長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

行けた行けた! 百景社アトリエ祭「太宰治作品集」 最終日

2014年02月09日 23時36分28秒 | すきなひとたち
 いや~、なんとか行って来られました、土浦! 特に関東圏のみなさま、交通機関大混乱の今日も一日、ほんとうにお疲れさまでございました……無事に千葉に帰還することができた、そうだいです~。

 ホントにねぇ、よくよく報道を確かめてみたらば「半世紀に一度」なんていう文句なんかも飛び出ていた昨日の大雪、猛吹雪!
 夕べ、10キロもの白い地獄をざっくざっくと踏破して生還したあと、正直いいまして私は、「明日(つまりは今日)の予定、たぶんつぶれるだろうなぁ。」なんていう諦めをいだいて眠りについてしまいました。

 本日、私は茨城県の土浦市におもむきまして、そこで午後2時開演のお芝居を観る予定だったのです。そして、あわよくば午前中、そこに行く途中で恒例の「全国城めぐり宣言」の最新作といたしまして、茨城県の牛久市に立ち寄って「牛久城」を探訪する算段でおったのでした! 当然のごとく、現在の牛久城に遺構はない!! でも、縄張りや土塁・空堀の跡は良好に残されていると聞きました。東日本の「土のお城」は、そこらへんが残っていればもう充分に堪能できますからね☆

 でも、そこらへんの淡い休日計画はまぁ~きれいさっぱり崩壊してしまいました。特に牛久城なんか、秀吉の関東征伐まで落城しなかった、面積1キロ四方規模の「総構え式」の巨城だったんですよ? 遭難するわ、こんなときにノコノコ潜入なんてしたら!

 なにはともあれ、「電車がちゃんと運行しているかどうか……」という不安を抱いたまま本日の朝をむかえたわけだったのですが、カーテンを開ければ、確かにそこには2月の千葉とはにわかには信じがたい一面の銀世界が広がってはいたものの、空はカラッとした快晴! 心なしか空気もだいぶ暖かく、早くもドサドサッと屋根から落ちる雪のかたまりや、溶けた雪水がしたたりおちる音が、四方から忙しく聞こえてきていました。往来のあちこちには、とにかく外に出てはみたものの、「どこから雪下ろしをすればいいんだ? っていうか、道具って家にあったっけ?」という困惑に立ち尽くす関東のみなさんの姿が。手ばがりじゃねぇぐて、腰ざぐっどつから(力)いっでゆぎかかねどダミだよぉお~!

 「あらっ、これはもしかしたら、行けるかも!?」という希望がわいてきてパソコンに向かってみると、千葉から土浦に向かうために必要な電車路線である「JR 総武線」「東武野田線」「JR 常磐線」の3線は、いずれも「ダイヤに遅れは生じつつも運行可能」とのこと。
 よっしゃ、だったら観劇は可能だ! お目当てのお芝居は昨日と今日の2日間しか上演しておりません。どのみち今日しかチャンスはないのですから、これは多少の電車待ちやら寒さはあろうとも、行かずしてなにが私かと! 喜び勇んで出発することにいたしました。

 本来の電車ダイヤならば、午後2時開演のお芝居ですから正午出発の電車に乗っても間にあうくらいだったのですが、今回はちょっと早めに出よう、ということで11時に千葉を出発。1時間も余裕をとれば、いくらダイヤが遅れてもなんとかなるかと思っていたのですが……
 ところがぎっちょんすいっちょん!! いざ乗ってみると、確かに総武線と野田線はほぼ問題なくスムースに運行していたのですが、茨城県に入ったとたん、常磐線の取手駅(茨城県取手市)から先が「ピタッ」と完全ストップとの情報が!

 原因はよくわからないのですが、午前中には問題なく土浦や水戸まで運行していた路線が、お昼すぎになってなぜかいったんストップとのこと! 結局、土浦駅まで行ってくれる「勝田駅行き」の普通電車が動くまで、実にトータルで「2時間」待ちだという死刑宣告が!! ちーん。
 まっさか、ここまで影響が出てるとは、ねぇ……関東なのよねぇ~、雪に弱いのよねぇ~。それにしても、特にあらたに雪が降り始めてるってわけでもないのに、いったん動いてから午後にまた停止するかね、しかし!?
 超余談ですが、柏駅から取手駅まで行く快速電車に乗ったら、向かいのシートに座っている老夫妻が、完全に漫才師の宮川大助・花子さんだったのには、静かに驚愕してしまいました。花子さんは地味なメガネをかけて眠ってたからすぐには気づかなかったんだけど、大助師匠が乗ってるあいだの10~20分間、一人でえんえんとネタの確認をブツブツ繰り返してたから、イヤでもわかった!! やっぱりね、その道のプロは練習の鬼よね。何年か前に病気されたらしいですが、柔道でもやってそうな屈強なマネージャーに「ここから水戸まではタクシーです。」と言われて「おう!」と立ち上がったお姿には、思わず見惚れてしまいました。63歳だもんねぇ、まだまだ全盛期ですなぁ、師匠!
 今、気になったのでちょっと調べてみたらば、師匠、午後2時から水戸の県民文化センター大ホールで開演する、6世・桂文枝(いらっしゃ~い!!)の襲名披露公演へのゲスト出演があったんですね。そりゃあネタの確認もするわな……間にあったかな?

