長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

『軍師官兵衛』  視聴メモ 第6回『信長の賭け』

2014年02月14日 08時25分09秒 | 日本史みたいな
『軍師官兵衛』第6回『信長の賭け』(2014年2月9日 演出・田中健二)


登場する武将の『信長の野望』シリーズでのだいたいの能力評価(テロップ順)

小寺 官兵衛 孝高 …… 知力84、統率力67
 (演・岡田准一)

竹中 半兵衛 重治 …… 知力59、統率力91
 (演・谷原章介)

明智 光秀     …… 知力93、統率力95
 (演・春風亭小朝)

足利 義昭     …… 知力98、統率力86
 (演・吹越満)

荒木 村重     …… 知力52、統率力83
 (演・田中哲司)

母里 太兵衛 友信 …… 知力44、統率力80
 (演・速水もこみち)

柴田 勝家     …… 知力51、統率力87
 (演・近藤芳正)

丹羽 長秀     …… 知力82、統率力73
 (演・勝野洋)

織田 信長     …… 知力115、統率力108
 (演・江口洋介)

瀧川 一益     …… 知力66、統率力78
 (演・川野太郎)

吉川 元春     …… 知力58、統率力85
 毛利輝元の叔父で、毛利家の重鎮(演・吉見一豊)

佐久間 信盛    …… 知力57、統率力51
 (演・立川三貴)

毛利 輝元     …… 知力85、統率力80
 中国地方の覇者・毛利家の若き総帥(演・三浦孝太)

細川 藤孝     …… 知力80、統率力71
 (演・長谷川公彦)

小寺 政職     …… 知力44、統率力49
 (演・片岡鶴太郎)

小早川 隆景    …… 知力83、統率力77
 毛利輝元の叔父で、吉川元春の弟にあたる毛利家の重鎮(演・鶴見辰吾)

木下 藤吉郎    …… 知力95、統率力94
 (演・竹中直人)

小寺 職隆     …… 知力72、統率力55
 (演・柴田恭平)


ざっとの感想

○大叔父である小寺休夢にあいさつをした瞬間、脱兎のごとく逃げ出す松寿丸(のちの黒田長政)の演技に、休夢を演じる隆大介さんのおさえようのない迫力を見た! 笑っても、顔こわいよ~!! 声にドスがきいてるよ~!!

●信長からの意見状に激昂する将軍・義昭ですが、明智光秀に向かって「そちは誰の家臣じゃ!!」と怒り、それに対して光秀も従順にちぢこまる演出は、やっぱり史実と違うような気がします。
 この年、元亀三(1572)年の段階では、義昭と光秀の主従関係はそ~と~に冷え切ったものになっており、光秀は実質的には完全な信長の重臣になってバリバリ働いているのです。だもんで、江戸時代の「一生、一人の主君!」なんていうバッカみたいな忠君思想なぞ存在するわけがなかったシビアな戦国時代、光秀が冷や汗たらして義昭にヘーコラする義理なんてどこにもなく、むしろここで義昭の本音を聞くのは、もっと義昭よりの三淵藤英・細川藤孝兄弟のどっちかあたりが適当なのではなかろうか。

●察しの悪い私にもだんだんわかってきたのですが、この『軍師官兵衛』における明智光秀像は、な~んかチャチい! せっかく俳優さんじゃない異質な存在感のある方を起用してるのに、実に古臭い安月給のサラリーマンみたいなヘーコラ演技しかさせないとは、どんだけ食材を無駄づかいする気なんだろうか!? もっとさぁ、『風の谷のナウシカ』のクロトワみたいな得体の知れない自由奔放なキャラクターになってほしいんだけどなぁ~、好みとしては。

●あと、『軍師官兵衛』の脚本は、信長存命時代の秀吉もなかなかぞんざいに扱ってくれますよね~。ぜんぜん魅力的な人物に見えないんだよなぁ。まじめでユーモアのかけらもないロボットにしか見えないし、しゃべっても口から出るのは「気持ちの入れようのない状況説明」だけだし。
 出し惜しみもいいとこですよね。こんな没個性さで光秀と秀吉、どっちも天下とれんのか!? 観ていて本当に心配になってきます。

○将軍・義昭、病院に行ったほうがいいんじゃなかろうかと思えるほどのげっそり死相!! さすがはミツルさん。その演技の一挙手一投足から目が離せない……だって、今にもぶっ倒れそうで心配なんだもん!

○「……歳じゃなぁ!」のときの複雑な表情の見事なこと。最高ですね……益岡徹さんは、ほんっっっっとうに素晴らしい俳優さんだ!! 今回かぎりでの退場が、またしても惜しいなぁ~。

●将軍・義昭のほうが先に挙兵しても信長は逆賊だバカー!! 天才・竹中半兵衛とは思えぬその浅慮。「正当防衛なら OK」という現代できたてホヤホヤの常識にとらわれた脚本のアホさ加減が如実にあらわれた方便ですね。「どっちが先に手を出したからどうこう」とかいう理屈の話ではなく、この信長包囲網はあくまでも「たまたま武田信玄がおっ死んだから」信長の勝ちになったのです。義昭と信長の二項対立だけで解釈できるようなせせっこましい話じゃなーいの!! ただひたすら、信長の運がよかっただけ。

○荒木村重の「まんじゅう喰い」エピソードがついに映像化されたぞー!! さすがは田中哲司さん、いい緊迫感だ!

○村重との官兵衛との親交が、のちの悲劇をいやがおうにも想像させて実に味わい深いひとときになっていました。田中さんのくもりのない陽気な笑顔が、逆に哀しみを引き立てますねぇ……今まで、「信長の家臣モブ」のような立場しか与えられていなかった荒木村重という名将が、田中さんという名優の肉体を得て、「ひとりの血のかよった人間」として21世紀に活き活きと復活するのは、実に感動的なことであります。がんばれがんばれム~ラムラ~!!

●荒木村重の摂津国盗り物語がまるごとスルーされていたのは残念でした。旧主・池田家との激突は戦国ドラマとしてとても絵になるくだりかと楽しみにしていたのですが……やっぱ、ちょい複雑ぎみな三好家関連の畿内事情は、歴史ドラマでは冷遇されるのよね~!!


結論、「第7回がとてもたのしみです。」

 今回は、織田信長と母里太兵衛という2人のきわだった「バカっぽさ」がやたらと炸裂したおもしろい回でしたね。こういう人たちの、理屈にならない、けれども自信だけ無駄にたっぷりなパワーが、官兵衛や義昭公といった「理屈っぽい」人々を唖然とさせながら新時代を切り開いていくのです……
 私もいろんな歴史ドラマを観てきたつもりなんですが、この『軍師官兵衛』が初めてです。これほどまでに徳川家康がかわいそうに見えた作品は!! 三方ヶ原合戦であんなにがんばったってのに、顔さえ出させてくれねぇし! この冷酷きわまりない処遇への恨みを胸に秘めて、いったい誰が演じるのか。とっても楽しみですね。

 うわーん、足利幕府の滅亡が、今回もテロップ処理の扱いにされちゃったよう!! ミツルさん、ひとまずはお疲れさまでした。
 
 でもでも! 京から追い出されても義昭公は、征夷大将軍をまだまだ、やめへんでぇええ~!!
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検証! 映画版『姑獲鳥(うぶめ)の夏』は、そんなに言うほどダメなのか?  ~ようやっと本文~

2014年02月12日 22時32分50秒 | ミステリーまわり
≪資料編は、こちら。≫

 どもども、みなさんこんばんは! そうだいでございまする~。今日も一日、大変お疲れさまでした!

 さぁ~、そんなこんなでとっとと本題に入っていきますよ~。映画『姑獲鳥の夏』は、どうしてそんなにおもしろくなかったのか!?
 まず、なにはなくとも購入した DVDで、123分間の映画本編を観てみまして、感じたポイントをざっと簡単に並べてみることにいたしましょう。
 じゃあ、「再生」ボタンをクリック、っと。

……

 はい。123分が経過いたしましたね。映画本編が終了しました。
 なるほど。確かに、おもしろくはない!!(あくまで個人の見解です)

 それじゃあ、具体的にどこがおもしろくなかったというのか? ひとつ、映画の流れに沿いまして最初から観ていき、気がついたことを並べていくことにいたしましょう。
 ほんとは、昔『八つ墓村1977』の感想でやったみたいにタイムスケジュール表を作っちゃいたいところなんですけれども、時間の都合で、今回は断念!


ポイント1「坂道の露天セットが安っぽい」
 ……まさか、実相寺昭雄監督作品のほぼ全てを人生のバイブルとあおぐこの私が、あの池谷仙克さんの美術に苦言を呈することになろうとは!
 でも、どこからどう見ても、この『姑獲鳥の夏』の冒頭アバンタイトルからしょっちゅう出てくる「京極堂へ続く坂道」の露天セットは、あんまり良い出来には見えないんだよなぁ。
 原作小説でもこの坂道は、物語の実質的な主人公である小説家・関口巽が妖怪うぶめの存在を感じるようになる重要な「現実と非現実との境界」として、何度も印象的に登場してくる場所なのですが、小説の描写によれば、この坂は両側にどこまでも延々と油土塀が続いて、塀の向こうにどんな建物や敷地があるのかさっぱり見当もつかない長さのある坂のようです。
 ところが、どうですか。映画に登場する坂は、最初の1カット目から坂のスタートとゴール(頂上)がまとめて見て取れるかなりコンパクトな地形になっていて、奥行きがぜんぜん感じられないセットになっているのです。油土塀の質感自体はいかにもよくできているように見えるのですが、あまりにもあからさまにセットのほぼ全景を写してしまうカットがちょいちょい入ってしまうために、そのたんびに「坂っていうより、これ急場で作った丘じゃん。」というしらけ気分になってしまうのでした。致命的なのは、画面の真正面奥にある林(坂はそこで左に曲がっている)の木々が、明らかに「坂よりも低い位置から生えている」ことなんです。幹の部分が見えず葉っぱしかないんですね。つまり、画面に見えない奥に明らかな「下り部分」がある。だから、このショットで見える部分は、坂でなく小高い丘なんです。誰が見ても目に入ってくる真正面奥の木に高さがないのですから、坂に見えるわけがない!
 好意的に解釈すれば、この映画で映し出されているのはあくまで坂のごく一部であり、実は画面奥の向かって左に曲がった所からほんとうの坂が始まるのだ、と言うこともできるのかもしれませんが……でも、映画本編で関口がクラクラしたり妖怪うぶめが出現するのは、この短い区間なんだもんねぇ。

 もうちょっと、それこそ、予算の制限を逆手に取る実相寺マジックを発動してセットの実際の大きさを隠す撮影テクニックを駆使すればどうとでも解決した問題だったと思うのですが……どうしたんだろう!?
 あと、坂の下(画面手前)から関口が登っている時に、画面奥の左手から坂を下りてくる人物(この人もいけない!)が現れるのですが、これもなんの隠し事もない全景カットで映してしまうために、この坂が大人で20歩ぶんくらいの距離しかないものであることが一瞬でわかってしまうのでした。奥の人物がそんなに小さく見えていないんですよね。すぐそこなんじゃん!
 この距離でクラクラめまいを起こしてしまう関口って……帰って水分摂って寝ろ!! 首筋やわきの下も冷やしとけよ!


