長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

検証! 映画版『姑獲鳥(うぶめ)の夏』は、そんなに言うほどダメなのか?  ~ようやっと本文~

2014年02月12日 22時32分50秒 | ミステリーまわり
≪資料編は、こちら。≫

 どもども、みなさんこんばんは! そうだいでございまする~。今日も一日、大変お疲れさまでした!

 さぁ~、そんなこんなでとっとと本題に入っていきますよ~。映画『姑獲鳥の夏』は、どうしてそんなにおもしろくなかったのか!?
 まず、なにはなくとも購入した DVDで、123分間の映画本編を観てみまして、感じたポイントをざっと簡単に並べてみることにいたしましょう。
 じゃあ、「再生」ボタンをクリック、っと。

……

 はい。123分が経過いたしましたね。映画本編が終了しました。
 なるほど。確かに、おもしろくはない!!(あくまで個人の見解です)

 それじゃあ、具体的にどこがおもしろくなかったというのか? ひとつ、映画の流れに沿いまして最初から観ていき、気がついたことを並べていくことにいたしましょう。
 ほんとは、昔『八つ墓村1977』の感想でやったみたいにタイムスケジュール表を作っちゃいたいところなんですけれども、時間の都合で、今回は断念!


ポイント1「坂道の露天セットが安っぽい」
 ……まさか、実相寺昭雄監督作品のほぼ全てを人生のバイブルとあおぐこの私が、あの池谷仙克さんの美術に苦言を呈することになろうとは!
 でも、どこからどう見ても、この『姑獲鳥の夏』の冒頭アバンタイトルからしょっちゅう出てくる「京極堂へ続く坂道」の露天セットは、あんまり良い出来には見えないんだよなぁ。
 原作小説でもこの坂道は、物語の実質的な主人公である小説家・関口巽が妖怪うぶめの存在を感じるようになる重要な「現実と非現実との境界」として、何度も印象的に登場してくる場所なのですが、小説の描写によれば、この坂は両側にどこまでも延々と油土塀が続いて、塀の向こうにどんな建物や敷地があるのかさっぱり見当もつかない長さのある坂のようです。
 ところが、どうですか。映画に登場する坂は、最初の1カット目から坂のスタートとゴール(頂上)がまとめて見て取れるかなりコンパクトな地形になっていて、奥行きがぜんぜん感じられないセットになっているのです。油土塀の質感自体はいかにもよくできているように見えるのですが、あまりにもあからさまにセットのほぼ全景を写してしまうカットがちょいちょい入ってしまうために、そのたんびに「坂っていうより、これ急場で作った丘じゃん。」というしらけ気分になってしまうのでした。致命的なのは、画面の真正面奥にある林(坂はそこで左に曲がっている)の木々が、明らかに「坂よりも低い位置から生えている」ことなんです。幹の部分が見えず葉っぱしかないんですね。つまり、画面に見えない奥に明らかな「下り部分」がある。だから、このショットで見える部分は、坂でなく小高い丘なんです。誰が見ても目に入ってくる真正面奥の木に高さがないのですから、坂に見えるわけがない!
 好意的に解釈すれば、この映画で映し出されているのはあくまで坂のごく一部であり、実は画面奥の向かって左に曲がった所からほんとうの坂が始まるのだ、と言うこともできるのかもしれませんが……でも、映画本編で関口がクラクラしたり妖怪うぶめが出現するのは、この短い区間なんだもんねぇ。

 もうちょっと、それこそ、予算の制限を逆手に取る実相寺マジックを発動してセットの実際の大きさを隠す撮影テクニックを駆使すればどうとでも解決した問題だったと思うのですが……どうしたんだろう!?
 あと、坂の下(画面手前)から関口が登っている時に、画面奥の左手から坂を下りてくる人物(この人もいけない!)が現れるのですが、これもなんの隠し事もない全景カットで映してしまうために、この坂が大人で20歩ぶんくらいの距離しかないものであることが一瞬でわかってしまうのでした。奥の人物がそんなに小さく見えていないんですよね。すぐそこなんじゃん!
 この距離でクラクラめまいを起こしてしまう関口って……帰って水分摂って寝ろ!! 首筋やわきの下も冷やしとけよ!


