ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

旅の空

2013年06月27日 | 旅の話
タンノイの音は、枕をそばだてて聴き、香爐峰の雪は簾をかかげてこれを見る
平安時代は、遠方に住むひと、古都平泉を和歌に詠んでも、じっさいに束稲山のサクラを観ることは難しかった。
あるとき、小雨にけむる北上川対岸を走って、いまでは平らな農地になっている束稲山下を抜け、柳之御所遺蹟を初めて見に行った。
横断歩道の傍に無断駐車したこの柳之御所は、大きな堀に囲まれ、長屋王の建物にも似た豪華な書院や池や築山などの跡があった様子が想像されて、歴史に浸る気分の一刻は申し分ない。
御所の傍らを流れる北上川と、対岸の束稲山の間にも武家屋敷や町屋が並んでいた記録があるが、当時人口15万ともいわれる人々の経済生活はどのようなものか。
かりに、板葺き家が千戸も再現されて、どれでも一泊素泊まり千円。
そこにおじゃまして夜鳴きそばでも食べながら、芭蕉は二泊したらしいから温泉でも入って一句詠む。

おもしろや ことしの春も 旅の空





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ヴェローナ

2012年11月23日 | 旅の話
あるとき、ヴェローナにおりた。
石畳の広場の右手にローマのコロッセオのような闘技場があり、ちょうどオペラ公演のための舞台セットを遠目に見ながら中世の石建築の街路をいくと、街は南のナポリと違ってクールであるが、まだじゅうぶんデカメロンの物語の雰囲気にある。
イタリア独特の、馬の尻毛で装飾したバッグや観光客のための商品満載の商店街とは別に、路上にリヤカーでイタリアン・グッズを並べた老人が、傍で昼寝をしていた。
10センチサイズの人形がいくつも棒に結わえてあり、フアッションが手縫いでイタリアンだ。
シェスタ最中のおじいさんを揺り起こし、商売モードにならない老人はぼんやり「何個、欲しいんだ」と言っている。
「ぜんぶ、おねがいします」
おじいさんは嬉しそうでもなく、また仕入れるのが面倒なのか、やれやれといった感じで袋に入れてくれた。
大挙してやってくる日本人が、観光客かバイヤーかわからない時代もあったので、押し寄せるものを観察すればデカメロンの人たち同様に見えたか。
最近流行の、当方もシェスタの最中に卓上の電話が鳴った。
秋田から先日そちらに寄ったものであるが、タンノイの音が非常に良かった、と申されている。
そのお宅で聴いているスピーカーは『ディナウディオ』であると。
――おや、現代気鋭のものですね。
「先日、販売店に立ち寄って、なにかとてもよい音がしているのを聴いて、買ってしまいました」
開発者や経営陣のことを当方は一瞬思い出したが、高尚な方々である。
――ちなみに、?。
「百万両ほどでしたよ」
近所にパイオニアの『P-3』プレーヤーを手放す人がいるが、手に入れた方がよいか、とかさねてお尋ねで、目が覚めた。






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立春、夜明けのマイルス

2012年02月05日 | 旅の話
熟睡している丑三つの刻に、親に命じられ遊びに行っていた家で、
「さあ、起きて」と起こされた。
中学生であったかの当方が眠い目をこすると、大きな男がゴム製のダブダブの服をよこして着せてくれたが、ゴム合羽が歩いているようにして夜道を港に降りて行った。
五隻ほどの船が、出港の準備で、薄暗い海にざわついていた。
はじめてこちらに漁を経験させる船主は、波を分ける舳先にすっくと立って、遠く沖を見ている。
やがて船達は、くろい浮き玉の浮かんでいる仕掛網の周囲を取り囲むと、十数人がタイミングをそろえて声を発し網を手繰りあげはじめたが、最初に見えてきたのは、魚の背を別けて揃って網の中を泳ぐイカの群れである。
最近、三百キロの黒マグロが網にかかったニュースをテレビで見て、ふと遠い記憶を思い起こした。
最近のモーゼルワインが、カビネットでも非常に甘さと酸味のコントラストやコクが良く、少々のつもりでオルトフォンの針圧も指先に軽い。
漁の出港にも、雪の夜道のドライブにも似合って、タンノイのマイルスは鳴る。





