「神なき神風―特攻・五十年目の鎮魂」 三村文男著 (MBC21、
平成8年=1996)。
三村氏は、神風特別攻撃隊のいわゆる創設者とされる大西海軍中将を、
本当は 「神を信じない」 俗物と評し、「神なき」 というタイトルを
つけたようです。
1945年東京帝大卒業の三村氏は特攻で死んだ多くの友を持ち、本書中
にも登場します。
「憂国の思いもだしがたく、志願して特攻出撃する若人たちが輩出した
ことは、帝国陸海軍最大の栄光として、万世に記憶さるべきことである
と私は信じていた。そういう称賛の言葉は、戦中のみならず、今も多い。
(中略) だが特攻が命令でなされたとすると、全てが裏返しになってし
まう。(中略) 帝国陸海軍の行為は、人間の尊厳を冒涜する犯罪だった
ということになるのだ。」 (23-24p)
特攻は命令だったのか、純粋な志願だったのか、ということについて
は本書にも記載がありますが、実際には関大尉率いる神風特別
攻撃隊敷島隊の特攻が実施されたレイテ沖海戦 (1944.10.25) より
半年も前に特攻作戦が検討され、特攻専用兵器の開発までが進めら
れていたのでした。
「史伝:真珠湾攻撃-ミッドウェイ海戦-特攻」 によれば、海軍では
「S19.4.4にすでに軍令部第二部長 (軍備担当) 黒島亀人が第一部長
(作戦担当) の中沢佑に作戦上急速実現を要する兵力として特攻兵器
『体当り戦闘機』 『人間魚雷回天』 などを提示し、これを受けて同年
6.27日、海軍特攻兵器推進掛 (後に特攻部になる) が設置されている。」
そうです。
また Wikipedia によれば、日本陸軍の特攻兵器開発はもっと早く、
1944年春に陸軍中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見が一致し、
四式重爆撃機と99式双発軽爆撃機を改修して特攻兵器にすることに
決定、さらに同年5月には体当たり爆弾 (桜花) の開発のため第三陸軍
航空技術研究所に特別研究班を設けています。
また大西中将が命名したという神風攻撃隊、敷島隊、朝日隊の名称は、
中将が昭和19年10月17日にマニラに赴任し特攻隊を創設するより前
の13日に、海軍軍令部の源田実中佐の大西中将宛て電報案の中にあっ
たことが指摘されています。(柳田邦男 「零戦燃ゆ」 1985、文藝春秋より)
海軍では大西中将が創案したという伝説が流布され、その 「サディスト」
的性格 (三村氏) により特攻作戦を最後まで推進したことは確かです
が、事実はあらかじめ軍中央部が計画した作戦だったことは明白です。
特攻を行った人たちの手記は、どれも涙なしに読むことはできません。
なぜこのような非人間的な作戦、しかも戦果の期待できないことが分か
っている作戦を実施したのでしょうか。多くの、純粋な精神が悲運に
斃れなければならなかったことに怒りがこみ上げてきます。最後は
国民全員の 「1億特攻」 などということが冗談ではなくマジメに呼号
されたのでした。
特攻は志願制という建前でしたが、「戦闘集団の中にいて、特攻に
志願するかしないかと問われれば、殆ど踏み絵検査を掛けられたに
等しく、反対をすることはまず不可能であったであろう。組織する
側もそのことを見越していたに違いなく、したがって、志願制という
名目ではあったが本質は命令であった。」 というのは慧眼であると
思います。(前掲 「史伝:真珠湾攻撃-ミッドウェイ海戦-特攻」)
三村氏の舌鋒は鋭い。「人間を砲弾代わりにすることは、人格の尊厳
を否定することである。動機の崇高な志願といえども、人間を道具と
する特攻は、志願すべきではなかった。志願を許すべきものでもなか
った。」 (59p)
「結論として私は特攻命令者を殺人罪で告発する。」(67p)
そしてさらに、戦後になって特攻作戦を弁護する秦郁彦氏 (「昭和
天皇5つの決断」) に対し、「レイテ戦のような戦勢不利な局面に
立ちいたれば司令官は誰でも殺人鬼になるというのが特攻必然的
帰結論で、(中略) そう考えておられるなら、特攻殺人の事後従犯
というべきだ。」 (75p) として告発し、また大西中将をある程度
評価する草柳大蔵氏 (「特攻の思想」) を否定します。
三村氏は本書後半で大西氏の遺書や切腹したことを通じた性格分析、
果ては山本五十六大将は凡将だったとか、いろいろと書き連ねてい
ますが、これらはすこし蛇足の感があります。また特攻作戦に反対
だった将校が意見をしたことを無視した軍上層部を批判しています
が、本当の責任者は誰だったのか、その分析が弱いと思います。
真の責任者は誰だったのでしょうか。陸海軍を一手に統帥する
大元帥であった昭和天皇は、作戦としての特攻を否定されたので
しょうか。
「昭和天皇の作戦容喙 (関与) と戦争責任を考える」 によると、
1944年10月25日のレイテ戦における敷島隊による戦果は翌26日に
及川 (海軍) 軍令部総長から上奏され、昭和天皇から 「そのよう
にまでせねばならないのか、しかしよくやった」 とのお言葉が
あったとされています。
同様の言葉は10月30日の米内海相に対するものという説もありま
す。この言葉はさっそく前線に布告されたといわれます。(原典未確認)
これについては、無理な作戦をしなければならないことに対する
叱責とする見解や、そもそもそう言ったかどうかについて否定的な
見解があります。しかし大西中将の部下であった猪口力平の 「神風
特別攻撃隊 (中島正と共著) 111~112p」 でも語られているほか、
戦史研究家の保阪正康氏は、著書 『特攻と日本人』 の中で陸軍侍従
武官吉橋戒三の日記 (未発表、1945年1月7日) として、
「夕刻、右戦況其ノ他ニ関シ上奏ス 体当リ機ノコト申上ゲタル所
御上ハ思ハス最敬礼ヲ遊ハサレ 電気ニ打タレタル如キ感激ヲ覚ユ
尚戦果ヲ申上ゲタルニ 『ヨクヤツタナア』 ト御嘉賞遊サル 日々
宏大無辺ノ御聖徳ヲ拝シ忠誠心愈々募ル」
と記しており、お褒めの言葉があり、それが布告されたと考える
のが妥当のようです。
いずれにせよ報告を受けたはずの天皇は 「そんな馬鹿げた戦い方
はやめよ」 とは言っていないわけで、特攻戦死は特別に2階級特進
という措置が終戦まで続いていることもあり、陛下も承知された
価値ある作戦として推進されていたものと思わざるを得ません。
三村氏の怒りが軍上層部の一部の将官個人に向いているらしいの
は惜しいことです。氏は「特攻は日本人の伝統的価値観からも、
決して許容できない異端のパラダイムであった。」 (217p) と言い
ながら、歴史をひもといて 「特攻精神は日本だけのものではなかっ
たのである。普遍性があったということである。区別すべきは
特攻を作戦に組み込んだ帝国陸海軍の上級指導者たちの外道こそ
が、戦争末期の日本だけに特異なものであって、普遍性のないもの
であったということだ。」 (231p) と結論します。
しかしもっと戦争全般に目を向け、日本の戦争指導者の一部だけ
でなく、天皇を含む指導部全体に、また戦争そのものの狂気に目を
向けたならば、「作戦としての特攻」 の犯罪性を追及するこの書
の意義はさらに高まったであろうと惜しまれます。
(わが家で 2014年4月18日)