 とまぁ、そんなこんながありましたので、私よりももっと早く出発してすでに劇場である劇団「百景社」のアトリエに到着していた知り合いに「間に合いそうにありません……」という弱気なメールを送っていたのですが、「ダイヤの遅れをかんがみて公演時間を遅らせてくれるらしい」という返信をいただきました。ありがた山のポンポンモネだぬき! いや、ここはてんぐだな!!

 ただ、遅れに遅れた私が土浦駅につくのが「午後2時15分」でしょ、それで、変更された開演時間が「午後2時30分」なんですよ。
 目的地の百景社アトリエは、土浦駅から「徒歩30分」の距離にあるんですよね。去年の夏にも行ったからたぶん道に迷うことはないかと思うんですが、歩道もぐじゃぐじゃ雪でえらいことになってるだろうし……
 はぁ~……夕べもけっこう両足を酷使したんですが、また今日もダッシュで働いていただきますかぁ。

 そんなことに腹を決め、電車の中で静かに屈伸ストレッチをしながら土浦駅に着いたわたくしだったのですが、到着してドアが開いた瞬間に、着てきたマントをからげて駅舎から駆け下りると、そこにはなんと、アトリエまでお客さんを運んでくれるという百景社さんのシャトルワゴンが! ありがた山のポンポンモネだぬき! いや、ここはてんぐだな!! ほんとに助かったので2回言いました。

 それでまぁ~、かくのごとくたどり着くまでいろいろな番狂わせがあったのですが、どうにかこうにかお芝居に間に合うことができたのでありました。柔軟に開演時間を変更してくださり、さらには移動車も用意してくださった、主催者の百景社さんに、心の底から!! 感謝の言葉を述べさせていただきます。本当にありがとうございました! 今度また同じような大雪があったら、もっと早くに出発して迷惑をかけないようにします……って約束したいんですが、半世紀に一度の大雪だってんだから、せんかたねぇ!


百景社アトリエ祭「太宰治作品集」最終日(2014年2月9日 茨城県土浦市・百景社アトリエ)

関美能留×スズキシロー ふたり芝居 『太宰治ですみません(仮)』(演出・関美能留&鈴木史朗)
 太宰治『待つ』(1942年6月)、『チャンス』(1946年7月)など

百景社 ひとり芝居 『女生徒』(演出・志賀亮史、主演・山本晃子)
 太宰治『女生徒』(1939年4月)


 はい~、かくして、今回の観劇記であります。前置きがずいぶんと長くなってしまった……あっ、そりゃいつものことか。

 私が見たのは、「太宰治作品集」の最終日である2月9日の2本のみということになりましたが、今回の百景社アトリエ祭は先月の1月から3週にわたって開催されており、主催劇団の百景社をはじめとした6団体が、毎週末に土浦の百景社アトリエで太宰治の『斜陽』『走れメロス』『お伽草紙』といった数々の名作を演劇化して上演しておられたようです。太宰治で演劇祭! 攻めてますねぇ~。
 そうそう、太宰! 太宰だからこそ、私も今日はマントを着こんで駆けつけたんですよ! っていうか、マントはこういう「そこそこあったかいけど風が強い日」にしか役に立たないわけ! ガチンコに寒い日には普通のコートを着たほうが数倍あったかいですからね。マントの下にはちゃんとジャケット着なきゃいけないし。マントを着る意味がねぇ~! でも、そこはそれ、マントですから。実用的な意味なんて最初っからいりませんから。文学とマントの相性のよさって、そういうところですよね♪

 そんでもって、公演時間がずれつつも満員状態となったアトリエ内で上演されたのは、本業が演出家であるお2人が役者兼任でおくる『太宰治ですみません(仮)』と、百景社の女優さんによるひとり芝居『女生徒』! どちらも舞台上の人員は最小限といったあんばいで、非常にシンプルな舞台になっていましたね。


