ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

春一番

2011年04月22日 | 巡礼者の記帳
春一番の強風の翌日、余震の隙を突いて、電話が鳴った。
受話器の向こうに聞こえたのは、四弦を操る記憶のベーシスト荘司氏の声である。
「いま御市の手前のパーキングエリアに居ますが、店を開けておられるならちょっと高速をおりて珈琲をいただこうかと思います」
テレビ画面に見る谷啓氏と、どこか似ているやわらかな表情を思い出した。
震災のこの時期にこそ、普段当たり前に浸ったジャズの気分が懐しい。
四月のツアーを、仙台、三沢、三戸、大館、大仙、酒田のロードマップにめぐるそうであるが、
「ご無事の建物を拝見して、ことほぎたいものです」
と電話はご親切に申されている。
当方は、脳裏にアイデアが灯った。
DUOの奏する『虹の彼方に』をお願いすれば、眼前にライブ演奏が、幕臣松平公の大広間気分で現れるのか。
錆びた金庫は頑として開かないが、このさいやむをえない。
まもなく店内に入ったお二人は、室内を見回してうなずくと、このあいだの演奏音響が録音スタジオのように響きがよかった記憶を、無言のカリスマ中川氏ときょうもちょっと奏してみたいと申されたのが、好都合である。
さっそく譜面台が組まれ、楽器がケースから現れるのを見ながら、ご自宅の住居も地震が強烈で、ご婦人よりもべースのケースを抱いて避難したところが問題ではあるが、その大切なウッド・ベースがセットされ、いよいよブビビル、ブッビビン、と4月の薄花色の空気に流れ出した。
荘司氏独特の弦を操る指さばきがクリヤーな音を響かせ、左手のフレームと一体に連動する指が、プフとかブピとか弦に触れて鳴るのが、メロディーにことのほか抑揚を与え録音に聞こえない豪華さである。
しばらく地を這い時に軽やかに飴色のウッドベースから響きが流れていくのを聴いたが、
その一瞬の隙をついてカリスマ中川氏は、サクスのバオ!としたメロディの開始を、アサガオ開口部の先端にご自身が立っているような切実な音の切っ先を響かせて、もし大勢の観客が、節分の仏閣の演台の周囲に参集していれば、すかさずドッ!とありがたい気分でスタンディング・オべ ーションが沸くところである。
だが、英国式には、延喜式のように静かに感動を溜めて、長く味わうのがタンノイだ。
冗談の優れた荘司氏は、
「タンノイのなにゆえかは、およそ記述で承知しましたので、一年後にでも感想を披瀝してくだされば」と合いの手も流石である。
当方は、1曲が終わった流れを遮ってめったにねだってはならないリクエスト、『オーバー・ジ・レインボウ』をずうずうしく希望した。
「ああ、その曲なら、有名なジャズナンバーですから、いきましょう、我々は、レパートリィも千曲以上、たいてい大丈夫です」
と申されると、楽譜をちょっと捲る様子に、むかし某所で見たコルトレーンのナンバーを代わりに演したマルサリス氏が、楽譜をめくる様子と、腰をかがめ譜面を片手で広げる角度が堂々としてなぜかそっくりである。
『虹の彼方に』の演奏については、ジャズ好きならパウエルやティータムやペッパーやゲッツなど、いろいろな音色で脳裏に彷彿とされることであろう。
だが、この日、ベースとサクスで、余震の間隙をついて繰り広げられた演奏は、当方にとって松平公の日記の気分まで斟酌できたところが音響的にもリアルで、望外の喜びとなった。
それは、殿様おそるべしの世界である。
ご自分の演奏に、あまり手放しで虹の彼方に行かれてもこまると思われたか荘司氏は、一言、わすれずに付け加えたのが聞こえた。
「オーバーザレインボーもよろしいですが、最初の『ウッドストーリー』はわたしの作曲です」

☆ タンノイ以外のライブ観賞は、今回のみ特例。






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ON A CLEAR DAY

2011年04月17日 | レコードのお話
オスカーピーターソンのフォーメーションといえば、R・ブラウンとE・シグベンのサウンドが記憶のセットであり、黄金比のように約束の風景である。
では、たとえばベースをサム・ジョーンズ氏とドラムスをバビー・ダーラム氏が演じたLPの、カッテイングが『Verve』でない『MPS』であったら、サウンドのフォーメーションや音色の味は、はたしてどうなのか、心得のある人はひとかたならぬ思いを持つ。
この1967年のリリース盤は、新居に案内されたようなまぶしさがあって、ピーターソンは楽しんで演奏している。
まるでハイファイ・セットのメーカーを入れ替えたような音のピーターソンを考えてもみなかったが、余震の隙をかいくぐって、当方は演奏とサウンドを堪能することができた。
このような震災に、聴きようによっては、なぐさめているような、励ましているようなピーターソン・サウンドが一時の喫茶時間である。
近頃のように、余震を百回以上も経験してみると、ダダッとおとずれる少しの揺れでも必要以上に身構えて、いかな二本差しといえども、イースター島の石像のように平然とたたずんでいることはどうなのか。
帝都お江戸の城の石垣も崩れないよう工夫されているが、旗本八万旗の大久保彦左衛門のやせ我慢気分で、きょうは平然とトーレンスを回転させて、LPジャズを楽しんだ。