ポイント2「原作・京極夏彦の影がちらっちら!」
 いやいや、「影」だけだったら全く問題ないんですが、あからさまに原作者の京極夏彦さんが映画本編に出てくる、出てくる!
 ポイント1で出てきた「坂を下りてくる人物」というのが、他ならぬ京極さん演じる傷痍軍人・水木しげる(!)なのです。この人、映画では京極堂主人・中禅寺秋彦の知人としていくつかのシーンに登場してくるのですが、原作小説にはいっさい登場しない人物です。
 まぁ……出てこなくても、よかったんじゃない?
 おそらく、脚本家の考えとして、この傷痍軍人はあまりにも陰惨なこの『姑獲鳥の夏』における軽いコメディリリーフ的な役割と、終戦直後という時代設定を補強する役割。そして、中禅寺だけがだらだらと妖怪の話をしていてもつまらないので、相槌を打つ役割として登場願ったのかと思います。
 いっぽう、映画興行としても、なにかとビジュアル的な面で人気もあった当時の京極さんに、しかも水木しげる神先生の役として出演してもらう!という「飛び道具」的なサプライズは、なかなか魅力的に見えたのではないのでしょうか。
 でも、そういうお遊びって……加減ってもんが大事でしょ? ちょーっと……今回は京極さん、出すぎじゃない?
 かつて、市川崑監督の石坂浩二金田一シリーズには、原作者である横溝正史大先生が特別出演するというサプライズ演出もありました。でもそこでは、演技する余地を与えないほんのチョイ出演にするか(『犬神家の一族』)、長めに登場しても「小説家の先生」という、演技のしようのないリアルそのものの立場においてまるで素のたたずまいで振る舞ってもらう(『病院坂の首縊りの家』)というプロフェッショナルな判断があり、どちらも効果をあげていました。
 ところが、京極さんの傷痍軍人は、明らかに演技をして関口に坂の途中でぶつかったり、中禅寺と妖怪談義をしたり、三谷昇さんの紙芝居を見かけてほほえんだりしているのです。いや、いらないでしょ、そんなの!
 京極さんは決して演技が下手というわけではありません。でも、かといって石坂金田一シリーズにおける三谷昇さん(『獄門島』)や大滝秀治さん(『悪魔の手毬唄』、『女王蜂』など)レベルの個性など出ているわけもなく……要するに、出ている割に面白くないんですよね。しかも、傷痍軍人であるはずなのに、肥えている! 大事なことなのでもう一回言いましょう。肥えている!! 『地獄の黙示録』のマーロン=ブランド並みの名優なんですかあなた、って話ですよね。というわけで、少なくともこの映画にしゃしゃり出てくる京極さんに好感を持つお客さんって、そうそうはいないんじゃないかなぁ。
 しかも、なんか古書店・京極堂の入り口の扁額にまで堂々と「京極夏彦」って刻印がされているしさぁ!! お遊びでも全く笑えない。いや、これで京極さんご本人が出てこないんだったら、クスリとする塩梅だったかもしれませんが。

 いったい誰がこんな向こう見ずなオファーを京極さんにしたのでしょうか……京極さんも断りそうにないし、実相寺監督も、人間の演技にはそれほど執着していないような証言も多いですし難色は示さなかったのでしょう。なればこそ、この『姑獲鳥の夏』という祭典に、俳優・京極夏彦という夾雑物は入れていただきたくなかった。
 三谷昇さんとか嶋田久作さんとか、映画『曼陀羅』の左時枝さんみたいな異形の魅力がないと、実相寺ワールドの住人になるのは難しいんですなぁ。


ポイント3「序盤の京極堂シーンが必要以上にヤな感じ」
 私、今回の検証をするまではてっきり「映画版『姑獲鳥の夏』は原作小説を忠実に映像化している」と思い込んでいたのですが、これ、大きな間違いでした! そして、そこが最も悪く際立っていたのが、映画のすべり出しとしてお客さんがお話についてこられるかどうかを左右する、非常に重要なこの序盤シーンだったのです。

 ちょっと、乱暴を重々承知の上で、原作小説と映画という、まるで違う世界の作品の比較をいたします。
 どちらの『姑獲鳥の夏』も、物語は古書店・京極堂での、関口と中禅寺との「20ヶ月ものあいだ妊娠していることはできるか?」という奇妙なゴシップ記事の真贋問答を中心とした長談義からスタートします。この「京極堂シーン」が終わるまでの序盤の、小説・映画各作品での物語に占める割合を比較してみましょう。

〇原作小説(2005年出版の講談社文庫上下巻分冊版にもとづく)
 全体のページ数「536ページ」中、京極堂シーン終了までのページ数「89ページ」……全体に占める割合は「16.6%」
〇映画版
 全体の分数「123分20秒」中、京極堂シーン終了までの分数「16分50秒」……全体に占める割合は「13.6%」

 乱暴ですよね~! でも、ご参考までに。
 こう観ると、とかく「中禅寺の話が長い!」という印象の強いこの「百鬼夜行シリーズ」なのですが、映画『姑獲鳥の夏』は、脚本家にあたってかなり善戦している、むしろスリム化に成功しているという数字的結果が出ました。
 でも、これは私個人の感覚としては超意外! だって、原作小説の数倍長く感じたんですよ、映画版のここのシーン!!

 その理由は、原作小説を読んでみれば一目(読)瞭然なんです。すなはち、原作では中禅寺の長い話に様々な「合いの手」が入ってくるのに、映画版はほぼ中禅寺のオンステージ、しゃべりっぱなし! なんか、映画版は「興味のない講義を聞かされている」感がハンパないんですね。名優・堤真一のテクニックをしてもそうなんだもの、ちょっとこれは、俳優さんの演技よりも脚本や演出の構成に問題の本質があるかと。
 実はこの『姑獲鳥の夏』だけを読み返してみると、「百鬼夜行シリーズ」を20年以上読み続けているファンであればあるほど新鮮に感じてしまうくらいに、主人公の関口は中禅寺の話に対して的確な反応や絶妙なツッコミをさしはさんでいて、むしろ機嫌よく饒舌に中禅寺との会話を楽しんでいる様子が見て取れます。この関口のたたずまいが、中禅寺との長年の悪友関係を読者に暗に察知させるし、中禅寺の長ったらしくて一見わかりにくそうな話の理解をサポートしているのです。いわばオフロードレースのナビゲーター、NHK人形劇『三国志』における紳助竜介のような役目をはたしているんですね。2010年代にこんなたとえとは……

 また、原作小説では、映画で出てきていた「仏舎利の干菓子」の他にも、「本当に出がらしのお茶を出してきた(でもおいしい)」とか、「タバコを実にまずそうに吸う」とか、「べらべらしゃべりながらきつねうどんをすするのが異様に上手」とか、話だけだとヤな感じのうんちくおじさんになりかねない中禅寺に人間的なカラーや魅力を与える小道具が、この京極堂シーンではふんだんにちりばめられています。そして、関口の反応に大爆笑する中禅寺! のちのシリーズ作品から振り返ると、にわかには信じがたいサービスショットですね。
 この『姑獲鳥の夏』が投稿された時に、それを読んだ出版社の編集担当の方が、「京極夏彦」というのは覆面ネームで、これはどこかのプロの作家さんが我々を試すために書いたのではないかと疑ったというエピソードは非常に有名なのですが、これって、お話のトリックとか知識量の豊富さというよりも、こういったあたりの「読者の理解を助けながらキャラクターの造形を深めるテクニック」の達者さから感じ取ったのではないでしょうか。大物落語家の余裕に近い「脱線の楽しさ」に満ちていますよね。
 だから、もしそれらをぶった切りにして「とにかく時間を短縮しました!」というだけにしてしまったら、はたして京極堂シーンはどんだけ絶望的につまらないものになってしまうのか。まぁ仏舎利の干菓子くらいは出てきたとしても、映画『姑獲鳥の夏』は、はからずもそれを雄弁に証明してしまったのでありました。わかってない、脚本は原作の深謀遠慮をまったくわかってない!! 実相寺監督なんだから、隣の蕎麦屋の役で寺田農さんくらい出せばよかったのに。

 そして、この京極堂シーンできわだった、原作と違うもう一つの変更点が、次のポイントにつながります。まだまだ終わらな~い! そして、次こそが、映画版最大の問題なのヨ。


ポイント4「関口巽以下、感情移入したくなる人がほぼいない」
 これ、たいへんなことよ!? そんな123分間、苦行以外のなんでもないだろう。
 まず、主人公である関口をそんな人物にしているのは、脚本の改悪としか言いようがないです。だって、原作小説の関口は、先ほどのポイントでも触れたように、少なくとも物語の前半では、けっこう陽気に親友との会話を楽しんでいる「ふつうのフリーライター」なんですから。
 私が思うに、小説『姑獲鳥の夏』のいちばん怖いところは、妖怪うぶめの存在とか、連続赤ちゃん失踪事件のおぞましい経緯と顛末とかではありません。「対岸の大火事の原因を作ったのが、実は自分だった。」という恐怖なのです。
 偶然見かけた、「怪奇!2年近くも妊娠し続ける女」という世にも珍妙なうわさを知り、「そんなことあんのぉ~? ハハハ」程度にしか思っていなかった話題が、次第に自分の知り合いが深く関わっているらしいという事実を知るところから徐々に温度を変えて脳裏にまとわりついてくる。そして、次第に明らかになる異常きわまりない事件の原因が、なんと昔の自分自身の無知が招いた失敗であった。その行為のあまりにもドス黒い業の深さから、自分の脳はその過去を意図的にシャットダウンして「忘れて」しまっていたのだ……
 これを掘り起こされてしまう、知らされてしまう恐怖! 忘れてしまったまま生きていれば幸せだったのに、開ける必要のまるでないパンドラの匣を開いてしまったのは、他ならぬ自分……こんなに意地悪な運命のいたずらがあるでしょうか? 誰も責められない、罪はひたすら自分の中へ。関口の恐怖は、昭和でない21世紀現代だとしても、老若男女誰の人生の途上にでも口を黒々と開けているのかもしれない、底の見えない落とし穴なのです。