 まずは『太宰治ですみません(仮)』ですが、こちらは我が『長岡京エイリアン』で幾度となく名前を登場させてもらっている劇団「三条会」主宰の演出家・関美能留さんと、栃木県那須郡那須町を拠点に活動する劇団「A.C.O.A.(アコア)」主宰の演出家・鈴木史朗(スズキシロー)さんの2人による、上演時間1時間ほどの舞台でした。アコアさんは俳優だったときに私もずいぶんとお世話になった劇団さんでして、アコアさん主催の演劇祭に参加したこともありましたし、アコアさん所属の俳優さんや、俳優としての鈴木さんとも何度も共演して、とても楽しい刺激をいただいていたものです。みなさんねぇ~、笑顔がステキなんですよね! 一人前の男の笑顔ってのは、こんな感じのふところの深さと含羞があってこそなんだよなぁ!っていう、見事な味わいがあるんですよね。私なんかもう、30も半ばになろうかっていうのにいまだに要領を得ない、妖怪ひょうすべみたいなへらへら笑いしか浮かべられないってのにねぇ。

 作品の構成としては、まず最初に、本来演出家であるはずのお2人が今回の演劇祭に俳優としてタッグを組んで参加し、しかも太宰治を作品化することになった経緯などを語り合うフリートークのていから始まります。私の記憶も不完全なんですが、たしかお2人が太宰治の作品を舞台化したことは今まで一度もなかったですよね。
 そして本編は、それぞれが太宰治に関する「ひとり芝居」をおのおの演じた後で、2人タッグで短編『チャンス』を上演するという、実にわかりやすい「1+1=2かそれ以上」という内容になっていました。シンプル・イズ・ザ・ベスト!

 今回、『太宰治ですみません(仮)』というくくりの中で2人が題材に選んだ太宰関連の作品は、決して『人間失格』や『走れメロス』なみに世間的に有名なものでもなかったかと思うのですが、さすがというかなんというか、太宰治という正体不明のジョーカー、「道化の華」のしっぽをつかんでいるかもしれない印象的なものを的確にチョイスしているなぁ! と感服してしまいました。そりゃあもう、プロの演出家さんお2人ですから。

 特に私がうなってしまったのは、鈴木さんがギターをつまびきながらのひとり語りという形で始めた超短編『待つ』で、これはもう文庫本にしてたかだか3ページちょいという短さの、女性一人称のモノローグなのですが、まぁ~「うまい」の、なんのって。
 ここで私が言う意味の「うまい」っていうのはね、鈴木さんの演技がテクニック的に「上手い」とかいう、ありきたりな用法じゃあないんですよ。「美味い」んですよ! それこそ、『待つ』が演じられている空間と時間、その全体になんともいえない豊潤な味わいが生まれていたのです。うまい、おいしい! 演劇がおいしい!! 何ソレ!?

 原作『待つ』はもう、ピンセットで5ミリくらいの色紙をひとつひとつ並べて一枚の絵画を作るってくらいの繊細なタッチで、一文字一文字の読者に想像させる風景、温度、においまでをも計算しつくして、さらには「、」や「。」の配置にまでその血液をゆきわたらせた恐るべき美文なのですが、鈴木さんはまさしく「繊細さをもって繊細さにあたる」といったまごころで、『待つ』を演じていました。
 そこに流れる、一言一言をいつくしんで発声するいとなみ。ステキですねぇ~。いやいや、ただ単にていねいに言えばいいってもんじゃあないんです。その文章を語る女性が、いったい何を伝えたくてそれを口にするのか。それが正解かどうかなんてこたぁどうでもいいんですが、とにかく鈴木さんの語り口には、主張したいことと秘密にしておきたいこと、楽しいこととつらいこと、真実とうそとがものすごく自然に同居しているんですね。そして何よりも、『待つ』の言葉を発するこの時間を、一生一期一会のひとときとして大切に扱っている姿勢が伝わってくるのです。

 これはもう、キャッチコピーの塊みたいな超短編だからこそできうるぜいたくな魂のこめ方であって、「最高にきざな太宰」という一面を極端に強調した『待つ』を、非常に簡素かつ地道な一本気さで舞台化したからこそたどり着いた、「逆道を使ってこその到達」だと感じ入りました。大感動、でしたねぇ。女性一人称だからといって、女性の演技をする必要なんてないんですよね。太宰治だって、女性のふりして文章を作るなんていう小細工は弄してないんですから。読めばわかるんですが、『待つ』が扱っているのは男女共通の「ふれあい」のお話なんですよね。女性でなくてもいいところをあえて女性でいく。それがおさむちゃん!