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峠の4月

2011年04月02日 | 巡礼者の記帳
テーブルの上の2つのSPU-Aは、外見に差は無いが、聴いてみると倍払ってもこれはと思う楽器の存在感や音楽のふてぶてしさに違いが聴こえる。
同じ原稿を読んで、つい耳を奪って聴かせてしまうあのアナウンサーのようである。
カートリッジのコイルやダンパー構造に手を加えることのできる人は稀であるから、買ったものはしかたがないけれど、同じ値段とは、なんてこっちゃ。
いまあるものの、良い音の個体を大切に使おうと、針先の掃除はコップに入れた熱湯に綿棒を少々浸して針先を正方向にクルッと擦る。
一眼レフから35ミリレンズをはずして、ルーペ代わりに見ると、レンズの中に戦車の砲塔のような大きさで、砲身の先に尖ったダイヤモンドが、ピカッと見える。
ノン・プロブレムであったこれまでが、地震で暗転したのはRoyceだけではなかろうが、音の出なくなったトーレンス226を遠巻きにして何日もそのままにしていた。
あっ!
外からは見えないがアームの下コネクターからソケットが抜け落ちただけで、丈夫なダイアモンドはさんざんバウンドした苦難に耐え、いつもの音が出た。
これに懲りて、アームホールドは余震の間は紐で縛り、そこまで?とは思うが、当方は、オスマントルコのサルタンではないので、ウチワで風を起こす係も雇えず、すべてをこのようにけなげにやっている。
気を取り直してルーレット盤の『Sarah Slightly Classical』をかけると、アーン、2曲目で突然地震がおこって、これがロシアン・ルーレットであったのか。
賢い人は、非常時のいまどきジャズを鳴らさない。
松平大和守日記によれば、非常に芝居好きの殿様であったから、地位をはばかって自ら町中に外出して観劇できなかったので、側近を堺町の芝居小屋にやって新作上映の歌舞伎を見に行かせ、内容の報告が来るのをこのうえない楽しみとしていた。
これなら、針も痛まない、豪華なまた聴き。
時にはその我慢もたまりかねて、役者を城に招いて自らの目の前でさわりを演じさせている。
当時の新作歌舞伎といえば、現代では封切り映画のことであるが、むかし当方がお世話になっていた会社に、沖縄から来ているアルバイト人で、なんといったら良いか、部屋に遊びに来ると、彼らの言う本土に渡ってこれまで経験した視点で、おもしろい感想をいろいろと話してくれるのだが、とくに映画の解説が異常にうまかった。
あとで、それではと映画を見ると、話で聴いた方がおもしろいこのような人物も居るので、お殿様も堪能していたはずである。
先日の震災の被害状況を再び話に来られた国語の先生は、百科を読みこなし、スパイ小説ではいろいろあるがジャッカルの日、映画になったイアンフレミングのことをいい、30年も前の映画館の『シベールの日曜日』のけしからん村人を、印象的に話しておられた。
いまあれを見てどう思うかわからないが、青春の印象は強く、映画館で三度見た知人もそういえば居て、当方の趣味では『ぼくの叔父さんの休暇』も良い。
そのうえ音楽の先生も再び奥方とみえ、今回の震災で教え子にあたる音楽の先生の学校が被災して、自分の部屋もタンノイがひっくり返ったのに、かの様子を心配されていた。
ところでこの人物は、そのような教え子を持つ年齢にとても見えないので、思わず聞き返してしまったが、詐称外見といえる明るい人である。そういえば奥方様も。
最初に登場されたときのことを憶えているが、教則にしている演奏がロイヤルでどのように聴こえるか知りたいと持参のマーチングバンドを当方も聴いてびっくり、イーストマン吹奏楽団のものであった。
この小またが切れ上がっている、いなせな演奏には、水戸の音楽の先生もかってメモされていたが、一度聴いたらほかの指揮が、あれっと感じるビートの効いた指揮棒がすばらしい。
この『フェネル』氏という人物の指揮が、風神のようである。
気分の安まらないこの時期にあって、峠を越えて4月は続いて行く。





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鹿踊りの庭

2011年04月01日 | 歴史の革袋
鹿踊りの庭を見た記憶の屋敷は、明治の三陸津波被害から避難して、いまの高い所に移されたものという。
5歳がたちまち過ぎてしばらくあと、もう一度訪問する機会があった。
庭を案内する当主とご長男が漏らされていたが、前日は我々の訪門のために庭の草刈りをされたらしいのが恐縮である。
この庭は、ご先祖が京の庭師を三陸まで招聘して造作されたいわれが庭園雑誌に紹介されて、野次馬の当方が話を聞いて、ぜひ離れの茶室の紫檀黒檀の天井を拝観したいと熱望した。
それからふたたび音信のない先頃の東北大震災に、陣中お見舞いの途中立ち寄ろうとしたが、捜してもどうにも場所がわからない。
あちこちうろうろしていると、庭先で大きな伊万里の皿を大量に洗っている老人を見かけ、車を降りて尋ねてみた。
「ああ、あそこは大丈夫。場所は次の湾だが、あなた方は誰?」
父もそうであったが、田舎では、どこから来て何の用事かと、まま詮索される。
どの人も心の奥で世間のちょっとした変化も逃さない。
瓦礫の積もった震災の沿岸を心細く進むと、角に停まる消防自動車からわざわざ二人が降りて、斜面の中腹の住居を教えてくださった。
土蔵の側から入ると、あいにくのご不在で当方は早々に退去した。
ご無事がなにより。





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