ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

『実朝』

2011年01月27日 | 巡礼者の記帳
日本の船で働く外国人船員は12万人である。
漁をしたり航海している日本船の面積を、自国の領土と考えると、飛び地のような我国は意外に広い。
鎌倉時代に、頼朝の後継実朝は、ぜひ宋の國を見たいと、渡来人エンジニア陳和卿と相談し、鎌倉材木座海岸に巨大な帆船を建造しつつあった。
『春立たば 若菜摘まむと しめおきし 野辺とも見えず 雪の降れれば』
実朝は出来栄えをたびたび見に行って楽しんだが、船はいたずらに大きすぎたのか、とうとう浜辺からびくとも動かなかった。
当方が、最初に鎌倉に行った目的の一つは、その船の破片でもあればという海の情景の期待と、鎌倉八幡宮から材木座海岸に一直線に伸びている参道が、そのまま造船所の床のように太平洋の海中にズブズブと入っている設計なのか、地図ではそのように見えたのだが。
ある時、江ノ電に乗って見に行った。
なるほどね、そうなっていたのか。
この鎌倉には、文人墨客も住んでいると、タンノイを聞きながら、お客は申されている。
「大学刊行誌の会費の集金をたのまれて、川端邸に訪問したのですが、驚きましたね。2時間のあいだむこうが話したのは、たったの二言でした。わたしは一方的に話し、むこうは、ふんふんと聞いているわけです」
その種の本をちょっと開いてみると、出版社に採用された新人女性が挨拶に行ったときのことを、かの康成先生は最後まで一言も口を開かず、帰りの江ノ電で女子社員は涙が出たと回想がある。
Royceもタンノイを鳴らさないまま、お客に催促されることもあるので、気をつけねば。はっは。
ところで、Royceのある『十二神』区から隣に『末広町』があって次が『才天』で『幸町』と繋がっている。
その幸町から、一分の隙もない客がしぶいランドクルーザーに乗って登場した。
ジャズを楽しみながら、申されている。
「そういえば自宅で『パラゴン』が鳴っています」
すばらしい。
マークレビンソンで駆動し、ついこの間まで鳴っていたのはマッキントッシュによるアルテックA-7であるという。
表情一つ変えないその客に、当方は気になって尋ねた。
――そのA―7とやらは、いまどうなっているのでしょう?
「部屋の片面に置いて有ります」







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元旦の幻影

2011年01月02日 | 歴史の革袋
櫻川
来神河流過平泉館下川也往時遶駒形山下毎春艶陽之時櫻花一萬株爛慢于峯頂風光漸去飄零日飛此時満川如雪河流変色仍称之櫻川如今其地為野田尤可慳或指衣関小流者非是

衣河館 今曰高館
在平泉村東安倍頼時所築曰之衣河館文治中民部少輔基成居此館義経于茲世称高館是也上有義経古墳々畔有一櫻樹今猶存焉是乃往時之旧物也傍有兼房墓天和中我前大守綱村君建祠堂祭義経幽魂
桓武帝延暦八年六月庚辰征東将軍奏胆沢之地賊奴奥区方今大軍征討剪除村邑余党伏竄害人物又子波和我僻在深奥臣等遠欲薄伐運粮有難其従玉造塞至衣川営四日輜重受納二ヶ日然則往還十日依衣川至子波地行程仮令六日輜重往還十四日従玉造至子波地往還廿四日也
東史曰予州在民部少輔基成朝臣衣河館文治五年閏四月晦日泰衡襲其館予州兵悉敗績予州入仏堂害其妻子後夫人乃川越太郎重頼女死時廿二女子四歳義経廿七歳
同八月二十五日頼朝令千葉六郎大夫胤頼之衣河館召前民部少輔基成父子委身于下吏降胤頼 九月二十七日頼朝歴覧頼時衣河遺蹤同六年二月十一日千葉新介敗大河次郎兼任于衣河館
今詳考東史或記歴覧頼時遺蹤或記敗兼任于衣河館按義経東行之時秀衡別構営称之高舘而往年頼時旧館此時猶存者可視
賦高館古戦場
高館従天星似冑衣川通海月如弓義経運命紅塵外弁慶揮威白浪中出本朝一人一首