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街道343号線の謎

2011年12月27日 | 旅の話
奥大道と轍を並べるように走る国道4号線が江刺の國にさしかかると、そこから三陸沿岸に向けて343号線が始まっている。
この街道が、一関の方向から伸びる今泉街道と20キロのところで十文字に交わったところが『摺沢の宿』である。
343号線はここで今泉街道に乗り換えるように九十度折れて高田、大船渡に向かう。
一関から向かって摺沢宿にさしかかったとき、いつのまにか343号線に乗っていることに気がつくので、なにか事情のありそうな街道の元を地図をたどって見ると、そこには甍をきそう重文の古刹があった。
寺院の建物内に安置されている仏像の胎内から、貞観4年(862年)の記録があらわれて、千年以上さかのぼる古くから、つまりこの道があったことを知る。
交差している古道を千厩街道といい、南に八キロほど直進すれば、奥州藤原氏が全盛のころ馬産地のあった『千馬屋』と呼ばれる由緒の地名で、馬屋の表記は、厩ではなく日の下にヒを書くこだわりは、むかし同級生にハガキを書いたから。
ちょうどそのとき来客があった。
「ちょっとパーティに、深い味の赤ワインをいただきます」
みると、髪の長い記憶のバイオリニストがにこやかにそこにいて、ワインを手にした一瞬ののち、車に乗って去っていった。
このような伶人をみると、タンノイによって音楽を聴くだけではなく、ステージに演奏する人々の雅びな様子を拝見することもそうとう意義があると思われるが、うっかり最前列で眠ってしまっては取り返しがつかない。
あるとき、L・マタチッチ氏の指揮する第九交響曲を、N響ライブに招待してくださる人がいて年の暮れに駆けつけると、あいにく満席の二階の一番奥であり、そこではタンノイの放射する底知れないサウンドが非常に懐かしくなってしまった。
サイモンとガーファンクルが、ラジオから流れていたころである。
良いお年を。







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Canon in D

2011年12月18日 | 旅の話
1680年のパッヘルベルのカノンの楽譜をながめていると、はじめにゆっくり通奏低音が始まって、高域のメロディが加わっていくサウンドは、ハープシコードを縦にした楽器がハープであるのはわかるが、いよいよ音符の数が増えていって、おたまじゃくしがとうとう縦に12個も並んでいるのをみると、指は10本なのに、どうやって12個の音符を同時に鳴らすのだろうか。
2台のハープで、パートをわける手が有るのか。
原曲に忠実に三丁のバイオリンと一丁のベースで演奏するところをしばらく聴いて、かりにジャズを堪能する者であれば、同じ音符をChambersがベースをかまえブルンブルンゆっくり走り出し、GarlandとColtraneがメロディを交互に鳴らし、Milesが金管パートをパーッと吹き鳴らして登場すれば、そのときカノンの全貌はどうなっているのか容易に描くことができる。
国道343号線を、粉雪を蹴散らしてしばらく奔って行くと、三陸は冬であった。
これで四つの季節を走り、今泉街道の景色をなぞって古人の旅をしのんだ。
現代の343街道は、つづらおりの急なイロハ坂も、融雪剤が早朝から撒かれて安全に走行することが出来たが、途中で、近道でなく沿岸部を大きく今泉の街路まで走ったところ、この突端部は、ホテルや旧家の港に並んだ非常に開けて賑やかな高輪通りのようなところであった。
いまじっさいに見る景色は、シルクロードのパルミュラの遺蹟のように、津波に呑まれた跡の高層の建造物が点々と残っている。
海面が高く感じられるのは、陸地がメインストリートを載せたまま全体に陥没しているからなのか、二メートル高の特殊な土嚢が整然と海に沿って積まれ、突堤には大きく堤防工事が始まっていた。
おや!前方に、赤色灯を回転させて警視庁と大きくボデイに表記の白黒車両が、三台も沿岸の突端を警備しているではないか。
昨日は、北海道警と埼玉県警の車両とすれ違ったのであるが、油断していると先日など運転席の天井にポンと電飾灯を載せる普通の車両が暗闇からあらわれ、これではもはやうっかり那須のジャガー氏のように、エンジンの調子をしらべることも気軽にできるものではない。
パッヘルベルのカノンは、ゆっくり時速四十キロで、あれほど大量に道を塞いでいた生活人の痕跡が、かぎりなく整理されどこまでも見通せる地面が広がっているなかを走って行く。
いつかふたたび陸地がもとの高さまで回復し、人々の賑やかな街にもどる景色を、おなじカノンの曲で前後を電飾灯に挟まれてもよいが、ゆっくり走ってみたい。
タンノイで聴くパッヘルベルのハープは格別である。

