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ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

まぼろしの鴻臚館

2011年02月01日 | 歴史の革袋
英国の車に、ダッシュボードがマホガニーであると、走る書斎という雰囲気がどこまでも宗主国である。
その様な車は、誰にもぴったりといかないのが残念だ。
Royceに停車したさまざまの傑作を、ときにジャズ的に座席までのぞかせてもらうのが楽しい。
車はあるとき、毛越寺のそばの空中回廊を通って、中尊寺の金色堂の裏手の道に出た。
太いタイヤが棚田の縁をゆっくり下りていくと、数羽のキジ鳥が雪の上に野生の姿のまま餌を啄んでいる。
金色堂の竹林を背景に、羽根の色合いが美しい。
この棚田になって残っている区画については、古代の池の名残で、かっては庭園が広がり、おそらく三重塔や平安様式の離宮が建っていたのではなかろうか。
礎石が見つかれば、構造や復元も可能かもしれない。
宗主は、西行や義軽ばかりでなく、遠来の客が月見坂を登った汗を鎮めるための、小型の鴻臚館のような接待殿を設けたのは自然のことである。
Royceで、すばらしいベースとサクスを、エキサイティングに披露してくださった御仁からお電話があって、受話器の向こうの声は、ベースのように話がすすんでいく。
そこで思い出したが、この方のご友人が、先日わざわざRoyceにお見えになり、日常のことをちょっと話してくださった人柄に気品があった。
ご自宅は神戸にあり、これまでしばらく東北で業務していること。
過日、車の事故に巻き込まれ、いまだどこか痺れているような気がするけれども、会社の意もあって業務に復帰された。
なるほど、隣に座している御仁を見ると、姿勢と押し出しの良い外務官僚のような人であるが、首のところがすこし不自由かもしれないと申されていた。
ジャズに関心があって、ゆっくりアンプのつまみをひねってコーヒーを楽しまれる日常を、春のように待っておられるのかもしれない。





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元旦の幻影

2011年01月02日 | 歴史の革袋
櫻川
来神河流過平泉館下川也往時遶駒形山下毎春艶陽之時櫻花一萬株爛慢于峯頂風光漸去飄零日飛此時満川如雪河流変色仍称之櫻川如今其地為野田尤可慳或指衣関小流者非是

衣河館 今曰高館
在平泉村東安倍頼時所築曰之衣河館文治中民部少輔基成居此館義経于茲世称高館是也上有義経古墳々畔有一櫻樹今猶存焉是乃往時之旧物也傍有兼房墓天和中我前大守綱村君建祠堂祭義経幽魂
桓武帝延暦八年六月庚辰征東将軍奏胆沢之地賊奴奥区方今大軍征討剪除村邑余党伏竄害人物又子波和我僻在深奥臣等遠欲薄伐運粮有難其従玉造塞至衣川営四日輜重受納二ヶ日然則往還十日依衣川至子波地行程仮令六日輜重往還十四日従玉造至子波地往還廿四日也
東史曰予州在民部少輔基成朝臣衣河館文治五年閏四月晦日泰衡襲其館予州兵悉敗績予州入仏堂害其妻子後夫人乃川越太郎重頼女死時廿二女子四歳義経廿七歳
同八月二十五日頼朝令千葉六郎大夫胤頼之衣河館召前民部少輔基成父子委身于下吏降胤頼 九月二十七日頼朝歴覧頼時衣河遺蹤同六年二月十一日千葉新介敗大河次郎兼任于衣河館
今詳考東史或記歴覧頼時遺蹤或記敗兼任于衣河館按義経東行之時秀衡別構営称之高舘而往年頼時旧館此時猶存者可視
賦高館古戦場
高館従天星似冑衣川通海月如弓義経運命紅塵外弁慶揮威白浪中出本朝一人一首

吉次居宅
在衣川北旧礎猶存焉吉次奥州大買往昔在京師而合牛若于鞍馬寺約東行携之至于平泉秀衡相喜賞之以貸財及第宅此其遺址也

柳営館
其址今在高館東北輝井陣営東来神河東俗曰之柳御所義経東行改義行在東奥号義顕 見東史 其常居乃柳営館也然是高館乃頼時旧館而基成相継而居焉衣河館者往時旧名也

和泉城
遺址在中尊寺西阻衣川是乃往時貞任族兄成道所拠之古塁曰之琵琶柵後秀衡第三子泉三郎忠衡居于此城仍曰之泉城
按此城去高舘以西可十町康平中号琵琶柵文治中忠衡居之同五年夏六月廿二日先義経自尽己五十日
東史曰三男忠衡家在于泉屋之東
按往昔之旧墟問之郷導渾不詳地理方角来歴事実佗時問之別人則又異其対殊其地豈此処而己哉処々皆兪故所記其中或依其所告之可信或拠其所見之可証而挙其大略于此庶幾竢其識者而帰至当矣於他郡方所亦兪前條柳営館亦細考之不分明者多想秀衡迎義経之東行而新設居第者蓋此柳営館也泰衡攻而所弑者高舘也然義経先是不与基成可同居焉故平日在柳営舘斯地挟隘因曁其受泰衡大兵也移居于高館者欠但基成居頼時旧館而義経自尽于別舘欠是亦不分暁後人考定之