 だからこそ、序盤での関口の能天気さ、ごくふつうさは必要なのです。どこにでもいる好奇心旺盛な人間としての関口に読者はスッと感情移入する。そうして関口がジェットコースターの乗り物の役目を果たすことによって初めて、物語が進むにつれてつるべ打ちを仕掛けてくる『姑獲鳥の夏』の恐怖とおもしろさは機能してくるはずなのですが……さて、映画版の関口はどうだったでしょうか?
 もう、最初っから病んじゃってますよね。冒頭から「おれ、これからきっとひどい目に遭うよ。」みたいな暗い表情をしていて、中禅寺と話をする前からうぶめを予兆させるかのような羽毛の幻覚は見るわ、例の坂でクラクラめまいは起こすわ(原作小説でめまいに襲われるのは、中禅寺にうぶめの話を聞いてから)。ダメでしょそんなの! もうなんにも始まってないうちから悲劇の主人公フラグがビンビン立ってるんだもの。そんな辛気臭い人の気分なんか推し量りたくもないし、後半で「実は事件の重要なカギを握っていた!」って言われたって、そりゃそうだろうなくらいの反応しかできませんよね。
 要するに、映画版『姑獲鳥の夏』の関口巽は、もうすでに「百鬼夜行シリーズ全体のイメージを背負った」関口巽になっちゃってるんですよね。だから、確かに関口らしくはあるんですが、そのせいで『姑獲鳥の夏』単体のおもしろさを致命的に無駄にしてしまっているのです。演技でネタバレをしてどうする……ここで、京極夏彦さんの小説の中で私がいちばん大好きな一文を贈りましょう。「馬鹿である。」

 これに絡めて、もうひとつ映画版の京極堂シーンをつまらなさを助長している構成上の失敗として、「ねぇ君、二十箇月もの間子供を身籠っていることが出来ると思うかい?」と語る関口のモノローグだけを冒頭、映画開始一発目のセリフとして抜粋しているという点が挙げられます。
 これ、物語の謎の核心となる重要な一言なので、演出だけで言うと強調になっていいのかも知れませんが、関口がいつどこで誰にそれを質問しているのかがまずわからないし、それに答える中禅寺のセリフ(京極堂シーンの始まり「また謎か?」)が、タイトルロール終了後のだいぶ後(4分半後)にまわってしまうので、京極堂で中禅寺がいったい何の話題についてくっちゃべっているのかが不明瞭になってしまうのです。こんな不親切な始まり、ないでしょ! それで中禅寺はあの調子で、異常に元気のない無口な関口を相手に一方的にまくしたてちゃってるんだもの、ハタ目には説教にしか見えませんよね。
 何度でも繰り返しますが、原作小説の関口は、京極堂で中禅寺と話をして、『画図百鬼夜行』の「姑獲鳥」の絵を見るまで、妖怪うぶめの存在なぞ信じるはずもない能天気な人物として生きているはずなのです。なんならチャラい感じでいてもいいくらいの。それが、映画版の関口は中禅寺に会う前からすでに妖怪うぶめの存在におびえている精神薄弱者に! 京極堂に相談に行く必要ないじゃ~ん!!
 こんなつまんない関口像、いったい誰が考えたんだろう……脚本家? 監督? それとも、演じた俳優さん? 永瀬正敏さんにはぜひとも、『姑獲鳥の夏』以外の作品で関口を演じてほしかったですね。

 つまんないといえば、関口巽に限らず、「百鬼夜行シリーズ」で紙面せましと大活躍するはずのレギュラーキャラクターたちが、のきなみつまんないセリフと役割しか与えられていないのも映画版『姑獲鳥の夏』の特徴ですね。天下一の名探偵・榎木津礼二郎は、「見たもの」が怖くて事件に関わりたがらないという、原作小説のどこをどう読んだらそんなに器の小さい霊能者みたいな男になり下がるのだという驚異のスケールダウンを果たしています。いやいや、榎木津探偵はバイクのメンテなんかやんないでしょ!
 その他、きっぷのいい江戸っ子のはずの木場修太郎刑事は、これまた原作小説に無い「紙芝居屋のおじさんいじめ」を初セリフのシーンに入れてしまっているがためにひたすらガラの悪いイヤな人にしか見えないし、久遠寺医院の重要人物・内藤にいたっては本当に医師として勤務しているのかさえ疑わしいリアルキ〇〇イそのもの……そういう演技が上手でどうする、松尾さん!!
 そんなこんなで、映画に登場する人物のほとんどに、魅力がないといいますか……少なくとも、観る物に「早く事件が解決するといいナ」と思わせるような興味をいっさい抱かせない、絶妙な「関わりあいになりたくない」めんどくささがあるのです。
 ひたすら助けてとしか言わない良い歳した女、ただ態度が豪快なだけの院長、とにかく怖すぎる鶏ガラ院長夫人……「もう、つぶれればいいじゃん。」としか思えなくなっちゃうんですよね。キツいなぁ~。
 原作小説の中で、ただ一人「人間の血の通った被害者」という哀しさを持っていた原澤(演・寺島進)も、「久遠寺医院にカチコミをかけて放火する」という、またまたまた原作小説に無い無謀な行為に走る復讐者になってしまったので……もう、正常な思考ができる大人はこの映画にはいないのかと! まぁそれは他の実相寺映画もそうですけれどもね。

 ほんとに、この映画の中禅寺敦子さん(演・田中麗奈)ほど「孤軍奮闘」という言葉が似合う人はいないですよ。もっとましな事を取材なさいよ、マジで!!


ポイント5「謎解きものとしての画づくりの不誠実さ」
 映画としてのつまらなさの他に、謎解きものとして、事件の謎のひっぱり方がうまくないと感じた点もいくつかありました。

 まず、密室から消えた重要人物という、おいしいこときわまりない久遠寺牧朗という人物が、映画にインサートカット(榎木津礼二郎の幻視)で一瞬登場した時点で、「どこからどう見ても死んでる」のは、ちょっと……ミステリーとして、そんなもったいないカードの捨て方がありますか!? アガサ=クリスティ女史の墓前で土下座して欲しいレベルの無駄遣いですよね。ただこの映画、すまけいさんといい恵俊彰さんといい、ご本人がたに怒られかねない的確さで見事に「カエル顔」のキャスティングに成功していて、そこは素晴らしい! だって、それは久遠寺一族の血筋の関係でカエル顔になるっていうんじゃなくて、久遠寺家の女性の脳髄に無意識のうちに「カエル」のイメージが巣食っているという事実を物語っているんですもんね。カエルを恐れ憎んでいながら、同時にカエルに惹かれてもいる……こわ~!! さすがは実相寺昭雄監督、「変態けろっぴおやじ」の異名は伊達ではありません。

 あと、もはや「劇団実相寺」の団員といっても過言ではない三輪ひとみさんと堀内正美さんが演じる、戸田と菅野という事件の重要人物の描写が非常に少ない! 役者さんとして出番が少ないのも残念なのですが、この2人が事件にどう深く関わっているのかがわかりにくいんですよね。三輪さんも堀内さんもセリフいっさいなし! いや、確かにそこは中禅寺以下、他の登場人物たちの話でどういう2人だったのかはいちおう明らかにはなるのですが、結局、本当に2人がどんなことを考えて何をしていたのかが分からないので、「死人に口なし」というか、なんともいいようのないモヤッとした消化不良感が残るのです。
 あんなインパクトあふれる死に顔をさらした戸田の死の原因が、それ!? あんな外道なことをした菅野の末路がわからない!? どうにもスッキリしませんよねぇ。でも、これは原作小説もそうなので仕方はありませんが、なんでそういうところに限って映画版はまんま忠実に映像化するのかなぁ。三輪ひとみさんですよ? 堀内正美さんですよ!? もったいないなぁ。


ポイント6「灯油入りのドラム缶を男が運んできても警察が気づかない暴動現場」
 いやいやいやいや、そんなの、あり!? しかもその、えっちらおっちらドラム缶を運んできた男(原澤)って、数時間前に久遠寺医院に自動車でカチコミをかけて警察官(木場修)と殴り合っていたのよ!? じゃあ、木場修はそんな男を取り逃がしていたってことか。そして、首謀人物未逮捕のまま、日が暮れたから暴動のあった現場に一人も警官を置かないで撤収したと! 昭和20年代のお巡りさんって、そんなに人手不足だったのか!? んまぁ~頭がホワイトすぎるステキな企業ですこと!!
 映画の流れで言うと、事件の真犯人とおぼしき人物が逃亡したから、警察一同それを追いかけるという流れで、久遠寺医院正面玄関付近に人の目が無かった理由を作っていましたが……苦しいなぁ~! おちぶれても病院ですよ!? 生まれたばかりの赤ちゃんがいるんだったら、夜勤の看護師さんだって絶対にいるでしょうよ。無線インカムが満足にない時代でも、木場修が「犯人を追え~!」って言ったら病院にいる警官全員が瞬時に一ヶ所に集合できるのか。テレパシー? アリみたいに木場修フェロモン? どんだけで有能で無能なの!?

 ただ、そうまでして、原作小説にまた×4なかった「久遠寺医院炎上」(原作小説では逆に雨が降っている)を入れたかった脚本……いやさ、実相寺昭雄監督その人の思いも、よくわかります。実寸大で作った久遠寺医院正面ホールが本当に炎上するさまは、間違いなくこの映画『姑獲鳥の夏』最大の見せ場になっていましたし、不謹慎ではありますが実に美しい情景になっていました。そこはやっぱり、あの『怪奇大作戦』(1968年)第23話『呪いの壺』で、京都の視聴者がテレビを見ていて思わず消防署に通報してしまったという伝説の寺炎上シーンを創り上げた実相寺&池谷ペアの真骨頂といった感がありました。呪われた一族の終焉を見事に映像化した、この映画「唯一」のプラスポイントだったかと思います。
 百歩譲れば「終わり良ければ総て良し」ってことなのかもしれませんが……ちょっと巨匠の実寸大セット炎上采配をもってしても、映画『姑獲鳥の夏』の業を全て浄化させるほどの大逆転にはならなかったかと。


ポイント7「黒、黒、黒っていってんでしょ!!」
 中善寺の憑きもの落とし時の衣装がめっちゃパープル。えぇ……デイヴィッド=ボウイもビックリよ。
 「画面が暗くなるから」とかっていうつまんない言い訳はなしですよ。そこは黒くなきゃいけないんですよ~。お願いしますよ~……もう疲れた。


 ……ハイ! というわけで、映画『姑獲鳥の夏』は、そんなに言うほどダメなのか?をテーマに始めた今回の記事だったのですが、うん、確かにダメでした!!(あくまで個人の見解です)
 こうやって見直してみて気がついたんですが、意外と改変が多かったんだなぁ。まぁ、原作改変が多いのは実相寺映画の常なわけなんですが、今回は改「悪」があまりにも多すぎた、ってことなんでしょうな。
 つまるところ、123分という枠に物語をおさめることにしか執心しなかった脚本と、話題性が高い商業メジャー作品であるがゆえにエロだギャグだに逃げることができなかった実相寺演出のキレのにぶりが、互いに「作品の面白さ」という最重要責任を放棄してしまったのが、ダメさの原因にあったのではないでしょうか。あと、今回の犯人はいかにも線が細すぎましたよね。犯人役の役者さんに実相寺監督の食指が動かなかったのか、演出も非常にありきたりで淡泊なものでした。それこそ、三輪ひとみさんが犯人を演じたらよかったのにねぇ!