吉次居宅
在衣川北旧礎猶存焉吉次奥州大買往昔在京師而合牛若于鞍馬寺約東行携之至于平泉秀衡相喜賞之以貸財及第宅此其遺址也

柳営館
其址今在高館東北輝井陣営東来神河東俗曰之柳御所義経東行改義行在東奥号義顕 見東史 其常居乃柳営館也然是高館乃頼時旧館而基成相継而居焉衣河館者往時旧名也

和泉城
遺址在中尊寺西阻衣川是乃往時貞任族兄成道所拠之古塁曰之琵琶柵後秀衡第三子泉三郎忠衡居于此城仍曰之泉城
按此城去高舘以西可十町康平中号琵琶柵文治中忠衡居之同五年夏六月廿二日先義経自尽己五十日
東史曰三男忠衡家在于泉屋之東
按往昔之旧墟問之郷導渾不詳地理方角来歴事実佗時問之別人則又異其対殊其地豈此処而己哉処々皆兪故所記其中或依其所告之可信或拠其所見之可証而挙其大略于此庶幾竢其識者而帰至当矣於他郡方所亦兪前條柳営館亦細考之不分明者多想秀衡迎義経之東行而新設居第者蓋此柳営館也泰衡攻而所弑者高舘也然義経先是不与基成可同居焉故平日在柳営舘斯地挟隘因曁其受泰衡大兵也移居于高館者欠但基成居頼時旧館而義経自尽于別舘欠是亦不分暁後人考定之

衣関
去高館一町余山下有小関路是古関門之址也東史曰此地昔時西界白河関東限外浜行程十余日於其中間立関門名曰衣関
一説曰衣関在伊沢郡白鳥村曰鵜木其傍有関山明神今曰之関門宅是乃往時通行之道路而今廃其地也高闢関門左則隣高峻右則通長途南北層巒層相峙険隘之地
藻監草衣関奥州 こへわつらふ 時鳥 月 なみた さくら  

後撰雑一  よみ人しらす
たたちともたのまさらなむ身にちかき衣の関も有といふなり
道貞忘れて侍りける後みちの國の守にてくたりけるにつかはしける

詞花別  和泉式部
もろ共にたたまし物をみちのくの衣の関をよそに見るかな
 建保六年歌合冬関月

続後撰冬  順徳院御製
かけさゆるよはの衣の関守はねられぬままの月をみるらん
 旅の歌の中に

続拾遺旅  大蔵卿行宗
都いてて立かへるへき程ちかみ衣の関をけふそこえぬる

同  衣笠内大臣
たひ人の衣の関をはるはると都へたてていく日きぬらん
 宝治百首歌奉りける時寄関恋

同恋五  前参議忠定
跡たへて人もかよはぬひとりねのころもの関をもる涙かな
 五十首歌

続千載賀  贈従三位為子
行人もえそ明やらぬ吹返す衣の関のけさのあらしに

新続古今別  藤原顕綱朝臣
東路に立るをたにもしらせねは衣の関のあるかひもなし
 嘉元百首歌奉し時旅

夫木集春部  前中納言定家
さくら色によもの山風染てけり衣の関の春のあけほの
 洞院攝政百首花

同春  大納言経成卿
花の香をゆくてにとめよ旅人の衣のせきの春のやまかせ
  親隆一寂然法師
杜鵑衣の関にたつね来てきかぬうらみをかさねつるかな
 嘉元百首歌奉りける時旅
  津守國助
たひねする衣の関をもる物ははるはる来ぬるなみたなりけり
 堀河百首  藤原顕仲朝臣
白雲のよそにききしをみちのくの衣のせきをきてそ越ぬる
 光台院入道五十首

夫木下同  正三位知家卿
さくら色の衣の関の春かせに忘れかたみの花の香そする
  近衛院因幡光俊女
紅葉ちる衣の関をきて見れはたたかつまをそむるなりけり
 嘉応二年十月法性寺殿歌合関路落葉
 
  土御門内大臣
ちりかかる紅葉の錦うへに着て衣の関をすくるたひ人
衣川の関の長おおはしけるとききて
  重之
むかしみし関守みれは老にけり年のゆくをはえやはととめぬ
家集には衣の関のおさありしよりも老たりしをと有
小々妻(サメ)十題百首  寂蓮法師
やまかつの結てかへるささめこか衣の関とあめをとをさぬ

新葉集  為忠
露結ふそてを衣の関路とやうらゆく月も影ととむらん

弁慶堂址
在衣関以西山頭往昔有一堂蔵武蔵坊弁慶像其堂今荒廃遺像在大日堂或曰此地乃重家墓所也

中尊寺
在中尊寺村号関山中尊寺堀河鳥羽両朝勅願所也堀河帝長治二年乙酉奥羽押領使左将弁富任卿奉勅至東奥伝中尊毛越経営詔于御館清衡至鳥羽帝天仁年中稍落成焉以精舎在衣関而号関山輪奐富麗頗極其美今尽荒廃纔存寺院本文左将蓋左少弁乎
東史曰寺塔四十余字禅房三百余宇清衡管領六郡之時草創之自白河関至于外浜行程廿余箇日其道路毎町立竿卒都娑図画金色阿弥陀像計当国中心立墓塔于山頂寺院中央有多宝寺安置釈迦多宝像於左右中間開関路為旅人往還之道文治五年九月十七日源忠所訟末篇書中尊毛越無量院寺塔注文如今挙其記録次第附各区之下