☆新潟県警も走っていると通報があったが、震災の廃棄物に、佐竹藩が申し入れて来ている噂があるのか。




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朝の大船渡

2011年11月13日 | 旅の話
旅の宿に、鳥の声で目が覚めた。
薄くカーテンから外を覗くと、町はまだ寝っているが、遠くの景色はすでに明るい。
薬師堂温泉のみやげという『駒かすみ』を、ポケットから出されて
それを朝の茶受けに、けっこうな味である。
正面の山の形が、彫刻のようにおもしろい、スケッチしてみた。
まちは、しだいに変わってきた。
よくみると絵の建物が直立していないが、ペンが曲がってもうしわけない。
朝の、まだ陽のあたるまえの街。





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雲と霧の二楽章

2011年10月01日 | 旅の話
きのう発表された9月末の日本の株式時価総額は266兆円であった。
これが1989年のバブル絶頂期には890兆円計上されていた。
『おあし』は羽根が生えて手強い。
色即是空する世の、寿司はどのみち2人前で腹一杯とわかり、カセットテープでジャズを聴く。
すると、『マイファニー・バレンタイン』が予想外の節回しで、美空ひばりのようにイントネーションが凝っている。誰だろう。
シングス・ザ・ヴィーナスから収録されたアニタ・オディであった。
新潟からお見えになった御仁は、ご自宅のウエストミンスターの写真を見せてくださった。
部屋の反対側にはJBLが置いてあり、本来ジャズの人であるが、Royceで聴いたヴィヴァルディの冬の二楽章を覚えていてくださって、さっそく買い求めて、それからよく聴いておられるそうである。
あるとき、そのヴィヴァルデイの生息の地、ベニスに行ってみた。
ベニスは土地が狭く、どの家も一族郎党が集団で1軒に住むといい、ベニスは決して窮屈ではないがびっしり家が立ちこめている。
ここで生活した彼は、もうれつなスピードで作曲しながらピェタ慈善音楽院の業務をこなし、『四季』をはじめ幾多の名曲を生み、人気が出ると外遊するようになった。
驚いたベニスの事業主は、給料はそのままで作曲生産を厳命している。
はじめに四季は、慈善音楽院の子供たちで演奏されたのであるとしたら、いまRoyceのタンノイで鳴っている演奏は格闘技のような音であるので、作曲者も「誰の曲だ!」と驚くのかも知れない。