 どうでもいいことですが、今回見返してみて実感したのは、私個人が、辛気臭い男が大キライなんだなってことでしたね。何をされても何を言われてもテンションゼロの映画版関口はホントに最低ですよ! 間違っても自分はああなりたくないと心に誓いました。陰気は損気。あっそうか、おんなじ実相寺映画でも、主人公に主体性が無いからダメなのか! 映画の関口は単なる病人であって、エネルギーありまくりの変人じゃないもんねぇ。そういう意味では、全編を通して被害者になりっぱなしの『あさきゆめみし』(1974年)の主人公に心境が似ているっちゃあ似ているわけですが……ジャネット八田さんくらい美人でもないしなぁ。

 そもそも、奥さんが篠原涼子さんなのにテンションが上がらないっていうのが、まず破綻してますよね。早朝から『恋しさと 切なさと 心強さと』を熱唱して奥さんに心底うざがられるくらいのエネルギッシュな関口巽であってほしい!! そして、クライマックスのシーンでは裏声で『時をかける少女』を唄いあげてくれれば百点満点ですね。

 それじゃあ、次に『姑獲鳥の夏』がリメイクされるときは、関口役は市村正親さんということで! オペラ好きの実相寺監督も、草葉の陰でズッコケてますね。ピヨォオ~ンン☆(『ウルトラマンティガ』の『夢』で何回も流れていた効果音)
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これから読もうと思ってんだけどさぁ9  ~前勉強をつらつら~

2014年02月11日 23時47分11秒 | すきな小説
『創雅都市 S.F 』

 『創雅都市 S.F(そうがとしサンフランシスコ)』は、小説家・川上稔の「都市シリーズ」の第6作。川上と、イラストレイターのさとやすによる共著である。
 異世界の大都市サンフランシスコを舞台に描くイラストノベルで、文章を川上稔が、イラストをさとやすが担当している。
 メディアワークスのライトノベル雑誌『電撃 hp 』(季刊から隔月刊になり、2007年に休刊)で、1999年9月~2002年8月に全9回連載された。2001年2月から隔月刊化した『電撃 hp 』では、「都市シリーズ」第7作『矛盾都市 TOKYO 』の連載もスタートし、本作と交互に掲載されることとなる。
 実際には、本作の連載が始まった後に、シリーズ作『閉鎖都市 巴里』が刊行されたが、読者の混乱を避ける意味もあってか、完結が遅れた本作が第6作とされている。
 川上とさとやすの所属するゲーム制作会社「 TENKY(テンキー)」のホームページ内の「テンキーストア」で販売されている単行本には、書き下ろし短編も2話収録されている。

あらすじ
 なにごとも「描き」創られていく都市、サンフランシスコ。この街は、かつて人々が入植する以前から、大神祭(だいしんさい)との戦いが続いていた。
 時は現代、1999年。サンフランシスコ市役所衛生課のエースとして活躍するサラは、ペットの狐鬼ベレッタとともに、自動人形のベンドゥーターと仲良くなったり、風雷神サンダーバードに尻をつつかれてみたりと大騒ぎ!
 そんな人外の者たちの日常の裏側では、次なる大神祭が刻々と近づいており、世界各地ではサンフランシスコ援護の準備が始まっていた。
 世界各国の代表が各種準備を整えてサンフランシスコに集結する。果たして、サラの運命は!?


創雅都市(Image City)サンフランシスコとは……
 サンフランシスコは、アメリカ合衆国西海岸カリフォルニア州の大都市である。
 同じカリフォルニア州の大都市ロサンゼルスと並ぶ西海岸主要都市のひとつで、その名は、紀元前3000年からの先住民族時代を経て、1769年にスペイン帝国の植民地となった時点から世界史に登場する。アメリカ合衆国の領土となったのは1846年からである。
 気候は温暖で自然環境も申し分ないが、サンタクルーズ山脈のふもとに位置するために土地の起伏が激しく、狭い平野部や丘陵地帯の下部に主要機能が集中する原因となっている。
 一部に商業地域が集中している点や、湾の出入り口に位置するために国内と国外の中継地点であるという点が、風水街都・香港やソウ楽都市・大阪と共通している。
 サンフランシスコの名物のひとつは、その土地環境から生まれた世界初のケーブルカーで、1873年に開業した路線はいまだに運行している。

 また、1896年にイギリス帝国から贈られた時詠(ときよみ)式自動人形(ザインフラウ)も、2000年4月に大改修を受けて稼働中である。
 サンフランシスコがかかえる最大の問題は、この都市を気まぐれに襲う大神祭である。地下からドラゴンが復活しようとして発生するこの神祭を、次回はどのように抑えるべきなのか、世界各国が懸念している。

 市街地の南部には、大神祭への対抗策として、地盤を強化する目的でアメリカ合衆国の首都ワシントンDC から送られた世界最大級の大桜がそびえ立っており、その周辺には巨大な溜め池をそなえた森林公園がある。また、サンフランシスコの歴史をおさめる郷土資料館も根本部分にある。
 大桜内の時計台は、台風などの災害時には住民の緊急避難所にもなり、市内放送の臨時中央放送局の役目も果たせる。
 都市の人口はおよそ80万人であるが、純粋な人間の割合は低い。


主な登場人物
サラ
 使堕天使と人間との間に生まれた匪堕天(ディスデモン)の女性。1976年生まれ。金髪碧眼。
 サンフランシスコ市役所衛生課(クリアード)のエースで、狐鬼のベレッタをペットに西へ東へ活躍中。性格は大雑把で適当。酒と飲み会が大好き。
 衛生課で担当している業務は「空を夜から朝に描き変えること」で、仕事には使い捨ての空間固定具(グリッドシーカー)と、日本の IZUMO 社製の珠座神形具(マウスデヴァイス)である「白帝(ハリハクス)」を使用する。
 背中に3枚ずつの羽根のある2枚の翼を持っている。翼の色はやや黒みがかった金色。
 1995年に、出身地である風水街都・香港からサンフランシスコに移住してきた。サンフランシスコ市役所には1998年から勤務している。

ベレッタ
 三尾の狐鬼(スリーテイル)のオス。1995年に生まれた直後からサラのペットとなる。「都市シリーズ」第5作『閉鎖都市 巴里』に登場する同名の狐鬼とはパラレルな存在。本編中では7歳だが、まだ成体にはなっていない(狐鬼の寿命は約20歳)。

シングルホーン
 魔界出身の魔神族(ディスロード)。サンフランシスコ市役所の衛生課課長で、サラの上司。年齢は500歳以上。
 100年前の19世紀末にはすでにサンフランシスコの市政に携わっており、1896年から始まったベンドゥーターの設置にも関わっていた。衛生課の業務全般の他に、常時大神祭対策にも携わっており、大神祭の発生前後には国際規模の人員派遣団の団長も兼任する。

ベンドゥーター
 時詠式自動人形。サンフランシスコの南部にある大桜の幹部分をくりぬいて建造した世界最大級の時計台(ハイパーベン)で、平常時は毎日、正午と15時に300万詞階(オクターブ)を超える時報を唄う。おっとり気質で、サラとはつきあいの長い親友。
 イギリス帝国の首都である架空都市(エアリアルシティ)ロンドンのウェストミンスター宮殿の大時計台「ビッグベン」で時を詠む三姉妹と同型で、その半身は超重琴神形具(ハープデヴァイス)「爪弾女神(リ・アルテミス)」と合体していた。
 他の三姉妹と同じく、ビッグベンが完成した1859年生まれで、もともとはビッグベンの北方を守る目的で製作されたが、組み立てが放棄されていた。その後、1896年にアメリカ合衆国独立120周年を記念してイギリス帝国からサンフランシスコに寄贈され、1902年に組み立てが完成した。
 当初は感情のない中期アイラム式自動人形だったが、2000年4月に感情の豊かなアイレポーク式に完全改修され、「爪弾女神」から分離して活動することも可能になった。
 アイレポーク式になってからは、日本文化趣味に強く傾倒している。時計台への設置当初は裸眼だったが、暗所で歌集を詠むことによって両目の機能が劣化してしまい、現在は大改修後もメガネをかけている。

藤浦 鉄
 人間。機密都市・呉(広島県南西部)の技師で、繰運時計店の28代目店長。1974年生まれ。和服を好み、ふだんは作務衣を着ている。
 曽祖父も、100年前のベンドゥーター設置に関わっていた優秀な技師だった。サンフランシスコには2000年12月から、ベンドゥーターのメンテナンスと技術研究のために留学している。

オババ
 人間。1920年代生まれ。アメリカ先住民族の衣装を常に着ているラテン系女性で、サンフランシスコ在住の先住民族の代表。サンフランシスコ市役所の直下に位置する地下遺跡で発掘作業をしている。必要以上に元気。少なくとも1937年からサンフランシスコに住み続けており、そのころに負傷したサンダーバードを救ったことから、現在にいたるまでサンダーバードに守護されている。日本語の読み書きが堪能。

サンダーバード
 鳥型ドラゴンである神鳥「風雷神」の化身で、本来は全長8メートルを超える巨体だが、ふだんは中型の鳥の姿をしている。かつてはアメリカ先住民族の守護神だったが、現在はオババのペットになっている。オス。人間の言葉の意味を理解することはできる。サラと違って酒を呑む人間が嫌い。本来の姿に戻れば、大神祭を引き起こすドラゴン「大地竜」と互角に闘えるほどの実力を発揮する。

サラの同僚たち
 サラの同期、同年齢の同僚で、主にツッコミやフォロー専門。本名は言及されていないが、作者は便宜的に「義腕子」と「地味子」と呼称している。義腕子は左腕の義腕を密閉防水加工しているらしく、夏には3人でいっしょに海水浴に行くこともある。地味子は人間。
 サンフランシスコ市役所衛生課内では、地味子が事務、義腕子が整備を担当している。義腕子は2002年の大神祭に向けてのベンドゥーター改造チームにも参加していた。

エルフ子
 長寿族の女性で、1900年生まれ。本名は言及されていないが、作者は便宜的に「エルフ子」と呼称している。サラの近所に住む友人。

サラの母親
 サラと同じ匪堕天。1952年生まれ。茶髪碧眼。風水街都・香港の新界地区に住んでいる。夫(サラの父)は1990年代前半に死去している。かつては香港市役所の住民課課長補佐だったが、1997年の香港大崩壊を期に退職し、現在は風水師として活躍しながら新界地区の相談役的存在になっている。

ゲストキャラクター
ベレッタ=マクワイルド
 人間の重騎師。「都市シリーズ」第5作『閉鎖都市 巴里』の主人公ベレッタの「もうひとり」の存在。サンフランシスコの沿岸で自動人形の整備工房を経営していた。1915年生まれ。白髪だが、背筋も伸びて闊達とした老婆。
 1995年6月に、サラに生まれたばかりの狐鬼のベレッタを託し、整備工房を引き払って母親の生まれた国であるフランスに去っていった。