ポイント2「原作・京極夏彦の影がちらっちら!」
 いやいや、「影」だけだったら全く問題ないんですが、あからさまに原作者の京極夏彦さんが映画本編に出てくる、出てくる!
 ポイント1で出てきた「坂を下りてくる人物」というのが、他ならぬ京極さん演じる傷痍軍人・水木しげる(!)なのです。この人、映画では京極堂主人・中禅寺秋彦の知人としていくつかのシーンに登場してくるのですが、原作小説にはいっさい登場しない人物です。
 まぁ……出てこなくても、よかったんじゃない?
 おそらく、脚本家の考えとして、この傷痍軍人はあまりにも陰惨なこの『姑獲鳥の夏』における軽いコメディリリーフ的な役割と、終戦直後という時代設定を補強する役割。そして、中禅寺だけがだらだらと妖怪の話をしていてもつまらないので、相槌を打つ役割として登場願ったのかと思います。
 いっぽう、映画興行としても、なにかとビジュアル的な面で人気もあった当時の京極さんに、しかも水木しげる神先生の役として出演してもらう!という「飛び道具」的なサプライズは、なかなか魅力的に見えたのではないのでしょうか。
 でも、そういうお遊びって……加減ってもんが大事でしょ? ちょーっと……今回は京極さん、出すぎじゃない?
 かつて、市川崑監督の石坂浩二金田一シリーズには、原作者である横溝正史大先生が特別出演するというサプライズ演出もありました。でもそこでは、演技する余地を与えないほんのチョイ出演にするか(『犬神家の一族』)、長めに登場しても「小説家の先生」という、演技のしようのないリアルそのものの立場においてまるで素のたたずまいで振る舞ってもらう(『病院坂の首縊りの家』)というプロフェッショナルな判断があり、どちらも効果をあげていました。
 ところが、京極さんの傷痍軍人は、明らかに演技をして関口に坂の途中でぶつかったり、中禅寺と妖怪談義をしたり、三谷昇さんの紙芝居を見かけてほほえんだりしているのです。いや、いらないでしょ、そんなの!
 京極さんは決して演技が下手というわけではありません。でも、かといって石坂金田一シリーズにおける三谷昇さん(『獄門島』)や大滝秀治さん(『悪魔の手毬唄』、『女王蜂』など)レベルの個性など出ているわけもなく……要するに、出ている割に面白くないんですよね。しかも、傷痍軍人であるはずなのに、肥えている! 大事なことなのでもう一回言いましょう。肥えている!! 『地獄の黙示録』のマーロン=ブランド並みの名優なんですかあなた、って話ですよね。というわけで、少なくともこの映画にしゃしゃり出てくる京極さんに好感を持つお客さんって、そうそうはいないんじゃないかなぁ。
 しかも、なんか古書店・京極堂の入り口の扁額にまで堂々と「京極夏彦」って刻印がされているしさぁ!! お遊びでも全く笑えない。いや、これで京極さんご本人が出てこないんだったら、クスリとする塩梅だったかもしれませんが。

 いったい誰がこんな向こう見ずなオファーを京極さんにしたのでしょうか……京極さんも断りそうにないし、実相寺監督も、人間の演技にはそれほど執着していないような証言も多いですし難色は示さなかったのでしょう。なればこそ、この『姑獲鳥の夏』という祭典に、俳優・京極夏彦という夾雑物は入れていただきたくなかった。
 三谷昇さんとか嶋田久作さんとか、映画『曼陀羅』の左時枝さんみたいな異形の魅力がないと、実相寺ワールドの住人になるのは難しいんですなぁ。


