をして顰蹙を買ったのであるが、同じ買うならワインの1本も持参したかったものである。
あるとき、このO氏の書く通達の字が綺麗で感心していると、あれはね、と先輩が言った。
「むかし社長に、もうちょっと字を何とかしなさい、といわれて、子供に混じって寺子屋かよいをしたらしい」
赤坂見附の某社を訪問の帰り、「御茶でも飲んでいこう」と引率のO氏が言い、7人ゾロゾロ中華飯店に入った。
1杯の中国茶と1個の肉饅頭をいただいたが、満足した気分でテーブルを良く見ると、当方の皿にだけ饅頭の底に付いている紙が、残って無い”。
他の人の皿には残っているのに、その謎はいまもって謎だ。






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圓生

2008年01月23日 | 歴史の革袋
東横線を降りてロータリーに一歩踏み出したところで、向こうから来た彼とばったり出会った。
「おー“」
ローマの騎士のようなそり込み頭の彼とは、仕事が変わってから二年も経つのか、いまはホテルの厨房で朝早くからパンを焼いています、と元気そうだ。
すると頭の上まで全身白ずくめで煉瓦の竈に立つのであろうか、雄姿を想像しながらオーディオの話になった。
近くに部屋があるからと案内されて、階段を上って右の奥に彼は住んでいた。
コーヒーをいただきながらしばしアルマゲストの時代を振り返って、ではこれをとかけてくれたのは、落語のレコード『圓生』である。
「暗くして聴いていると、そこに高座があるようですよ」と彼は首をすくめた。
背後で、なにかバサバサッと音がして、あれっと振り返ると、繋いだ止り木ごと大きな白いオウムを持ってきたのでびっくりした。生きているそれは大きな目でこちらを見て、タマネギの皮のように逆立てた頭の毛が開いたり閉じたりしている。
しばらくして「よかったら、こいつを貰ってくれませんかね」と、彼は半分本気のように言ったから、とんでもないと断ったが、今聞いた落語の続きのような話しに、わけを尋ねた。
自分では気にいってるんですが、友人が来たとき、「オマエ、男の一人住まいにオウムいっぴきはないだろう」と言われまして、と腕を組み笑い顔をしている。どうもそれだけではないようだ。
隠れ家に小鳥を飼っている『サムライ』というフランス映画があったが、鳥の存在が賑やかなようでいて、あれは何も無いより胸を打つシーンである。
タンノイで聴く圓生は、三味線のお囃子からはじまる。佃煮をつついて酒を飲む様子や「おまいさん」などと声色が、江戸下町風情の映画のように鮮明だ。
圓生を聴いて、あの後オウムと彼はどうなっているか、知りたいものである。



