ばったばた~の~ばったばた! みなさまどうもこんばんは、そうだいでございます。いや~……ねぇ! 今日も一日、たいへんお疲れさまでした。
千葉は昨日に引き続きまして! おとといのドカ雪災害の爪あとを色濃く残しております。そりゃ、私自身は深夜にガチンコ雪中行軍を決行して全身になんとも言いようのない疲労と、全く意味のない「なんかやったった感」をおぼえた、というくらいしか被害を受けていないくらいなんで「災害」と言うのはちと大げさであるわけなんですが……家のドアを開けたら、依然としてそこは雪国なんですからねぇ。2月の千葉県なのに、ですよ!? いやはや、今年2014年の天候も、しょっぱなからすんなりといってくれそうにはありませんなぁ。1月は比較的おだやかだったのにね~。
まったく昨日なんか、よりにもよって県外まで遠出する大事な用事があった、その直前に大雪で交通機関大パニックなんですからね! おとといから昨日にかけての真夜中、孤独にザクザク足音だけをたてながら一面まっ白な世界を歩ききった絶望感と、「そういう運命なのね、今年も! ハイハイわかりましたよ~だ、バ~カ!!」という、天に対する半ギレモードは忘れがたい思い出となりました。ホントに毎年、毎年……雪、だ~いっキラ~い☆
さて、そんなこんなを言いつつも、なんとか昨日の土浦に行ってのお芝居鑑賞は、多少とはちょっと言えないレベルのけっこうな電車遅延をはさみつつも、無事に終わりました。帰り道は知り合いの方といっしょだったのでずっと起きていたのですが、家に帰ったらひたすら泥のような眠りが待っていましたよ! そりゃそうだ~。
夜が明けた本日はいつもどおりの出勤と。相変わらずの雪景色なんですが、電車はもう予定通りに運行するようになりました。よかったよかった。
そして! なんと私は、昨日に続いて今日もお芝居鑑賞の予定を入れていたのであった……なんなんでしょ、この途切れないバッタバタ感。なにを生き急いでいるというのだ、おれ!?
劇団わらく 第7回公演『壁あまた、砂男』(作・佃典彦、演出・勝俣美秋 千葉もりんぴあこうづモリ×モリホール)
夕方5時に早めに職場をドロンした(死語)私は、京成線に乗り継いで成田方面に向かい、成田の1駅手前の「公津の杜(こうづのもり)駅」を降りました。成田市で昭和末期から建設が開始されたというニュータウン「公津の杜」ということで、駅舎からして非常におしゃれでモダンな場所だったのですが、私が着いたときにはすでに日も落ちて帰る人の数もまばら。まさに「冬だ!」としか言いようのない寒気がただようなか、千葉に住んで15年になろうかというのに初めて踏み込むことになった公津の杜を訪れた私は、観光気分なんかあるはずもなく、公演の会場へと急ぐこととなりました。明るいうちに来れば、また街の素敵な外観もわかったんでしょうが……まっくらでなんにもわかりゃしねぇ! だいたい、成田なんて空港にしか行く用事がなかったからなぁ。新勝寺? 行かないよねぇ~。初詣はもっぱら西千葉稲荷神社(無人&こわい)にしてるから。
私は、この劇団わらくさんの公演はこれまでまるで拝見したこともなかったのですが、知り合いの俳優の永栄正顕さんが出演しているということで、永栄さんのお誘いもあって初めて観劇することとなりました。
今回の『壁あまた、砂男』は、直前の1~2月に東京の小劇場「SPACE 雑遊」(新宿 キャパシティ約100名)で上演されたものを、公津の杜のコミュニティセンター(公民館、図書館などの複合施設)「もりんぴあ」内にある「モリ×モリホール」(キャパシティ約200名)で上演するという2都市公演になっているそうです。
正直言いまして、私も当初は「え~、東京と千葉で2都市公演って、なんでそんなに近いところで展開するのかなぁ……もっと、東京と名古屋とかさぁ!」と勝手なことを考えていたのですが、実際にこの足で公津の杜におもむいてみて、その考えを大いに改めました。公津の杜は、充分すぎるほどに遠い! 「千葉だから近い」なんていう幻想はいっさい通用しない!! 使い慣れた京成線の沿線だからといって完全にナメておりました……確かに、私の家(千葉市)から行くとなると、新宿と成田って、ちょっとだけ成田のほうが安いってだけで、電車賃はほとんど変わんないんですよね。関東は広いんだなぁ~、今さら実感。