※Zeiss1.4/85


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高田市まで343号線を行く

2011年08月30日 | 旅の話
国道343号線は、内陸から海までを緯度線のように結んでいる道路である。
街を縫い野山を分け入って、あるいはトンネルを抜け、きれいに舗装された車線が伸びる。
道の左右に迫る急峻な山という山に、松や杉やブナの群落や、様々な木がすべてびっしり植林されたように、あるいはかってに群生し、どこまでも連なって目の前に迫るそこを分け入るように道は延びている。
この343号線の途中に、歴史的な町屋の一群が3つあり、途中下車して、燃料補給や食事をたのしむことができる。
観光地で名の知れた睨美渓はこのような渓谷の川を、景色をあそぶ紅葉狩りにやんごとなき暮らし向きの人々が、舟遊びに世塵をはらって景色のうつろいのままに美酒を酌む。
途中に海抜450メートルの笹ノ田峠があり、落差100メートルのループ橋がこの地震でも持ちこたえて安堵したが、橋の下の谷底を見ると、マッチ箱のように小さく数軒の家がみえた。
もしやあの有名な今泉街道の原形に残っている貴重な道路なのか、源義経はここを通った噂がある。まもなく公民館や集落もみえた。
隘路の曲がりくねった舗装道路は時速40キロの標識があり、強者が車体の低い重心のステアリングを駆使して高速で楽しもうとすると、突然山陰から対向車が出現するので危険である。
早朝に宿を戻ると、歴史的震災の対応に遠征してきた○阪検非違使が竹駒橋のたもとで弁慶のように朝の七時に交通整理にピカピカの車体で居た。
大船渡市の分岐路には京○検非違使が雨合羽を着て誘導し、住民はみなサンづけで彼等を畏敬しているではないか。
このように以前から京都、大阪のほかに、信号待ちをしていると通過した滋賀検非違使には、そんなに睨まなくともと驚いたが、それはともかく、この道に中央分離帯が無い343号線を、F-1マシンを持ってきて走るなら世界にもめずらしい絶景のロングコースである。
ブレーキ構造の安定したF-1なら時速二百キロも可能では。
だが、すれ違ったり追い抜いたりする路幅はなく、ただゆっくり高速で走るだけ、霧にかすみ、また光の射すコースを、内陸から海を目指して走ってみたいものである。
海から戻ると、仙台から男女の客があった。
川向こうにも行ったことのないしろうとであるといいながら自信たっぷりで、そのうち、曲に反応する空気感がジャズ者であるとわかった。
女性は都会的に、連れとの会話の間を楽しんで、自分から車を運転し去っていった。
運転席にサングラスが、似合いそうである。







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芋粥

2011年08月24日 | 旅の話
旅の宿は、なんとなく良い。
夜更け、カエルの鳴き声が窓外の茂みから聞こえ、蛍も飛び交っている大船渡に泊まった。
布団にいるちょっとした空腹感に、芥川の『芋がゆ』を思い出していた。
平安のころ都に出仕した郡代が、同僚のふともらした「芋がゆを腹いっぱいたべてみとうござる」というささやかな願望を聞きとがめ内心驚いて、そのくらいの望みであればたやすい、と真剣に心を動かし「なんとかします、どうぞ連休にいらしてみては」と誘うおなじみの物語である。
郡代はおおまじめに夜も明けきらぬしじまの庭で
「よいか、朝までに掘ってまいれ!」
と、大勢の村人に大声で下知しているのを、何事かと障子を細めに開けてのぞくシーンが映画にもあり、やがて芋がゆ待望客はいくつもの芋がゆ大釜でもてなされる朝食にキモをつぶすが、当方はそうしたシーンに藤原秀衛が、都から遠路訪問したいと便りのあった西行の桜好きを知って、千人の村長を集め、堤防の堤の上から仁王立ちに
「よいか、一村五本、束稲山の西斜面に隙間無く植えよ」
と執事に下知させている様子がうかんでしまうのである。
西行が平泉に到着するまでに五千本を植えて、昔からそこにあったように平然ともてなすことなど、秀衛にとってはたやすいことであったと誰も疑わない。
西行は、わらじを脱いで『柳の御所』の和室に茶を口にしたとき、突然廊下の大障子が音もなく左右に開かれて、北上川対岸の束稲山に満開の櫻を見るとしたら、旅の疲れも忘れ、気分は桜色である。
桜好きの西行が詠んだ山家集に、今ものこる歌があった。
聞きもせず 束稲山の櫻花 吉野のほかに かくあるべしとは

