ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

野鳥

2013年06月06日 | 諸子百家
昔、お世話になっていた寮で彼はブランデーを手に、ガモフやアシモフやマルコムXを社会に出てまもない当方に話してくれたが、ひとはみな、こころに宇宙を持っている。
ガモフ氏とは天文物理学者で、我々が暮している宇宙に年齢が有り原子背景放射の色温度を測れば過去と未来の寿命がわかると言ったような気がするが、またアシモフ氏とは科学者兼小説家でロボット工学の先駆者。マルコムX氏は黒人公民権運動家で「ニーチェ、カント、ショーペンハウアー全て読んだがどうも彼らは、さして重要でない議論に無駄をしている」と言った。
では、一足飛びにフェーズが移動し、当方の母屋の庭や二階から観察する野鳥世界は、黒沢橋と新国道橋の一角に納まって季節のうつろいを見せている。
ここで観察した移動物体を、13枚の組写真にしてみたのである。
子供の時、太陽を我慢して一分間肉眼で見ると、光球が七色に変色していた。
飛行機雲はマイルド煙草の広告がやはり優れている。
白鳥は列になってシベリアから飛んで来るらしいが、最近疫病が言われ息を止めて上空を見る。
モズは肉食で獲物を木の刺に射し貯蔵する、メスのみが抱卵する。
ピーヒョロヒョロと鳴くトビは、高空を円を描いているが人間のアブラゲを攫うこともあるという。
ハヤブサは小鳥を狙う肉食で、空の一点に止まっている。急降下の時速は380キロを出す。
ヤマドリは柿本人麻呂の歌に「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」とある。
オナガはカラスの仲間で集団行動し、鳴き声も多彩。
ヘリコプタは滑走路がいらない。ドイツ人が飛行体を実現し、アメリカに亡命したロシア人シコルスキー博士が実用化した。
ツバメはカラスを避けて民家に巣を造る?
ヒヨドリは人に馴れツバキの蜜や青虫などを食べる。まれに集団になると農作物を荒らす。
カラスは、手強い。
ヒバリは、大伴家持が万葉集に『うらうらに照れる春日に雲雀上がり心悲しも独りし思へば』と詠んだ。
オニヤンマは、あのスズメバチを捕まえて食事する。
ウグイスはオスが啼いて縄張りを守り、メスがヒナを育てる。
カモは集団で水辺に生活しているわけがある。
セキレイは尾羽根を上下にゆらし、クモや昆虫を食する。
ホトトギスは目の周りに黄色の輪をもち、トッキョキヨカキョクと啼く。平安時代、夜に厠に行くと闇に鳴き声がして怪しまれた。
スズメは、子供の時、庭に米を撒いて籠をかぶせ捕まえたが、捕まえたあとが面倒だ。
ツグミは口をつぐんでいるが、野生姿に見栄えが有る。
シジュウカラは黒い帽子を被って庭に立ち入ってくる。
カケスは雑食で周囲の擬音を真似て啼くこともある器用な鳥。
雁は月の夜に鉤形の隊列で飛び、伊豆沼でも見るが禁猟。
キジは付近の河川敷に住み、繁殖期にかん高い鳴き声がよく聴こえる。
ヤマバトはデデッポッポと啼いて、羽根がきれい。
アオバズクは夜行性の敏捷な猛禽。遠くの森でホーホーと鳴き声がする。
これらの観察に双眼鏡はニコンの12X36を使い、手持ちで視界がグラグラする限界。
ほかに野生の熊も早朝に山から磐井川を降りてきた噂があったが、それを見たときは危ない。
タンノイは良い音であるが、このようなものが周囲に生息している。
蝶鳥の 浮つき立つや 花の雲