わらくさんの今回の2都市公演は、東京と千葉とで1週間のインターバルをおいているそうなのですが、劇場の性質もキャパシティもまるで違うようですしねぇ。時間に余裕さえあったら、新宿の公演も観たほうがよかったのかも。演出によっちゃあ、公津の杜とはまた別物の作品になっていたかも知れませんしね。あとほら、大東京の新宿とかにお芝居を観に来るお客さんって、やっぱり客席に座ってるだけで、そこにただよう雰囲気が地方とまるで違うじゃないですか。笑いのツボとかもだいぶ違っただろうし……そこらへんの話、役者さんに聞いてみたらおもしろいでしょうね。
私自身は、たどり着いたその時に会場がコミュニティセンターのホールであるということを知ったのですが、こういう場所の多目的ホールってさぁ……なんか空気がカタいんですよねぇ。完全に背筋をただして最後まで鑑賞しろ!って感じでねぇ。「キャパ200名」っていうと都内の小劇場よりもよっぽど広くて快適そうに聞こえるんですが、この種類のホールにしては体感する広さがちっこいんですよね! それはもう、「木材を多用したのはいいものの、木の温かみがじぇんじぇん出てこない」空間全体の冷たさがわざわいしているとしか言いようがありません。
そうそう、都内のいい劇場って、劇場自体の雰囲気が上演されている作品に干渉するってことは、まずないですよね。「劇場が作品の邪魔をする」ってことはあってはいけないわけです。逆に、作品が本来劇場でない場所の異質感を利用しようとするってことはよくあるわけですけど。野外公演とか美術館内での公演とか。
でもさぁ、この公共ホールのあつかましさといったら……まぁ、単純に「白木」とか「明るい色の壁面」を使ってるのがよくないんですかね!? その「みなさんに開かれた場所です感」が邪魔なのなんのって、作品に集中できないんですよね、空間のだだっ広さだけがしじゅうアピールされちゃってて! ニコニコ動画の画面の上の宣伝文句だってあんなに気になることはないよ!?
そういう意味で、会場に入って、これまた「木で作ってますよ~」なアピールがうるさい座席(木だからかたい)に腰かけた時点から、私は勝手に「あ~、これはお芝居にとってはかなりアウェーだぞ……」という思いをいだいていたのですが、それはもののみごとに的中していたような気がするなぁ~、うん。
あらすじ(公演チラシより)
砂漠の都市を彷徨う男がいる。地図を作る男ヒュルリだ。ヒュルリは、「この世界に引かれた線は、まやかしだ。」という信念の元に地図を完成させようとしている。
砂漠の都市には壁がある。都市に境界を作っているのは、この壁だ。壁の向こうには人々が住んでいる。新たに壁を作ろうとする人間もいる。
境界と壁と地図……砂が続くこの都市で、癒されないお伽話が始まろうとしている。
名古屋を拠点として活動する老舗劇団(1985年創立)である「劇団B級遊撃隊」(旧名・劇団B級爆弾)の主宰・佃(つくだ)典彦が、今回のわらく公演のために書き下ろした新作で、大きな砂漠地帯に独立した町が点在しているという設定の、架空の世界が舞台となっている物語です。現代日本とはまったく違う地勢であるわけですが、移動&居住にガソリン式自動車が使われていたり日本のアイドルネタが使われたりと、ゆる~く日本から離れ、ゆる~くアラビア半島っぽい情勢になっているようですね。
あらすじにある通り、物語は砂漠の中にある都市に「ほんとうの地図を作る」ことを生きがいとする男ヒュルリ(演・永栄正顕)がやって来ることから転がりだしていくわけなのですが、主人公はむしろ、そのヒュルリをつけねらう男ビュビュー(演・高須誠)と、彼とふれあうことで「ほんとうの世界は、実は自分が今まで教えられてきたものと違うらしい。」ということに気づかされる、町の3人兄妹のあたりになっており、ヒュルリはどちらかというと物語の導火線的な思想家の意味合いが強いですね。
さすがは佃作品というべきか、作品で展開される会話のノリは、非常に日常的で軽いものです。その中にはもちろん、ふんだんに笑いもまぶされているわけなのですが……
おわ~、重い! これは、会場が堅苦しいことからくる重さじゃないぞ、演出による意図的な重さなのだ。重い&重い!!