ロゼッタ=バルロワ
 「都市シリーズ」第3作『閉鎖都市 巴里』に登場した、アティゾール式自動人形の重騎師。1915年の製作で、金髪の長髪に碧眼の女性の姿をしている。
 ヨーロッパの重騎師界では知らぬ者がいない伝説的存在で、現在はアメリカ製の専用重騎を所有している。かつてフランス王宮の御用守護騎師だった名門バルロワ家の現当主で、「自由フランス守護騎師」の称号を得ている。フォレット=ミゼールの師匠。
 1995年にサンフランシスコにあるベレッタ=マクワイルドの整備工房でサラと出会ったのち、2002年にも風水街都・香港で再会する。狐鬼のベレッタになつかれている。

マレット=ハルキュリア
 「都市シリーズ」第3作『閉鎖都市 巴里』に登場した、ベレッタ=マクワイルドの親友で、ロゼッタとも親しい。ユダヤ人豪商で、現在はフランス王立歴史学会の OGでもあり、国内外の政財界に相当な発言力とコネクションを持っている。1915年生まれ。白髪で、常に喪服のような黒いワンピースを身にまとっている。未婚。
 実業家としての第一線を退いてからは、ロゼッタとともに世界中を悠々自適に旅している。

奉 鈴(ホウ リン)
 軽度に吸血鬼化している人間。1972年生まれ。「都市シリーズ」第3作『風水街都 香港』に登場した香港商店師団(ホンコンヤード)捜査課巡査長で、2002年現在は新ホンコンヤードの副団長。風水師。ほぼ全身が義体化している。

フェイ=ガーラント
 『風水街都 香港』に登場した、座天使(天使位階第三位)と人間との間に生まれた匪天で、2002年現在は新ホンコンヤード副団長補佐。鈴の恋人。全身を義体化している全方位義体師。新ホンコンヤードでは鈴に代わって外交・現場指揮・コンピュータ作業などをこなす、鈴の参謀的存在。

将軍
 『風水街都 香港』に登場した、ホンコンヤード特殊車両部隊大隊長。第四神罰戦の英雄と呼ばれる。やや腰の曲がった痩せぎみの老人。2002年現在は新ホンコンヤードの衛生課顧問になっている。
 新ホンコンヤードの入口でサラと挨拶を交わすが、用務員だと勘違いされていた。

山城 孔臥(コウガ)
 『風水街都 香港』に登場した、中国系ヴァンパイアと日本人のクォーター。金髪リーゼントにサングラスというチンピラのような風貌をしている。かつてはホンコンヤード捜査課巡査で鈴の直属の部下だったが、新ホンコンヤードに移行して鈴が最前線に立たなくなった後も現役捜査官を続けている。
 サラに尋ねられて新ホンコンヤード本部の場所を教えるが、サラは山城の素性に気づかなかったらしい。

グレアン=クーラーズ
 ゲーム版『奏(騒)楽都市 OSAKA 』のヒロイン。イギリス帝国の首都である架空都市ロンドン出身の猫人。神器(リズム)「凍王」を使用する遠隔神術師(エナジーガンナー)。1980年生まれ。ややウェーブがかった金髪に碧眼の女性。
 2002年現在は新・反戦独立部隊(反独隊)「 NUSIF 」中尉で、祖父も NUSIFの大佐だった。高校生時代に日本に留学していたため、対日交渉に強い。
 2000年4月にイギリスに戻って大改修を受けたベンドゥーターの運搬業務を担当していた。2002年には、サンフランシスコの大神祭対策援護のイギリス代表として活躍する。ギャンブル、特にポーカーが強い。

九条 句刻(くぎり)
 ゲーム版『奏(騒)楽都市 OSAKA 』のヒロイン。奏(騒)楽都市・大阪を擁する大阪圏守護役・九条家の次女。人間。絵を媒介とする言霊師。1984年生まれ。やや痩せ型で黒い長髪の、メガネをかけた少女。
 1999年の矛盾都市・東京の閉鎖後は、日本国臨時内閣対特殊領域部隊「 GASAS 」の臨時要員として活躍している。
 2002年のサンフランシスコ大神祭対策援護の日本代表として渡米するが、それ以前にも、2000年12月にサンフランシスコに留学した藤浦鉄の護衛のために同行していた。

フォレット=ミゼール
 フランスの首都である閉鎖都市パリ出身の重騎師。1976年生まれ。黒髪の長髪で、眼帯をした隻眼の女性。フランス王立騎師団女性隊隊長。代々、パリ守護騎師の家柄である名門ミゼール家の現当主。ロゼッタ=バルロワの教えを受けて重騎師となる。本文中での言及はないが、『閉鎖都市 巴里』に登場したベレッタ=マクワイルドの親友フィリップ=ミゼールの子孫(孫?)にあたる人物であると思われる。
 1988年の東西ドイツ統一紛争に12歳の若さで参戦し、右目を失う。現在はパリ守護騎師として活躍するが、よくロゼッタの世界旅行に護衛という名目で付きあわされている。
 2002年のサンフランシスコ大神祭対策援護のフランス代表として渡米する。

ベルマルク・アインス
 「都市シリーズ」第6作『機甲都市 伯林』に登場した、ベルマルク・フィーアやベルマルク・ナインといった「アイラム式自動人形ベルマルクシリーズ」の最初期型。1832年の製作。長身痩躯で、蒼白な肌をした白髪の初老男性の姿をしている。
 現在のドイツ連邦共和国におけるゲハイムニス機関の大将軍で、機関長グリレ=シュバイツァーの秘書を務めている。2002年のサンフランシスコ大神祭対策援護のドイツ代表として渡米する。
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えらいもん観てもうた……  劇団わらく 『壁あまた、砂男』 千葉公演

2014年02月10日 23時44分14秒 | 日記
 ばったばた~の~ばったばた! みなさまどうもこんばんは、そうだいでございます。いや~……ねぇ! 今日も一日、たいへんお疲れさまでした。

 千葉は昨日に引き続きまして! おとといのドカ雪災害の爪あとを色濃く残しております。そりゃ、私自身は深夜にガチンコ雪中行軍を決行して全身になんとも言いようのない疲労と、全く意味のない「なんかやったった感」をおぼえた、というくらいしか被害を受けていないくらいなんで「災害」と言うのはちと大げさであるわけなんですが……家のドアを開けたら、依然としてそこは雪国なんですからねぇ。2月の千葉県なのに、ですよ!? いやはや、今年2014年の天候も、しょっぱなからすんなりといってくれそうにはありませんなぁ。1月は比較的おだやかだったのにね~。

 まったく昨日なんか、よりにもよって県外まで遠出する大事な用事があった、その直前に大雪で交通機関大パニックなんですからね! おとといから昨日にかけての真夜中、孤独にザクザク足音だけをたてながら一面まっ白な世界を歩ききった絶望感と、「そういう運命なのね、今年も! ハイハイわかりましたよ~だ、バ~カ!!」という、天に対する半ギレモードは忘れがたい思い出となりました。ホントに毎年、毎年……雪、だ~いっキラ~い☆

 さて、そんなこんなを言いつつも、なんとか昨日の土浦に行ってのお芝居鑑賞は、多少とはちょっと言えないレベルのけっこうな電車遅延をはさみつつも、無事に終わりました。帰り道は知り合いの方といっしょだったのでずっと起きていたのですが、家に帰ったらひたすら泥のような眠りが待っていましたよ! そりゃそうだ~。
 夜が明けた本日はいつもどおりの出勤と。相変わらずの雪景色なんですが、電車はもう予定通りに運行するようになりました。よかったよかった。

 そして! なんと私は、昨日に続いて今日もお芝居鑑賞の予定を入れていたのであった……なんなんでしょ、この途切れないバッタバタ感。なにを生き急いでいるというのだ、おれ!?


劇団わらく 第7回公演『壁あまた、砂男』(作・佃典彦、演出・勝俣美秋 千葉もりんぴあこうづモリ×モリホール)


 夕方5時に早めに職場をドロンした(死語)私は、京成線に乗り継いで成田方面に向かい、成田の1駅手前の「公津の杜(こうづのもり)駅」を降りました。成田市で昭和末期から建設が開始されたというニュータウン「公津の杜」ということで、駅舎からして非常におしゃれでモダンな場所だったのですが、私が着いたときにはすでに日も落ちて帰る人の数もまばら。まさに「冬だ!」としか言いようのない寒気がただようなか、千葉に住んで15年になろうかというのに初めて踏み込むことになった公津の杜を訪れた私は、観光気分なんかあるはずもなく、公演の会場へと急ぐこととなりました。明るいうちに来れば、また街の素敵な外観もわかったんでしょうが……まっくらでなんにもわかりゃしねぇ! だいたい、成田なんて空港にしか行く用事がなかったからなぁ。新勝寺? 行かないよねぇ~。初詣はもっぱら西千葉稲荷神社(無人&こわい)にしてるから。


 私は、この劇団わらくさんの公演はこれまでまるで拝見したこともなかったのですが、知り合いの俳優の永栄正顕さんが出演しているということで、永栄さんのお誘いもあって初めて観劇することとなりました。
 今回の『壁あまた、砂男』は、直前の1~2月に東京の小劇場「SPACE 雑遊」(新宿 キャパシティ約100名)で上演されたものを、公津の杜のコミュニティセンター(公民館、図書館などの複合施設)「もりんぴあ」内にある「モリ×モリホール」(キャパシティ約200名)で上演するという2都市公演になっているそうです。
 正直言いまして、私も当初は「え~、東京と千葉で2都市公演って、なんでそんなに近いところで展開するのかなぁ……もっと、東京と名古屋とかさぁ!」と勝手なことを考えていたのですが、実際にこの足で公津の杜におもむいてみて、その考えを大いに改めました。公津の杜は、充分すぎるほどに遠い! 「千葉だから近い」なんていう幻想はいっさい通用しない!! 使い慣れた京成線の沿線だからといって完全にナメておりました……確かに、私の家(千葉市)から行くとなると、新宿と成田って、ちょっとだけ成田のほうが安いってだけで、電車賃はほとんど変わんないんですよね。関東は広いんだなぁ~、今さら実感。

 わらくさんの今回の2都市公演は、東京と千葉とで1週間のインターバルをおいているそうなのですが、劇場の性質もキャパシティもまるで違うようですしねぇ。時間に余裕さえあったら、新宿の公演も観たほうがよかったのかも。演出によっちゃあ、公津の杜とはまた別物の作品になっていたかも知れませんしね。あとほら、大東京の新宿とかにお芝居を観に来るお客さんって、やっぱり客席に座ってるだけで、そこにただよう雰囲気が地方とまるで違うじゃないですか。笑いのツボとかもだいぶ違っただろうし……そこらへんの話、役者さんに聞いてみたらおもしろいでしょうね。

 私自身は、たどり着いたその時に会場がコミュニティセンターのホールであるということを知ったのですが、こういう場所の多目的ホールってさぁ……なんか空気がカタいんですよねぇ。完全に背筋をただして最後まで鑑賞しろ!って感じでねぇ。「キャパ200名」っていうと都内の小劇場よりもよっぽど広くて快適そうに聞こえるんですが、この種類のホールにしては体感する広さがちっこいんですよね! それはもう、「木材を多用したのはいいものの、木の温かみがじぇんじぇん出てこない」空間全体の冷たさがわざわいしているとしか言いようがありません。
 そうそう、都内のいい劇場って、劇場自体の雰囲気が上演されている作品に干渉するってことは、まずないですよね。「劇場が作品の邪魔をする」ってことはあってはいけないわけです。逆に、作品が本来劇場でない場所の異質感を利用しようとするってことはよくあるわけですけど。野外公演とか美術館内での公演とか。
 でもさぁ、この公共ホールのあつかましさといったら……まぁ、単純に「白木」とか「明るい色の壁面」を使ってるのがよくないんですかね!? その「みなさんに開かれた場所です感」が邪魔なのなんのって、作品に集中できないんですよね、空間のだだっ広さだけがしじゅうアピールされちゃってて! ニコニコ動画の画面の上の宣伝文句だってあんなに気になることはないよ!?

