ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

戻ってきたチャーリー・パーカー

2010年02月23日 | 巡礼者の記帳
寒さもちょっと緩んだある午後、仙台からと申されて、「ジャズはJBL」と言いながら、おかしそうに「先生!」などと当方にジョークを連発して呼びかけて、いそいで御帰りになった二人組の客は、あれが伊達名物であろうか。
二十分ほどして、お一人がまた戻ってくると「珈琲の払いを忘れた」と言った。
4号線をどこまで行って気が付かれたのか。
当方も昔、目黒の店で珈琲代を払い忘れてきたことがあった。戻るというのは努力がいる。
チャーリー・パーカーは、「忘れた珈琲代なんて、払わなくていい」と演奏で言っている。
たしかにそう聴こえるのはタンノイだけだろうか。






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川崎の柵

2010年02月19日 | 歴史の革袋
いまから千百年ほどまえに、東北の豪族の首領が命じて、千人の工人を動員し2万本の丸太を組んで造ったといわれる『川崎の柵』という砦は、一関市街地から東に14キロ北上川を下ったところにある。
前項の『覚べつ城』の候補地がすべて北上川西側にあったのと反対に、東岸であるところが性格を示し、京からの攻撃進路を断つものである。
『川崎』の名が示すように、北上川と砂鉄川の分岐した舌状の沿岸台地に、二重の柵をめぐらして守備の軍勢を配置し警備をおこたらなかったと古文書にあった。
或る日のこと、その遺構がまだ残っているものか確かめようと、北上川の東岸の道を、風景をのんびりながめつつ車を進めると、前方の路上に大きなキジ鳥がなにやらまだらの紐のようなものを咥え跳ね踊っているのが見えた。
猛禽の狩であった。
この川崎の眼と鼻の先には『薄衣』という雅びな京風の地名のところがあり、そういえばサッカーの上手な旧友が住んでいたところである。
滔々とそばを流れる北上川に、巨大な魚が棲んで居そうな深い色を見せ、大河は平野を流れ、あるときは峡谷を流れて静かに250キロといわれる流域を海に下っていく。
子供の頃に、表層の流れと深部では温度やスピードが違うので泳いではいけない、といわれていたが、河口の石巻港まで多くの支流を集めて呑みこむところを見ながら、船で下るツアーがあれば一興である。
ダンゴや日本酒やビールで日がな一日、船べりに身を持たせて釣り糸でも垂れながら遊んでいたい。
その船べりからの眺めに、川崎を通ったとき、あの時代の城柵が整然と眺められればと惜しまれるが、歴史の変遷でいつしか木も朽ち、古文書にわずかに名を残す古代の遺跡は、先年の発掘で掘り起こされた一部に擬定地として碑がたてられているのを見る。
スケール的には、北進を遮断するための支流を結んだ距離に、二重の壕と、軍勢の突進を怯ませるような太い丸太を堀立てて塀にした柵を持ち、背後の小山に本陣館を建てたのではなかろうか。
山から木を切って北上川や砂鉄川に筏を組んで流し、ここに集めれば、先人の昔を偲ぶ再度の構築はいまも可能だ。
想像図は、根拠が無い。
ところで、ふらりと現れた元船長さんは、いつも新しい客人を同伴する熱心な人である。
山形から、営業エリアを宮城に拡張するその御仁はジャズの楽しさを休憩にして、海産物を大窯で煮出してエキスを作る船長さんの話に頷きながら、昼食はさてどこにするのか。





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まぼろしの覚べつ城跡

2010年02月13日 | 歴史の革袋
最近、『覚べつ城』のことを聞いて、高校2年のときに、笑わない同級生がいたことを思い出した。
廊下をちょっと右肩をやや傾けて早足で歩く渋面の男に、なるほど、と当方もしばらく渋い表情を真似てみたが。
にわかなものは、にわか雨だけが良いのか。
年次の学園会報の編集をして、その男に部活のレポートを求めたところ、しばらくして上がってきた原稿が『覚べつ城の研究』である。
史学部の年次研究をみると、その前年は須川湖の研究で、はじめて聞くマイナーな対象ばかりで「趣味は洞窟や穴掘り」と言っていた意味がわかった。
このクラブの担当は教師になりたての山岳家で、いちど下宿を訪ねたことが有る。
授業の特長のある大声が隣の教室まで漏れて感心したが、その教師のひきいる20人ほどの集団が史学部であった。
今を去る千二百年前のこと、東北の現地勢力を平定するため多賀城の前線基地として、紀広純が構築した古文に記録の残る城柵のことであるが、『覚べつ城』はその所在がいまだに発見されていない。
たしか、「穴を掘ったら土器が出た」と言っていたが、いったい彼等はどこを掘ったのか?
1. 有馬川流域の有壁(北上川西側丘陵台地)
2. 宮城県登米郡中田町上沼(北上川本流)
3. 一関市赤萩磐井川北岸(北上川西側丘陵台地)
4. 平泉衣川南岸(北上川西側丘陵台地)
5. 前沢町古城明後沢(北上川西側丘陵台地)
6. 水沢市佐倉胆沢川南岸(北上川西側丘陵台地)
オーディオマニアの分布と重なるようにこれだけ候補地があるなか、おそらく、学校の近くにある赤荻の擬定地といわれているところかもしれない。
邪馬壹国のように擬定地というところが気にかかっておもしろく、三千人が集結できる古代の城柵のさまざまな条件がどうしたら満たされるのか、あれこれ思いつつまたジャズを聴く。
そのとき寒風をついて入ってきたお客は、以前にもお見えになったことが有る。
ジャズとクラシックのLPをお持ちになったので、聴かせていただいた。
「若い頃、はるおさんのJBLで、ジャズの手ほどきを受けました」と申されて、もの静かに枢要な知識の片鱗をレコードに合わせてお話しくださると、タンノイも名盤に英國の渋さを載せ、冬の午後はゆっくり過ぎていった。