 さて、そんな鈴木さんのひとり芝居にたいしての、関さんのひとり芝居、そして鈴木さんをまじえてのコラボレーションパート『チャンス』なんですが……

 「ずっこい」。ただ、その一言に尽きますな。ずっこいですよ~!!

 ただ、その「ずっこい」が、太宰治の作品世界を語る上で欠くべからざる1エレメントであることは言うまでもないわけでして、そういう必要性をちゃんとひっさげて「ずっこく演じる」関さんの、その論理的な鉄板っぷりがまた「ずっこい」んだよなぁ~!! ただ、消費するエネルギーを節約したり、お客さんの笑い声がほしくてずっこくやってるのとはまるでレベルが違うわけです。太宰治作品だからこその、ずっこさ。

 もちろん、これは非常に真剣に張りつめた空気の中で『待つ』が演じられた時間があってこそ、その後にやることが許された緊張の緩和なのでもありまして、そういう意味でも、心憎いほどに配慮し尽くされた連作『太宰治ですみません(仮)』は、さすがはプロの演出家が直接俳優も兼任したスペシャル企画!という独特な味が楽しめるぜいたくな1時間でした。
 作品のクライマックスで、胸を張りながら堂々と「すみません!!」と絶叫する、その矛盾。それこそが、太宰治の文学の魔力でもあるわけなのですな。ときに美しく、ときに愚かしく、ときにひたむきに、ときにテキトーに。その、正体のつかめない万華鏡のきらめきのひとつひとつ、その全てが、太宰治の永遠の命をやどした正体なのです。イエーイ、言ってるおれも、わっけわっから~ん☆


 お話変わりましてその後は、今回の百景社アトリエ祭、正真正銘のラストを飾るひとり芝居『女生徒』でした。

 こちらはねぇ……観ながらいろいろと思考が駆け巡った、という意味では刺激的だったのですが、「おもしろかったか?」と問われるとなかなか難しい作品だな、と感じました。
 少なくとも今回、このバージョンの『女生徒』と観客の私の感覚は「合わなかった」、ですね。他のお客さんがどうかはもちろんわかりませんが、私個人は「どうもしっくりこないなぁ……」と感じる部分が少なからずありました。

 もうさぁ、百景社のみなさんには劇団時代にいただいた恩も思い出も山ほどありますし、今回もまた、ワゴンで駅からアトリエまで送迎していただいたし(他のお客さんも)、さらにはアトリエ祭最終日ということで行われた打ち上げにもバカ面さげて参加させていただいちゃいました、私!
 そんなこんなのもてなしを受けておいてこう言うのも非常に心苦しい話なのですが、やはりいち客としての感想は、ここには本音で記録しておきたいと思うんです。個人ブログでお世辞を言ったってしょうがないし、私という人間がたかだか数時間のうちに受けた印象の報告が、ある演劇作品の全体像を公平に俯瞰した評論になるわけがないですからね! 要するに、わっちの言うことなんか真に受けなさんな!ってことなんですよ。え?「じゃあ言うな。」って? そこは言わせてちょーだいませ~。いろいろ苦労してやっと観られた作品なんですからね。

 まず、原作の『女生徒』が太宰治の100% 創作でない、という部分をだいぶ強調した「前説」が序盤でとうとうと語られている意図がよくわからなかったですね。この語りは、『女生徒』を上演するにあたってのイントロダクションとして百景社さんが創作したセリフであるらしいのですが、一般的にもよく知られているこの情報を、あらためてクローズアップする意味とは、いったい……それで『女生徒』の母体となった日記を実際に執筆した「女生徒」と、小説家の太宰治とを対立化させるとかいうメタ構造なのかと言えばそうでもなく、前説のあとは特にどうこういうアレンジもなく、太宰の発表作品としての『女生徒』が上演されていくのです。
 じゃあ、なんで最初にあんなこと言ってたんだろ? そもそも、太宰の筆にとらわれないフリーダムな娘ッコの躍動をおさめた作品だったのならば、なんでまたそれを「太宰治作品集」のレパートリーの、しかもどラストにもってきたのでしょうか。
 とにかく『女生徒』という作品は、数ある太宰作品の中でもひときわ「扱いが難しい」一作なのだなぁ、ということは、この舞台を観ながら再認識しました。いっそのこと、「作者が太宰治」なんていう情報にはいっさい触れないでやったほうが、文章の自由度をよっぽどうまく舞台化させることができるんじゃないかなぁ。
 だから、主人公の父親の遺影をあらわす小道具に、太宰治その人の写真なんてものを利用するのは、かなりの野暮だと感じたんですよね。顔の部分が消えてのっぺらぼうになっているという加工も、それはそれでいかにも少女趣味っぽい甘ったるさに満ちてはいるのですが、上演作品がまったくフォローしていない「小説家の太宰治方面」によけいな伏線を張っているような気がして、ものすごくうざったく見えました。