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ロス・インデオス・タバハラス

2008年01月20日 | 諸子百家
それは、いっぷうかわった人物であった。
彼が職場に配属されたとき、たまに居なくなるので「どこに行った?」と周囲にきいてみた、が誰も知らなかった。
どうも4階のコンピュータ室傍のベランダで、ピーナツをかじりながら東京タワーのほうを見ているらしい。
そっと傍まで行って、まあそれとなく、将来の夢を尋ねた。
彼は、ピーナツの袋をこちらに向け「いつか古書店をやりたい」という。
これまで勤めていた会社は、朝、出勤すると社長が入り口に出迎えて丁寧な挨拶は良いが、給料が安かったと、やはり丁寧だけではたりないのである。
その後、当方のアパートに遊びに来るようになった彼であったが、メガネの厚いレンズが物語っていたのか、豊富な知識を繰り出してくる。
夜勤の充電のため昼寝している時などもやってきたから、「あと2時間仮眠」というと、暗い中、入り口の畳の上にごろりと待っている時もあった、FMから流れたロス・インデオス・タバハラスのように、ふわふわしたよい時代のことである。
あるとき彼が、内ポケットからビニールの袋を差し出すので....???。
「コーヒーのお礼」と切手シートが何枚も出てきて、彼が子供時代から蒐集していたお宝を、新宿であらかた処分してきた残りという。
そういう彼が、突然まえぶれなく東横沿線に建売りの一軒を購入したときには職場の誰もがアッといったが、「突然の父の遺産分配があり買ってみたけど、失敗した」とボヤキを連発し、なんでも環七の車がやかましくて安眠できないのですと、いいわけの煙幕を張った。
当方が訪問してみると、彼は隣室からチャコール・グレーの袋を下げてきて、テーブルにジャラジャラ!と広げ見せてくれたそれは世界各国のいろいろな銀貨で、もっともな解説があった。
これはコレクターである。
その彼があるとき不在の職場に、突然、故郷の親代わりの兄なる人から、電話があった。
「どうしましょう」とはな子さんがいい、かわりに受話器を握ったところ、「ちかく上京するとき、嫁さんの候補を連れていくので、本人に待っているように伝言してもらいたい」と、電話の向こうはそうとうなハイテンションのお言葉であった。
「うけたまわりました」と、代わって喜んだ。あこがれの花嫁候補である。
折角の慶事であり、当方はさっそく電話をわざと置かない彼の新宅に伝言を持って立ち寄ると、彼は見たこともないほど不機嫌になって、「まったく!」と一言、こちらがとばっちりを受けかねない。
その気はないのですと断言し、富士の高みのこころざしにこちらは瞑目した。
だが、ふと思い出したのは、忘年会の酒の席でそれとなく、どうなの?と理想の人をたずねたとき「八千草薫」と女優の名を言ったから皆で感心して、18才歳上のマドンナの話は、しばらく酒のツマミになった。
彼は、音楽的にはビーチ・ボーイズやビートルズ世代であり、熱心に蒐集したLPを多数聴かせてくれた当時のことを思い出すとき、あれからだいぶ月日も経って、やはり、八千草なにがしは、その後どうなって、ということか。



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ケニー・ドーハム

2008年01月19日 | 諸子百家
「相手はガイジンのお客ですが、現像から戻ったタイ王室のフイルムが、ほかのものと入れ替わって自分のではない、と怒っています」と、ご注進があった。
日にちも過ぎているので、直接その人物と会って解決してほしいそうである。ガイジンさんか~。
都合よくその日、英語を話せるKNさんはベトナム高官のご子息で、傍に働いていた。
よし、いくぞ。通訳をお願いして、先方の会社に行った。
品川の殺風景な貿易会社の一室に通されると、相手は反り返っていて、オーバー・ザ・シーなんとかの名刺をテーブルのこちらに滑らせてきた。
ようするにいくら補償するかという話である。
「損傷の規定は代品交換であるが、貴殿には特別5本渡します、と言ってください」挨拶と経過の話のあとで、シネフイルムの箱のメモを指先で示しKNさんに通訳してもらう。
相手は、それでは納得できないと言っていますね。
それじゃ、日本には高額補償の習慣がない、と通訳してください。言葉の解らないのを良いことに、あまり真剣でないやりとりをした。
紳士なKNさんと、怪しい相手は、当方を差し置いて、必要以上に長々と話している。
それで良い、ということになった。
外に出てから尋ねた。「何を話していたの?」
「あの人は日本語が出来ます。ボクが南ベトナムから来ていることを知って、戦地の母国の話になり、がんばりなさい、と言われました」
....。
ケニー・ドーハムは、C・ディビスのバリトン・サックスにのって、ハード・バップの芒洋とした海に、クールでエレガントなトランペットを響かせ、喫茶店の珈琲タイムが抜群である。
本を読んでもよいし、会話にも溶け込んで。
徒然なるままにドーハムを聴く。