衣関
去高館一町余山下有小関路是古関門之址也東史曰此地昔時西界白河関東限外浜行程十余日於其中間立関門名曰衣関
一説曰衣関在伊沢郡白鳥村曰鵜木其傍有関山明神今曰之関門宅是乃往時通行之道路而今廃其地也高闢関門左則隣高峻右則通長途南北層巒層相峙険隘之地
藻監草衣関奥州 こへわつらふ 時鳥 月 なみた さくら  

後撰雑一  よみ人しらす
たたちともたのまさらなむ身にちかき衣の関も有といふなり
道貞忘れて侍りける後みちの國の守にてくたりけるにつかはしける

詞花別  和泉式部
もろ共にたたまし物をみちのくの衣の関をよそに見るかな
 建保六年歌合冬関月

続後撰冬  順徳院御製
かけさゆるよはの衣の関守はねられぬままの月をみるらん
 旅の歌の中に

続拾遺旅  大蔵卿行宗
都いてて立かへるへき程ちかみ衣の関をけふそこえぬる

同  衣笠内大臣
たひ人の衣の関をはるはると都へたてていく日きぬらん
 宝治百首歌奉りける時寄関恋

同恋五  前参議忠定
跡たへて人もかよはぬひとりねのころもの関をもる涙かな
 五十首歌

続千載賀  贈従三位為子
行人もえそ明やらぬ吹返す衣の関のけさのあらしに

新続古今別  藤原顕綱朝臣
東路に立るをたにもしらせねは衣の関のあるかひもなし
 嘉元百首歌奉し時旅

夫木集春部  前中納言定家
さくら色によもの山風染てけり衣の関の春のあけほの
 洞院攝政百首花

同春  大納言経成卿
花の香をゆくてにとめよ旅人の衣のせきの春のやまかせ
  親隆一寂然法師
杜鵑衣の関にたつね来てきかぬうらみをかさねつるかな
 嘉元百首歌奉りける時旅
  津守國助
たひねする衣の関をもる物ははるはる来ぬるなみたなりけり
 堀河百首  藤原顕仲朝臣
白雲のよそにききしをみちのくの衣のせきをきてそ越ぬる
 光台院入道五十首

夫木下同  正三位知家卿
さくら色の衣の関の春かせに忘れかたみの花の香そする
  近衛院因幡光俊女
紅葉ちる衣の関をきて見れはたたかつまをそむるなりけり
 嘉応二年十月法性寺殿歌合関路落葉
 
  土御門内大臣
ちりかかる紅葉の錦うへに着て衣の関をすくるたひ人
衣川の関の長おおはしけるとききて
  重之
むかしみし関守みれは老にけり年のゆくをはえやはととめぬ
家集には衣の関のおさありしよりも老たりしをと有
小々妻(サメ)十題百首  寂蓮法師
やまかつの結てかへるささめこか衣の関とあめをとをさぬ

新葉集  為忠
露結ふそてを衣の関路とやうらゆく月も影ととむらん

弁慶堂址
在衣関以西山頭往昔有一堂蔵武蔵坊弁慶像其堂今荒廃遺像在大日堂或曰此地乃重家墓所也

中尊寺
在中尊寺村号関山中尊寺堀河鳥羽両朝勅願所也堀河帝長治二年乙酉奥羽押領使左将弁富任卿奉勅至東奥伝中尊毛越経営詔于御館清衡至鳥羽帝天仁年中稍落成焉以精舎在衣関而号関山輪奐富麗頗極其美今尽荒廃纔存寺院本文左将蓋左少弁乎
東史曰寺塔四十余字禅房三百余宇清衡管領六郡之時草創之自白河関至于外浜行程廿余箇日其道路毎町立竿卒都娑図画金色阿弥陀像計当国中心立墓塔于山頂寺院中央有多宝寺安置釈迦多宝像於左右中間開関路為旅人往還之道文治五年九月十七日源忠所訟末篇書中尊毛越無量院寺塔注文如今挙其記録次第附各区之下

釈迦堂
安一百余體金容即釈迦像也己下皆載本文

二階堂
高五丈本尊長三丈金色弥陀脇持九體丈六也按右三区及仏像今己亡

金色堂
上下四壁内殿皆金色堂内構三壇悉螺鈿也安阿弥陀三尊二天六地蔵定朝作是乃天仁二年己丑所立蔵三代尸者是也
按金色堂如今土人所謂光堂者是也在経堂東南堂柱各図胎蔵界大日十二躯彫螺鈿細紋堂内尽金色中構三壇各上置仏像壇下皆三代之屍也左壇乃痊基衡右痊秀衡前壇清衡也後水尾帝寛永中黄門君時修補之次令人発而点検焉清衡棺長六尺曠二尺裏之以白綾漆其上納雄剣一口井鎮守府将軍印璽基衡裏之以白絹朱其上襯白衣表綿袍秀衡亦同之蔵和泉三郎忠衡首函高二尺方一尺五寸黒漆壇上仏像中立者弥陀是乃定朝所作観音勢至相並于其前多門持国両立六地蔵擁後共雲慶所造也今暗与東史記合其佗今所蔵有楽師二躯共丈六有大日一躯共運慶所造外有珍蔵者一曰秀衡撃刀長一尺六寸広一寸二分二曰用大刀誤衛府太刀者長一尺六寸出秀衡棺中三曰義経刀長九寸五分