 そういう意味で、会場に入って、これまた「木で作ってますよ~」なアピールがうるさい座席(木だからかたい)に腰かけた時点から、私は勝手に「あ~、これはお芝居にとってはかなりアウェーだぞ……」という思いをいだいていたのですが、それはもののみごとに的中していたような気がするなぁ~、うん。


あらすじ(公演チラシより)
 砂漠の都市を彷徨う男がいる。地図を作る男ヒュルリだ。ヒュルリは、「この世界に引かれた線は、まやかしだ。」という信念の元に地図を完成させようとしている。
 砂漠の都市には壁がある。都市に境界を作っているのは、この壁だ。壁の向こうには人々が住んでいる。新たに壁を作ろうとする人間もいる。
 境界と壁と地図……砂が続くこの都市で、癒されないお伽話が始まろうとしている。


 名古屋を拠点として活動する老舗劇団(1985年創立)である「劇団B級遊撃隊」(旧名・劇団B級爆弾)の主宰・佃(つくだ)典彦が、今回のわらく公演のために書き下ろした新作で、大きな砂漠地帯に独立した町が点在しているという設定の、架空の世界が舞台となっている物語です。現代日本とはまったく違う地勢であるわけですが、移動&居住にガソリン式自動車が使われていたり日本のアイドルネタが使われたりと、ゆる~く日本から離れ、ゆる~くアラビア半島っぽい情勢になっているようですね。
 あらすじにある通り、物語は砂漠の中にある都市に「ほんとうの地図を作る」ことを生きがいとする男ヒュルリ(演・永栄正顕)がやって来ることから転がりだしていくわけなのですが、主人公はむしろ、そのヒュルリをつけねらう男ビュビュー(演・高須誠)と、彼とふれあうことで「ほんとうの世界は、実は自分が今まで教えられてきたものと違うらしい。」ということに気づかされる、町の3人兄妹のあたりになっており、ヒュルリはどちらかというと物語の導火線的な思想家の意味合いが強いですね。

 さすがは佃作品というべきか、作品で展開される会話のノリは、非常に日常的で軽いものです。その中にはもちろん、ふんだんに笑いもまぶされているわけなのですが……
 おわ~、重い! これは、会場が堅苦しいことからくる重さじゃないぞ、演出による意図的な重さなのだ。重い&重い!!

 まず目に入ってくるのは、出演者全員の衣装が男女の差なく「上下灰色の無味乾燥なパーカー&トレパン」で統一されている重さです。そして、物語は閉塞した砂漠世界を統一しようとする正体不明の存在「砂男」が到来することを漠然と待ち続けている「嵐の前の平和さ」から、一転して統一戦争のために町の若者が次々と徴兵されていくという嵐のまっただなかへ。まさにファシズムの寓話なわけで……それを2014年の日本で上演するわけなんですから、もはや台本の時点から重苦しいことが確約されていたわけなのです! クライマックスで俳優が着る軍服なんか、架空世界の設定なのに、なんの加工もされていない日本の旧帝国陸軍のカーキ色のものなんだもんね。おとぎ話だというのに、意図するところは明確ですよ。

 重い、重い! 砂漠は砂漠でも、水気をたっぷり含んだ曇天の鳥取砂丘みたいに重っ苦しいわけ!! まんま安部公房の『砂の女』じゃねぇかァア。『砂の女』は男女が閉塞された空間に同居するお話でしたが、こちらは町ひとつぶんがまるごと閉塞されていて、それをさらに大きな戦争という存在が踏み潰そうとする重圧までのしかかってくる、徹底して行き場のない物語であるわけなのです。

 新宿公演がどうだったのかはわからないのですが、公津の杜公演では公共性の高い多目的ホールであるためか、さすがに物語になくてはならない象徴的存在となっている「砂」の本物は投入されず、数え切れないほどに舞台に散らばった、何百枚といううす汚れた軍手という小道具に代替されていました。砂そのものは使用されていなかったわけなのですが、開演前に受付でマスクを手渡されたことからも、軍手があえて砂っ気を含んだくたびれたものになっていたことがわかります。実際に、お話が進んで役者が動かしていくたびに、まるで本物の砂漠の砂紋(さもん)のように様相を変えていく軍手の波は、ほんとはそんなに大したことはなかったのだとしても、会場じゅうに見えない砂の風を巻き起こしていたようで、体感として台風前の曇り空のように空気を重くしていく効果があったと思います。

 それであの、救いのない、でも「生き残ったものに強い意志があるのならば、救いがなくもない。」っていう相当に突き放した結末でしょ……わらくさんもよく上演したなと思うけど、佃さんもよくこんな作品をよその劇団にプレゼントしたもんですよ。ガチンコのストレート剛速球じゃん、これ!?

 登場人物たちの会話に笑いはあります。あるんですが……笑えないんだよなぁ、どうにも。それは脚本のクオリティが低いとかいう話なんでは決してなくて、完全に日本の現状に投げかけた皮肉なんでしょう。そりゃあ世間はおおむね平和だし、TV をつければいつもと変わりのない軽い笑いに満ちた番組がどこかで必ず放送されているわけなんですが、今現在の日本は「明日も笑える平和」に向かって進み続けているといえるんですか? という問題提起ですよね。

 いや、それはよくわかるんですが、作品としてはよくできた傑作なのだとしても、果たして演劇作品としておもしろいものなのかというと……しかも、東京じゃなくて千葉公演ですからね。千葉といっても成田公演ですからね! はっきり言ってしまいますと、おとといの大雪も影響してか客席も決して満席ではなく、まるで作品に飲まれたような感じで、上演中はお客さん全体に「う~ん、そのセリフに笑いたいんだけど笑えない……」というフラストレーションがしんしんと降り積もっていくようなヘンな一体感はありました。これ、東京だったらもっとあったかいお客さんになってたのかなぁ!? どうかな……これだけ確信犯的に重苦しい作品ですからね。
 客席には小・中学生くらいの子どもさんを連れた家族もいらっしゃってたんですが、正直、終演後の反応は「ポカーン……」でしたもんね。いや、作品もお客さんも、どっちも悪くはないんでしょうけど! 演劇ならではのプチ悲劇ですよ。

 役者さんはみなさん達者な方ばかりだなぁ、という印象だったのですが、やはり町の3人兄妹の末っ子を演じた大迫綾乃さんの、まっすぐなまなざしの通りにまっすぐな澄んだ声が特に心に残りました。彼女も死にはしない! 死にはしないんだけど……なんとも過酷なクライマックスですよねぇ。あれ、まんま日本の怨霊伝承の「七人みさき」じゃないの!? いや、作者さんの意図がもっと、岡本喜八監督っぽい好意的なものであろうことはわかるんですが……キツいんだよなぁ!

 今回のわらくさんの公演は、私もこの公演しか拝見したことがないのでデカい口はたたけないのですが、どうにもこうにも佃さんの書き下ろし作品に遠慮しすぎて「喰われてしまった」んじゃなかろうか、という感想を持ちました。いや~、えらいもんを観てしまった。わらくさんは何を隠そう、この千葉県成田市をホームとして活動している劇団なのだそうですが、劇場も脚本もお客さんの反応も、何から何までアウェーな公津の杜公演をよくぞ企画した、と喝采は送りたいですね。ホームなのに全然ホームじゃない……そんな冷たい空気を作る一端を担ってしまった者として、私はわらくの皆さんに声を大にして、


「いや、おもしろかったですよ!? まぁ、あれですよ……自信なくさないで次回からもがんばってくださいね!」


 という、まことに余計なお世話なメッセージを送らせていただきたいと思います。脚本のおもしろさと、それが立体化されたときの演劇のおもしろさって、まるで別次元の話なんですよね。今さらながら、そんなことを再認識した観劇になりました。


 あと! 最後に、この公津の杜公演を観た者である以上、これだけにはなんとしても触れないわけにはいかない。

 上演開始から終演まで、私(と、おそらくは会場にいたお客さん全員)が「ん? あれ? あれ……?」と感じざるをえなかった、舞台上で発生していた「ある異常事態」。

 ……な、なぜ、あの女性役の俳優さんは「化粧も何もしていないまごうことなき男性」で、しかもしじゅう、「右手にしっかりと持った台本」を読みながら、隠しようもない棒読みでセリフを発しているのであろうか……まさか、し、し、しろうと?
 なに、あの人、お客さんが3~4千円払ってこのお芝居を観てることを知らないの? 馬鹿なの? 死ぬの?