まず目に入ってくるのは、出演者全員の衣装が男女の差なく「上下灰色の無味乾燥なパーカー&トレパン」で統一されている重さです。そして、物語は閉塞した砂漠世界を統一しようとする正体不明の存在「砂男」が到来することを漠然と待ち続けている「嵐の前の平和さ」から、一転して統一戦争のために町の若者が次々と徴兵されていくという嵐のまっただなかへ。まさにファシズムの寓話なわけで……それを2014年の日本で上演するわけなんですから、もはや台本の時点から重苦しいことが確約されていたわけなのです! クライマックスで俳優が着る軍服なんか、架空世界の設定なのに、なんの加工もされていない日本の旧帝国陸軍のカーキ色のものなんだもんね。おとぎ話だというのに、意図するところは明確ですよ。
重い、重い! 砂漠は砂漠でも、水気をたっぷり含んだ曇天の鳥取砂丘みたいに重っ苦しいわけ!! まんま安部公房の『砂の女』じゃねぇかァア。『砂の女』は男女が閉塞された空間に同居するお話でしたが、こちらは町ひとつぶんがまるごと閉塞されていて、それをさらに大きな戦争という存在が踏み潰そうとする重圧までのしかかってくる、徹底して行き場のない物語であるわけなのです。
新宿公演がどうだったのかはわからないのですが、公津の杜公演では公共性の高い多目的ホールであるためか、さすがに物語になくてはならない象徴的存在となっている「砂」の本物は投入されず、数え切れないほどに舞台に散らばった、何百枚といううす汚れた軍手という小道具に代替されていました。砂そのものは使用されていなかったわけなのですが、開演前に受付でマスクを手渡されたことからも、軍手があえて砂っ気を含んだくたびれたものになっていたことがわかります。実際に、お話が進んで役者が動かしていくたびに、まるで本物の砂漠の砂紋(さもん)のように様相を変えていく軍手の波は、ほんとはそんなに大したことはなかったのだとしても、会場じゅうに見えない砂の風を巻き起こしていたようで、体感として台風前の曇り空のように空気を重くしていく効果があったと思います。
それであの、救いのない、でも「生き残ったものに強い意志があるのならば、救いがなくもない。」っていう相当に突き放した結末でしょ……わらくさんもよく上演したなと思うけど、佃さんもよくこんな作品をよその劇団にプレゼントしたもんですよ。ガチンコのストレート剛速球じゃん、これ!?