そういえば、当方の握り寿司好物を知って、あるとき目黒のお屋敷の家人から所用の礼に、話してあるからと寿司店にいつか寄るように言われていた。
着席しておいしく平らげると、店員が平然と代わりの塗鉢を置いて、二人前出すように言われていますからという。
だが箸を進めると寿司は意外に手強く、あれほどの好物も半分まで食べた頃、突然ぐっときたのが残念だ。あと一鉢は、ご自宅にお届けします、と主人の声がした。
タンノイ装置であれば、何枚を聴いても嬉しいが。
仙台の某スーパーの寿司コーナーでも、あるとき半額処分のパック寿司が山のように盛り上げてあるのを見て驚きあやしんだが、警備員やら店長やらが遠く取り巻いて何事かけしからん。それが世の中というものである。
いずれ震災復興もおおよそかたちのなった頃、みやこのやんごとなき人をはじめ、大勢の人々を『柳の御所』に招いて、桜見の会でも催されるか。
関が丘の哲人は、ギターで弾くシャコンヌのLPを800円でしたと聴かせてくださったが、それよりもご自身の書斎兼研究室を初めて隣人にお見せしての感想がそうとう興味深い。
盛岡の客人は、しだいにタンノイに打ち解けてワーグナーを聴き、楽しそうである。







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Night Has A Thousand Eyes

2011年03月31日 | 旅の話
760年の再来ともいわれる強烈な地殻変動が押し寄せ当方のSUPも壊れて、時代の空気はそのとき停止したようだ。
あたりまえのきのうと、一夜明けた日の、ご飯のおいしさが同じにあるとはかぎらない。
目の前の夕餉がやっと揃った数日あとに、それを喜べるためには何かが足りないことに気がついた。
そのとき、ユサユサといつもの余震がおこって味噌汁がゆれて、すこしほっとして箸をつけた。
当方は鳴らないタンノイとともに、頼りない陸地のうえに住んでいる。
子供の頃、よく聞かされていた母親の故郷に伝承の、大地震と津波の話であるが
「まず、目の前の海が沖まで引いてね、そのときカラカラカラと石が音を立てて湾の奥に落ちていくんだと」
その子供時代のC先生の授業に、スイスの物理学者が日本にも挨拶に現れて人気が騒がれ
「記念に出版された著書が思いのほか売れて、アインシュタイン氏は首を傾げていたが、『E=mc2』を理解できたのはそのころ日本で3人だけ、といわれているのになあ...」
と話しておられた。
『相対性理論』という漢字の意味を、C先生は小学生に言っても仕方がないと省略したが、純粋な我々日本人は、接吻などという漢字が書物に散見されるだけで興奮する民族でそのころあったと、遠回しに観察されたも同然か。
それなら『性』を除外してもう一度見る漢字の様子が、この相対という二点間の慣性と重力場の距離に地球と月が引き合うとき、潮の満ち引きや地震と関係してくることを、抱擁などの漢字と同列に興奮してみるのも、震災の恐ろしさを知れば、非常時のいまは意味がある。
アインシュタイン氏は、お砂糖をまぶして恐ろしいことを言いに、日本にやって来たのかもしれない。
月も終わりになったころ、やっと配給ガソリンを満タンにできたので、頼まれたわけではないがわずかな荷物を積んで三百キロの沿岸の旅に出発したのは、子供の時に聞かされたあのことがとうとう起きてしまったのかと、何かに背を押されるようでもあった。
もはや世代も替わってかくそくなく、取り込み中の迷惑を承知で陣中に見舞ったところ、家を無くされた人は
「ここに上がって、うどんを食べていきなさい」
とやさしく言い、屋敷の無事であった人は、忙しさを山のようにかかえて不在であった。
廃材のやっと避けられた海と同じ高さの湾岸をいくと、余震でドーンと揺れる交差路に体を張って交通整理の人がおり、大阪○警も東北の沿岸の突端にいた。
呆然とした帰り道、フロントガラスの先に赤光を見て我に返ると、夕暮れの340号線から無数の赤色灯をキラキラさせた光が次第に近づいてくる。
業務を交代する品川ナンバーの白黒車両が、四十八台の隊列にそれぞれ電飾を回転させたムカデのように連なって、対向車線をゴー、ゴーと東京に帰っていくところとすれ違った。
震災直後に見た闇夜に電灯のない黒々とした家並みは、国道四号線に点々とヘッドライトだけが音もなくゆっくりいずこにか通過していたが、それをコルトレーン楽団が有名にした『夜は千の眼を持つ』というテーマを思わせ、フォーメーションの中心にサクスで光っている眼と、夜の星の意味を、初めてひとつ想像することができた。
英国の詩人の書いた、昼は太陽が一つの眼で空から見ていることを、夜は星々がまるで千の眼のように、ささやく言葉の心を見ていると。
LPプレーヤーが直ったとき、タンノイの表現する千の眼を、いずれあたらしく鑑賞してみよう。