 終演後に出演していた永栄さんに聞いたところ、どうやら新宿公演でその役をやっていた客演のベテラン女優さんが、数日前に救急車を呼ぶレベルの体調不良を起こして緊急降板してしまい、仕方なく「舞台監督さん」がその役を埋めるという非常手段をとらざるを得なかったのですとか。
 ……お芝居って、大変なんですね……ていうか、これほど多方面から「さんっざん!!」な目に遭っている公演も珍しいと思いました、はい……それにしたって、舞台監督しかいなかったのかよ……


 何事も、明日は我が身。そういう四面楚歌に陥らないように、私も明日から、ちびりちびりと善行を重ねていきたいと思います。
 ま、善行を重ねたって、ひどい目に遭うときゃがっつり遭うんですけどね☆ 神も仏もありゃしねぇけど、がんばってこ~っと♪
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行けた行けた! 百景社アトリエ祭「太宰治作品集」 最終日

2014年02月09日 23時36分28秒 | すきなひとたち
 いや~、なんとか行って来られました、土浦! 特に関東圏のみなさま、交通機関大混乱の今日も一日、ほんとうにお疲れさまでございました……無事に千葉に帰還することができた、そうだいです~。

 ホントにねぇ、よくよく報道を確かめてみたらば「半世紀に一度」なんていう文句なんかも飛び出ていた昨日の大雪、猛吹雪!
 夕べ、10キロもの白い地獄をざっくざっくと踏破して生還したあと、正直いいまして私は、「明日(つまりは今日)の予定、たぶんつぶれるだろうなぁ。」なんていう諦めをいだいて眠りについてしまいました。

 本日、私は茨城県の土浦市におもむきまして、そこで午後2時開演のお芝居を観る予定だったのです。そして、あわよくば午前中、そこに行く途中で恒例の「全国城めぐり宣言」の最新作といたしまして、茨城県の牛久市に立ち寄って「牛久城」を探訪する算段でおったのでした! 当然のごとく、現在の牛久城に遺構はない!! でも、縄張りや土塁・空堀の跡は良好に残されていると聞きました。東日本の「土のお城」は、そこらへんが残っていればもう充分に堪能できますからね☆

 でも、そこらへんの淡い休日計画はまぁ~きれいさっぱり崩壊してしまいました。特に牛久城なんか、秀吉の関東征伐まで落城しなかった、面積1キロ四方規模の「総構え式」の巨城だったんですよ? 遭難するわ、こんなときにノコノコ潜入なんてしたら!

 なにはともあれ、「電車がちゃんと運行しているかどうか……」という不安を抱いたまま本日の朝をむかえたわけだったのですが、カーテンを開ければ、確かにそこには2月の千葉とはにわかには信じがたい一面の銀世界が広がってはいたものの、空はカラッとした快晴! 心なしか空気もだいぶ暖かく、早くもドサドサッと屋根から落ちる雪のかたまりや、溶けた雪水がしたたりおちる音が、四方から忙しく聞こえてきていました。往来のあちこちには、とにかく外に出てはみたものの、「どこから雪下ろしをすればいいんだ? っていうか、道具って家にあったっけ?」という困惑に立ち尽くす関東のみなさんの姿が。手ばがりじゃねぇぐて、腰ざぐっどつから(力)いっでゆぎかかねどダミだよぉお~!

 「あらっ、これはもしかしたら、行けるかも!?」という希望がわいてきてパソコンに向かってみると、千葉から土浦に向かうために必要な電車路線である「JR 総武線」「東武野田線」「JR 常磐線」の3線は、いずれも「ダイヤに遅れは生じつつも運行可能」とのこと。
 よっしゃ、だったら観劇は可能だ! お目当てのお芝居は昨日と今日の2日間しか上演しておりません。どのみち今日しかチャンスはないのですから、これは多少の電車待ちやら寒さはあろうとも、行かずしてなにが私かと! 喜び勇んで出発することにいたしました。

 本来の電車ダイヤならば、午後2時開演のお芝居ですから正午出発の電車に乗っても間にあうくらいだったのですが、今回はちょっと早めに出よう、ということで11時に千葉を出発。1時間も余裕をとれば、いくらダイヤが遅れてもなんとかなるかと思っていたのですが……
 ところがぎっちょんすいっちょん!! いざ乗ってみると、確かに総武線と野田線はほぼ問題なくスムースに運行していたのですが、茨城県に入ったとたん、常磐線の取手駅(茨城県取手市)から先が「ピタッ」と完全ストップとの情報が!

 原因はよくわからないのですが、午前中には問題なく土浦や水戸まで運行していた路線が、お昼すぎになってなぜかいったんストップとのこと! 結局、土浦駅まで行ってくれる「勝田駅行き」の普通電車が動くまで、実にトータルで「2時間」待ちだという死刑宣告が!! ちーん。
 まっさか、ここまで影響が出てるとは、ねぇ……関東なのよねぇ~、雪に弱いのよねぇ~。それにしても、特にあらたに雪が降り始めてるってわけでもないのに、いったん動いてから午後にまた停止するかね、しかし!?
 超余談ですが、柏駅から取手駅まで行く快速電車に乗ったら、向かいのシートに座っている老夫妻が、完全に漫才師の宮川大助・花子さんだったのには、静かに驚愕してしまいました。花子さんは地味なメガネをかけて眠ってたからすぐには気づかなかったんだけど、大助師匠が乗ってるあいだの10~20分間、一人でえんえんとネタの確認をブツブツ繰り返してたから、イヤでもわかった!! やっぱりね、その道のプロは練習の鬼よね。何年か前に病気されたらしいですが、柔道でもやってそうな屈強なマネージャーに「ここから水戸まではタクシーです。」と言われて「おう!」と立ち上がったお姿には、思わず見惚れてしまいました。63歳だもんねぇ、まだまだ全盛期ですなぁ、師匠!
 今、気になったのでちょっと調べてみたらば、師匠、午後2時から水戸の県民文化センター大ホールで開演する、6世・桂文枝(いらっしゃ~い!!)の襲名披露公演へのゲスト出演があったんですね。そりゃあネタの確認もするわな……間にあったかな?

 とまぁ、そんなこんながありましたので、私よりももっと早く出発してすでに劇場である劇団「百景社」のアトリエに到着していた知り合いに「間に合いそうにありません……」という弱気なメールを送っていたのですが、「ダイヤの遅れをかんがみて公演時間を遅らせてくれるらしい」という返信をいただきました。ありがた山のポンポンモネだぬき! いや、ここはてんぐだな!!

 ただ、遅れに遅れた私が土浦駅につくのが「午後2時15分」でしょ、それで、変更された開演時間が「午後2時30分」なんですよ。
 目的地の百景社アトリエは、土浦駅から「徒歩30分」の距離にあるんですよね。去年の夏にも行ったからたぶん道に迷うことはないかと思うんですが、歩道もぐじゃぐじゃ雪でえらいことになってるだろうし……
 はぁ~……夕べもけっこう両足を酷使したんですが、また今日もダッシュで働いていただきますかぁ。

 そんなことに腹を決め、電車の中で静かに屈伸ストレッチをしながら土浦駅に着いたわたくしだったのですが、到着してドアが開いた瞬間に、着てきたマントをからげて駅舎から駆け下りると、そこにはなんと、アトリエまでお客さんを運んでくれるという百景社さんのシャトルワゴンが! ありがた山のポンポンモネだぬき! いや、ここはてんぐだな!! ほんとに助かったので2回言いました。

 それでまぁ~、かくのごとくたどり着くまでいろいろな番狂わせがあったのですが、どうにかこうにかお芝居に間に合うことができたのでありました。柔軟に開演時間を変更してくださり、さらには移動車も用意してくださった、主催者の百景社さんに、心の底から!! 感謝の言葉を述べさせていただきます。本当にありがとうございました! 今度また同じような大雪があったら、もっと早くに出発して迷惑をかけないようにします……って約束したいんですが、半世紀に一度の大雪だってんだから、せんかたねぇ!


百景社アトリエ祭「太宰治作品集」最終日(2014年2月9日 茨城県土浦市・百景社アトリエ)

関美能留×スズキシロー ふたり芝居 『太宰治ですみません(仮)』(演出・関美能留&鈴木史朗)
 太宰治『待つ』(1942年6月)、『チャンス』(1946年7月)など

百景社 ひとり芝居 『女生徒』(演出・志賀亮史、主演・山本晃子)
 太宰治『女生徒』(1939年4月)


 はい~、かくして、今回の観劇記であります。前置きがずいぶんと長くなってしまった……あっ、そりゃいつものことか。

 私が見たのは、「太宰治作品集」の最終日である2月9日の2本のみということになりましたが、今回の百景社アトリエ祭は先月の1月から3週にわたって開催されており、主催劇団の百景社をはじめとした6団体が、毎週末に土浦の百景社アトリエで太宰治の『斜陽』『走れメロス』『お伽草紙』といった数々の名作を演劇化して上演しておられたようです。太宰治で演劇祭! 攻めてますねぇ~。
 そうそう、太宰! 太宰だからこそ、私も今日はマントを着こんで駆けつけたんですよ! っていうか、マントはこういう「そこそこあったかいけど風が強い日」にしか役に立たないわけ! ガチンコに寒い日には普通のコートを着たほうが数倍あったかいですからね。マントの下にはちゃんとジャケット着なきゃいけないし。マントを着る意味がねぇ~! でも、そこはそれ、マントですから。実用的な意味なんて最初っからいりませんから。文学とマントの相性のよさって、そういうところですよね♪

 そんでもって、公演時間がずれつつも満員状態となったアトリエ内で上演されたのは、本業が演出家であるお2人が役者兼任でおくる『太宰治ですみません(仮)』と、百景社の女優さんによるひとり芝居『女生徒』! どちらも舞台上の人員は最小限といったあんばいで、非常にシンプルな舞台になっていましたね。


 まずは『太宰治ですみません(仮)』ですが、こちらは我が『長岡京エイリアン』で幾度となく名前を登場させてもらっている劇団「三条会」主宰の演出家・関美能留さんと、栃木県那須郡那須町を拠点に活動する劇団「A.C.O.A.(アコア)」主宰の演出家・鈴木史朗(スズキシロー)さんの2人による、上演時間1時間ほどの舞台でした。アコアさんは俳優だったときに私もずいぶんとお世話になった劇団さんでして、アコアさん主催の演劇祭に参加したこともありましたし、アコアさん所属の俳優さんや、俳優としての鈴木さんとも何度も共演して、とても楽しい刺激をいただいていたものです。みなさんねぇ~、笑顔がステキなんですよね! 一人前の男の笑顔ってのは、こんな感じのふところの深さと含羞があってこそなんだよなぁ!っていう、見事な味わいがあるんですよね。私なんかもう、30も半ばになろうかっていうのにいまだに要領を得ない、妖怪ひょうすべみたいなへらへら笑いしか浮かべられないってのにねぇ。

 作品の構成としては、まず最初に、本来演出家であるはずのお2人が今回の演劇祭に俳優としてタッグを組んで参加し、しかも太宰治を作品化することになった経緯などを語り合うフリートークのていから始まります。私の記憶も不完全なんですが、たしかお2人が太宰治の作品を舞台化したことは今まで一度もなかったですよね。
 そして本編は、それぞれが太宰治に関する「ひとり芝居」をおのおの演じた後で、2人タッグで短編『チャンス』を上演するという、実にわかりやすい「1+1=2かそれ以上」という内容になっていました。シンプル・イズ・ザ・ベスト!

 今回、『太宰治ですみません(仮)』というくくりの中で2人が題材に選んだ太宰関連の作品は、決して『人間失格』や『走れメロス』なみに世間的に有名なものでもなかったかと思うのですが、さすがというかなんというか、太宰治という正体不明のジョーカー、「道化の華」のしっぽをつかんでいるかもしれない印象的なものを的確にチョイスしているなぁ! と感服してしまいました。そりゃあもう、プロの演出家さんお2人ですから。

 特に私がうなってしまったのは、鈴木さんがギターをつまびきながらのひとり語りという形で始めた超短編『待つ』で、これはもう文庫本にしてたかだか3ページちょいという短さの、女性一人称のモノローグなのですが、まぁ~「うまい」の、なんのって。
 ここで私が言う意味の「うまい」っていうのはね、鈴木さんの演技がテクニック的に「上手い」とかいう、ありきたりな用法じゃあないんですよ。「美味い」んですよ! それこそ、『待つ』が演じられている空間と時間、その全体になんともいえない豊潤な味わいが生まれていたのです。うまい、おいしい! 演劇がおいしい!! 何ソレ!?