登場人物たちの会話に笑いはあります。あるんですが……笑えないんだよなぁ、どうにも。それは脚本のクオリティが低いとかいう話なんでは決してなくて、完全に日本の現状に投げかけた皮肉なんでしょう。そりゃあ世間はおおむね平和だし、TV をつければいつもと変わりのない軽い笑いに満ちた番組がどこかで必ず放送されているわけなんですが、今現在の日本は「明日も笑える平和」に向かって進み続けているといえるんですか? という問題提起ですよね。
いや、それはよくわかるんですが、作品としてはよくできた傑作なのだとしても、果たして演劇作品としておもしろいものなのかというと……しかも、東京じゃなくて千葉公演ですからね。千葉といっても成田公演ですからね! はっきり言ってしまいますと、おとといの大雪も影響してか客席も決して満席ではなく、まるで作品に飲まれたような感じで、上演中はお客さん全体に「う~ん、そのセリフに笑いたいんだけど笑えない……」というフラストレーションがしんしんと降り積もっていくようなヘンな一体感はありました。これ、東京だったらもっとあったかいお客さんになってたのかなぁ!? どうかな……これだけ確信犯的に重苦しい作品ですからね。
客席には小・中学生くらいの子どもさんを連れた家族もいらっしゃってたんですが、正直、終演後の反応は「ポカーン……」でしたもんね。いや、作品もお客さんも、どっちも悪くはないんでしょうけど! 演劇ならではのプチ悲劇ですよ。
役者さんはみなさん達者な方ばかりだなぁ、という印象だったのですが、やはり町の3人兄妹の末っ子を演じた大迫綾乃さんの、まっすぐなまなざしの通りにまっすぐな澄んだ声が特に心に残りました。彼女も死にはしない! 死にはしないんだけど……なんとも過酷なクライマックスですよねぇ。あれ、まんま日本の怨霊伝承の「七人みさき」じゃないの!? いや、作者さんの意図がもっと、岡本喜八監督っぽい好意的なものであろうことはわかるんですが……キツいんだよなぁ!
今回のわらくさんの公演は、私もこの公演しか拝見したことがないのでデカい口はたたけないのですが、どうにもこうにも佃さんの書き下ろし作品に遠慮しすぎて「喰われてしまった」んじゃなかろうか、という感想を持ちました。いや~、えらいもんを観てしまった。わらくさんは何を隠そう、この千葉県成田市をホームとして活動している劇団なのだそうですが、劇場も脚本もお客さんの反応も、何から何までアウェーな公津の杜公演をよくぞ企画した、と喝采は送りたいですね。ホームなのに全然ホームじゃない……そんな冷たい空気を作る一端を担ってしまった者として、私はわらくの皆さんに声を大にして、
「いや、おもしろかったですよ!? まぁ、あれですよ……自信なくさないで次回からもがんばってくださいね!」
という、まことに余計なお世話なメッセージを送らせていただきたいと思います。脚本のおもしろさと、それが立体化されたときの演劇のおもしろさって、まるで別次元の話なんですよね。今さらながら、そんなことを再認識した観劇になりました。
あと! 最後に、この公津の杜公演を観た者である以上、これだけにはなんとしても触れないわけにはいかない。
上演開始から終演まで、私(と、おそらくは会場にいたお客さん全員)が「ん? あれ? あれ……?」と感じざるをえなかった、舞台上で発生していた「ある異常事態」。
……な、なぜ、あの女性役の俳優さんは「化粧も何もしていないまごうことなき男性」で、しかもしじゅう、「右手にしっかりと持った台本」を読みながら、隠しようもない棒読みでセリフを発しているのであろうか……まさか、し、し、しろうと?
なに、あの人、お客さんが3~4千円払ってこのお芝居を観てることを知らないの? 馬鹿なの? 死ぬの?