ポイント3「序盤の京極堂シーンが必要以上にヤな感じ」
 私、今回の検証をするまではてっきり「映画版『姑獲鳥の夏』は原作小説を忠実に映像化している」と思い込んでいたのですが、これ、大きな間違いでした! そして、そこが最も悪く際立っていたのが、映画のすべり出しとしてお客さんがお話についてこられるかどうかを左右する、非常に重要なこの序盤シーンだったのです。

 ちょっと、乱暴を重々承知の上で、原作小説と映画という、まるで違う世界の作品の比較をいたします。
 どちらの『姑獲鳥の夏』も、物語は古書店・京極堂での、関口と中禅寺との「20ヶ月ものあいだ妊娠していることはできるか?」という奇妙なゴシップ記事の真贋問答を中心とした長談義からスタートします。この「京極堂シーン」が終わるまでの序盤の、小説・映画各作品での物語に占める割合を比較してみましょう。

〇原作小説(2005年出版の講談社文庫上下巻分冊版にもとづく)
 全体のページ数「536ページ」中、京極堂シーン終了までのページ数「89ページ」……全体に占める割合は「16.6%」
〇映画版
 全体の分数「123分20秒」中、京極堂シーン終了までの分数「16分50秒」……全体に占める割合は「13.6%」

 乱暴ですよね~! でも、ご参考までに。
 こう観ると、とかく「中禅寺の話が長い!」という印象の強いこの「百鬼夜行シリーズ」なのですが、映画『姑獲鳥の夏』は、脚本家にあたってかなり善戦している、むしろスリム化に成功しているという数字的結果が出ました。
 でも、これは私個人の感覚としては超意外! だって、原作小説の数倍長く感じたんですよ、映画版のここのシーン!!

 その理由は、原作小説を読んでみれば一目(読)瞭然なんです。すなはち、原作では中禅寺の長い話に様々な「合いの手」が入ってくるのに、映画版はほぼ中禅寺のオンステージ、しゃべりっぱなし! なんか、映画版は「興味のない講義を聞かされている」感がハンパないんですね。名優・堤真一のテクニックをしてもそうなんだもの、ちょっとこれは、俳優さんの演技よりも脚本や演出の構成に問題の本質があるかと。
 実はこの『姑獲鳥の夏』だけを読み返してみると、「百鬼夜行シリーズ」を20年以上読み続けているファンであればあるほど新鮮に感じてしまうくらいに、主人公の関口は中禅寺の話に対して的確な反応や絶妙なツッコミをさしはさんでいて、むしろ機嫌よく饒舌に中禅寺との会話を楽しんでいる様子が見て取れます。この関口のたたずまいが、中禅寺との長年の悪友関係を読者に暗に察知させるし、中禅寺の長ったらしくて一見わかりにくそうな話の理解をサポートしているのです。いわばオフロードレースのナビゲーター、NHK人形劇『三国志』における紳助竜介のような役目をはたしているんですね。2010年代にこんなたとえとは……

 また、原作小説では、映画で出てきていた「仏舎利の干菓子」の他にも、「本当に出がらしのお茶を出してきた(でもおいしい)」とか、「タバコを実にまずそうに吸う」とか、「べらべらしゃべりながらきつねうどんをすするのが異様に上手」とか、話だけだとヤな感じのうんちくおじさんになりかねない中禅寺に人間的なカラーや魅力を与える小道具が、この京極堂シーンではふんだんにちりばめられています。そして、関口の反応に大爆笑する中禅寺! のちのシリーズ作品から振り返ると、にわかには信じがたいサービスショットですね。
 この『姑獲鳥の夏』が投稿された時に、それを読んだ出版社の編集担当の方が、「京極夏彦」というのは覆面ネームで、これはどこかのプロの作家さんが我々を試すために書いたのではないかと疑ったというエピソードは非常に有名なのですが、これって、お話のトリックとか知識量の豊富さというよりも、こういったあたりの「読者の理解を助けながらキャラクターの造形を深めるテクニック」の達者さから感じ取ったのではないでしょうか。大物落語家の余裕に近い「脱線の楽しさ」に満ちていますよね。
 だから、もしそれらをぶった切りにして「とにかく時間を短縮しました!」というだけにしてしまったら、はたして京極堂シーンはどんだけ絶望的につまらないものになってしまうのか。まぁ仏舎利の干菓子くらいは出てきたとしても、映画『姑獲鳥の夏』は、はからずもそれを雄弁に証明してしまったのでありました。わかってない、脚本は原作の深謀遠慮をまったくわかってない!! 実相寺監督なんだから、隣の蕎麦屋の役で寺田農さんくらい出せばよかったのに。