※ 奥羽観蹟聞老志巻之十



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古寺落慶

2010年12月04日 | 歴史の革袋
西風が落葉を舞いあげている晩秋の日、royceの前の道路工事も順調のそこに郵便二輪車が風のように封書を届けて行った。
釈迦堂と仏像の修繕落慶開眼の式をおこなうと、別当から突然の知らせで驚いた。
落慶開眼法要といえば天平の昔に伝わる大仏殿の来歴をイメージするが、知らせのあった御堂については、子供の時、割烹着を着た婦人が、境内に群生する山菜を眼の前で採ってわざわざ持たせてくださった記憶がある。
平安時代からの最も賑やかな、いまならタイムズ・スクエアや銀座通りのような一角にある御堂だが、お釈迦様だけが中で何百年も沈黙していたのか、存在の様子がいっこうに思い出せない。
あるとき、数え切れなくある京の寺院のなかで、訪れる人の無い鄙びた寺にテレビカメラが入って、ぶしつけに尋ねるのを見た。
「有名な寺院には観光客が多く入りますが、御寺のご心境というものは....」
僧はちょっと笑うと「修行に集中できるから、これでよいのです」と答えた。
そのシチェーションと似ている修業三昧のこの御堂は、これまで何百年もそこに在った。
落慶開眼の突然の知らせに驚いた当方は、失礼ながら俄然興味深々、財布を裏返し衣服を新調していよいよ当日、古刹に参集する一群の末尾に加わったのである。
奥大道の北口から坂道を進んでいくと、紅葉する樹木に午後の光が茜色の万華鏡のように照り映え、木漏れ陽から透ける堂塔の列を彩っている。
鎌倉前期まで、この右手の丘の上に甍を翼のように雄大に広げていた二階大堂を、しばらく夢想して空中に描いた。
大勢の観光客が逍遥している歴史に包まれた空間にいると、遠く麓の街道からかすかに、業務に励む車両の音が風に乗ってもれ聞こえた。
いったい、お釈迦様は、何百年ぶりに賑やかな日を迎え、どのようなお顔をしているか。
無言の御像にも、きょうは思いかけず騒がしいので、なにか意思のようなものがあるのではないか。
この知らせをくださった別当職という御仁について少し記憶があって、磐井川の中ほどにかかる橋のたもとで、骨董の収集に、日夜情熱を傾ける亭主が住んでおり、奥の座敷で刀剣や陶磁器の収集品を偶然見せていただく機会があった。
うっかり耳を傾けると引き込まれる亭主の話は、笑い転げ、あるいはしんみりさせられる柳亭痴楽の綴り方のような話芸であったが、めったに披露されないので実力を知る人は少ない。
当方が、以前家にあった刀身の先が短く短刀になった物の記憶を話すと、にわかに態度が変わった亭主は、文庫から、墨で拓本にした日本刀の刷紙をいろいろテーブルに並べてくださって、解説が興味深かった。
ご亭主の手もとでは、先刻から撫回されている小皿がある。
それはなんですか?と気になったら、一関郊外の古民家の庭先から掘り出された幕藩時代の絵付けなのだよと、ヒビ割れ皿をいとしそうに手のひらで温めているから、ぽかんとするばかりだが、障子を開けて顔を見せた奥方が「いま○さんが、見てもらいたい物があると電話で言っていますが」と、情報を取り次がれる呼吸もぴったりだ。
その席でのこと、美術品博覧会の準備に東西奔走する人の話がでて、展示出品の鑑定のため亭主の家にも来訪があったことを感心していたが、このときの人が落慶する堂宇の別当で、見識を持って広域な活動をなさっていたようである。
やがて広場の一角に到着し、最後尾に並んだ当方に、観光客が何の集まりか不思議そうにして、「能楽堂はどこにありますか?」と尋ねてきたが、ほんとうはこの釈迦堂の開眼式のほうがきょうのハイライトということを気がついたらしい。
遠くからチーンと澄んだ鐘の音がしだいに近寄ってくると、高貴な色を身に纏った僧の一団が、眼の前を列を作って厳かに釈迦堂に吸い込まれて行く。
さきほどながめた茜色の木の葉の重なりのすきまを、ゆっくり衣がたなびくような声明が永く続いて、背後に、大勢の観光客の玉石を踏む歴史の音が聞えている。
式が終わって、特別に脇侍と釈迦像を、触れるほど近くから拝観が許されたので、いよいよ御堂に入ってみた。
平安鎌倉の昔から往来した各地の旅人を安寧してこられた三体を、息を止めて眺め、象の背に乗った脇侍の彫りの深い切れ長の眼の映してきたものをゆっくり拝すことができた。
場所を移した披露会場で、堂宇のいわれなど、三百年まえに修繕された工人仏師の記録や分析が右筆からあって、そのうえ関東の名刹から来賓した僧の祝詞も興味深いものであったが、当方は、そのころすでにテーブルに並ぶ前沢牛や山海の珍味のゆくえに心を奪われていたので、記憶のおぼろげが、せっかくの機会に残念だ。
あの坂道に鳴る竹の葉先の擦れ合う音や雉鳥や野鳥のさえずりのことを、チェインバースのベースやモブレイのサクスがたっぷりとした抑揚を響かせるタンノイのむこうに、しばらく思い返す。