終演後に出演していた永栄さんに聞いたところ、どうやら新宿公演でその役をやっていた客演のベテラン女優さんが、数日前に救急車を呼ぶレベルの体調不良を起こして緊急降板してしまい、仕方なく「舞台監督さん」がその役を埋めるという非常手段をとらざるを得なかったのですとか。
……お芝居って、大変なんですね……ていうか、これほど多方面から「さんっざん!!」な目に遭っている公演も珍しいと思いました、はい……それにしたって、舞台監督しかいなかったのかよ……
何事も、明日は我が身。そういう四面楚歌に陥らないように、私も明日から、ちびりちびりと善行を重ねていきたいと思います。
ま、善行を重ねたって、ひどい目に遭うときゃがっつり遭うんですけどね☆ 神も仏もありゃしねぇけど、がんばってこ~っと♪
千葉は昨日に引き続きまして! おとといのドカ雪災害の爪あとを色濃く残しております。そりゃ、私自身は深夜にガチンコ雪中行軍を決行して全身になんとも言いようのない疲労と、全く意味のない「なんかやったった感」をおぼえた、というくらいしか被害を受けていないくらいなんで「災害」と言うのはちと大げさであるわけなんですが……家のドアを開けたら、依然としてそこは雪国なんですからねぇ。2月の千葉県なのに、ですよ!? いやはや、今年2014年の天候も、しょっぱなからすんなりといってくれそうにはありませんなぁ。1月は比較的おだやかだったのにね~。
まったく昨日なんか、よりにもよって県外まで遠出する大事な用事があった、その直前に大雪で交通機関大パニックなんですからね! おとといから昨日にかけての真夜中、孤独にザクザク足音だけをたてながら一面まっ白な世界を歩ききった絶望感と、「そういう運命なのね、今年も! ハイハイわかりましたよ~だ、バ~カ!!」という、天に対する半ギレモードは忘れがたい思い出となりました。ホントに毎年、毎年……雪、だ~いっキラ~い☆
さて、そんなこんなを言いつつも、なんとか昨日の土浦に行ってのお芝居鑑賞は、多少とはちょっと言えないレベルのけっこうな電車遅延をはさみつつも、無事に終わりました。帰り道は知り合いの方といっしょだったのでずっと起きていたのですが、家に帰ったらひたすら泥のような眠りが待っていましたよ! そりゃそうだ~。
夜が明けた本日はいつもどおりの出勤と。相変わらずの雪景色なんですが、電車はもう予定通りに運行するようになりました。よかったよかった。
そして! なんと私は、昨日に続いて今日もお芝居鑑賞の予定を入れていたのであった……なんなんでしょ、この途切れないバッタバタ感。なにを生き急いでいるというのだ、おれ!?
劇団わらく 第7回公演『壁あまた、砂男』(作・佃典彦、演出・勝俣美秋 千葉もりんぴあこうづモリ×モリホール)
夕方5時に早めに職場をドロンした(死語)私は、京成線に乗り継いで成田方面に向かい、成田の1駅手前の「公津の杜(こうづのもり)駅」を降りました。成田市で昭和末期から建設が開始されたというニュータウン「公津の杜」ということで、駅舎からして非常におしゃれでモダンな場所だったのですが、私が着いたときにはすでに日も落ちて帰る人の数もまばら。まさに「冬だ!」としか言いようのない寒気がただようなか、千葉に住んで15年になろうかというのに初めて踏み込むことになった公津の杜を訪れた私は、観光気分なんかあるはずもなく、公演の会場へと急ぐこととなりました。明るいうちに来れば、また街の素敵な外観もわかったんでしょうが……まっくらでなんにもわかりゃしねぇ! だいたい、成田なんて空港にしか行く用事がなかったからなぁ。新勝寺? 行かないよねぇ~。初詣はもっぱら西千葉稲荷神社(無人&こわい)にしてるから。
私は、この劇団わらくさんの公演はこれまでまるで拝見したこともなかったのですが、知り合いの俳優の永栄正顕さんが出演しているということで、永栄さんのお誘いもあって初めて観劇することとなりました。
今回の『壁あまた、砂男』は、直前の1~2月に東京の小劇場「SPACE 雑遊」(新宿 キャパシティ約100名)で上演されたものを、公津の杜のコミュニティセンター(公民館、図書館などの複合施設)「もりんぴあ」内にある「モリ×モリホール」(キャパシティ約200名)で上演するという2都市公演になっているそうです。