釈迦堂
安一百余體金容即釈迦像也己下皆載本文

二階堂
高五丈本尊長三丈金色弥陀脇持九體丈六也按右三区及仏像今己亡

金色堂
上下四壁内殿皆金色堂内構三壇悉螺鈿也安阿弥陀三尊二天六地蔵定朝作是乃天仁二年己丑所立蔵三代尸者是也
按金色堂如今土人所謂光堂者是也在経堂東南堂柱各図胎蔵界大日十二躯彫螺鈿細紋堂内尽金色中構三壇各上置仏像壇下皆三代之屍也左壇乃痊基衡右痊秀衡前壇清衡也後水尾帝寛永中黄門君時修補之次令人発而点検焉清衡棺長六尺曠二尺裏之以白綾漆其上納雄剣一口井鎮守府将軍印璽基衡裏之以白絹朱其上襯白衣表綿袍秀衡亦同之蔵和泉三郎忠衡首函高二尺方一尺五寸黒漆壇上仏像中立者弥陀是乃定朝所作観音勢至相並于其前多門持国両立六地蔵擁後共雲慶所造也今暗与東史記合其佗今所蔵有楽師二躯共丈六有大日一躯共運慶所造外有珍蔵者一曰秀衡撃刀長一尺六寸広一寸二分二曰用大刀誤衛府太刀者長一尺六寸出秀衡棺中三曰義経刀長九寸五分


※ 奥羽観蹟聞老志巻之十



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シャコンヌ

2011年01月01日 | 巡礼者の記帳
年の始め。
2007年の地球上のすべての年金プールは1900兆円であった。
サバンナの上空を、ジェット気流のように還流する人類の蓄えを眺めていると、ついにこのごろ当方の上にも、野辺の朝の露のようにわずかにであるが、降ってきた。
モダン・ジャズに、それをどうこういう短調はない。
バッハの『シャコンヌ』を、かりにジャズで聴いてみたいと、シャワーを浴びる一時、考える。
バイオリンの原曲のソロそのままに、トリオがまるで一個のように渾然一体、ダイヤモンドフォーメーションを組んで一糸乱れず、低音部はどこまでも深くベースとドラムスが掘り下げて、ミリオンセラーの演奏を渋く、しかし明るく演奏するところを聴きたい。
そうなるとサクスはコルトレーンで、ドラムスは変拍子も得意の繊細なシェリーマン。ベースはフォービートの権威チェインバースがあたれば、いっけんスタイルの分離した面々が、ジャズによって多角的にバッハを解くのか。
16分のストーリーを、3分ずつソロで各自が解釈をみせ、途中の要所と後半は圧倒的荘厳に、なおかつひとつの連結した楽器のように、バッハの真髄にせまる。
ギュンター・ノリスの質素なサウンドとは反対の骨太に、ベイシー楽団のパーツと遜色なくお願いします。
最初の詠嘆の開始が決定的に重要で、短調を長調のようにブワッとかなりの抑揚と演繹をみせながら、時には借りてきたネコのように意表を突いてそろりといきましょう。
その数日あと、
「これはシャコンヌですね」
タンノイを聴いていた客が言った。
ふと、ジャケットをみるとそこに『グリュミオー』が、名器を駆使してバッハを解いている。
やはり、ジャズ演奏でこのフレージングは困難かな。
堂々たる深々としたビオラのような低音弦と、間欠泉から吹き上がる勢いで高音弦が同時に五線譜を走っているところを聴くと、この演奏を超えるのは容易ではない。
お客は、最近、タンノイをご自宅に設えたのである。
同伴の女性は、ほのかにバラ色の香りをさせ当方のテーブルの向かいの席にいて、「コルトレーン」って人の名前でしたの?」と瞳を輝かせて言っている。
それが読売ランドの観覧車に乗ったときの風景と、なるほど、はっは。やや似ていることに気がついた。
隣のテーブルの客が「嫁さん」と言ったので、どうやらご夫婦である。
離れた席のもう一人の男性はテレビドラマの訪問者のようなかまえでありながら、
「父が使っている装置はヴァング・アンド・オルフセンである」
と、申されたので、三軒茶屋のKT氏の宅で聴かせてもらったモンクの音を思い出した。






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