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阿吽の浄土庭園

2010年10月10日 | 歴史の革袋
そういえばその後、各位の登場があった。
閉店間際に、見返り美人が後ろ姿で入ろうとしたり、建築傾斜鑑定士というひとの登場もあった。ROYCEの建物はビー玉が転がるほどではないが東に七ミリ傾いている。
SS氏から電話があって、いま稲刈りにいそしんでいるらしい。
やはり、まじめな人なのだ。
そのSS氏の作品で、当方が最終的に残した一枚がある。
この季節に眺めるにはいささか早いが、冬の毛越寺庭園を静かに撮っている。
白い雪の景色をどうしたものか、ひとつの答えが映っていた。
夏の盛りを阿形とすれば冬は吽形、スフインクスの問いによる朝に四つ足夕べに三つ足、あるいは夏の対角にある輪廻の情景というものであろうか。
タンノイロイヤルも、音を鳴らさなければそれなりに吽形であった。




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ときじくのかぐのこのみ

2010年09月18日 | 歴史の革袋
きょうは三越、あすは伊勢丹。
豪気で気もそぞろな都会の楽しみも、みちのくに東下りした義経に京は遠い。
そこで、平泉を中心に東西南北にのびる街道を、非時香木の実でも探しながら日替わりで遠乗りしたのであろうか。
車のエンジンを吹かして、カーステレオのスイッチをオンすると、そこに流れるエリスのジャズ・コンコードは景色を変えて後方に飛んで行く。
義経の見た342街道の秋の景色をSS氏が撮った。

先日の午後、銀色の乗用車がROYCEの前に滑り込んできた。
むかし、『隼』という戦闘機を造っていた会社のエンブレムが、車の先端についている。
――とても早そうな車ですが、あの会社がこのような豪華なモデルを造っていたのですか。
「これは、勤め先が用意しているものです。きょうは、新潟から回ってきたのですが、さあて、どうやら一日仕事になりませんね」
クールな男性が申されるには、日本で2番目の性能になる最新の大型MRIを南部藩に据えつける準備があって、遠征の途中に、ジャズをあびるスケジュールであるそうな。
その装置は、設置後の調整もあって二か月がかりの仕事になると申されている。








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橋下の夏

2010年09月01日 | 歴史の革袋
710年に唐の長安をイメージに造られた奈良の平城京は、当時の住人約20万といわれ、なにかとあの神仙古代のよすがをしのぶあこがれのモデル都市であるが、東北にも平安京を偲ばせる謎の古都がある。
現存する金色堂の材木の伐採年代から、おおむね1100年にそのまぼろしの都市の景観はほぼ完成した、住人15万というおそるべき巨大な平安朝都市『平泉』であるが、戦渦に焼亡して、今はない。
昔、千葉のS氏が奥方と遊びに来られたとき、現在の平泉の核心といえる金色堂にご案内したが、土地の者は国道の正門から月見坂に上らず、車で途中まで登って、金色堂にすたすた歩いて行く方法を知っている。
さて、月見坂を登って金色堂を見たのか、バイパスしてぱっと見たのか?
後々おおいに、それが美の壺人生の岐路になるであろう。
月見坂の一番下から延々と歩いて登る体験をしてしまうと、金色堂を見たさいのありがたみは、疲労困憊のはての恍惚である。
それゆえに、天下の国宝にご夫妻を正しく案内せねばという責任感にとらわれてつい、言ってしまった。
――うえでお待ちしていますから、ここから登って来てください。
当方は車で登って待つことしばし、思いのほか特急でふうふういいながら登ってこられたご夫妻は、汗ひとつかかずゆうゆうと待っている当方を見て唖然としておられたが、それほど月見坂は長い。
だが、西行や芭蕉が、京や江戸から長征した故事を思えば、眼下の坂も踏み段のひとつにも能わず、車でバイパスするなど、せっかく旅の楽しみに水をさす、無粋でなかろうかと考えた。
当方が奈良の平城京を初めて訪ねたとき、距離がわからず駅からタクシーに乗った。
運転者は「ハイ」と黙って乗せてくれたが、それから2キロも乗らないうちに、どうぞとドアが空かれてびっくりした、そこが原野の平城京趾であった。
大黒様の丘と土地の人に呼ばれていた土盛りが大極殿の跡であったように、失われた都が、わずかに区画が守られて長い年月を経てきたが、現在の平泉の都も、全容はまだほとんど土の中である。
あの時代に、15万といわれる居住規模は、木造の家屋が平らに並ぶ様相を想像すると、往時の日本列島に数えるほどしかない、空前絶後の景色が広がっていたはずであるのが、そらおそろしい。
はたして、想像の都市は、現実の景観を再び地上に表すのであろうか。
できることなら、その立ち並ぶ板葺きの町屋のひとつに、携帯タンノイを持って、二.三日旅の仮住まいを楽しみたい。
チャーリーパーカーのサマータイムをのんびり聴きつつ、きょうはやっと涼しくなりそうだと思ったそのとき、「どうも」と現れた人物は、赤い自転車から降りてひさしぶりにみる、あのSS氏であった。
鍔広の帽子をぬぐと、白い長髪はどうされたというのか、GIカットに整形された頭部が風を切って似合っていてびっくりした。
ピンクのシャツにアンモン貝のタイバーを下げて、その貝の部分だけで五万両というが、一般人に価値はわからないそうである。
以前にも、ユニオンジャックのストッキングで現れた客に驚かされたが、武芸の心得のあるものこの周囲にうろうろしていて、先日もサドルの高い組立て自転車が早朝に走って現れて「缶ビール一個」と、朝から楽しそうだった。
ともかくまあよろしいでしょうかと、彼はボンタンアメをこちらに勧めながら、再び新しい写真の数々を拝見したのであった。
むこうのペースではあるが、それもジャズである。