正直言いまして、私も当初は「え~、東京と千葉で2都市公演って、なんでそんなに近いところで展開するのかなぁ……もっと、東京と名古屋とかさぁ!」と勝手なことを考えていたのですが、実際にこの足で公津の杜におもむいてみて、その考えを大いに改めました。公津の杜は、充分すぎるほどに遠い! 「千葉だから近い」なんていう幻想はいっさい通用しない!! 使い慣れた京成線の沿線だからといって完全にナメておりました……確かに、私の家(千葉市)から行くとなると、新宿と成田って、ちょっとだけ成田のほうが安いってだけで、電車賃はほとんど変わんないんですよね。関東は広いんだなぁ~、今さら実感。
わらくさんの今回の2都市公演は、東京と千葉とで1週間のインターバルをおいているそうなのですが、劇場の性質もキャパシティもまるで違うようですしねぇ。時間に余裕さえあったら、新宿の公演も観たほうがよかったのかも。演出によっちゃあ、公津の杜とはまた別物の作品になっていたかも知れませんしね。あとほら、大東京の新宿とかにお芝居を観に来るお客さんって、やっぱり客席に座ってるだけで、そこにただよう雰囲気が地方とまるで違うじゃないですか。笑いのツボとかもだいぶ違っただろうし……そこらへんの話、役者さんに聞いてみたらおもしろいでしょうね。
私自身は、たどり着いたその時に会場がコミュニティセンターのホールであるということを知ったのですが、こういう場所の多目的ホールってさぁ……なんか空気がカタいんですよねぇ。完全に背筋をただして最後まで鑑賞しろ!って感じでねぇ。「キャパ200名」っていうと都内の小劇場よりもよっぽど広くて快適そうに聞こえるんですが、この種類のホールにしては体感する広さがちっこいんですよね! それはもう、「木材を多用したのはいいものの、木の温かみがじぇんじぇん出てこない」空間全体の冷たさがわざわいしているとしか言いようがありません。
そうそう、都内のいい劇場って、劇場自体の雰囲気が上演されている作品に干渉するってことは、まずないですよね。「劇場が作品の邪魔をする」ってことはあってはいけないわけです。逆に、作品が本来劇場でない場所の異質感を利用しようとするってことはよくあるわけですけど。野外公演とか美術館内での公演とか。
でもさぁ、この公共ホールのあつかましさといったら……まぁ、単純に「白木」とか「明るい色の壁面」を使ってるのがよくないんですかね!? その「みなさんに開かれた場所です感」が邪魔なのなんのって、作品に集中できないんですよね、空間のだだっ広さだけがしじゅうアピールされちゃってて! ニコニコ動画の画面の上の宣伝文句だってあんなに気になることはないよ!?
そういう意味で、会場に入って、これまた「木で作ってますよ~」なアピールがうるさい座席(木だからかたい)に腰かけた時点から、私は勝手に「あ~、これはお芝居にとってはかなりアウェーだぞ……」という思いをいだいていたのですが、それはもののみごとに的中していたような気がするなぁ~、うん。
あらすじ(公演チラシより)
砂漠の都市を彷徨う男がいる。地図を作る男ヒュルリだ。ヒュルリは、「この世界に引かれた線は、まやかしだ。」という信念の元に地図を完成させようとしている。
砂漠の都市には壁がある。都市に境界を作っているのは、この壁だ。壁の向こうには人々が住んでいる。新たに壁を作ろうとする人間もいる。
境界と壁と地図……砂が続くこの都市で、癒されないお伽話が始まろうとしている。
名古屋を拠点として活動する老舗劇団(1985年創立)である「劇団B級遊撃隊」(旧名・劇団B級爆弾)の主宰・佃(つくだ)典彦が、今回のわらく公演のために書き下ろした新作で、大きな砂漠地帯に独立した町が点在しているという設定の、架空の世界が舞台となっている物語です。現代日本とはまったく違う地勢であるわけですが、移動&居住にガソリン式自動車が使われていたり日本のアイドルネタが使われたりと、ゆる~く日本から離れ、ゆる~くアラビア半島っぽい情勢になっているようですね。
あらすじにある通り、物語は砂漠の中にある都市に「ほんとうの地図を作る」ことを生きがいとする男ヒュルリ(演・永栄正顕)がやって来ることから転がりだしていくわけなのですが、主人公はむしろ、そのヒュルリをつけねらう男ビュビュー(演・高須誠)と、彼とふれあうことで「ほんとうの世界は、実は自分が今まで教えられてきたものと違うらしい。」ということに気づかされる、町の3人兄妹のあたりになっており、ヒュルリはどちらかというと物語の導火線的な思想家の意味合いが強いですね。
さすがは佃作品というべきか、作品で展開される会話のノリは、非常に日常的で軽いものです。その中にはもちろん、ふんだんに笑いもまぶされているわけなのですが……
おわ~、重い! これは、会場が堅苦しいことからくる重さじゃないぞ、演出による意図的な重さなのだ。重い&重い!!