 原作『待つ』はもう、ピンセットで5ミリくらいの色紙をひとつひとつ並べて一枚の絵画を作るってくらいの繊細なタッチで、一文字一文字の読者に想像させる風景、温度、においまでをも計算しつくして、さらには「、」や「。」の配置にまでその血液をゆきわたらせた恐るべき美文なのですが、鈴木さんはまさしく「繊細さをもって繊細さにあたる」といったまごころで、『待つ』を演じていました。
 そこに流れる、一言一言をいつくしんで発声するいとなみ。ステキですねぇ~。いやいや、ただ単にていねいに言えばいいってもんじゃあないんです。その文章を語る女性が、いったい何を伝えたくてそれを口にするのか。それが正解かどうかなんてこたぁどうでもいいんですが、とにかく鈴木さんの語り口には、主張したいことと秘密にしておきたいこと、楽しいこととつらいこと、真実とうそとがものすごく自然に同居しているんですね。そして何よりも、『待つ』の言葉を発するこの時間を、一生一期一会のひとときとして大切に扱っている姿勢が伝わってくるのです。

 これはもう、キャッチコピーの塊みたいな超短編だからこそできうるぜいたくな魂のこめ方であって、「最高にきざな太宰」という一面を極端に強調した『待つ』を、非常に簡素かつ地道な一本気さで舞台化したからこそたどり着いた、「逆道を使ってこその到達」だと感じ入りました。大感動、でしたねぇ。女性一人称だからといって、女性の演技をする必要なんてないんですよね。太宰治だって、女性のふりして文章を作るなんていう小細工は弄してないんですから。読めばわかるんですが、『待つ』が扱っているのは男女共通の「ふれあい」のお話なんですよね。女性でなくてもいいところをあえて女性でいく。それがおさむちゃん!

 さて、そんな鈴木さんのひとり芝居にたいしての、関さんのひとり芝居、そして鈴木さんをまじえてのコラボレーションパート『チャンス』なんですが……

 「ずっこい」。ただ、その一言に尽きますな。ずっこいですよ~!!

 ただ、その「ずっこい」が、太宰治の作品世界を語る上で欠くべからざる1エレメントであることは言うまでもないわけでして、そういう必要性をちゃんとひっさげて「ずっこく演じる」関さんの、その論理的な鉄板っぷりがまた「ずっこい」んだよなぁ~!! ただ、消費するエネルギーを節約したり、お客さんの笑い声がほしくてずっこくやってるのとはまるでレベルが違うわけです。太宰治作品だからこその、ずっこさ。

 もちろん、これは非常に真剣に張りつめた空気の中で『待つ』が演じられた時間があってこそ、その後にやることが許された緊張の緩和なのでもありまして、そういう意味でも、心憎いほどに配慮し尽くされた連作『太宰治ですみません(仮)』は、さすがはプロの演出家が直接俳優も兼任したスペシャル企画!という独特な味が楽しめるぜいたくな1時間でした。
 作品のクライマックスで、胸を張りながら堂々と「すみません!!」と絶叫する、その矛盾。それこそが、太宰治の文学の魔力でもあるわけなのですな。ときに美しく、ときに愚かしく、ときにひたむきに、ときにテキトーに。その、正体のつかめない万華鏡のきらめきのひとつひとつ、その全てが、太宰治の永遠の命をやどした正体なのです。イエーイ、言ってるおれも、わっけわっから~ん☆


 お話変わりましてその後は、今回の百景社アトリエ祭、正真正銘のラストを飾るひとり芝居『女生徒』でした。

 こちらはねぇ……観ながらいろいろと思考が駆け巡った、という意味では刺激的だったのですが、「おもしろかったか?」と問われるとなかなか難しい作品だな、と感じました。
 少なくとも今回、このバージョンの『女生徒』と観客の私の感覚は「合わなかった」、ですね。他のお客さんがどうかはもちろんわかりませんが、私個人は「どうもしっくりこないなぁ……」と感じる部分が少なからずありました。

 もうさぁ、百景社のみなさんには劇団時代にいただいた恩も思い出も山ほどありますし、今回もまた、ワゴンで駅からアトリエまで送迎していただいたし(他のお客さんも)、さらにはアトリエ祭最終日ということで行われた打ち上げにもバカ面さげて参加させていただいちゃいました、私!
 そんなこんなのもてなしを受けておいてこう言うのも非常に心苦しい話なのですが、やはりいち客としての感想は、ここには本音で記録しておきたいと思うんです。個人ブログでお世辞を言ったってしょうがないし、私という人間がたかだか数時間のうちに受けた印象の報告が、ある演劇作品の全体像を公平に俯瞰した評論になるわけがないですからね! 要するに、わっちの言うことなんか真に受けなさんな!ってことなんですよ。え?「じゃあ言うな。」って? そこは言わせてちょーだいませ~。いろいろ苦労してやっと観られた作品なんですからね。

 まず、原作の『女生徒』が太宰治の100% 創作でない、という部分をだいぶ強調した「前説」が序盤でとうとうと語られている意図がよくわからなかったですね。この語りは、『女生徒』を上演するにあたってのイントロダクションとして百景社さんが創作したセリフであるらしいのですが、一般的にもよく知られているこの情報を、あらためてクローズアップする意味とは、いったい……それで『女生徒』の母体となった日記を実際に執筆した「女生徒」と、小説家の太宰治とを対立化させるとかいうメタ構造なのかと言えばそうでもなく、前説のあとは特にどうこういうアレンジもなく、太宰の発表作品としての『女生徒』が上演されていくのです。
 じゃあ、なんで最初にあんなこと言ってたんだろ? そもそも、太宰の筆にとらわれないフリーダムな娘ッコの躍動をおさめた作品だったのならば、なんでまたそれを「太宰治作品集」のレパートリーの、しかもどラストにもってきたのでしょうか。
 とにかく『女生徒』という作品は、数ある太宰作品の中でもひときわ「扱いが難しい」一作なのだなぁ、ということは、この舞台を観ながら再認識しました。いっそのこと、「作者が太宰治」なんていう情報にはいっさい触れないでやったほうが、文章の自由度をよっぽどうまく舞台化させることができるんじゃないかなぁ。
 だから、主人公の父親の遺影をあらわす小道具に、太宰治その人の写真なんてものを利用するのは、かなりの野暮だと感じたんですよね。顔の部分が消えてのっぺらぼうになっているという加工も、それはそれでいかにも少女趣味っぽい甘ったるさに満ちてはいるのですが、上演作品がまったくフォローしていない「小説家の太宰治方面」によけいな伏線を張っているような気がして、ものすごくうざったく見えました。

 あと、これはおそらく百景社版の『女生徒』が、いろんな要素で筒井康隆の不朽の SFジュブナイル『時をかける少女』……というか、その映画化作品(特に1983年版と2006年版)を強く意識した演出になっていたからだと思うのですが、原作がせっかく「1938年5月1日」というたった一日の中での出来事と限定しているのに、この舞台化作品はあまりにも軽々と「1938、39、40……」というように「時をかけすぎている」ような気がしたんですね。その演出意図はわかるような気もするのですが、他ならぬ前説で語られているように、太宰は原型となった女生徒の日記の、複数の日数にわたる出来事を、小説家としての判断で「あえて」一日に収束させているのですから、そのルールはやっぱり守るのが筋なんじゃなかろうか、と私は感じてしまいました。
 『女生徒』と『時をかける少女』、どちらも「少女の冒険」を描いているという共通項は、確かにある。でも、だからといって『女生徒』に時をかけさせたら、そりゃあもう『女生徒』じゃなくてもいいんでないかい?って話になっちまうワケよ! 『女生徒』の自由奔放な世界は、あくまでも「それなりの不自由」にまみれているからこそ輝きだす、「圧迫があるからこそ勢いよくガスが抜ける」力学にもとづくべきなのです! そうじゃなきゃ、あんな甘ちゃんもいいとこな少女の独り言なんか聴いてられませんよね。

 百景社版の『女生徒』は上演時間75分とアナウンスされていましたが、女優のひとり芝居として、最初っから最後まで主演の山本晃子さんがず~っとハイテンションの全力勝負だったのも、75分でさえ「長い」と感じてしまう部分がありました。
 これは女優さんの力量うんぬんという問題でなく、単純にお客さん、というか私の集中力がもたなかったんですよね。それはやっぱり「押して、押して」の連続で、力を抜ける「引いて」がなかった、もしくは「引いて」が用意されていたとしても「引いているように見えなかった」ということが大きかったのではなかろうかと。いくら女優さんの躍動に魅力があったのだとしても、これじゃあついていけなくなっちゃう。1時間以上あるんだもの!

 さらにいえば、それが演出意図なのだとしても、クライマックスで「音響効果が大きくなっていって聞こえなくなる女優のセリフ」という流れは絶対に入れるべきではない、と感じました。時代の波濤にかき消されていく少女の日常、という意味合いがあったのだとしても、それは単純に原作『女生徒』の文章と、女優さんのそれまでに築き上げた1時間の努力を踏み潰す行為に見えたんですね、私には。
 そして、その大音響の後、完全な沈黙の中で、女優さんの肉体をまったく通さずに「舞台奥の壁に映し出される字幕」という形で処理される原作『女生徒』の最後の一節。これも、騒音と沈黙の対比としてはいいんでしょうけど、やっぱり「女優が語ってない」という点で、舞台化できませんでしたというコメントを読んだような気になりました。ここが「あえて舞台化しなかったゼ!」というはったりに見えたらよかったんですけど、どうもそうは見えない「弱気」を感じちゃったんだよなぁ。

 とまぁいろいろ言っちゃいましたけどね、私はこの百景社版『女生徒』には、『太宰治ですみません(仮)』でイヤというほどに炸裂していた「ずっこい」計算高さが完全に抜け落ちていたという気がするんですね。とにかく全力勝負!という感じで、それが75分えんえんと続いたものを見せられても……少なくとも、あの太宰治をテーマにした演劇祭のトリにはふさわしくないような。


 今回も字数がかさんできたので強引にシメてしまいますが、太宰治にかぎらず、さらには演劇にかぎらず、なにごとも「押し」と「引き」、「誠実さ」と「ずっこさ」を両立させてこその人生なのだな、としみじみ感じた、今回の土浦行だったのでありました~。

 ひとり芝居は難しいね、ホント。なるべく近いうちに、百景社さんのフルキャストの舞台も観たいな~。楽しみにしてます!
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