 そして、この京極堂シーンできわだった、原作と違うもう一つの変更点が、次のポイントにつながります。まだまだ終わらな~い! そして、次こそが、映画版最大の問題なのヨ。


ポイント4「関口巽以下、感情移入したくなる人がほぼいない」
 これ、たいへんなことよ!? そんな123分間、苦行以外のなんでもないだろう。
 まず、主人公である関口をそんな人物にしているのは、脚本の改悪としか言いようがないです。だって、原作小説の関口は、先ほどのポイントでも触れたように、少なくとも物語の前半では、けっこう陽気に親友との会話を楽しんでいる「ふつうのフリーライター」なんですから。
 私が思うに、小説『姑獲鳥の夏』のいちばん怖いところは、妖怪うぶめの存在とか、連続赤ちゃん失踪事件のおぞましい経緯と顛末とかではありません。「対岸の大火事の原因を作ったのが、実は自分だった。」という恐怖なのです。
 偶然見かけた、「怪奇!2年近くも妊娠し続ける女」という世にも珍妙なうわさを知り、「そんなことあんのぉ~? ハハハ」程度にしか思っていなかった話題が、次第に自分の知り合いが深く関わっているらしいという事実を知るところから徐々に温度を変えて脳裏にまとわりついてくる。そして、次第に明らかになる異常きわまりない事件の原因が、なんと昔の自分自身の無知が招いた失敗であった。その行為のあまりにもドス黒い業の深さから、自分の脳はその過去を意図的にシャットダウンして「忘れて」しまっていたのだ……
 これを掘り起こされてしまう、知らされてしまう恐怖! 忘れてしまったまま生きていれば幸せだったのに、開ける必要のまるでないパンドラの匣を開いてしまったのは、他ならぬ自分……こんなに意地悪な運命のいたずらがあるでしょうか? 誰も責められない、罪はひたすら自分の中へ。関口の恐怖は、昭和でない21世紀現代だとしても、老若男女誰の人生の途上にでも口を黒々と開けているのかもしれない、底の見えない落とし穴なのです。

 だからこそ、序盤での関口の能天気さ、ごくふつうさは必要なのです。どこにでもいる好奇心旺盛な人間としての関口に読者はスッと感情移入する。そうして関口がジェットコースターの乗り物の役目を果たすことによって初めて、物語が進むにつれてつるべ打ちを仕掛けてくる『姑獲鳥の夏』の恐怖とおもしろさは機能してくるはずなのですが……さて、映画版の関口はどうだったでしょうか?
 もう、最初っから病んじゃってますよね。冒頭から「おれ、これからきっとひどい目に遭うよ。」みたいな暗い表情をしていて、中禅寺と話をする前からうぶめを予兆させるかのような羽毛の幻覚は見るわ、例の坂でクラクラめまいは起こすわ(原作小説でめまいに襲われるのは、中禅寺にうぶめの話を聞いてから)。ダメでしょそんなの! もうなんにも始まってないうちから悲劇の主人公フラグがビンビン立ってるんだもの。そんな辛気臭い人の気分なんか推し量りたくもないし、後半で「実は事件の重要なカギを握っていた!」って言われたって、そりゃそうだろうなくらいの反応しかできませんよね。
 要するに、映画版『姑獲鳥の夏』の関口巽は、もうすでに「百鬼夜行シリーズ全体のイメージを背負った」関口巽になっちゃってるんですよね。だから、確かに関口らしくはあるんですが、そのせいで『姑獲鳥の夏』単体のおもしろさを致命的に無駄にしてしまっているのです。演技でネタバレをしてどうする……ここで、京極夏彦さんの小説の中で私がいちばん大好きな一文を贈りましょう。「馬鹿である。」