まず目に入ってくるのは、出演者全員の衣装が男女の差なく「上下灰色の無味乾燥なパーカー&トレパン」で統一されている重さです。そして、物語は閉塞した砂漠世界を統一しようとする正体不明の存在「砂男」が到来することを漠然と待ち続けている「嵐の前の平和さ」から、一転して統一戦争のために町の若者が次々と徴兵されていくという嵐のまっただなかへ。まさにファシズムの寓話なわけで……それを2014年の日本で上演するわけなんですから、もはや台本の時点から重苦しいことが確約されていたわけなのです! クライマックスで俳優が着る軍服なんか、架空世界の設定なのに、なんの加工もされていない日本の旧帝国陸軍のカーキ色のものなんだもんね。おとぎ話だというのに、意図するところは明確ですよ。
重い、重い! 砂漠は砂漠でも、水気をたっぷり含んだ曇天の鳥取砂丘みたいに重っ苦しいわけ!! まんま安部公房の『砂の女』じゃねぇかァア。『砂の女』は男女が閉塞された空間に同居するお話でしたが、こちらは町ひとつぶんがまるごと閉塞されていて、それをさらに大きな戦争という存在が踏み潰そうとする重圧までのしかかってくる、徹底して行き場のない物語であるわけなのです。
新宿公演がどうだったのかはわからないのですが、公津の杜公演では公共性の高い多目的ホールであるためか、さすがに物語になくてはならない象徴的存在となっている「砂」の本物は投入されず、数え切れないほどに舞台に散らばった、何百枚といううす汚れた軍手という小道具に代替されていました。砂そのものは使用されていなかったわけなのですが、開演前に受付でマスクを手渡されたことからも、軍手があえて砂っ気を含んだくたびれたものになっていたことがわかります。実際に、お話が進んで役者が動かしていくたびに、まるで本物の砂漠の砂紋(さもん)のように様相を変えていく軍手の波は、ほんとはそんなに大したことはなかったのだとしても、会場じゅうに見えない砂の風を巻き起こしていたようで、体感として台風前の曇り空のように空気を重くしていく効果があったと思います。
それであの、救いのない、でも「生き残ったものに強い意志があるのならば、救いがなくもない。」っていう相当に突き放した結末でしょ……わらくさんもよく上演したなと思うけど、佃さんもよくこんな作品をよその劇団にプレゼントしたもんですよ。ガチンコのストレート剛速球じゃん、これ!?