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今泉街道

2010年02月06日 | 歴史の革袋
小学校の二階からはるか東を眺めると、観音山の方向に一本の白い道が伸びて、それが歴史に消えたまぼろしの『今泉街道』である。
古道が北上川を越えることろに柵ノ瀬橋があり、付近の三角池が子供たちの釣場で、幕藩時代の一関藩と太平洋岸の気仙郡を結ぶ今泉街道の西の入り口であった。
柵ノ瀬橋から山の麓までの、一面に広がる田圃の中程に、防風林にかこまれて棲みやすそうな農家がポッンと一軒あった記憶を思い起こして、行ってみるといまは無い。
大きな颱風が大雨を降らせると、しばしば北上川が溢れて、水没したこの一帯は雨上りに湖のように青い空を映して広がった。
田畑は肥えるが、新聞報道にロウソクや生活物資を届ける小舟の写真が載って、その方面の学友達は休講になった。
柵ノ瀬橋から摺沢や大原と通って、やがて竹駒があり、まぼろしの今泉街道は海に向かう。
気仙郡の終点の今泉には土蔵が街道沿いに軒を連ね、天満宮の付近にはお玉が池の剣豪千葉周作の生誕地を示す石碑が残っている。
このような古道の面影を残す今泉街道を、いつかのんびり辿りたいと文献をながめているそのとき、「こんにちは」と言って、「いま水沢のパラゴンを堪能してきました」と登場されたのは謎のA氏であった。
はじめてROYCEのタンノイのジャズが鳴るところを、同伴のご婦人に紹介されている。
「関西の生まれです」と申されたご婦人は、A氏となにやら言葉少なく打ち解けて、そこだけがこの冬に、ロートレックの春の陽気を感じさせている。
今泉街道の連想で『道の駅』の話になったが、白く長く伸びたハイウエイに単調をおぼえるころ、天井の高い大型の江戸時代のコンビニのように、道の駅の建物は周囲の産物を満載展示して、大名行列の陣屋の休憩のように、のどを潤し名産を眺めさせては、物見遊山や湯治の客を楽しませている。
道の駅の建物は、いま日本列島に917を数え、記念スタンプを蒐集する別の楽しみもあると『スーベニール・スタンプ』の蒐集に思い立ってハンドルを握るご婦人に、「それのために、遠くまで車を走らせたこともあったような....ね」とA氏は笑って、ご婦人の興味を、傍で楽しんでいるようだ。
かって御伊勢参りや善光寺参りの旅に遊んだ日本的伝統は、日常から、ふとした新しい気分を彩って、遠い時代の記憶をいまに蘇らせている。


※RTS85m.f1.4



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青森の温泉から戻った客

2010年02月01日 | 巡礼者の記帳
寒気団がいよいよ東北をおおった午後、初めて登場した客が黒い大きなリュックを置くと、一瞬ほのかに硫黄の香りが流れた。
タンノイの音像に耳を傾けては、御自分の装置を控えめに、知識をこちらの話に合わせて小出しになさっていたが、そういえば『ハーベス』の音は気に入って、全体のレベル合わせにいまでも手放さず持っていますなどとさりげなく、珈琲をお代わりした。
かりにバッキンガム宮殿の広間の装置でも心得て振る舞って、侘茶の作法のようなおもしろい時間を過ごす人かもしれず、そこを見てみたいものであるが。
「埼玉から来ましたが、昨年は岩手の温泉の帰りに川向うに寄り、いま青森の温泉の帰りにこちらに寄りました」と、申されている。
1958年のニューヨーク、ファイブ・スポットのライブは、モンクもグリフィンも鮮やかなフォービートの明解な構想が美しい。
いままで、ベース奏者『アーマッド・アブダリ・マリク』の存在が話題に上ることはめずらしく、力量がどこまで到達したのか、だれも核心のある解説がないのは、少ないLPから足跡を辿ることがむずかしいからだろうか。
『ライ麦』に描かれるホールデン・コールフィールドは、演奏団のなかに目立たない楽器を受け持ってたんたんとこなしている奏者に無闇に感じ入っていたが、『ミステリオーソ』のマリクを聴くと、なかなかどうして、考えていたより達者であるので安心した。






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