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三内丸山遺跡

2010年06月22日 | 歴史の革袋
道路にはみ出しそうな大きな乗用車が停まって中から姿を現したのは、テレビ画面で探せば元マイクロソフトの西○彦氏が似た風貌の、八戸市の人である。
『南郷サマージャズフェス』もまもなくの青森に訪ね、ぜひ当方は三内丸山のことを眺めて見たい。
いま試みに、右手を握り、こぶしを作って人指しユビをカギ形にすると、それが下北半島で、指に囲まれた中が陸奥湾で、指の中間が恐山、底部に三内丸山遺跡は位置している。
菅江真澄の寛永六年の記録に、三内村の遺跡のことが書かれ、あるていど知られていたこの地に、なんと1994年のこと、直径1メートルもの6本のクリの柱跡が突然地中から現れ、大騒ぎになった。
410年に著述された中国皇室図書館の魏史倭伝にある邪馬壹国の記録も、日本の鐶壕楼閣のことを見たと言っているが、それより三千年?も古い地中から静かに姿を現したので、関係者は鳥肌が立った。
音に聞こえたタンノイも、スピーカーユニットの実存がなくてはありがたみも実態も雲を掴むように、地中から現れた古代遺跡が土器の欠片や植物のタネだけでは、バンゲルダー録音に足りない。
この六本柱の遺跡の威力と本州北端の縄文文化が、にわかに全国の脚光を浴びることになったが、今後の展望を。ジャズを聴きながら青森の客人に、お尋ねした。
――この遺跡の発見で、青森は何か変わりましたか?
「百八十度変わりました。観光から物流から影響は広範囲で、産業の核になる関連開発が順に立上げられています」
――水没した十三湊遺跡が有名ですが、ほかに大陸と交流の記憶を残す対馬のような島があるのでしょうか?
「海面に見えませんが、海底から立ち上がった山のてっぺんのような地形がのこっており、現在は魚達の繁殖の場に適して有名な漁場となっています」
いつか一関インターから東北道を北に向かって、縄文の風にたなびく集落の煙りを、高い柱の上から眺めてみたい。

当方が昔おせわになった会社で、「必ず見に来る取締役」の指示で専売公社研究所員の海外研修報告を聴講したとき、講師の研究員は、こちらの見当違い質問に対し、質問と違う内容の解説を巧みにその場に合ったものに曲げて驚かされたが、いまの人物もその片鱗がみられるのが流石だ。

☆イラストは、こんな感じではなかったかという想像図

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泉が城と芭蕉

2010年03月27日 | 歴史の革袋
泉が城は、前に触れた『河崎の柵』と会社が同じ系列の『業近の柵』の古代に建っていたところである。
『奥の細道』に次のように現れる。
『まず高舘にのぼれば北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る』
いよいよ一関に入って芭蕉が川向うの二夜庵に泊った日は十二日であるが、その前の旅程から三段飛びの踏み切り板に爪先を合わせるようにその日を芭蕉は調整して、尊敬する『西行』が数百年前に平泉に入った日に合わせて韻を踏んで、と言われていることなど、非常な入れ込みが凄い。
それはエバンス・マニアを自認する者が、『ビレッジ・ヴァンガード』に日本から海を越えて、25日の日曜日に席に着くようなこと?。
この『和泉が城』について、芭蕉が存在をわざわざ奥の細道に残しているのはどうも訳がある。
泉が城の主は、三郎忠衡といって藤原黄金カンパニーの常務取締ポジションであるが、社長である父から、東下りしてきた義経のサポートを命じられて、いつも接待していた。
平泉に入った義経は、さいしょ高館にある眺望館に住まわされたが、のちにおそらく常務の屋敷に近い場所に住居を賜って、広い平地にすんでいたのではなかろうか。
秀衡の没後、義経の立場が危うくなったとき、北方にひそかに逃がしたのもこの泉三郎忠衡ではなかろうかと想像するのは、副社長と専務の二人の兄に、攻め滅ぼされているからである。
この秀衡の三男でありながら兄弟と戦って義経を守った和泉三郎に、芭蕉はけなげを感じ一章をもうけたのかもしれない。
平泉を散策するとき、いつも気になっていながら、まだ辿り着けない。

数日前、福島のいわき市からお見えになった人は、ちょっと秀衡に似ていて貫禄があった。秀衡が現代に居れば、金色堂の近くの能楽堂で、たまにビッグバンド・ジャズを奏でるはずである。