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The Eagle has landed

2013年05月06日 | 諸子百家
五月の連休の終わりに千葉のジャズ愛好家と、モールス信号熟練のお客がお見えになって、「そこで購入してきました」と『インドの哲人レーザーデスク500円也』を見せていただいた。
われわれたいていの映画は見ているが、J・ヒギンズの『鷲は舞い降りた』は1975年に刊行され、ベストチャートで6ヶ月連続一位の人気小説である。
映画では、チャーチル宰相誘拐に英国の寒村に潜入したクルト・シュタイナにむけて、ドーバー海峡をフランスから伝書鳩を飛ばし、潜水艦到着日時を知らせる重要なシーンが有った。
無線通信機ではなくハトを使う理由は何か。
当時の暗号電信はドイツではパソコン型の『エニグマ』が有名で、三枚ローターを連結換字する傑作であったのに、連合国はこれをすかさず解読して終戦までとぼけていた。
まさか、263=17,576換字のエニグマが解読されていようとは。
このような大がかりな機械は、とても携帯できなかったはずである。
チャーチルの同時代に、山本五十六提督へ真珠湾攻撃の御前會議通達を知らせる無線を船橋無線塔から発信したトンツートンも、どうも解読されていたらしい。
戦後になって、アメリカ公文書館はこの解読ペーパーを公開している。
当方もむかし趣味で暗号表を作ったものであるが、あっさり解読されたうえ、「換字が間違っています」とまで指摘されるオチがついた。
”The Eagle has landed”は1969年にアポロ11号が月面に着陸した時のコード。





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『ハッセルブラッド』

2012年05月02日 | 諸子百家
むかしお世話になっていた会社で、ある時、席を並べていた隣の人物は趣味でハッセルブラッドを持っていた。
釣好きで、「きのうはせっかく皆が集合したのに、海浜丸の船長あっさり×これだって。低気圧高波でガチョーンです」
手を×印に組んで船長の断るしぐさをしたが、我々も彼の勧めに10人ほどで釣休日を楽しんだとき、竿から餌から気配りてきぱきの釣船に大満足したことがある。
普段の社内の様子にない不思議な才能を感じた。
営業が、あるとき言ってきた。
「取引先の社長が、オレの同窓会の撮影を頼むといっておりますので。成○大学二十年期クラス会だそうで、ひとつよろしく」
ほかにも、西○デパートの七五三祝い撮影応援などというのもあったり、そのころ我がチームは社内で暇に思われているらしく、いろいろなところに助っ人に駆り出される運命であった。
会場に時間ぴったりに着くと、すでに宴会たけなわで、とくにクラスメート同士で結ばれた男女がいまでも嫉妬酒の中心に座らされ照れている様子が可笑しかった。
記念撮影の時間となり、全員に並んでもらったところ、名士達はいつまでも自由に振る舞って揃わない。
ここは適当にストロボを焚くところだが、彼は頑としてシャッターを切らず、辛抱強くハッセルのタイミングを待っている。
依頼主も集団の中から、いいから撮って!と声を出しているが、彼はいっこうにハッセルブラッドのシャッタ―を切ろうとしないので、全体を見ているこちらは次第に焦ってきた。
――適当に撮ったら・・・。
「いや、あとになって写真を見たときキチンと写っていないと、必ず文句があるのです」
彼は動じず落ち着いている。
後日営業は「良く写っているとお褒めの言葉をもらいました」と礼に来て、そのときおもわず隣の席にいる表情一つ変えない、ふだんはひょうきんなところもある人間を眺めた。
『ハッセルブラッド』はブロニーカメラで、ドイツ製ツアイスレンズをセットし、画像の秀逸が評判であるが、スエーデン製というところに意外を感じる。
大戦中、ドイツの偵察機がスエーデン領内に不時着した機体を差し押さえて、搭載カメラを分解し、より以上のものに仕上げるセンスがあった。
スエーデン鋼というものか薄くて丈夫なボデイ構造は、レンズの性能とあいまって、アポロ宇宙船で月まで飛んでいったことが誉れである。
そのとき世界中の人間が見た月面に広がる風景は、アポロ専用に設計された水晶の単結晶ツアイス・レンズで撮影されたものという。
レコード盤を見るとき、デジタルカメラは銀塩フイルム時代の世界を越えたのだろうか。
またまた髪の長い、タイプの違う女性がジャズを聴きに登場した。







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Fフイルムス

2011年08月15日 | 諸子百家
ズートが1973年に『at ease』を吹き込んだあのころ、千駄ヶ谷の坂道を登ってゆくとロスのような風景はまだ空間が多かった。
訪問したF氏の映画制作会社は、この千駄ヶ谷坂道の途中に茶色の偉容のマンションがどっしりして、初対面であるが、ツール・ド・フランスの遠征撮影や各種コマーシャル撮りなどさまざま制作に多忙でおられた。
ガラスドアを入ると、いきなり10人ほどめいめい自由かってな行動の社員がおり、さらに奥で16ミリシネカメラを三脚の上で回している三人が、そのレンズを断りなく当方に向けてジーッとやりはじめたがフイルムは入っている?。
持っていったケーキを箱につめたものをわたすと、社長は現れて、バリトン声で「忙しくてメシを食う暇もない」と菓子パンをかじりながら蜂須賀、真田といった陣羽織をイメージさせる風貌で、当方を圧倒した。
上階の自宅に専務という人が伺候していて、こちらの出身地を耳にすると、
「これから夜行でその一関を通過し、千厩まで仕事の打ち合わせに行くんですが」
と言った。
社長は聞こえないように、マインブロイの金色の紙のかかったビール・キャップを次々抜くと、めいめいに注ぎながら、大皿のサーモンのマリネなどを勧められ、当方には親御さんのポートレートを一枚見せてくださったが、広角画面でガバッと撮った仕上がりが異様に鮮烈でいまも記憶に思い出す。
きょう八月十五日は終戦記念日で、ズートのジャズを聴くと、かって太平洋に対峙した国の音楽であるというものの、彼らの演奏はこのような日にも似合った暖かいフレージングで、いつもはどのLPも二曲程度を、つい表面にまで針を通してしまった。





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白妙の衣ほすあり

2010年07月04日 | 諸子百家
ヘプバーンと教授の『マイ・フェアレデイ』の一幕は、英国オペラ的、洗練への挑戦ということなのか。
日本にて園遊会があった日は、洗練への日本的結晶がそこに見られて、午後のニュースがジャズである。
或る時、目黒駅でタクシーを拾い権之助坂と反対に下っていくと、妙なことに気がついた。
通りの沿道の両側に、10メートルの間隔で相当数のお巡りさんが並んでいる。
運転者に聞いてみた。
――何かあるの?
「おそらく、あれでしょう」
そのときビューッと現れた無音のパトカーの先導で、旗をなびかせた黒塗りの大型車三台が猛スピードで傍を通って行った。
通りの先まで、一瞬すべての信号機が青になって、それであっというまに姿は見えなくなった。
「迎賓館に向かっていますね」
外国の賓客?。
そのあとで不思議なことがおこった。
沿道にあんなに大勢並んでいた制服の集団が、忍者のようにさっと姿を消していた。
洗練への一幕の挑戦か、都会のうたかたは何事も早い。目黒通りはまたいつものように、うららかな陽気をアスファルトに照り返していた。

春過ぎて 夏来るらし 白たえの 衣乾すあり あめの香具山

シロガネの迎賓館なら、一度だけ食べた料理を漠然と思い出せるが、国光園の中華料理のほうが当方には趣味である。
先日、千葉の某所から、さすがという男女が登場した。
――おや、兄弟のように似ていますが。
顔を見合わせていた二人が、言った。
「どっちが上なの」
「そっち」
「うっそお!」
女性は、このジャケットに似ています。