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羽田から元町へ

2008年01月17日 | 諸子百家
「納品されたのは自分の写真ではない!とお客が....もめてます」
羽田エリアの営業T氏から相談があった。
昼食のあと、あわただしくコーヒーを呑みながら一緒に目を通して、そこに写されているマンションの室内と、外人女性の顔と、どこかの街の風景を見た。
「これだけでは、どうにもならないねw」
1週間過ぎたころ、保留の箱からまたながめて、1枚の写真に眼が止まった。
窓から写されている街路の角の電柱に、かすかに番地標識が写っている。
これをなんとか。
手焼きに頼んで拡大してもらった画像から「元町4-」と読めるような気がする。
横浜元町なのか?
Y営業所に送って、おおよその場所を絞り込んでもらった。
元町は「ボーテック○○祭り」のとき、異国風の商店街を歩いて、海側の奥まったレストランで昼食を食べたことが有る。
週刊誌を片手に、ひさしぶりに横浜元町駅に降りた。
この町特有の情趣は変わらなかった。やがて裏路に入っていくと、先に到着していた営業のT氏が電信柱の前に立っていた。
周囲の構成も間違いなく、撮影された角度から俯瞰してマンションの二階のぬしである。
ご本人は留守で、管理人からお勤めの官庁に連絡していただいて、近くの喫茶店で会った。
席に座った男性は、「覚えがないんです」と言って写真を見ていたが、サッと顔色を変えた。
「自分の部屋が写っている!なんで?」
それには、こちらが驚いた。
まてよ?...と写真の女性を見て、「これは夏休みにデュッセルドルフから遊びに来ていた友達ですが、そういえば羽田の化粧室にカメラを忘れた、と言ってましたね」
なんとなくストーリーは読めてきたが、これはあとになってみると、追求しないほうがよかったケースになったのが残念だ。
横浜、横須賀はジャズの街だが、元町のカレー・ライスを、また味わってみたい。

☆撮影は例の哲人による。


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ダイアナ・クラール

2008年01月15日 | 諸子百家
キャッスル&ゲイツの唄声が、乾いた空に吸いこまれていったあのころ
初めてファインダーを覗いたカメラはペンタックスSVという。
ペンタプリズムの覗き窓の向こうに、切り取られた永遠の時は広がっていた。
裸眼では悟り得ない、フレームの向こうの光景である。
べっこうブチのメガネに軽々と黒いバッグを肩にさげ、さっそうと仕事場に現れる男は、厚い手のひらでニコンFを掴み、しゅっ、しゅっと巻上げレバーを操る。
風雪をへた凄みのぎょろりとした眼光と、厚い唇から語られる写真談義が、周囲に集まる若者たちを楽しませていた。
「なんで、3台もニコンFがそこに入っているの?」
椅子にどっしりと掛けた男は、被写体を追いかけてきた半眼のまなじりをまげて、銀色の声で答える。
「モノクロとカラーとリバーサル用ですが、このようにレンズも長短いろいろ取りつけていますから」
そのレバーの銀色と黒い違いは?
「新しいFロットで、プラスチックの指掛けタイプになったのです」
言葉は、カメラという怪しい仕掛けの魅惑尽きない夢を説いていくが、休憩時間はすぐ終わりがくる。
いつのまにか銀塩フイルムが消えようとしているとき、彼もあれからデジタルに移行したのか、どんな映像を創っているのか、知りたいものである。
『ニコンF』のなかでも、特異なオブジェを初めて見たときの衝撃がいまだにさめない『フォトミックFTN』カメラを、銀塩写真によって味わっておきたいと、このごろ思った。
ダイアナ・クラールの唄声とジャケットは105ミリレンズの遠近感である。

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無言で襖は貼られる

2008年01月13日 | 諸子百家
.
1953年の9月に、マダガスカル沖で『シーラカンス』は発見されたが、280万年も沈黙の生物だったので、その朝の新聞をいまも憶えている。
以前一緒に働いた、京の御公家さんのような珍しい名前のひとは、どこかシーラカンスのような...気品というのがあった。
その人は、お先にどうぞと出世も何事も一歩退いているのが奥床しい。
昼休みに、陽溜まりで半分眼を閉じていたとき尋ねた。
ところで、どうしてここが良かろうと決めたのです?
「まえの会社は争議が煩わしかったのです。あれは苦手で」
ふーん。休日は何をして遊んでます?。
「家のいたんだところをトンカチで直したり、障子や襖を、先週は貼ってました」
それはどんな具合か、仕上がりをいつか見てみたい、と言った。
或る日、同じテーブルになって昼食を摂っているとき、かれは言った。
「昨晩、帰りが遅くなって環七を飛ばしたら、変な車にからまれて....」
彼のずうたいに似合わず、赤い小さな車が必死に走っているところを想像した。
「練馬に抜けたころ、やっと振り払ってやれやれと一息つこうというとき、救急車が反対側を走って行ったので、あれっ?と、引き返してみたんです」
ふーむ、それで...。
「ひっくり返っていました、その車が」
双方、なにごともないかのように、絶句して箸を動かした。
最近、さるB氏の襖貼りというものを撮影してみた。
けっこう楽しいかもしれないが、このスローなスイングに似合うジャズはむずかしい。


