わたしは全国各地で建築を見るのですが、
能楽堂はそのなかでも好きな建築のジャンルと言えるでしょうか。
どっちかというと、伝統系の方に感性が反応するので
コンクリート建築にはどうしても冷たさを感じてしまって
思い入れを持つことができにくいタイプのようです。
先日来、っていうか、過去何回かこの上の写真の山形にある
東北芸工大キャンパスの能楽堂は見ているのですが、
コンクリートで造作されているせいか、
空間に対しての「思い入れ」の部分で、拒否されているように感じられる。
この能楽堂は水盤としての貯水池に浮かぶように立っている。
同様に池を通って本部棟にも出入りする構成になっているのですが、
どうも北海道人として、冬の寒さのほうが先にアタマに入ってくるので
水盤のデザインに対して無意識に拒否感が働くのでしょうか?
このあたり自分でもよくわからない。<今時期は水盤から水は抜いています>
設計意図としてこの水盤について
〜本館前には水を置き、その中央に網走刑務所(博物館網走監獄)の鏡橋を模した
鏡橋を設置した。この橋は受刑者が刑に服する時のように、
学生が鏡橋を渡るときに水を鏡として自分を見つめて正しい目的に
向かってほしいとの願いを込め設置した。
このほか、2001年に開学10周年を記念して本館脇に建てられた
水上能楽堂「伝統館」では、例年5月に能楽が舞われる〜
というようにWikiには説明が書かれています。
この設計意図に、楽しさの要素が見えにくいので
コンクリート素材ということもあり冷たい、という印象を持ってしまうのでしょうか?
やはりそれに対して伝統的な能楽堂には
まず、素材としての木の経年変化の表情が感じられ
観客席との距離感や素材としての土の軟らかさが伝わってくる。
この観客と演者との間隔、距離、その素材というものも、
大きな建築的要素なのだと気付かされる。
たしかに水盤には,薪能などの場合の「反射光」が印象的になるだろうと
容易に想像でき、それを見てみたい欲望もあるけれど、
日常的光景として考えると、冬場は痛々しく感じられはしないか。
蒸暑の夏を持つ盆地である山形では、たしかに夏の爽快を求めるのも
ムリからぬ部分はあるけれど。
どうも北海道人の「あたたかさ」志向の大きさを自ら感じている次第。