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サンマルコ広場から見た海

2010年03月09日 | 旅の話
七年に一度公開されるというダ・ヴィンチの描いた円形人体図は、ベニスの美術館にある。
やっとそこに辿り着いたとき、遺稿は公開されていなかった。
◎ 掌は指4本の幅と等しい
◎ 足の長さは掌の幅の4倍と等しい
◎ 肘から指先の長さは掌の幅の6倍と等しい
人間についてこのようなことが、逆さ文字で背景に書いてあるそうだ。
ユニットの直径は指の先から肘の付根の長さと等しい
高さは地面から直立した肩先の位置と等しい
横幅は掌の幅の4倍半と等しい
と、鏡文字で書けば、えもいわれぬタンノイ・ロイヤルの寸法のことであるが。
ダ・ヴィンチがミラノの戦禍を避けてベニスに暮らしたのは1501年のことである。
それから490年後に通過して、サンマルコ広場に行ってみた。
この広場はいまも往時の様子をそのまま留めて、ビバルディをはじめ、『たそがれのヴェニス』のMJQなど、地球上でも過度に濃密な人類の足跡が残っている空間のはずが、ときどき海水に洗われるせいか、ただの石畳の広場がそこにあるだけで、痕跡は歴史の紙魚にすら残らないようだ。
広場の端の巨大なミナレットは、いちど崩壊しているそうである。

奥の細道にも濃密に人類の痕跡を残す場所はあるが、雪の積もった定休日、そこで或る人物のことが浮かんで電話してみた。
いまどちらに?
「えーと、いま、花泉のコンビニの駐車場にいます」と、電話の向こうは言っている。
融通無碍な人は、それから車を飛ばして現れた。
雪のわだちを踏んで進むワイパーのさきに、多くの車が走っている。
左手にある奥まった店に車を停め、一緒に焼肉の網をつつきはじめると、タンノイのジャズを聴いている時と、様子が同じであったのがおもしろい。
食後のテーブルに、終えた食器がこれ以上ないほどすっきり四段に重ねて箸の揃えてあるのを初めて見る。
なにごとも、このように整頓される暮らしぶりであろうか。
まだ人の居ない店の窓際に座っている、この屋の主人と思われる人が、ニコニコこちらを見た。
それがピアノ・トリオの演奏を終えたアーチストにも似て、ここにも日々を積み上げている演奏者がいた。

※RTS85m.f1.4


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透明に近いブルーの時間の駐車場

2009年06月06日 | 旅の話
旅先の朝六時の、限りなく透明に近いブルーの時間に、一枚撮る。
駐車場傍らの自販機でモーニング・コーヒー缶を買う操作すると、御札がはいらない。
遠くに人が現れて、箒と塵取りで映画のエキストラのように掃きながら通り過ぎようとする。
「あのー、ちょっとこの操作?」
チリひとつない朝六時の駐車場は、心地よい。

たまきはる 宇智の大野に馬並めて 朝踏ますらむ その草深野





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特別機で

2008年10月12日 | 旅の話
秋の行楽に、ジャズを着る店『ブリック・メンズ』さんは、伊達藩の一番町にある。
裏庭の落葉掃きをしているとき。ハガキが届いた。
拾った落葉を画面にあしらいつつ思う。
笑顔で着ればベスト・ドレッサー、とはビサルノのフレーズだが、一番町かス○トに、ヘリコプターでいつか行くのが楽しみだ。
いくつか座席は余っているその所属はまさか?。
それにつけても、絵のズボンの折返しに注目して、いかにも伊達男