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山ノ目馬検場擬定地

2010年03月17日 | 歴史の革袋
昔は早馬と言って緊急の通信ネットに馬が走ったほか、気仙峠を越える婦女子も馬の背にゆられていたが、日本の各地の『馬検場』が消えていったのは、馬の役務に変化が生じたからである。
子供のころ、雪で凍ったコンクリート道に荷馬車を曳いていた馬が、眼の前でツルッと滑って、巨体がドウッ!と倒れたのを見た。
起きようと懸命に首を伸ばし四ッ足をばたつかせる馬に、蹄が雪にすべって馬喰のオヤジさんもねじり鉢巻きの赤ら顔を引き攣らせて大あわてだ。
近所の大人たちがどやどやと集まって、白いブチ馬の巨体をなんとか引き起こすのに成功したが、けっきょく最後は馬力よりも人力だった。
その馬の活躍で見たもので、もっとも過酷で勇壮なアスレチック・スポーツが輓曳競争である。
山ノ目の、しばらく歩いたところに子供の目にはローマのコロッセオのようなその場所はあったが、四列に並んだ馬は役目を心得て、馬小屋で囲まれたグラウンドの中央に盛られた砂の土手に向かって、勢いよく馬そりを曳いて一斉に突進して行く。
周囲を取り巻く勢子と人馬一体、気勢を上げると、最後の土手をソリは乗り上げて脚力も限界だが、千人も集まっているのか各地の馬主や観客が、間近で見る必死の形相で暴れる馬と一緒に、興奮の坩堝の馬検場であった。
いまそのような体躯の馬を間近で見るのは、春の藤原まつりの行列くらいなのか。

そういえば、明治の初め東北を一人で旅したイギリス女性探検家イザベラ・バードが、馬の旅を書いていた。
◎ほんの昨日のことであったが、馬の背にゆられて旅籠に着いたとき、途中で革帯を落としたらしい。もう暗くなっていたが、その馬子は探しに一里も戻った。彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、「終りまで無事届けるのも当然の仕事だ」と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。
◎イトウは私の夕食のために鶏を買って来た。それを絞め料理しようと準備したとき、所有者が悲しげな顔をしてお金を返しに来た。彼女はその鶏を育ててきたので、忍びない、というのである。こんな遠い片田舎の土地で、こういうことがあろうとは。私は直感的に、ここは情の美しいところであると感じた。
◎旅籠で、朝の五時までには近所の人はみな集まってきて、私が朝食をとっているとき、すべての人びとの注目の的となったばかりでなく、土間に立って梯子段から上を見あげている約四十人の人々にじろじろ見られていた。宿の主人が、立ち去ってくれ、というと、彼らは言った。
「こんなすばらしい見世物を自分一人占めにして不公平で、隣人らしくもない。私たちは、二度と外国の女を見る機会もなく一生を終わるかもしれないから」
そこで彼らは、そのまま居すわることができたのである!




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川崎の柵

2010年02月19日 | 歴史の革袋
いまから千百年ほどまえに、東北の豪族の首領が命じて、千人の工人を動員し2万本の丸太を組んで造ったといわれる『川崎の柵』という砦は、一関市街地から東に14キロ北上川を下ったところにある。
前項の『覚べつ城』の候補地がすべて北上川西側にあったのと反対に、東岸であるところが性格を示し、京からの攻撃進路を断つものである。
『川崎』の名が示すように、北上川と砂鉄川の分岐した舌状の沿岸台地に、二重の柵をめぐらして守備の軍勢を配置し警備をおこたらなかったと古文書にあった。
或る日のこと、その遺構がまだ残っているものか確かめようと、北上川の東岸の道を、風景をのんびりながめつつ車を進めると、前方の路上に大きなキジ鳥がなにやらまだらの紐のようなものを咥え跳ね踊っているのが見えた。
猛禽の狩であった。
この川崎の眼と鼻の先には『薄衣』という雅びな京風の地名のところがあり、そういえばサッカーの上手な旧友が住んでいたところである。
滔々とそばを流れる北上川に、巨大な魚が棲んで居そうな深い色を見せ、大河は平野を流れ、あるときは峡谷を流れて静かに250キロといわれる流域を海に下っていく。
子供の頃に、表層の流れと深部では温度やスピードが違うので泳いではいけない、といわれていたが、河口の石巻港まで多くの支流を集めて呑みこむところを見ながら、船で下るツアーがあれば一興である。
ダンゴや日本酒やビールで日がな一日、船べりに身を持たせて釣り糸でも垂れながら遊んでいたい。
その船べりからの眺めに、川崎を通ったとき、あの時代の城柵が整然と眺められればと惜しまれるが、歴史の変遷でいつしか木も朽ち、古文書にわずかに名を残す古代の遺跡は、先年の発掘で掘り起こされた一部に擬定地として碑がたてられているのを見る。
スケール的には、北進を遮断するための支流を結んだ距離に、二重の壕と、軍勢の突進を怯ませるような太い丸太を堀立てて塀にした柵を持ち、背後の小山に本陣館を建てたのではなかろうか。
山から木を切って北上川や砂鉄川に筏を組んで流し、ここに集めれば、先人の昔を偲ぶ再度の構築はいまも可能だ。
想像図は、根拠が無い。
ところで、ふらりと現れた元船長さんは、いつも新しい客人を同伴する熱心な人である。
山形から、営業エリアを宮城に拡張するその御仁はジャズの楽しさを休憩にして、海産物を大窯で煮出してエキスを作る船長さんの話に頷きながら、昼食はさてどこにするのか。





