ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

スタン・ケントン

2013年01月21日 | 徒然の記
クール・ジャズのスタン・ケントンを初めて聴いたのは20代の頃キャピトルのテストレコードによって、素晴らしい音がした。
オーディオが流行し新製品がふんだんに発売され、テストレコードも数えきれないほどあったが、老舗のキャピトルは贅沢なダイレクト音源が素晴らしかった。
『虹のかなたに』という曲を、ベルリン・フィルの豪勢なフルオーケストラで、あるいはカウント・ベイシー楽団でとびきり叙情的にナマで聴いてみたい願望があるが、このスタン・ケントンビッグバンドは、ハリウッド・スタジオのほかダンスホールで活躍し、アニタ・オデイやジューン・クリスティの歌姫も一世風靡したことで皆知っている。
『虹のかなたに』をケントン氏のアレンジで聴いてみるとき、ふと、この曲が演奏された1953年の頃、当方幼少につき、風邪で高熱が出ると寝ていて「天井がグルグル回っている」と、たわごとを言って周囲を緊張させた。
なんでもほしいモノを買ってやるから、というので布団の中から「万年筆」と言ったところ、当時やんごとなき電話番号の書店から枕元まで配達があったのが恐縮である。
それにつけても、キャピトルのテストレコードのような味のある音は、その後もなかなかおめにかかれないのが残念だ。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6番『田園』を聴く

2013年01月15日 | 徒然の記
潜水艦の中のような狭さである。
かまぼこ屋根の建物の右が、酒類販売のブースで、中央がこの写真の区画になっている。
左が喫茶店でタンノイ装置があり、奥に狭い厨房があり、天井物置にはレコードやパソコン類やゴルゴ13やプラモデルや雑誌資料が置いて有る。
久しぶりに交響曲『田園』を聴いて、第4楽章の嵐の情景まで登りつめていくフルオーケストラの音量と迫力のすさまじさに、これほどのものだったのかと驚いた。
大音量で聴く『田園』は、論評を越えた隔絶の世界があった。
昨日のこと、喫茶の窓ガラスにドシン!と激しい音がして外に出てみると、排水堰に痺れて手足を広げている百舌鳥の姿があった。
掴んで畑の藁のうえに放っておいたら、気がついたときには姿が無かった。
耳のよい鳥が、タンノイを聴きにきたか。

いざ行かん 雪見にころぶ 所まで







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『エール』

2013年01月12日 | 徒然の記
バッハの管弦楽組曲を全曲聴こうとすると、LPレコードでは2枚組になり、通常は2枚目のA面の中ほどにこの全曲の音楽の頂点に極まるといわれるアダージョが静かに鎮座している。
それが3番の序曲のあとに鳴りだす『G線エール』といわれる曲であるが、いろいろ演奏を聴かせてもらうとやはりひとつとして同じものがない。
それで以前は、もっともオーディオ装置にマッチした音響の演奏団体を選り好みして、それを一番にしていたが、タンノイが自由に鳴りはじめたころから、どのレコード演奏にもそれぞれに聴き所のあることを知った。
ひとつの同じ楽譜であるはずが、まじめに違う演奏がなされて、それぞれ意味のある解釈に聴こえるところが、油断がならない。
タンノイは、もしかしてまだ本当の水準を見せていないのではないか、というのは欲であるが、この先がまだあると考えている。
あるとき、海外の名所で鳴っているウエスタン16Aの音が、堂々とした低音装置に支えられて慄然とする新機軸で鳴っているところを耳にした。
タンノイをそのように鳴らすのも、楽しいかもしれない。
そのような音で、組曲3番『エール』や、これまでのさまざまのジャズを聴けばどんなであろうと、新しい音楽世界の誘惑に気がついた。
掲載写真の机に電話機が2台見えるのは、一台はイルミネーションがクルクル点滅して着信を知らせる、鳴らない電話に繋がっている。
音楽の邪魔にならず、気がつかないとそれまでであるが。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