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須川岳の不思議な湖

2008年09月27日 | 旅の話
国道342を登って須川岳を越えるとき、本州を馬の背のように通る一本の分水嶺と交差する。
その分水嶺に立つと、太平洋側の領地を一関藩、日本海側が佐竹藩であると、皆いまも心得ているのがおもしろい。
富士はどこから見ても富士であるが、この地の須川岳はそうではない。分水嶺を越えた佐竹藩では『大日岳』と呼ばねばならず、伊達藩から見るとき、この山を『栗駒山』と称して、それが歴史というものか。
長老写真家が或る時訪ねてきて、大事そうに鞄から取り出した須川岳をめぐる数葉のスチール写真のなかに、気になる風景が写っていた。
山頂から、僅かに佐竹藩に入って横たわっているみずうみを撮影したものであったが、火山湖のためか魚も棲まない透明な水面をひろげて、春夏秋冬をただ日の光にひっそりとうたた寝ているという。
これはぜひ一度、登攀してみなければ。
さいわい、クルマで行けるときいて、或る時当方はハンドルを刀の柄のように握りしめ、分水嶺を越えて佐竹藩に入った。
舗装された道を進むと、検問も番所もなく、秋田おばこの姿もなく、隠れるように湖はあった。
駐車場から森の小径をたどって歩くと、清潔に管理されたキャンプの設備があって、山小屋が幾つも並んでいるが、塵一つ無い。
カセット・ラジオからスタンリー・タレンタインとそのメンバーが聞こえてきたが、タンノイでもJBLでもない、不思議な音がここでは鳴っていた。神秘の静けさを湛えた湖は、何を演奏してもただ吸いこまれていくかのような雰囲気があって、笙や篳篥で奏でる底なしのジャズである。
夕刻、仙台の帰りと申される人物が登場し、アート・ペッパーの『Meets The Rhythm Section』(R・ガーランドp、P・チェンバースb、H・J・ジョーンズds1957年LA録音)と77年の『VILLAGE VANGUARD LIVE』(G・ケイブルスp、G・ムラーツb、E・ジョーンズd)を鳴らしたが、お客の希望はその間にあった時間を聴こうという試みである。
演奏と演奏の間に横たわったA・ペッパーの20年を推量するのもまたジャズである。



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ホックニーのプール

2008年08月03日 | 旅の話
金ヶ崎のプールが忽然と消えてしまった今、残されたプライベート・ビーチは『小○代海岸』である。
一関から東南にゆっくり二時間ほど車を走らせ、山道を越え林の細道を縦断して、ついに辿り着くところにあるこの海は、左右を岩磯に挟まれた一キロメートルほどの湾曲した美しい海だ。
芋を洗うように人が集まることもなく、かといって淋しく人がまばらにというわけでもない。
そういえば、後楽園のアルプススタンドにジャイアンツ観戦したとき、原がホームランを打った。いいぞ、原。
そのときちょうど弁当を食べて忙しい当方に、ドッと立ちあがった隣りの家族連れのオヤジが横目でわざと紙吹雪を上から散らしてくる。あー、なにをする。一緒に踊れってか。
黄色のメガホンをきちんと準備して斜め前に一人座っている原たいらに似た人物は、嬉しそうではあるけれど、周囲をよその家族連れに挟まれて、やりにくそうなライブ観戦である。
行楽は、やっぱり、数人で出掛けるのがよいかな。
波打ち際から青い海は、沖にある岩が大波を遮って穏やかに寄せてくる。
手ごろな砂地にタオルを広げて、もらったパラソルなどを立て、売店から調達したタコ焼きやビールを飲むころ、太陽もゆっくり真上にいる。
静かにカセット・ラジオのスイッチを入れたら、ジョージ・ベンソンが鳴った。
金ヶ崎のホックニーのプールがなつかしい。





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