長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

やっと読めました  辻村深月『島はぼくらと』

2013年08月27日 22時58分28秒 | すきな小説
 ヒエダノアレー♪ どもどもこんばんは、そうだいでございます~。みなさま、今日も一日お疲れさまでございました!

 相変わらずの忙しさでございまして……夏休みもやっと終わろうかとしている頃合いで、お仕事も平常モードに戻りそうなんですが、まだまだなんのかんのとバタバタしております。あ~キッツい夏だった! いや、気候的には、まだ当分終わりそうにない暑さなんですけどね。

 忙しいは忙しいのですが、試験も終わっていちおう通勤時間に読書はできる余裕ができましたので、2ヶ月前に「わわっ!」と購入しておきながらも、ずっと読めないでいた新刊本をやっと読了することができました。
 これは読むのを楽しみにしてました!


『島はぼくらと』(辻村深月 2013年6月 講談社)

 瀬戸内海の小さな島・冴島(さえじま)。夏休み直前の7月。
 母と祖母の女3代で暮らす、伸びやかな少女、池上朱里(あかり)。美人で気が強く、どこか醒めた網元の一人娘、榧野衣花(かやの きぬか)。父のロハスに巻き込まれ、東京から連れてこられた青柳源樹(げんき)。熱心な演劇部員なのに、思うように練習に出られない矢野新(あらた)。
 島に高校がないため、高校2年生の4人はフェリーで本土に通う。「幻の脚本」の謎、未婚の母の涙、I ターン青年・本木真斗(まさと)の後悔、島を背負う大人たちの覚悟、そして、自らの淡い恋心。
 島の子は、いつか本土に渡る。17歳。ともにすごせる、最後の季節。旅立ちの日は、もうすぐ。別れる時は笑顔でいよう。
 故郷を巣立つ前に知った大切なこと……すべてが詰まった書き下ろし長編。第142回直木三十五賞受賞後、第一作。


 出ました、辻村深月大先生!
 今までの作品が文庫版になって刊行されたり、映画『ツナグ』の公開があったりしたし、先生も各誌で連載は続けているのでそれほどブランクがあった感覚はなかったのですが、この新作、『鍵のない夢を見る』いらい約1年後の刊行になるんですね! 満を持しての書き下ろし長編であります。
 そういえば、『鍵のない夢を見る』の連続 TVドラマももうそろそろ WOWWOWで放送開始になるんでしょ? これは観たいねぇ~。観たいんですが…… WOWWOWの契約どころか家に TVがないという問題外の状況ですので、涙をのんでソフト商品化を待ちたいと存じます。特に『石蕗南地区の放火』の映像化がとっても気になりますね~。いちばん好きだったから。木村多江さんと大倉孝二さんでしょ、これはおもしろくならないわけがいだろう!! 笑うしかないシチュエーションと、そのすぐ向こうで口を開けて待ち受けている恐怖、そして、そこさえもズンッと踏みつけて生き抜いていく主人公のつよさを観てみたいね~。

 さて、そんでもってこの『島はぼくらと』なんですが、短編集と長編作品という違いもさることながら、前作の『鍵のない夢を見る』とはロケーションも作品にただよう温度も、登場人物たちをとりまく時間の流れ方さえもがもまるで違った物語になっております。
 まず、これまでの辻村作品の舞台には、東京と目される大都市や小・中・高・大の学校の中といった、行き交う人間が非常に多いシチュエーションと同じくらいの頻度で、人口がかなり少ない地方都市も、初期作品の頃から選ばれていました。短編『おとうさん、したいがあるよ』(2007年)も長編『水底フェスタ』(2011年)もそうですし、先ほどの『石蕗南地区の放火』だって、現代日本の地方のある側面をものすご~く辻村さんらしい視点から切り込んだ名品だと思います。
 それらの過去の作品で描かれた地方都市は、明確な描写がなかったとしても、東京やそれに準じた大都市とけっこう地続きになっていて、主人公をはじめとした登場人物たちが、それを実際にやるかどうかは別としても、離れようと思えばいつでも自由に離れることができる距離感覚にある地方都市でした。あと、ロケーションとして「山々に囲まれた内陸の町」といったものが多かったのではないかと思います。