 これに絡めて、もうひとつ映画版の京極堂シーンをつまらなさを助長している構成上の失敗として、「ねぇ君、二十箇月もの間子供を身籠っていることが出来ると思うかい?」と語る関口のモノローグだけを冒頭、映画開始一発目のセリフとして抜粋しているという点が挙げられます。
 これ、物語の謎の核心となる重要な一言なので、演出だけで言うと強調になっていいのかも知れませんが、関口がいつどこで誰にそれを質問しているのかがまずわからないし、それに答える中禅寺のセリフ(京極堂シーンの始まり「また謎か?」)が、タイトルロール終了後のだいぶ後(4分半後)にまわってしまうので、京極堂で中禅寺がいったい何の話題についてくっちゃべっているのかが不明瞭になってしまうのです。こんな不親切な始まり、ないでしょ! それで中禅寺はあの調子で、異常に元気のない無口な関口を相手に一方的にまくしたてちゃってるんだもの、ハタ目には説教にしか見えませんよね。
 何度でも繰り返しますが、原作小説の関口は、京極堂で中禅寺と話をして、『画図百鬼夜行』の「姑獲鳥」の絵を見るまで、妖怪うぶめの存在なぞ信じるはずもない能天気な人物として生きているはずなのです。なんならチャラい感じでいてもいいくらいの。それが、映画版の関口は中禅寺に会う前からすでに妖怪うぶめの存在におびえている精神薄弱者に! 京極堂に相談に行く必要ないじゃ~ん!!
 こんなつまんない関口像、いったい誰が考えたんだろう……脚本家? 監督? それとも、演じた俳優さん? 永瀬正敏さんにはぜひとも、『姑獲鳥の夏』以外の作品で関口を演じてほしかったですね。

 つまんないといえば、関口巽に限らず、「百鬼夜行シリーズ」で紙面せましと大活躍するはずのレギュラーキャラクターたちが、のきなみつまんないセリフと役割しか与えられていないのも映画版『姑獲鳥の夏』の特徴ですね。天下一の名探偵・榎木津礼二郎は、「見たもの」が怖くて事件に関わりたがらないという、原作小説のどこをどう読んだらそんなに器の小さい霊能者みたいな男になり下がるのだという驚異のスケールダウンを果たしています。いやいや、榎木津探偵はバイクのメンテなんかやんないでしょ!
 その他、きっぷのいい江戸っ子のはずの木場修太郎刑事は、これまた原作小説に無い「紙芝居屋のおじさんいじめ」を初セリフのシーンに入れてしまっているがためにひたすらガラの悪いイヤな人にしか見えないし、久遠寺医院の重要人物・内藤にいたっては本当に医師として勤務しているのかさえ疑わしいリアルキ〇〇イそのもの……そういう演技が上手でどうする、松尾さん!!
 そんなこんなで、映画に登場する人物のほとんどに、魅力がないといいますか……少なくとも、観る物に「早く事件が解決するといいナ」と思わせるような興味をいっさい抱かせない、絶妙な「関わりあいになりたくない」めんどくささがあるのです。
 ひたすら助けてとしか言わない良い歳した女、ただ態度が豪快なだけの院長、とにかく怖すぎる鶏ガラ院長夫人……「もう、つぶれればいいじゃん。」としか思えなくなっちゃうんですよね。キツいなぁ~。
 原作小説の中で、ただ一人「人間の血の通った被害者」という哀しさを持っていた原澤(演・寺島進)も、「久遠寺医院にカチコミをかけて放火する」という、またまたまた原作小説に無い無謀な行為に走る復讐者になってしまったので……もう、正常な思考ができる大人はこの映画にはいないのかと! まぁそれは他の実相寺映画もそうですけれどもね。

 ほんとに、この映画の中禅寺敦子さん(演・田中麗奈)ほど「孤軍奮闘」という言葉が似合う人はいないですよ。もっとましな事を取材なさいよ、マジで!!