 あと、これはおそらく百景社版の『女生徒』が、いろんな要素で筒井康隆の不朽の SFジュブナイル『時をかける少女』……というか、その映画化作品(特に1983年版と2006年版)を強く意識した演出になっていたからだと思うのですが、原作がせっかく「1938年5月1日」というたった一日の中での出来事と限定しているのに、この舞台化作品はあまりにも軽々と「1938、39、40……」というように「時をかけすぎている」ような気がしたんですね。その演出意図はわかるような気もするのですが、他ならぬ前説で語られているように、太宰は原型となった女生徒の日記の、複数の日数にわたる出来事を、小説家としての判断で「あえて」一日に収束させているのですから、そのルールはやっぱり守るのが筋なんじゃなかろうか、と私は感じてしまいました。
 『女生徒』と『時をかける少女』、どちらも「少女の冒険」を描いているという共通項は、確かにある。でも、だからといって『女生徒』に時をかけさせたら、そりゃあもう『女生徒』じゃなくてもいいんでないかい?って話になっちまうワケよ! 『女生徒』の自由奔放な世界は、あくまでも「それなりの不自由」にまみれているからこそ輝きだす、「圧迫があるからこそ勢いよくガスが抜ける」力学にもとづくべきなのです! そうじゃなきゃ、あんな甘ちゃんもいいとこな少女の独り言なんか聴いてられませんよね。

 百景社版の『女生徒』は上演時間75分とアナウンスされていましたが、女優のひとり芝居として、最初っから最後まで主演の山本晃子さんがず~っとハイテンションの全力勝負だったのも、75分でさえ「長い」と感じてしまう部分がありました。
 これは女優さんの力量うんぬんという問題でなく、単純にお客さん、というか私の集中力がもたなかったんですよね。それはやっぱり「押して、押して」の連続で、力を抜ける「引いて」がなかった、もしくは「引いて」が用意されていたとしても「引いているように見えなかった」ということが大きかったのではなかろうかと。いくら女優さんの躍動に魅力があったのだとしても、これじゃあついていけなくなっちゃう。1時間以上あるんだもの!

 さらにいえば、それが演出意図なのだとしても、クライマックスで「音響効果が大きくなっていって聞こえなくなる女優のセリフ」という流れは絶対に入れるべきではない、と感じました。時代の波濤にかき消されていく少女の日常、という意味合いがあったのだとしても、それは単純に原作『女生徒』の文章と、女優さんのそれまでに築き上げた1時間の努力を踏み潰す行為に見えたんですね、私には。
 そして、その大音響の後、完全な沈黙の中で、女優さんの肉体をまったく通さずに「舞台奥の壁に映し出される字幕」という形で処理される原作『女生徒』の最後の一節。これも、騒音と沈黙の対比としてはいいんでしょうけど、やっぱり「女優が語ってない」という点で、舞台化できませんでしたというコメントを読んだような気になりました。ここが「あえて舞台化しなかったゼ!」というはったりに見えたらよかったんですけど、どうもそうは見えない「弱気」を感じちゃったんだよなぁ。

 とまぁいろいろ言っちゃいましたけどね、私はこの百景社版『女生徒』には、『太宰治ですみません(仮)』でイヤというほどに炸裂していた「ずっこい」計算高さが完全に抜け落ちていたという気がするんですね。とにかく全力勝負!という感じで、それが75分えんえんと続いたものを見せられても……少なくとも、あの太宰治をテーマにした演劇祭のトリにはふさわしくないような。


 今回も字数がかさんできたので強引にシメてしまいますが、太宰治にかぎらず、さらには演劇にかぎらず、なにごとも「押し」と「引き」、「誠実さ」と「ずっこさ」を両立させてこその人生なのだな、としみじみ感じた、今回の土浦行だったのでありました~。

 ひとり芝居は難しいね、ホント。なるべく近いうちに、百景社さんのフルキャストの舞台も観たいな~。楽しみにしてます!

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