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まぼろしの覚べつ城跡

2010年02月13日 | 歴史の革袋
最近、『覚べつ城』のことを聞いて、高校2年のときに、笑わない同級生がいたことを思い出した。
廊下をちょっと右肩をやや傾けて早足で歩く渋面の男に、なるほど、と当方もしばらく渋い表情を真似てみたが。
にわかなものは、にわか雨だけが良いのか。
年次の学園会報の編集をして、その男に部活のレポートを求めたところ、しばらくして上がってきた原稿が『覚べつ城の研究』である。
史学部の年次研究をみると、その前年は須川湖の研究で、はじめて聞くマイナーな対象ばかりで「趣味は洞窟や穴掘り」と言っていた意味がわかった。
このクラブの担当は教師になりたての山岳家で、いちど下宿を訪ねたことが有る。
授業の特長のある大声が隣の教室まで漏れて感心したが、その教師のひきいる20人ほどの集団が史学部であった。
今を去る千二百年前のこと、東北の現地勢力を平定するため多賀城の前線基地として、紀広純が構築した古文に記録の残る城柵のことであるが、『覚べつ城』はその所在がいまだに発見されていない。
たしか、「穴を掘ったら土器が出た」と言っていたが、いったい彼等はどこを掘ったのか?
1. 有馬川流域の有壁(北上川西側丘陵台地)
2. 宮城県登米郡中田町上沼(北上川本流)
3. 一関市赤萩磐井川北岸(北上川西側丘陵台地)
4. 平泉衣川南岸(北上川西側丘陵台地)
5. 前沢町古城明後沢(北上川西側丘陵台地)
6. 水沢市佐倉胆沢川南岸(北上川西側丘陵台地)
オーディオマニアの分布と重なるようにこれだけ候補地があるなか、おそらく、学校の近くにある赤荻の擬定地といわれているところかもしれない。
邪馬壹国のように擬定地というところが気にかかっておもしろく、三千人が集結できる古代の城柵のさまざまな条件がどうしたら満たされるのか、あれこれ思いつつまたジャズを聴く。
そのとき寒風をついて入ってきたお客は、以前にもお見えになったことが有る。
ジャズとクラシックのLPをお持ちになったので、聴かせていただいた。
「若い頃、はるおさんのJBLで、ジャズの手ほどきを受けました」と申されて、もの静かに枢要な知識の片鱗をレコードに合わせてお話しくださると、タンノイも名盤に英國の渋さを載せ、冬の午後はゆっくり過ぎていった。






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今泉街道

2010年02月06日 | 歴史の革袋
小学校の二階からはるか東を眺めると、観音山の方向に一本の白い道が伸びて、それが歴史に消えたまぼろしの『今泉街道』である。
古道が北上川を越えることろに柵ノ瀬橋があり、付近の三角池が子供たちの釣場で、幕藩時代の一関藩と太平洋岸の気仙郡を結ぶ今泉街道の西の入り口であった。
柵ノ瀬橋から山の麓までの、一面に広がる田圃の中程に、防風林にかこまれて棲みやすそうな農家がポッンと一軒あった記憶を思い起こして、行ってみるといまは無い。
大きな颱風が大雨を降らせると、しばしば北上川が溢れて、水没したこの一帯は雨上りに湖のように青い空を映して広がった。
田畑は肥えるが、新聞報道にロウソクや生活物資を届ける小舟の写真が載って、その方面の学友達は休講になった。
柵ノ瀬橋から摺沢や大原と通って、やがて竹駒があり、まぼろしの今泉街道は海に向かう。
気仙郡の終点の今泉には土蔵が街道沿いに軒を連ね、天満宮の付近にはお玉が池の剣豪千葉周作の生誕地を示す石碑が残っている。
このような古道の面影を残す今泉街道を、いつかのんびり辿りたいと文献をながめているそのとき、「こんにちは」と言って、「いま水沢のパラゴンを堪能してきました」と登場されたのは謎のA氏であった。
はじめてROYCEのタンノイのジャズが鳴るところを、同伴のご婦人に紹介されている。
「関西の生まれです」と申されたご婦人は、A氏となにやら言葉少なく打ち解けて、そこだけがこの冬に、ロートレックの春の陽気を感じさせている。
今泉街道の連想で『道の駅』の話になったが、白く長く伸びたハイウエイに単調をおぼえるころ、天井の高い大型の江戸時代のコンビニのように、道の駅の建物は周囲の産物を満載展示して、大名行列の陣屋の休憩のように、のどを潤し名産を眺めさせては、物見遊山や湯治の客を楽しませている。
道の駅の建物は、いま日本列島に917を数え、記念スタンプを蒐集する別の楽しみもあると『スーベニール・スタンプ』の蒐集に思い立ってハンドルを握るご婦人に、「それのために、遠くまで車を走らせたこともあったような....ね」とA氏は笑って、ご婦人の興味を、傍で楽しんでいるようだ。
かって御伊勢参りや善光寺参りの旅に遊んだ日本的伝統は、日常から、ふとした新しい気分を彩って、遠い時代の記憶をいまに蘇らせている。