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桜吹雪の記憶

2010年06月01日 | 諸子百家
それは桜の花吹雪が小路に舞散って、青い葉だけが残った或る日のこと。
「よし!」とW先輩は当方に何事かうなずくと、向野の校門を出た二百メートル先の木影の食堂に先にたって入っていった。
店内には学生服の先客の三人が、テーブルの湯気の立ち昇るどんぶりにフーフーと箸を動かしている。
そこに言われるまま着席して、いつも食事の手配にぬかりのないW先輩と、ラーメンの匂いに寛いだ気分になっていたのだが。
突然、「隠れろ!」と声がして、ガバッ!と学生服の皆がテーブルの下に低い姿勢になった。
オイオイ、何なの。
窓の外の通りを見ると、人文世界史のU教諭が、何事か考えている様子で通って行くのが見えた。
大所帯の高校の風紀指導U教諭は、その存在を畏敬されている、いささか迫力の漲るギョロ目の、しかし授業のおもしろい人だが、校外の食堂に制服で入ってはいけない決まりになっていることを、初めて知ったのである。
そのU先生という人物は、終業のベルが鳴っても「あと二、三分、合わせて五分で終わりますから、そのまま」と我々の店仕舞いを制止して、めいっぱい話をする人であったが、その論説の情念の根幹は、彼が二十代に遭遇した太平洋戦争の学徒出陣にあるらしく、いまだあの不条理に心の整理おさまらず、どこかで戦いが続いているかのような、悲惨であったけれどもこっけいな話が、毎回の授業を修飾して絵巻物を紐解く習慣になっていた。
その授業から二十数年が経って、たいていのことを忘れていた当方が郷里に戻った或る日、突然、のことU先生から「顔を見せるように」と電話があったと母から伝言された。
はてな?と訝りながら、免許を取ったばかりの運転の車で指定された観光地の建築物を訪問してみたわけである。
受付嬢に用件を告げると、五階の社長室に案内された。
なんと、U先生は大きな社長のデスクに座って笑っているではないか。
先代からの稼業を継がれて、ホテルの社長に収まっていたのである。
「商売は、だいぶ儲けているそうで」などと、こちらが閑古鳥の閑をもてあまして読書三昧の毎日を察知しているように、さっそくこれまで流れた二十年のお話が、授業の続きのように話されていくのを再び当方は聞いた。
「先生の授業は今も憶えています」というとU先生は、それがね、このあいだ大学に進学した夏子ちゃんに路で会って、ガクッときたのは、「先生がもっと教科書中心の授業をしてくださったらわたし苦労しませんでしたのに」と苦言があったと笑って、
新館を建てて、はじめに迎えた若い二人組の女性客のことを言った。
「責任者は来てちょうだい!」
東京からの客が部屋で呼んでいるというので番頭さんと勇んで行ってみたら....。
「私たちが風呂から戻るまでに、この飛んでいるハエを何とかしてちょうだいな!」だって。
いやはや、どんなお褒めにあずかるのかと思ったが、それがこの仕事の始まり。
U先生は、クフン!と昔の授業そのままに鼻を鳴らしながら、インターホンに向かって、ホテル自慢の昼食を社長室に並べさせ、当方に御馳走してくださった。
U先生の用向きというのは、御自分の戦争の体験である絵巻物を綴った原稿を書き上げたので、
自分だけで満足してもどうもね、他人の印象は違って恥を書いてはいけないから、一冊にする前に、やめたほうがよいのか遠慮なく感想をきかせてもらいたい、と申された。
U先生の歴史が原稿用紙の字になった束を預かったが、それは授業で聞いていた絵巻物といささか印象の違ってシリアスなものであった。
太平洋の戦地で若い下士官であったU先生は、占領した半島に空を睨んでいる対空機関砲を持ち場にして、二等兵たちと米軍のグラマン戦闘機相手に戦っていたが、とうとう敗戦の玉音放送を知った。
大事に残していた貴重な最後の弾帯を機関砲にセットして、海の向こうから悠々と現れた敵機に連射をあびせる時の葛藤や、戦地からやっと実家に帰り着いた日の、痩せて紙のように薄くヒラヒラした姿の描写が、忘れていた平和を語って圧巻である。
当方はカセットテープから流れる太平洋の向こうのジャズを聴いて、酒店の店番をしながら原稿を読了し、ちょっと複雑な気分であったが、のちになって上梓した紺色の表紙をながめとうとうU先生の太平洋戦争が終わったのだと思った。
ところで、学生時代いつも御馳走にあずかっていた一方のW先輩は、こちらも給料取りになって最初にお会いしてみると、美大に入ったあと画商に変身したさまざまの面白い体験を聞かせてくださった。
こんどはボクが払いますとレストランに入って言うと、「そうなの」と笑っている。
食事が終わって白山通りを歩いていると、彼は「じゃあこんどはボクが」と、また一軒のレストランに入って御馳走を勧めながら、笑っていた。
H・モブレーはシルヴァーとしばらく共演していたので、セットにして音色を憶えるむきもあるが、マイルスの『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』でサクスを吹いたとなれば、どれどれとその腕前の程をタンノイに探してみたくなる。
写真のアルバムは、問題のベーシストとやっているので、そこはやはり、はたしてどうかなと聴いてみる。




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井の頭公園 その2

2010年05月13日 | 諸子百家
新入社員講習でカンズメになっていた最後の日、それは悪夢であった。
打ち上げに、81人が打揃って城ヶ島にピクニックの解放日で、我々は崖の上から蒼く広がる雄大な海の景色を満喫し、缶コヒーなどを飲んでいた。
4人の女性社員がたまたま通りかかった当方に、「ボートを借りたから奴隷のようにボートを漕ぎなさい」と言って笑った。
ボートなど、見たことも乗ったこともない当方であったが、はいはい、と請け負った。
岩場の湾に浮かんでいるはずが、いつしかボートは海流に流されて沖に。
気が付いたときには、深い色の大波の砕けるゴツゴツした岸壁が目前に迫って危機一髪、女性達は全員真っ青になったのが状況を証明していた。
こうしてタンノイを聴いていると、あれを幸運と紙一重とはなかなか思えないが。
ひそかに反省した当方は、近所の碑文谷公園のボート場に日参して人並みの腕まえを模索して、井の頭公園に遠征したときもすぐ櫂を握ってみた。
井の頭公園へは、寮の一つ隣の部屋の男が「絵を描きに行こう」と誘うので初めて行ったが、『Megu』のことは、そのときまだ知らなかった。
その同僚は、本格的にカンバスを乗せた三脚を立て油彩の筆をとった姿が極まっていて、当方もまねをして万年筆でちょろちょろ描いていると、背後にガキンチョが大勢集まって静かにほめてくれるから、都会の子の行儀の良さに驚いた。
ボートは後ろ向きで櫂を漕ぐから、海に出るときは多少練習した方がよい。
「こんどまた乗せて」と女性たちはいってくれたが、もうすこしであやうく海中でハーレム・ノクターンだ。

国語の先生という御仁が珈琲を飲みたいと遊びに寄って、ピアノ・トリオを聴きつつ壁の漢詩をながめていった。
ガーランドがもとボクサーであることを知っていたので、たいていのことは心得ているのかもしれない。

※ イラストは、昭和40年代の井の頭公園ボート場



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長野県の客

2009年08月23日 | 諸子百家
涼しさを我宿にしてねまる也

尾花沢スイカ売りの声も絶えて、贔屓のチームとともにジェットコースターに乗ったような消耗の熱闘甲子園の夏が終わった。
そういえば向野にあった高校にかよったころ、当方のクラスにも、背の高い鉄人28号的野球部の男が、あたりが暗くなるまで黙々とグランド整備やランニングをしていた姿を、畏敬の視線で憶えているが、他校に敗退を続けながら、彼はいとも静かに卒業していった。
当方の場合は、入学してすぐどうしてもやってみたい楽器があったからブラスバンドに入部すると、隣の棟の先輩がクラスに訪ねてきて、エエッ、ブラス・・・と驚いて「それじゃぁ、高校生活が終わってしまう」と口走ってパッとどこかにいなくなり、いま、話をつけてきたからと、入部を取り消されてしまったのには驚いた。
そうだ、入学前から約束があったのを思い出した。
そうして連れていかれた部室にはなぜかほとんど女子ばかり二十何人か新入生がいて、助手のような役目がまっていた。
あるときドアを叩く音がするので、ハイと出る当方に、廊下で二人並んでいる女生徒が、「○○さんいますか」と、取り次ぎを望んでいる。
ぼそぼそと低い会話があって淡々と戻ってきた先輩に、なに?と尋ねると、オレの写真がほしいんだって、とか言う、表情一つ変えない様子には驚いた。
野球のことは、社会人になって一度だけライブ観戦したときの写真を持っているが、付き添いを頼まれた熱烈なジャイアンツ・ファンの○子さん姉妹につきあって後楽園に行ってみると、ローマのコロッセオのように擂鉢状になっているアルプススタンドの上から、試合をしている選手の顔は小さくて誰か判別さえできない。それが某新聞の招待券であったから、開始まで延々四時間も炎天下に行列した恐ろしい思い出となった。しかしながら、当方以外の人間は喜々として待っている不可解集団であった。
翌日、会社でみんなから、きのうの試合はホームラン連発の接戦で最高!と羨ましがられたが、顔もよくわからない高い場所に昇らされて、メガホンを持たされて困惑した体験にかんがみ、いくら○子さんの付添いとはいえ、二度と行くことはないであろうと思ったのは当たったといえる。
長野県から朝8時に高速道を飛ばしてきた、JBL4344を鳴らしているお客が立ち寄られてロイヤルを聴いたが、タンノイでジャズを観賞する東北の涼しい日が戻ってきた。
その御仁いわく、「いま、次のスピーカーを探しているのですが、なんといったらよいか、気品のある音で惹かれますね」とのことで「これから海の方に行く途中です」とトヨタの車で去っていった。

☆写真は、試合開始を待つ、嵐の前の静けさの後楽園スタンド。







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二本松市の客

2009年07月12日 | 諸子百家
「ジャズはやっぱりハード・バップ」と申されるご婦人連れの御仁は、大捨流の剣豪丸目蔵人といった風圧でロイヤルの前に座った。
二本松市のご自宅には、タンノイ・スターリングによってジャズからクラシックから汲めども尽きぬ美音の世界があると申されて、カラスのアリアや、こちらのとうていおよばない秘蔵盤の一端のことを聞いていると、タンノイ・ロイヤルもこのような御仁を相手に、いつにもまして大電流が供給されているような。
オーケストラや、一通りの鳴り具合を検証され、やがて傍に控えるご婦人の合図を心得て立上がり、午後からは川向うの本陣に向かわれるそうである。

二本松と聞いて、そういえば昔、この季節の湘南の『油壺』に撮影に行ったことがある。
海を背景にしたスチールがよいなぁと思い立って、難解なその女性に「こんど、どうです」と言って、さいわい、波の高い入江の岩場に三脚を構えることができた。
おおぜいの海水浴客も片々に、マリーンに出入りする大型ヨットの舳先が波を分けて目の前を横切ってゆく。
昼になったので、眺めのよいレストランで昼食をとった。
軽音楽を耳に食後のコーヒーをゆっくり、全面ガラス張りの外に広がる青い外洋を見渡していると、ふと、景色の左に聳える高層の建築物が目に入ったのだが.....「あんなところにホテルがある?」誰が泊まるのだ。
しばらくして彼女はいつもの快活ぶりと違う、小さな声で言った。
「きょうは、遅くなってもいいんです」
ああそうなの。
そこに深い意味はあるはずも無いのだが、幼少は二本松市ですと言っていた記憶の、言葉の万葉集か。

この『WALKIN』録音の後、ホレス・シルヴァーはジャズ・メッセンジャーズを組み、マイルスは新しいコンポを組み、クラークはパリへ。みな蠢動するサウンドの新境地にむけて旅立ったので、これが豪華メンバーの最後の演奏になったワンダー・ワールドを聴く。






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MISTY

2008年01月30日 | 諸子百家
皿のうえの『雀』に、考えこむ。
道玄坂の小料理屋の二階に、オーディオ・マニアの面々が集まって忘年会があったとき、織部の小皿に二羽のっていた黒いアタマの雀の姿焼き。
尾頭付きの据え膳だが、これ喰うの?
このときみな、一瞬オーディオを忘れて、皿を凝視した。誰も場所柄をわきまえ否をはさむ失礼はなかったけれど、まんいち美味しかったらどうする。
我と来て遊べや.....か。
終わってみれば、ほとんど手つかずで、皿から集め、ハチ公にでもおそなえしたらよかった。
道玄坂は、インテリアの店や横町があって、記憶によれば、ただの風の吹く坂ではない。
TSUYOSHI YAMAMOTOの『MISTY』を買い求めたのは道玄坂下である。
エロール・ガーナーは、この曲をニューヨークからシカゴに向かう旅客機のなかで思いついたそうだが、当方にとっては、山本 剛とスズメなのか。

☆昔の記憶で、連続20人またの機会に。


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予期せぬ訪問者

2008年01月29日 | 諸子百家
むかしお世話になったところに、いろいろな出来事があった。
「近所のお巡りさんが、通路のドアから身を乗り出しているが、どうしますか」
4階の食堂で夜食を済ませラインに戻ると、ご注進があった。
行ってみると、目黒通りの交番の人である。
毎日通って見知っているその御仁は、世話好きのタメのある人物であるが、つい先日まで、どうしたことか御自分たちで建物を金網で覆い、竹篭に入った水沢藩の高野長英のようにしていたから、通勤時の評判になっていた。見ちゃだめ、と申し合わせていたのが、乱も収まって金網も取れ、火事とケンカの花のお江戸も太平に戻った。
大所帯のこちらが夜間にどういう仕事をしているか工場を見たがっている様子だが、どうしたものか、近所付合いであり、当方の一存で入ってもらうことにした。
「これが、写真をつくるところですかー」と、明るいなかにさまざま機械が動いて、若い衆が立ち働いているところを、もの珍しそうにしている。
オーディオ・アンプと同じかスイス製グレタッグ社のマシンは1Hで7560枚の写真が作れた。
「おやおや、これは」などとラインで目ざとく見つけた写真を、感に堪えぬように手に取った。それは、多才で剛腕な営業のタイアップ「ファンタジック水着撮影会」の1枚で、傍には不良品の大量に棄てられたダンボール箱がある。
「モデルさんは、自分のところに人を集めようとして○○なこともあるんでしょ」などと、写真を手にとって、踊り子のマネージャーのような珍案を繰り出したので、ただのメガネの制服人ではない。
まじめな社風を思んばかって、箱から選んだ数枚を渡し、「そういえば出荷基準の参考までに、ご意見を聞きたいのでよろしく」と言ってみた。
「では、お預かりして本庁に問い合わせましょう」と、頷いて帰っていった。
後日、次のようなみことのりが返ってきた。
『この問い合わせに、戦前の検閲の復活になるようなことはできません。良識の基準でどうぞ』
あのころは、水着のほかにもスーパーカー・ブームで、雑誌の付録に付ける『ランボルギーニ』の生写真を大量に講○社に納めたりしていた。






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アヴェドン

2008年01月28日 | 諸子百家
現像されたフイルムが滝のようにハンガーに釣り下がってブラブラと出てきていたが、或る時からロール状に処理されるようになった。
通路を通りながら、つい横目で観察してしまうのがよその職場だ。
そこは謹厳で正確な仕事ぶりで昔から鳴らしており、皆な兵隊のように折り目正しく、何かと絵になっている。
あるとき、フイルムを何本かダメにする事故があって、念のため神棚も祀られた。
どうも、それにくらべて、我々の居るところは、マイルス8重奏団の録音現場のように....だったか。
ひょろりとした彼が、ゴム手袋にゴムの前掛けで、腰を低くして業務連絡してくるとき、その迫力の無さに油断していたが、四階の食堂で一服していると、思いがけず声を掛けてきた。
「こんなの、どうです」
エッフェル塔を遠景にした石畳にハイヒールが乗っている、大きな写真集のワン・シーンである。『リチャード・アヴェドン』か。
ほかにどんなお宝が、彼の家にあるのか、何度か交渉したのだがついに出撃は叶わなかった。
ところで、五味康佑さんにマイルスを聴かせるなら、バッキングもタメのある、このへんのLPが良いのか。
――つまるところ、言葉で表現できないところから音楽は始まらなければならない。タンノイでマイルスを聴けば、痛切なる音色がそう語っている――
彼に『アメリカの音』を書かせたかった。



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写真家大先生

2008年01月26日 | 諸子百家
会場の黒板を背に、滔々と一席ぶっておられるのは、大江健三郎に似た、日本で高名な写真家である。
かしずくように左右に居並ぶ某大会社の技術員の面々は、各地の応募会社から差し向けられた受講者を前に、一定の緊張感をかもしていた。
といっても当方は、人材のあふれている社内から選抜され出席しているわけでなく、家でタンノイを聴いていたとき電話があって、「今夕は出社しなくてもよいから、明朝緊急に万障繰り合わせてかならず出席するように」厳命されてしまった、本来の予定人物と違う代理の立場であった。
否応無い宮使えの分際であることをわきまえて、地図を調べると、当時の日野というところは相当遠く、新宿に一旦出て快速で向かうか、登戸に廻って乗り換えるか、いずれ早朝の始発で向かっても三時間はかかりそうで、どうやらいまから出向いて目的地で宿を取って待機するしかないのか。
翌日当方は、全国から参集し宿で待機していた面々をしりめに、会場と同じ領内に住みながら一番遅れてもまだ到着しなかったので、心配した企画会社は、当方の社に問い合わせをくださっている。
旅先のケルンで皆からはぐれ行方不明になったときも、上司は「亜奴はきっと一人になれて喜んでいる」と言ったらしいから、万事察しているのか、何の連絡も無かった。
講師の写真家先生が、スタジオ写真の必要条件と奥義について、我々に伝授されること半時くらい過ぎたころ、「先生、そこはちょっと違います」と申しわけなさそうに異議を唱えたのは紺の背広に四角い顔の偉そうな社員であったが、以前にも見かけている人である。
すると写真家先生は、厚いメガネの縁を押さえて、なに?と言い
「ふーん、そんなら、あなたがやりなさいよ」と、のたまった。
立ち疲れた陪席社員たちも、そこで体を揉み解すように笑って、受講の我々も眠気が吹き飛んだが、訂正を言った人物は、間違った説明を受講者に持ち帰られては社の責任問題になるので、必死にとりなして、なにか江戸時代のような風景があった。
最終日までにいくつか試験があり、その結果を、全受講者の何番目の成績か本人には内緒で会社にレポートが送られていることを、誰も知らなかった。

☆KAS氏の撮影による伊豆沼の夕景






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ロス・インデオス・タバハラス

2008年01月20日 | 諸子百家
それは、いっぷうかわった人物であった。
彼が職場に配属されたとき、たまに居なくなるので「どこに行った?」と周囲にきいてみた、が誰も知らなかった。
どうも4階のコンピュータ室傍のベランダで、ピーナツをかじりながら東京タワーのほうを見ているらしい。
そっと傍まで行って、まあそれとなく、将来の夢を尋ねた。
彼は、ピーナツの袋をこちらに向け「いつか古書店をやりたい」という。
これまで勤めていた会社は、朝、出勤すると社長が入り口に出迎えて丁寧な挨拶は良いが、給料が安かったと、やはり丁寧だけではたりないのである。
その後、当方のアパートに遊びに来るようになった彼であったが、メガネの厚いレンズが物語っていたのか、豊富な知識を繰り出してくる。
夜勤の充電のため昼寝している時などもやってきたから、「あと2時間仮眠」というと、暗い中、入り口の畳の上にごろりと待っている時もあった、FMから流れたロス・インデオス・タバハラスのように、ふわふわしたよい時代のことである。
あるとき彼が、内ポケットからビニールの袋を差し出すので....???。
「コーヒーのお礼」と切手シートが何枚も出てきて、彼が子供時代から蒐集していたお宝を、新宿であらかた処分してきた残りという。
そういう彼が、突然まえぶれなく東横沿線に建売りの一軒を購入したときには職場の誰もがアッといったが、「突然の父の遺産分配があり買ってみたけど、失敗した」とボヤキを連発し、なんでも環七の車がやかましくて安眠できないのですと、いいわけの煙幕を張った。
当方が訪問してみると、彼は隣室からチャコール・グレーの袋を下げてきて、テーブルにジャラジャラ!と広げ見せてくれたそれは世界各国のいろいろな銀貨で、もっともな解説があった。
これはコレクターである。
その彼があるとき不在の職場に、突然、故郷の親代わりの兄なる人から、電話があった。
「どうしましょう」とはな子さんがいい、かわりに受話器を握ったところ、「ちかく上京するとき、嫁さんの候補を連れていくので、本人に待っているように伝言してもらいたい」と、電話の向こうはそうとうなハイテンションのお言葉であった。
「うけたまわりました」と、代わって喜んだ。あこがれの花嫁候補である。
折角の慶事であり、当方はさっそく電話をわざと置かない彼の新宅に伝言を持って立ち寄ると、彼は見たこともないほど不機嫌になって、「まったく!」と一言、こちらがとばっちりを受けかねない。
その気はないのですと断言し、富士の高みのこころざしにこちらは瞑目した。
だが、ふと思い出したのは、忘年会の酒の席でそれとなく、どうなの?と理想の人をたずねたとき「八千草薫」と女優の名を言ったから皆で感心して、18才歳上のマドンナの話は、しばらく酒のツマミになった。
彼は、音楽的にはビーチ・ボーイズやビートルズ世代であり、熱心に蒐集したLPを多数聴かせてくれた当時のことを思い出すとき、あれからだいぶ月日も経って、やはり、八千草なにがしは、その後どうなって、ということか。



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ケニー・ドーハム

2008年01月19日 | 諸子百家
「相手はガイジンのお客ですが、現像から戻ったタイ王室のフイルムが、ほかのものと入れ替わって自分のではない、と怒っています」と、ご注進があった。
日にちも過ぎているので、直接その人物と会って解決してほしいそうである。ガイジンさんか~。
都合よくその日、英語を話せるKNさんはベトナム高官のご子息で、傍に働いていた。
よし、いくぞ。通訳をお願いして、先方の会社に行った。
品川の殺風景な貿易会社の一室に通されると、相手は反り返っていて、オーバー・ザ・シーなんとかの名刺をテーブルのこちらに滑らせてきた。
ようするにいくら補償するかという話である。
「損傷の規定は代品交換であるが、貴殿には特別5本渡します、と言ってください」挨拶と経過の話のあとで、シネフイルムの箱のメモを指先で示しKNさんに通訳してもらう。
相手は、それでは納得できないと言っていますね。
それじゃ、日本には高額補償の習慣がない、と通訳してください。言葉の解らないのを良いことに、あまり真剣でないやりとりをした。
紳士なKNさんと、怪しい相手は、当方を差し置いて、必要以上に長々と話している。
それで良い、ということになった。
外に出てから尋ねた。「何を話していたの?」
「あの人は日本語が出来ます。ボクが南ベトナムから来ていることを知って、戦地の母国の話になり、がんばりなさい、と言われました」
....。
ケニー・ドーハムは、C・ディビスのバリトン・サックスにのって、ハード・バップの芒洋とした海に、クールでエレガントなトランペットを響かせ、喫茶店の珈琲タイムが抜群である。
本を読んでもよいし、会話にも溶け込んで。
徒然なるままにドーハムを聴く。




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