 ところが今回の『島はぼくらと』は、今までの地方とは全く状況の異なる「海に囲まれた離島」が舞台となっており、主人公たちは高校への通学という一見あたりまえの日常を通じて、「本土の人々」と「島の自分たち」という立場の違いを毎日のように感じる生活を送っているのです。これは自分の生まれた島に高校がないという事情のために、往復フェリーの出航時間の都合で放課後の部活動がほぼできないという事情であるわけなのですが、部活のコミュニケーションを他の生徒同様に楽しめないという支障の重大さは、学校ライフを送ったことのある人ならば誰しもが実感のわく深刻な問題ですし、であるにもかかわらず、それを問題として提起することもできず、ただひたすら「そういうもの」として受け入れるしかない島の主人公たちの淡々とした描写は、逆に今までの辻村作品をはるかに超えるリアリティをもって、「地方」の「本土(にある大都市)」へのまなざしを浮き彫りにしているように感じられました。
 それは、登場する若者みんなが本土へ行ってみたいと願っている、みたいな単純な構図ではなく、好きにしろ嫌いにしろ、常に意識せずにはおられない複雑な存在として、物心がついたそのときから「自分たちの島」と「本土」という二項対立がある、という前提なんですね。これは、そういう環境の下で育った経験のない私としては、非常に新鮮な感覚でした。ちょっとやそっとの田舎勝負では負けないくらいの地方都市で育ったつもりの私ですが、そんなに「近くて遠い存在」として別の文化圏を意識したことはなかったもんねぇ。ましてや、将来そことここのどっちで生きていき、そして死んでいくのか、なんていう人生の問題は……30歳をとうに過ぎた今ごろになって、やっとボンヤリ考えるようになったかな、なんていうていたらくでございます。

 ここで、この『島はぼくらと』で辻村先生が活き活きと創造した、物語上の架空の島「冴島(さえじま)」について、小説の中での描写からピックアップできる限りの要素をかき集めて、その特色を羅列してみたいと思います。見落とし御免!


冴島について
 面積10平方キロメートル。150年周期で活動する火山島で、島の中央に位置する火山「冴山」が最後に噴火したのは約60年前の1950年前後。行政上は冴島村。温泉地としても有名。毎年3月ごろは濃霧に覆われる日があり、その日は学校は臨時休校になる。
 「姫路」「淡路島」「大阪」「宝塚」に近いことや「本土の県庁所在地」という記述から、冴島は兵庫県の播磨灘(瀬戸内海東部)に存在する島であると推測される。
 本土からフェリー高速船で20分、片道交通費450円。本土のフェリー乗り場から島は直接には見えない。直通便の最終時刻は本土発16時10分。2階建てフェリーの定員は約80名。
 「I ターンの島」、「シングルマザーの島」と呼ばれる。
 高台の斜面に位置する菅多(すがた)地区(新の家がある)、高台の上の冴釣(さえづり)地区(朱里や蕗子の家がある)、海岸部の濱狭(はまさ)地区(ホテル青屋がある)などで構成されている。
 島には唯一のリゾートホテル「青屋」があり、経営者は東京からやって来た青柳源樹の父。
 オープン1年になる民宿「グリーンゲイブルズ」の他にも民宿や旅館はある。
 人口3千人弱で、高校はない。村立保育園がある(園長は新の母)。
 日用品と食材を扱う「加藤商店」、湾の近くに魚屋の「魚商」がある。
 魚の一夜干しやのりの佃煮、みかんジャム、みかんジュースを加工する食品加工品会社「さえじま」が2000年代から営業している(社長は朱里の母・明実)。「さえじま」の加工場は公民館の2階ホール。創業時は社員9名だったが、現在は約20名に拡大している。
 映画館も書店もないがパチンコ屋はある。冴島郷土館と公民館がある。
 冴島小学校と冴島中学校は島の中央部に隣り合わせに建っている。
 冴島小学校はかつて毎年の卒業生が平均20名ほどだったが、終戦直後の冴山噴火にともなう島民避難の影響で平均3名にまで激減した。現在は Iターン人口の増加のために17名までに回復し、近い将来に20名を超えることが予測される(5年前の朱里の代は4名)。
 冴山の中腹に神社があり、近年はパワースポットとして観光客に人気があるが、島民はあまり行かない。
 高台に、湾と本土を見わたせる公園がある。
 新聞は配送上の都合で昼前ごろに配達される。
 冴島には古くから「兄弟」という風習があり、血縁のない成人男性同士が成年時に杯を交わして、親戚同様の親密な関係になり相互の生活を扶助しあうネットワークが現在も活きている(兄弟契約は複数の相手と交わすことができるが、女性は兄弟になれない)。


 まぁ、こんな感じだそうなんですけれども。
 架空の町やコミュニティを舞台にする、という物語の立ち上げ方は辻村先生にとってはお手の物ですし、愛読者にとっても、ある作品の舞台と別の作品の舞台とが、空間として、あるいは時間としてどういったつながりを持っているのか、ということを想像するのも密かな愉しみになっているわけなのですが、主人公と環境との関係が今作同様に非常に濃厚なものとなっている近作『水底フェスタ』と比較しても、この『島はぼくらと』は、圧倒的なディティールの細かさをもって冴島という世界に生命を与えていることがわかります。

 ちなみに上にあげたように、登場人物たちの会話の中では近畿地方の実在の都市が言及されることが多いことから、私はこの冴島が岡山・広島よりも大阪・神戸の方に近い播磨灘に存在しているのではないかと類推したわけなのですが、実際の播磨灘には、冴島の面積10平方キロサイズという条件に合致する島は存在していないようです。村長のセリフにちらっと出てきたご近所の淡路島(瀬戸内海最大の島)は「約592平方キロ」ですって。でっけー!
 ただ、播磨灘にほぼ接していると言ってもいい、小豆島(香川県 面積約153平方キロ)の北に鹿久居島(かくいじま)という島があり(岡山県備前市)、これは面積約10平方キロということで広さ的にはピッタリなのですが、本土からの距離がたったの800メートル、シカやアオサギの保護区になっていて島民は15名前後ということで、これはちょっと冴島のモデルではないな~、という感じがします。それはそれで、辻村先生がこの鹿久居島を舞台にした作品を書いたらおもしろいような気もしますけど。
 さらにもうちょっと範囲を広げれば、香川県の広島(丸亀市 面積約12平方キロ 人口約450名)、豊島(てしま 土井町 面積約15平方キロ 人口約1300名)、直島(直島町 面積約8平方キロ)あたりが冴島に似た島にあげられ、特に直島は「アートの島」という特色を活かして人口は約3200名ということで、打ち出すカラーこそ違うものの、他の地方都市にはない武器をもって独立しているという点では冴島によく似ているスタイルがあると思います。いいですねぇ~、直島! アートうんぬんもいいんですけど、私はなんといっても島にあるっていう「崇徳天皇神社」にぜひとも参詣したいものですね! キャーアキヒトさまー!!
 「島の人口」という観点からみますと、現代の日本で、この冴島のように「面積10平方キロクラスで人口3千名ほど」という状態を維持している島は全国で見てもあまり多くはなく、宮城県気仙沼市の大島(面積約9平方キロ)で人口約4千名、広島県呉市の大崎下島(おおさき・しもじま 面積約13平方キロ)で人口約3300名、先ほどの直島、愛媛県上島町の弓削島(ゆげじま 面積約9平方キロ)で人口約3200名、長崎県小値賀町の小値賀島(おぢかじま 面積約12平方キロ)で人口約3200名、熊本県天草市の御所浦島(ごしょうらじま 面積約12平方キロ)で人口約2600名といったくらいになっていて、同じ広さはあってもだいたいはもっと人口が少ない(数十~2千名弱)、という島がほとんどのようです。さらに調べてみると、面積10平方キロクラスよりずっと大きくても諸条件によって人口がもっと少ない島もざらですし、面積がもっと狭いのに人口が3千名かそれ以上という島もありますが(三重県の答志島が面積約7平方キロで人口約3千名、兵庫県の家島が面積約6平方キロで人口約5500名、兵庫県の坊勢島が面積約2平方キロで人口約3千名)。いろいろ調べてみて、その結論が「人生いろいろ、島もいろいろ。」って……なんという徒労!!

 ただ、とにかくこの時代に離島の人口を維持し、さらに増加させるということの尋常でない困難さはなんとなくわかりますし、そこを「 Iターンの島」「シングルマザーの島」という方策で成功させているという冴島の大矢村長の、かつて大阪の私立大学で経済学の教授をしていたという経歴が裏打ちする豪腕ぶり、そして、村長としては在任6期目で20年以上もその職についているという事実がもたらす「功罪」にまでしっかりと主人公の視線を向けさせている作者の筆には、単なるフィクションとは処理しきれない確かな説得力がありました。

 そう、ここが今までの辻村作品とはかなり趣が異なる点かと感じたのですが、この作品では、明確な「終結」というものは、登場するキャラクターの誰にももたらされないのです。

 『島はぼくらと』は、4つの章段で構成されたゆるやかな連作形式の長編となっております。第1章は物語の主人公である朱里とその親友の源樹、衣花、新を取り巻く冴島とそこに住む人々の紹介を行った上で、冴島にあるという「幻の脚本」を探しに来た自称作家の霧崎ハイジの巻き起こす波紋を描きます。第2章は冴島に暮らす Iターン住民の多葉田(たばた)蕗子とその娘・未菜(2歳 冴島生まれ)母子の過去と、島に訪れる蕗子の両親や、謎の中年男・椎名のエピソード。第3章は冴島の食品加工品会社「さえじま」の立ち上げに尽力した地域活性デザイナー・谷川ヨシノと島の大矢村長との衝突からのヨシノの旅立ちと、Iターンのウェブデザイナー・本木真斗の素性が明らかになる小事件。そして第4章の朱里たちの東京への修学旅行にからむ大冒険と、それによって明らかとなる「幻の脚本」の真相から、4人の少年少女のこれからをつづるクライマックス、エピローグへと続いていきます。

 そういった半オムニバス形式である上に、ひとつの章段の中でもがっつり大きな事件が発生するわけでなく、同じ時期に起きた様々な小エピソードが並列して起き、一見何の関係も無いようなそれらが次第に絡まり合って……という感じで、この作品はある意味では、それまでの辻村ワールドではあまり見られなかったような「ゆるやかな空気」に満ちたものになっています。まず辻村小説といえば、読む者の「忘れてしまいたい記憶」をゴリッゴリと掘り起こすかのような鋭利な人物描写と、徹底的に追い詰められた登場人物がその超逆境をはね返して「生きていこう」とするエネルギーを呼び覚まし再生していく、地獄のような通過儀礼を連想してしまう方も多いかも知れません。まぁ、そこが病みつきになってしまうわけなんですが……
 ところがこの『島はぼくらと』に関しては、物語の中心に位置する4人の少年少女は、それぞれに抱える実にリアルな人生の背景こそあるものの、極端に言ってしまえばごく普通の離島に住む高校生であり、小説の中軸に据えられるような大事件など特に起きず、いっさいのエピソードは彼女ら彼らの周囲を通り過ぎて行き、しかるべき時間の流れに従って4人はふつうに高校を卒業し、冴島と自分、そして他の3人と自分との関係の変化を受け入れていくのです。

 ふつう! ふつうの話だこれ!! でもそこが、いい!!

 これ、それまでの辻村ワールドとは明らかに違う空気が流れていますよ。いや、厳密に言えば辻村先生はこの『島はぼくらと』にいたる前段階として、短編集『ロードムービー』(2008年)で「ふつうの人々を描く」というテーマにチャレンジしていたように思えます。そしてそれらの短編で手ごたえを得たうえで、満を持して冴島とその住民の世界を精緻に創造する作業に入ったのではないでしょうか。
 そう考えてみると、この『島はぼくらと』は、けっこう『ロードムービー』のきれいな裏返しであると納得できる構図になっています。要するに『ロードムービー』というのは登場人物が非日常な世界に出て旅をするお話なわけですが、『島はぼくらと』はその真逆で、登場人物がずっと住み続けている日常世界に「非日常な風」が吹き過ぎてゆくというお話なのです。人が動くか世界が動くか、地動説か天動説かという違いなだけ! いや、「だけ」で済む違いじゃねぇか。

 なんか、こういう「人と世界」の、どっちもそんなに大きくは変わらないけど着実に時は過ぎて影響は与えあっていくという微妙な距離感を想像するときに、私の脳内にいつも必ず浮かぶイメージに、子どもの頃に観た、藤子不二雄A の『まんが道』のドラマのオープニングか何かの、主人公たちが画面中央で道を歩いて、その横を他の登場人物たちや印象的な風景とか建物が行き過ぎていく光景を連想してしまいます。でもこれって、私みたいな大した事件にも巻き込まれずになんとなく生きてきた人間にとっては、いちばんしっくりくる「人生のイメージ」なのでありまして、なんか気になるな~と思った人が早々にはるか彼方に消えていってしまって、後でふと「あの人なにしてるかな……」と思いを馳せたり、そうかと思ってたら突然道の先からその人がひょっこり出てきたりするという人生の出逢いの面白さを、最も的確に表しているような気がするのです。いっさいは、私の傍を過ぎ去ってゆく……

 そうは言いましても、この『島はぼくらと』にだって、高校生でありながら脚本コンクールで最優秀賞を取れる程の作品を書いてしまう才覚を持つ新や、自己主張の激しい俗物そのものの霧崎ハイジ、気のよさそうなおっちゃんのようで実はえげつない権力を行使する大矢村長といった感じに強烈な印象を残すキャラクターは登場しますし、第4章の修学旅行中の怒涛の展開にいたっては、読んでいて「そんな奇跡、ある!?」と叫びかねないファンタジックな高揚感に満ち満ちています。まさか、終盤のいいところであの人が出てくるとはねぇ……でも、それが単なるファンサービスにとどまらずに、実にその人らしいエネルギッシュな活躍をしてくれるのは非常に痛快ですね。これって、まさにこの4人のような、この世界にまだまだ希望を抱いている幼い頃に、誰しもが「あぁ、ピンチの今、あこがれのあの人が助けに来てくれたら最高だな……」なんて夢想していた奇跡そのものですよね。でも、それは単なるご都合主義なのではなく、主に朱里の熱意と新の不動の意志がもたらした必然の対価であることは間違いないでしょう。
 いやそれにしても、自分の脚本をパクられても微塵も動じず、伝説の脚本家の手になる幻の作品にも怖気づかずにアップデートに挑む新くんって、精神力どうなっとんの!? 今作中最大のバケモンだな……でも、この力の原動力って、「僕はこの好きなことでは絶対に誰にも負けない。明日は、今日よりもっと良い作品を書ける。」という新の自信ですよね。それが口先だけでなく、ちゃんとすぎる程の内実を伴っていることは作中で証明されているわけなのですが、このたくましさはそのまま、辻村先生がこの作品を読む少年少女に見せたい、そして持っていてもらいたい「未来へ続くちから」そのものなのではないでしょうか。

 作品中の登場人物をもって作者を語ることは絶対に慎重であるべきことですが、それを承知の上で言わせていただきますと、『島はぼくらと』の中で、その精神のあり方が最も辻村先生に近いのは新くんなんじゃなかろうか。その後の辻村先生のさらなる活躍を観るだに、その無尽蔵なエネルギーの原点、はじまりの特異点には、おそらく新くんのような、ごくごくフツーで、それでいて胸の内に異様な熱さのマグマを秘めた子どもがいるのだろうなぁ。
 いやいや、辻村先生に近いのは新くんじゃなくて、第4章に出てくるスペシャルゲストだろうと思われる方もいらっしゃるでしょうが、そっちの方はあくまでも4人を助けるスーパーヒーローといいますかデウスエクスマキナなのでありまして、強引に解釈するのならば、辻村先生の過去のキャラクター化が新くんで、理想の具現化がスペシャルゲストさんなのではないでしょうか。いかな先生といえども、いちいち彼女のように少年少女のねがいに応えていたら休む暇もなくなってしまいますからね……

 とまぁこんな感じで、この『島はぼくらと』は、辻村先生の作品群の中では、その日常感というか爽快感が、他にない唯一無二の存在感を放っているさわやかな作品です。なんか、デビューからずっと張り詰めた空気の中で全力投球を続けてきた辻村先生が『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』(2009年)あたりでひとつの頂点に達して、少しひと息ついてから、この『島はぼくらと』でスポーン!!と自分の中の「天井」を吹き飛ばして、さらなる高みへと上昇を始めたような気がします。小説家になって10年、ついにここから新たなフェイズへと入っていく扉となる重要な作品、それこそがこの『島はぼくらと』なんじゃないでしょうかね。

 だいたい、これくらいで私の言いたいことはあらかた言ったのですが、このような少年少女に広く読んでいただきたい作品の中にも、やはり辻村ワールド名物の毒気たっぷり社会見学ツアーは用意されています。私にとって特に印象に残ったのは、蕗子さんが冴島にやって来たいきさつと、第4章のスペシャルゲストキャラがつぶやいた霧崎ハイジへの脚本評でした。

 オリンピックの銀メダリストとなった蕗子さんの周辺に吹きすさぶ無数の人間の賞賛と欲望の嵐の恐ろしさは、かなりのリアリティをもって克明に描かれています。「有名になると親戚が増える」という現象が、無邪気に、しかし容赦なく蕗子さんの生きるエネルギーを奪い取っていく。それなのに、奪い取っている側はただ何気なく軽口をつぶやいているだけ、しかも飽きたらすぐ忘れるという、この被害と加害にかかる負担の理不尽すぎるアンバランスさは、なにもオリンピック選手だけに限らない、誰にでも襲いかかりうるネット社会の恐怖を簡潔に語っていますよね。この問題は、ここだけで独立した一つの作品になってもおかしくない重さを持っていますよ……冴島の人々のおかげでご両親とも再会できたし、この蕗子さんの場合は救われて現在の日々を手に入れているわけなのですが、そこにいたるまでには、本土での過酷すぎる闘いがあったのでしょう。そこから生まれた未菜ちゃんという命もまた、奇跡。

 もうひとつの霧崎ハイジ評ですが、「ごちゃごちゃ探偵役がうんちく垂れる場面以外は、かなりいい」という言葉は、ある意味で、狭い解釈でのミステリー小説ジャンルからの脱却を、辻村先生がフィクションの中ではっきり明言した瞬間であるような気がします。当然、ごちゃごちゃ言う探偵役を付け足した霧崎の卑劣さを見越した発言であるわけなのですが、それ以上に辻村ワールドが目指すものが、「小説の中」というせせこましい井戸の中をこぢんまりと整理する機能しかない名探偵なぞ必要とせず、もっと広い意味でのミステリーである「人間の不思議さ」を見つめる小説であることを宣言していると、私は読んじゃうんだなぁ。ミステリー小説との決別といってしまうと、かなり大げさな言い方になってカチンとくる向きもあるかも知れないのですが、そもそも、人間のヘンなところが生むトラブルを「謎」というのならば、この世の小説のほとんどがミステリーですもんね。人間が人間たる理由を問い続ける辻村先生のスタンスに、デビュー時からブレは1ミクロンも無いと思いますよ。

 『島はぼくらと』、非常にいい小説だと感じました。これから、辻村先生がどういった新作を世に出していくのか、可能性は計り知れません。でも確実に言えるのは、これから生まれるどの作品のどの登場人物にも、必ずこの『島はぼくらと』に出てくる冴島のような故郷と、平々凡々な、それでいてとっても暖かい過去の思い出があるという、人間味あふるる厚みがある、ということです。悪役にだって、脇役チョイ役にだって。

 様々な個性と才能、ジャンルが氾濫するこの世の中において、オンリーワンの世界をつむぎ続ける辻村深月先生の、次なるディケイドの展開を楽しみにしましょう! 行ってらっしゃ~い!!

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3 コメント

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この小説の舞台は、、、 (ぎざみ)
2017-05-06 21:40:45
長岡京エイリアンさん
瀬戸内の島出身のものです。
この小説の舞台は、もしかして私の生まれた島かもしれません。その名は「佐木島"(さぎしま)」。一字違い。本土(広島県三原市)からフェリーで約25分。(高速船では約10分)。周囲は約12km。高校はありませんので、フェリーで本土の高校に通ってました。今も高校はありません。中学校もつい最近まであったのですが、今はなくなり、中学生はフェリーもしくは高速船で通っています。で、人口は約800人。ここが違ってるけど50年前は約3000人。瀬戸内で、ここまでこの小説の設定に近い島はないように思いますが、如何でしょうか。まだこの小説を読んでないので、急ぎ読もうと思います。
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追加コメント (ぎざみ)
2017-05-06 21:53:13
ぎざみです。
実際霧で船が欠航になることも年数回あり、とっても喜んだものです。(中学生までは、先生が島に来れない=授業がない。高校生の時は、授業に出れない、定期テストの時間をずらす、など)今はもう50代半ばの我が身で、東京暮らしですが、いずれ島に帰ろうかどうか迷っています。
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ありがとうござありがとうございます! (そうだい)
2017-05-07 15:40:36
 ぎざみ様、ゴールデンウィークいかがお過ごしでしょうか? コメントまことにありがとうございます!

 佐木島のご出身なのですね! 私はこの小説の舞台が兵庫県の島なのではと考えたのですが、やっぱり広島県と兵庫とでは島の雰囲気も違うのでしょうか? 私は山形県人で瀬戸内海に旅行したこともないのですが、実は今年の秋にやっと広島に出かける機会をゲットできましたので、時間があったらなんとかして佐木島にお邪魔してみたいと思います。

 まだ『島はぼくらと』をお読みになっておられないのですね! 是非ともご一読ください。あ~この感じ!と感じ入る描写がいっぱいあると思います。

 しかし、未読なのになぜこのブログを発見なされたのか……文章が完成しておらず申し訳ないですが、これをきっかけに小説を読んで頂ければ辻村先生ファンとしてこれ以上の喜びはないです。ぜひぜひ!!
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