ポイント5「謎解きものとしての画づくりの不誠実さ」
 映画としてのつまらなさの他に、謎解きものとして、事件の謎のひっぱり方がうまくないと感じた点もいくつかありました。

 まず、密室から消えた重要人物という、おいしいこときわまりない久遠寺牧朗という人物が、映画にインサートカット(榎木津礼二郎の幻視)で一瞬登場した時点で、「どこからどう見ても死んでる」のは、ちょっと……ミステリーとして、そんなもったいないカードの捨て方がありますか!? アガサ=クリスティ女史の墓前で土下座して欲しいレベルの無駄遣いですよね。ただこの映画、すまけいさんといい恵俊彰さんといい、ご本人がたに怒られかねない的確さで見事に「カエル顔」のキャスティングに成功していて、そこは素晴らしい! だって、それは久遠寺一族の血筋の関係でカエル顔になるっていうんじゃなくて、久遠寺家の女性の脳髄に無意識のうちに「カエル」のイメージが巣食っているという事実を物語っているんですもんね。カエルを恐れ憎んでいながら、同時にカエルに惹かれてもいる……こわ~!! さすがは実相寺昭雄監督、「変態けろっぴおやじ」の異名は伊達ではありません。

 あと、もはや「劇団実相寺」の団員といっても過言ではない三輪ひとみさんと堀内正美さんが演じる、戸田と菅野という事件の重要人物の描写が非常に少ない! 役者さんとして出番が少ないのも残念なのですが、この2人が事件にどう深く関わっているのかがわかりにくいんですよね。三輪さんも堀内さんもセリフいっさいなし! いや、確かにそこは中禅寺以下、他の登場人物たちの話でどういう2人だったのかはいちおう明らかにはなるのですが、結局、本当に2人がどんなことを考えて何をしていたのかが分からないので、「死人に口なし」というか、なんともいいようのないモヤッとした消化不良感が残るのです。
 あんなインパクトあふれる死に顔をさらした戸田の死の原因が、それ!? あんな外道なことをした菅野の末路がわからない!? どうにもスッキリしませんよねぇ。でも、これは原作小説もそうなので仕方はありませんが、なんでそういうところに限って映画版はまんま忠実に映像化するのかなぁ。三輪ひとみさんですよ? 堀内正美さんですよ!? もったいないなぁ。


ポイント6「灯油入りのドラム缶を男が運んできても警察が気づかない暴動現場」
 いやいやいやいや、そんなの、あり!? しかもその、えっちらおっちらドラム缶を運んできた男(原澤)って、数時間前に久遠寺医院に自動車でカチコミをかけて警察官(木場修)と殴り合っていたのよ!? じゃあ、木場修はそんな男を取り逃がしていたってことか。そして、首謀人物未逮捕のまま、日が暮れたから暴動のあった現場に一人も警官を置かないで撤収したと! 昭和20年代のお巡りさんって、そんなに人手不足だったのか!? んまぁ~頭がホワイトすぎるステキな企業ですこと!!
 映画の流れで言うと、事件の真犯人とおぼしき人物が逃亡したから、警察一同それを追いかけるという流れで、久遠寺医院正面玄関付近に人の目が無かった理由を作っていましたが……苦しいなぁ~! おちぶれても病院ですよ!? 生まれたばかりの赤ちゃんがいるんだったら、夜勤の看護師さんだって絶対にいるでしょうよ。無線インカムが満足にない時代でも、木場修が「犯人を追え~!」って言ったら病院にいる警官全員が瞬時に一ヶ所に集合できるのか。テレパシー? アリみたいに木場修フェロモン? どんだけで有能で無能なの!?

 ただ、そうまでして、原作小説にまた×4なかった「久遠寺医院炎上」(原作小説では逆に雨が降っている)を入れたかった脚本……いやさ、実相寺昭雄監督その人の思いも、よくわかります。実寸大で作った久遠寺医院正面ホールが本当に炎上するさまは、間違いなくこの映画『姑獲鳥の夏』最大の見せ場になっていましたし、不謹慎ではありますが実に美しい情景になっていました。そこはやっぱり、あの『怪奇大作戦』(1968年)第23話『呪いの壺』で、京都の視聴者がテレビを見ていて思わず消防署に通報してしまったという伝説の寺炎上シーンを創り上げた実相寺&池谷ペアの真骨頂といった感がありました。呪われた一族の終焉を見事に映像化した、この映画「唯一」のプラスポイントだったかと思います。
 百歩譲れば「終わり良ければ総て良し」ってことなのかもしれませんが……ちょっと巨匠の実寸大セット炎上采配をもってしても、映画『姑獲鳥の夏』の業を全て浄化させるほどの大逆転にはならなかったかと。


ポイント7「黒、黒、黒っていってんでしょ!!」
 中善寺の憑きもの落とし時の衣装がめっちゃパープル。えぇ……デイヴィッド=ボウイもビックリよ。
 「画面が暗くなるから」とかっていうつまんない言い訳はなしですよ。そこは黒くなきゃいけないんですよ~。お願いしますよ~……もう疲れた。


 ……ハイ! というわけで、映画『姑獲鳥の夏』は、そんなに言うほどダメなのか?をテーマに始めた今回の記事だったのですが、うん、確かにダメでした!!(あくまで個人の見解です)
 こうやって見直してみて気がついたんですが、意外と改変が多かったんだなぁ。まぁ、原作改変が多いのは実相寺映画の常なわけなんですが、今回は改「悪」があまりにも多すぎた、ってことなんでしょうな。
 つまるところ、123分という枠に物語をおさめることにしか執心しなかった脚本と、話題性が高い商業メジャー作品であるがゆえにエロだギャグだに逃げることができなかった実相寺演出のキレのにぶりが、互いに「作品の面白さ」という最重要責任を放棄してしまったのが、ダメさの原因にあったのではないでしょうか。あと、今回の犯人はいかにも線が細すぎましたよね。犯人役の役者さんに実相寺監督の食指が動かなかったのか、演出も非常にありきたりで淡泊なものでした。それこそ、三輪ひとみさんが犯人を演じたらよかったのにねぇ!

 どうでもいいことですが、今回見返してみて実感したのは、私個人が、辛気臭い男が大キライなんだなってことでしたね。何をされても何を言われてもテンションゼロの映画版関口はホントに最低ですよ! 間違っても自分はああなりたくないと心に誓いました。陰気は損気。あっそうか、おんなじ実相寺映画でも、主人公に主体性が無いからダメなのか! 映画の関口は単なる病人であって、エネルギーありまくりの変人じゃないもんねぇ。そういう意味では、全編を通して被害者になりっぱなしの『あさきゆめみし』(1974年)の主人公に心境が似ているっちゃあ似ているわけですが……ジャネット八田さんくらい美人でもないしなぁ。

 そもそも、奥さんが篠原涼子さんなのにテンションが上がらないっていうのが、まず破綻してますよね。早朝から『恋しさと 切なさと 心強さと』を熱唱して奥さんに心底うざがられるくらいのエネルギッシュな関口巽であってほしい!! そして、クライマックスのシーンでは裏声で『時をかける少女』を唄いあげてくれれば百点満点ですね。

 それじゃあ、次に『姑獲鳥の夏』がリメイクされるときは、関口役は市村正親さんということで! オペラ好きの実相寺監督も、草葉の陰でズッコケてますね。ピヨォオ~ンン☆(『ウルトラマンティガ』の『夢』で何回も流れていた効果音)

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