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いまから千百年ほどまえに、東北の豪族の首領が命じて、千人の工人を動員し2万本の丸太を組んで造ったといわれる『川崎の柵』という砦は、一関市街地から東に14キロ北上川を下ったところにある。
前項の『覚べつ城』の候補地がすべて北上川西側にあったのと反対に、東岸であるところが性格を示し、京からの攻撃進路を断つものである。
『川崎』の名が示すように、北上川と砂鉄川の分岐した舌状の沿岸台地に、二重の柵をめぐらして守備の軍勢を配置し警備をおこたらなかったと古文書にあった。
或る日のこと、その遺構がまだ残っているものか確かめようと、北上川の東岸の道を、風景をのんびりながめつつ車を進めると、前方の路上に大きなキジ鳥がなにやらまだらの紐のようなものを咥え跳ね踊っているのが見えた。
猛禽の狩であった。
この川崎の眼と鼻の先には『薄衣』という雅びな京風の地名のところがあり、そういえばサッカーの上手な旧友が住んでいたところである。
滔々とそばを流れる北上川に、巨大な魚が棲んで居そうな深い色を見せ、大河は平野を流れ、あるときは峡谷を流れて静かに250キロといわれる流域を海に下っていく。
子供の頃に、表層の流れと深部では温度やスピードが違うので泳いではいけない、といわれていたが、河口の石巻港まで多くの支流を集めて呑みこむところを見ながら、船で下るツアーがあれば一興である。
ダンゴや日本酒やビールで日がな一日、船べりに身を持たせて釣り糸でも垂れながら遊んでいたい。
その船べりからの眺めに、川崎を通ったとき、あの時代の城柵が整然と眺められればと惜しまれるが、歴史の変遷でいつしか木も朽ち、古文書にわずかに名を残す古代の遺跡は、先年の発掘で掘り起こされた一部に擬定地として碑がたてられているのを見る。
スケール的には、北進を遮断するための支流を結んだ距離に、二重の壕と、軍勢の突進を怯ませるような太い丸太を堀立てて塀にした柵を持ち、背後の小山に本陣館を建てたのではなかろうか。
山から木を切って北上川や砂鉄川に筏を組んで流し、ここに集めれば、先人の昔を偲ぶ再度の構築はいまも可能だ。
想像図は、根拠が無い。
ところで、ふらりと現れた元船長さんは、いつも新しい客人を同伴する熱心な人である。
山形から、営業エリアを宮城に拡張するその御仁はジャズの楽しさを休憩にして、海産物を大窯で煮出してエキスを作る船長さんの話に頷きながら、昼食はさてどこにするのか。