登場人物たちの会話に笑いはあります。あるんですが……笑えないんだよなぁ、どうにも。それは脚本のクオリティが低いとかいう話なんでは決してなくて、完全に日本の現状に投げかけた皮肉なんでしょう。そりゃあ世間はおおむね平和だし、TV をつければいつもと変わりのない軽い笑いに満ちた番組がどこかで必ず放送されているわけなんですが、今現在の日本は「明日も笑える平和」に向かって進み続けているといえるんですか? という問題提起ですよね。
いや、それはよくわかるんですが、作品としてはよくできた傑作なのだとしても、果たして演劇作品としておもしろいものなのかというと……しかも、東京じゃなくて千葉公演ですからね。千葉といっても成田公演ですからね! はっきり言ってしまいますと、おとといの大雪も影響してか客席も決して満席ではなく、まるで作品に飲まれたような感じで、上演中はお客さん全体に「う~ん、そのセリフに笑いたいんだけど笑えない……」というフラストレーションがしんしんと降り積もっていくようなヘンな一体感はありました。これ、東京だったらもっとあったかいお客さんになってたのかなぁ!? どうかな……これだけ確信犯的に重苦しい作品ですからね。
客席には小・中学生くらいの子どもさんを連れた家族もいらっしゃってたんですが、正直、終演後の反応は「ポカーン……」でしたもんね。いや、作品もお客さんも、どっちも悪くはないんでしょうけど! 演劇ならではのプチ悲劇ですよ。
役者さんはみなさん達者な方ばかりだなぁ、という印象だったのですが、やはり町の3人兄妹の末っ子を演じた大迫綾乃さんの、まっすぐなまなざしの通りにまっすぐな澄んだ声が特に心に残りました。彼女も死にはしない! 死にはしないんだけど……なんとも過酷なクライマックスですよねぇ。あれ、まんま日本の怨霊伝承の「七人みさき」じゃないの!? いや、作者さんの意図がもっと、岡本喜八監督っぽい好意的なものであろうことはわかるんですが……キツいんだよなぁ!
今回のわらくさんの公演は、私もこの公演しか拝見したことがないのでデカい口はたたけないのですが、どうにもこうにも佃さんの書き下ろし作品に遠慮しすぎて「喰われてしまった」んじゃなかろうか、という感想を持ちました。いや~、えらいもんを観てしまった。わらくさんは何を隠そう、この千葉県成田市をホームとして活動している劇団なのだそうですが、劇場も脚本もお客さんの反応も、何から何までアウェーな公津の杜公演をよくぞ企画した、と喝采は送りたいですね。ホームなのに全然ホームじゃない……そんな冷たい空気を作る一端を担ってしまった者として、私はわらくの皆さんに声を大にして、
「いや、おもしろかったですよ!? まぁ、あれですよ……自信なくさないで次回からもがんばってくださいね!」
という、まことに余計なお世話なメッセージを送らせていただきたいと思います。脚本のおもしろさと、それが立体化されたときの演劇のおもしろさって、まるで別次元の話なんですよね。今さらながら、そんなことを再認識した観劇になりました。
あと! 最後に、この公津の杜公演を観た者である以上、これだけにはなんとしても触れないわけにはいかない。
上演開始から終演まで、私(と、おそらくは会場にいたお客さん全員)が「ん? あれ? あれ……?」と感じざるをえなかった、舞台上で発生していた「ある異常事態」。
……な、なぜ、あの女性役の俳優さんは「化粧も何もしていないまごうことなき男性」で、しかもしじゅう、「右手にしっかりと持った台本」を読みながら、隠しようもない棒読みでセリフを発しているのであろうか……まさか、し、し、しろうと?
なに、あの人、お客さんが3~4千円払ってこのお芝居を観てることを知らないの? 馬鹿なの? 死ぬの?
終演後に出演していた永栄さんに聞いたところ、どうやら新宿公演でその役をやっていた客演のベテラン女優さんが、数日前に救急車を呼ぶレベルの体調不良を起こして緊急降板してしまい、仕方なく「舞台監督さん」がその役を埋めるという非常手段をとらざるを得なかったのですとか。
……お芝居って、大変なんですね……ていうか、これほど多方面から「さんっざん!!」な目に遭っている公演も珍しいと思いました、はい……それにしたって、舞台監督しかいなかったのかよ……
何事も、明日は我が身。そういう四面楚歌に陥らないように、私も明日から、ちびりちびりと善行を重ねていきたいと思います。
ま、善行を重ねたって、ひどい目に遭うときゃがっつり遭うんですけどね☆ 神も仏もありゃしねぇけど、がんばってこ~っと♪