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NIGHT TRAIN

2008年01月10日 | 歴史の革袋
いろいろある彼の趣味のひとつは、スターやタレントの家の前まで行ってみることで、そのことをきいたときには、へんなやつ!と思ったが、若いからしかたがない。
その男は、夜勤の最中に、「そろそろ通るよ」と言った。
「なに?」そっと仕事場を離れるところを追って庭に出てみると、真っ暗な夜空の都心の方向が明るい。
やがてピカピカ光る星が現れ、速いスピードで糸を引くように東京タワーの方に消えていった。
どうやって一分と違わない時間を知っていたのか、満足そうに見上げている男の顔があったが、インテルサットかコスモスか、そのとき初めて見た人工衛星である。
彼の郷里に有名な山があって、引き伸ばした写真を大事に額にいれて自室の壁に飾ってあったから、名前を尋ねた。
どういう風の吹き回しか「その山に詩をつけて」とご要請があった。
いかにも有難くなる美辞麗句をひねって渡すと、自分で書いたように喜んで、しまいには額縁の下に貼っていた。イタタ。
へんなやつ、とあまりひとのことは言えない。
その年にリリースされたオリバー・ネルソンビッグバンドの豪快なスミスとモンゴメリー。




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シドニー・ビエンナーレ

2008年01月10日 | 諸子百家
いつのことだったか、韓国から日本に芸術の勉強にきている彼は、アルバイトをしばらくするという。
語彙の少ない日本語でコミュニケーションできた。
なぜ日本に?とたずねると、世界中の新しいことが、日本では簡単に勉強できると、教えてくれた。
「たいてい日本で揃います。日本はすばらしい」
へぇへーッ...壷の中で暮らしている当方にはイマイチそれがわからなかった。
あるとき、新宿のビルの1階で絵画作品の展示販売をすると聞いた。よろしい、皆で三々五々観に行った。
水墨画の風景の大作が並んでいたのを見て、かれが何者か少しわかった。
韓国に里帰りしたのでと、顆粒状の朝鮮人参パックをおみやげにもらった記憶がある。
それからだいぶ時が経って、記憶もおぼろげに忘れかけていたあるとき、テレビ番組でシドニー・ビエンナーレの詳細が流れた。
ふと見ると、向けられたマイクに韓国を代表しなにやら話しているのはまぎれもなく、あの人物ではないか。
そのときの彼の作品は水墨画ではなく、テレビのブラウン管を床に100個も敷き詰めた映像のうえを、人が歩いて思索するようになっていた。
それはジャジーでシュール・アーティスティックというのか、日本での成果も床のブラウン管に映っていたのだろうか。
タンノイを聴きながら、しばらく驚いた。


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フルトヴェングラー

2008年01月08日 | 歴史の革袋
同じ職場にあっても、都会で働く人の、もう一つの日常はさまざまだ。
ポマードの髪にメガネをかけ、学者風にゆっくり話す彼は、あるときはカメラマンらしかった。
いろいろな撮影依頼が舞い込むという、その分野はどのようなものか。
「いやー、怒られました」仕事の休憩時間に、テーブルの向かいで静かに彼は言った。
なに?
「ホテルに案内して、私がカメラを準備したら、何するつもり!と怒るんですが。いけませんでしたか、というか...」
........。
林野庁方面の仕事ばかりではなかったのか。
頼まれると断れない性格のいま、どのような被写体を追いかけているのか、知りたいものである。
1937年のフルトヴェングラーは、大河のように流れる深刻な時代の緊張と熱気をはらんで、五番は音質もまずまずのスタジオ録音だ。


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