※RTS85m.f1.4



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松飾りを取って

2010年01月09日 | 歴史の革袋
石造りの街並みに似合って、バッハの『無伴奏チェロ組曲』が鳴る。
無伴奏チェロ組曲は、1700年代の32才からケーテンの宮廷楽長のとき作曲されたシンプルで典雅な楽想の数時間にわたって千変万化する物語で、多くの人が金庫の宝石箱に入れているといわれる音像である。
フルニェのボーイングは、街並みの散策に似て延々と歩みを進めていくが、昨日テレビで見た道後温泉の一角の、風合い優雅な構造にも似合っている。
それは、たっぷりと湯がかけ流されている午後の光沢の開けた景色に、建造物が延々と連なっているかのような演奏だ。
演奏者がトゥルトリエでもシュタルケルでも、この楽譜の音符がいったん嵌合を解いて無びゅうに流れ出すと、サンサーンスやベートーヴェンではない光沢を放って、タンノイの二台の中央に現れてくる。
あのフィレンッエからこの冬の栗駒温泉の秘湯の岩風呂に、無伴奏チェロ組曲が空間移動して、静かに降り積もっている時間と雪にさっと陽が差して微睡みから醒め、たっぷりとした湯に首までつかって、広がる風景を見ながらレコードから針を上げたい。
そのとき電話が鳴った。
「群馬県の高崎からです」と、相手は話している。
『タンノイの音』という、温泉の秘湯の湯あみのようなものが、もしや、おおげさな看板になっているのか?
――あのね、わざわざ足を伸ばされるほどのものではありません。
すると受話器のむこうで緊張していた相手は急にゆるやかな声になって、高速道路の雪はいかがですかと言っている。
元日の深夜に、大崎八幡のおみくじの自動販売機は売り切れていたと電話のお客が言ったが、正月二日におみえになった天才開発者のモー・エジ氏は、『ナカミチ700』を指して、「あのアジマス三ヘッド構成ですが、わたしのアイデアでもあるのです」といいながら二.三の警句を話されていた。
たゆみない製品開発の情熱が、独自の発想で帰結している音を、ぜひ聴きに、秘密研究室を急襲してみたいと、あいかわらず考えているが。
「これから秋田に行きますが、秋田にはめったにお目にかかれないコンサートグランドピアノが備わっているホールがありまして」
ますます、いったいどのような音を開発中なのか、つのる疑問を残して淡雪の中をモー・エジ氏は去った。
バッハがロシア伯爵の不眠症にかんがみ、ゴルトベルク氏の演奏のためのハープシコード変奏曲を書き上げたのは、無伴奏チェロから少し後の1720年代のことである。
いまそれをグールド氏の演奏で聴くピアノ版は、本来の睡眠と違った興味に囚われるかもしれないが、バルヒャのチェンバロで聴けば、特有の甘い音が、睡眠に効果的かもしれない。
バッハは、たいへん忙しい人であった。






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赤羽刀

2009年12月13日 | 歴史の革袋
ジャズも庭も、時間とパーツの連結ではないか。
2メートル四方の庭に、石垣の石を横に並べ、針小棒大に眺めている。
コンクリートの三和土をよく見ると、まだ固まっていなかったころに、タマ之助のつけた永遠の忍び足が...ジャズである。
お借りしていた写真を返しながら、SS氏に当方の風景を写真によって開陳すると、
「落ち着くながめですね...」と言ってくださって、SS氏は例のボトルをとりだしてちゅっと呑んだ。
そのときAlain Hatotのテナーが、マルのヨーロッパ遍歴の記憶をブルージーになぞって遠くで鳴っている。
彼の乗ってきた自転車が、ブルーのペンキ一色に吹きつけされて、しゃれている。
サドルがハンカチを冠っているのはなぜか?
「そこにも塗ったら、ズボンが貼りついて..ふっふ」
博物館の『赤羽刀』の話題に、もらっていた招待券をSS氏に渡した。
午後から、京都ナンバーの若者が、福島から二時間ほどかけ訪れた。
川向うへは、これまで五回で空振りなしと、さすがに強運である。





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鹿踊り

2009年12月01日 | 歴史の革袋
5才の或る日、海の傍の要塞の庭に面しているガランとした奥座敷にひとり居る。
さきほどから提灯で照らされた夜の庭には、笛や太鼓の囃子にのって鹿子装束の集団が、背中から伸ばした長い白い二本の竿をゆらゆらさせて勇壮に祭りを踊っているのが見える。
一列に揃って腰を折るたび、揺れる長い竿がヒューンと地面を叩いて、それを廊下に仁王立ちの和服姿の当主が、両手を口にメガホンのようにあて、酒で上機嫌の赤い顔をして、大声で掛け声を入れている。
『鹿踊り』の集団は、両手に持ったバチで太鼓を叩きながら、間合いを揃えてクルリと廻ったり飛んだりするたび、庭にいて遠巻きに見ている集団はどよめいているが、座敷の奥に座らされていると、庭の喧噪が遠い世界のように思える。
そこで、一人仁王立ちに鹿踊りに囃子声を掛けている其の家の当主にむけて、背後から声をかけてみた。
「おじさん!」
男は、ぶあついレンズの丸いメガネの顔を一瞬振り向かせると「オウ」と答えて、それからまた一時の無駄も出来ないかのように祭りの方に向いた。
鹿の踊りが庭から退場するまで、おじさん!と掛け声をくりかえしたが、当主はそのたび上機嫌で「おう!」と一瞬だけ振り返っていたのがおもしろい。
やがて、人の居なくなった廊下に出てみると、白い割烹着姿の二人の女性が、庭の外れの生け簀のようなところから、白い腹を見せる大きな魚を抱えて小走りに運んでくるのが見えたが、宴会がはじまったのか。
この鹿踊りは、五葉山をはじめ岩手に生息する山鹿の象徴が、古来の自然に対する畏敬の心として郷土芸能に伝承されたが、背中から伸びる白い二本のササラは角ではなく、御幣のように結界をあらわしているとされ、いまも各地の暦に舞踊っている。
SS氏の撮影による様々の光景は、遠い記憶をよみがえらせてくるが、谷の奥の動物はエゾ鹿なのか。






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