双鉤填墨

2013年01月09日 | 徒然の記
マグニチュード7のあと、天井部屋の荷物が重量的に心配になったとき、ちょうどチリ紙交換のトラックとすれ違った。
大量に有るから、と言うとトラックはすぐ方向を変えて付いてきてくれたのが幸運である。
紐で結わえておいたMSDOS時代の「アスキー」や「IOデータ」や「ICON」などの雑誌をこのさい処分して重量軽減を済ませることができた。
もう読むことはないと思ったが、哲学者クロサキ氏の記事など、いま読んでも、ついついおもしろいので読みふける。
ICONの創刊号には、文豪をおじいちゃんにもつ少年がノートパソコンのレポーターをしているが、マンガ夜話という番組に健啖をふるう別人に成長していたので驚いた。
あのころ高額だったパソコンも、いまはネコもまたぐ無用の箱になりさがったが、ウインドウズ95の圧倒的完成度に興奮した日があったとは。
キーボードは『PS55-001』が、現在でも能筆的に優れていて、winXPのレジストリを加工し、うたた寝しながらポチポチ入力するのに向いている。
昨日テレビのニュースで、「書聖」王義之の双鉤填墨が国内で発見されたとの吉報に衝撃を感じたが、筆を選ばぬ能書家も、パソコンを使う時代になったのだろうか。

人々を しぐれよ宿は 寒くとも





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長者ケ原廃寺の謎

2013年01月01日 | 歴史の革袋
元日の長者ケ原はマイルスの『WORKIN』のサウンドがかすかに聴こえるように澄み渡って、陽が射していた。
衣川沿いの道を行くと、やがて透明な空気の中央に堂々とした石碑が見える。
1189年7月のこと、28万の軍列をととのえ鎌倉を出発した頼朝が平泉に入ったのは8月の夏のさかりであるが、かねて何度も眺めていた平泉都の絵図を現実にして、北上川正面にある柳之御所周囲をかりに千代田区とすれば、いま立っているこの衣川の北面は、水耕田や原野で広がる『長者が原』とよばれる、渋谷区松濤のような建物でうまっていたはずである。
頼朝は、とうとうそこに立ったとき、長者ケ原廃寺は「ただ四面の築地塀が残るのみ」と吾妻鏡に記述がある。
中尊寺伽藍が完成した時点で、時代的にすでに廃寺であったのだろうか。
長者が原の名は『金売吉次』の屋敷跡をイメージしたネーミングが伝説に残ったものだが、歴史が吉次の立場を商社の統括本部長と秘密外交官を兼務させたものであれば、ここに輸出入用の大きな蔵が何棟も建ち並んであったと言っているかもしれない。
秋田には吉次の隠し金山と言われるものがあり、東山町田河津や各地に金売り吉次の屋敷跡が残っている。
勧進帳にある東下りした義経主従を迎えて接待を担当していた泉三郎は、長者が原とは隣接した『泉ケ城』に住んでおり、義経を京から導いた吉次のコミットを考えれば、渋谷区松濤に判官館を移すことが自然のようでもあるのだが。
頼朝がことさら長者ヶ原廃寺を見学したのは口実で、本当は平泉に匿われていた義経の判官館を、以前から地図にマーキングし、ひとめ見たかったのではなかろうか。
敗走した軍勢の追討に厨川まで進軍した頼朝は、まもなく平泉に戻って逗留し、金色堂や二階大堂などの名所をゆっくり巡回している。
「あそこが義経殿の住居でございました」
案内人が、気を利かせてそれとなく指し、供連れてぞろぞろ進む頼朝は馬上から眼の端にそれを見ていた。
そのとき、背後で供の者どもが騒いでいる。
指差す方向を見ると、衣川対岸の関山の中腹にちょうど陽が射して、二階大堂の天窓に黄金の仏像の顔が光っていた、
後年鎌倉の地に二階大堂を再現して散歩に馬を向けた頼朝は、そのとき東北の長者ヶ原の景色をかさねて思い浮かべていたに違いない。
「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
芭蕉も矢立ての句を詠んで本所深川を出発し、奥の細道の北限に泉が城の到達を記している。
元日の遠乗りを終え国道四号線にコースに取ると、反対車線は元朝参りの車が繋がって、そこにいかにも頑丈な白いマスクをしてハンドルを握る一台の巴御前の業務車両と当方はすれ違った。
帰宅すると遠来の訪問客が有って、鶴屋八幡の羊羹をいただいて幸甚。
日本茶の正月に、ゆっくり暦をめくった。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする